SSブログ

基本的な歴史への疑問 [歴史]

坂本竜馬の暗殺事件について、書かれた本を斜め読み、もう一冊は結論部分を

読んでみたが、う~ん、とうなる。

出雲の神話と天照大神の神話の発祥や、その関係について読んでみたが、どうも

こうもない。肝腎のことがまったくわからない。それぞれが現代から、または

著者の立場からの意見ともいえる解釈であって、それらしい理屈はこねていて、

読むとなるほどと思えることが書いてあるが、少し考えると、どうしてその点の事実が

わからずにそういうことが言えるのか、という疑問が浮かぶ。そして、その説明の

ためにその理由を持ってくるのは、どうも幕末の実情に、または古代の実情には

合わないのではないか、という・・・。

そして、僕にはどうしてもその結論に興味を惹かれながらも、しっくりこない

部分があって、それは歴史の不明という必然であるような気がする。こだわりたくは

ないのだが、一つの意見・考えを言わなければならないから言った、という本を

書く路線に過ぎないという思いから抜けられない。歴史を知りたいではなく、歴史の

事実を知りたいという要求がどうしても起こってくる。そして、それは本を読むたび

に裏切られる。専門家の知識、作家の想像力も同じように見えてしまう。  

昨日の自分は何をしていたろう、と思うと、かなりの部分は忘れている。そんな自分の

一日さえ、もう闇の中である。歴史は為政者によって書き換えられ、作られてしまう

事実も歴史なら、どこまでほんとかわからない昔の文書というもの、それらの差を

縮めるのは、どうも歴史の本質ではないようにも思える。紀行文はまだわかっている

記録をもとに夢を馳せるようなものだから、すべてを紀行文のように読んでいけば

いけばいい、とも思ってしまう。

退院から1か月、ゆっくりしていて、さすがに本を読もうとして、かじり読みを

してみるが、日本書紀によってアマテラスが創作された傍証も本になっているが、

どうも歴史はそこではないように思う。むしろそれから14世紀も経って、受け継い

できたそのことが、僕らの意識にも創作が事実として根付いている、まさにそれこそ

が歴史の本体ではないか、と。そこには多くの人の祈りのようなものが含まれて

動かせないほどになっている。国民の意識が変わるような大改革でもない限り、

歴史は変わらないし、変えるものでもないのだろう。

僕は出雲へ行き、帰って来てからも、自分がスサノオの流れにある(どういう意味

か正確に説明できないが)という感じが、ずっとしている。熊野神社への小学校

からの自然な愛着(学校の近くにあった)も変だし、島の家の前の山が熊野神社で

あるのも偶然だろうが、やはりその線で調べてみたいとも、親しく思う。

僕らは銘々で勝手に歴史をつくるのを喜ぶ性質を持っているのではないか、との

いい加減な考えが、なぜか一番納得できるのは、可笑しい。
nice!(15)  コメント(0) 

nice! 15

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。