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基本的な自然の在り方を態度・姿勢から [自然]

自分の世界なのだが、どこまで行けばいいのかわからないくらいに

広いので、なにもせずに2、3時間は平気で経ってしまう。それでも

考える、というよりはお喋りをしているようで、ふと止まってこのテーマ

の前に何を話していたか、どこからこのテーマに移ったのか、と記憶を

たどろうとすると、何も浮かんでこない。僕らのふつうのお喋りも似た

ようなもので、どこからこの話になったのかはどうでもいいので、その場

その場で話がつながって、その経過には注意を払っていないものだ。  

自然について書こうとして、自分でも気づいていないほどに、当たり前だ

と思っていたことが、その本質だと気づき始めている。   

それは実に様々な方面、角度、見方からいろいろ言えるので、自分の見方に

それほど注意を払ってはいなかった。それは基本的な自然の在り方について、

となるものだろう。以前に書いたことも加えて、くり返しからまた始めて

みたい、と思う。       


魚の話は一番、人に話したことだ。 

最近気づいたことで、近くの目久尻川では道路脇なので、車の振動は毎日

なので観察できないが、相模川とか沼の魚はずいぶん遠くから僕らに気づい

ているようだ。ひとつは歩く時の振動であり、小石に靴が擦れた音であり、

そういう普段では聞かない音だろう。この魚の「普段」を考えると、川なら、

川岸から外の眺めを見ているのだから、ほぼ一年中同じ景色だろう。人が

通る歩道でなければそれこそ、ちょっとした影でも、少しの動くものでも

すぐに気づくだろう。毎日毎日同じものを見ていて、その変化に気づか

ない方がおかしい。

魚が人影に遠くから敏感に悟って、すぐに姿を消すのは、敏感さもその

優れた感覚にあるだろうが、それだけではなく、気づきやすい毎日の同じ

景色にあるのかもしれない。     

数十年も前に病気で、その病み上がりで相模川へ行った時に、土手で車を

下りて池になった川の支流に下りる。その時、腹を出した魚の死骸を見た。

魚、死んでる、と思った瞬間にその魚が水面でくるりと反転、川の底へ

姿を消してしまった。はじめ、意味が分からなかった。なんだ、今の?  

そこでその時は、魚が昼寝をしていたのだろう、と笑った。    

今はそう思っていない。想像だが、魚は体に着いた寄生虫や細菌を日光に

当てて殺菌していたのだろう。大きい魚が小魚に体に着いた虫を食べて

もらう、共生?とかの作業を似たように、日光の紫外線の殺菌力を利用して

いるのだろう。    

そこでもう一つ、疑問があった。いつもは敏感な魚がどうして気づかずに

僕が近づくのを許したのか、という。そこで思い出すと、僕は病み上がりで

精神的には幽霊のようなものだった。まあ死んでいたのだ。そこでふら~っ

と池面に3mも近づいて、昼寝?魚を発見したのだが、死んでいるのか、と。

次にそれを確かめようとじっと目を凝らした瞬間だった、魚が逃げたのは。   

この時、人間独特の”観察しよう”という「気(意欲の)」を発したのだ。   

この「気」というものは、生物全体に知られ、感じられているもので、なんと

昆虫もこの気を捉えて反射(逃走)に利用している。   

それはこれも数十年前だが、僕は手でゴキブリを捕まえることができた。彼は

その動き回る姿が気持ち悪い、僕もだ。が、ある時、その顔を観察した時に

意外に可愛い顔をしているのに驚いた。彼の気味悪さはきっと動き方にある

のだ、と思った。その頃、心の動きは波で、そのバイブレイションが相手に

伝わると、考えられる小さな事件が個人的にあった。それなら「愛」の波は

どうなのだろう、とゴキブリで試してみたのが最初だった。

これには先人がいて、動物作家の畑正憲だった。彼は野生動物公園(アフリカ?)

で草食動物から50m離れた場所から、無言で相手に言葉を送る。危害は加え

ないよ、とか友達だよ、とかささやきながら近づく。それを2時間続けて、その

草食動物の1m近くまで達することができた、と言う。僕もそれに倣ってゴキブリ

に近づこうとしたのだ。これはゴキブリへの嫌悪感を抑えながらだったので、なか

なか難しかった。けれども、驚くことにゴキブリが逃げないのだ。あのすばしこい

彼が、あきらかに戸惑っている様子で、小刻みに動いているが、逃げない。  

そうして3cmまで近づいたところで、さっと捕まえた。驚いた。あり得ないこと

が起こったと思った。そこで反省したのはやはり、人間が虫をつかまえようとした

瞬間に出す気が、ゴキブリにとって逃げる反応になるタイミングだったということ。

そう思った。僕らはそれを相手に前もって、瞬間早く教えていたのだ。それで彼ら

はその瞬間がわかったから、逃げる動作が瞬間早くできた。僕ら人間は昆虫や動物

に、もしかすると植物にもその「意欲の気」を数万年前から教えていたのだ。

彼らはそれを学んで、それを自分たちへの攻撃の合図と読んだのかもしれない。 

僕らがそうであるように、自然を、また自然から学ばない子供も彼らが僕らを

よく知っているのを知らない。虫取りでも魚とりでも「意欲」むき出しで虫に、

魚に向かってゆく。うまくいかない。相手を知らないのだ、そうなる。   

僕は山登りや瞑想をするうちに、そこら辺りを学ばせてもらった。だから、

近所に亀山公園というちっちゃな細長の公園があるが、そこに湧き水のある

これも小さな池がある。昔は湧水が豊かで流れ出ていたので、池にはそこまで

辿れるように置き石が”置いて”ある。お茶や珈琲の水を汲みに来る人が多くいた。

今は奥の方から染み出してきて汲めないので、訪れる人もいなくなった。

が、水量はそれなりにある。その池の水面は静かでとても水流があるとは

思えない。ところが、池から小さな水路があり、そこはやや下り坂で、水が

波打って流れている。その違いがあまりにはっきりしているので、返す返す

両方を眺めてしまうのだが、静と動で、変わりない。この静かな池のどこを

あれだけの水が流れているのか、見てもわからない。   

それは余談だが、この池にも小魚がいる。一匹になってしまったが、フナの

20cmもいる。静かな時間にそこを歩く時があると、そこで立ち止まって

みる。あとはただ突っ立っている。だいたい、10分くらい。すると、魚の

姿が一匹もいない池に、大抵魚が動き始める。景色に動きがないので安心

するのだろう。あちらこちらから、生き物が動き始める。   

これが自然の観察で、決してこちらから「意欲」で参戦してはいけないのだ。 

ただ心静かに待つ。そうすると、自然のほうでいつものように、いつもの姿を

見せてくれる。これは自然を相手にする時の作法のようなものだ。僕らが

よくする記念写真を撮る、網を持って追い回す、というタブーを冒さずとも

ただ待っているほうが、より豊かな世界を彼らのほうから見せてくれる。

そうすれば、彼らが彼らなりにどう人間と付き合うかに対応した歴史に

出会える。・・こともある。  

僕は最初、グアムでそれから日本の相模川、千葉の外房でそういうものに

出会った。100匹からの自然の小魚に囲まれるというのは、そうある

ことではない。当時はそれが当たり前だと、思っていた。それもいつか

話すかもしれない。

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