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紙の上を滑ってないで雪を滑ろう [自分と知]

 ”紙(観念)の上を滑ってないで 雪(リアル)を滑ろう”



ともかく 僕は 頭に狭い世界を  つくってしまった  

狭いと言っても 地球の全世界だから  一言では  

片付かない   

それでも だ   狭いものは  狭い   

どうしよう  この軋(きし)みながら  

そばのように 伸びるもの  

もう 実践して  経験する  貴重な時は  

去ってしまった     

それでも  ここに 残らねばならないとする   

ある意志 が ある   

その”意志” を 机の上に 置いて  

話しかけてみるのだ   君に   

「君は  このままでいいのか」   

「君は 意見を 言っているだけでいいのか」  

「君は 正しさだけで  いいと思っているのか」  

君に 言いながら  どうやら   

僕にも  言っている   

この 正しさという 呪縛から  どうやって  

逃れたらいいのか   

それは 知に頼らないことを 示しているのだが  

”知に 頼るとはなにか”いう処から  始めなければ  

ならないのだろうか   

考えていることは  ほんとうは 正しくない  

というのは  半分で  それが  正しくもあり  

正しくもないという  命題を抱えてしまっている  

これから 何年経っても  これは子供が成長するように  

いつも  ついて回る   

他に 指摘してくれている 著書(小林秀雄)もあるし、 で  

ホカして  先に進んでしまっていいだろうか と 

今 ここで  考えてみてしまうのだ   

逡巡とか  迷うとか  いうのが そうだ   

この程度なら  君は そのうちに  考えてくれるのではないか、 

という 甘い期待もあるが  自分の”知の働き” を  

そのシステムにおいて 疑うというのは  やはり  

高度な 技に なるのだろうか?   

技というより  知の 負の面に気づくという  

少し ややこしい 気づきのことなのだが ・・  

自分というのは  この知とは 親戚のような 

双子のような  親しい  また  似たもので  

くっついて 動く   

自分が  気づかれたくない面には  知も  

同調して  遠慮してしまう  もちろん  

その意識はない  

知に 気づくか  自分の負の動きに 気づくか  

どちらから 先でもいいのだが   そこには  

自然には(自分に まかせては)  行かない  

ストップ装置が かかっている   

それを外すのは  先入観をはずす  とか  

偏見を なくす   と 呼ばれている   

それを そもそも 偏見とか 先入観とは  

思っていないから  そう呼ばれているので  

気づくまでは  それは 正しい指針とか  

正しい信条と  自分で  思っている  

自分で  決めたつもりでいるが   ある偶然が  

世間の常識(誰かの著書とか=認められたこと) を  

君が 取り入れたものだ  

君は 賛成しただけで  それを 作り出したわけではないが  

それは君のものに なっているから  さらに その上に  

君の一部になっている  なぜなら  それを  

疑っていないから。    疑うにも  正しく疑うことが 

必要で   なにを 確信にするかは  その時  

大切なことになる    

For Example:  

「地球が 丸い とかいうのも  僕は 疑っている  

僕は 地球を 一度も この眼で見たことはないし  

飛行機からも  地球というものは  見えなかった」  

この 例え話は おかしく聞こえるかもしれないが  

なにも前提に していない点で 正しい   

どんな映像も  どんな記録も  どんな噂も  

自分で確かめたものは 一つもないのだから  

たった ひとつも。   

そこまで 疑っていては  なにも確定して  

そこからの話や 推論を 進められない と  

言うのなら   君は  自分の話をする時  

どこまで確かめたことを 基準にして  それを  

話すのか   全部が無理なのかは  わかっている  

問題は  大前提として  すべてのことを  

疑うことができる、という点だ   

すべてを疑え というのとは 話が違う  

それは カン違いというやつで  本筋は  

疑うのは  常識と自分では思われることこそ  あやしい  

そこから 疑うのでないと  僕らは ただ  世間の知識を  

上塗りしているだけ  となってしまう   

自分を がんこにさえ  している となってしまう  

(これに 気づいて  ほんとうだと  確認すると   

話は 速いのだが ・・・ )   

不思議なことに  その意識がないと  その知識が  

引き寄せられない   意識があると  それなりに  

TVや  書店や  広告でも  違和感があって  

そこに  疑いが発するのを  感じる  

またややこしいが  常識も必要   

歴史を 疑っても  なにも 始まらない  

いくらでも 乱暴な仮説を  それなりに 説得力を  

もって  語ることは可能だからだ  

歴史の常識を  覆していたら  キリがない  

そうしたら  なにを  疑うのだろう?  と  

考えた人は  すでにハマっている  なにに?  

自分という前提を  すでに 信じている   

すでに 信じてしまっている   ここに問題があるのだが  

大きな意識の壁が  それを見させない  

鏡のように  それが鏡ではなく  自分の顔だと  

確認させているのだ   

自分の顔を見ているので  それを映している鏡に  

気づかないように  僕らは 自分の正体に 気づかない  

そういうように  知が させている   

そういうように  自分という あり方がある  

めんどう?  

まだ  時間は  あるよ   

僕の趣味は  スキーで  

直滑降をすると  風に乗る瞬間がある  

その時  風は止まるのだが  風と一緒に  

滑降しているのを  感じる  

なんと言っていいか  風の空間世界が  

シンクロして  世界ごと動いている、という

この感じは  経験しないと わからない  

スキーでさえ  そうなのだ   

紙の上では  世間なんて  チリほども  

わからないよ   



*親父がアルバイトで彼の雀荘で便所掃除をさせられたが、  

 それが大層いいことだみたいなことを言われたが、それは  

 もうすでに知っていたことだった。 仕事って嫌なことが多いが

 便器に向かって気持ちを正面にして積極的に、便器をきれいに

 してやる!と手を抜かないと、不思議にきれいな便器に満足する

 ものだ。時給とかのケチくさい計算も必要だろうが、なんでも

 一生懸命にすると体が満足するものなのだ。その仕事がわかって

 いないのに中途にしたり、サボると、自分はそれでいい、と適当、

 つまりいい加減になる。サボるのは、仕事を覚えてしまえばあとで

 いくらでもできる(笑)。それは緊急・重要の優先と体を動かす

 健康の調整ができるようになるから、自分のための、また仕事の

 ためのサボリの調整もできるようになる。悪いと言われる常識が  

 ほんとにすべて悪いわけではない。これは言ってはいけない  

 ほんとのことだったろうか?(笑)



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