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”日常の感覚”を確かめる 光へ [光]

日常を知らない人はいない。  それは それは  

いろいろな日常が あるだろう。  朝、起きると  

そこには静けさは あまりないだろう。  動き出した  

生活の音が 行き来している。  人の喋る声もあれば  

騒がしく声を上げている 共同の洗濯場も ある。  高層階の

部屋ならば 朝の都会の音のない 喧噪や 霞の

独特な 山の方の空まで  眺められるだろう。   

学校へ行く子供のバタバタする音や  自転車の通る坂、  

遮断機の下りる 踏切に  電車がスピードで 迫る。  

いつもの通勤人が  いつものように  行き交う  

駅や  街もあるだろう。  それらは 日常の風景だが  

僕らの日常は  そういう外の光景だけでなく、 内の

心象という風景も 抱えている。   


この時。  


僕らは  どこが上とか  下とかわからない、  日常の

レベルを さまざまに 自分で流れている。  その中で  

人は 自分のカテゴリーという範囲を 持っていて  

その中で  自由にふるまうが   障害や 病気や 悩みに  

よって  適応ができずに  苦しむ。  軽いとか、重いとか  

は  その人次第なので  苦しみに 絶対度はない。  

子供は 大人の思ってもみない  些細なことで  悩む。  

大人は  自分が気づいていない バランスを取れずに  

不快になっている。   

あなたの不快はどこから?  頭?  喉?  節々? 咳? 熱? 

というのは 風邪の諸症状だが、 心象は 体のように明確な  

症状が  見分けにくい。  

アメリカの本で「シャドウシンドローム」というのが  アメリカ人の

誰もが 運転の上手・下手を尋ねると  誰もが自分は うまいほう  

と 答えるそうだ。自動車事故の数字を見ると  それは皆が  

上手いほうだったら  それほどの事故はなかっただろう、と。  

運転が上手いと感じるのと  安全運転はまったく 次元が  

ちがって  そこから人は 一般的に 楽観性が主流である、と  

している。  その疑問はあるが  人は日常で  ふつう楽観的だ  

という指摘は  そのとおりだと思う。  日々、生きているという

感覚が 健康であれば  そのエネルギーを感じていられるので  

そうなるのは 当然のことだと。    

僕も よく日常を知っている、と 思うが  ふつうの人とはちがうと  

感じている。 それは日常の安心感は  それほど感じてこない  

そういう生活をしてきたからだと 思う。  その話を最初から  

するつもりはないが、  これはさまざまな障害が 心に重なって  

いるからだろう。  それも自分のなのか 、他人のなのか、 区別が  

つかない。  そういう精神構造を しているらしいが  これも 説明  

できるほど 明確なものではなく  自分で自分を 事後承認する  

形になっている。   幸い、病気になったことはない、 と言えるの

だが それを断言できないのは 精神や神経の不調であるという 

病気自体の性質に よる。  なにせ 大”うつ”の時は  自分が  

絶対自殺はしない 精神力の人間だろう、 という信念は 脆くも  

壊されてしまった。  自分がそうしたい心情を  強く感じて  

そこから思い切りの力は 通じないので  ただ耐えることで  

抜けきるまで待った。  抜け「始めたら」 社会活動を始め、  

つまり 働き始め 不得意なことも我慢した。 寝ないで働く  

職場に はいってしまったが  まともに精神力が回復したと

思えるまで1年、  辞めることはなかった。   

その気分というものは すべて 学んだ気がする。 その最たる

ものは ホロコーストかもしれない。  悪魔を探した時に  

意識が飛んでしまった ことがある。  これがヒットラーの関連本  

を集めていた時と 記憶が重なって  どちらがどちらか 定かで  

ない。  この時 微熱状態が続いて だるい日々がおさまらない。  

ナチスに虐殺されたユダヤ人の 亡霊の妄想が 浮かんで  

抜けきれない。  それで夜な夜な 相模川まで出かけて  三日三晩  

その亡霊たちに 話しかけたのである。  一晩で1万人を 想定した。  

それで3晩。  元の場所へ帰るように  説得した。  一晩15分だったか  

30分だったか、  覚えていない。  この被害妄想は 自分から離れ  

ないのだから  事実として処理するしかあるまい、と判断したのだ。  

それなら自分が納得する方法で  自分の気分を収めるしかない。  

で 選んだのはアフリカの 呪術だ。   アフリカでは 病になると  

祈祷師が治療に当たる。  病は気からなので、 祈祷師(呪術)は

患者に 小瓶に病気の悪魔を 閉じ込めた、となにか呪(まじな)いを

してから そう宣言する。 すると、村の共同体である住民は それ   

を信じて、 ほんとうに病気が 治ってしまう。  呪術はそれを  

信じるものにしか 効かない。  それで  僕も 僕の脳をだまそうと  

いうわけだ。 脳がさまざまな 錯覚現象を起こすのは 知られているが、  

それは 心と 思考(脳)の分離した部分が あるからだ。それで  

自分ではわかっているのに、 脳はだまされるという現象(錯覚など)

が起こる。  (・・・ 還暦の手前頃だったように  記憶する)

それで治ったかどうかは、 これからもわからないことに違いない。  

だが、 時間は過ぎ、 微熱は収まって行った。 まるで 精神病者の

ような行動だったが、僕は 効果があるのかも 知りたかったから  

なんでも自分で  試してみる。  統合失調症は幻覚や幻聴に

悩まされるので、  相手を説得など 発想も及ばないだろう。 熱に

浮かされているわけではなく、 精神は冷静だったが、  体は少し 

浮かされていた(気分)。   


このように  僕の日常は  かなり非日常に傾くことが  多かった。  

そして「シャドウシンドローム」でも述べていたが、  楽観よりも  

悲観に傾いた方が  現実を知りやすい、感じやすい。  その  

代わりに  日常も悲観の色に 染められることが増える。  それが  

ふつうの人との ギャップとして感じられるので  それはそのまま  

社会との溝になってしまう ので、  人によって 感情、または  

感覚、  または知が(さらに) 悲観に 染まる。  しかし、その分  

現実を 的確に判断するようになる。   どちらがいいとかではなく、  

それぞれが 自分の本分に気づいて それを活かすことだろう。  


僕の日常が  心のバランスの対応に  追われているので  

特に  得をしているのではないが、  実際は 日常感覚が  

降ってくる 時間があって、  その時は  なんでもない日常の  

素晴らしさが  直接、感じられる。  ”日々” というものが  

どれほどありがたいものかが  沁みるように  わかる。  

親の心、子知らず、 子の心、親知らず  という言葉があるが、  

それぞれが お互いなのだ。  得を知る者は はじめからある  

しあわせを 享受しにくく、  得を知らない者のほうが  その中に  

はじめからいるのに 気づきにくい、  という  これもなにかの

采配という バランスなのだろうか?  ただの気分のような  

気もするが  ・・・(微笑)  


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コラム:

<悠久の 庭>   2018 . 6月


悠久の 流れというものは  あるのだろうか

それはあるにしても  そこにとどまり 続けることで  

むなしくならないだろうか

ひとり 静かに  身を寄せる

この 庭園の  すがすがしさは  どうだろう

鳥の声  川の せせらぎ

そこに 坐って  一冊の本を

手に取ってみると   頁から  光が あふれ出し

本の形は  光になり  消えてしまう

そこを 歩いてみると  誰かに導かれるように

感じるのは  なぜなのか

丘から 丘をめぐると   岬の突先に 出る

はるか 海の呼吸が  ここでは

灰色に  あたたかい

波の音が  海の底へと  沈んでゆく

ひとつ ひとつと  たどる

泡ぶくの  音階に 聞こえる

その 顔に触れるか 触れていないかに

淡い感じが  遠くへと  連れ去られるよう

突然に

僕は ここに いる  と

言いたくなる


いつも  自分を 失う瞬間は   小学校から

会社の事務所でも  いくらでも   あった

そういうことを  思い出す  月のような


青は 美しい

そうすると  青い庭が  ある

黒は ビロードのように  輝く

そうすると  黒だけなのに  それぞれの

黒が 活かされた 庭が   ある

白の 庭は  えも言われぬ

純白が  心に  差し込む  その影響は

まぶしさに  すべてが  うすい白のベールで

覆われて  しっとりとした輝きに なる

それらの 庭は  やがて  グラデーションに

柔らかに  その色調を  気がつかないくらいに

変わりゆく

波に せり出した 大きな岩は  まるで 

食べられそうに   生クリーム色に  染まる

絹のような  なめらかさに   思わず

頬笑む   なにかへという  ものがない

ただ  あなたに  頬笑む

ただ  頬笑む            


( *詩の後半、4ぶんの3は 省略。 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  


顎のあたりから  しびれが  頭の先まで  昇ってゆく。  

感動は  これほどまでに  ・・・ 。   

そういう感動を  味わった時は  同じような状況を  

思い浮かべることが できる。  それは音楽なのか、  

絵なのか、  映像や 写真なのか。   

ああ 僕(わたし)は  感動できる!  

それが  とても不思議な 手触りに  ・・・・・   

それが  とてもまれに感じる  浄化に  ・・・・・・  


ここまで  来た   

どこまでか   わかるのではないが   

眼が ・・・・   覚める   

皮膚が  ・・・・   蒸発 する  

頭に  ・・・・・  永遠が  宿る   

僕は  ・・    

あなたは  ・・・   

音 という   

光 という   

いのち  という   

すべて という   


・・・・ 


ただ   ある・・ もの   

その 美しさ   

その  やさしさ  

あなたが   ・・・   

僕が   ・・・   

君が  ・・・   


ここに   ・・   

・・   

・・





   
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