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原始の夜 2.(つづき) [瞑想]

(つづき)

瞑想をする、または来るようにする、来てもらう、どれでも同じことを言うが、無念無想を

目指さずに目指す、という逆説的なことをしなくてはならない。そうは思っていなくても、

やりにくいことは間違いない。今までの経験にはない、しかも習慣にはないことをする

のだから、とまどいがある。そうして、決心して目を閉じ、坐ったとすると、始めは心の

内面に沈み始める。これも感覚にはないから、そうだと考えているに過ぎないが、それは

集中することに似ているが、実際は解放することだ。僕らは日常でなにかしら身構えて

いる。時間の観念があるから、常にあと1時間後にする予定とか、明日はなにかをプラン

しなくては、とか。気にかかることは7個以上はあるだろう。考えないことはそれらを気に

かけないことだから、始めは日常のそういうことが意識に上ってくる。で、まずそれらを

忘れる、と。そういう意識の上澄みを通過して、深くなると、次第に今までは日常で気にも

しなかった事象が出てくる。事象とは単なる記憶ではなく、感情にからんだもの、感覚に

強く印象したもの、映像や気持ちに根差した今までは(自分が)見ようとしなかった、嫌な

もの、それが見え始める。僕らは心の中を覗こうなどしない、普段の習慣の中でそれらは

実は見えない隅っこなどにため込まれている。人によっては、それがすぐに見えてくる。 

それは忘れようとしてため込んだ、特別な記憶なので、まず思い出そうとしないので、

忘れている。それが出てくるのだから、気持ちは何事かの反応を迫られる。反省するかも

しれないし、その挙句に自己嫌悪に陥るかもしれない。そして、泣いてしまう。そういうもの

はそれでいい。が、それを一度で済ませることが必要。ひととおり見終えたら、感激し

終わったら、それをそのまま終了する。なきものに、決定してしまうこと。一度めげて、もう

瞑想はやめようと思っても、その決定を心に予約しておけば、次の日に坐ってそれを確か

めた時には意外に気にしないで済むことに気づくだろう。それでもそれが強く主張してくる場合

はまだ付き合う必要がある。しかし、次第にある程度で収まるようにはなる。

そうしたら、次へ進む。なにかを期待しているのに、僕らはそれを意識しない時がある。その

場合がやっかいで、本人が気づいていないので、瞑想の御利益かなにかを、求め続けること

になり、瞑想が決して起こらない状態を続けることになる。お分かりだろう、なんの期待もしない

状態に戻すこと。どんな名僧の瞑想(やり方・場所・座法・季節)も真似てはいけない。その意識

の下には、悟りへのなんらかの期待が潜んでいる。

ここで瞑想の基本に注意が入れられる。瞑想の基本は僕らの内面に沸き起こるさまざまな

過去映像や感情がどんどんとやって来るが、それらを通り過ぎるに任せることだ。なにもしない。

反省も見直しも、見据えることすらしない。ただ流れゆくそれらを、その流れるままに見続ける

ことが肝心だ、ということ。それならば、必要なのは、気が散らないだけの閑静な場所、結跏趺坐

も必要ない。それは後ろに倒れないために編み出されたもので、単なる坐り続ける技術のこと。 

横になると、習慣から眠ってしまうので、それは避けた方がいい。体の緊張がどこにあるかを意識

してみて、そこをリラックスさせる。感覚は閉じる必要はない。聞こえるなら、聞こえるにまかせ、

かすかな匂いも匂うにまかせる。やがて、意識が掴みどころをなくして、体は、脳は体が死にかけ

ていると錯覚する。その考えもかすかなものになる。  

はっと気がつくと、自意識を失っていたのに気づく。記憶も何もなく、時間が過ぎていた、これが

瞑想だ。  

そこまで行ったと、仮定しよう。はじめはそれだけで、なにもない。瞑想した、どうも来たらしい。

それだけで、なにもない。それを5,6回も繰り返すと、何が違っているのか、わからないが、なに

か変。同じものを見て、感じ、はっきりと変わったものはなにもないのに、なにか違う感じがする。

と、僕が案内できるのはここまでで、あとは人と比較しても幾分同じだが、異なる何かがある

だろうが、それは僕にも、あなたにもわからないものとして「ある」。のだから、すべての詮索は

役に立たない。 

なぜそうなるのかはわかる。僕らは例えば、耳のいい人もいれば、眼のいい人もいる。それを

役立てて、芸術や技術に応用できる人もいる。それぞれが自分の得意分野によって、世界の

見方が変わるように、瞑想はその人の持ち分に応じてしか、なんらかの隠された力を引き出す

ことはない。それは力というよりも、センス・感覚というものだろうと、僕は想像する。だから、

この先はあなた次第でどうなるか、なのだ。  

ということで、瞑想の基本が伝えられたのならば、あとは実践しかない。そして、瞑想からの先

は、僕は僕の超個人的な感想に終始することになる。  

もう一度くりかえすが、瞑想の来ない時は、あなたの自分という心の準備が整っていないこと

で、それは気持ちとかの準備ではなく、あなたが見たくない自分の心のため込んだゴミという

過去が掃除できていないから。決着をつけるかどうか、他人のそれぞれの事情なので、意見を

言うことはできない。瞑想が来るようになってから、その問題がはっきりした、ということもある

ので、そのゴミはすぐに片づけるどうのとは、言えない。そういうものは社会的・人間関係的な

事柄なので、人に相談することができる地合いのものだ。なので様々な方法があるはずだ。

あとは、子供ではないので、勝手にやってもらいたい、ここは能動的に。

瞑想は能動も受動も捨てて。

 
坐るのに慣れてくると、脳は体が死にかけていると、錯覚するのは述べた。その時に、瞑想

ハイになることがある。これは瞑想体操のようなものだが、瞑想が来ても、続く。

僕はこの体の死への準備運動としての(死の苦痛を和らげようとする)快楽システムと、実際に

意識のない瞑想状態での自己内の未知の感覚による、なんらかの接触による未知の関連が

起こっているのだが、それらの関係が僕には未解決で明らかな説明ができない。これからも

できないと思っている。それは誰もができないというのではないが、人間という生物的・心理的・

意識的な心身の機能を鑑みると、とても簡単ではない、と思う。

例えば、瞑想をよくしても激しい危険性というものはないが、(瞑想ハイの反動なのか、わからない

が、)死ぬことを恐れなくなり、その状態のままだと、つまらないことと引き換えに自分が死んでも

いいという感覚になる。生を粗末に扱う衝動がある。それを静かな危険性というのだが、日照りで

村の飢饉になった時などに村を救うために、生きたまま餓死してしまう即身仏になった僧侶がいた

が、大乗の人々(衆生)を救うという思想にこだわらなければならなかった、信仰の犠牲のようなもの

だ。が、死に慣れ親しむと、一時的に生を軽んじることが起こる。それは感覚を失うことのひとつ。

そうなった本人には、それが実感なので、そういう神頼みのようなやり方ではなく、生きて工夫

するやり方を見つけなければならない、とそういう風に考えられないのが、死に染まった人の

欠点だ。まだ通過点なのだが、そういう終末観を越えてゆく、その気力を感じることができない。


始めの瞑想体操でも、ショックを受ける人は心的なエネルギーに欠ける人だと思うので、瞑想は

やめるだろう、と思うし、それでいいと思う。この生と反対の無運動は過酷な自我エネルギーを

必要とするので、学校の学科でやるようなものではないと思う。昔から、(空海とか実例だが)

3度自殺しようとしてその都度助かってしまったという人は、生きる理由を求めて、その強い動機

に促され、自然にこの方向に入ってくる。入口は仏教かと思うが、日本に正しい仏教は入って

こなかったし、中国にも入っていない。入ったのは、ブッダが亡くなって数百年もあとに生まれた

大乗仏教というもので、謂わば仏教を”哲学として”完成させたものだ。

日本で悟った人は、すべて自己流になったが、それでも悟れたのは、瞑想が導いたからだろう。

そこまでは導かれてゆくのがいいと思う。その先は道などなにもないのだから。

そして、ブッダはこの悟りを法(ダンマ)に準じて生きるための第一歩と考えていた節があることだ。

つまり、悟りはよりよく生きるための覚醒の方法の一つだと思っていたのだろう。そこからなのだ、

新しい道を歩みだすのは。悟りを得た弟子には、一人で行け、と送り出している。世間での実践が

それからの修行の場なのだろう。即身仏になることではない。

瞑想の経験から(自ら)想像される(この世を俯瞰で感じれる)感覚がある。その感覚による、

これが僕のブッダや仏教への考え方だ。宇宙とか、神とか、心霊とかの言葉でスピリチュアルな

経験に依存したり、惑わされないでいたならば(人はなんでも自分の見たいものを見てしまう能力

がある)、自己喪失の体験は、いろいろな意見をもたらすはずだ。言葉で表現する、とはそういう

ことだからだ。

超能力じみた力があっても、新興宗教を興して悪さをする人もいる。それは人間の「生」という

実態を「死」から比較するのではなく、社会的な権力や利益のために行うのであるなら、それは

不正な政治家や実業家と変わることはない。それはすでにこの世にあるもので、この世に比較

するものはなにもない。見えなければいけないものは、ほんとうに見えないからだ。それが

映像視野という感覚を通すものではないから。

瞑想という言葉も、本来、瞑想のためにはあってはならないものだ。




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