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晴れて暇な日に 真理を発見しよう [真理]

相模River は 神奈川 Prefecture にある  。  

よく晴れていたが、なにか もの憂い日だった、のを 覚えている。  

あるだろう、 そういう日が。   小田急線の 本厚木駅で降りて、 

散歩していたらしい。  どうしてそこへ行ったとか、 は覚えていない。  

思い出そうとすると、そういうことって 多い。  

I know  anything   ・・  その河原に立った時の ことを書いた記憶が  

あって、  陽射しが  空中の埃に  ダストに当たって  キラキラ  

光るように、  そんな空気を感じていた。  そういう文だったような ・・。  

河原から 町の様子も  よく見えていたのに、  そんな光の 霞が 

かかっていたような  軽い うっとうしさがあった。   

自転車が 倒れていた。   ママチャリで、  捨てたのではない、 まだ  

新しくて  誰かがそこに 置いていった。  どこまで行ったのか、 周囲に  

それらしい 人影はなかった。  

川の本流に 流れ込む支流があって   飛び越せそうな、細い流れだった。  

深さもなく、上から 底の石が重なる様子が  見えていた。  

少し上流で カーブしていたので  その先は どうなっているのか    

眺めはなかった。 地図でナントカ川、 と確認していたようだ。  あとから  

見たのだろう。 そんな重要でもない支流を わざわざ 調べて来たとは、  

思えないから。  

支流の縁は  柔らかい土で 少しの雨でも 崩れ落ちてしまいそうだった。  

歩くのにも 気を付けないと  泥に足を取られてしまいそうで  気をつけた。  

流れのすぐそばに 立った。広い本流が 見える場所で  どこへ行くあてもなく  

そこに佇むために 立った。  陽射しが まともに  それなりに熱く  降り  

注ぐような  午後だった。  目的もなかったらしく、 手持無沙汰 だった。  


視線を下に落とすと、  そこで水流が二つ 前後にからみあうように  

W で回転しながら 面白い波形を  作ると  次の瞬間には  消えて  

しまった。水は同じように流れ、底の石が動いた様子もないから  すぐに 

その面白い波形を  見せてくれるものと、 暇にまかせて  眺めていた。  

同じ水量、 同じ底の地形、 それは同じパターンを  期待させた。  

だから、 5分も眺めていれば あの波形が目の前に、 と思っていた。  

そうして、15分。  心が 騒いだ。なんとなく考えていたことは  ただの  

夢だった。  空想にも近く、 暇人のなぐさみ、 そういう類のもの、 だった。  

それは 僕のもの憂い気分を  飛ばしたようだ。  眼を見張らなくても  

事実は 事実だった。 その波形は  一度も  ただの一度も  現れ

なかったのだ。  どうしての答えは 求めずとも  それが現れなかったという  

厳然とした 結果があった。   なんとなく思っていたように  単純な流れ  

ではなかった、ということだ。  何が起きていたのか?  

それを すぐには求めなかった。 うっかりすると眠っていたろう、 そんな  

河原の陽気。  風は それほど動いていなかったようだ。 

”なにかが  起こった ”  


単純な条件が 二つ三つ 重なるだけなら、  ものごとは 同じ状況を  

くり返すだろう。  それだけでも かなりのパターンを  生むだろうにしても  

やがて、 水流に 同じ波形を示すだろう。  でも、 それは起こらなかった。  

それが答えだった。  

少女の 長い髪だったら  よかったのかもしれない、  風に なびいて  。

僕は 散歩の切り上げ時が  来た と、 帰りの目的を もって 

はっきりと 歩き始めた。  


あれから 幾年くらいが  経ったのか。  結果が いつもの結果なのか、  

同じ結果がくり返すのならば  答えは 科学的な意味で  正しい、と  

なる。  そうは言っても、 いつも奇妙な 面白い波形に  出会えるわけ  

ではなかった。   それでも 大まかに  結果はまとめられて  ほぼ  

正しい、 と言えた。  同じ波形は 現れないのだ。  似たような波形は  

現れることがあった。  それでも ほぼ一度だけで。  

水というのは 生き物のように  臨機応変なのだ。  それが 最近、 

数年前か わかるようになった。  頭の良い人は  すぐにわかったの

かもしれない。  僕は 答えが出るのを 待つ習慣があるから  急がない。  

昔の 汽車はよかった。  車両のエレキトリック・ドアが 閉められたら、 

もう乗れない  ということはなかった。  走って  ステップに跳び乗れば、

いいのだ。  

そういう問題ではない のだが ・・・。  

水流は 旅行で 機会があるたびに  眺めた。 きれいな水、 清流のほうが

汚れていないから きれいな結果が得られる? と     それだけだ。  

僕は  部屋で  その時のことを思い出して  ずっと上方の  上流を  

見上げた。 源流という、 湧き水からそれは 始まっていたのだ。   

水は 粒子の集まりだ。  最小の粒子まで  分散するのでなければ、  

いくら集まっても  ひとつになろうとする。  それでいつでも、  いくつにでも 

分かれる。 そして、そのひとつひとつが  流動体で  体積も 形も  

重力も 変化させている。  それに流れの 記憶ももっては 放れる。  

ペットボトルの水を  グルグル回してから逆さにすると  水は一気に

渦を巻きながら  排出するのは  僕らが よく知っていることだ。  

記憶は瞬時になされ  バラバラにもなる。  それは 歴史に例えられる。  

数々の歴史をまとい、 それをバラバラにしながら  それぞれの粒子や  

その集まり(かたまり)が  それらを内含して  その何千通りが  

何千通りに 出会って  また 集中と分散の  歴史をくり返す。 その  

それぞれが一度だけのくり返しだ。  何千通りは  何兆、  何京 という  

単位に  無限に増殖を 重ねて   僕らが  見る水流は  何万時間を

積み重ねたような  複雑怪奇さ、  ・・ 化け物なのだ。     

今、見ている水流が  コンピュータが 量子の速さになっても  同じ、  

その水流の方程式は  無数に はじき出す。  まったく終わることなく  

時間とは関係なく  終わることのない  一粒子ごとに無数の数式を  

はじき出す、はじき出して、止めない。  だから、それによく似た、  

ほとんど近似の波形でも  見たいのならば、  僕は 1年も見続ければ  

よかったのだろう。  できるわけがない。(笑)  

ゆく川の流れは絶えずして、 しかも もとの水にあらず、 というのは  

表層な見方で  同じ水だけではなく、 それは一瞬も同じ 形も  

内容も 備えていないのだ。  これが  無常というものの  ひとつの  

説明になるかもしれない。  

と、ここまで来れば   過去の復習が できる。  

僕らの周りを 見回してみよう。 人工物でないものが あるだろうか。  

パソコン、 眼鏡、 コピー用紙、 ファックス電話、 地図、 ボールペン、  

壁も 窓ガラスも  すべて人間が 人間のために 人間によって(リンカーン風)    

作られたものだ。    

微細な条件まで 考えたら  生活はやってられないが、  それでも 現実の  

背景には  それが厳然としてあるのは  事実にちがいない。  ひとりの  

思いだけで  それが固定した数式に 変わってしまうことは  ありそうにない。  

人工物という  人間の安全や 便利さから離れて  自然に入ると  

僕らは  守られない。  その代わりに  真理の海に  入ってしまう、  

ということだろう。  感性が 無理なく開かれるのは  やはり  そういう  

環境が いいのだろう、  ある程度の 緊張をともなって。

この時も あのアドバイスが 役立つ。 自然に入ったら、  自然から  

語りかけてくるまでは  待つのだ。  水流を眺めるように  ただ  

眺めていたり、  聞いている。  風や  空気の匂いに  なにかを  

感じる。  Touch me ・・  

旅行で 歩き回り、  映像を撮りまくるのも いいが、  1時間は  

なにもしない、  そういう(実は) 豊かな時間を 過ごすことを  僕は  

勧める。  目的を 忘れるのが 大切だと、 想いはじめたら、  それは  

旅行ではなく  旅のコツを  覚えたという、  生活の根源、 命に  

寄せる行為、  人生という言葉ではないもの、  そういうそれらが  

形を  取り始めた、ということだと。   言葉だと 高尚に聞こえるが、  

小さなことが 大事なのだ。 景色を 変えてみることも 同じ。  

水流が  僕の見ている流れに たどり着くまでに  幾時代ともいえる  

変遷があった。  それでも 水は  水を 伝える。  

その時、僕らは 水流は 僕らが特定できないほどの 無数の流水の  

方程式を携えている、と言うのだろうか?  それは所有と 言える  

だろうか?  きっと、ちがうだろう。  水が 何を伝えたのか?  

その答えは  作り出さなければならない そういう性質のものだ。  

それが 僕が  水流や 自然から学んだことだ。  僕らはそれを  

すでに知っている。  これから 100億人の子供が生まれようと  

僕 (あなた) と同じ人間は 生まれないだろう、と。  

どうして 知るはずもないのに  そう言えるのだろう。でも、 僕らは  

それを 確信している。 まったく同じこの僕が この先に生まれるはずも

ないことを。  それは 二度と同じ波形を 見せなかった水流と  

一緒なことではないか?  

― 僕らの 瞬間瞬間は  厳密に  まったく  

 新しいという  証明のようなものではないか。 ―  


僕らは 実に  いつでも  新世界の ただ中にいる、なのに それを

閉じようとしている。何がそうさせているのか?  それは 目の前の  

人工物が 生活の安全と便利さを  人間に 与えているから。  

僕らの感じ方も  知的な狭小さに 押し込まれ  数理や その場の  

言葉の判断で  処理してしまっているから。  

だから?   それは社会生活に 必須なものであるけれど  一方で  

人間生活を  狭くしてしまっている。  この古くて 新しい問題に  

還って来て しまったけれども、  解決策はある。   あなたが  

”あなたから” 作り出す   答えの中に。  あなたが  あなたも  

自然の一部であるのを  しっかりと 感じるには  どうしたらよいか?  

どうして 僕らは  この問題の  堂々巡りの中に  いるのか?  

それが  直近の最終問題になる。  そう考え得た人は?  

人類のために  考えてみて。 (頬笑)
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