コロナ桜算 ・ペスト [桜]
桜の開花予想が、東京は3月15日ごろらしい。
それは2月1日からの累計で最高気温を足して、600℃を超えると
開花する、と予想するものだが、すぐに自然ではない、と頭に警戒音が
ピーンと来た。 ネットで調べると、やはり600℃を越えたからといって、
一斉に開花するわけではなくて、単に目安だった。達しても、それから4日
しなければ、開花しなかったり、と累計600℃に達してからの前後、という
ことで、 数字を出されると、つい科学的と勘違いしてしまうが、例年の統計
から目安として、割り出しただけの数字で、累計600℃に科学的根拠は
なにもない。
僕は暖かいので、晴れてもいるし、久しぶりに散歩に出た。側溝に渡された
鉄の網板の上を歩きながら、それについて初めに考えたのは、桜の気持ちだ。
いや、感覚か。生理か。
その土地の桜が、日々の温度よりももっと大きく、気候をなにかで読み取って
いるのではないか、と。彼らは連日で晴れて、何度以上が何日続いたら、とは
考えない。温度の内奥に季節を伝えるものがあるはずだ。それは僕の体から
類推で判断している。
例えば、熱っぽいのが確かでも、体温計には平熱しか示されないことが、度々
ある。それから数日して、軽い風邪の症状が出たりするのだが、そういう予兆は
体が教えてくれるが、どうしてかは謎だ。まだ解明されていない。
また、気象庁が冬に逆戻りで、寒くなります、と言っても僕は信じない。2月の
中旬くらいまでだったろうか、僕はズボン下を履くのは嫌いだったが、寒さに今年
は用心して我慢して履いていた。ところが、慣れてしまって、ズボン下が毎日
当たり前になってしまった。またまた、「ところが」で、温度の内奥に春を感じ
始めた。大気にこもる陽気とでもいうのか、体の芯を温めてくれる 「気」 で
ある。 これを感じると、季節が変わるのを毎年感じ、知っていたので、ズボン下
は脱いで、もう履かなくなってしまった。寒い日でも、前のように芯から寒さを
感じなくなった。
たぶん、僕らはこういう感覚のことを、まだ未知で、何も知らないのだ。名前が
ないのだ。むしろ、文学や服装などで、人々が生活の内に自然に表現している
ものだ。
スーパーマーケットは昼間なので、空いていた。アルコール消毒は、帰りに見た
ので、店を出る時に手を洗った。陽射しのある駐車場に出ると、徒歩で来たの
だが、とても変な気分だった。コロナの最中だとわかっていたが、気持ちよくて
普段の晴れた日と変わらず、暖かく気分がいいのだ。 それでもこの空気中に
何万という微生物が浮遊しているのだ。それは見えなければ、いないのと同じで
感じようがなかった。 コロナは終わった、と言っても、嘘を言っている気には
ならない、だろう、 そんな気がした。
小さな公園を細く、小さな流れを見たが、子供もいないのに、小魚はおろか、
どの小さな生物も動きがなかった。水の中ではまだ春が訪れていないよう
だった。そう言えば、マスクもしないで歩き回っていた。風がコロナを吹き
飛ばしているだろう、と脳天気なことをことを思っていた。
17世紀の ロンドン「ペスト」 :-
デフォーの「ペスト」という当時のロンドンの記録文学じみた小説を、少し読んで
みた。致死率が高かったので、感染はゆっくりだった。感染者が生きて、あちこち
に、コロナのようにばら撒けば、感染は広まるのが早いが、まず交通手段は
馬車などで、飛行機も鉄道もなかったので、人々の移動が緩慢だった。それで
少し感染がゆるまると、もう収まったとばかり、市民は忘れてしまった。で、
また死者が出て、終わっていないと慄いた。それが何度も繰り返すので、次第
に(金持ちたちは地方に疎開してしまった)市民たちは、ペストの惨状の環境に
慣れ始めて無関心になって行った。それほど何度も何度も、流行のぶり返しが
くり返されたということらしい。
さて、このペストはロンドンに苦境をもたらしたが、人類の発展には、特に
科学というものの発生、その興隆には大きな貢献となる機会をニュートンに
与えたのである。ペストでロンドンでは7万人が亡くなった。翌年にロンドン大火
が起こり、4日間燃え続け、市内の家屋の85%が焼失したとされる。この大火に
よってペスト菌が消滅して、収まったというのが有力な説だ。
ニュートンはその間、18ヵ月もの間、大学の雑務から解放され、のちの「光学」、
「微積分法」、「万有引力」についての核や肉付けとなる思考に存分に集中する
休暇を得たのだ。まだ20代。 2年後には教授に招聘されるが、彼の発見した
「光学」は新しすぎて、講義に学生が一人も来ないことがしばしばだった、という。
それが真の”新しさ”というもの。
夏目漱石ははじめ、英文学者だった。それでデフォーの評論もしている。さんざん
に気に入らない点を述べているが、それについては準備不足で言わないが、
その漱石の不満があるということが、彼がやがて他人の作に不満なら、自分で
書けばいい、いや、書きたい、となる”てこ”でもあったようだ。 だが、日本に帰って
も、また小説を書く機会が訪れても、すぐにはそれがわからなかった。
「吾輩は猫である」、が売れて、それでいろいろな小説や、俳句小説のようなものを
初めての小説と、新しいものと、自分では思っていたらしい。そして、修善寺で
胃病で死んで(医者は30分だと言っている)、また生き返って、それが晩年の
「こころ」に結びついている、というのが僕の勘である。
デフォーは「ロビンソンクルーソー」で売れて、少し傾向を変えて、3部作まで出した
が、これまでに印刷され続けたのは、断然、第1作で、少年少女の文学に動かせ
ない定位置を決めている。子供の頃、これ読んで、実体験ではなく想像上の物語とは
思わなかった。 デフォーの「ペスト」については注目した点があったが、それはまた
いつかということで ・・・。
(デフォーの「ペスト」は他に「ペストの記憶」「疫病流行記」「ロンドンペストの恐怖」
など別名で出版されている)
河津桜だろう。歩いて5分の温泉施設の前にて。
それは2月1日からの累計で最高気温を足して、600℃を超えると
開花する、と予想するものだが、すぐに自然ではない、と頭に警戒音が
ピーンと来た。 ネットで調べると、やはり600℃を越えたからといって、
一斉に開花するわけではなくて、単に目安だった。達しても、それから4日
しなければ、開花しなかったり、と累計600℃に達してからの前後、という
ことで、 数字を出されると、つい科学的と勘違いしてしまうが、例年の統計
から目安として、割り出しただけの数字で、累計600℃に科学的根拠は
なにもない。
僕は暖かいので、晴れてもいるし、久しぶりに散歩に出た。側溝に渡された
鉄の網板の上を歩きながら、それについて初めに考えたのは、桜の気持ちだ。
いや、感覚か。生理か。
その土地の桜が、日々の温度よりももっと大きく、気候をなにかで読み取って
いるのではないか、と。彼らは連日で晴れて、何度以上が何日続いたら、とは
考えない。温度の内奥に季節を伝えるものがあるはずだ。それは僕の体から
類推で判断している。
例えば、熱っぽいのが確かでも、体温計には平熱しか示されないことが、度々
ある。それから数日して、軽い風邪の症状が出たりするのだが、そういう予兆は
体が教えてくれるが、どうしてかは謎だ。まだ解明されていない。
また、気象庁が冬に逆戻りで、寒くなります、と言っても僕は信じない。2月の
中旬くらいまでだったろうか、僕はズボン下を履くのは嫌いだったが、寒さに今年
は用心して我慢して履いていた。ところが、慣れてしまって、ズボン下が毎日
当たり前になってしまった。またまた、「ところが」で、温度の内奥に春を感じ
始めた。大気にこもる陽気とでもいうのか、体の芯を温めてくれる 「気」 で
ある。 これを感じると、季節が変わるのを毎年感じ、知っていたので、ズボン下
は脱いで、もう履かなくなってしまった。寒い日でも、前のように芯から寒さを
感じなくなった。
たぶん、僕らはこういう感覚のことを、まだ未知で、何も知らないのだ。名前が
ないのだ。むしろ、文学や服装などで、人々が生活の内に自然に表現している
ものだ。
スーパーマーケットは昼間なので、空いていた。アルコール消毒は、帰りに見た
ので、店を出る時に手を洗った。陽射しのある駐車場に出ると、徒歩で来たの
だが、とても変な気分だった。コロナの最中だとわかっていたが、気持ちよくて
普段の晴れた日と変わらず、暖かく気分がいいのだ。 それでもこの空気中に
何万という微生物が浮遊しているのだ。それは見えなければ、いないのと同じで
感じようがなかった。 コロナは終わった、と言っても、嘘を言っている気には
ならない、だろう、 そんな気がした。
小さな公園を細く、小さな流れを見たが、子供もいないのに、小魚はおろか、
どの小さな生物も動きがなかった。水の中ではまだ春が訪れていないよう
だった。そう言えば、マスクもしないで歩き回っていた。風がコロナを吹き
飛ばしているだろう、と脳天気なことをことを思っていた。
17世紀の ロンドン「ペスト」 :-
デフォーの「ペスト」という当時のロンドンの記録文学じみた小説を、少し読んで
みた。致死率が高かったので、感染はゆっくりだった。感染者が生きて、あちこち
に、コロナのようにばら撒けば、感染は広まるのが早いが、まず交通手段は
馬車などで、飛行機も鉄道もなかったので、人々の移動が緩慢だった。それで
少し感染がゆるまると、もう収まったとばかり、市民は忘れてしまった。で、
また死者が出て、終わっていないと慄いた。それが何度も繰り返すので、次第
に(金持ちたちは地方に疎開してしまった)市民たちは、ペストの惨状の環境に
慣れ始めて無関心になって行った。それほど何度も何度も、流行のぶり返しが
くり返されたということらしい。
さて、このペストはロンドンに苦境をもたらしたが、人類の発展には、特に
科学というものの発生、その興隆には大きな貢献となる機会をニュートンに
与えたのである。ペストでロンドンでは7万人が亡くなった。翌年にロンドン大火
が起こり、4日間燃え続け、市内の家屋の85%が焼失したとされる。この大火に
よってペスト菌が消滅して、収まったというのが有力な説だ。
ニュートンはその間、18ヵ月もの間、大学の雑務から解放され、のちの「光学」、
「微積分法」、「万有引力」についての核や肉付けとなる思考に存分に集中する
休暇を得たのだ。まだ20代。 2年後には教授に招聘されるが、彼の発見した
「光学」は新しすぎて、講義に学生が一人も来ないことがしばしばだった、という。
それが真の”新しさ”というもの。
夏目漱石ははじめ、英文学者だった。それでデフォーの評論もしている。さんざん
に気に入らない点を述べているが、それについては準備不足で言わないが、
その漱石の不満があるということが、彼がやがて他人の作に不満なら、自分で
書けばいい、いや、書きたい、となる”てこ”でもあったようだ。 だが、日本に帰って
も、また小説を書く機会が訪れても、すぐにはそれがわからなかった。
「吾輩は猫である」、が売れて、それでいろいろな小説や、俳句小説のようなものを
初めての小説と、新しいものと、自分では思っていたらしい。そして、修善寺で
胃病で死んで(医者は30分だと言っている)、また生き返って、それが晩年の
「こころ」に結びついている、というのが僕の勘である。
デフォーは「ロビンソンクルーソー」で売れて、少し傾向を変えて、3部作まで出した
が、これまでに印刷され続けたのは、断然、第1作で、少年少女の文学に動かせ
ない定位置を決めている。子供の頃、これ読んで、実体験ではなく想像上の物語とは
思わなかった。 デフォーの「ペスト」については注目した点があったが、それはまた
いつかということで ・・・。
(デフォーの「ペスト」は他に「ペストの記憶」「疫病流行記」「ロンドンペストの恐怖」
など別名で出版されている)
河津桜だろう。歩いて5分の温泉施設の前にて。
2020-03-09 20:12
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