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野良猫がゆく [猫]

猫にあって、人間にないもの。それは人間のオーラを見る感覚。  

人間にあって、猫にないもの。それは人の視線を感じるという感覚。  

猫はそれほど利口ではない。しかし、人間にエジプトの古い時代から  

愛されていたから、4000年の歴史がある。そのはじめはわかりやすい  

倉庫の食料を荒らすネズミ対策で飼われたのが最初。現代ではネズミ対策では  

家庭では飼われない。

しかし、東京の千代田区ではドブネズミが、少なくも20年前まではいた。

(今は? どうだろう?)  

いた、なんてものではなかった。下水を住処に繁殖して、しかも東京である、  

飲食店が多く、食べ放題だったらしく、体が肥大化していた。これがネズミ! 

と驚くばかりで、ふつうの猫では太刀打ちできなかった。体力差で猫が圧倒的に  

負けてしまうのだから、人がそれを見つけた時には、恐怖を感じるくらいに  

大きかった。  

僕も、長崎の離島の家では、ネズミ対策をずいぶんした。留守が多くなって、  

食べ物がなくなると、自然によそへ行ったようで、最近は現れなくなった。  

ふつうに齧られた跡などが見れるのだが、一度もネズミの姿を見ることは  

なかった。 壁の穴から侵入したのかも、と壁の穴を埋めたのも2年前だった

ろうか。  

野良猫ルーシーは時折、エサをねだりに玄関前に訪れる。この時の待ち姿が 

きちんと背筋をのばし、これぞ猫のおすわりの代表の姿と言えるものなので、  

僕はその姿が一番気に入っているのかもしれない。と言うのも、彼女は僕の  

家の前ではその姿で、僕が出てくるのを待つからである。以前は、ニャーニャー  

鳴いていたが、うちのが嫌がるし、僕が必ずしも聞きつけるのでもないので、  

鳴くのはやめて、おとなしく待っている。自分で時間のカテゴリーがあって  

たぶん、お日様の傾き具合で決まっているのだろうけれど、だいたいその時間  

というのが決まっている。  

エサはおやつくらいの量の、こっちのほうが人間としては上等で、うまいのでは

ないのか、というものと、猫缶で量はあるが、少し味は落ちるのではないか、と  

いう2種類があって、僕のきまぐれで与えている。腹具合がいいと、ほとんど  

鳴かずに無言で食べる。むしろ、食べてやっているという態度だ。 

だいぶ以前にカリカリのエサをやってみたことがあったが、フンッと一口も食べずに  

去っていった。あの頃は、勢いがあった。 

腹が空いていると、よく鳴く。それでもしつこくはないのは、僕が嫌がるのを  

学習しているからだろう。   

少ないおやつの時に、上から覗いていると、まだ腹が満たないのか、坐り姿で  

待っている。これが癒しになるのだろう、可愛い。  

すぐにきょろ、っと辺りを見回して、もう出てこないだろう、とまた駐車場の  

ほうへ去ってゆく。何度見ても、猫がこの僕(人間)の視線に気づくことはない。  

その(特定の)人間が何を好んで、何を嫌うかがわかればそれで食っていける、  

と千年以上前に悟ってから、それ以上の感覚の開発(進化)はしなかったようだ。  

視線なんか、エサと関係ないし、危険でもないから、それは当然なことなの

だろう。 しかし、この冬は少し、弱っていた。エサを渡すときには必ず、身を  

隠すのだが、寒さがこたえるのだろう、僕の前から逃げない時が2回あった。 

(滅多にないので、寄る年波なのだろう、最近、「長生き猫の暮らしとお世話」と

いう本を購入した。今年中には読めるだろう。) 

来年の冬にはその時に、抱き上げてしまおう。 楽しみだ。
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