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君は誰? [心理]

僕は僕の 個人を超える問題を 考えざるを得ない  

それは 悲劇な皮肉なのか、  喜劇なのろまだったのか  

自分という  枠と  知性という  変幻な物差しを  

手中にした  と思ったが   

それは  今までの拠りどころを  失うことでもあった  

それは  承知していたので  痛手にはならない、 と  

思っていた  

昨晩は、  その前から 胸騒ぎがして  僕は  

寝床の中で  僕を見つめた   自分ではない僕を  

どうやって  見るのか  考えた   

わからなかった   それは  意識の奥で  

僕である 主体自体を  見ることなど  

叶うわけわけないと、  思っていたから  

むなしさが  直接でなくなったのは  初め  

喜んだが  そして今も それでいいと思っているが  

どうにも  その極度の緊張を 失うことの代償も  

大きい、と  今更ながらに   感じている   

全力を出して  対峙する  相手が  いなくなった  

生活が  楽になるはずだったし、  そうなったが  

立っているための 手段でもあった  相手が  いなくなり  

僕は  自分を  ”失う”   

この失うは  これまでに考えていた 「失う」という  

全般での意味での  失う、 ではなかった   

だからまた  この感覚を現わす 言葉はない、と  

逃げてみるが    ・・・・・・・・・    

   
僕は  この世のあらゆるものが  あてにならないと知った時  

何もかも 自分から作り出さねばならないし、  作り出すものが  

皆、  自分の烙印になる、 と思った   

それは その通りだが   それは わかりやすい烙印どころか  

伝わることが  ほんの 糸の一筋でもある、 という  

頼りない 印になるとは  まだ 気づいてはいなかった  

ただ  後の者が  拾ってくれるさ、と  気楽に考えていた  

僕は  精神的には  大変危ない位置にある  

僕は  自分を信じないのではなく、 信じることはできないと知っている  

ので、  信じるとかは  問題外だ  

そして、自分を 信じることが  生きる関係をつなぐ、 ということも  

知っている ので、   信じないのは  問題外である   

この矛盾に見える矛盾は  論理の矛盾ではないので   

フラットに 並べられない  

でも 僕は 毎日の生活の中で  枠の中に  自分を置く  

創造する   関係をもつ  そうした時に  通常の判断が  

そのことについては できなくなる   

以前は  僕は  どこにいるか、 と  余裕だった   

どこにいても  僕は  支えられているのを 知っていたから  

今は?   自分として 生きようと思うと  非常に  

心もとない    緊張して 強い綱引きを しなくていいし  

勝手に  放り出された  このあてにならない世で  

それを 感じすぎる 自意識を  避けるように  

落ち着こうと  思って  ただ もがいているようだ   

だから  昨晩は  枕を頭の下にして  尋ねた  

(自分ではない僕、そういう)君は 誰?  

この質問にも  君(僕)は答えてくれるのだろうか?   

無意識に向かって  こういう質問を  するとは   

まったく 思ってもみなかった  


君は 誰?  


なぜ君は  僕なのか、 でも同じだった  

花々の咲く  公園のような  広い中庭で  

君に 案内されて  歩くのは  いいだろうね  

こうして  静かで  穏やかな日に  友と 話せるのは  

素晴らしい   それが  どんな会話であっても  

流れるに まかせて  なにを  話しているか  

何を  話したか  忘れてしまって   そんな光景が  

思い浮かぶ   

そうか   あの 中庭か   インドへ渡った時に  

高額な宿泊費だったけれど  インドの カルチャーフラッシュに  

興奮していた僕を  天国と思わせた  静かなクリシュナ系だったか  

ホテルに  案内されて  そこに  日本人もいて  

これからの  準備を  させてくれた  あれは  奇跡だった  

そういう用意を  してくれたのは   あの頃からいた 君  

だったのかもしれない   

僕の心の準備を させるために   手始めに サンティニケタンへ  

なにかを 届けに行ったのも  これも 抜群の緊張を  

強いられたけれども  それが  とても役に立った  

あの頃は  なにも  知らなかった   

27歳の頃と  今と  なにも変わらない気がする   

なにも  変わっていない   それがそのまま  

自分の胸で  受け止められるのに  あの頃は  

なにも 知らなかった、 と  言っている   

たぶん、 僕らは  過去の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  いつになっても  

これから先も  今の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  言い続ける   

そういう 動物なのだ   

そういう 言葉を好きな 動物の種、なのだ   


この気持ちを  どう言えば  なんて  可笑しカルラン  

言えば  いいのか  嬉しい   

この嬉しさが  条件なんてないよ、  ただ  嬉しい  

ともかくも  と 謙そん調で   気持ちいい  

この世にいる我、   無意識な自分、   悩む僕が  

それを  そのまま感じて   充実する  

それを「存在」という  無意味な  無機的な  言い方を  

したくない   それは 柔らかいボ-ルのように   

僕と  ともに   ある  


僕と共にある  やさしく 頼もしい一面と  

僕の思うようにさせる、  そのためには  

人間を 超えさせようとする  危険に  踏み出させる  

躊躇ない  厳しさの   こわもて?の一面と。   

これは プライドと   深い気持ちを 感じさせる  

それらの  調べのように  心を 回転させる  

僕が  想像することを  踏み越えず  僕の  

性質を  知り尽くしたように  容赦ない   

操られるのが  心地いいように  できている   

自分で 獲得したように  思えるように  進められる   

それが  君、 ではないのか?   

君は  人間の心の  主体というようなものでも  あるのだろうか?  

そこでは 人が 成長と共に  自分を形成してゆく過程、  

それも自然な  創造であるのかもしれない   


ここからは  書かなくていいだろう  

こういう認識が  いつの日か  古い認識だね、と  

思われることを 期待して  書いているが   

急ぐこともないし   先端は  変化があるから   

余裕を 取ったほうが  いいこともある  


こうして  僕は  毎日のように  

精神的に  倒れてしまって  立ち上がる、 という  

ことを  行っている   これは 日課なのだ、と  

自分で  気づこうとしている    

正確に 気づいている、という感覚は  もう  

僕には ないようだ   

僕が 信じているという状態と  信じていない状態とは  

別々の場所で  僕と共にある  ”君” なのかも  

しれないね   

                       3.18
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