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喜びと侮蔑:神との(”への”ではなく) [神]

今 ここにいらっしゃる 私が 幸せであるように  

祈る   というのが  神への意識も 含めて  

シューマンとかの 19世紀の 時代の 願いであったろうか   

神への願いは  そのまま ロマンであらせられた のであろう  

ここにある 蜜の甘さは  キリスト教の香りに 包まれた、   

神様という 憧れが  慈しまれて あったのだろう   

僕らの 愛(という概念、もしくはそのもの)が  神と  

重ねられて  語られ、  また 語りかけた  そういう  

世紀であったと   そして 腐りの始めの、その世紀であった、

と  僕には 思われる。    

それでなにかを  語ろうという気がないのが  不思議な  

ことなのだが   その人々の想いを大事にしたい、という  

気持ちと   粉々に粉砕してもいいと、 思う :僕と  

僕の中の 僕との:  葛藤にならない、あり得た 融和なのだとすれば  

その思考も 認識も  意味という感覚も 育てられない、  

そういう オアシスの豊富な  しかし、  見渡す限りの 砂漠に  

さ迷い  迷い込んだような  気がするに   ちがいない。   

トロイメライ  19世紀 、  シューマン

G線上のアリア   18世紀 、   バッハ  

魂の  さ迷いよ  

そこに 安心という 祈りがあった  信仰の 礎(いしづえ)よ  

御座(おわ)した 場所に  イマソカリ  

I need her

・・・・

I need him

・・・・

I need me

・・・・

I need YOU

I need everybody ! 


これほどに  あなたを  必要とする   その理由は?  

すべてを  あなたに  委ねてしまいたい  そのわけは?

それが スピーカーの増幅音のごとく  大音量に  

君の 心で  鳴り響き  鳴り止まない   

そんなに  

そんなことが  あったのだろうか !   


” もう どうにでも なりなさい !! ” 

「 モウ  

ドウニデモ   

なりなさい !!! 」 、と  
 

頭から  怒鳴られたら  そうなってしまうのだろうか  

屈辱に したがうのは  プライドが  許さない 

(そりゃ  できませんや) 

なら、 自分より以上の  

自分を はるかに 超えた

高貴なと規定された 存在へ、なら ・・・  

いいのだろうか   

おお  ウィリアムの 心よ

A Time for Us ロミオと ジュリエット  

悲劇は  高らかな 涙の代償、 ラ・カンパネッラ(鐘)   

気位高い 君の  要求に  応えるべく  

透きとおって行ける  感情を  抱けるやも  

どんな  苦難・困難 も   

ああ それこそが  ロマン   

夢に 堕ちた  現実というもの  

晦渋を好む  欺瞞になり替わった 懐疑というもの  

一人の会話が  どこまでも続く  闇の演出  

それに感動する  あまりに多くの 観衆  

あまりに 愚かな 真実の姿、 と  君は言う  

輝ける 我らが わずかな時間、と  僕は言う  

栄光は  ・・ あった   永遠は そこに  

・・・ ではないのか?   

もう 胸を かきむしるのは  やめよう  

僕らが  手と手を  合わせれば   

僕らが  愛し合えば、と  祈れば  

それが あまりに  ピタリと  僕らの心に  

当てはまる、 と  気づく  

これは! 気づいては いけないことなのだろうか  

前提として 僕らの心に  供えられている  

これは  何?  ”罠” じゃないよね  そんな  

邪推は  考え過ぎだよね?   

これは 僕らのために  周到に 用意されたもの、  

それが  愛 ではないよね?  


時間が ないとわかっても  

時間という 想定を  使う生活は  終わらない  

数字は  どこにもあるが  触ることも  味わうこともない  

聴いたり  見たりもない   それは  記号で現わされる  

それは1であることを 示す 言葉の  ひとつ  

実在していないが  生活から 外せない  

その時  心は?  あるよね  

思うという 想いという  感覚に  

愛してる  それは  僕を 裏切らない  

見えない  触れないが  生命の一部だと  

僕は  知っている  

生きることから  離すことが  できない   

死ぬ前に  それが来て  確かめられた  

生きることの すべてが  愛ではなかったが  

愛がなければ  生きてはいなかった  

それを知る  貴重な 一晩が    ・・あった

それは 人のつながりを  紡いでゆく  

追いかけることが  楽しく  

子供のように  笑えた !?  

それならば なぜ 僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・       

   
sぢvふぇrひおgjうぇdcなcgvb・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まだ  言えない 、 としか 。 (言えない)

死んでも 言わなければいけないのだろうか?  

それとも!!! 

死は  僕の手に 余る   

生は 僕の手に 余る、 と  

あまりに 当然のことを  言わなければ ・・・ ないのだろうか !

死に 慣れ親しみ過ぎた!、 と。  


それは もう 死ではないという、 そんな感覚を生んでいる 体。 

もう 生まれた時に備わっていた  死の恐れという  感覚ではないからだ  

むなしさが  残っているから  それが  時に  

深い  沈む  混濁の 大嵐を  吹かせたりもするが   

僕の死に  根はない  そのために  それで  

闇に  引き込まれることが  なかったのだろう  今までは

そんな  一日の ある瞬間は  やがて  過ぎる  

風が 通り過ぎるようなものと  長い年月で  学んだ (のよ  

あなたと  いっしょに ? ? )   

グーンと 落ちる  テンション  でも 元気  

私は  知っている  あなたが  私を  愛していると  

それを  どうのと  考えなくても いいことを  

パーフェクト ワールド  そう言わなくても  

あなた(僕)は  知っている (わ)  

なんという この 世界 !!!!!   

君 (彼女) を  呼ぶよ。  


君 (God) に  尋ねるよ  

(僕は) 愛は  僕らが  創ったと  思っていた、 この前まで   

そういう人たちを  見た(感じた)から ね  

でも  それらの想いが  集められたのは? と  

今  気づいてみると   君が  関わったのだろうか?  

とも 思えるんだよね  

愛は  どうしても  巧みに 隠されている  

どうして  僕らは  それを 求めて  

飢える人まで  いるんだろう?  

どれほど 否定されても  それを証言するものが  現れる  

生の一部であっては  逆らえない  <ヒットラーも  スターリンも>  

自我のエネルギー(英雄)では  対抗できない  

死を 恐れないだけでは  それは断ち切れ ない  

僕も  ただ  離れることが  できただけ   

それでも           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

君は  何者?

君は  何者?

君は  何者?

なぜ?  

なぜ?

なぜ?  

After - 育つことの意味は?  

アインシュタインの ように  

理論物理とは Situation が  異なるが

僕も これを ゲームとは  考えられない!  

壮大な トリックだが ・・・、

・・・・・・・・・・・・・・・・  

または、 ・・・
  

人間だから?!!!!  


・・・・・・・・・ (キリ がないな) ・・・・・・・・・・

 
憂愁が ・・・  

そうだ   

君に  会いたい     ・・・(これだ)

でも  気持ちが  そもそも  

僕らの 脳の根だと したら   

すべての  抵抗は無駄になるの ではないだろうか

それでも  

まだ   

緑の  葉  

知っている、  僕は 知っている と  言ってみたい  

ブラウンに  渋い  公園のベンチ  

しあわせを 知っている  満ち足りている、と  

振り向けば  そんな僕が  いる  

輝く  太陽の 光の束を  

僕は  もらっている   

この 狂った世界において  


そうやって  このまま  過ごして 終わりにしようと 

僕が  考えると  思ったのだろうか?  

それは ないだろう、

たしかに、  

それはないだろう。



*2020.2.9にこれを書いたときは、明瞭な動機があったのを知っていた。  

 今、それから2ヵ月と8日くらい経って、それにも或る疑問が出てきて、  

 (これまでの多くがそうであったように、ストレートに僕の立場から書かれている)  

 少し、泥水(他人との思惑)が流れ込んできて、この先を見なければ、と 精神的  

 にも自粛している。晴れるというのは、天気次第だ。空気が乾燥して、やがて  

 水滴も蒸発してしまう。明瞭さというのは、晴れ間が出ているだけのこと  

 なのだろう。 天気は変わる。  この考え方も古く、日本古来のものに基づいて  

 いる。
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