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僕が君の視界に入ったら [日記]

昨晩の続きを少し書こう。 

やさしさが悩むというのは、想像できない。人がやさしく

なるのに、悩んでいるからだとは、認めがたい。 

だが、優しさゆえに迷うというのは、よくあるだろう。

いろいろな場面があって、いつも決まった場面でそうなる

とは言えないが、強い態度で決断できない時、それが 

その人のやさしさゆえだ、ということはある。

僕らは大事なことを決める場合には、それが正しいとは

決めかねて、決断を先に延ばしたくなる。迷いはそこに

納得できない要素がまだあるからだろう。あとはエトセトラ

だ。 

それと、昨晩の記事は自分が書いた気がしないほど集中

に入った記事で、あれを書くというのは予想しなかった。 

どうしてあれほどに初期のような強い主張をぶつけたのか、

その復活がどこから来たのか、わからない。別に日頃から

不満を抱いていたという自覚も全くないからだが、それは

自覚のことで、僕の芯はそうではなかったのかもしれない。

読み返してみてそれなりに納得いくのだが、足りない。そして、

「足りない」ということの内容がわからないままだ。文という

ものが物事の一面からしか書けない、というので、いくつも

文を重ねて、それを総合しなくてはいけないのはわかるが、 

それでも言葉という固いもの、角のあるきっちりしたもので

表現するので、抽象や柔らかいものは、いつもそこから

抜け落ちる部分ができてしまう。書きながら、それを追って

いる気はするが、実際は取りこぼしたまま、展開は進んで

しまうから、完全な文というのは表現でも、論理でも、日常の

文でもそれは成し遂げられることはない。大まかになにかを

伝える僕らの日頃の文章が害は少ない。

専門用語に固められた文は理解しがたいし、真実という

幻想と紙一重なものは、わかりやすい文であればあるほど

その真の姿から離れたものになってしまう。それは少なくない

誤解という害を及ぼす。それはわかりやすいがゆえにその人

の考え方に寄ったものに姿を変えてしまい、亜流となって

すべての人を本流の誤解に巻き込んでしまう。そして、

歴史の80%という事実を伝える部分はそれで構成される。

もはや、分析しようにもなにがなんだかわからなくなった

状態になる。すると、その上前を撥ねるように、まったく根拠

のない説が登場したりして、新説としてもてはやされたり

する。 

それは説として「固定して」見るならば、僕は自分の言って

いることがそれに相当するのではないか、といつも気に

している。だから、無意識の助けがなければ、僕には

思い切った主張などは本来、書けないのかもしれない。

弱気な発言ではなく、慎重で遠慮がちな僕としては 

それが文を書く性質なのだ、(それは生活をする人間の

態度とは一線を画する。だから、書かれたものを見て、

そのことでその人間を評価するのは片手落ちになると、

何度も言っている)。

ある人に言われた、「あなたは今まで怒ったことがない人

に見える」と。その頃も僕は抑えきれない癇癪のまれな

爆発に悩んでいた。そういう表情は僕がつくって、獲得した

表情なのだ、と思った。そうなったのも、そう人に思わせる

ものが隣にいたからだろう。

ある人は自分が強いということを自覚していなかった。君は

負けん気が強い、と言ったら、そんなことは初めて言われ

たよ、と返された。相手の感情をコントロールして、場を

作れる人間だったので、彼に面と向かって物言う人間は

彼の友人でもいなかった。僕もその時に初めて、彼が自覚

していないのを知ったので、驚いたことがある。それに

近いようなこと、それを想像させるようなことを彼が年長者に

言われたのを、そばで聞いていて知っていたので、まさか

自覚していないとは長年思ってこなかった。こんなに近くでも

人が自覚していたり、いなかったりということはわからない

ものなのだ、とは最近身近な人を通して知ったことだ。

彼は実際やさしい男だが、その気のやさしさというのは

近い友人にしか知られていない。彼は自分ではやさしさを

知っているから、僕の指摘した他人からの指摘は、いつも

無視して気にしなかったのだろう。そういう大まかさも

もっているのだった。  

誰でも感情はある。それは真に大事な真理とかでも同じで、

言葉ではわかっても、その派生する様相や、関わり方に

よって姿を変えるかのような変幻さは、人が自分をどう

自覚しているかが複雑に見えるように、単純な答えではない。


ほんとうのことはどうしてこうも、わかればわかるほど深さを

増してゆくのか。複雑に見えるようになってゆくのか。その

元は僕らが決めつけているように単純なのだが、実際の

バリエーションは辿り切れない。そうすると、人の性格を

決めつけてくれる人が頼りになるように見えたり、決めつけ

られて、僕らは安心したりする。

僕らは学者じゃない。分析しながら生活しているわけでもない。

生活を楽しむことを優先させて、それがいつもうまくいくわけ

ではない、と知るようになって、心配も始まり、トラブルを契機

として悩むようになる。

物事は基本、うまくいかない。少なくとも近未来や将来という

ものは5万通りの予測のできない要素が絡まりあいながら

織りなす明日からできている。同じものは一つとしてないが、

それと同時に卑近な出来事や似ていることが多く起き上がる

ので、僕らはそれを区別できない。微妙な直感に頼っている。

そして、それもいい確率ではない。 

うまくいきやすいのは、それでうまくいくという最大の目標を

あきらめて、それにこだわらずに一生懸命やってみようと

腹がくくれた時だ。その時、僕らは自由になる。目的を捨てて

僕らは縛られないから?それだけでは納得いかない。 

どうして僕らの状態が自由な時にまともなことができるのか。

恐怖がない時に正常な方向に舵が取れるのか。

答えを語ることは必要ではないので、話さない。必要なのは

相変わらず、方向を確認したら、自分がそれで合っていると

思ったら、船出する、それだけのことだ。5万通りの未来に

勝利するなどできない。それが決められたことならば、専門家

が援助することができるだろうし、社会のはそういう決め事が

多いからその方面・分野で予測や計画が役に立つが、そう

いう決められた舵のない海図のない海や、地図のない山とか、

心の気持ちと考えの葛藤の中で迷ってしまったら、とかでは

僕らにはどんな専門家の助けも借りられない。医者でもセラピー

でもその妙義を知る人はいるが、まれで探すのは難しい。

その時、僕らはうまくいくために、うまくいく気負いを捨てるのだ。

それはあきらめることと上層では変わらない。無意識(下層)

ではうまくいくように願っている。だから、それを知ることはでき

ないし、知らないのだから、それはあなたの知らないあなた

自身、またはあなたの芯に任せるしかない。それができた時

は落ち着くからわかる。腹が坐るから、わかる。もう成功に

こだわらない。 

なにかすべきことをする、そこに集中すればいい、結果なんか

どうでもいい、と思っている、思えている。 

それも現実上での、悟りのようなものだ。いや、そうなのだろう。

そういう想像でかまわない。それを新しい定義とすればいいのだ。

僕らは創る。うすっぺらな考えのものではない。内容が僕らに

しっくりくる、信頼できる、そういう僕らのあり方だ。そこからなら、

明るく、力強く、子供のために歩いて行ける、そういう僕らの

創造の力だ。僕らが気づきさえすれば、誰もが本来持っている

全生活を司る未確認なものも含まれる全体能力のことだ。


僕らは真っすぐ、まっとうに生きたいと願うが、そうなるようには

できていないし、実相を見れば不可能にさえ思えてしまうから、

そこでは絶対支配を願う者、追従の安楽を願う者、人文の理論を

信じて悪でもそれを願う者、そして、多くの平和を願う者、人との

信頼を願う者、自由を渇望し願う者、当たり前の平穏な生活を

願う者、とそれぞれが考えたり、突きつめたり、それぞれの意見や

感情、希望でこの世でのあり方を想定している。 

それがわかっていて、どうしてそれが一つの答えにまとまらない

のか。それは逆に、それの答えは用意されていない、もしくは

答えが多すぎるかもしれない。ほんとうに目的がひとつなの

だろうか?それが一つになったら、達成されるのだろうか?

なぜカトリックはプロテスタントに分離したのか?イスラムが

スンニ派とシーア派とに分離したのは、つまらない後継者

選び方の意見の相違だったのは、なぜなのか?

世界平和はもう何世紀も標榜されているが、それ以前から

戦争が1秒でも世界のどこかでストップしていたことは歴史

にはなかった、それはどうしてか?平和が守られないから、

法律は10個ではなく、数万と記述されなくてはいけなくなった

のではないだろうか?法律が守られなくても、それがふつうに

守るべきと皆が心得ていたら、複雑な条文は必要ないのでは

ないだろうか。もう、答えはこの中にある。そして、渦巻いている。

あちらが立てば、こちらが立たず、という見せかけの中に埋もれ

ている。答えもその肝心な「それ」も埋もれてしまっている。 

掘り返すことはできるが、それでは半分の答えになる。役に立つ

ためには自分を知るという答えから照らし合わせる必要がある。

僕らは世界という砂丘で答えを目の前にして、どこにもない

安楽を求めて、しかたなしに徒党を組んで砂丘を彷徨い歩い

ている砂漠の商人のようだ。

手を汚して掘り起こし、水を発見する人は少ない。それでも

人は生きなければならない。だからこそ僕らは自由で平和で

ある自身を手に入れなければ、と。そうである人間として

出発しなければ、と。僕らは迷わず、初めから自由で、 平和な人間であらねばならない。そうなるのではなく、

たった今、この今、この初めから。


この意味がわかることが、自分を知ることのその先、でもある。

たいそうなことを言った。でも、僕はそう信じている。知っても

いる、と。


また暗雲を予感する。悲しみが来るだろう、そして、愛が。 

君が視界に入ることはないのかもしれない。僕の姿が見えそう

になったら、知らせてくれ。 待っている。 






**
これは明らかにメッセージだ。

そして、僕は僕がなぜこれを書くのか、書いているのかを

知らない、ということ。これ以上言っても無責任になるだけ

だろう。書いた内容がわからないのじゃないから。

必要だから書いた。今はそれでいいだろう。
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