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宇宙空間の旅としての自分 [自分]

宇宙空間というのを想像すると、細かい危険な漂流物は

思ったよりも多い。恒星・惑星・衛星も少なくないが、傍を

通過するには遠くて、睡眠中に通過するとか、それは冷凍

睡眠だろうか、SFではそれを避けるためにワープ航法が

実現している。 

宇宙空間ではどうなるかという実験をしていると、忙しく

て遊ぶ暇もない。が、それがなければ案外、暇すぎて

いくらでも退屈できるのではないか。ほとんど自動で

環境は整えられるから、なにか船外作業でも生じなければ、

やはり寝るしかない、という。 

これはお年寄りに最適の環境だが、知的な老化の個人差が

あるから、それ以外はアンドロイド化の技術がカバーする

だろう。 

大きな窓ではないだろう。その窓から黒い宇宙空間を眺める

と、そこは深いと思ってもすぐに浅いのか、深いのかの区別

がつかなくなるのかもしれない。同じものを見続けるから、

退屈するだろう、とその場にいない僕らは想像するが、僕は

最初は惹かれると思う。ダーウィンはいろいろとビーグル号で

島を訪れたが、船から見るそれらのなにもない荒涼たる砂漠、

数えられるほどの立ち木とか、草、そんな砂漠を見て、ダーウィン

は惹かれたそうだ。まだ23歳くらい。何もない、ということが

人を惹きつけるものがあるのを僕はこれを読んで知ったし、

思い当たる気がしたのだが、どうしてか、とは考えなかった。

考えるまでもなく、それは非日常で、異常であったから、それ

が人を惹きつけるのは、当然と思った。それは僕の経験から、

特別にそう思ったのかもしれない。それは当時はわから

なかった。 

だから、宇宙空間には最初の経験では想像してもわからない

異常な感覚に誘われる可能性がある、と僕は考えている。

例えば、高山にしても空気や空の青さが違い、その開放感

からして山岳写真を見るのとは大いに違う。人によっては

別世界の絶景に出会ってしまう。しかも、そういう機会は

ほぼ二度と訪れないと、山行を重ねるうちに気がつかざるを

得ない。一期一会なのだ。 

なので、宇宙空間にま向かうということがもう体験になり

やすい。月へ降り立った宇宙飛行士は神が導いていると

感じたそうだ。そうして導かれるままに行くと、そこに石が

あり、それをサンプルに持ってきた、と回想している。

それが現在の月の石のサンプルなのだから、彼にとっては

ただの石ではなく、一種の宗教体験なのだ。彼の人生の

一部になっているだろう。

それは心を俯瞰した側から見れば、僕らの日常が実に

狭いもので、単純なことが単純さという僕らの定めた概念に

収まっていて、それがいかに破れ難いかを現わしている。 

それは僕ら自身が、むしろ社会経験が主因となって、僕ら

の生活をそこに閉じ込めている、ということなのだが、それが

知(判断)と自己とが連動しているために、僕らの思考からは

僕ら自身の思考を十分に客観的に見ることができない。そこ

から来る、一種の錯覚と言っていい。

仏教で一切色=夢である、というのはそれか、それに近いこと

を言っているのではないかとも思う。 

そういうことから抜け出すためには、非常識な方法になるのは

論理帰結からも当然なわけで、退屈なことをするのも納得

できる。例えば日常性が壊れるまで、一つのものを見続ける、

とか。ま、やらなくてもいいのだが、一度やると、思った以上に

恐ろしく退屈なのを発見する。そこでやめてしまうのが、オチだ。 

僕らの生活は意識を働かせて、そこから自然の仕組みを発見して

それを応用して、生活に役立てることで生き抜いてきた、と思って

いる(文明文化)。実際は地球規模の偶然がホモ・サピエンスを

環境保護したので、他の人類は絶滅した中で助かって生き延びた、

というのが僕らの真のきっかけなのだが。 

地球のスパンは人間には長く、そんなことはとうに忘れている。

近年まで60年の寿命が80年に延びても、地球からすれば

数秒、長く生きられる、というくらいだ。僕らの単位はせいぜい

10年で、それをひと昔とか、ひとスパンと思っている。 

その10年で周囲がいろいろ激変しているように見えるから、

そのスパンでものを見る習慣になっている。習慣になったこと

には気がつかないようになる。僕らは忘れ去ろうとして、短い

時間に逃げ場所を見つけるのがうまくなっている。それは

それで役立つ。そういうくらいのことで後々害がなければ

それでいいに違いない。  

つまり、人類全体で全体の心に見えないゴミを増やし続けて

いる。現実のごみ問題がどうなっているかを見れば、僕らの

心のつけもどうなるか、予想がつくだろうが、環境問題の

ように差しあたっては害は見えないから、後回しにされる。 

しかし、それをもって反省の機会にする人は限られるだろう。 

それは僕らがそのまま自分を顧みないことから起こること

なのだけれど、それは戦争も暴力もその動機やこれまでの

経過という歴史も、すべてが集約していることを感じ取れない

ことから来ている。すべてが「自分」という根本も社会(世間)

もそれらは概念ではないし、誰の考えでもないことだ。

目の前の事実を見ないのは、そこから来ている。 

自分のあり方がそれに集約しているのは、概念的に誰もが

納得できるのに、それを体験的に自分のこととして考える

行動体制を取るには、やはり身近な体験しかない、という

事実がいつも見逃されている。 

生は死の補完を必要としている。戦争体験者が戦争絶対反対

を必ず訴えるが、未体験の僕らの反対は概念的訴えで、絶対

ではない。それは小市民的訴えに貶めて、国家では戦争の善

を論議する学者・論者・政治と大同小異のようなものだ。アメリカ

で銃乱射事件がいくら起こっても、銃規制は遠く、その製造や

販売の関連会社に勤める社員は全員、銃は身の安全を守るもの

だと論を擦り変え、声をそろえて主張する。彼らは家族を守って

いる(給与を出す会社を)つもりかもしれない。 そういう欺瞞自身

である自分を見ないか、認めていないのだろう。 

自分とはあなたのことではない。自分というものはあなたが

作った、世間=親とか知人友人とか、組織・共同体・法律・規則

とかと共同でつくった仮想本体だ。あなたの頭の中にある。 

それが生活や日常という世界を中心で操作している。

政府が後手後手なのは、政府が悪いというよりも、政治家自身が

新しいコロナに対応するには今までの出世体験や利権体質と

いうものから離れられない政治世界の自分=世間・社会を引きずって

いるからだ。それは日々古くなる体質という固定化の方向でしかない

概念世界だからだ。彼らにとって、自分とはつまりその役職や身分の

代弁をする仮想本体のことだ。それを立場、というがそれが主観で

あるために国民・市民を客観的に見れないことは、すぐに見て取れる。

それも全員が全体で、というのでもないし、どれくらい、というのでも

ないから、話はそれる。平均を取って、仮に半分としよう。

半分の政治家・官僚が心の半分でそれを中心にそう思って、互いの

保身のためにかばい合い、税金などを合法的に流用したりしている、

という結果がこれまでにも十分に予想がつくということだ。公文書の

書き換えがあったが、ということは信じられないことだが、その

「自分たち」の体質の中では当然のすべきことになってしまって

いるのだろう。 



(今日は晴れていて、窓からの眺め(景観)は大してよくはない

のだが、電線とか見えて、棚引くもくもくとした白い雲は、なんと

美しいのだろう。)


あなたは自分ではない。それから自由に、また自在になるには

それは敵を知ることから始めるのではないか。敵は自分なの

だから、自分を知るところからが筋だと思う。それが考えの

結果だが、”僕” もそう考える。僕は生と死の二重の層を

意識として生きているから。

まずは宇宙空間を旅して絶望的に退屈してみてはどうだろう、

もち、冗句だが。(笑)

愚陀仏庵.JPG


2017年 6 月撮影。

処は愛媛県松山市、道後温泉に近い松山市立子規記念館。 

漱石の下宿だったのか、漱石は愚陀仏庵と言っていた。

正岡子規が一時同宿して、俳句仲間や新しい日本語をひねり

出していた明治の漱石・子規の青春時代だ。 

庵をそのまま記念館の何階にだか、移築した。これはどうしても

中で坐りたくて、観光客に撮影してもらった。 漱石気分で、満足。


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