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完璧につぶやくなら [つぶやき]

書きたくない気分が、誰にでもあると思う。そういう時は

書かない。そうなのだ、それがいい。 

僕は自分がわからない。わかろうとすればわかるが、

それをサボっている。それで自分の気分を無視してしまう

ことも多い。苦しみや悲しみのネガティブなものが強烈

なのは、自分の内にいれば通常のことで、自分の外に

いれば、それほど強いインパクトは受けない。だから、

寂しさというのは弱いインパクトなので、なかなか感じる

ことができないでいる。悲しみがマイナスにならないのは、

マイナスにならないのではなく、インパクトが弱いからだ。

悲しみは普通の寂しさ程度にしか感じない。これは心を

閉じても同じ現象になるが、それとは違っていて自分から

離れた位置に心の中心があるからだ。そんなことができた

理由は聞かない。いろいろと困難に対して心を工夫する

過程でいつのまにかこうなったのだから、できるかでき

ないかという問題ではなかった。 

これは内容とは違い、見た目は精神的にタフになること

だろう。実際は多少はそうだろうが、と思うくらいで舞台に

立つ役者の苦労工夫を知っている本人としては、それ

ほどタフになったとは感じていない。 

ただ人とは異なり、自分という枠から距離を取ることが

どういうことかわかっているので、その点での便利さ、

有意性があるとは感じている。それでブログを書くのを

嫌がる自分を無視することができる。書く主体が自分で

なくていいからだ。最低限の知性を働かせれば、それは

できることだ。体があまりに疲弊したら無理だろうが、気分

については変えられる。そういうポジティブに変化させても

そこからの気分というのはあまり選択できない。やはり、

自分に任せるほかない。そこらはあいまいだ、認識して

いない。 

書きながら、なぜ書いているのかわからないので、なぜ?

という意識がバックにありながら書いている。こういう精神の

軌跡がなにかであると、信じたいからまずそう思うことを

前提にして書いているのかもしれない。いつも、書き終わって

からわかればいいのだ、書き始めたら終わりを感じるまで

書けばいいと思っている。同じことを読んでいる人は飽きて

きただろう。

最近は緊張感がなくなってきたので、わかりやすく書いている

ことが多い。それは人の通常の考え方に合わせて(=おもねて)

書くということなので、説明のうまい先生のようなものだ。授業は

よくわかった気がしたが、いざ家に帰って復習しようとしたら、

できない。わかったつもりになっただけなのだ。算数でもやはり

自分で苦労して解いた問題は類似問題が出てもすぐにわかるが、 

一度でも解答を見ておいて覚えないと、問題は解けない。 

そのためにどういうインパクトが必要かと緊張したが、当時は

その緊張の元がそこにいたからそうでなくてはいられなかったが、

今はその束縛がない分、楽に流されてしまうのだろう。いつも

どおりに思ったように書いても、その気分がそのまま文章になる。 

ほんとうにおしゃべりになった。 

そこらあたりがこれからの課題なのかもしれない。 

標準を立てるという習慣を捨ててしまったので、こういう時の

方針の立て方がわからない。面白い。簡単なことのほうが

わからなくなっている。知的サンプルは山ほどもあっただろうに。

それでも流されないのは、流れるものを見ている側にいるから

だろう。まったく基準がないことはないが、それは見えていない

くらいに少ない。道というものがないのは知っていたし、仮に

そう呼んで示したことはあるが、それがそのままになったのだ。

方向に迷う?今はそれがないようだ。今日は。 

さて、今実際に何についても話していないことは知っているが、

それは初めからだったのだろう。 

ここまで書いても新しい地平が切り開けない。日も変わって

しまった。 


彼は言うだろう。 彼は言わない。 彼は思った。 彼は思わ

なかった。 彼は提言した。 彼は提言したくなかった。 

君は どう思う?  それともどうとも思わない? 気にして

みて カイワレ、   どうにも可愛くないね  

できるなら 悲しくなってみて    というのも おもねてる

僕らは説明できないものに囲まれているけれども、どうも

それが説明されていることで、安心しているようだ。 

それで分かったつもりになることが大事で、わかった、で

なくてもいいんだ。 そこに有意義をもたらしたくて、やれ

事実とか、現実とか、それで言い足りないと、証拠とか、

真実・真理とか言い出すけれども、それもレッテルになって

しまっていないだろうか? レッテルではないそのものに

動かされる時、僕らは錯覚を除いて、それを感動と呼ぶ。

経験と呼ぶ。 それが本当だったと、それらのレッテルで

名前をつけるけれども、それが感動していない者には名前

が伝わるだけだと、気がつかない人が多いのは、どうした訳

だろう?

またくり返しに戻ってきてしまった。僕の頭の回路もそんなに

パターンが限られてしまってきた、ということか? 

もしかしたら、これは認知症の前兆の、そのまた前哨戦の

ようなものかもしれない。ここから何かしないと、そのレール

を歩かなければならいとか、と考えると一定に刺激的だが、

まだまだるっこしく、どうも眼は覚めないようだ。 

どうもここまでくると、こういうことのようだ:: 

自分から離れることを知ると、楽になる。自分に向き合わない

からだ。そうなるまでは楽なことではなかったが、そうなってから

はそうするのが楽なのだ。この楽さはハッピーでもあるから、

こうして書いていることもハッピーなのだ。それで本を読んだり

なにか実社会のことをするのはどうしても自分に向き合わねば

ならない。それで気分に関わりなく、こうして書くことで今の

気分を楽しむことができる。これって、普通の人が楽に流される

ということとまったく同じことだ。僕が社会には流されないかも

しれないが、今の自己内部の状況には流されている。そういう

ことだろう。ここから反省して、また始めよう。

ということで、またやり直し、ということで。 (僕の生活は

この調整と呼べるような精神の海に浮かんだ状態なのだろう。

これは僕らが日常に無意識にしていることを意識化させて、

できるだけ”僕” を意識に同一化する作業なのだと、その実態

についても考えてみるのが今後の課題か)



スルーするもの、 スルーしないもの  

僕が 「そこ」 であるもの、  ないもの  

なにか  詩的に 終わりたいと  考える  

ここで  心を  切り替えるのだろうか  

やめておくのだろうか  

なあ、  もう いい加減にしないか?  

な、  僕 

いいんじゃない? 

君が そうなら  

孤独になりたがる 必要もないし  

寂しさを  恋しがるのも  

いらないんじゃない? 

無理に  人間らしさを  求める、

それも  ないんじゃない? 

ああ、  僕よ  

いい子に  ならなくても  

いいんだよ  

その必要さは  自分が  引っ張っている  

だから、

君が  それに  無理するようなこと、  

じゃないんだよ 

もう  しっかり  見えているだろ?
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