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誤解と理解の前提をいう [知の思考]

脳というのは雑多なものだ。雑多だが、どんなものとは言えない。

それだけ解明がされていないのだが、それにしてもひとつの

世界では、ある。 

脳の一番の機能は地図を書くことだ。それは具体の地図もあるが、

主に、もの・ことの様相を概念化して、区切りや枠を与えて、現実を

別のもの(=概念>数式や論理)で比較して表現する。ほとんどは

その国の言語が使用される。

わかる、というのは意味深な言葉だ。理解するというのは、もの・ことを

実際に概念化して現実と分けることだからだ。この「分ける」が理解する

という「わかる」になった。例えば、僕らの体を細分化して調べれば、

何で構成されているかがわかり、体を理解できると考えるようなものだ。 

だから、古代では原子という見たこともないものを、想定して物質の

極小の形だと考えてみたのだ。 

それは海は水からできているから、酸素と水素を突き止めれば、海の

正体がわかる、と考えたのと同じだ。

それはわかるということを、ほんとうに明らかにしたとは言えなかったが、

物質を実証的に役立つ形でうまく固定化させることができた。それは

概念化のことを言うのだが、その結果はいつも一面を固定化させただけ

なのだから、実際にその法則を利用しても現実の物質の性質が邪魔して

実用化するためには、様々なトラブルを解決しなければ、冷蔵庫も洗濯機

も生まれはしなかった。が、その着火する役目は果たせたので、化学・

科学は数学の概念を利用して発展をした。青写真から製品までには

いろいろなトラブルが発生するのは当然のこととして、本質の問題とは

捉えられることはなかった。 

だから、僕らは科学や数式を信頼している。数千年前の算数からでも

子供に教えている。その基本概念がないと、それらで作られたそれらの

機械や規則を理解できないからだ。もの・ことが本来そうなっている

からではなく、僕らがそういう風に使うものを作り、ことをそう言う論理での

規則に定めたからであり、自然界も大まかにとらえられているように見え

るが、それはそういう言葉がないと話が通じないのと意味は変わらない。 

僕らはこれまでにどれほどの風景写真・画像も撮って来たし、どんな

映像もCGで作り出せるにもかかわらず、やはり、自然の新しい映像に

惹かれ、それを信じて、カメラでそれを捉えようとする人は後を絶たない。

もっと見える人は画家として、同じ花を40年も描き続けていたりする。 

この動き、変わりゆくものを見るのが楽しみであるのは、本能とさえ

思えたりする。僕の父は認知症になって、おかしくなってもしばらくは

窓の外の車やバスが通り過ぎるのを眺めるのを楽しみにしていた。 

自分の視界を遮る場所に同じ認知症の入所者が坐ると、怒って

どくように文句をしたものだ。 

今は科学は理論物理学が花形で、それはマクロ(宇宙)を扱う

相対性理論とミクロ(素粒子)を扱う量子論に二つに分かれた。 

アインシュタインは量子論を初めから知っていた、半ば作った一人

だったが、粒子の現れ方が確率でしかないことを認めたくなかった。

それで二つを統一する理論を晩年まで探っていたが、見つけられ

なかった。 

僕にはこの分離した理論同士は科学の成功した形ではないかと、

予測しているが、半分だ。 僕らがそれをほんものだと錯覚する

ためには、視覚映像なら簡単だが、視覚映像だけでは僕らは

実感をもてない。ただ種明かしを見せられても、まだ混乱してしまう

だけだ。自分の手足を隠して、マネキンの手足を見せて、実験を

用意する。自分の手足を触覚で、つまり、偽の手足と同時に触って

錯覚を起こさせると、偽の手足に危害を加えようとすると、恐怖が

走る。

それは自分の手足ではないのが見えていても、触られた後では

錯覚だとわかっても呑み込めないのだ。実感を基にして、錯覚を

疑えないのだが、その恐怖は起こる。すると、恐怖は頭の錯覚で

実感ではないこともわかる。 

僕らの触感や情感はわかる感じが違う。脳は、たぶん、その

どちらかを利用しないと、実感を想像させられないのだろう。

それでも視覚の世界のことで、犬も抱いてみないと、その筋肉

や体毛の質感、柔らかさは感じられない。そして、それは映像・

画像よりも僕らに「犬」を強くそのまま感じさせる。画像はまず

吠えないだろう、鳴かないだろう。その情感のある動作の何とも

言えないものを、人に伝えないだろう。 

わかるというのは、そのものを別の形(言葉)や映像にして

視覚や夢(脳のあいまいな映像)として記憶させることだ。悪く

すれば、同じ言葉で幾通りもの解釈を許す言い方をすることも

できる。 

それは同じことを聴いたり、読んだりしても、およそ同じとは

言えても、似ているが微妙に違うからまるで違うまで、様々な

理解を生んでしまっている。だから、よく言葉だけで理解するのと、

ほんとに理解するのは違う、とか言われる。聞いてわかったと

思った授業を家で復習したら、わからなかったということがある

のも頷ける。 わかった気になったのは言葉だけだからだが、

小さなけがでも痛かったら、記憶から抜けることはないだろう、

しばらくは。痛いのは「わかった」よりももっと直接な体験なのだ。

嫌でも痛いと「わかってしまう」のだ。

細々と書いてきたが、要は僕らはわかったと、わかった気になった

とは区別できていないほど、日常では聞いて、読んでわかった気

になっているということではないか。

ほんとうにくり返しくり返し、同じようなことを書いている。 

本を読むというのは、僕にとって他(人)を読むということだ。それは

困難に足を踏み入れることを意味している。脳や感覚の世界は

広いので、僕は大まかに書くために、その全体像が欲しい。

全体を知るには、多方面からの検討がどうしても必要だ。それで

1冊の本を読むとは、大抵30冊の本を資料読みするというのに

他ならない。どういう意味で著者はそういうことを言ったのか、十全

に書かれていれば、読めば必ずわかるので、読むしかないだろう。

僕の読んでいる1冊はこの世のすべてを知る、という1冊なのだ。

それは人間を本質とする。

となれば、僕が本の読後感想をあまり書かない、いや書けない

理由も想像できるのではないか、と。

ひどい理由だ。世界の、地球の歩き方から病院選び事典、理科年表

から世界史、昭和史、野に咲く花、動物行動学から周恩来秘録とか、

挙げるときりがない。トンパ文字とかウルドゥー語やカタルーニャ語

などあまり聞いたことのないものも好きで、購入してしまう。 

僕らは誤解から離れられない宿命を背負っているようだ。それが

「わかる」ということだからだ。どんなに良くても鏡にそれを映した

くらいで、それでも鏡ならどうしても逆さまに映る。知は僕らを

自然のもの(表現できないものも含めて)から頭の中に別なもの

を投影させるから、それ自体が「そのあるもの」からとは違うもの

なのだが、それを判断する形で獲得することを「わかる」という

ことにしたのだ。それがそのまま、本当も嘘も「わかる」、という

誤解(=認識・世界観)になったのだが、それは学校で教えて

いない。教える先生もその誤解の中に子供のころから染まった

のだから。 

僕の言うのは、わかるというのはモノ・コトの理解の一側面を

担ったもので、モノ・コトは僕らのモノ・コトになる。それは理解

されれば、その人のその現時点でのすべての正解になる。

だから、真実を語る、というのは厳密に、また実際に私の真実と

認めたものを語る、ことになる。真実そのものは、ない だろう。

どのことの、なにについて、どんな時の真実についてなのか、

そのほうが重要だ。より客観的に迫って、距離が縮むからだ。



どうだろう?こんな処で今まで言ってきたことのより理解への

手助けになっただろうか? では、よろしく。



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