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あの頃は日本人をやめようとしてた [日本人]

午後に起きると、雨は霧雨になっていた。霧は濡れるよう

には感じないが、霧雨は濡れる。そう思って人は傘を 

さすことが多い。買い物に出かけたが、手に傘を持った 

ままだ。山の感覚に切り替えると、傘をさすほどじゃない。 

多少、濡れればいいだけだ。メガネも濡れるが、視界に 

影響するほどではない。急に本降りになる様子もない。 

時々、午後まで眠る。たった数%の、しかもコップに 

半分ちょいのアルコール分量で起きられなかった。  

このところ、肩や肩甲骨周辺、背中が凝って、疲れが 

取れなかった。いろいろ方法はあるが、アルコールを 

普段飲む習慣はないが、飲むのも一つの方法だった。 

疲れているほど、効く。起きると、ぐったりしていて、 

成功だ。疲れが外に出る、という言い方をしているが、 

こうなると大方の疲れは解放される。 

実際に信号を渡っていても、足と上半身に力が入る。 

海外での緊張した時間を、ピンポイントで思い出す。 

筋肉細胞に記憶が溜まっているのだろう、疲れが出ると、 

一緒に出され、思い出すようだ。  

しかし、この方法は僕にとって有効だが、反面運命を 

わずかに狂わせるようで、被害はないが、ちょっとした事故

に遭う。またはかすり傷程度の怪我をする。それであまり

飲みたくない。 

僕の運命は、体は好きな割に、アルコールと相性が悪い。 

それでも疲れをためっぱなしのほうが後々、害が大きい

ので、今のうちに出してしまうほうがいい。 

霧雨のせいで、小さなスーパーの前には駐輪場に自転車 

は一台もなかった。その代わり、8台くらいの駐車場が満杯

で1台、車が空くのを待っていた。近くに第2駐車場がある

のを、知らないのか、面倒なのか。 

帰りは霧と霧雨のことを考えていた。日本人は感受性が 

細やかでそのため言葉も豊富な言い方があると、よく 

言われるが、霧と霧雨もそうなのか、と。 

帰ってから調べると、英語で霧雨は Misty rain , Drizzle/

Drizzly rain があり、霧はhaze , mist , fog と3種類あって、 

例えば、霧雨でmisty はぼんやりした感じで、霧に近く、

drizzle は細かい粒がパラパラ落ちる感じで、それぞれ 

感性を感じるので、それほど相違があるようには思え

ない。ただ雨の種類についての表現はどうだろう? 

と思ったが、大変な作業になりそうなので、調べるのは  

やめにした。  

感性よりも考え方がどこから来ているか、という意識の

由来を調べるほうが有意義な気がした。 区別を強く 

探るのは、差別を引き出し、強いては差別の考えを 

作り、押しつけそうで危険な気がする。方向が悪い 

ときは敢えて無視して放っておくのも有効なのだ。 

日本は文化が世界から入ってきているが、偏向も 

している。ほぼアメリカ文化が中心で、中国、インド、 

他のアジア、中東文化は入ってきているだろうか? 

入っていても、それらを巷で目にしただろうか?

ヨーロッパ文化が次に多いが、それでもアメリカに

比べれば少ない。むしろ、一地方都市に代表される 

文化の一部だろう。 韓国ドラマや中国映画にしても 

ある主張の一面が表に出過ぎていると感じる。

それで日本は精神的に全体ではアメリカナイズされ 

ている、と言えるのだが、自分で気づいている人は 

どれだけいるだろう? もう僕らは普段、着物を着て 

街を歩くには勇気がいるだろう。成人式とか卒業式とか、 

そういうパーティに出る時とか。どうしてだろうかと

問う時、思い当るのは見慣れていないことだ。注目 

されるだろう。そして不便だということだ。洋服の 

ほうが機能性に優れていると、勝手に思っている。 

どうしてそう思うのかと、それは洋服に合わせて 

生活が機能しているからだ。それに合うように 

備品が作られて。 

トイレは洋式だし、道は舗装でコンクリだし、椅子 

だし、床はフローリングだし、なによりテレビのCM 

で贅沢さは日本家屋や日本の伝統製品ではない。 

すべての設備が家電・工業製品で建築材も同様 

だ。そして、おまけに畳の部屋とか、伝統の工芸

や様式を一部に取り入れるが、それは趣味であり、

年寄りへの気遣いであったりする。 すべてが 

西洋式の中に生活があり、それを誰も不思議に 

思わないくらい、僕らの意識に溶け込んでいる。 

そして、無意識が家の周りや庭を植木や花で 

満たしている。もっとも、落葉の激しい一本だけの 

樹木は容赦なく、切ってしまうようだが。

僕は日本家屋を推奨したり、和服を日常にも、 

と勧めたいわけではない。日本文化を見直そう、 

とかも宣伝したくない。どうしてか、それで皆が 

日本の伝統や古代博物館や展覧会に行って、

過去を眺めても意味があるとは思えないからだ。 

そうではなくて、見直さなければならないのは、 

自分自身ではないのか、という。今の日本人と 

いうアイデンティティを失っている自分に気づか

なければ、何も変わりはしない。 

それがどうした、とも言わない。それはそう思える日

が来た時に、そう思えた本人がやがて、どうするか  

決めることだからだ。 



僕が日本人に芯とか核がないと思えたのはいつ

だったろう?昭和の受験戦争を一番味わった、団塊  

世代だったろう、友達もお互いに敵同士だみたいに 

受験に向かう空気にバカバカしさを感じていた。 

親がこうも(当時も食いっぱぐれのない)大企業・政府の 

公務員志向で、そのための大学受験だという、この 

システムになった受験が僕らの文化精神を失わせたと、 

その頃は勘違いをしていた。

それで考えたのは、日本を離れることだった。という 

よりも日本人をやめることだった。そういう空気に 

未練はなかった。自分が日本人だという自覚が 

なかったから。  

卒業して、インドへ行った。インドの郊外の空港に 

降り立った時に、それほどの熱風は感じなかった。 

初めての海外で緊張していたせいもあっただろう。 

そして、迎えの人とタクシーに乗って、カルカッタの 

市街へと入ると、もうその前からその雑多で汚れた 

街並み、野良牛、カラスの群れ、破れたポスターの 

どぎつい原色、怒声、きつい眼つき、人々の雑巾の 

ような姿から、日本をこんなにしてはいけない、と 

すぐに思ったのを覚えている。これが自分が日本人 

である自覚を・覚え・始めた、その最初だった。まだ 

そうは気づかなかったが、 ・・・。 

海外へは第二の故郷を探すという、つまりこれから

自分が暮らす国を見つけるという目標があった。 

それでインドはいの一番に落とされたわけだ。 

それは貧しさだった。貧困を越えて、貧窮の民が 

あふれかえっていた。法治というものがないのも 

横行していて、それが秩序を重んじる日本の常識 

からはかけ離れていた。しかし、ある程度はインド 

の知識があったので、貧しさについては予想して 

いた。そして、やがて各地を訪れるについて、それ  

の本当の貧しさの連鎖がどういうものかを、骨身に 

染みさせられることになる。 

いろいろ日本も経済的に浮き沈みして、その時々の 

状況はあったが、まだ日本に気づくことはなかった。 

高校生の頃に、アメリカのフォークソングが流行って、 

それを歌っていたら、同級にアメリカかぶれだな、と 

言われた。アメリカかぶれは意識もしていなかった 

ので、それなりのショックがあった。そして、フォーク 

ソングの歌手は一般から出てきたものが多かったので、 

中にはメロディとかで日本(の心)を求めるほうに 

転向する者も現われて、どうして日本なんかに回帰 

するのか、不思議だった。退屈な歌舞伎、戦前の 

国粋主義とか恨み泣きの演歌の国であるくらいの 

認識だった僕は、日本が好きではなかった。しかし、

ある親戚から僕は日本人だ、とまるで典型の一人の 

ように言われて、これもわからなくて不思議だった。 

確かにアメリカナイズしていたかもしれないと、が、 

それでは日本人とはと少し考えた。・・・なにもなかった。 

日本って何だと思った時、僕らはそれを失っていた。 

それ以上、当時はわからなかった。 

それから40年以上も経って、無意識との交流が 

(表面では)なんとはなしに、(内面では)確定的に 

起こって、それから5年もしてから、それは何なのか、

遺伝子?DNA?脳細胞の一部?皮膚?脂肪? 

その他?それらの変化のためか、過去への記憶の 

襞に滑り込み始めた。 

微妙な隙間から、過去の人たちの感覚が意識に 

昇り始めた。それは鏡を見るように自分を日本人と 

見ることと同一だった。期待も予測もない。突然の 

ように徐々に見せられ、この日本人の自覚の実態を 

知りたいと思うようになった。 

もう忘れていたが、日本人をやめたいとかは、ただの 

無知が言うことだった。母の記憶、父の記憶、祖母の記憶、 

祖父の記憶、そして、もうそれらも含めて誰の記憶かも 

わからない大きな過去の日本というものが、浮かび 

上がってきた。それが全体としての、また全体につながった 

自分だった。自分はひとりではない、というかすかな自負 

は消えて、自分はほんとうに一人ではなくなった。孤独 

だろうが何だろうが、自分は全体として、日本人として 

あった。それがまるで許されたという感覚で、あるの 

だった。僕はただ一人、ここにあるのではなかった。 

それが結びつくとは夢にも思わない、古くから迎えに来た、 

それが新しさになった新・自分がそこにいた。 その決定 

の時期がこの数か月に、そこまでの期間は3年くらい 

あったとはいえ、凝縮されてあった。高齢者になるまで 

生き延びなければ、日本につながる縄文の実感はなかった 

だろう。ただ生き延びても、この実感はなかっただろう、 

また体を無理していたら、生きてはいなかっただろう。 



― という、わずかなことしか今は言えない。このことから 

予想もできないだろう、あまりに多くのことが導かれるし、 

その予測もあるが、それこそ荒唐無稽という、昔の言葉  

に言えるとおりだろう。まだ独断は早い。 

またこれが、僕の日常のしあわせの理由であり、孤独に 

なれない理由であるだろう。  

こういう時は気が大きくなるのだろうか。アマゾンで10冊 

くらい本を注文、今日までに届いた。中古書店でも8冊 

くらい購入した。累計、5千何百冊。もう本を整理できる 

スペースのキャパは越えているので、もう本を買わない 

ようにしようと、誓ったのはいつだったか、思い出さない 

ようにしよう(笑)。
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