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サーモスタットのさみしさ [気持ち]

この 静かな さみしさは なんだろう? 

ここにいるよ、 と  

言ってあげたい 人は  誰だろう? 

君を  待つのに  疲れてしまったの 

だろうか 

まだ  桟橋を 離れる客船の  音を  

海に  聞いている 気がする  

霞がかった 青い色が  流れてきて  

それに  包まれることも  なく  

宿の窓から  眺める  旅人のように  

今日の 別れを  越えようとする  

そうか  今夜は  

君のほうが  待っているんだ 

君を  遠ざけている  のではないのに

僕の  なにが  そう思わせるのだろう 

いつも  

わからないのは  この 僕の 気持ちだ 

捉えどころなく  休みなく  

考え続けている からだろう  

山を越え  谷を越える という 

君の想いが  あるのだろう 

サーモスタットで  温度調整するように  

君との 間隔が  測れればいいのに  

一方通行に  ならないように  

また  君との 朝を  歩きたい  

あるはずもない  雲海が  

ひたひたと  二人の足元を 

流れれば  まるで  

雲に乗ったように  ごきげんだろうね 

たまには  古いワルツでも  

聴いてみようかと  誘いたくなる  



君が来ることが ないと 

やはり  忘れる  

どれほどの 喜びが   あっただろう  

過去は 引き裂かれる ノートのように 

なにも  書きとどめは しない  

朝  眼を覚ますときに  さみしさは 

ないものだ

どうしてだろう、  君を想う 時があれば 

そのほうが  静かに  眼を つむる  

時には  自分を なにかに 捧げたいと

敬虔な気持ちが  湧き上がる 

それは じつに  ゆったりと

坐れる 空想の 椅子のようだ 

僕は  背を あずけて  

果てしなく  坐った気に  なっている 


熱情のある時は  それを手放せない

去るのは  いつも  自分から  

理由が  やがて  わかる  

わかっていたことは なくても  

わかる時は  来る  

それは  素晴らしい 瞬間であり  

自分を  知ることになる

なぜなら  その自分は  離れるから  

ああ  君よ  僕よ  

僕だった  君  

知るというのは  こういう悲しみだった 

それが  あまりに  明らかで 

僕の 魂を  持って行ってくれ 

ああ  愛の君よ  

僕は  何人の  魂から

生かされているのか  

ひとりには  もう 決して   なれない  

それが  知の 悲しみ 

情の  飽和感  

時間の矢 という列車を 目撃すること 

もう  

列車に 乗ることはない  

僕は  これからも  歩いて  

行くだろう 



この 静かな さみしさは なんだろう? 

ここにいるよ、 と  

言ってあげたい 人は  誰だろう? 

君を  迎えることが  できるように  

なったのだろうか? 





僕はたぶん、誰かの寂しさを感じることで

さみしさを感じる人間だ。それが自分の

さみしさであることは、まずない。そして、

そうであってもどのみち、自分の寂しさと

区別ができないだろう。それで僕は

寂しさに対して、他人でいられるのだろう。

感情は根源では万華鏡のようなものに

思える。寂しさも、苦しみさえも、過去で

あってみれば、それはなつかしさに癒され

喜びに感じられるようになる。

現実では自分が自身に囚われるから、

執着し、執着されるが、夢の心の世界

なら、それは十分に可能なのである。
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