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千葉の最南端 [旅]

ドライブ旅行をした。というと、そういうプランがあって友人が集まった(3人だが)と

思うだろう。違うのだ。千葉の友人の家へ行き、どこかで昼飯でも、というだけの

ことが、外房へ行き、海が見たい、と言った一人の気まぐれで外房まで行くことになった。

友人の家は房総半島の中部で、それも北のほうで千葉市もまあ近い。

第一、友人の家に着くのが昼の予定だったが、遅れて1時になった。まあ千葉は広くない

ので、地元の友人に運転をまかせて、外房まで出かけることになった。

面白かった。勝浦に出てみたが、2時も過ぎていたか、どこもやっていない。海鮮

料理とか希望していたが、町を歩いても、夕方から営業で、港の猟師の食堂もやって

いない。それで上総興津の駅前にもどってみると、昔3人でよく来ていたという食堂

がやっていた。なんせ50年以上前の話だ。知っている人や関係者がいるはずもない。

懐かしのかつ丼を食べたが、なるほど味は変わっていないようだ。作っているおばさん

も当時は看板娘だったろう、と友人が茶化していた。それに終わらず、覚えているか

どうか年寄り同士話していた。彼はいつも話の先導役で、この旅行中ずーっと話して

いた。

千葉の最南端の岬に近づくと、そこへ以前行ったことがあると言っていた。野崎灯台

があり、この日風が強くて、最南端は風をさえぎるものがないので、きつく強かった。

入り口に近く、海からの風で体が飛ばされそうで、行くのが危ぶまれた。僕は

風が強くて、嵐が好きな少年だったので、風に呼ばれている気がして、ぐんぐん

歩いて行った。後ろから二人がやめよう、もどってこい、など言っているようだった。

「そこまで」と聞こえないだろうが、言って、そのままどんどん進んだ。

風速20m以上あるだろう、眼鏡が飛ばされそうで、眼鏡を手に持って歩いて行った。

この風でも家族連れが一組いた。

眺めのいい岩場まで来ると、荒れ狂う海は絶景だった。波頭が岩に当ると高い波しぶき

が上がり、離れたここまで水滴が飛んできた。二人も遅れてやってきた。

こういう自然を相手にすると、勝手に興奮してしまう。その力をダイナミックに

感じるからだろう。

この自然に立ち向かう性質は、若い時はやり過ぎることが多く、同じ3人で蔵王に

スキーに行った時も、僕が直滑降をして、無理して右足を膝から捻ってしまった。

骨折医のところへ行き、翌日からは一歩も歩けなかった。2人でスキーをと僕は

言ったが、友人は諦め、その日から2日間スキー旅行は旅館で麻雀旅行に変わって

しまった。

千葉の友人の家からアクアラインを通って帰ってくるのだが、友人の家まで送らずに

小田急線の駅まででいい、と言う。行きもそうだったが、帰りもカーナビは安物で

ルートの再計算に時間がかかる。ひどい時は1分もかかったりする。もう道順よりは

通り過ぎていたり、とあてにならない。それで彼は僕がカンで運転しているのを

知ってしまい、バレていたので帰りはほんとうに不安になった。僕も、「電車の

ほうが絶対に(家に着くのは)早い」と承認するように言った。

カーナビは方向性が役に立つだけで、ちょっと電波が乱れても再計算しはじめる

から始末に負えない。

で、僕も方向がわかっていれば、右往左往も多少のジグザグだと思っているので

心配せずに運転している。むしろ、野崎灯台のようにどこかの最南端というほうが

わかりやすいだろう、と勝手にかまえてもいる。

そんなおっとりした、久しぶりに心も足も伸ばしてみた旅行だった。

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日本の借金の形 [嘘]

ようやく書いてみようと、思う。

全体から書く視点を検討していたが、それに辿りついてみると、最近の借金にまで

進むのに数カ月かかるのがわかった。あまり伸ばしたくないので、ここらで

「財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済」上念司:著(講談社+α新書)

だけから実地の検討をしてみようと。

ポイントは二つに絞る。ひとつは国庫の性格。もうひとつは嘘の事情の推測。

初めに日本経済新聞が2018年度に日経QUICKニュースに挙げている「日本の借金

の額は1087兆円に増加、3月末、国民一人当たり859万円」 というもの。

さて、ここで指摘するのも馬鹿らしいのだが、日経では「財務省は、国債や借入金、

政府短期証券を合わせた「国の借金」の残高が3月末時点で1087兆円になった

と発表した」と言っているのだ。この文でおかしいのは「日本の借金」と言って

いる国債や借入金、政府短期証券というのは「国の負債」のこと(金額)で、

これは日経の他、朝日などの4大新聞でも同じ表示らしい。負債はいくらと

言いながら、資産を言わずに、その金額全部を国民が背負っているという、

珍妙な説明になっている。それで2年前の国の収支しか公表していないのか?

これは日本の大新聞がほとんど発表をそのまま載せているために、国民に

信用されている、という構図になっている。どうもお役所に詰める記者は、

また新聞社も右へ習えをしているからには、それ相当の理由があるだろう。

それには新聞社を動かしている真に実権を握っている、大株主などを背景に

した権力グループをどうも想像してしまう。その背後とかになると、陰謀論が

出てくるのだろうが、それもあやしく、見かけと現実は相当に異なっている

はずだ。

なんにせよ、負債だけではなく、ちゃんと資産も加えれば日本の借金はこれで

半分に減ってしまった。さらに本では、国債による借金は負債に入るが、

日本銀行が(原則ではインフレを呼ぶので日銀による国債の引き受けはしない

ことになっている)国債の引き受けをしている分は実際には借金の性格では

ないという。どういうことか、ここが個人と国の違いなので、説明すると、

要は国は死なないのだ。個人では死ぬので借金は残る。または途中で破産する。

しかし、国は日本銀行に金を刷らして、満期の国債分だけ次々に借金を繰り越し

て先送りができる。そのためには国の収支がいくらかプラスになれば、その分を

返済に回せるので、年数はかかるが、いくらでも借金の先送りはできるという

わけだ。

そして、肝心なのは、金は刷ればいいだけで、それも日銀は国の銀行だ。個人

ならかみさんが輪転機を持っていて、かみさんに借金をしても自分の家で金を

印刷してその国債をかみさんが買い取っているので、借金取りが来て食いつか

れることはない。

そうすると、日銀の国債引き受け、それが発行残高の4割に達したというの

だから、その額358兆円(2017年度)も負債には入らない性格のものだ。

ここで財務省の「国の貸借対照表」を見てみると、本にもある通り、2017年

3月末のもので、2年前のものしか発表していない。でも、話は大きい金額

なので、急に変わることはない。

貸借対照表は会社の会計と同じもので、資産と負債に分けて財務状況を見る

ものだ。家庭の家計簿でもそれを利用はできる。ただ、国と個人ではかなり

内容の事情が違うので、似てはいない。

まず、国の資産合計が672,7 兆円、負債合計が1221,6兆円になっている。そこ

で両方の計でマイナス548,9兆円としている。これが半分になった国の借金だ。

だから、ここからさらに国債引き受け残高の額358兆円を引けば、190兆円が

日本の実質の借金だということになる。

これが政府のプロパガンダ(ある主張の宣伝や伝道の意)である。


これで主要なことは全部示した。が、問題はここから出てくるはずだ。どうして

こんな簡単な嘘が新聞でまかり通ってしまうのか、どうして財務省にこんなこと

ができるのか、なんのためにこんなことが巧まれているのか、また、僕らに

焦点を当てると、このことはネットでも本でも書かれていて大勢が知っている

にもかかわらず、平気でいる僕らはほんとうはどこか腐りはじめてはいないか、

ということにも。

今や20代の半数は国民年金をボイコットしているらしい。国債を発行して

いればいいとは言っても、歳入は増やさないと将来、焦げ付きやすくはなる。

そこで歳入で一番手っ取り早いのは、日本は借金が世界一だから、と脅かして

税金を国民から取るのが確実だ。収入の年齢層の人口は8000万人(推定)

はいるだろうから。8000万人×増税=国庫へ。

北欧では税金で収入の50%持っていかれても、福祉の手厚い保護があるので、

皆文句は言わない。日本でそんな福祉どころか、車検や道路税、相続税など”世界

にはない税金”やその高額差はどんなマスコミも取り上げず騒がない。それで

消費税を上げることにしたのだから、怒るところだが、それも仕方ない、と思う

僕らであってみれば、それも仕方ない、となってしまう。

今の団塊の世代は政府のプロパガンダで貯蓄を勧められた世代だ。ひとつ

前の世代では誰でもが株や投資に狂って、2世代前のバブルがはじけたこと

があった。その前からもアメリカの隠れた指導があって、マスコミは封じ

込まれたし、またアメリカから日本を守るために表向き資本主義だが、内容

は社会主義経済だった、日本独特の護送船団方式をとって大企業と銀行を

守った。昔も今も庶民たる僕らに眼が向いたことはない。それは国民への

機嫌取りが必要な時だけの一時の給付金だけだ。特別会計は一般会計の

4倍あるが、複雑な省庁の仕組みでお金がどこへ行ったか、わからない

ようになっている。

官僚は長い間、この特権を守って来て、政権交代してもその官僚のしくみから

はどこに責任があるのか、官僚同士でもわからない複雑怪奇なシステムのよう

なものが出来上がっている。ま、また天下りを成立させるための資金源なの

だろうが。


こう書いてくると、日本の借金が日本の問題の入り口に立っただけなのだな、

と思われてくる。このテーマはなにか関連が出るのに引っかかるまでは

休むことにする。明治から昭和の戦後まで様々につながっているので、簡単

にはいかない。


*参照
 財務省ホームページ・日本銀行ホームページ財務表。

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知と解剖 概知の~探る7. [思考]

じっとしている。特に、待っているというのでもない。

待つと、早く来ないか、という焦りを感じるが、それはないから。

来るとか来ないとかではなく、なにも待たずに坐って、待つような構えをする。

ずいぶん、おかしな心象の態度があるものだ。言ってみると、今していることが、

一見おかしなことだとわかる。

あまり言わないほうが身のためだということを言ったよ、という本が書かれて

いるが、それが少し増えたかと思うが、そういうことなら自分にも似たことが

言える、と誰でもが思うのではないか。僕の場合は本の直訳的な感想を述べる

ことで、それがとても無駄に思える。自分で本を読んでその感想をいくらでも

持ったりするのはそれなりの良さというものがあるが、それを人に伝えると

いうのは、才能の無駄だ、と。伝えるほど面白く書ける、ということだろう

から、それはどんなに真実とか真理とか標榜して、真摯に書いても所詮は

人の書いたものを評価する、評論するという、二番煎じ、四番煎じになる。

原著でさえそれは一個人の感想である限り、特殊なものである。それをまた

特殊な一個人が色をかぶせて評論するのだから、重ねれば重ねるほど色が

変わり、どんなさわやかな色でもどんどん黒に近づいてしまう。

特に、例えばマルクスの考え方を借りて、ある抽象を論じるとなると、

その著者はどうマルクスを理解しているのか、それによってその本をどう

読み解くのかが変わってくる、というのは厳密な意味でもなく、当然のこと

なので複雑極まりない。それでその論点の欠陥を見つけても、その著者を

批判するのか、マルクスを批判しているのかわからなくなる。

そういうことで読書感想会などで議論になるのはその議論の元になっている

ものからは離れた誰のものでもない論点について議論していることになるので、

そもそも無意味だ。議論する価値などありはしない。あるのはその論について

自分のほうが理解しているというプライドの主張だけだろう。ディベートの

ためにやっているのならいいだろうが、そうでないなら、始末に終えない。

だから、非常に目端の利く哲学や評論を語る人が、簡単に陥ってしまうのは

一人ではどうにもならないが・・、とか自分にはそれだけの力がないとか結論

から次に進まず、悲観に落ちてしまうことだ。

つまり、状況の整理という頭の整理はお上手だが、現実問題としてどうするか

と考えると、立ち止まってしまうことだ。言いたいことは言える、答えは

それなりに出してしまえる。が、その先が暗い。結局、どうしようもない

という結論を抱えてしまうからだ。

これは単純な「知」というものの持つ本来のミスで、思考の世界から行動の

世界へは意識のジャンプをしている。自意識で考えるが、なにかをしている

最中は思考は行動にまつわる計算思考だけで、それもない場合が多く、

ほぼ無意識状態でないと、ジャンプとかの実際行動はできない。ジャンプ

しながら今4メートルだから、あと3メートルで世界記録なのでそこまで

飛ぼう、とか反省はしていない。単に1,2、とかタイミングの計算はするが、

それを組み合わせて、ああなったらどうだ、こうなったらとか考えていては

飛べない。

できないことをしようとするから、それはダメだ、とか自分ではできない、と

なる。反省や頭の理屈からはその否定の結論になるのが決定づけられている

からだ。科学の思考方法はこれと違って、はじめは仮説(反省)を立てて

実験を積み重ねる。この実験(経験)を通して、くりかえして理論通りになる

ものを正式にその理論として認める。それは狭い範囲での経験と仮説との反復

から誤差の少ない理法を発見・確定する作業なのだ。確立された理論は始め

から理論だけで確立されたものではない。量子電磁力学では答えは確率でしか

示せないので、実験をくり返して、理論に修正を加えている。現在、それを

始めてから50年くらいになるというから、驚きだ。

そういうことで知識人や文化人の弱さは、知的結果に寄り過ぎていることだ。

どんな思想も現実問題にかぶせて考えていると、暗く沈んでゆく。知とは

一定の認識世界(概念)を組み立てることであって、現実とは始めから乖離

している。それで自分の人生も賭けてしまうから、自殺も肯定するようになる。

せざるを得ない。そして、自分の頼る現実の妻とか、友とかと死別してしまう

と、寄る辺をなくしてしまう。もう、自分の理論は死んでいるから。

そういう時には、保守とかリベラルとかいった態度は死んだ鎧になってしまう。

正しいことを言っているだけでは、なにが起こるのか実際にはわからない現実

を相手にしていることにはならない。それがどんな答えであっても、その答え

をどうするか、またはどう生かすのか、どう克服するのかが、ほんとうの僕ら

の問題だからだ。答えは重要だが、他人の答えほど頼りにならないものはない。

僕らがひとりひとり出会う問題は一人ひとりが違う人間の対応をしなければ

ならない問題だから、それには半無限のタイプが存在するだろう。答えが

ひとつであるはずはないからだ。その人にはできないことをアドバイスされる

こともあるだろう。

それを本に求めることを考えたら、それは馬鹿らしいことだと気づくだろう。


誤解のないように、以前のことをくり返すが、本やその道のプロが役に立つの

は人間が発明した言語・数・数学・時間・法律・規則というものを学ぶ時に限る。

つまり、漢字辞書や参考書や理系資料や法律全書や時刻表や図鑑や地図やマシンの

マニュアルなどの主にハウツーものの類である。

哲学はその著者の真理との触れ合いの物語であって、それは特に独自のものになり

やすい。真実とかこだわって求めるなら、そこには砂粒ほどのヒントしか転がって

いない。思考の世界でサーフィンして、そのさまざまな哲学世界を楽しむには

いいだろう。そして、どの天才の考える人たちも若い時に本を捨てて、学びに出る

のは、この世間という書物である。その部分ではミケランジェロもダ・ヴィンチも

デカルトもそれを確かめるために人体解剖を行っている。君も、真実を知りたいなら

いろいろあるが、まずは、人体解剖を見学に行くべきだ。

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五島列島の夕陽
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春の風に吹かれる [春]

風の強さ、樹木の斜めに倒れんばかりに揺れるを、見る。

春らしさという、風が目立つのが季節を想わせるのは、面白い。

こちらは窓を少し開けておいたのを忘れて寝て、起きてみると、喉が痛い。

冬ならすきま風はすぐに冷たくて、気づいたものを。暖かさによる風邪を

ひいてしまった。これも春らしい。

駐車場の隣の市民農園が空き地になって、半年は過ぎたものと感じるが、まだ

トランクルームが立ち並んだ他は、野地のまま。駐車場を横切ると、まだ下りた

ばかりのムクドリが早くから感づいて、一斉に飛び立つ。空き地には春の花が

ところどころで咲いている。

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ヤグルマソウ、または矢車菊。

自生ではなく、農園をしていた人が脇に植えたものか、その種が飛んだものだろう。

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近くにあるヤグルマソウの小さな群れ、二つあるそのもう一つ。花弁の欠けたもの、花軸

が折れたものもあり、風のせいでもないだろう。花の紫はただに色ではなく、目立たせる

ためか光を反射する微粒子があって、それが輝きになる。美しいと思うのは、それに

誘われているからだろう。

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こちらは雑草のホトケノザ。春の七草のホトケノザとは違うという。七草のほうは

コオニタビラコといって、黄色い花が咲く。茎が太くて、たしかにうまそうだ。やや

タンポポの葉に似るか。

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漢字の起源というものも、なにかの文献に依らなければならないのだから、ほんとうに

「心」の漢字が発生した、その記述文献は残っているのか、すでに廃棄・消失して

しまったのかと思うと、おおまかに100年単位で誤差を見なければいけないのか、

とも思う。


東風(こち)吹かば  匂いおこせよ 梅の花

あるじなしとて  春な 忘れそ  (菅原の道真)


万葉集の時代では、花は梅だった。桜は詠まれたが、数は少なかった。

桜の花がよく読まれるようになったのは、新古今和歌集あたりからとか。

それでもまだ、ソメイヨシノは生れていない。しだれ桜は見事だったので、

京都でもそういう桜が詠まれた。世界に輸出されて有名になったソメイヨシノ

は江戸時代に植木職人の人だかが品種改良してつくったとか。花が長持ちする

のが受けたらしい。ところが、いっぺんに咲くのはいいが、いっぺんに散る

特徴があり、ここから桜の花の”はかなさ”が生まれた。僕らが習った古典に

出てくる桜は、僕らのあまり知らない桜かもしれない。

桜のイメージは伝統のような気がするが、近年150~160年くらいのこと

で意外に新しい。コブクロや他の歌手が桜を作曲して歌っているが、まさしく

今の時代背景での過去の日本とは違う「桜」なのだ。言葉も変わるが、それより

も自然趣味は変りやすい、ということだろうか。

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人間と人という運命 :概知の~探る6. [思考]

いろいろと糸(意図)をたぐってゆくと、さまざまなものがひっかかる。そのなかで

やはり、気になる重要事項があって、予備知識や思考準備として書いておきたいと

思う。その時思いついたことを、先になって思い出せるものでもないので、多少

時機としては早いが、それよりも忘れてしまわないうちに、ということで。


少し強引だが、人と人間の線引きをしたい。”人”は生物的な時のもの言いで、”人間”は

社会的・心理的なもの言いで使う言葉、だと。

そこで「生命」というと、どちらかというと、これは人に対して行われる方向だ。

学者が人の生命に関心を持つとは、人文学者ではなく、化学・科学者だろう。

人文学者なら、生命ではなく、その生死や生死観について述べようとするから。

人は「ヒト」であり、生命を扱う上で即物的に扱われるが、人間は生死という場合、

生きるのはなぜか、とか、どう生きれば、とか、それは心の問題として、また

社会との関係の上での問題で扱われることが多い。

この時、僕らは大抵、どちらかの見方をしている。ものを考えようとする時に

自分の専門であったり、共感した知識(本)であったり、経験から学んだ曖昧な

感覚を言葉にしたものであったり、それらは勉強量や経験量に数や受けたショック

の深度にも依っているが、僕らはそれらの凸凹の認識(考え)を持っている。

それはこういうことが言える。

僕らは物事に相対する時に、自分の考えを鏡のようにして、その眼の前の事実に

照らして写そうとする時には、そこでもうすでに事実からある規範(考え)によって

取捨選択がされていることだ。これはこう、あれはあれ、とういう大まかだが

分別がされてしまっている。

例えば人が倒れていて、血が流れ出している時に、救急車を呼んでから、あなたが

考えたとして、生命から考える人は血の流れた分量から、助かるとか、助からない

とか考え始めるかもしれない。別の多くの人は、どうしてこんなところで倒れたのか、

ひき逃げにでも会ったのか、と考え始めるだろう。原因と結果について考えている

のだが、双方の隔たりは大きい。

ある評論家の本で見かけたが、海外の革命が起こった騒乱の群衆が流れる眼の前を

記事にしていたが、隣の記者も記事にしていた。それを読んだ時、まったく自分とは

正反対の意見を述べていたので、事実は眼の前にあるのに、と記事を書く気を失って

しまった、と。その評論家と同じに、僕も面白いと思った。

僕らは考えたことでしか、行動できない。車に乗っていても2分くらい走ったあそこ

のコンビニに寄ろう、と考えると、すぐ別のコンビニが現れても、停車せずに、まず

想像で予定したコンビニまで車を走らせてしまう。

これが信念にも近い人生観とか価値観とかになると、妥協はほぼない。だから、自分

の考えというものは、行動を決める指針になっていて、見たもの事を瞬間で選別して

いる。これを生活で想定してみるなら、これが運命だと言っても差し支えないのでは

ないか。僕らがあいまいな考えしか持っていないならば、あいまいな行動しか取れ

ないのだから、それはあいまいな人生を送るしかない。それは考えだけではなく、

ブレない人は考えに昇華していなくても、経験から体が動く。ただ、それは違う、

と感覚・感情的にわかっても、言葉にできないだけ。

これは僕らが眼の前のことの対して、自分の考え(つまりは、自分)から、初め

から判断しようとすると、その時に次の行動への指針はすでに方向・傾向が定め

られてしまっているということだ。これを運命は自分で決めていると言わずに、

なんて言おうか?

つまり、僕らはそういう時はすでに偏見・先入観・差別に囚われているのだが、

少なくともテリトリー(縄張り)・カテゴリー(ある範囲)から捉えているので

あるが、自分ではそうは思っていない、自分は正しいと思っている。

本当にそうかどうかは、個別に確かめる必要がある。それは他人にはそれが

わからないからだ。でも、僕らは自分が正しいと「わかっている」から、それは

必要ないと考えている。ここで意地を張ると喧嘩になる。ほんとに正しければ、

そのことはそうようになるのだから、喧嘩せずに見ていればいいのだが・・。

話が反れた。

運命を変えるというのは、つまりは自分を変えるということだ。ここはひとりで

考えてもらえばいい。運命はそういう自分というものと、外側から来る予想も

つかない運命もある。リストラに遭ったとか、勤めている会社が倒産したとか、

自分ではどうしようもできない。これにもパターンがあるのだが、人それぞれ

なので人の外的運命は、というように一括では説明できない。

せいぜい大波といくつかの小さい波がそれぞれ複合してくる、といった言い方で

〆るしかないのだが、僕の人生経験では10年の浮きと沈みは、程度も違うが

誰にでもあるような気がする。そんな統計は誰も持っていない。自分で作るしか

ないだろう。

でも、この時に自分の命運について或る確信があるのならば、流されるボートに

用意された一本のオールくらいの役割は果たしてくれると思う。平穏なところ

まで行き着くのに、ある程度のしのぎでコントロールしてくれるだろう。


まとめよう。

人は自分の考えや信条を持っていると考える。それは通常のことで問題はない。

問題は眼の前のことをすべてそれに「初めから」照らし合わせて、判断して

しまうことだ。子どもが悪さをしたら、どうしてそういう事態になったのか

子どもに尋ねもしないで、手をあげる母親・父親に似ている。当然、子どもに

謝ることができない親になる。または頑固じじいになる、しかも人の意見を

理解しないし、無視する、めんどくさいタイプの。

自分は子どもの時の意見があり、少年・青年時代の意見があり、中年・老齢の

考えがある。それらは変遷して身に付けたもので、過去が幼く、歳を取るほど

年の功がある、と思いがちだが、大間違いである。それはあなたの時代でだけの

話なのだ。

経験によって心から動かすことができないものが、必ず考えの芯になる。だが、

その正しさは言葉にならないもので、ほんものほど言葉になりにくいので、

その見極めは他人には困難。しかも、そういう堅固な信念もその過ごした時代の

傾向を反映していて、それから自由にはなれない。

着物は日本人の発明したものだが、和服で過ごした長い年代よりも、この150年

のほうがよほど短い。僕らは最近、洋服に着替えたことを忘れている。平安時代に

母音が8つもあったらしいが、そんな言葉を使う日本人はもういない。昔の言葉で、

立派な日本語だったものも、今では古文として授業で習っている。

というわけで、身に危険が迫るというような事態ではない限り、僕らは今起こった

ことに対して、実に謙虚な態度が求められている。

つまり、”初めは考えるな”、ということが。

僕らは学校教育によって、ある程度心を搾取されている。なにが奪われているかと

いうと、感覚による受容だ。これには自然な防衛と知性の独占的拡張があって、

一長一短がある。これは社会自体がすでに言葉によって方向理念を備えているので、

やさしく言おう、社会が役立つ人材に育つように、ものを区切って、名前をつけて

覚えるように、言葉・数字・時間という人間の発明品でそこから頭に世界を形成

するように強制(教育)するからである。

これはやや正しい。それはすでに産業革命期を経て、僕らは爆発的にそういう知識

で生産してきたものに囲まれ切っているからだ。人間が人間のために人間によって

生産したものでないものを、日常生活で探すのは難しい。あなたの眼の前に自然の

ものを今、見つけられるだろうか。安心して、あなたのサボテンは人工ではない。

猫も。でも、家ネコのメスは去勢手術はしたほうがいい。

あなたが愛猫王になりたいのでなければ・・。

僕らは知的知識なしには、就活もできない。収入も望めないのだから、資格とか、

四角ではない、おかしなものが出てくる。

看護師でも資格はあるのに、患者に寄り添えない者は患者への不始末を犯しやすい。

それは資格を、四角にしたほうがいい。(ここは意味はないので・・)

世界で車の車検があるのは、日本だけとか。昔はディラ―が車検で交換する必要の

ない部品を交換して儲けたり、虐げられた部品メーカーの下支えになったり、はては

世界で故障のきわめて少ない信頼を得て、中古車が売れに売れたり、とかこもごも。

功罪はすべてにつきもの。

話が反れた。

脳は体のすべてをほぼコントロールする知的中心(センター)だというのは、もう

古い。体の骨や筋肉、脊髄、皮膚、脂肪などがそれぞれ化学的な信号で満腹を伝えて

「腹いっぱい」を出すように指示(脂肪から出る化学物質)したり、その他はあり

過ぎて忘れたが、脳はその場合、ただの交通整理のおまわりさんの役割しかして

いない。整理係なのだ。

それでか、眼の前の現実から受け取った感覚情報のほとんどを体中にばらまいて

しまう(この部分は、僕の想像)。体を絞る運動をすると、高校時代とかの感覚

(細胞に記憶?)が甦るのはそういうことだとの、僕の感じ・仮説。

体と脳というのは思ったよりも全体で機能を分け合っている、一体なもの。


もうひとつは、知識教育によって僕らの感覚は(感情は古いし、脳の根幹にある

せいか、まだ強い)衰退しがちだと考えられる。まずは、考えずに眼の前を見る

ということ。何があるか、起こっているか、その形、色、色合い、風味、風情、

その光と影、そのそれぞれの関係、どう動いたか、どう変化したか、どこに

違和感があったか。そういう感覚をひとかたまりにして一旦心にとどめ、後から

それを、数秒後でも、概念化=考えてほしい。その時も、自分の気持ちや考えで

選別してしまうのはタブーだ。見事に流れや地図に整理できたら、さて、自分は

これをどう思うか、どう判断するか、というそこであなたの出番だ。

あなたは「人間は」考えるとも、「人」は考えるとも思っていない。確かなのは

「自分が」考える、ということだ。逸脱する、僭越する「自分」にご用心!


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ラク書きの休日 [詩]

なぜ ブログを書く を開いたのか

もしかしたら という 信号をキャッチしたのか

ただの 期待か

考えるのを やめよう いいではないか

今日は 休日  好きにやろう

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 :(電車に乗るダースベイダー卿)

これが Happy Time

好きなことを 想って  楽しい空想を しよう

たまの 休日だ  肩を 凝らさせないで


僕は まだ Still  ここだ

Here !  なんて 気持ちのいい フレーズだ

ここだ !

簡単で 掴みやすい

もっとも 信頼のおける  宇宙への 階梯

はしご段を 登るように  フライト Departure を探す

ここだ !

これだけが 僕の  案内人・道しるべ  夢先指示器?

スイートピー さらさらした  風  フー量  何グラム?

そぅ あまりに 長く  勇気を 晒したね

ちょっと 苔むして  表面 剥がれてきた?

砂糖の はいっていない ジャムを  塗って

その情熱を  路頭に  ばらまいてやろうか

ああ そうさ  戦争なんて  知らない

世界の  戦争博物館なんて  回る気もない

お金もない  根性もない  ただ  笑うよ

ラムネに ソーダに  炭酸水  ゲブゲブ  

手旗信号で たくさん  (もう、) さ

黒い紙があったら  ひとつ  星を くっつけて

みるか みようか

もうひとつ  米粒みたいに  ベタベタ  つけて

460光年も 離れた  準太陽系は

こんなだろうと   宇宙船のなかに

畳みこんで みようか  みるか

ここだ

ここだ

これが 僕の時間だ

時間がないなら  これは何だ!  時のコンニャク か

おお 鍋の用意は  ないぜ  ゼリーには

ならないよな

そうして 突然  眼の前で 爆発するよ

快適な  コンサートの 一瞬が

クレンジングで  髪を 洗って

歯ブラシで  脳のかゆいところを

掻いてみる  ドーパミンが出て  快感だろう

それを 感じることが できる というセリフが

舞台のように  哲学かのように

聞こえてきたよ  サラブレッド の 眼もとよ

色は 流れる  流れ続ける  三千年も

おお 親しい  日本の流れよ

きつく締めた  帯の 模様  市松もよう

見つけたよ と 大発見か のような

君の  息づかい  呼吸  唇

ドール ラ ロン  ハウ  サウンズルーーン

三千年の 雪景色

三千年の  吹雪

あまりに  待たせられる   荒野の バッタ

船は 来ない  I’ll be  プレイ

遠くの 下(しも) 回帰線 

ん~ シビレル ル   なぜ 待つのか!

  そう 君は 反省を 迫られるのか

  檻の中で  日記を書くように  強制されるのか

桜で  慰めよう

チェリー ブロッサム で   君の好きな  花で

何を 抱くのか  心に  きつく  深く

それほどに  愛するものは  なにか?

君の上に  黄色く光る  雲の群れが

切り込みは  逆三角形  先を鋭く

闇は どこにも  用意されているよ

ファイン  ファイン   いいよ

待っているよ  ファミライクヨーベビナシゴラシナヨーク

ドミライク ユー  ラミラミライク ユー

さて ここまで来たのだから  ブレドミ  アゲイン

持ってきたかい?

それがなきゃならないんだろ ?  イヤー?

それを かざして  ラブ  アゲイン

Love Again !!!!

理由を  示せよ

葉脈を たどって  行く その先を

地図がないと  はじめからわかる  その場所を

姿勢を こらして  態度を  示せよ

葉が 落ちる

護岸の通りから  川が見えて  そこに

写真の季節が  落ちる

散歩する人もいない灰色とハイヒールのない街だろうよ

せめて ファウィルナイス  ソファミウリスユ

ソファミウリウス  君  ミステイクス

まだ 拍子を取って  踊っている

カタクチイワシ ノロノロバスステップ  

アパートの 日の落ちた 階段

ピアノに 映り込む  あなたの 影

ボールの ころがる 心の  階段

忘れようとした  長い 昨日の  影

聞こえるよ

世界の  腹を立て  我慢ならない  足音

ホー オ オー、オ 

ピサの斜塔が 回転したら  砂煙

セットバックに 声を  かけろよ!

点は 血に

天は  地に

駈けろよ  セルビオ ロッジ


で X X X


( 隠れたオーブ と ホープ )

閉じた  閉めた  さあ ドアの 外へ

香しき

オーブ と 今夜

オーブ と 今夜

オーブ と 今 宵 

おお わたしの  生きている  全般:

というもの

知っている  いつか

わたしの 生きている  全般:

という  証(あかし)

その 玉響(たまゆら)


・・・・・・・・・・・・・・・・・


山に囲まれた  その家に 帰る

君は ドアの前の  ステップに 坐って

僕を 見るだろうか


ついに

見るだろうか

重なりあう

頬笑み で


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野毛山動物園へちょこっと行く [動物]

晴れた。

昨日は雑菌が歯茎から侵入したらしく、耳下のリンパ腺が腫れたし、雨天だったので

動物園に行く予定を中止した。そのまま帰って来てから爆睡していた。起きても、

筋肉を緩め過ぎたので、自分の体ではなかった。呆然としていたら、肩甲骨のあたりが

モヤっていて、凝っている、疲れが集中しているのがわかった。手当てして、血流が

良くなると、心の手当ても必要なのが分かった。小さな責任感を今は捨てて、だいぶ

楽になった。それで今日は、起きるとすぐに動物園に行く気になった。


アフリカに行くのが一番いいのはわかっているが、遠いいし、現実的でない。準備が

2週間はかかる、思い立ったらすぐに、とはいかない。

勤め先からひと駅のところに無料(平日)の動物園があった。それが野毛山動物園で

チンパンジーがいる。ライオンも虎もいる。

桜木町駅で降りて、動物園通りをゆくと、野毛山公園に当たる。

IMGP0001 (800x600).jpg

そこであまり見かけない樹が斜面に数本あるのを見つけた。後日、調べればと、画像だけ

撮っておく。この公園には以前、横浜中央図書館に来た時に、少し散歩して来たことがあった。

思い出す。

坂を登るように公園内を歩き、出ると、そこが動物園。


DSC_0047.JPG

入り口にみやげ物屋があり、可愛らしい動物のぬいぐるみが、種類も豊富に置いてある。

買おうと思って、もう孫は高校を卒業するのに気づいて、買って行ってあげる相手が

いなかった。

そんなに広くはなさそうだが、探して歩き回るのは御免だ。パンフを見て、猿=チンパン

ジーの場所を見たが、目の前だった。(笑)


DSC_0049.JPG

入園無料なので寄付を募っていた。チンパンジーに気が行って、寄付を忘れた。

動物園は見学に来たわけでもなく、観察はするだろうが、それも目的ではないので、とも

かくゴリラがよかったが、そうそうどの動物園でもいるのではないのでチンパンジーに会い

に来たのだ。猫や犬とは違う超感覚をもっていると思われるので、ともかくも彼らにとって

動物園とはなんだろう、というのがまず注目点だろうか。

IMGP0003 (640x479).jpg

このメスが、

IMGP0005 (800x565).jpg

案内によるとミラクルらしい。子どもはさっきから三つの檻を移動して遊ばせているようだ。

が、熱心ではない。

IMGP0004 (411x640).jpg

IMGP0007 (800x800).jpg

IMGP0008 (800x734).jpg

老婆のピーコが少し、出てきたが檻の奥の方でひとりでたそがれている。歳なのだろう。

それよりも母親のミラクルは人間(見物客)をよく知っていて、檻の一番手前に陣取って

坐っている。写真に撮られるのに都合がいい場所だからだろう。子どもを追いかけたりして

檻を移動するのも、客への自分のパフォーマンスとして意識しているようだ。

ところが今回はちと違う。僕がいるからだ。見物は家族連れがほぼで、若いカップルも

それに混じるが、ひとりは僕だけだ。しかも、写真を撮ってしまっても、他の客のように

移動しない。10分も、20分もいる。彼らの知能には興味を引くには十分のようで、

ミラクルはそこから動かなくなった。

IMGP0006 (640x573).jpg

ー こんな感じ。

僕は彼女を見たり見なかったり、なんとなく観察することにした。ただ眼の端に入れて

おけばいいだけだ。

やがて飽きたのか、見えない猿舎に入って行った。気づいて子どもも入ってゆく。では、

とこちらもトラを見に行くか、とちょうど裏手だったので、チンパンジー舎の裏側を

回る。

すると、あの親子だろう、鋭い叫びが上がり、すさまじい喧騒になった。インドの密林

から聞こえた猿の、不思議な声を思い出した。

表立っては見せないが、家の中ではヒステリックになっている。なにか人間と同じだな、

と思ってしまう。動物園暮しの彼らのなにがどう強制されるのか、わからないが、檻の

中はやはり異常な環境なのだろうか。

トラはいない。というか、出て来ていない。トラの本性は姿を見せないのが本性で、

トラの生息地域でも、その現地人が見ることはまれで、中には一生見れなかったと

いう人もいるくらいだ。それを知っているので、落胆はない。

その代わり、ライオンが檻の格子の前に寝そべっていた。置物のように端正な姿を

している。

DSC_0050 (1).JPG

このライオン、二人の女子学生がスマホで撮ってから、僕が代わって撮ると、こちらを

ちらっと見て、顔を戻す時に鼻で笑いやがった。(笑)猫はそういうところがある。

子猫でもドヤ顔をして悪さをするので、面白かったが、ライオンはもう見物客を馬鹿に

している。檻の中でも権威を保っているつもりなのだろうか。その意図はわからないが、

鼻で笑ったのは、人間と同じ。

なぜか、猫だなぁ、と思ってしまう。

他は見る必要もなく、30分くらいでそこそこに園を出てしまった。

IMGP0011 (640x550).jpg


帰りに、野毛山公園の池にアオサギが来ていた。彼らは意外に変な声で鳴く。ずいぶん

以前だが、アオサギに呼ばれたことがある。変な声がしているから見まわしたが、見当た

らない。川の傍にいた時で、また鳴くので川向うの家の2階の屋根にそいつがいた。

見ると、気づいてもう鳴かない。少しして飛んで行ってしまう。用事があるわけがある

まいに、なぜ鳴いたのだろう、滅多に鳴かないのに。それがいまだに不思議だ。
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心の発生の準備と、問題への姿勢:概知の~探る5. [思考]

3000年の集大成とか言い出したら、大変な作業になって「出雲大社への旅」を書くどころ

ではない、となったのは認める。でも、それは想定内なので、大変な作業は最初から

わかっていたし、先へ進めば進むほど作業は楽になるので、「出雲~」についても書ける

時間が取れるだろう、とは考えていた。ただ3000年は最初、大きい網で捕えなければ

ならないので、多少のゴタゴタがあるのは仕方ない、ということ。

まだその内容には入れない。重要ではないが急ぎのこと、雑用もそうだが、そういうことが

日常で増えると、そうそう放っておくわけにもいかなくなる。それで最近では夜勤明けでも

帰って来て寝て、起きてからも休むだけでなく、書く時間が取れるように、生活を変えて

来ている。そうすると、フルタイムで働くサラリーマン以上の仕事量になるが、やむを

得ない。自分で選んでいる。

考える、というとふつう人は計算するか、論理思考をすることを思っている。評論家の

大家だった小林秀雄は考えるを人間の気の行為のひとつと捉えた。それは心という

感覚や複合した直感で対象と切り結ぶことを意味した。思考のようにそれをレッテルを

貼って理解したという(概念化)ではなくて、考えることがすでに生きる行為として

対象を経験するのだ。

まったくボーリングゲームをしたことがない人が、それを見て玉ころがしてピンを倒して

なにが面白いのか。馬鹿じゃね、とか考えるのが机上の論理とかいうもので、実際ボール

をころがすと、ピンが先頭のが倒れれば、ほぼ全部倒れるだろう、くらいの思っていた

のが、思うように倒れない。やっているとストライクを取るのはそれなりに技術が必要で、

思ったより難しくて面白いことがわかる。

映画で血がドバドバでも見ていられるが、実際の交通事故現場で運転席の血の飛び跳ねを

見ただけで気持ち悪くなってしまうように、経験して考えることと考えてだけで判断する

ことは、まったく理解の深度が違うのに気づく。

僕はこれを応用することを見よう見まねで自然に覚えた。

それで本を読んでもその実際を見に行っても、まるで考えることをしない。その場では

ただなにがあったかを、全部見る、聞く、感じる、味わうということに徹する。

そして、帰って来て、または体験を終えて、または沈思を終えて、それから書く。

書くということが考えるということまで高まれば、これがスムーズにできる。

僕はこれを無意識への出入り感覚を使ってしているらしいが、誰でも意識するか

していないかで、していることだと思う。それでこうして、今考えながら書いて

いるので、会話のように話題があちこち飛びやすい。

考えたことをまとめようとか、書いたことをあとで推敲しようとか、思わないので

書きっぱなしでほぼ公表する。一度は見直すので明らかな誤字・脱字とか言い間違え

とかは気づいたら直す。が、文章を別の意図に変えることはしない。その時思ったこと

をその場で文章にしたのだから、「その時」を残すのが書くことだと思っている。

現在、近年まででふつうの推敲文章は長いことやって来て、還暦近くからこの文章・

書き方に辿りついた。それがブログを3年やっているうちに身についた。

だから、僕はまさに、「今」考えている。

僕に悩みがわずかしかないのは、たぶん、日頃考えずに生活しているからだ。

ものごとに一喜一憂しないからだろう。それの考えにしろ、感覚・感情にしろ

依(よ)って来るのはどこか、なにからかというのを、浸透するように眺める。

むしろ、おぼろげにまとめるように見る、呆然とした認識(考えの一部)が入る。

突き詰めて考えるのは後だ、書く時だ。


「心の発生」という面白い着眼点から進むと、僕らの人間の問題の原初からの

暴力から文化への流れや体の本能への服従から自由へと変化して行ったことで

人間の問題の半分以上が解けてしまう気がする。それに気づいてはみたが、

漢字の「心」の発生からそれを導き出すのは、眺めているうちに無理なように

思えてきた。いろいろ学問的な見地から様々な意見が言えるので、それを

放り出すためには、心と意識について、堅固な自分なりの認識が必要だと思った。

僕は以前は、意識は認識不可能だと考えていた。今でも、不可能と可能との間

をさ迷っている。それを早急に解決しようとは思わないし、できないと思える。

それでまず、古いものからだから、その第1段として提出しながらどこまで

浸入し得るかを試してみたい、とそこらあたりの見当をつけている。(次回から)

日本の言語学からもその起源について面白い発見があるかもしれないので、

あたってみる。

今のところ、次の本が資料である。

 「言葉と病い」    豊水武盛・著       (言語学と精神分析)
 「神々の沈黙」   ジュリアン・ジェインズ・著 (古代文明への多彩な認識から)
 「身体感覚で論語を
      読み直す」 安田登・著        (漢字の成立)
 「心の起源」     木下清一郎・著 中公新書 (生物学的見地)
 「意識の川をゆく」 オリヴァ―・サックス・著  (心理学者の晩年の感想) 

 ここで疑問が出れば、カントの純粋理性批判に赴くのかもしれないが、

 それはまた古代に近くもどってくる時の次回に、となる。

前回端折った”問題への誤った姿勢”について。

くり返すが、問題を前にすると僕らはすぐに答えを求める癖がある。試験、

試験で苦しめられた後遺症かもしれない。(笑)

数的、数学的、論理的、論理的抽象のそれぞれの問題は、純粋に頭の問題である。

僕らが主に悩まされるのは、そうではない。人間関係、恋の悩み、子どものしつけ

とか、思うようにいかないこと、不倫、パワハラとか現代問題への応対がわから

ないとか、いじめ、不登校など病気についても何をどうしたら、はては何を信頼

したらいいか、etc これらの尽きない悩みは、ほぼ心の問題だ。

まず僕らは問題そのものがわからない。苦しみを気持ちで捉えているだけで、

問題が正確になにとなに、どれとどれがどうなっているかがわからない。それは

問題が見えていないことを示している。当然、問題を説明できない。ルールとか

常識?で多くは相手が悪いとか、わかっていないから悔しい、ということに。

悩むというのは基本、僕らが問題を誤解していることから起こる。問題が見え

ていないことから誤解が生じて、誤った判断をするので、どうにもできない、

どうにもできなくなると思い込み、悩むのだ。

だから、答えは問題そのもので、通常はその中にある。社会的問題でも第三者が

必要とされるのは、この問題がどういう問題かを冷静に調べる必要があるからだ。

僕らの個人的問題もその点は変わらない。

正しい姿勢は、その問題そのものを検証することに尽きる。まずそれを前において

いつから、どのように起こったのか、どうしてそうなったのか、自分で記憶と

その時の相手やものの気持ちの動きを考慮しながら、どういう経過を辿ったのか、

ひとつひとつ思い出す必要がある。人には人の意外なこだわりや考えがあるから

自分の気持からだけ考えていては、それは自分のプライドを忖度しているだけで

一向に相手の実情に辿りつかない。

数時間考えてもわからなかったら、翌日考え直す。それでダメなら相手と話すのが

いいのだが、それはできない事情であることも多い。

半分以上答えが見つかるのは、自分の考える習慣を打ち破るしかない。問題を

見つめるだけで、その時々で気持ちを入れないで、考えを入れないで、つまり

感情的にならず、すぐに答えを見つけようとしないで、問題事項と対峙する。

黙って、退屈なままそれでも問題を注視する姿勢。(ひとりになれる静かな時間・

場所のこと)

これは実施して慣れればいいことで、今、それでなにがわかるの?とか

聞くことが、もう違反である。焦りだ。最初は時間がかかる気がするが、慣れる

と、問題から答えが出てくるようになる。この不思議も体験して納得する。

これですべてではない。肝心のことは答えをどう応用して行動・行為にして

解決への方法に結びつけるか、である。

友人と話をするのも、その沈坐という準備を終えてからでないと、友人の考えに

振り回される恐れがある。あなたがなにかそういう頼りになるものを、すでに求め

ているから。

苦境の時に教会の看板を偶然見て、キリスト信者になる人もいる。信仰の道も

あるにはあるが、逃げる形で入信するのは、歪んだ結果をもたらすことになる。

友人も宗教も、あなたを知らない。それらはあなたではないから。少しずつでも

問題への正しい姿勢を取れるようにならなければ、偶然取った箸でどんな料理にも

対峙してしまう。スープが出て来ても、箸でなめるだろう。これが私の役目だとか

誤魔化して。あなたの問題は、実はあなたが一番よく知っている。それを見れば

いいだけなのだが ・・・。


:-というところで。
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追加: この世をマウントするのは君だ [心理]

*今朝の記事の続きです:-

昨日深夜(日付は今日だが)に書いた記事は、やはり多少力不足で、もれが出てしまった。

まず、統合失調症の人でも見たが、強迫神経症に近い人でも行動が瞬間に爆発する

傾向のある人がいる。その人と一緒に書店にいて、僕が本の著者を「この人は翻訳もして

いて良い」と言うが早いか、もうその人の本を抜いて買おうとする。隣にいると驚く。

まったくタメというのがなく、著者がよくてもいい本とよく書けてない本があるのだが、

まったく準備もなく、尋ねることもなく、聞いた途端に行動に出る。

見かけは直感的だが、直感は自ら感じるものだが、彼らは他動なのだ。自分の

考えや経験のタメがあって、そこから辿りついた直感ではなくて、衝動なのだ。

だから、彼が話を聞いて理解を示していても、どこまで彼の心に達したのかが

まったく予測できない。わかっていると思ったその意思表示がまるで嘘のように

次に会った時にはなにも理解されていないことが示されたりする。障害者のする

理解への判断はとても難しい。これが彼から感謝されても、素直に喜べない事情だ。

彼らの理解は、衝動や反応と見分けがつかない。9年、話しても。

でも、確実に無意識な理解から少しずつ成長しているのは、感じられるのだ。

セラピストというのは患者の答え(病名)を出すだけ、状況をわからせるだけだという

のは、大いなる誤解だ。出した答えを患者がどう理解して、どう生活に組み込んで

いくか、(=彼が自ら生活をコントロールする)それを援助するのが最大の仕事だと、

僕は感慨する。

70%くらいまで答えを出して、応援する。大事なのは根気よく自立性を高める

ことで、彼がそこまで成長すれば、あとは放り出しても、自分でやっていける。

もちろん、実際問題としては、ケースバイケースになるだろう。


このことを止揚(アウフヘーベン=より高いレベルに置き換えるby ヘーゲル)する

と、来るべき新時代に適応するためには、今の社会概念や規則を善と見ているだけ

では、役に立たない。だから、自分でそれを根底から考え直す必要がある。

年金制度も医療制度も崩壊しながら、改変・廃止されざるを得なくなる。それらが

崩壊することから社会全体がどう改変されるのか、もう見え始めている。

社会機能という部分では言われているように、AI(人工知能)が活躍するだろう。

人間は?生活は? とこれまで考えてこられなかった部分が脚光を浴びることに

なる。

例えば、僕らは生活を考えたことがない。僕らは入学だ、結婚だ、就職だ、家だ、

と言っても、頭の中は入学費であり、結婚費用、給与レベル、住宅ローンのことで

ある。僕らは生活という言葉は使うが、中味は生活費のことで、定年後の現実は

考えたことがない。それも老後資金というどこまでほんとうかわからない、見かけは

必要に見えるファイナンシャルのことだ。高いレベルの生活資金のことで、楽しい老後

とは何かではなく、生物的にまた、見かけで貧乏くさくない生活のために、いくら必要か、

という計算をしているだけだ。生物として、また最低限の社会生活するための資金は、実は

金の問題ではなく、衣食住の確保の問題だ。それは生きるために必要であって、

金ではない。札束を料理して食う人はいない。

生活は食べること、着ること、寝ること、運動すること、話すこと、笑うこと、楽しむこと、

喜ぶことであって、金で雇った人たちや芸人が笑わせてくれても、それは一時的な娯楽や

気晴らしであって、いずれむなしくはなっても、いつでも思い出として宝物のように残る

ものではない。それがあったから生きてこれた、というものではない。

だが、生活を考えるとは、そういう意味での全体の健康・幸福を願うことで

その補助的手段として、金銭・資産がある。最低生活資金がわかったら、

それ以上が趣味や学費、さまざまなローン準備になるが、テレビの宣伝や

他人、つまりは自分の集まりの世間という水準評価を信じていたら、ただ

働いて、だまされているだけになる。

日本は世界の第2位の経済国である。中国の経済の指標は矛盾だらけで、とうてい

信頼できるものではなく、日本は抜かれていないだろう。

それで生活費でも世界からではレベルが高く、今のなんでもそろう生活に

国民の不満が高まることはないが、日本国内だけを見れば、消費税を上げる

必要はまったくないのに、あるように見せかけられて、僕らは税金で絞り

取られているのに気づけない。僕らは2000万人の金持ち層と40万人の

極貧層とプラスα を除いた8000万人くらいの大多数の日本人実は貧乏層だ。*

*(統計を概算したが、独自の見方も含む)

世界では非常にレベルが高いので満足しているが、格差を日本だけで考えると、

皆貧乏。中間階級と推測できるのは4000万から1億数千万の資産までを

所有する人たちで、多くはない。

40年前には韓国にキーセン(妓生=芸妓)観光での売春観光が盛んになった

時期があった。喫茶店のウェイターとかの職業でも出かけてみると、社長さん、

社長さんと呼ばれていた。今より3,7倍ほど円高だったから、韓国旅行は

安上がりだったのだろう。不品行な日本人は道で一般人のおばさんに抱きついた

りしたが、彼女はなにもできなかった、見ていた人もなにも、という現地の哀しい

話を聞いたりもした。慰安婦問題は見当違いだが、根はもっと深い恨みがあるのかも

しれない。

話が反れた。

「定年後」という新書が売れたのは、定年になってから「こんなはずではなかった、」

という人たちが参考に読もうとしたのだろう。金のことは考えていたが、定年後に

なにが襲ってきたか、なにを失いつつあるか、現実に目覚めたのだろう。とても

定年後のことを考えたサラリーマンが買ってゆくとは思えない。生活のためとか

考えても、よく考えてみたら、生活費のことだけだったと気づいたら、今からでも、

生活とは、とそこから考えたほうがよい。


そのうち、日本の借金が1022兆円ではなく、その半分も実質ないことを本から

と財務省で示したい。

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この世をマウントするのは君だ [日記]

クッキーは ワイドだろうか

勇気は  サイケデリックだろうか

僕は チャンス・オーダー しているだろうか

パタパタと 靴を 交互に叩いて

なんの 真似ごとだろうか

色即是空  金魚お祭り  開店休業


とても  集中できまへん

彼と話した時間は ・・・ えーっ 8時過ぎから

ちょっと店を移動したから ・・・ 4時間か。

死にそうだと 弱音を吐く人と 話すのは

こちらも つい 力が入ってしまう。 う う 。

さすがに 疲れる、日付も変わって しまった。

珍しく こちらが話したいことは 話せた。

あと30年は 生きられそうだと、冗談だろうが

感謝されても  少しも喜べないのは

なぜだろう。  彼は30も年下で 9年近くの

付き合いをしているが  よくわからない。

プライバシーに触れずに  障害について  それが

軽かろうと

語るのは 難しい。

進歩がないわけではなく  理解も進むが  まるで

油断ができない。  そこが 障害たる

所以(ユエン)たる、・・・。

彼に言ったことを  自分に 贈る、

先を考えるのは 無駄なこと

今が できなくて やってもいなくて

他の 悩みに 逃げ込んでも なんもならん

なんもならんよ、  今できることを しなければ。

言ってる 自分の耳が 痛いのだな。

ともかく 君ができなくて 今の職場を辞められても

僕も 困るので  その仕事を 手伝うよ。

一緒に やって行くうちに  失敗して

そこを反省するだろう、それは次の やり方を変えるし

良く変えるだろう。 つまり、失敗を繰り返して

よく 工夫をくり返せば、 それだけ成功しやすくなる、近づく。

君は ともかく 失敗を恐れて 完全にやろうとして

神経が 疲れてしまうことを している

最初の失敗は  最後の成功に 最初の貢献をしているのは

確実なのだから  どんどん 失敗して!

なにか言われても そうでした、とか ちょっと忘れていて とか

流して  流して  いつか 見返せるのだから。

ブロウクン チェーン  心の鎖を 解き放って!

っていうことだから。


彼が 活躍を強いられるのは  今よりも

10年後 20年後 だろう。

その時、年金制度が壊れて までで

そこからを 話さなかったが、

その20年後に 彼の高齢時代が 来たら

医療のナノ技術の発達で  なかなか

病気にもなれない  死ねもしない 時代が来る

人生100年(歳)時代とか 言われて

君は どこで 働けるだろうか?

どう社会が 変化するかも読めない

健康と 体力  生きる動機が必要だ

それは 筋肉というやる気を支える  運動が必須になる。

僕は そんな先まで 生きていない、寿命だ。

これで 先を考えるのは ヤメだ。 無駄だから。

必要ないから。  

このバトンを 渡そう。

君が この世を マウントするのに必要な  3000年の バトンだ

この 一年で  受け取ってくれ。

あとは 前々から 話してきたように  僕からは 

一切 連絡しない。

君は 君の運命の  切り替えを 行う

僕は  寿命時代を やらせてもらう。

なんだろう、 それは。 ちゃんと

考えたことは  なかったな。

猫の タイカのほうが 先に逝くな

オランウータン、忘れていたな  確認事項が

残っていたのを。

寿命どころではない  のだが、 そこはどうにもならん

ならん。


リーセント ターム

ゲームを セーブしよう

時代とともに

今できることも していないで

それを 語るのは  笑わせる

ハイ! マインド


もう 無理 

4時  寝る



アンギアーリの戦い (696x477).jpg


L・ダ・ヴィンチ アンギアーリの戦い イメージ模写
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