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雑感:魚の謎 [観察]

雑多な日記も書いてみよう。

なにをしても謎は増えるばかりで、少なくなることはない。

観察と着眼点が豊富になればなるほど、そう思う。

釣りでもそうだ。魚たちの知恵というものを想定してしまう

ことに遭う。島で堤防で釣りをすることはあまりない。

リール竿でやや遠くに投げないとポイントがつかめない気が

するので、新しくリール竿を買う気がしないから。

岩場で釣りは楽しめるので、誰も来ない入り江近くで

ひとりで釣りを楽しむ。堤防ではもっぱら観察するだけだ。

そこでもかなり大きな魚が堤防の近くまで来るので、今度

釣り糸を垂らしてみようかと、思うが見ているうちに気が付く。

どうもそこにいる数十匹の小魚の親か世話係のようなのだ。

僕が見ていると、底に沈むように沖へ行ってしまうかのよう

だが、実際にはすぐ戻ってきている。

小魚の様子を伺ってなにか支持しているのだろうか、と思う。

魚が子供を教育する姿は見たので、彼らは僕らが思うような

バカではない。

それは有川港の端の堤防で釣り糸を垂らしたとき、透明度が

あり、魚がエサに近づこうとしていたので、これは釣ったなと

こっちのものだと。ところが、その魚より少し大きな魚が近づい

て来て、その魚は停止した。大きいのに遠慮したから、大きい

のがエサを横取りするのだろう、と思った。

大きいのはエサにギリギリ近づいて、それから離れると、

その小さいほうの魚に近寄った。そして、2匹でエサから少し

離れたところを一周回って、去ってしまった。

これをどう解釈するか。僕には親が子にこのエサには食い

ついてはいけない、と指示したようにしか思えなかった。

見える魚は釣れない、という格言もあるが、親の教育下の

魚も釣れない、という格言もつくってよさそうだ。

堤防の小魚だが、数十匹いるのだが、これが不思議なことに

ペアを組んでいるのだ。2匹が並んでゆっくり泳ぐのだが、

止まっているのも2匹で並んで止まっていて、全部が2匹で

行動しているのだ。あまり大きな動きはなく、堤防から離れ

ないが、おかしくないか?親の指示でもなければ、ペアを

組むという行動は取れないのではないか。もしもそうなら、

彼らはそういう交信をして、或る程度概念的な指示を理解

することができる、と言えるだろう。

側溝の大きくしたような川があるが、底はコンクリで平ら

なので棲みつく魚はいないが、クサフグやクロと地元で呼ぶ

メジナの子だろうか、他にも満ち潮とともに小魚のグループ

が上流へ入ってくるが、必ず一度はその親くらいの大きさの

魚が数匹入ってくる。これらのグループはみな一緒で団体

行動をとる。魚に子育てのある仕組みや共通の育てる

過程があるのは、間違いないことのように見えた。

クサフグは中くらいになると、4,5匹で大きなのの後に

ついて堤防を長く入り江のほうまでヘチを家族のように

泳いでいる。それでなのか、夕方にクサフグが釣れ出すと

もうクサフグばかりになる。彼らは鋭い歯を持っているので

平気でエサを針ごと飲み込んで、糸をかみ切ってしまう

のだ。クサフグは合わせが遅いと、飲み込まれるので

針を持っていかれ、仕掛けをそこだけ付け直ししなければ

ならない。で、フグが釣れると、ヤバイ、となる。

だが、フグは背びれなどに針もなく、手で持っても刺ささったり、

痛いことはないので安全は安全だ、食べなければ。

ま、たいてい3本は針をもっていかれて、10匹くらいで

釣りをやめることになる。ただ、フグに交じって他の

食べられる魚が釣れることもある。なんにせよ、あまり

歓迎できない魚だ。よく泣く、愛嬌だ。


フグ釣れて  ふてくされるは  夕日かな



あと、その針を口の中に入れて、引っかかっているはずの

魚なのだが、針のついた魚を釣った経験は一度もない。

たぶん、釣り人は誰も経験していないはずだ。彼らは

どうやって返しのある針を口の中から外すのだろう?

魚の社会生活の本は見たことがない。柳田國男が全国

を歩いて民話をお年寄りに聞いてまわり、日本民俗学を

打ち立てたように、全国の漁師・釣り人を訪ねまわったら、

魚の社会学の本が書けるのかもしれない。柳田が初めて

やったように、まだ始めた者がいないだけなのかもしれない。

魚.png
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時間について、再び? [観察]

時間は非存在か、という題の本があったと思うが、どうだろう?

時間がそこら辺に落ちていないのは確かだ。今日の時間は痩せているね、

とかの声も聞いたことはない。

まず時間のそれについての前に前提条件を決めておこう。僕らの何かに

ついての感覚がある時、その感覚の出どころは尋ねないでおこう、という

ものだ。そこから疑ってしまうと、なにも進まない。

時間への感覚がふつうに正しいものならば、時間はないと言える。非存在

というわけだが、非存在というのは「存在している可能性をにおわせる」

ので正しい言い方ではないだろう。

大事なのは「ない」というあり方になる。いかに「ない」と言えるか。

そうすれば僕らの時間感覚はただの錯覚になる。それをうまく感じれば

いいことになる。

では、どうなるか。まず時間は物質にしてもなんにしても、或る質を

持っていない。数字と似ている。「1」がどこにも落ちていないし、

これが「1」だと1に関することはそれを示せばすべて当てはまる、

という「1」は現実世界のどこを探しても出てこない。ただ、数字は

印刷されたものや看板など、液晶画面など目に触れる機会は多い。

ために社会での市民権を得ている。まず学校で教わるし、計算は

この世で生きるのに最低限、必要な技術だから。

時間を測るものは時代によって変わった。最近までは水晶の分子運動

を振り子のように応用して、秒を決めていたとか。現在はもっと

微妙な振動を利用しているらしい、素粒子だろうか。

僕らが時間を知るのは、すべて運動による。時間という間隔はどこ

にもないからだ。時計なら針の指す方向と針の運動である。デジタル

なら液晶の数字が一定の感覚で数字が変化する。それも電子運動や

数字のパネルをめくるモーターなどの動力による運動だ。

太陽が昇って沈むように見えて、一日を感じるのは見ているのは

太陽の動きや位置であって、時間というものではない。

100m走で世界記録が出ても、ランナーの姿は見たが、その

走る運動は見たが、時間は見たことがない。これが北極や南極に

行けば、半年は太陽が沈まない、または出ない、という白夜などが

見られる。僕らは時間の感覚を少し失うだろう。明日がいつ来るか

わからないからだ。

もしも、今に時間的な間隔という、まさに時間のことだが、ものが

あれば、放たれた矢は的に当たらない、という事態は正しく存在する

だろう。それは矢を放つと、的に当たるまでにその半分の距離に

到達するまでに半分の時間がかかるから。そして、半分に達したら、

次の半分の距離の半分に達するにも、4分の1の時間がかかるから、

という具合に半分に達するまでに半分の時間がかかるから、そして

常に距離には半分の距離があるのだから、矢はその微妙な的の手前

で止まってしまうように見える、という問題だ。時間が存在するなら

この事象はあり得ることになる。

実際にはあるのは運動だけだ。だから、矢は放たれると、的に当たる

まで止まらない。これは現実に合致する。だから、「現実が間違えている」

か、「時間がないから」のどちらかを選ばなければならない。

僕らは矢が的の手前で止まっているのを、いつも見逃しているのだろうか?


あとは自分を納得させるのに、自分の時間の感覚がただそういう気がする、

というところまで観察をして、よく考えて(確認して)みることだろう。

明日は僕らがなにかの数字をめくったりしない限り、僕らはその日になった

と意識できない。それは今も「今は今だ」という感覚を取り戻すことかも

しれない。年月日の数字は僕らが約束事として、自らで決めたものだ。

だから、カレンダーの1月1日は来るが、明日はその日が来ても、明日は

「明日」なのだ。どこにも行かないし、来たこともない。
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中間で1と6 [報告]

さて、なんでもいいから書くように求められているが、書く決心

がつかない。変な話だ。誰が求めていると言うんだ。

それは進行役である僕自身だが、なんでもいいと、なにを選べば

いいのか、かえってわからなくなる。

(表題の「1と6」は、中間経過を10とすると、山勘で2から5を抜かして、

1と6を報告した、ということだが。)

心の発生も頓挫していると書いたが、実際は進んでいて、どうまとめるかで、

迷っている。すそ野がかなり広いので、資料を読む気もなくす。その気に

なれば1日10冊も可能だろうが、その気になれないのが、僕の気まぐれの

悪い癖だ。今回は時間的に中止に追い込まれて、闇からの回復を1か月近く

待っている。頭はもう抜けた。だが、集中して書くには体力・気力だけでなく、

芯から健全にならなければ総合としての力を統一できない。

わかっていることを何でも書けばいいのなら楽だが、実際は対象者は

絞られる。病名もわからない患者に手当たり次第に薬を、または一つの

哲学なり、思想を薬として処方する医者はヤブ医者だろう。

心の発生とその対応は、ブッダ・孔子・ソクラテスが奇しくも、一定の

パターンで対応している。その後の歴史もそれぞれで同じような衰退を

たどっている。

それは自我の発達と知の展開で一致してもいる。これは道具から文明へと

進展した知の成長と同一のパターンであり、同じやり方だということ。

物質に対しては科学的にそれは成功裡に見えるが、結果は混乱している。

また、精神に関しては、演繹・分析の推理的思考でこれも混乱よりも

混沌としてしまっている。精神病の原因がどの時代の秀才も天才的な人でも

なにひとつわかっていない。向精神薬はある筋肉の部位をこわばらせたり、

人を朦朧とさせてしまう。統合失調症や知的障害者の世話でこの眼で見てきた。

貴重な経験だった。

では、何が悪かったか。なにも悪くない。僕らはよくなる、とはどういう

ことか、なにも統一した見解を持っていないし、持てない。そういう

ように僕らが体も心もその仕組みができているということを通してしか、

これからを考えることはできない。まずその認識に達することが優先で、

必須になる。

とりあえず、中途なことしか、今は言えない。申し訳ないが ・・・。





*とりあえず、精神の危機は脱出したことを報告。
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サボテンの花と未来 [花]

我が家のサボテンの花が咲いた。

毎年恒例になっているが、はじめのサボテンは20年も前の1本だった。

それは15cmにも育ったのか、忘れたが、多少の子供を残して枯れ、

二代目は同じように25cmになったのか、多くの子供がいた。

その中で1本だけひときわ育ったのが、今の1本だが42㎝には伸びている。

子だくさんだが、このサボテンは親の種(の遺伝子?)を1本に絞っている

ようで、兄弟のように同時に大きくなるサボテンの子がいない。

なにか法則があるのだろう。もう胴体に枯れ始めが見られるが、なかなか

世話をしないので枯れ果ててしまうかもしれない。

サボテンの花は1日半で萎れてしまうので、その日のうちに撮影しないと

もう遅い。

IMGP0006 (2).JPG 

サボテン(2).png 

この世は弱い者から、つまり感受性のない老いる者、敏感な障害者、病者から

反応する。彼らは地震を予知する、しかも自身では無意識で知らない者たち

なのかもしれない。心は逃げずに戦い、体は安全に逃げ、方向は子供たちの

未来に。そうなのかもしれない。




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山とペイント [絵画]

ペイント山と.png 

山と犬を目指したが、ピンと来ない。適当に題名をつけた。
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河口湖1時間半 [釣り]

河口湖へ行く。

河口湖 ああ河口湖  河口湖 

ブルーギルが相変わらず釣れ、今回はバスを見ず。

ギルの背びれに刺さり、人差し指が痛い。

ぬめりがひどく、臭みもひどいが、腸取って、ウロコ取って、頭とって

カラアゲにもムニエルにも調理できる拵えにしておいた。

竿は一本で、妻と二人で交代で釣る。どのみちすぐ釣れるので、

魚を外し、エサもつけるのは僕の役目だから、忙しい。自分で

釣る暇がない。

1時間半までいったろうか、小さいのも入れて10匹以上釣り、

妻も最後に大きめなのを釣ったので、満足したようだった。

残照の当たる富士山が格別、見事だった。雪が帽子に残っている。

なぜか、わざとカメラは置いてきた。

往復4時間の運転が疲れるようになった。これでは島(長崎)までの

1240kmが思いやられるが ・・・。

運転に不安はないが、体は重い。河口湖はまだ釣れる。
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できないことより、回復が先 [日記]

部屋の目の前のごみが片付かない。こう書くと秘かに嬉しいのだが、余人

には想像がつかないだろう。僕の心の現状と部屋の現実の状態がピッタリ

合っているからだ。それがはっきり見えている。ごみはゴミだが、実際には

区分けしてみなければ、どれを捨てていいかはわからない。この眼でしかと

見ていながら、簡単には決めかねる、これが面白い、うれしい。

そして、煩わしい。人は煩わしいほうが先に来るのだろうか。僕は嬉しい

ほうが先に来た。どちらでもいいではないか。

僕の今も不安定な全体が、それら部分がかなりそれぞれが広がって、

それぞれの垣根を乗り越えて、お互いに結び付きだしたので、全体が

見据えられるようになった。が、ごみと同じで分類が必要だ。その

きっかけもわかった。島で闇と隣り合っていた14日からのことだと知った。

28日に半自覚から、「なにも変わったことは起きていない、と思い込む」

を書いたが、それまでに2週間経っていたことになる。闇は深い。

心理的には闇だが、現実ではゴミだ。と言うよりもドロ沼という現状へ

の比喩のほうがいいだろう。心と意識の発生について沈思していて

いろいろな仮説が思い浮かんだが、そのヒントからもそこが原点らしい、

と見えた。

意識・知性・作物の栽培・所有から支配への面、同時に自己形成・

区分から細分化へ・道具から文明への面、その結果としての現在の

技術の細分化・専門の細分化と複雑化・不完全な知識を頼りにした

科学模倣によって利益追求の経済システムが膨張することで、

その場で結果が出るものに含まれない膨大な未知数の欠陥が、食料品・

医療品・日用品・土壌・河川・海洋(沿岸)・に微量から大量に蓄積

され、僕らは10年20年単位で深刻な病気に、神経に精神に障害が

出るように、例えば、アトピーとかさまざまなアレルギーになるよう

に組み込まれてしまっている。物事の細分化・複雑化はそれなりの

ルールの適用が必要とされるから、日常生活の照明の点灯から消灯

までシャッターを閉めてからとか開けてからとか、取るに足らない

ものにまで、僕らは微妙にその公式にしたものを自前で頭に築いて

いる。信号を渡るにも、自転車に気をつけるにも、その道路交通法の

一部が必ず、頭を過(よぎ)る。その微量なものが日々のストレスに

いつか過剰な加算になって、病気の発露を重くする。

一応、病理関係だけで説明したが、仕事の関係、人間関係、情報系、

僕らの生活の隅々にまでそれを認めることができる。そして、僕らは

そのほとんどを見ている。少しだけ、自分から切り離せないものだけ

を見るだけではなく、気にして、それが尋常でなければそれを遺棄し、

離れる行動を起こすが、別に行動を起こす必要を特に感じなければ、

事態はうまくいくので心配することはない、少なくとも自分の問題では

ないと、つまりは現実を見ない。人生来の楽天さがそれを助長する。

自分は運転がうまい、と自然に思っている、あれだ。70-80%の

米国人はそう答える。交通事故率を鑑みるとあり得ない数字だそうだ。

(「シャドウシンドローム」より:文は記憶頼り)

僕らの破滅への道はかなり自然数で表現できるということらしい。破滅

はいつの時代でも未知数として予言されている。知性は滅亡が好きで、

過去からの結果だけのデータで概知の結果を作り出す。そこに希望が

あるわけでも、絶望があるわけでもないが、それで騒ぐのは人間の志向

がもともとそれを好むからだ。競馬の馬券を当たる前から当たると

思って、買うようなものだ。外れるとわかっている馬券を誰が買うだろう。

未来予測はかなり当たる。のではなく、おおまかに当たる。誰かが当てる

が誰が当てるかは、いつもわからない。科学的な推測は社会の動向を

併せれば、未知の部分を除けば、それなりに正しいからだ。これもその

担当者の世界への感受性が基本、ものを言う。それでも大まかな結果

しかないのは、僕らが理解して知識とするよりも未知の要素の発生の

ほうが多いからだ。

ちょっと、待って。

何を話して、話すべきではない何かが見えない。

島で見た(?)闇は現実ではドロ沼に相対・相当する部分だ。上で

ちょっとかいつまんで書いた部分の全体だ。誰も見たがらないそれを

どう書くか、どう説明するかという前に”もうどうしようもないという

先入観念”をどう克服するかがなければならない。僕も書きたがらない

からだ。全体を知るにしても、仕事や病気や情報やさまざまな制度の

不備など、その一端の経験をしていないと、なかなかその説明から

危機感を持ち、それを克服するほどの理解に自分でつなげるのは困難だ。

自己嫌悪・自己批判は易しい、たやすい:-と思えるまで社会の中に

あって社会から立てる、つまり自分の中にあって自分から自立できれば

いいのだが。

そこからほんとうに対策を考えることができる。僕はもう少し、回復を

する必要がある。休憩が要る。このところ、毎日暇をみては寝ている。

この半世紀分を寝て取り返す勢いで眠気がやってくる。なにが

どうなっているかは、わかっているが書かない。回復が先だ。

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なにも変わったことは起きていない、と思い込む [心理]

コツンと 固い音がする

これは まったくのイメージだ  その言葉は

でも  確かな 状態と  孤独と不安の これからはじまる

予測を  もたらしている

この半世紀が 壊れることは  僕が  今までの

方向を 失うことだ 

島から帰って  なぜか  もどらない 

体調も  精神衛生も  この状態が 一時的だとは

期待しているけれど   ほんものなら  ここから

記事が 続けられるとは思わない

まだ 現実が リアルに感じて  よりクリアな気が

しているが   この過渡期が  過ぎるのならば

一気に  夢は闇に 変りはてるのかもしれない

想えば そうなる  そして  いつもは 思わない

今度は  その確信がない

これまでなにかしら その芯が感じられたが

今は  それから離れ  放っておかれる

これが 僕の  望んだことか?

このままでは ヤバいという  意識はそこにある

どうでもいいと  僕は 思っている

そんな悠長さよりも  この予感を  出処を

わかるものならば、 と  探す

探す と言うだけのことで  反応がない

ないから  このことは  何らかの意味で

決定されている   少なくとも僕のルール、パターンの

なかでは  そうだ

決定の意味は  ふたつだろう

ひとつ  過去はまったく意義を 失ってしまったこと (確信の喪失?)

ふたつ  このことに 因果が  ないこと (心に引っかかっていない)

つまり  今の僕には  まったくわからない状態だ、、、

ということだけが  確かなこと

瞑想を 越えるとか、考えたことはなかったし

今も  あり得るとは  考えなくていい、と思うのだが。

因果ではない 素因について  匂わせたことがあるが

それが 関連しているのかも 

それにしても、だ

なにが起こっているわけではないのに  心は平穏だ

世間では  平穏ではない  僕も  なにを していいのか

どれを コントロールしていいのか   なにも

引っかからないのだが

どこか 全体で 「コツン」と 固い音がする


2,3日  遅くても 1週間とか  1か月で

これを説明する日を  希望してみよう  

久しぶりの  外側からの  予期せぬ襲来

これは 始まったばかりか   一時の気の迷いか

なにごともなければ  それで よし


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言い訳にしかならない事情 [日記]

「概知の新天地に迷い込んだ、それを探る」シリーズは今、頓挫している。

漢字の心の発生と臓器の心の発生という可能性を考えていて、シュメール

文明についても考えてみた。シュメールは紀元前7500年くらいか(?)

そこに始まり、前3500年の頃に都市文明を築いている。漢字の発生よりも

相当に古い。ここで心と意識が発生はズレていたのではないか、という疑問

が出た。その疑問の前に、そもそも心の発生を臓器や脳に直接尋ねてみても

意味がないのではないか?心が仮想であるなら、例えば、痛みが神経に生じた

としても、神経組織を取り出して、これが「痛み」だとは言えない。かゆみ

もさわやかさも神経が伝えるなら、神経は伝える器官以外ではない。(厳密に

はそう言えないが)

だから、臓器から発生したという答えを得ても、それは心の発生の真の

解決にはならない。心が生じたきっかけ・事件などの動機があるはずだ。

痛みにしてもそれを心地よさではなく、「痛み」とした理由があるはずだ。

そう考えるなら、心の発生にも理由があるはずだ。

そうすると、初めから考えたのはそれらの研究の論や本などを読んで、

それをどう考え、どうまとめるかというアプローチは崩れることになる。

なぜなら、今述べた視点ので書かれた本は、今のところ、見ていないから、

それは「まだ誰も考えていない」からだ。

シュメール文明がどういう意図で作られたかという、新しい視点で考える

必要がある。そこまで根源的な問題になるとは思わなかったが、どうも

まったく新しい学問をつくる勢いでないと、今後の進展は望めないのでは

ないか、という地点に来ている気がする。

心と意識の分かれた発生の可能性ということも併せて考えると、どうも

出発点に立っただけということのようだ。

来年2月からエジプトやトルコなどに旅程を立てている。現地での視察が

少しは役に立つかもしれないが、その間に書かれた心の発生についての本が

なぜ中途半端か、疑わしいか、ということも少しは説明したいと思っている。

それにしても、もう少し感触を確かなものにしておきたいので、この

シリーズはしばらくお休みする。番外編は、気まぐれに登場するかも

しれない。  では
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乱暴な終わり方 [ソフト]

Windows10に移動が終わった。多くのアプリが残って、いかに

使うソフトは決まっているのだと。簡単に言うと、僕のパソコンは

鉛筆と消しゴムの進化系のようなものだ。ならば、それなりに

終わらせよう。と言うのは、Windows7に残ったデータを消したいのだが、

新しいアプリソフトを受け付けないのだから、別な方法、例えば、HD

を直接、取り出して破壊するとか。

それも手間なので、復元しながら電源を落としてやった。1度でも大丈夫

だったので、昔から比べるとタフになったものだ。2回目は長く待ってから

落としたので、効果があった。立ち上げることができなくなった。

データは完全に壊れてはいないが、素人ではデータを取り出すのは市販の

ソフトでは無理だろう。

プリンターにもつないだが、アプリもちゃんと移動できてたようで、

問題なく印刷できた。今までで最も楽な引っ越しだった。今のパソコン

の性能が上がったせいだろう。USB3,0も4つついてるし。

これでスッキリした。
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