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無法地帯でダンス [無法地帯]

無法地帯について考える機会があった。それは昨年のブログを読んでいて、

突然、思い出した。僕らの無法地帯というものがあって、それは信号の

故障で突如としてその交差点が、無信号になってしまうことでも起こる。

座間であった。246号線の交差点で信号が無灯になってしまった。

僕は家を出て、おかしな具合になっている交差点に気づいた。なんと

交差点は車で渋滞していたが、それは246号線だけでなく、そこに交わる

道路からも車が侵入して、つまり交差点の全方向から車が入ってきて

いたのだ。そんなの中心付近で動けなくなって、クラクション鳴らして

パニック状態になるでしょ、と思うのだが、日本人である、すごい! 

縦からも横からも車が動いているにもかかわらず、中心付近では少し

ずつ交差しながら、動いている。横に1台行くと、今度は縦から1台割って

入って、進む。これ交通の渋滞に我慢強くさせられた、秩序好きの日本人

ならではの芸当だろう。この大混雑でも、どの車も少しずつ進んでは

止まる、を繰り返して、どの車も交差点を通過している。外国人が

見たら、奇跡だと言うだろう。

しかし、歩行者はどうなるのだ。僕は東南アジアでの信号のない道路を

それは自転車と車がひっきりなしに通るにぎやかな通りだが、そこを渡った

時を思い出した。僕は観察して、人が通れる隙間はないにしても、自転車

などは慣れていて、人が渡ろうとすると、ぶつかる寸前で停まるのだ。

が、実際にそれをやるのは、慣れていないので勇気がいる。こんなことでも

自転車は止まるのだ、という信じる覚悟がいるのに驚いた。 

そんなわけで僕は比較的スムーズにその大渋滞の中に入って行くことができた。

この時、交差点は完全に無法地帯、信号のない状態という点で、そうだったのだが、

この無法地帯でもそれなりに物事はすすむのだ、と改めて思った。

これが人間のカテゴリー内の無法地帯であって、ほんとうのものは自然の中は

すべて無法地帯だろう。海の中や、深海には信号はないし、法律を知っている

生物は人間を除いて泳いでいないだろう。   

ジャングルならもっとわかりやすい。潜水具をつける必要もなく、たちまち

命の危険を感じるだろうから。

アフリカの無法地帯は、広大な自然保護区がそれにあたるだろう。僕は無人島

とか無法地帯は好きなほうだ。サバンナはあまり雨が降らない。ライオンや

チータもいる。身を守ることは、よくできないだろう。どうやって生き残れる

だろうか。最後にダンスを踊るとしたら、そんな地ではないか、と。僕は

夢見る。


*過去のブログはほぼ見ない。見ると、過去のほうがよく書かれている気が

して気が滅入る。交差点で車に注意して歩きながら、まさに無法地帯だと

感じるのは、スリリングで楽しかった。なにか事件があると野次馬が集まる

のも同じ心理が底にありそうだ。人は社会全体が壊れてしまうのは御免だが、

少し壊れるのを見るのは、ゲームのように自分が死にはしないので、ルール

無視のストレス解消になるのだろう。
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時間よ、止まれ 命 [矢沢]

人間、なくて七癖という言葉があるが、この頃思うのは

人は、なくて七信仰、ということ。まともに見える人間でも

変わった癖は七つはある。その意味で、人は部分部分で

七つは奇妙な信仰や、独自な信仰に頼っている。 

もちろん、7以上ということで、7つに決まっているのでは

ないが ・・。   

以前書いたと思うが、どう書いたかも忘れてしまった。いずれ

似たように書くと思うが、変わったことは性格的・性質で3つは

ある。

それはひとつは、”お天気屋”で、気持ちの変化でころころ言う

ことすることが変わる。ふたつは”予期しない変化”だ。なんの

前触れもなく、方針を変更したり、別のことをしたり、周囲が

驚く行動を取る。

お天気屋は気持ちの変化で、その因は読めるが、突然の行動、

これは予想外なので、まったく読めない。意味のないことを言ったり

したりもする。

三つめは病気の初期や手前である。これには2種類あって、

ひとつは認知症の初期でまだらボケをいう。本人が頭がしっかり

している時間帯と、認識があいまいになる時間帯が交代で

現れる。この頃は、まだ少し頭が働くので、自分でもおかしいと

気づくので、周囲に注意されると、うまくごまかすことができる。

「少しボケてきたかな」とか言ってのける。そのうちに自分は

頭がバカになってきた、とか言い出す。そういう自覚を

隠さなくなったら、ボケの進行がそれからは速くなる。

もうひとつはストレスから神経が疲れ、限界に来るとそこで

糸が切れたようになってしまう。今までふつうにできていたことが

できなくなってしまう。近年では、真面目で融通の利かないような

人が過労を重ねてなる、と言われてきたが、現在では誰でも

そうなってしまう症候群に分類されている。

リーダー格の明るい性格の女性が、ある朝会社に行けない自分

に気づく。頭は会社に行かなければ、と思うのだが、意に反して

体が言うことを聞かない。玄関で何時間も立ちっぱなしになること

もある。これは僕は限界に来た自分を守るための自閉症と同じ

症状ではないかと、考える。自分を傷つけまいと、意に反して

引きこもりになるのと近似。

つまり、現在では神経症や精神疾患、認知症などもなくて七癖

くらいに珍しい性質ではなくなったということだ。


さて、前置きが長くなった。僕の七癖がどこらあたりか、数えて

みたことはないが、多いはずだ。そうしてその主たる特徴はとても

統一している。それは言い表せる、人と同じことをしたくない、当たり前

が嫌い、(1番ではなく)独自でありたい、というかなり強力な欲求だ。

ふつう、意志と感情は別々の傾向をもち、外ではこういう性格だが、

家庭では意外な側面をみせる、という。ところが、僕の場合は意志も

感情もそういう型破りな傾向で一致していた。だから、僕の人生は

決まっていたようなものだ。方向性がひとつに突出していたので、

平凡・尋常ではあり得なかった。数奇な、というやつ。  

それは渋滞している道路での行動のようなもので、渋滞に我慢でき

ない。必ず、わき道に入ってしまう。脱出路を探すのだが、大抵は

袋小路にはまったりして、また同じ渋滞路に戻ってきて、その分

時間を無駄にしてしまうのだが、時として脱出路を見つける。

すると、また渋滞時にはわき道に入ってしまうのだ。皆と同じ

道に並ぶのは、ほぼ生理的に嫌なのだ。それなら、たとえ

無駄になっても、わき道の未知を探索していたほうが、気が楽

なのだ。渋滞に並んでいたほうが、実際には抜け道を探すよりも

早く進める、と知っても同じなのだ。わき道から、渋滞している

車の列をしり目に見ているほうが、性に合う。そういう性質なのだ。

人生もそういうように進んだ。

(明治の学者、寺田寅彦は学者は頭がいいのはもちろんだが、先行の

学者がもう調べたところを調べなおすという、バカなことをして

隠れた大発見を導くという、バカでもなければならない、と言った)


それともうひとつ自由にならないのは、生きる関係の環境と人だ。

それは僕の心の外側の現実の部分だ。僕には選べないし、誰にも

選べないのだが、僕はそういう方向へいつも押し流された。これは

強調や比喩ではなく、決められているかのように、僕には苦しみ・

悲しみに関わる、(インドのように最底辺ではないが)底辺の人々、

それは暮らしに苦しむ人、病気に苦しむ人、人間に苦しむ人、

であり、また反社会的な人でもあった。  

それらは少なからず、重複していた。特に反社会的な(団体や)人とは、

よく話すことになった。傷害で前科20犯の男とは、暴力団とかヤクザ

は根底にこれ、恐ろしいほどの執念がある、というのがわかる。 

この間、若い知人と話した時に、ヤクザと変なことになりそうになったら、

ともかく走れ、まずひとりならなりふり構わず逃げることだと教えた。 

関りをもつと、家族や親しい人が巻き込まれてしまうことが多く、そう

なってからでは遅い。借金を背負わされて、恋人が風俗店に通わされ

てしまうとかは、序の口だから。  

もう一人銃刀法違反で逮捕歴のある、僕の女房と同い年のおばはんは

麻薬を売りさばいたのがばれたが、警察に踏み込まれた家に麻薬はなく、

銃刀法違反だけで済んだのでよかった、と言っていた。このおばはんの

おかげで、その当時勤めていた、月2回だが、知的障害者のホームの

実態・虐待や世話人の横領などの実態を聞くことができた。(おばはんも

世話人をしていて、やくざだったが唯一まともな世話人だった)聞いて

みなければ、すぐ近くのあの世話人が、そしてあの人も、とは納得でき

なかっただろう。そういう知的障害者の世話には心あたたかい博愛な人が

している、というイメージはまったく信じられなくなる。この問題は刑務所

や少年院など内部、外部に問題を抱えていて複雑な面があり、対処できない

部分もありそうだ。  

反社会的な人も、障害者も驚くことに、普通な人であることだ。同じ時間

を過ごしてみなければ、精神疾患は軽い者が多く、まったくどこが病気

なのか、わからない。が、知的障害者は原因が物理的なのか、ともかく

症状が一定なので「おかしい」とわかりやすい人も多い。 

僕はなぜか、そういう環境に縁があって、そういう病気に一時かかる。

軽いが、似た症状を経験する。それで彼らの孤独と苦しみが自分の

経験として理解できる。だから、よく話を聞く。そのうちには彼らの

脳の回路を感じるようになり、それがあちこちで一方通行なのを

感じるようになるのだ。そこは曲がってみてもいいのでは、と思う

ところでも、彼らは曲がれない。同じ突き当りに突き当たって、また

初めの話か初めの質問にもどってくるのだ。ある知的障害者の

質問は4つしかなく、それを2時間繰り返した! 

どうして聞いていられたか? ぼくもその疑問に考えたが、どうやら

それは家系にあるようだ。直接の母は戦後、口べらしで芸子に売られ

た人だったし、父は遊び人だった。ところが祖父は医者だった。

祖父とは赤子の時に会ったきりで、疎遠だったので記憶がなく、

還暦を過ぎ、クリニックで患者の話を聞くようになるまでは、自分の

そういう医者っぽい性質に関心がなかった。

僕の祖父はひどい貧乏医者で、長男が運動靴に穴があいても、新しい

ズックを買い与えることができなかった。ともかくも、患者に寄り添う

のになんの訓練の前提もなく、すんなりできたのは、この祖父の

遺伝子だと思うようになった。

僕はそういう病気の症状に悩まされたが、すべて自分で解決する道

を選んだのは、そういう僕の独自の道を探りたい欲求と、祖父の

医者としての遺伝子があったからだろう。  


そして、ここまでが二番目の前置きのようなものだ。

僕は今年の残りを、今後は精神の戦いから自分を解放しようか、

それについて考え、準備をしようとしてこれまでやって来た。自分の

足枷はある。それに逆らわず、その方向で精神的には成功を収めて

きた。因果の発見、死の認識、死の領域での愛の認知、それは

極度な緊張をともなったが、楽しい精神的冒険だった。それで次は

現実に向かない僕の神経で自分のやりたいことをやって、今までは

すべて神経の疾患で、起業した会社もなにもできずに1年でたたむ、

という事態に追い込まれたが、それを転換できないか、と考えるよう

になった。それには当然、直球は無理だろうから、それなりの工夫が

必要だろう。

まだ、これから決定項を考えるので、何とも言えないが、それに

これまでに書いたことでも、わかったことの半分も言えていないので、

その資料も3000冊以上あるし、なんともひとりでは’なんとも’ならない

事態だろう。

さて、ボランティアでも募集するか?なんか「注文の多い料理店」

(宮沢賢治)みたいになりそうだが ・・・。

人を食うわけではない(笑)。


*題の「時間よ、止まれ、命」は矢沢永吉の「時間よとまれ」の歌詞から

 借りた。  



                                    7.25
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あとがき「快方とはそんな空」 [あとがき]

*世界を理解することは、そのはじめが素晴らしい。  

 理解し終わることは、厳密にはないが、全体が見えることはある。はじまることは

 終わることだが、それが完結するなら、そこからはまた新しいはじまりになる。  

 記憶に残った世界が、そのまま心につながり、動こうとしないのならば、新しく

 はじまることもない。    

 これは選択の問題に見えるかもしれないが、自分の資質と運命のことで、その場

 に立てば、すでにそれが決せられているのを知る。その時までは、わかることが

 ない、それが僕らというものだ。自由とか自由意志というのは、僕には未だ、

 冗談に思える。僕は、しかし、自由な気分はいつも手に入れようとしている。

 自在感というのも夢のことなのだろう。ところが、それには手をつけることが

 できる。  

 そういう心の峡谷から現実の谷間という、わかるようでわからない綱渡りがある

 のは事実だ。直截の夢が叶うというのは、まやかしだが、現実に形を変える

 (または整える)というのは、ほんとうだ。この不安定になってしまう表現の、

 当の経験を目の当たりにしてほしい。

 百聞は一見に如かず、と大昔の人も言ったではないか。
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快方とはそんな空 [空]

ここに文字を 書いてゆく  


そうしようとして  いつものように  


書くことはない  その感じに  そう書く  


気持ちが こぼれる曲を 聴く   


そうすると  感情が重ねられて  なにか  


書ける  または  そんな気がする   


その気持ちに 重ね合わせるから  言葉が  


出てくる  でも、思うんだが  


どうもそれだけじゃない  理由がある  


知的な 話が  信じられなくなっているんじゃないか、と  


気持ちなら  その時の 一時的なものだとしても  


少なくとも  反論とか  批判とかは  浮かばない  


そうして 矛盾を感じて  賛成と反対を  


子犬のように  自分のしっぽを 追いかけて  


小回りしなくて  すむ    


矛盾した言い方に 気を  使わない    



僕は  考えてみる それでも        


これまでしてきたのは  僕の問題を  


それは僕に起こった  事件をきっかけにして  


そこから  起こる疑問を  解決しようと  


してきたこと   


それで  それは  かなり  必死で    


そこから 一生懸命に  移った     


60年という  中国での一周期だろうか    


一度  休むつもりで  


一度  まとめるつもりで   


抜けてみると  楽になってしまった   


そして  体力・気力で 元には戻れない   


そんな気に させられている   


気の抜けることのなかった  あのむなしさは  


今は 感じることができない   


そして  ここにいる    


すべてが  ここにいることに なった  


これをどう表現していいか  正確に わからない  


いや、それどころか  これが どういうことなのか  


わかってはいない気さえ  している   


玄関のドアを 開けようとして  やや 大きい蜂が  


植木の間を  飛んでいた   


いつものように  無視して  そうしたが   


違った  すぐに 目を蜂に  飛ぶ様子に  


感じが 違う   


この危険な、と言われる 蜂に  


妙に 愛情を 感じた   


愛でる、という感じ  


それは 花を愛でる、と同じ    


飛ぶ様子が  少し 愛おしい   


感じるのは  どうして  いつもは感じない  


蜂への それを感じたのだろう? という疑問だが   


疑問にもならないのも  感じた   


休みなのだ  


どんな 心の内容も  取りに行くのは   


嫌なのだろう    


それとも  強い生きる動機を  失ったか  


そうして  疑問を掘り起こすのも  かったるい   


どうでも いいじゃないという  倦怠感   


そうしながら  重さは 感じない  


軽い    軽い、 軽い    


むなしさも  軽いのが  あるようだ   


軽い  お、軽い  軽い  


今は  自由さも  いらない   


愛もいらない   この休息は   


変に 透明だ   


変に  かろやか   


平坦で  平和   ただ  平凡でないのは   


空気が きれいに  はりつめているから、だろうか   


なにも  強調する  それがいらない    


ただ  歌いたい歌を   歌えばいい   


それが  快方  という  


空を  映している   



もう 言葉に 頼らなくても  いいみたいだ  


いい気分   


ズボンの 小さな裂け目から  ちょっと  


足が突っ張って  破けてしまう   


ふ と 見て    


ふ と 思う  


それでいいではないか   


破れようが  破れまいが  


それが  なんだろう?   


それが ・・・   


もう こうしていなくて  いいんだが  


書くことには  ソフトな充実感が  ある  


それが  続けることを  促す  


いい演奏を  続けるような 具合に   


そんな気分に  なれる   


そういう点では  得をしている   


ピアノを 弾くように   


キーボードを  そうしている   


心の キーを叩くように  


そう       


これは  演奏なんだ    


即興で    


なにも すがらなくていい   


あるものは  あるから   


ないものは  ないから   


カラー    


クール   


コングラッチュ  エイション   


インストゥル メンタル   


アッ アッ アッ   アッアッアッ~ア ア Yaア  


アッアッアッ~ ア ア Yaア    



やさしさが  悲しさとは   


涼しい   


暑さの しずく  


それが  なに?  


いつか また   フィー、fee  


明日 あ  


ユニ ユニ   


うすい もやを  明け方に  


突き抜けてゆく   


なにか   


本まで  読みたくなって  


オープン、  


名前を 呼ぶのは   


久しい    


ダムン、  スカイ   


カラー、  カラーヴィ  ニュー  


見て  


見て   見て   



思い出すんだ  


何のことだろうと 思うだろうけれど  


・・・・・   


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夏は休みを 、 ん・H・か [休日]

夏休みの予告をこちらでは忘れていたようだ。  

たぶん、ストレスで神経疲労に来ている。そこから腰痛(運動不足もある)と 

たまに胃痛。猛暑でだるいのも上乗せされている感じ。  

今月20日から来月まで、ほぼ1か月の夏休みを取ることができた。 

9月は4日から島へ行って、台風の影響を確認。その他。  

だいぶ疲れてしまって、ブログ訪問はできていない。9月までには  

なんとか再開したい。 ともかく、よく寝るし、眠る。  

よろしく。  生きてれば・・(笑)


<ん・H・か>  

NHKのニュースをチラ見したら、驚いた。昭和天皇の資料から、彼が

再軍備・憲法改正を考えていた、という報告だ。軍閥は嫌っていたというが、

300時間だかのノート資料からどうして、そこだけを浮かべ、あたかも

憲法改正を促すような報道をするのか、まったく解せない。300時間も

話したのなら、もっと取り上げるべきテーマもあったろうに、終戦記念の

時期をわきまえず、報道に及んだことにNHKの真意を疑い、政府との

癒着を疑う。そう思いません?

学者がどういう文脈があって言ったのか、が大事だと述べていたが、その

とおりで、どういう意図があったのかは、前後の文脈を加えて判断しなくては

ならないのだが、そんなことはまったくおかまいなしなのだ。

N国党というのは、もっと深くそこらあたりにメスを入れるべきではないか、と。

思う、この夏の暑さかな。
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人生はパノラマ [パノラマ]

天とは どこまで 届くことを   いうのか     

僕らは いつまで  生き続けることを   まかされているのか    

それが あり得た、 あり続けたことが    

僕の 人生というものだった   

そういうことを  言える日が あるとしても  

そんなに長く  生きられるとは  ずーっと  思っていなかった   

来てしまうと  ほんとうに来た。  

こうして  まだ  生きているのだ  不思議さもなく   

それが  奇妙で 不思議なこと    

こうして 夢にも見なかった  ここまで 来た、ということが  

まったく  30年前と  何の変哲もない  月と  夜  

まったく  統一しているかのように  透明な 意識  

もう 言葉で語る  感慨も ないように思える   

今 死んでも  なんの変哲もなく  なんのためらいもなく   

その 手がかりが  一枚のスマホ というサイン?  


ねぇ  君らは  どこへ行こうと  言うの?  

さぁ  僕は  どこへ行こうか  決めてないけど  

なんか 指で 合図してない?  親指下に   

そうかい 二階は  部屋がいっぱいあって  

どこへ行って いいか  わからなくなる  

1階は 少し暗いが  広い旅館のように   

自分の部屋を  見つけられない  おお  

廊下ばかりが  続いていて  曲がりくねって   

地下は  もっと 暗いのに  照明は まぶしいくらい  

冷蔵庫や  冷凍庫ばかり  並んでいる  

過去のヒステリーや  ヒストリーばかり 並んでいる  

反省しろとか  自省しろとか  うんざりだね  


ある時  青春というものが  あった  

恋愛の ただ中で  女も 僕も  巻き込まれた   

それが  わからない、 お互いに   

思うとおりにすることが 気持ち自体そのものを  

ふたつに  乖離させて  どうにもできない  

女は  初めて 愛を知った、と言う   

それを 教えてもらいたかった  

君の 感じた  それを 僕は自分のどこにあるのか  

なにも わからなかった   

君らは  何に惹かれて  それを見たように  

言うのか?   

花火をして  小さい子供が パパ、パパと 

僕をめざして やってきた  と 2歩手前で  

パパではないと見て、気づき  帰っていった  

子供は  愛を 暗い中でも 感じられていたのだろうか?  

愛とは  なにか?  

自分とは  なにか?  

自分の優位を 感じるために  君を 嫌いになり  

軽蔑したい と   

それは 君が 目の前にいない間だけの  めまいに すぎない  

友達に戻ろうと 別れ、  またやり直し  

同じこと  また  別れ、  1年後に偶然電車で  

また 同じこと  愛も 自分も 選べない  

ただ  時間があると思えるだけで  ついには  

君も 愛想をつかす  それはそうだ、  正解だ  

思春期という  体の要請は  このように  

手ごわい    

このことを  理解したのは  なんと 40年近く  

経ってから   結婚して 子供ができて 

ある日 君への想いから  耐えられず  自殺した  

したつもりだった  

精神は  無事だった  君は 過去という写真になり 

事実  心から 消えた  理解のきっかけは  

その20数年後に起きた  

知的障害者の子が  CDを買ったと 持ってきて  

それを聞いて  その日々が 爆発してしまった 

そのことへの想いが  君への想いはなく  

その日々への想いが  猛々しく  僕を  

急き立てた  

何度も  書きながら  朝日を迎えた  

思いが尽きる様子もなく  3年  

その季節の中で  愛が 狂い咲きしていた  

僕の心を 利用して  彼ら(死)の想いが   

炸裂して  止むことはなかった   

死を 恐れない人間は  少ない  

僕は  数少ない 獲物だったらしい  

愛に  絡みとられた、  素晴らしく  

それは 天国に似た  しあわせの 日々  

詩を  書くのは 緊張したことで  充実して  

満足し  楽しいことであった  ・・・ まさに  


男は 女を知らない  女は 男を知らない  

男は 五感すべてで 性を感じることができて  

同じ女との セックスは ふつう4日で 飽きる  

男の半分以上が  感覚は集中するので 

TVを観ながら  新聞は読めない  

女が 性感が少ないように  話していても

人の話が 聞こえるし   気がつくことが多い  

女が  男が話を 聞いていないと 文句を言うのは  

ほぼ  無理解による  誤解が多い  

男は  足を出したり  肩を出したりしている女は  

同じ 誤解で  男を 誘うためだと  思う  

女は  会社の 縦割りを  感覚的に 理解しない 

男は  スポーツクラブなどで  学校時代から  

それを 体で 理解する  まだまだ  

でも、もういい  

青春とは  そんな 僕らの体への  無理解から  

”愛” は 死に関わらないと  やってこないし   

”自分” は  親を理解するまで  やってこない  

つまり  

僕らは  体のままに  若かったり  年を取ったりで  

遺伝子や ホルモンの影響を まともに受けて   

体のままに  若いとか 年を取るだけで  

ほんとうに  若かったことも  年取ったことも  ないのだ  

( 不思議 )  

だから  ”自分である”との意味も  自覚しないし ありのままの 

(自分の)意味も  わからない    

ましてや  愛に出会うのは  少数の  一時期の瞬間に  

なる   それは 奇跡であるかのように  

歴史に記録され。  日常でも 瞬間、誰でも感じる 憧れ、

迷い、 錯覚、のなかにある ”それ” というもの      

それは ほとんど  愛に飢える人が多いことを  

ただ 示している  今も、変わらず ・・・  


過去の人が 僕の宿命ではなかったことが  

どうして  わかったのかわからない  

結婚できなくて よかった   

最も 激しく愛した君で あったけれども  

矛盾した  そういう認識に 達してしまった  

それでも  スキー場の帰りに  君の若い時に  

そっくりの人に  出会ったときは  素晴らしかった   

雪だまりに かかった影に  直感した 君を 

人生で  最高の舞台が来たのを  感じて  

その 高揚感ったら  なかった  

出会いから  別れまで  バスで話した20分間 は  

まさに 奇跡  だったろう   

君に  未練がまったくないことも 確認したし  

なにより その日々をもてた  ということが  

どれほど 感謝したことか !  

失恋という  表面など どうでもいいことだ  

その日々が なければ  そのあとの たったひとりでの

愛との出会いなど  なかっただろうから   

   
山で出会うのは  息をのむ  パノラマだ   

日本が  山国であるのを  認めてしまう 瞬間だ  

人の住む街が  何も見えない  山だらけ   

北アルプスで 槍の北尾根の 向こう側を  

雪に足を取られながら 急に  視界が開いた  

山岳が広がり  山並みが 続いて  地球の  

原世界が あった!  

僕らは  山を登りながら  その頂上を  

目の前にして  あと少しで  終了を予感する  

自分の見ている  囲まれた山稜を 唯一の世界、   

として  限られた世界の 頂上という終了を  

そして、   

そこまでに行く直前で  パノラマが  

その向こうに ・・  なんと、 ・・ 

超えたのが  ひとつであり、 手前の頂上に  

しかなかった とは ・・・   

僕らは  思い上がるのだ  

小さな才能  わずかな能力  つながなければならない、

体力・気力 というものが  他人を引き離しているという   

この世の ものさしで  それが10億分の1mm程度の 

差だとは !  

パノラマを 見るまでは   気づかない   

君は  パノラマを  見たかい?  

どんなに  煮詰まっても  そこであきらめたら  

それでおしまいというのは  昔から  言われてきたが  

なるほど  そのとおり !  

1歩でも 2歩でも  後退していいが  

また  やり直さなきゃ  

今の  感じる  考える  大切な  この世界が  

すべてが ひとつになにか、という 気持ちや考え、感覚が  

生まれる瞬間がある  

それは ほんとうに(これがわかりにくい)この世界を  

ひとつ 超えた時に  訪れる!  

向こうからやって来るから  いっさい  構える必要はない  

自分で 決めつけた世界思考・感情なら  それはただの  

自分の世界の要素、というもの  

開ける  世界は   その向こうに、必ず  

見れば  なにもいらない  

納得する  腑に落ちる  これだったのか、 と  

そういう感覚   

僕らは  一つの道を 選ぶ  

一度に  全部は  無理だから  

その中で  世界は  どんどん狭くなる気がする  

どんどん広がって 収支がつかなくなる気がする  

そのどちらも 頂上が  近づいている  

どうやって  時に  それとの距離を  

パリと 東京ほどにも 取れるか  それが  

鍵で ポイントかも   

俯瞰だよ  まれに 必要になる  

一週くらい  会社を サボる  

いいんだよ、  そういう時は  煮詰まったら  

あるんだよ  ( 自分が 真面目だったら  

そう 考えていい  ただ悩んでいるだけだったら  

他のやり方が  あるだろうに )

悟ることの  上位は 「 自分が なにかを究めた、と  

思えた時は  それは感激の時間の  しばらく後で

必ず 自己満足だと 無理やりでも  自分に 言い聞かせられる」

 こと   

それが  事実だから ・・・  

そういう時に  それに向かってあがくのは  

唯一 あがくのが正しい 一コマかもしれない  

あがけよ  君には  その 資格がある  


天とは どこまで 届くことを   いうのか     

人類は いつまで  生き続けることを   まかされているのか    

それが あり得た、 あり続けたことが    

これまでの 人生というものだった    
 

僕は  どうやって  あがくのだろう  

この若さを  どう使うんだろう  

まだ  決めていないんだ   

・・  


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資本主義と中性洗剤 [利益]

これだけ世の中が複雑になってくると、ますます世のいい加減さが

増殖して、またそうでないと世の中が回らなくなる。こういう時には

大ざっぱに、世を俯瞰(空から眺める)するほうが、それぞれの関係

がどうなっているのか、わかりやすい。  

今まで言われていることをくり返すのだが、個別に論じていてはわかり

にくいところを、少し、つなげてみたい。

いつだったか、健康について万全の守りに入ろうとしたことがあった。

だが、健康というのは具体的にわかりやすそうなものだが、実際には

雲をつかむような話でガチガチに体の健康に気遣うというのは、精神

衛生にはとても悪い気がしていた。

まず、健康に良いものを食べるにしても、栄養バランスがあるらしく、

とても神経質に気をつかう必要が出てくる。そして、なにが体に悪いのか

という点では、調味料から沸かす湯までに気を付けなければならなくなり、

とても現実的な対処ができないと、すぐにわかった。時には不健康なもの

を摂取するくらいで、それを気にしないほうが精神衛生上よくて、健康

7割、不健康3割くらいでいいのではないかと、考えたこともあった。

しかし、それを具体的に睡眠・食事・運動にあてはめることは困難を

究めること、確実であった。

もっと大ざっぱに、楽に、気にしないで生活する必要もあった。それを

計算上のバランスで保とうとするのは、むしろ、ほんとうには健康には

なれない方法だと、思うようになった。それで、その細かいやり方は

捨てた。

ではどうするか。しばらくはなにもしなかった。そのうちに気になる

情報が入ってきて、自分が思う最低限のことだけは、数少なくはそれを

しっかり守るだけ、というやり方になって行った。

はじめにシャンプーだが、50過ぎるくらいまでは、いろいろな新発売

のシャンプーを選んでいたが、ある時、TVでかつらの宣伝、発毛剤の

宣伝が多過ぎないか、と気になった。江戸時代に頭の毛に心配をしていた

庶民という話を聞いたことはない、と思いたった。どうして薄毛になるの

か、地毛が濃くて、固い髪の人は薄毛やハゲになりにくいようだったが、

髪の毛を洗いすぎると髪が痛むから、1日に1回くらいが適当だと、書いて

ある雑誌もあった。これはシャンプーも無関係ではないのではないかと、

考え、なるべく刺激の少ないシャンプーを選ぶようになったのが、そもそも

のはじめかもしれない。  

今ではシャンプーはやめてしまって、無添加の石鹸で頭から体まですべて

洗っている。そうなるにはひとつ、大きいきっかけがあって、やはりTVで

歯科医が歯を塩で磨くのは、塩分の摂り過ぎになる、という発言を聞いて、

大変ショックを受けた。

そのころ、時々塩磨きをしていたこともあるが、それよりも僕らは歯茎から

想像以上に直接血液に歯磨きの粉や化学成分を取り込んでいるのだ、という

事実だった。それは歯を磨いて血が出た時に起こる。僕は長く気がつか

なかったが、歯磨きで血が出た後は、右の耳下のリンパ腺がおたふく風邪

のように腫れることだった。これは歯茎から雑菌が入ったために、菌が

脳に達するのを防ぐために、リンパ線で止めているためだった。そこで

死んだ白血球などが熱を発生する要因になっているのだろう。

だから、そういう臨床試験などは決してしないだろう、練り歯磨きなどの

化学成分は毎日だから、相当な量を吸収してしまうことになる。それは

危険だと考えたので、僕は歯磨き粉などで歯を磨くのはやめてしまった。

歯間ブラシとなにもつけない歯ブラシだけで歯磨きをしている。

以前、ブラシに着ける量をほんの少しにしていた時に、オランダ人は

歯磨き粉の量がとても少ないのを知って、倹約家なのか、健康志向か

わからなかったが、同類で面白いと思った。次第に、なにもつけずに

歯を磨くようになった。   

そういう疑問はアレルギーのことを考えて、よくそう思った。僕は

夕食後の箸を、箸だけは自分でその場で洗う。それは中性洗剤で洗って

も簡単に水ですすぐだけでは、洗剤は落ちにくい、と聞いたから。

食事は毎日するし、箸は毎日使う。しかも、直接口に触れるものだ。

すると、いい加減に洗っていたらわずかな量が、箸から口に入る

ことになる。1年とかでは大したことはないが、これが10年単位

なら、・・・3600回だ。たぶん、水でうすめて中性洗剤ジュースが

できるくらいだろう。それを年に1回ガブリと飲むのと同じだ、と

想像すると、僕は毎晩、自分の箸を神経質に、ていねいに洗い落とす

のだ、中性洗剤ジュースの元を。

そして、世代が子供に移れば、子供はその化学洗剤の成分をため込んだ

親からその因子を引き継いでしまう。そこらあたりから、体に悪い影響が

出てくるとすれば、30年、40年後の話だ。厚労省や製薬メーカーが

製品使用後の後追い調査を30年40年もするはずがない!金がかかり

すぎる。アトピーとかのアレルギーが出てきた年代を思うと、だいたい

時期的に合っているのでは、と根拠もなしに思ってしまう。防ぐ方法は

ないので、最低限、直接なものは避けるしかない、と僕は思い、還暦過ぎて

からだろうか、なんとなく実行している。

だからと言って、実行しているのはそんなもので、他は気にしていられない。

長野県の山奥で暮らす外人作家が、その清水の水質検査をしてもらったら、

化学薬品の成分ともいえるものが発見されて、嘆いていたが、そうなのだ、

山で川の上流に家がなければ、その清水は最高の天然水で、人工のもの

などが入る余地がないはずなのだが、中国から黄砂(PM2,5情報に見られる

化学物質の含有で健康被害の影響もあるらしい)は昔から飛んでいたし、で

まともなにきれいな100%の水は南極にでも出かけなければ、得られない

のだろう。

食パン食べても、ドライフルーツを食べても砂糖は添加されていて、日々の

食事で砂糖、塩、油は自分がどれだけ摂取しているか、計算できないし、

まずしたくもない。

コレステロールは許容数値をはるかに超えて、もう30年も経つが、

いつも要検査だが、検査にも行かず、血管原因の病になったことはない。

それでも、立ち眩みになる一時期はあったから、何とも言えない。ただ

重症になったりで、医者にそれで通ったことない、というだけだ。

毎年、花粉の季節にくしゃみと鼻水を最初にその日一回して、鼻をかんで

しまうと、終わりだ。今年は花粉症になったのかと思うが、そう思い始めて

20年も花粉症にならない。自然を受け入れるのも自然に、なので山男が

動植物を敵視したり、気にしたりしないように、花粉症にならないのも

当然なのかと、思うこの頃だ。


マルクスは資本論で、まさに商品経済の理論から、それを通して、

その中から資本主義を否定した、という著者がいるが、その点が素晴ら

しいらしい。これもその前半のそのまた前半の数十ページの話であるが

・・・・。

資本主義のいい点は(表向き)自由経済であることだろう。そして

欠点は利益を上げるシステムが中心であることだ。そのために利益を

最大限にするにはという工夫が、どの時代にもくり返されてきた。

それは自然に独占主義という方向に赴く。市場を寡占してしまえば

自分たちで好きに値段をつけられるから、まったくの新製品や海外の

知られていない製品などは、高値になる。

僕が香りがいいからと、香港で買ってくるイギリスからの輸入石鹸は

4個入りで100円以上、というくらいだったが、日本でアマゾンで

同じ輸入石鹸が1個700円とか900円とかで売られているのに

びっくりしてしまった。暴利だろう。

さて、ミクロからマクロに飛ぶが、世間で「おいしい儲け話」はない、

と聞くが、それは本当である。だが、庶民は1億円に近い金額をもって

いると、いつかは自分にも「おいしい話」が来るのでは、と期待し、

その期待に負けて、慎重に対処すれば避けられる詐欺に引っかかって

しまう。儲けたいという自分に負けただけなのだが、話は「おいしい

話」のことだ。これは最初から最後まで、僕ら庶民にとってそれは

100%、いや、200%ない。「ない」というのはこれからも

未来永劫?変わらない。なぜなら、金は、利益はその機会を作るもの

だからだ。

少なくとも、現在では2億以上ないと、大金とは言えない。金持ちの

建築家に10億を預けるのは不安か、とある資産家の実業家が尋ね

られたが、「あの建築家は資産は10億ありますから、安心して

預けられます」と答えていた。金持ちが信頼するのは、人柄ではない、

現実的にいくら資産があるかの問題なのだ。そういう大金持ちが

利益を出す事業を考える。これは政治がらみが多い。大金が動くからで

その時、出資金の形で数十億以上の資産家から、それを募るのである。

これが「おいしい話」で、まず確実に利益になるし、利益率も高い。

大手の証券会社でも、2億に満たない客は客ではない、と。国の

事業などでもそのこぼれが来るのは、2億以上の金を証券会社に

預けられる客だけだ、と聞いたことがある。だから、僕ら庶民に

おいしい儲け話など、まったくもって来るはずがないのだ。

金持ちは金持ち同士で儲けのスクラムを組む。これ、当然の話だと

思う。おこぼれを庶民に配分しようという人は、そもそも金持ちに

向いていないから、まず金持ちになっていない。

そこで、僕らはあくせくしてしまうのだ。資本主義の精神が私利私欲

に走りやすいのは、こういう点にある。もともと配分するパイが

小さいのに、それを大勢が取りに行くから、取ったもの勝ち、となる

のが世間の常道になる。だから金持ちは庶民を信用しない。絶対に

金を回さない。(時々、金にまとわりつかれている気になって、金が

嫌になり、何億円か竹やぶに捨てる、疲れた金持ちもいるが・・・)


小さなパイを奪い合うものにとって、誰かが得するなら、自分が

得してもいいではないか、というのは金箇条と言うのか、そのために

誰かが犠牲者になっても、他人に利益を回す必要はない、と考える。

自分と自分の家族なり、テリトリーが無事なら、それでいいのである。

そして、危険な話をもちかける詐欺師は、人には「たまには自分が得を

しましょうよ」と誘いを持ち掛けるのだ。皆、やっているのだから、

今度はあなたの番ですよ、とかうまく言う。

これを資本主義という、よくわからない自由さが支える。賞味期限

過ぎてもまだ大丈夫だから、使い回してしまってもいいのでは、と。

「もうけ」を取るのが、まず第一が至上命令なのだから、それは数字

や目標で目に見えるようにされる。

僕らの体ではわからないことが多すぎるのだが、そういうことは基礎

研究と言って、時間がかかり、その分研究費も人件費もかかる。会社は

そんな金食い虫よりも、今世間で注目されている新発見の栄養理論や

栄養素、疾患への対応薬を作ったほうが、もうかるから、優秀な研究員

ほどそちらへ高給で引っ張る。かくして、人の体のことはどうでもいい

システムが動き出し、良心的な研究学徒でも、研究費がなくてはひとり

ではどうにもならず、世間では応急対応という形ばかりの薬品・製品が

大宣伝され、マスコミをとおして注目される。

病院通いしても子供のアトピーが治らず、山の自然学校で3か月生活したら、

アトピーが治った(症状によるし、個人差もある)とか、本来だったら

おかしいでしょ、そのほうが。

  
僕は環境差というものは、想像以上に大きいと考えている。特に、呼吸が

変わることについて。鼻・口の呼吸や皮膚呼吸が環境差によって変わる

ことは、その人格にも影響がある、と。これはまだ、直感段階ではある。 

  
僕は資本論を批判することに、それほど意味があるとは思っていない。

人々が「資本論」を理解するまで読みこなすとは思えないから。世間で

は資本主義とかはどう捉えられているか、それは無理解と誤解の産物に

違いない。だが、むしろ、そのほうに、大多数の人が考えている、いい

加減な資本主義のほうに、重要な意味があると思う。それが世間、という

自分(たち)だから。
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天地創造のぬり絵 [ぬり絵]

旧約聖書の神について、そもそも神話について思いを巡らせ

ていると、天地創造は知の、知的なそれらしい発想だと思いついた。

聖書の「創世記」ではじめに「はじめに神は天と地とを創造された。」

とある。これは僕らの世界用の話で、まず僕らが今、それを見ようと

して見ている、この現世界を前提にしている。これは僕らが無の空間

のようなものの中空に浮かんでいる、といった不安な状態を避ける

ためでもある、と考えられる。神も地に足をつけ、空を見上げたかった、

という僕ら自身への僕らの弁明でもありそうだ。

続いて、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が

水のおもてをおおっていた」とある。

僕個人としては、この「闇が淵のおもてにあり」という表現は重要であり、

この表現が僕の意識に沈んでいたのでは?と思わせるものだ。と言う

のは、僕が闇に感じるのは、まさしく死のゾーンの淵からそれは広がって

いると想像させるものだったから。

しかし、いきなり水が存在しているのはおかしい。さらに「水の間に

おおぞらがあって、水と水とを分けよ」「神はおおぞらを造って、おおぞら

の下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天

と名づけられた」

つまり、天にはその上があり、それは水だというのである。この頃の人は

空の上に天があり、天の上の今の宇宙は、水でできていると考えていた

らしい。さらに、「はじめに神は天と地とを創造された。」の後、2日目に

「光あれ」と光を創ったらしいが、どうも順序が不自然だ。

と疑問を呈していっても、つまりは無駄なことだ。天地創造は神話に類する

ことで、おとぎ話のようにお話として作られている。韓国の古代の英雄は

なんと卵から生まれている。韓国ドラマでもさすがにそこまでは神話に

忠実には話を作っていない。


僕も天地創造を仮説として作ってみたい、子供がぬり絵で遊ぶように。

所詮、人の知恵である。この世で見たものを材料にする以外に想像の

働かせようがない。神話の事実にはお手上げだ。

まず闇があったとする。これは変わらない、というよりこれ以上に人間の

認知の及ばない根源を表すのに適した言葉もない、と言える。それは

光の介在する闇ではなく、混沌である。そこに光がないのだから、わからなさ

を感覚で闇とするのは、適当(適切)だろう。 その混沌にチリが生まれ始める。

チリが増殖するのは遅い。チリとチリとが衝突するのは数京年(1兆年の

10000倍)に1回くらい。その時にチリが圧力で膨張し、また崩壊するので

チリが増える。はじめはこのように、なにも起こらなかったと思える時間が

無限のように流れた。やがて、数京年の数京倍(?)もの時間が経つ頃には

チリの中から反応するものが現れる。そして、チリの増殖と衝突の増加に

ともなって、やがてその反応が加速度的に増える時が来る。と言っても、まだ

数十億年単位だろうけれど。で、ついに生命反応が現れ、最初の有機体が

誕生する。まだ細胞にもならない、その前生命体という根源。それと前後して

チリの衝突から熱が反応して生じ、それが炎となり、光をもたらせた。

やがて10億ミクロン分の1の物質体が反応し始め、それが長い長い間に

分子となる。ここから宇宙の発生までは現在の科学的な推移の説明になる。

人間の進化が始まるのは、ほんの一瞬前となる。 


この話も、神話を否定するのと同じくらい簡単に、”人間の猿知恵でこしらえた

だけ”くらいの批判ですんでしまう。どんな仮説も自由なくらい、わけのわからない

遠い過去の事由だからだ。 神話を楽しむのは、そこに人間の意識という

鏡があるからだ。人は自分を投影して、そこに鏡に映った自分を反映させ

てしまう。ただ鏡に映るように、姿が反対に映るとか、そっくりに映る、とか

ではなしに、あらゆるイメージとして反映させてしまう。そこでは理想化が

よく行われていて、神はその最大限の象徴だろう。

僕は旧約聖書の神は最大の謎のひとつと考えている。彼は非常な力を

背景に人類の分離を図り、争いの火種を撒いている。ユダヤを選良として

他の民族を差別し、自分だけを信仰するように誘導している。

キルケゴールは自分の子を捧げものにするように命じた神への信仰で、

子を捧げようとする父のアブラハムを最高の信仰に位置付けているが、

どうもスッキリしない。子供を殺す寸前で神はそれを止めて、アブラハムの

信仰を確認したという。それは欺瞞が残る気がする。神に服従するためには

自分の子供でも殺せ、ということか。

ともかくも、ムハンマドにもコーランで神(同じ神)は差別を残すかのように、

後継者の決め方を指示しなかった。それでイスラムはスンニ派とシーア派が

後継者争いを発端に争っているが、この差別がすでに見えない意図であった

のは、十分に疑えることだ。

旧約の神が人の前に姿を現していたのは、アブラハムやモーゼの頃であり、

これは古い。ブッダ・孔子・ソクラテスがほぼ同年代に現れたが、彼はそれ

より1000年も前だ。一種の超人、だが、人間種だろう。力は西洋・中東の

大陸に限られ、東洋までは出かけなかった。これはスーパー人類のような

もので彼の意図が(かつて英国が植民地政策で使った)人類を分割統治

するという、史上最初の手法によって力を駆使した、中身は野心の塊だった。

そういう観点から調べなければ、それから1000年後にどうして三人もの

心とか天とか知について、根本にたどり着くものが現れたのか、解明は

されないだろう、と思う。

現代の西洋哲学の根本は、ソクラテスの発した疑問から綿々と継続してきて

いる。ハイデガーの「存在と時間」も序文にプラトンが引用され、ギリシャから

出発している。イスラム教が分離したように、ユダヤ教もキリスト教に、キリスト教

もカトリックとプロテスタントに、キリストの出現を契機に解釈(他)革命(ルター)を

経て、分断されている。

孔子の儒教はすぐに1000年ほど沈滞して、歴史から消えてしまい、(孔子死後

300年は沈滞、その後前漢後期から国教となる。が、そのあとはアジアは仏教

の隆盛で、700年は沈黙してしまう)朱熹あたりからか、色々な思想を混在させて、

復活している。もう宗教・哲学混ぜ物になってしまい、江戸末期の西郷隆盛や

大久保一藏(利通)はその本、近思録(もとは朱子学研究者四氏の書物からの抜粋

だったが、近思録のほうが有名になり残り、底本は散逸した)を教科書として、

青春時代に暗記音読した。当時の日本では武家ではそれが主流だったらしい。

西郷の「敬天愛人」もここから来ている。

それぞれが脈々と、当時は書かずともわかっていたことを、千年も経つうちに

わからなくなり、内容はそれに合わせて衰退していった。旧約聖書も古代

ヘブライ語で母音がなくて、後世の学者がこれでは間違えて伝わるかも、と

母音をつける作業が行われた。それで旧約聖書も異本があるらしい。

天才空海が中国に渡っても、たった2年で帰国を中国の師から許されるはず

である。経典がわかりやすいものになって、すでにインドにおいて衰退していた

からである。

日本では経典では死のゾーンに入るので、即身仏になるか、修行三昧の無為な

日々を送るが、無手で悟るものは修行を終えると、それ以上の師匠もないので

直接の師に許しを得て、または師がそれを許し世間に行脚し、全国を行き来、旅した。

現在、紀元前5-600年ごろのことを伝えるものは、その後1000年を経てから

書かれたもの以外ほぼなにもなく、その中身も言葉の意味だけに近い思想という形

に衰退してしまった。僕らはゴミに近い本を読み繋いでいる。それは歴史の三千年

の恨みであるだろうか。カツ丼のレシピを読まされて、カツ丼を食べたのだと教わって

いるようなものだ。


これは極論だと言われるだろうな(笑)。




*僕は体がだいぶあやしくなってきて(腰痛4日目)、いつほんとうに動くの

もままならないという状態に陥っても、体の自然のことだとあきらめざるを

得ない、そういう前の状態ではないかと、思うことさえある。例えば、病気

でも骨折でも、一度入院でもしてしまったら、筋力のみならず免疫力も落ちる

だろう、と。エジプト行きを早めようとも考えている次第だ。



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Breathで それを [伝達]

この想いの 先に  君はいない  


それが わかっているのに  


君に  逢いたいという この気持ち  


いくつも こういうシーンが あって  


いくつも いくつも  


乗り越えてきたと  思っていた 


けれど  


君を 求める  これが 


これが?  そう これが 


終わらない と言っている  


地球ほどにも 大きい水玉が  


落ちてきて  潰れ  世界に  洪水を


もたらす  


走る水面が  震える  


君が いたこと  


君が  話したこと 


君が  笑ったこと  


それが 大事なことだと 


感じていた  


それが すべてだとまで は 


知らなかった  


・・ 知らなかった  という  


それが  悲しみになると  


知らなかった  


僕が  愛したいという  その求めたものが 


それは 君の範囲を  はるかに 


超えていた  それが 


わからなかった  


泣き叫ぶほどにも  強いものだとは 


気づかなかった  


愛したかった・・ 


僕の生きることも  死ぬことさえも  


包み込まれることを  期待していた  


気づかなかった 


死のうとして 生きていた  まだ 未熟な 


自分の状態に  気づかなかった 



君とのことが  もう 修復できないと 


わかった  気持ちの問題なら  よかったのに 


2年間 一日のように  踏切を通っていた 


そして  その世界が  現れた  


フェンスの金網  その内奥で 輝いて 


見えない命が  あった  


今なら わかるが  わからなかった 


その時 


金属にも 命があることに  ただ 驚いた 


そうではない  


2年の 失意が集中して  死者たちを 


呼んでしまった  


それは あたたかく  やさしさにあふれた 


信じられない  しあわせを 感じられる世界 


なにもかもが それが それだとわかる 


それが 自分であり  世界であり  その物であるという 


そこにあるだけで  じぶんでさえ  それだけでいいという


まったく完結しながら  生きている喜びである 


もう、すべて、 と言って  その先が 


なにも 言う必要が なくなる 


今は 説明になってしまう  その強烈なイメージが 


もう  甦らない



その人たちが  創っていたのが  愛 


それだった  知らなかった 


死者たちは  死のゾーンに  不死のものを 


創ろうとしたのだろう 


会社を辞めて  僕は別れ  ひとり 


喪失感と どう折り合っていくのか 


夕方に バイト帰りの 踏切を 


毎夕 渡っていた  


僕が  2年の間に  踏み込んでいた  死のゾーン 


彼らは  僕を 見つけた  


僕は  神秘 というものを 感じ続けた 


その時間帯だった  アパートまでの 5分間だった 


未だに  しあわせいっぱいで  記憶がない。  


生きていた  道路が  家の壁が 


見渡す なにもかもが     内奥の光に 


見えない内側から  キラキラしていた 


あの頃は  なにも わからなかった  


しあわせの”直接”が あったということが 


それは 直接過ぎたのだ  あまりに 


頭が イカレるほどに  


三日から 七日だと  日数がわからない 


あまりに しあわせで  しあわせに 耐えきれない 


それほどの  直截な “生” というもの 


話しても無駄というもの  その ハードさ  


まったく ”すべて” という言葉で あとに 


続ける言葉がない  それが 直にあるのに 


何を 言う必要がある、 言える?!  


リアルは 言葉ではなかった  見るものが すべて 


輝き 生きていた  その全体という 高揚 高気圧 別世界!


彼らも  愛したいという  要求が強くて 


果たせなかったのだろう  


僕は  ついに  もういい じゅうぶんだ、と 


言ってしまった  


人は  幸福にも  耐えきれないと  知った  


あっという間に  それは消え去った 


どうして 僕の言うことを 聞いたのか?


長い疑問が  残った


それが 心のものであるのは  それでわかった 



もう 40年経った  そういうことは  一度しかない 


一度 拒否すると  もう  どんなに頑張っても 


それは 訪れない 


しかし  相手は  永遠に属している  


そのかけらが  何度もやって来た  同じだ  


かけらでも  永遠は 永遠だ  


僕は  すべてで 巻き込まれる  


そして  愛からも  遠ざかる決心をする  


それは もう 書いた  


全体を 捉えられる チャンスは  その一度なのだ  


あとは  アレンジされて  部分になる  


今は?  もう記憶だ  


愛の記憶は  愛ではないと  わかりすぎるほどに 


わかる  



僕らがすること 出来ることは  条件さえ満たせば 


無限だと  僕に  わかり過ぎるほどだ  


それが  伝わらない、わからないだろうことも  同じ様に 


無痛な 痛みのように  感じる  


直接の感覚は  伝えられない 


それは  自分を超えて 精神の死のゾーンという  


危険から  奇跡的に生還 しなくてはならないのなら 


どれほどの 自我(ひとり)のエネルギーが いるのだろう? 


自我の 異様な高揚!


眼が 覚めると  地球で一番ちっぽけな 


自分が いるのに 気づく  いつも 


常に  人間にもどされる 自分がいる   必ず!


僕は  誰に それを期待できるだろう? 


その 人間の意志なんか  無視される


極度の振幅に  耐えられる  誰か、 を


え? 



僕は  今も  愛したいと  


そこに 理想を見てしまっている  


近づく女の子は  なぜか  私なんかを、と 


つまらない卑下した  言動をみせた 過去 


まだ つき合ってもいないのに  


夢は 現実にならない  


人間は  空を飛ぶのに  飛行機をつくったが 


鳥のように  優雅に  飛び立つ夢は  


叶えられないでいる   


これからもじゃないかも しれないが 。


僕らは 希望や 可能性を 夢だと 


するが


現実になるものは  夢ではない 


男は 女になれない  女は 男になれない 


手術も  気持ちも  どこか 中途半端 


年齢がくれば  男も女も  ただの人間という 


最後になる



僕は  夢を見る 


終わらないだろう  


自分は  「なにを  したかではなく 


何を しようとしたか」 


その言葉を  生きようとしている 


あのおじさんは 言っていた 


隣は 道路のごみを掃除しないから 


こちらも 掃除しない  あちらの分まですることはない、と 


ほんとうに そういう問題なのか 


それは あちらのやり方を 真似ること  だから 


あちらと同じ 仲間になることなのだと 知らない 


おじさん!  あんたは ほんとに  なにを望んでいるの!  


道路の清潔さが 好きなら  ぜんぶ、掃除しなよ! 


あちらの思惑は  あなたの人生に まったく 


関係ないんだよ!  文句は いらない


したいことを しなよ!  しよう!


気持ちいいから



僕は まだ 


夢を 見ている  


Breath 


愛で 息を したいんだ 





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