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冬の猫 [猫]

猫が来た。 

いつもはたまにしか来ない、猫が来るようになった。  

ほぼ、毎日 。  

冬だからだろう、   歳も来ているからだろう。  

まず猫缶だが、6缶で1か月近くもっていたのではないか。  

ここんところ、間に合わないから、9缶ずつ買っている。

あまり神経質に逃げなくなった。それで携帯で被写体になるか  

試してみたら、あきらかに嫌そうだったが、諦めていた。  

人間の取る、おかしなものでおかしな行動と、認識はしているらしい。  

以前に撮られたことがあるのかも。  逃げるほどの強い抵抗は 

ないようだ。しかし、ピンぼけ。  

やはり、ふつうのデジカメで10倍も望遠を使用が、ベターか。  

この野良猫は3年以上も前に、駐車場で見つけて、駐車場に  

エサを持って行って、浅いつきあいが始まったものだ。  

その時も太っていたので、野生を損なわさせないためにも  

エサはやや少なめで与えていた。他でも食べているのは確かな  

ことで、そうでなければとっくに餓死しているだろうに。  

彼女?は夏になると、痩せる。腹の皮がみっともないほど  

垂れさがるのだ。それを引き締めるほどの若さがもうないのだろう。  

というわけで、ここんところはよく太っている。  

彼女の冬の生き残り作戦は、ため食いなのだ。丸々太って、体に  

栄養や脂肪をため込んで、冬の寒さを乗り切るのだ。暑い地方が  

原産だから、寒さには弱い。太るというのは、彼らなりの知恵なの  

だろう。

彼女はもう僕の前ではあまり鳴かない。人に対しては「ニャー」が  

対言語なのだが、(猫同士ではニャーはない)僕がそう鳴いても  

なんらかの同情・嬉しさなどのオーラを出さないから、猫も  

無駄だと感じるようになったのだろう。こっちも黙って、エサを  

用意して、だんまりであげることが多いので、彼女も面倒に  

なったらしい。  

DSC_0079 (2).JPG

ピンぼけの上、顔と白い前足がちょこっとだけなのでわかりにくい。  

彼女、食い残していた、珍しい、もうどこかで食べたらしい。そのほうが  

安心ではあるが ・・。
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ジェシー・ジェームズの暗殺と 風土 [風土]

映画を観ていて、あまり爽快さがなく、暗い結末をそのまま感じるようだと、  

観ないで録画を消してしまう。これがいつものことだが、ブラッドピット主演の  

「ジェシー・ジェイムズの暗殺」は違った。ジェシー・ジェイムズはアメリカの  

南北戦争後の時代で、その頃の列車強盗や銀行強盗で名の知られた  

アウトローだと、有名なので知っていた。暗殺と来れば、結末は暗いし、  

それは変わらない。が、 観ていて惹かれた。ジェシー・ジェイムズに惹かれ

たのか、ブラッドピットになのかわからなかった。無法者たちの平凡な心理の  

動きに、対照的に独特なジェームズの捉えどころのない、寝る時も銃を  

手から離さない裏切りと恐怖への感情が演技に現れる。  演技?だろうか。  

その時はそれを考えなかった。ジェシー・ジェイムズを知らなかったので、  

感情の動きの極端な、不眠症にもなったお尋ね者としての彼の生きざまに

見えた。その頃の通信と言えば、電話はまだなく、電報と新聞だけで  

ニュースは地方なら遅れて伝わる。また、まだ正義とか悪漢というものが  

世の中のヒーローの土台や主流だったので、ジェシー兄弟もそれを  

利用して、慈善や人助けをしたという宣伝を打ったらしい。人々がそういう  

ことを求めているので、銀行員や鉄道員の数々を殺したにも関わらず、  

ジェシー兄弟は一種、”強さ”の人気があった。

しかし、現実は懸賞金が高くなり、元の仲間が逮捕され、兄弟だけになり、  

新しく仲間をこれも二人兄弟をつくるが、大きなことはできなくなっていた。  

ジェシーは子供と妻の元に偽名で帰る。つまり、それでもそこで暮らせるほど  

周囲の人は、ジェシーの人相も知らないということ。娯楽が少ないことで、悪党

も人気者になれる、おおらかな時代だった。   

ここで伏線になって面白いのは、仲間になった兄弟の弟(19歳)は子供の

ころから、ジェシー兄弟の「物語」(出版されていた!)の大ファンで、ジェシー

にあこがれていたことだ。ところが、ひとつ性格に欠陥があるかのように、  

喋り方がとろくて、どこへいってもまともに扱ってもらえない、いじめられっ子  

タイプだった。  ジェシーがそういうのが前にも仲間にいて、裏切ったので  

殺したことをその弟に告げて、恐怖を植え付ける。ジェシーは人の感情を  

読むのに怖いくらい長けている。兄の方は映画では空気をよみすぎる平凡な

お調子者に演出されている。人がいいのである。  

映画では、そのジェシーを撃ち殺す日まで、そのジェシーの家で兄弟も  

暮らしている。二人はそのうちにジェシーに殺されるのではないかと話す。  

その暗殺の数日前だろう、印象的なことが起きる。弟、ボブだった、に

新品の銃をジェシーがプレゼントするのだ。(恐怖に苦しめた)謝罪だと。  

そして、暗殺当日、4月9日にジェシーは不思議なことをする。二人が  

いる居間で、隣人の目があるからと、ガンベルトを外す。次におかしなこと  

に壁に掛けられた絵に「絵が汚れている」と言って、椅子の上に立ち、  

(人に背を向けないジェシーが)二人に背を向けて、絵を掃除し始めるのだ。  

二人は目配せで、ボブと銃を構え、そして、躊躇する兄ではなく、ボブが  

ジェシーを撃つ。 20歳になっていたろう。 

ボブは喜び勇んでジェシーを殺したと、町へ電報を打ちに行く。まだ英雄

願望があって、のけ者ではなく自分がヒーローになったと思い込んだのだ。  


ここで惹かれた理由を述べてしまうが、見終わって、すぐにジェシー・ジェイムズ

を調べた。顔写真があって、やさしさと悲哀のあるヒーローの顔ではなかった。  

冷たい、非情な男の顔だった。似ていると言えば、織田信長だろう。  

今、そう考えて信長を出したが、信長も裏切りで暗殺されている。これは  

潜在意識も多少あるかもしれないが、ほぼ顔の印象(信長は絵)で間違いない。  

映画での殺され方は映画の中では語っていないが、ジェシーが逃亡に  

疲れて殺されるように仕向けて(わざわざ背を向けて)、自殺したように

描かれている。  

この演出はブラッドピットによるものかもしれない。というのは、この映画には  

ただの商業映画にはない思い入れがある、と僕は感じるからだ。まず時間が  

160分と長い。商業映画は大河作品ではない場合は、120分前後で、観客の  

映画館での入れ替えを考えた、観客動員数、すなわち売上げを計算に入れる。  

それが通常だ。大河でもなく、大がかりなエンタメでもない、文芸風の暗い作品  

には長すぎる時間だ。TVでは前後に分けて、2週に分けて放映している。  

ピットはこの映画のプロヂュースもしている。だから、自分が作りたかった  

映画だろう。自分で金を出して、納得のいくものを作りたかった。それが160分  

という時間だったのだと思う。そして、主演(ジェシージェームズ役)をはって、  

見事にアカデミー賞主演男優賞を獲得したという。  彼の演技が審査員を  

魅了したからだろう。だが、そこが僕の惹かれたところと、まったく同じだが、  

たぶん受け取っているものは違うだろう。  

ブラッドピットは顔認証ができない障害者だと聞いている。前にも書いたが、  

トム・クルーズ、キーラ・ナイトレイ(学習障害)、ジョニー・デップ(障害者ではない

が、アルコール依存症)と、ハリウッドには多い一人だ。顔認証ができないので、  

顔の記憶ができない、つまり何度会ってもその人の顔を覚えられない。姿や  

声、衣装でしか認識できないらしい。それは顔のない世界にいるようなもの。  

当然、普通にふるまえるが、その日に会ったり、話した相手の顔はもう夜には  

いつもないのだ。人とは違う。彼がどうやってその認証をしていたか知らないし、  

どんな感覚でそれを克服したのかも知らないが、克服しなければ映画の世界

で活躍はできなかったろう。そう言えば、前に出た映画で裏社会の素手で  

殴り合うようなファイターを演じていたけれども、あれもネタバレを娘から聞いて  

驚いたことがある。二重人格者のファイターなのだ。それからもピットが意識  

して障害からの孤独を演じていたことがわかる。  アンジェリーナ・ジョリー  

と離婚したが、彼女のおかげでずいぶん自信をもって歩き始めた、との  

評論を読んだが、そうであるなら喜ばしい前進だろう。   

演技は意識したもので、そこには技術や計算が働いていて、見る者を引き

込まなければ、いい演技とは言えない。また、リアルすぎる演技も見る者に  

受け入れる余地をまったく与えないのは、失格だろう。演技なのにすごい、  

とか笑わせる、という塩梅が必要。それもその社会の環境次第だが。  

僕が惹かれたのは、ピットがほんものの恐怖の威圧、孤独というものを  

自身の顔なしの世界から演技にすることができたという、ほんものとの出会い

ということにあったろう。  

ここでそれを裏付ける暗殺のその後が、映画で続くのである。ボブの兄弟は  

全米で有名になり、小劇場などでその暗殺の場面を戯曲仕立てにして、二人  

で演じだすのである。しかし、その熱も冷め、観客からは「臆病者」、「裏切者」、  

「小心者」という罵声が飛ぶようになる。後ろから撃ったのだから、それは  

否定できない。兄は気を病んで、自殺。ボブも孤独な生活になったらしい。  

そして、ジェシーの前の仲間がボブに密告されて死んだのではないかと、  

その仲間の家族の親父?らしいのが、ついにボブを撃ち殺してしまう。  

ここまで描いているのは、ピットがその裏切者のボブにさえ、またアウトロー  

という孤独になり、惨めな最期を迎える宿命のようなものに、彼が心を  

寄せたからだろう。  


さて、以上は感想に見えるが、ほんとうの感想ではない。もうひとつ合わせる

べき僕なりには避けられない感想がある。それは当時のアメリカというものだ。  

映画も、ジェシーも、ピットも離れて、ジェシー・ジェイムズという人殺しを  

ヒーローにしたアメリカという風土についてである。

人を殺してはいけない、というのは絶対の常識のように子供の時に  

思っていたが、世間を知る頃には、正当防衛は殺人も罪にならないとか、  

事情によっては情状酌量がある、というのは初めて知った時には驚きの  

ものだった。今の日本では隣人が殺されでもしたら、それは非日常なこと  

であり、「近所でこんなことが起こるとは思わなかった」というショックの  

発言になるのだが、戦争後の南部で誰でも銃をぶる下げているような  

環境では危険はいつでもそこにある、と感じる。人が銃で撃たれるという

のは、より日常に近い感覚があっただろう。だからより人殺しの事実よりも  

戦いに勝つ(例えば西部開拓史における先住民との闘い)、ということから  

強さが尊ばれ、それは自然にヒーロー願望につながる。  


トランプは言葉に強く、そこを(選挙のためのプロパガンダとして)突くのを  

忘れない。「強いアメリカ」はそれを示している。J・F・ケネディも「開拓  

精神」をプロパガンダに使っていた。政治家は選挙民頼りなので、言うことは  

あまり変わらない。現実は公約通りにはいかない。不本意ながらも公約を  

実行できずに結果として、嘘をつくことになる。そして、それを踏まえて、  

いまでは嘘をついても、勝てばいい、という暗黙の了解になってしまって

いて、嘘を公然とつくようになっている。日本の現政権を見ていても明らか

だ。余談だが・・・。  

それで当時のアメリカでは、人殺しだろうがなんだろうが、娯楽もないし  

いつも銃の危険を抱えていた人たちには、貧しいものに例え強盗したもの

でも分け与える、そういうヒーローを自分たちも担ぎ上げたかった、それが

よい日常の憂さ晴らしであり、楽しい話題であったのではないか。   

それでだが、アメリカには日本のような杓子定規の道徳、という観念は  

ないのだ。日本人にも今の自分の道徳意識が、世界から見て融通のない  

ものという観念・意識がないのではないだろうか。 なんにでも功罪が  

あり、X X は正しい、とか、O O は嫌いだ、とかいう A = B という文は、

現実では成立しない。イメージは厳密さに欠けるから。


おまけに::

ブラッド・ピットに戻るが、ハリウッドの映画スターとなれば50億円の

プライベートジェットも買える金持ちで、現代では成功者としてのヒーロー  

だろう。たしかに社会的自由は金で買えるが、それにしても人を扱う苦労が

伴う。それ以上に、それほど自由にはならないのが、心の自由、ヒーローでも

それはいかんともしがたい。ハリウッドの虚飾の世界、映画は演じる世界で 

それは自分自身ではない。ピットはそれを合わせ鏡のように、自分に照らして

顔のない世界でよりよく感じさせられていただろう、世間の思惑とは違う、と。

それで彼は”ジェシー・ジェームズたち”アウトローに寄せて、自らを写して

みたかったのだろう。  



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生産、商品、国富論 [経済]

生産  ・・  、 

生産性、  と考えて困ったことはないだろうか? もちろん、  

ないだろう。 そこからなにを考えるのか、そんな風に考えはじめ  

ないからだ。  

商品  ‥  、  

商品は  工場で生産されるのが 通常だし、 そのイメージが  

現代の商品というものだろう。これを自分の思想に利用したのが、  

マルクスの資本論だという。 経済学だと思っていたが、経済を  

利用して社会思想を語る、 資本主義の終わりを予測したが、  

実現しないで終わった。  という、大筋を読んだが、あまりに  

過去のことなので、読むのを迷っている。  

国富論  ・・ 、  

国富論というと、アダム・スミスの需要と供給で有名な、 ほとんど  

基礎的な経済学だと思っていたが、あれもああいう自由経済になれば  

人々が公平に富を手に入れられる、という理想を論じた思想だと  

いう観点の本を読み始めた。

どうも、経済学というのは社会と切り離せないものらしく、実体経済は  

あくまで”経済”であって、経済学ではないらしい。  

せんだってのノーベル経済学賞も変なもので、同じ理論を提唱した  

二人の経済学者に授与されたが、その学説では二人の論の結末は  

正反対になるという。 どちらが本当かよりも、より新しい論を発見した

という功績のほうが重要だということなのだろうが、素人目から見れば、  

要は経済学はそんなノーベル賞級でさえ、結論が違うという点で  

役に立たねえな、ということで終わってしまうのではないか、と思う 

のだが、どうだろうか?  実体経済は、やはり生き物で、理論で捕まえ  

られないということなのでないかい?  

いつか詳しく論じたい。 余命次第だが・・・。
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今宵も 今宵であるように [クリスマス]

比類 ないもの   

それだけで  満足してしまう  

それは イメージに すぎないのだろう  

音楽から 紡ぎだされるもの  

あるいは   

文学と  小説が 結合して  あるシーンが  

彷彿と させる  雰囲気に   

その なつかしさに  満足する  

その 選りすぐったのでもない   哀愁や  憂愁の  

シーンに   どの言葉の あいだも  

すり抜けてくるような   君たち   

人生の友とは  

君たちのような ものを  言うのかもしれない   

人間ではないし  生物でさえ  ない ・・  


音であり  パッションである   濡れた 感情   

ささやく  街角の  寂しさの影   

雨の中で  街灯のエナメルが 光るように  

艶やかに   柱を  流れて   

窓を 開けて  晴れた空に  出くわす  

それは反射のように  重い心を  写した   

その悲しみの 跡が   さわやかにさえ  ・・   

つらい出来事は  去って いた   

それでも   想いは  後ろ髪を引いて  

裸足で 歩いているようだ

その時は どうしようもないと   過ぎてみて   

そうではなかったことが  ・・ 帰ってくる  

たしかな かたまりを   胸に  残して   


それが あって よかった   

よかったと  思って  心を カバーしようと するが  

まだ  それに触れて  慰められない   

やわらかな  瞳   

忘れられない  はっとさせた  横顔  

そういうものが   みんな   

音になって  メロディになって  流れて   

暗い 海の上を  漂うようだ   

そういうものが  みんな  

見えない 涙の  しずくになって  

防波堤の 突先で   海面に  聴いているようだ   

君たち  ・・・  

なんでもない  そういう  ・・   

僕を  満たすもの    

それらが  果てしないものに  感じられる   

それらは  記録には  残らない   

残せもしない  ものばかり   

それでも   君たちは    

・・・  ある   ・・・   


それらは  誰のものでもなく   

じぶんのものとして   

ほら 一緒に歩いて  ゆこう  

このまま   いつも   

あなたを  邪魔する 影としてではなく  

どこにでもある   自然の 消長として  

あるべくして   影が 必要なように   

時には 伴奏が  必要なように  

感じる よ  

今宵が  今宵であるように  

比類ない  君たち   


比類ないもの  である  君たちよ  


メリー  クリスマス !
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”日常の感覚”を確かめる 光へ [光]

日常を知らない人はいない。  それは それは  

いろいろな日常が あるだろう。  朝、起きると  

そこには静けさは あまりないだろう。  動き出した  

生活の音が 行き来している。  人の喋る声もあれば  

騒がしく声を上げている 共同の洗濯場も ある。  高層階の

部屋ならば 朝の都会の音のない 喧噪や 霞の

独特な 山の方の空まで  眺められるだろう。   

学校へ行く子供のバタバタする音や  自転車の通る坂、  

遮断機の下りる 踏切に  電車がスピードで 迫る。  

いつもの通勤人が  いつものように  行き交う  

駅や  街もあるだろう。  それらは 日常の風景だが  

僕らの日常は  そういう外の光景だけでなく、 内の

心象という風景も 抱えている。   


この時。  


僕らは  どこが上とか  下とかわからない、  日常の

レベルを さまざまに 自分で流れている。  その中で  

人は 自分のカテゴリーという範囲を 持っていて  

その中で  自由にふるまうが   障害や 病気や 悩みに  

よって  適応ができずに  苦しむ。  軽いとか、重いとか  

は  その人次第なので  苦しみに 絶対度はない。  

子供は 大人の思ってもみない  些細なことで  悩む。  

大人は  自分が気づいていない バランスを取れずに  

不快になっている。   

あなたの不快はどこから?  頭?  喉?  節々? 咳? 熱? 

というのは 風邪の諸症状だが、 心象は 体のように明確な  

症状が  見分けにくい。  

アメリカの本で「シャドウシンドローム」というのが  アメリカ人の

誰もが 運転の上手・下手を尋ねると  誰もが自分は うまいほう  

と 答えるそうだ。自動車事故の数字を見ると  それは皆が  

上手いほうだったら  それほどの事故はなかっただろう、と。  

運転が上手いと感じるのと  安全運転はまったく 次元が  

ちがって  そこから人は 一般的に 楽観性が主流である、と  

している。  その疑問はあるが  人は日常で  ふつう楽観的だ  

という指摘は  そのとおりだと思う。  日々、生きているという

感覚が 健康であれば  そのエネルギーを感じていられるので  

そうなるのは 当然のことだと。    

僕も よく日常を知っている、と 思うが  ふつうの人とはちがうと  

感じている。 それは日常の安心感は  それほど感じてこない  

そういう生活をしてきたからだと 思う。  その話を最初から  

するつもりはないが、  これはさまざまな障害が 心に重なって  

いるからだろう。  それも自分のなのか 、他人のなのか、 区別が  

つかない。  そういう精神構造を しているらしいが  これも 説明  

できるほど 明確なものではなく  自分で自分を 事後承認する  

形になっている。   幸い、病気になったことはない、 と言えるの

だが それを断言できないのは 精神や神経の不調であるという 

病気自体の性質に よる。  なにせ 大”うつ”の時は  自分が  

絶対自殺はしない 精神力の人間だろう、 という信念は 脆くも  

壊されてしまった。  自分がそうしたい心情を  強く感じて  

そこから思い切りの力は 通じないので  ただ耐えることで  

抜けきるまで待った。  抜け「始めたら」 社会活動を始め、  

つまり 働き始め 不得意なことも我慢した。 寝ないで働く  

職場に はいってしまったが  まともに精神力が回復したと

思えるまで1年、  辞めることはなかった。   

その気分というものは すべて 学んだ気がする。 その最たる

ものは ホロコーストかもしれない。  悪魔を探した時に  

意識が飛んでしまった ことがある。  これがヒットラーの関連本  

を集めていた時と 記憶が重なって  どちらがどちらか 定かで  

ない。  この時 微熱状態が続いて だるい日々がおさまらない。  

ナチスに虐殺されたユダヤ人の 亡霊の妄想が 浮かんで  

抜けきれない。  それで夜な夜な 相模川まで出かけて  三日三晩  

その亡霊たちに 話しかけたのである。  一晩で1万人を 想定した。  

それで3晩。  元の場所へ帰るように  説得した。  一晩15分だったか  

30分だったか、  覚えていない。  この被害妄想は 自分から離れ  

ないのだから  事実として処理するしかあるまい、と判断したのだ。  

それなら自分が納得する方法で  自分の気分を収めるしかない。  

で 選んだのはアフリカの 呪術だ。   アフリカでは 病になると  

祈祷師が治療に当たる。  病は気からなので、 祈祷師(呪術)は

患者に 小瓶に病気の悪魔を 閉じ込めた、となにか呪(まじな)いを

してから そう宣言する。 すると、村の共同体である住民は それ   

を信じて、 ほんとうに病気が 治ってしまう。  呪術はそれを  

信じるものにしか 効かない。  それで  僕も 僕の脳をだまそうと  

いうわけだ。 脳がさまざまな 錯覚現象を起こすのは 知られているが、  

それは 心と 思考(脳)の分離した部分が あるからだ。それで  

自分ではわかっているのに、 脳はだまされるという現象(錯覚など)

が起こる。  (・・・ 還暦の手前頃だったように  記憶する)

それで治ったかどうかは、 これからもわからないことに違いない。  

だが、 時間は過ぎ、 微熱は収まって行った。 まるで 精神病者の

ような行動だったが、僕は 効果があるのかも 知りたかったから  

なんでも自分で  試してみる。  統合失調症は幻覚や幻聴に

悩まされるので、  相手を説得など 発想も及ばないだろう。 熱に

浮かされているわけではなく、 精神は冷静だったが、  体は少し 

浮かされていた(気分)。   


このように  僕の日常は  かなり非日常に傾くことが  多かった。  

そして「シャドウシンドローム」でも述べていたが、  楽観よりも  

悲観に傾いた方が  現実を知りやすい、感じやすい。  その  

代わりに  日常も悲観の色に 染められることが増える。  それが  

ふつうの人との ギャップとして感じられるので  それはそのまま  

社会との溝になってしまう ので、  人によって 感情、または  

感覚、  または知が(さらに) 悲観に 染まる。  しかし、その分  

現実を 的確に判断するようになる。   どちらがいいとかではなく、  

それぞれが 自分の本分に気づいて それを活かすことだろう。  


僕の日常が  心のバランスの対応に  追われているので  

特に  得をしているのではないが、  実際は 日常感覚が  

降ってくる 時間があって、  その時は  なんでもない日常の  

素晴らしさが  直接、感じられる。  ”日々” というものが  

どれほどありがたいものかが  沁みるように  わかる。  

親の心、子知らず、 子の心、親知らず  という言葉があるが、  

それぞれが お互いなのだ。  得を知る者は はじめからある  

しあわせを 享受しにくく、  得を知らない者のほうが  その中に  

はじめからいるのに 気づきにくい、  という  これもなにかの

采配という バランスなのだろうか?  ただの気分のような  

気もするが  ・・・(微笑)  


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コラム:

<悠久の 庭>   2018 . 6月


悠久の 流れというものは  あるのだろうか

それはあるにしても  そこにとどまり 続けることで  

むなしくならないだろうか

ひとり 静かに  身を寄せる

この 庭園の  すがすがしさは  どうだろう

鳥の声  川の せせらぎ

そこに 坐って  一冊の本を

手に取ってみると   頁から  光が あふれ出し

本の形は  光になり  消えてしまう

そこを 歩いてみると  誰かに導かれるように

感じるのは  なぜなのか

丘から 丘をめぐると   岬の突先に 出る

はるか 海の呼吸が  ここでは

灰色に  あたたかい

波の音が  海の底へと  沈んでゆく

ひとつ ひとつと  たどる

泡ぶくの  音階に 聞こえる

その 顔に触れるか 触れていないかに

淡い感じが  遠くへと  連れ去られるよう

突然に

僕は ここに いる  と

言いたくなる


いつも  自分を 失う瞬間は   小学校から

会社の事務所でも  いくらでも   あった

そういうことを  思い出す  月のような


青は 美しい

そうすると  青い庭が  ある

黒は ビロードのように  輝く

そうすると  黒だけなのに  それぞれの

黒が 活かされた 庭が   ある

白の 庭は  えも言われぬ

純白が  心に  差し込む  その影響は

まぶしさに  すべてが  うすい白のベールで

覆われて  しっとりとした輝きに なる

それらの 庭は  やがて  グラデーションに

柔らかに  その色調を  気がつかないくらいに

変わりゆく

波に せり出した 大きな岩は  まるで 

食べられそうに   生クリーム色に  染まる

絹のような  なめらかさに   思わず

頬笑む   なにかへという  ものがない

ただ  あなたに  頬笑む

ただ  頬笑む            


( *詩の後半、4ぶんの3は 省略。 )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  


顎のあたりから  しびれが  頭の先まで  昇ってゆく。  

感動は  これほどまでに  ・・・ 。   

そういう感動を  味わった時は  同じような状況を  

思い浮かべることが できる。  それは音楽なのか、  

絵なのか、  映像や 写真なのか。   

ああ 僕(わたし)は  感動できる!  

それが  とても不思議な 手触りに  ・・・・・   

それが  とてもまれに感じる  浄化に  ・・・・・・  


ここまで  来た   

どこまでか   わかるのではないが   

眼が ・・・・   覚める   

皮膚が  ・・・・   蒸発 する  

頭に  ・・・・・  永遠が  宿る   

僕は  ・・    

あなたは  ・・・   

音 という   

光 という   

いのち  という   

すべて という   


・・・・ 


ただ   ある・・ もの   

その 美しさ   

その  やさしさ  

あなたが   ・・・   

僕が   ・・・   

君が  ・・・   


ここに   ・・   

・・   

・・





   
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紙の上を滑ってないで雪を滑ろう [自分と知]

 ”紙(観念)の上を滑ってないで 雪(リアル)を滑ろう”



ともかく 僕は 頭に狭い世界を  つくってしまった  

狭いと言っても 地球の全世界だから  一言では  

片付かない   

それでも だ   狭いものは  狭い   

どうしよう  この軋(きし)みながら  

そばのように 伸びるもの  

もう 実践して  経験する  貴重な時は  

去ってしまった     

それでも  ここに 残らねばならないとする   

ある意志 が ある   

その”意志” を 机の上に 置いて  

話しかけてみるのだ   君に   

「君は  このままでいいのか」   

「君は 意見を 言っているだけでいいのか」  

「君は 正しさだけで  いいと思っているのか」  

君に 言いながら  どうやら   

僕にも  言っている   

この 正しさという 呪縛から  どうやって  

逃れたらいいのか   

それは 知に頼らないことを 示しているのだが  

”知に 頼るとはなにか”いう処から  始めなければ  

ならないのだろうか   

考えていることは  ほんとうは 正しくない  

というのは  半分で  それが  正しくもあり  

正しくもないという  命題を抱えてしまっている  

これから 何年経っても  これは子供が成長するように  

いつも  ついて回る   

他に 指摘してくれている 著書(小林秀雄)もあるし、 で  

ホカして  先に進んでしまっていいだろうか と 

今 ここで  考えてみてしまうのだ   

逡巡とか  迷うとか  いうのが そうだ   

この程度なら  君は そのうちに  考えてくれるのではないか、 

という 甘い期待もあるが  自分の”知の働き” を  

そのシステムにおいて 疑うというのは  やはり  

高度な 技に なるのだろうか?   

技というより  知の 負の面に気づくという  

少し ややこしい 気づきのことなのだが ・・  

自分というのは  この知とは 親戚のような 

双子のような  親しい  また  似たもので  

くっついて 動く   

自分が  気づかれたくない面には  知も  

同調して  遠慮してしまう  もちろん  

その意識はない  

知に 気づくか  自分の負の動きに 気づくか  

どちらから 先でもいいのだが   そこには  

自然には(自分に まかせては)  行かない  

ストップ装置が かかっている   

それを外すのは  先入観をはずす  とか  

偏見を なくす   と 呼ばれている   

それを そもそも 偏見とか 先入観とは  

思っていないから  そう呼ばれているので  

気づくまでは  それは 正しい指針とか  

正しい信条と  自分で  思っている  

自分で  決めたつもりでいるが   ある偶然が  

世間の常識(誰かの著書とか=認められたこと) を  

君が 取り入れたものだ  

君は 賛成しただけで  それを 作り出したわけではないが  

それは君のものに なっているから  さらに その上に  

君の一部になっている  なぜなら  それを  

疑っていないから。    疑うにも  正しく疑うことが 

必要で   なにを 確信にするかは  その時  

大切なことになる    

For Example:  

「地球が 丸い とかいうのも  僕は 疑っている  

僕は 地球を 一度も この眼で見たことはないし  

飛行機からも  地球というものは  見えなかった」  

この 例え話は おかしく聞こえるかもしれないが  

なにも前提に していない点で 正しい   

どんな映像も  どんな記録も  どんな噂も  

自分で確かめたものは 一つもないのだから  

たった ひとつも。   

そこまで 疑っていては  なにも確定して  

そこからの話や 推論を 進められない と  

言うのなら   君は  自分の話をする時  

どこまで確かめたことを 基準にして  それを  

話すのか   全部が無理なのかは  わかっている  

問題は  大前提として  すべてのことを  

疑うことができる、という点だ   

すべてを疑え というのとは 話が違う  

それは カン違いというやつで  本筋は  

疑うのは  常識と自分では思われることこそ  あやしい  

そこから 疑うのでないと  僕らは ただ  世間の知識を  

上塗りしているだけ  となってしまう   

自分を がんこにさえ  している となってしまう  

(これに 気づいて  ほんとうだと  確認すると   

話は 速いのだが ・・・ )   

不思議なことに  その意識がないと  その知識が  

引き寄せられない   意識があると  それなりに  

TVや  書店や  広告でも  違和感があって  

そこに  疑いが発するのを  感じる  

またややこしいが  常識も必要   

歴史を 疑っても  なにも 始まらない  

いくらでも 乱暴な仮説を  それなりに 説得力を  

もって  語ることは可能だからだ  

歴史の常識を  覆していたら  キリがない  

そうしたら  なにを  疑うのだろう?  と  

考えた人は  すでにハマっている  なにに?  

自分という前提を  すでに 信じている   

すでに 信じてしまっている   ここに問題があるのだが  

大きな意識の壁が  それを見させない  

鏡のように  それが鏡ではなく  自分の顔だと  

確認させているのだ   

自分の顔を見ているので  それを映している鏡に  

気づかないように  僕らは 自分の正体に 気づかない  

そういうように  知が させている   

そういうように  自分という あり方がある  

めんどう?  

まだ  時間は  あるよ   

僕の趣味は  スキーで  

直滑降をすると  風に乗る瞬間がある  

その時  風は止まるのだが  風と一緒に  

滑降しているのを  感じる  

なんと言っていいか  風の空間世界が  

シンクロして  世界ごと動いている、という

この感じは  経験しないと わからない  

スキーでさえ  そうなのだ   

紙の上では  世間なんて  チリほども  

わからないよ   



*親父がアルバイトで彼の雀荘で便所掃除をさせられたが、  

 それが大層いいことだみたいなことを言われたが、それは  

 もうすでに知っていたことだった。 仕事って嫌なことが多いが

 便器に向かって気持ちを正面にして積極的に、便器をきれいに

 してやる!と手を抜かないと、不思議にきれいな便器に満足する

 ものだ。時給とかのケチくさい計算も必要だろうが、なんでも

 一生懸命にすると体が満足するものなのだ。その仕事がわかって

 いないのに中途にしたり、サボると、自分はそれでいい、と適当、

 つまりいい加減になる。サボるのは、仕事を覚えてしまえばあとで

 いくらでもできる(笑)。それは緊急・重要の優先と体を動かす

 健康の調整ができるようになるから、自分のための、また仕事の

 ためのサボリの調整もできるようになる。悪いと言われる常識が  

 ほんとにすべて悪いわけではない。これは言ってはいけない  

 ほんとのことだったろうか?(笑)



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コーヒータイム 焦げ茶の時間 [お茶時間]

いつも 最後のところが わからない  

あるいは  これぞというものを  見たことがない  

継続は 力なり は本当だろうが  

書き続けることが  そうだとは  思えない   

振り返れば  多くのものを  捨ててきた  

それで進んだことが  何らかのことである、と   

信じたかった   

だが やはり   快い日常には  いられない   

楽観視するには  意識の切り替えが  必要になる   

悲観するほうが  楽で  今の心情に 合う  

と言って  なにか 特別  悲観しようにも  

それを 見つけられも しないのだが ・・・。   

諦観が 合っているだろうか、  あきらめ  

そういう  羽の生えたような  軽い 慟哭  

あれば ・・  

過去と時間を 頭に 探せば  人は  

楽に悲観になれる  

そして  僕も  楽に バランスを忘れる   

自然を 置いてきて しまう   

過去を  どうしようと  それは ロマンスのひとつなのだ  

花を咲かせようとして  悲しみが  染まる  

それは  ふつうのことで   永続を望む方向が  

僕ら  死を待つ生物に  満たせるはずもない   

という   わかりやすい  事実   

僕らは  その夢と 現実  永続と あきらめ  

死と 生との間で   さまざまな理由で  ストーリーを  

つくって  浮かんでいる   

そう泳がせてくれる  なんらかの媒体を  求め  

その時の(そうは思っていないが) 生きる糧にしようと  

している   

そういうのって  それなりに  しあわせなんだろう   

考えてないもの   大まかに 見て  

深くとか  感じていない  それは 才能?  

それは その周波数のように  その波長で  

人生 やっていくんだろう   

うらやましくはないが   それもいいね、とは  

思ってしまう   

そうだ  僕も  今の  考えられる 不調を  

全部 放り投げて  それをやってみようか   

できないことはないはずだ   

そうすると  ロマンスの いいとこ取りも ありかも  

考えない  感じない   

見たままで  それだけでいいと   

あとで  面倒なことになるけど  考えない   

それでいい、 というのが  その方程式だからだ   

あとで  悲しみ 裏切り  憎しみ  わんさと やってくるけど  

考えない   それでいいんだ   

考えていたら  なにもできない   

でも 倒れたら?  そう   

付き添いの 一人は いないといけないかもしれないな  

一晩中  トイレの度に  肩を借りて  

連れて行って もらわなければ    

なに  5,6回 くらいのものだ   

そんなことは  どうでもいいんだ   なってから  

どうにか すれば  


もうひとつ  クリアーしないと   感じるよ  

それは  なに?  重金の箱にいれたような  「なに」?  

今 この場で  手に入れたい  その 秘密は?   

な に ?  

ウワィ  ゥゥ   

そう  ここにいる  というだけで  

感じる  この 力  エネルギーは   なに!?  

感覚が  より 広がる   鋭意な  ポンパ  

黒と  光の影  うまい土と カエルの串刺し  

こんなところに 出てしまったけれど   なにか 違くね?  

そうだ  悲観することはない   はじめから  

なにも なかったのだ   それを弁明したつもりだった、けれど  

なにも なかったって  説明になっていない   

それでよかったって  思っていたけれど   

なんか  違っていたんだ    そいつを  捕まえなきゃ   

なにもない  それを どうやってか   

わかるように 言葉で 示せるはずだ   

なにか 先入観に引っかかっているから  

なにか  偏見に  つかまっているから  

わかんねぇんだよ   

それ、  オレのこと?  

ちゃんと  見て  オレに 惑わされるな  

カードを  ひっくり返すのさ  

なにもないことを  お前は  どうやって知ることができるのか  

なにもないのに どうやって  それを知ったの?  


思い出すのは  君を  愛していたこと  

そうでないのなら

君を  愛そうとしていたこと  

そういう  想い、 想い、 想 い というもの  

そこに  はじめがあるような  ・・・  

そこに  囚われては いけないが  

近づいて  みなければ  ・・  

なにも ・・  なにも  ・・  言うことが  ・・  

なくなってくる    まずいが  ・・・  

それは  ・・・・・・・   

・・・・・・・・・・・・・・ How   

・・・・・・・・・・・・・・ どうして  

and ・・・  down 

Step  ・・  five   

投げやりに  この風景を  捨てましょう  

歩く お尻のかたちが  気になります?  

フィードゥン  チャコール  ロール?  リバティ?  

Did  You  Own My  しおりぃ?   
 
ヌン  ヌン  ヌン   toi  et  moi  

てぽらいず  こんとろーる   背筋しょう   


恨んでいる、 君を  

カバーしようとして   好きでもある と 気づく   

そう 嫌いじゃない  でも、あの時は  

君が  親しいから  恨んでいる   

わかってくれてもいいのに  そういうのを 

親しいとは  言わないの?   

恨んでいる   Long  is  Life     

君は  地獄から  上がってきた?  

ジェンダー?  レスビアン?  ヘタイラ?  

僕の 友を 寝るのに誘ったよね?  

僕が 愛しているの 知っていたよね  

そうかあ   そうなんだけれど  わからない  

どうして  友を  憎ませたのか?  

罪を 認めなければ  罪から逃れられる  

わけでは  ないんだね   

そうかぁ   僕は  それをくり返しているのか  

愛をレイプして  精神を レイプし返しされて 。 

見つけたよ    

僕が  自分に隠した  過去を  

始めはいつだったか  もう  何世代もの過去だね  

覚えてはいない    

過去は  罪なもの   祖々父の またその ・・・  

それに  責任を  求めるの?   

現実的じゃない そうじゃない?  

戦争責任って  どこに境界線を 引くのか?  

関係者でもないのに  罪を問うの?  

非難じゃなければ  批判かい?  

君は  どうやって  境界線を引くのか  

上手く やってほしいよ  

非難しないで 伝えるって  難しい  

君の 動機を 尋ねておかないと  いつか  

むなしくなる   

へい! とうさん  

あなたは いない  

気にもしなかったが  自分が  

気にもされなくなってみると  その強情さが  

戦争帰りの  変わってしまった体質の  

その遺伝子が  僕であるのが  よく   

わかるよ   

結局  負けるのが  嫌だった   

おさらば  白旗さん  

意地の強さは  内面だけでは なかったようだ  

いい加減は  なかったから  気づかない  

気づいても  いい加減に できない  

世間が 手の内にあるだけで  

その手間暇は  変わるわけじゃない  

それらの 心に残した ゴミを  取り払ったとして  

なにかを 発見できるだろうか?  

この重いタッチから  抜け出せるだろうか?  

人間の鎧は  重い、  そうではないか?   

アゲイン ・・  

もう 「僕ら」 とは 言うまい   

もう 重いのだろう  

もう 「君」 とは言うまい  

もう 区別が つかない   

もう  なにも 言うまい  

もう  この 石畳 ・・  

この バッドゥ タオル  

・・・・・・・・・・

ムッ ムッ とか

もう そんなにしなくても いいよ  

そう言って  また いい加減に もどるのかい?  

それも いいじゃん(笑) とか  ヘヘ  

この論理の空気は  ちゃんと  張り付いてるよ  

自分の世界は  もとのままさ  

なにか 起こったのかい?  

僕に  火をつけなよ  

コーヒータイム さ  焦げ茶の時間 さ  

僕に 笑いかけて   そう  そう   

スマイルは  おー  Own  

君に  笑いかけて   おう  おう  

オン ミー  僕の上で  生活は進むよ   

君が 君の社会を 愛する限り  

君は  地球を  守る   

そうだろ?  (笑)  

僕が 僕の家族を 愛す限り  

僕は  僕の地球を 守る  

ね、 そうだろ (笑)  

悲しみは多く  笑いは少ないと  感じるね  

悲しみは残り  笑いは消えると  感じるね

それでも 生活は  イージーに進むね  

なにもしなくて いいくらいに  

それは 僕が決めるから   

体が ぶっ壊れそうなのは  初めてじゃない  

いいじゃない  体は 僕のすべてじゃあ ない!  

バカなのは わアってるって   

家へ 帰れるって  いいよね  

帰りたい家が あるって  素晴らしいよね  

そこに  誰かが  いるから  

・・・・・・・・・・・  



*そこに なにかがあるって だけで  賞賛の対象にも  

 批判の対象にも なる  それが  世の中  

 くさるな  

 千人も 人間がいたら  うるさい奴がいて ふつう  

 1億人なら  そんなのが 10万人いるよ  

 1万 2万の炎上って  要は 普通のことじゃん!  

 ネットの炎上って  基準を 間違えてる   

 10万超えてから  騒ぎなよ   




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朝起きる時は起き、時は習慣にしたがう [習慣]

< ”時間の感覚” を知る >


朝、起きて 同じ一日を思う。  なにか食べてから、薬を。  その薬も

もう 終わっていた。  ご飯、 パン、 ラーメン、 そば、 お好み焼き。 

豊かより、貧しいほうが 選択に迷わずに 済む。  バナナも残っていたな。 

寝床から体を 起こす。  調子は、いいようだ。  今日は晴れている。  

階段を下りながら、 なにかを心に 探す。 挨拶の気持ちだろうか。  

晴れやかでも、 厳かでも ない。  朝は低血圧で 皆、 こんなものなのか。 

玄関裏まで 下りてくると、 頭の中で郵便受けに 届く予定のものはないか、  

習慣で チェックする。  出かける予定も ない。  静かに 見守ることになる、 

今日も 一日 自分を。  自分を数える一日、 その時だけ 時間がある。  

長そうだと、 考える時だけ。  あとは過ぎ去る 早い時があり、 決まった 

ように 昼になる。  

共同生活は いろいろと交換する。  特に 夫婦は お互いを 交換するが  

気づくことは、あまりない。  気持ちの交換は もちろん、 感覚も 選り好み 

で交換し  あまり交換しないのは  うちでは 知だ。  エネルギーは 

法則があるかのように  片方が疲れると もう片方が 補充する。  

それぞれの エネルギーの限界までだが、 交換し合うので  一気に  

疲れることが 少なく、 合理的である。  妻が 携帯をいじり始めてから  

知の交換の 下地ができた。  妻も 仕事を辞めて  余裕ができると  

見なかったクイズ番組 なども見て、 前もって考えた 会話が増えるように  

なった。  もう 余分な深入りは、しないし、 させないが  それでも  

妻は 12日ごとに  文句を言うのを やめられない。  ある一定期間の  

日には 機嫌がいいのを  知らない。  TVの 星座占いとか いうのだが、

それが 数えることができる定数であるのに  気づかない。  

僕も 教えない。  天気予報と似ていて、 当たるほうが  カミナリを  

避けやすい(笑)。  人は 知らずに 自分で無意識な 予定表を作って  

しまうらしい。  僕の生活も  あらゆる観察を  習慣で内含している。  

考えずにいるほうが  目に留まるものを  見るようだ。  違和感があれば  

そこで、見つめなおす。  そんなものが溜まるのだろう、 昼の食休み、  

中心もなく ぼんやりしていると  観察したものが  急に意味を形作る。  

この技術が人間特有で  感覚や 感情を越境して、 中心につなげる。  

それが 発見につながることも あるわけだ。   リンゴが落ちて  

引力を直感するのは  人間の芸当だ。  

夕方に 妻が帰る頃が、近づくと  急に時間を感じる。  なにかして  

暇をつぶそう、と 頭の中に出かけるからだ。  集中して なにかを  

忘れてしまう 夕暮れ時はこれまで まだ、ない。   書くには 早い。  

なにか本を 読もうとするが、読むよりも なにかを探しているほうが  

よほど 長い。  昨日、面白かったものが 今日も面白いというのは  

僕の場合、 滅多にない。  短く読んだ本が 何十冊と 増える。  

今、読みたい本を 図書館サイトに検索している時間が 長い、という

のが もしかすると  僕の一日の、暇のつぶし方 かもしれない。

今日も、明日も?  いや、 今日も  今日も、だ。  くり返しに感じる

のは よほど、観察力がないか、  面倒を避けて、日常の感覚を 享受して

いるからだろう。  日常の楽観に からめとられると  バランスを失う。  

嫌なことは 習慣にならないが、  必要なことは 自分で考えることで  

習慣にしなければならないのだろう。  集中と ぼんやりを セットに  

しなければ ならないように。  

朝起きて、大量の情報が  部屋を満たしているのに  遭遇(想像)

させられる。  

「だいじょうぶ、上手くいく」 呪文を唱える。  

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