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原始の夜 2.(つづき) [瞑想]

(つづき)

瞑想をする、または来るようにする、来てもらう、どれでも同じことを言うが、無念無想を

目指さずに目指す、という逆説的なことをしなくてはならない。そうは思っていなくても、

やりにくいことは間違いない。今までの経験にはない、しかも習慣にはないことをする

のだから、とまどいがある。そうして、決心して目を閉じ、坐ったとすると、始めは心の

内面に沈み始める。これも感覚にはないから、そうだと考えているに過ぎないが、それは

集中することに似ているが、実際は解放することだ。僕らは日常でなにかしら身構えて

いる。時間の観念があるから、常にあと1時間後にする予定とか、明日はなにかをプラン

しなくては、とか。気にかかることは7個以上はあるだろう。考えないことはそれらを気に

かけないことだから、始めは日常のそういうことが意識に上ってくる。で、まずそれらを

忘れる、と。そういう意識の上澄みを通過して、深くなると、次第に今までは日常で気にも

しなかった事象が出てくる。事象とは単なる記憶ではなく、感情にからんだもの、感覚に

強く印象したもの、映像や気持ちに根差した今までは(自分が)見ようとしなかった、嫌な

もの、それが見え始める。僕らは心の中を覗こうなどしない、普段の習慣の中でそれらは

実は見えない隅っこなどにため込まれている。人によっては、それがすぐに見えてくる。 

それは忘れようとしてため込んだ、特別な記憶なので、まず思い出そうとしないので、

忘れている。それが出てくるのだから、気持ちは何事かの反応を迫られる。反省するかも

しれないし、その挙句に自己嫌悪に陥るかもしれない。そして、泣いてしまう。そういうもの

はそれでいい。が、それを一度で済ませることが必要。ひととおり見終えたら、感激し

終わったら、それをそのまま終了する。なきものに、決定してしまうこと。一度めげて、もう

瞑想はやめようと思っても、その決定を心に予約しておけば、次の日に坐ってそれを確か

めた時には意外に気にしないで済むことに気づくだろう。それでもそれが強く主張してくる場合

はまだ付き合う必要がある。しかし、次第にある程度で収まるようにはなる。

そうしたら、次へ進む。なにかを期待しているのに、僕らはそれを意識しない時がある。その

場合がやっかいで、本人が気づいていないので、瞑想の御利益かなにかを、求め続けること

になり、瞑想が決して起こらない状態を続けることになる。お分かりだろう、なんの期待もしない

状態に戻すこと。どんな名僧の瞑想(やり方・場所・座法・季節)も真似てはいけない。その意識

の下には、悟りへのなんらかの期待が潜んでいる。

ここで瞑想の基本に注意が入れられる。瞑想の基本は僕らの内面に沸き起こるさまざまな

過去映像や感情がどんどんとやって来るが、それらを通り過ぎるに任せることだ。なにもしない。

反省も見直しも、見据えることすらしない。ただ流れゆくそれらを、その流れるままに見続ける

ことが肝心だ、ということ。それならば、必要なのは、気が散らないだけの閑静な場所、結跏趺坐

も必要ない。それは後ろに倒れないために編み出されたもので、単なる坐り続ける技術のこと。 

横になると、習慣から眠ってしまうので、それは避けた方がいい。体の緊張がどこにあるかを意識

してみて、そこをリラックスさせる。感覚は閉じる必要はない。聞こえるなら、聞こえるにまかせ、

かすかな匂いも匂うにまかせる。やがて、意識が掴みどころをなくして、体は、脳は体が死にかけ

ていると錯覚する。その考えもかすかなものになる。  

はっと気がつくと、自意識を失っていたのに気づく。記憶も何もなく、時間が過ぎていた、これが

瞑想だ。  

そこまで行ったと、仮定しよう。はじめはそれだけで、なにもない。瞑想した、どうも来たらしい。

それだけで、なにもない。それを5,6回も繰り返すと、何が違っているのか、わからないが、なに

か変。同じものを見て、感じ、はっきりと変わったものはなにもないのに、なにか違う感じがする。

と、僕が案内できるのはここまでで、あとは人と比較しても幾分同じだが、異なる何かがある

だろうが、それは僕にも、あなたにもわからないものとして「ある」。のだから、すべての詮索は

役に立たない。 

なぜそうなるのかはわかる。僕らは例えば、耳のいい人もいれば、眼のいい人もいる。それを

役立てて、芸術や技術に応用できる人もいる。それぞれが自分の得意分野によって、世界の

見方が変わるように、瞑想はその人の持ち分に応じてしか、なんらかの隠された力を引き出す

ことはない。それは力というよりも、センス・感覚というものだろうと、僕は想像する。だから、

この先はあなた次第でどうなるか、なのだ。  

ということで、瞑想の基本が伝えられたのならば、あとは実践しかない。そして、瞑想からの先

は、僕は僕の超個人的な感想に終始することになる。  

もう一度くりかえすが、瞑想の来ない時は、あなたの自分という心の準備が整っていないこと

で、それは気持ちとかの準備ではなく、あなたが見たくない自分の心のため込んだゴミという

過去が掃除できていないから。決着をつけるかどうか、他人のそれぞれの事情なので、意見を

言うことはできない。瞑想が来るようになってから、その問題がはっきりした、ということもある

ので、そのゴミはすぐに片づけるどうのとは、言えない。そういうものは社会的・人間関係的な

事柄なので、人に相談することができる地合いのものだ。なので様々な方法があるはずだ。

あとは、子供ではないので、勝手にやってもらいたい、ここは能動的に。

瞑想は能動も受動も捨てて。

 
坐るのに慣れてくると、脳は体が死にかけていると、錯覚するのは述べた。その時に、瞑想

ハイになることがある。これは瞑想体操のようなものだが、瞑想が来ても、続く。

僕はこの体の死への準備運動としての(死の苦痛を和らげようとする)快楽システムと、実際に

意識のない瞑想状態での自己内の未知の感覚による、なんらかの接触による未知の関連が

起こっているのだが、それらの関係が僕には未解決で明らかな説明ができない。これからも

できないと思っている。それは誰もができないというのではないが、人間という生物的・心理的・

意識的な心身の機能を鑑みると、とても簡単ではない、と思う。

例えば、瞑想をよくしても激しい危険性というものはないが、(瞑想ハイの反動なのか、わからない

が、)死ぬことを恐れなくなり、その状態のままだと、つまらないことと引き換えに自分が死んでも

いいという感覚になる。生を粗末に扱う衝動がある。それを静かな危険性というのだが、日照りで

村の飢饉になった時などに村を救うために、生きたまま餓死してしまう即身仏になった僧侶がいた

が、大乗の人々(衆生)を救うという思想にこだわらなければならなかった、信仰の犠牲のようなもの

だ。が、死に慣れ親しむと、一時的に生を軽んじることが起こる。それは感覚を失うことのひとつ。

そうなった本人には、それが実感なので、そういう神頼みのようなやり方ではなく、生きて工夫

するやり方を見つけなければならない、とそういう風に考えられないのが、死に染まった人の

欠点だ。まだ通過点なのだが、そういう終末観を越えてゆく、その気力を感じることができない。


始めの瞑想体操でも、ショックを受ける人は心的なエネルギーに欠ける人だと思うので、瞑想は

やめるだろう、と思うし、それでいいと思う。この生と反対の無運動は過酷な自我エネルギーを

必要とするので、学校の学科でやるようなものではないと思う。昔から、(空海とか実例だが)

3度自殺しようとしてその都度助かってしまったという人は、生きる理由を求めて、その強い動機

に促され、自然にこの方向に入ってくる。入口は仏教かと思うが、日本に正しい仏教は入って

こなかったし、中国にも入っていない。入ったのは、ブッダが亡くなって数百年もあとに生まれた

大乗仏教というもので、謂わば仏教を”哲学として”完成させたものだ。

日本で悟った人は、すべて自己流になったが、それでも悟れたのは、瞑想が導いたからだろう。

そこまでは導かれてゆくのがいいと思う。その先は道などなにもないのだから。

そして、ブッダはこの悟りを法(ダンマ)に準じて生きるための第一歩と考えていた節があることだ。

つまり、悟りはよりよく生きるための覚醒の方法の一つだと思っていたのだろう。そこからなのだ、

新しい道を歩みだすのは。悟りを得た弟子には、一人で行け、と送り出している。世間での実践が

それからの修行の場なのだろう。即身仏になることではない。

瞑想の経験から(自ら)想像される(この世を俯瞰で感じれる)感覚がある。その感覚による、

これが僕のブッダや仏教への考え方だ。宇宙とか、神とか、心霊とかの言葉でスピリチュアルな

経験に依存したり、惑わされないでいたならば(人はなんでも自分の見たいものを見てしまう能力

がある)、自己喪失の体験は、いろいろな意見をもたらすはずだ。言葉で表現する、とはそういう

ことだからだ。

超能力じみた力があっても、新興宗教を興して悪さをする人もいる。それは人間の「生」という

実態を「死」から比較するのではなく、社会的な権力や利益のために行うのであるなら、それは

不正な政治家や実業家と変わることはない。それはすでにこの世にあるもので、この世に比較

するものはなにもない。見えなければいけないものは、ほんとうに見えないからだ。それが

映像視野という感覚を通すものではないから。

瞑想という言葉も、本来、瞑想のためにはあってはならないものだ。




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原始の夜 2.瞑想 [瞑想]

夜というものが自然とともにある時、それは太古の形をしている。それは人間の文明という

雑音がない状態だからだ。文明以前とは、僕の島の家よりも、まだ未文明であった、蝋燭

もない頃。僕はそれを夜の底のように聞く。深さを聴く。  

夜の底には”原始の夜”があるように感じてならない。


メモ::  

(今、沈思すること10分くらい、大きな謎のひとつに仮説が立てられたことを、再確認

していたら、以前考えていたことがつながって、愛についての誤解がやはりあったこと

に気づいた。まず、大きな謎の仮説の検証には、前々から言っていた中東への

視察旅行が必要になる。その場所が答えになるかどうか、結果が得られるかは

わからないので、今の予想では一応の検証にとどまる。    

次に、愛についての誤解は、しあわせの体験の誤解があることで、すべてが誤解とも

思えないので、しあわせの洪水のさ中と、そうではない感じ方との差異から、新しく

確認が取れそうな情報を沈思してみたい。)  ::   
 

ことは難しい。これから説明しようとする僕がそう言ってはいけないのだが、ブルクハルト

なみに奇妙な言い方になりそうだ。まず、瞑想について、再度説明の必要がある。それは

なんであるのか、が、まずわからない。だから、なぜするのかも、わからない。

似ている現象から :

日本でも3000mとか高度のある山岳に登ると、頂上の小屋とかで雲海に出会うことがある。

雲がモクモクと絨毯のように、山と山との間に敷かれているのである。雲の上の、しかも

地面の上にいながら、それを見れるというのが不思議だ。いろいろな季節に同じ山を

登ると、その都度、山は化粧を変えて神秘な現象を見せることがある。冬の登山は

最も危険だが、雪と氷に覆われた山界は僕らの想像を超えた景色を見せる。命がけ

で登っていて、緊張も半端ないので、まず見逃さない。そして、そういう時こそ、感覚が

全解放されていて、僕らは無防備に感動してしまう。この無防備さが重要で、体も

思考力が弱くなるほどに体力が消耗している。それで見たものが潜在意識にまで

到達してしまうのである。それは無意識に、ということだから、本人はいつもの日常で

のようにいいものを見た、くらいにしか思わない。だが、もうその神々しさはインプット

されていて、山を降りて、ほっとして体力も回復すると、すぐに頭をもたげてくる。  

まだ帰ってきたばかりなのに、また山へ行きたくなるのだ。   

これはすばらしい景色に限らない。感性の強い人がそういうものに感動した時も、同じ

ように花とか、陶器とか、ガラス工芸とか、絵画に一直線にはまってしまうように。その

感動の強さによって、それが一生の行動や仕事を左右してしまうことも、まれではない。
   
登山は頂上まで、その行程は苦しみ以外のなにものでもない。それでもそれを思い

出さずに、何かわからない力(潜在意識への刷り込み)によって、行きたい、と強い

られるのである。ソワソワと、心浮き立つのである。

瞑想だった。
  

「瞑想は何をするのか」、と僕が問う。と、「左のカッコ内の文」を読んで疑問を感じなけ

れば、これを読む必要がある。もちろん、それについて新しい情報を知りたい場合で、

それに自ら考えるべく検証を加えつもりである場合も、である。

まず、瞑想ではないものは瞑想体操である。毎日、足を組んで座り、静かにする、

というのを日課にしている人がいるかもしれない。これは心を落ち着けるよい方法で

自分の気持ちが乱れていると感じたら、実行して役立つ方法である。そして、ただ心を

落ち着けるだけだったら、これは心の体操のようなもので、瞑想とはまったく関係がない。

瞑想は何もしないことであり、なにもしないのは、実にできにくいことである。目を閉じても、

耳は聞こえるし、鼻も匂う。肌も感じるし、感じれば、なにかしらそれについて、瞬間で

考えはじめる。ついては、それらすべてを停止しなさい、というのが瞑想の入り口であり、

もう出口なのだ。

瞑想は僕らがすべての恣意を捨ててしまうという意味で、僕らはただの精神的な存在と

しては無生物になることでもあるだろうか。ここは感覚で思っても困惑してしまうばかり

なので、観念でひとつの次元を作ってしまって、言うと、まず体の不思議なシステムに

その人間の死を感じ取ると、その死の苦しみ?を緩和させようとする。これが脳内麻薬

のシステムで、これは非常にリラックスして、なんでもできるという自由な自在感をもたらす。

個人差については、よくわからないが、愉悦感は誰にでも与えられるだろう。この実証は

スポーツや生命の危機に出会った時に訪れたのならば、マラソンならばランニング・ハイ

として経験されているし、僕もプールで500m泳いでから、これに会って、もう体が沈まない

と思った。そして、手足が自分の意志とは関係なく、勝手に動いて、いつまでも永遠に泳い

でいられる、という究極のスイマー感覚になったことがある。これはスポーツの場合。

瞑想でも慣れてくると、瞑想体操でもこれを経験した人はいるに違いない。

こういう得をしたと感じる経験も、瞑想とは無縁。

だが、瞑想には近い。なぜなら、体が自分のご主人様(体の本人のこと)がまったく動か

ないことに、死を感じてハイにしている、と考えられるからだ。それは体の条件の、動いて

いないを満たしている。体が動かないのを習得したら、次は心を消すことだ。動かさない

のはもちろんのこと、“意識があってはいけない”のだ。 

そんなことができるかできないか、誰もがやっているうちにできる。これは現実の事案の

問題ではないので、この世でこの世に会う、理解できる証明はない。これは結果が体験で

示してくれるが、その結果というのが「なにもないのだ」、ということなのだ。 

答えは瞑想は始まった瞬間に終わる。そういうものなのだ。どういうことかと言うと、僕らは

目覚めていれば、五感によって外界を感じて、知性がそれを判断して言葉や図形や様式

の映像、また思考の枠やその認識の積み重ねに換える。心を消すというのは、こういう

働きのすべてを止めて、さらに消し去ってしまうこと。心でそれを工夫することは、心を使う

から目的に適わない。知らない人は、誰からも習ったことも、聞いたこともない。そう、伝え

る方法が実際になく、個々に実践してもらうよりないのである。  

さて、瞑想は始まった瞬間に終わる、という意味であるが、僕らは、もしも、心を消すことが

できたならば、その時に僕らは睡眠に近い状態になっている。眠っている時に自覚はない。

この自覚が夢も見ないほどに深いのならば、自覚はまったくない。何も感じないはずだ。

さらに何も感じないのならば、時間の感覚はなく、“時が経った“という感覚が記憶に残る

はずがない。僕らは、謂わば空っぽになる。ただの「空っぽの心」という自覚もない器になる。

そこに瞑想が「入って来る」のである。何が?それはまだ、話が早い。

入ってきても、それを認識することはできない。僕らが体と心の認識作用を捨てたから、それ

が入って来たのだから、認識できる時は、瞑想になっていない。成立していないのである。

ここまでが瞑想の成立である。  

これからが難しい。瞑想の感覚は、目覚めてから来る。何も見ず、何も感じていないのを

時間の経過から実証できるからである。つまり、瞑想が来たかどうかは本人にはわからない。

瞑想が来てから、目覚めるまで、僕らは眠ってもいないし、気絶しているのでもない。が、

眼は覚める。だから、気づいたときは、寝て起きた時のように、どのくらい寝ていたのか、

意識がない。それと同じで、時計を見て、初めてその時間の経過を知る。瞑想の成立を

知るのは、だから一人だと正確に知るのは無理である。また、それをジャッジする人がいて

も、その人にも坐って目を閉じている人が、いつ瞑想に入ったかは、わからない。それでも

10分以上の経過があれば、だいたいわかる。僕は瞑想のためによく坐っていた頃は、

長い時で50分と思われた。その頃はそれが僕の標準だった。何回も経験すると、わかる

ようになる。

しかし、難しいというのは、そのことではない。僕らは生きているのだから、必ずなにごとか

動き、している。なにもしていないと、退屈する動物だ。動くのが生きるであれば、止まるのは

死ぬことだ。瞑想はまさにそういうことで、死ぬ訓練であり、死のゲームなのだ。  

やっても何の見返りもなく、ただ眼を閉じて、じっとしていろと。退屈この上ない。しかし、

3500年も前から、瞑想にやり方の迷いはなかった。不思議だ。インド人だからだろうか。

ということはないだろうが、退屈すれば、こんなことして何になる、と考えるし、ただ気がつい

てどこか意識が飛んでいた、とわかるだけでは、現代人はしないだろう。できないだろう。 

そうすると、僕の瞑想談義もここで終わってしまう。なので、他に本にも書いてあるが、その

説明も取り入れて、僕の経験を、その瞑想の先の認識を話してみよう。ここまで語れば、

もう僕はできることをしたことになる。あとは、あなた次第でどうぞご自由に、と言えるわけだ。   


まず、瞑想のために坐っていて、最初につまづきとなる現象から、本にもあるので説明する。


* 原始の夜2.(つづき)へ。
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言葉の無題 [言葉]

ダンマ無題  

遊べる精神

貫通するトライアル

逆行する肉体  

飛べ! チタン  

狂わぬ先のマッチ棒  

ローカルな仮面きわめつき  

サブタイトルな外織姫  

楽しかるがる東鳩ヴイ  

肩の重い交換紙   

漸進きわまるスラローム  

コントお猪口 パイ  

ラリアローゼのコート男爵  

ぬかせ!典膳 天玉 天津飯  

殺到する交差点の嵐  

周りを見ろ!ピカサンタス  

眼の回る口内炎  

金印の桃太郎八百屋  

再会できなかった電極  

触れると飛び散る紙パンツ  

後楽園の歯車おどし  

今、感立つのホロー岬  

存在しない表と裏  

バカなら死んだら直ってほしい  

東京は南極も西鶴も北斎も  

ドーデレンツ油の壁掛け  

青い帽子、ああ君の出航  

カモン、歴史のミニタイツ  

考古学は犬の糞(フン)  

ハチミツ色の飴納豆  

どう転んでも体かわす(タイガース)  

毛沢東が感謝する満州日本兵  

同衾の懐を探る餓鬼亡者  

算数の1を引いたら理科になる?  

朝日差す首だけ笑うギロチン台  

たおやめな花はホロホロ蝶も鳴く  

どこかしら眼が覚めたら母の前  

階段で なかった手すりに寄りかかる  

見た目は人間、鼻だけペンギン  

意味か 誠か、あるいは義憤  

同窓の君は寂しい左翼フェラーリ  

孤立して 歩いて落ちない穴探し  

香草の匂いは抗争の、構想の・・・?  

空に立つ希望の影は黄色の雲  

激しさは幸福と言われ不幸になる  

やさしさは不幸と言われ しあわせに  

気の弱さ、優柔不断とやさしさと  

君が代にラッパ鳴るかな憲法改正  

トーテムポール降りても乗ってもトーテム棒  

そこはかとない緑の命、赤い愛  

感覚に指で指示する裏神経  

思想データに車突っ込むAI 戦士  

考えて考え込んだまま眠る 猛者  

どうだいタケシ!勉強はかどってるかい  

ピンクでも桃色でもない流しソーメン  

意味ありて言葉の立つ瀬あるぞかし  

なんなんと なんなんと、なんなんと  

いろはにほはデミグラスソースの香りする  

さすがの猿飛 ぶんぶん蜂須賀  

疎遠とて友を捨てて行く道もあり  

こだわりを忘れて楽し最後の晩  

こうもさても、今それやる?  

どこかで笑うだろう、山の友 酒の友  

いつだか忘れた南京錠の誓い  

東西 田舎暮らし 南北 鶴の舞う  

下駄履きは なつかしいねぇ上野西洋美術館  

催促するバンバンジー屋  

白鳥座、それは太陽より大きいデネブの光  

かくなるうえは角成るドラゴン  

埼玉コーチの新玉ねぎコーチング  

ドロをもさらう ドブ板選挙  

カンニングする賄賂  

言葉尽き、タワシと踊る私、僕  

水の冴え、茶の濁り、言葉の無題   


























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原始の夜1.洗濯機と島 [島で]

夕方ともなると、不安が忍び寄る趣がある、それが島だ。 何かと思うと、  

忍び寄るのは夜だ。不安は僕らの心の内にあるものだが、これは外側から

来る。夜の中に僕らはもう不安を感じなくなった。それが文明人だ。それが

僕らだからだ。  

島に来ると、初めに感じる言葉は「文明」だ。文明の反対語は、非文明だから

それは「自然」かもしれない。よりよく文明を感じるには、自然に出て行くこと

だろうか。そう考えられるが、実情は少しちがうようだ。なぜなら、僕らが自然に

出て行くのは、むしろ文明から遠ざかり、都会から隔絶して自然を堪能したい

からだ。このときに置いてきた文明のことは、思い出しもしない。キャンプや  

自然の険しい山岳や、広大な原野、海の他はなにもない海洋、ジャングル・

洞窟の秘境を楽しもうとする。

なのでそこに不安の答えがある。キャンプに行くのは、なにも文明と比較するために

自然に出るわけではない。自然を楽しもうとして、だ、ところが島へ来るのに、私用が

多いが、自然を楽しもうともしている。どこがちがうのか、それは島の家だからだ。  

島の家は自然ではない。わらぶき小屋ではない。テントでもない。家は家だが、

半文明なのだ。トイレが肥溜めだ。水洗ではない。それだけで、うちのは住むのを

嫌がるだろう。そもそも雨漏りがしている。昨年は、近年になく、雨で島に災害が

出て、崩れた道路の工事がまだ終わっていない。もう4ヵ月になるはずだ。  

つまり、この家がそもそもの半文明品なのだ。いつまでもつか、わからない。  

夜はなにかを代表しているごとく、深くやってくる。外の雑音がまったく聞こえない、

その都会ではありえない状況によって、家の中の音だけが聞こえる。そのために

外の無音が強調されている。僕は都会から来たので、それがまともに聞こえる。  

静かだ、というのはふつう、雑音・人の声がほとんど聞こえないことをいう。  

ここでは聞こえないことが存在を感じさせて、不気味なのだ。   

この半文明という、中途半端さが文明と比較させて、自然の不便さや夜という環境に  

不安の影を感じさせる。     

昼間は不安を感じさせなかったが、上が障子で、中がガラス、下が板の一枚のうすい

戸が、裏側で洗濯機の音をさせていた。いつもはこんなに近くで、洗濯機の音は  

聞こえない。他に音も聞こえないので、洗濯機だけが自分を主張しているようだった。  

「文明」だと思った。帰ったら、洗濯機のことなど忘れてしまうだろう。彼は島の家だから

こそ文明の象徴のような顔ができたのだ。洗濯は22分でスピードで終わった。手で

洗濯しても変わらなかっただろう。でも、それは今日の量が少なかったせいだ。   


心の不安からすれば、この手の不安はほんものではない。ゲームやDVDの映画でも

観れば、すぐに忘れてしまう。これがテーマになったのには、下地がある。着いた日の

夕方、プロパンのボンベが設置されていないのを見た。あ、ガスが出ない、忘れられた。  

農協(ガス屋)に電話してももう誰もいない時間。   

その晩は寒い晩だったそうだ。翌日、レンタカーの迎えの人がそう喋っていた。部屋が

冷えるというか、外にいるのと同じだと言えばいいか。小さな座布団用のヒーターが

あるだけで、それだけでも助かった。あまりに冷たく厳しいので、借りてきたDVDのTV

ドラマを4枚、集中して観ていた。半分寒さを忘れるために、パソコンのモニターを

動かずに見つめていた。座間の家では、2枚か、3枚が限度で飽きてしまう。1枚

残して、枕元に新聞紙をかぶせて、9時過ぎには寝てしまった。それほど寒かった。

そのときの部屋は空気が氷のように感じた。これがポイント。感じた時に、僕は気づかず

に、生命力を、または体の抵抗力を最大限にしたはずだ。自分でそれをコントロール

すると、そこで何かが起きる。「なにか」、それが僕ら人間の五感や、気のせいという勘を

超えた、感覚外の未知の感性に捉えられるものだ。だから、誰も知るはずもなく、言葉に

なったことはない。未知はわからないものとして、ある。なかったら、僕らは自分らに

備わったもので、すべてが知識となったはずだ。ところが、僕らは未知というものを、

そのまま知っている、知らないものとして。そして、通常は明日のことを意味していて、 

明日にならなければわからない、と。しかし、そうではない未確認の未知が常にある

のではないか。それが僕の仮説だ。僕の経験だ。


以下: 原始の夜 2.(次回に)

夜というものが自然とともにある時、それは太古の形をしている。それは人間の文明という

雑音がない状態だからだ。・・・・・・・・・







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因果と本  島へ [本]

「頭の寄り道」で、本を読むと困ることがあると、報告した(注:アメブロ)

が、困ることではなくとも、もうひとつ報告しなくては、と思うことがある。  

本を読むと、疑問がどんどん発生して困るという、負の面ではなく、  

また正の面でもないのだが、世間は思ったよりも進んでいることだ。  

まず、因果との対面があった、50代から話し始めると、それは  

イメージなのだが極度に強い印象なので、忘れることができない。  

通常の僕らが知識を覚えるとか、想像のイメージを直感で掴む、  

といった印象とは、(大げさにはしたくないが)レベルが何段か  

違うものらしい。

そして、その印象ははっきりしていながらも、やがて僕はそれ  

が「それ(因果)」と僕にもわかる、わかりやすいイメージで  

示されたのだと、思うようになった。つまり、それを見た者は  

頭のイメージなのだから、きっと各人各様にその図を描くだろう、  

と考えたのだ。インド人はそれを見慣れた占星図のように、

曼荼羅図にみたのかもしれない。

(もし、似たような経験をされた方は、少し言葉を交わせば、

それがなにか、ほんとうに同じかお互いにわかるのと思うので、

メッセージででもお知らせください)  

その時、人生で「やった!」と思うのはしばらく後になる。これは  

ちょっと段階があって、それがすぐに「答え」そのものだと理解

できたことだ。そして、それに見える五万通りの川の流れが法則に  

見える流れ(イメージ)ともわかったので、それに沿えば、すべての  

この世の謎は解決できる、ということだった。おかしなことに  

それのすぐの感興は喜びであっただろうに、それは覚えていない。  

それよりもすぐ後に来たのが、重い「がっかり」だった。  

これは重くて、実際に落胆してしまったのだ。どうしてかと、  

それはすべての謎が時間をかければ解けないものはない、と  

誤解してしまったからだ。それは反面、間違いではないが、  

それほど単純なことではなかった。  

僕の知的欲望、ま、好奇心だが、それは強力で謎を解くためには  

三度の飯も要らないようなところがある。  ところが、それがどんな  

謎も解けてしまうとあっては、逆に重大な謎はすぐに解かないように

して、残りの謎を大切にしようと考えたのだ。 それだけで僕がいかに  

謎おたくで、知的欲求が性・食・眠・賭け・などの欲求を上回っていたか  

知れるところだ。それで短い一時期だが、自分は人生の目的を達した  

という自覚が生まれて、しあわせな気分に過ごしたことがある。  

そうではないことも、その因果の川に現れていたが、まだ因果という  

すべての解答の地図を、そこまで読みこなせていなかった。  

と言うより、因果のイメージが解答そのものではなく、地図に過ぎない、  

実際にそこに行かなくては、そこが何で、どうなっているかは、ほんとう

にはわからない。ということにまだ気づいていなかった。それさえも  

因果の地図を駆使して、考えているうちにたどり着いたものだった。  

自然の摂理は山と動物との知識と実際の交流がなければ、解けない  

ものだった。しかし、知っていることは知っていた。むしろ、それを生き  

ようとしていた。そして、それを体でも感じるようになった。無理はなくも、  

無知で無防備な、自我を忘れた日々に流れるすべてを目の当たりにした

観察で。  

そうしてやって来ると、いつのまにか僕はすべてを自分一人でやって来た

ので、それらから発見したことはすべて新発見だと、自分の知識の狭い  

守備範囲からそう思ってしまった。たとえば、バッタが道端で死んでいた、  

とそこから北朝鮮がまたミサイルをいつ発射するかまで、長い長いつながり

をたどればわかってしまう、という僕のイメージ世界だ。それはある面で  

間違えていないが、実際には現実的ではない。  

そうこうしていると、読んでいる本からポツンポツンと同じ考えが述べられて

いるのを読む。もうこの国際関係についての本質的な見方は、もう10年前に  

北村幸伯という著者によって書かれている、とか。その本質的な見方が  

すべてかどうかわからないが、その著者の考えは同じなので、読んでも  

そうなのだ、と賛意しかない。だが、歴史事項なので、どういう条約が結ばれ  

たのかという知識量はその本のほうが当たり前にあるので、そこが勉強に

なる。 皮膚に「考えるような力」があると、あいまいな段階だが思っていたら  

もうそれを25年だか、研究している人がいるとか。数少ないが、そういう本に  

当たりだす。  

僕が自身をそういう意味で過信するのは、初めて日本でマイコンという  

私のコンピュータ=略してマイコン、が発売された時に、もう僕は口笛を  

吹くだけで作曲ができるとか想像していた、期待していたのだが、それは  

まだまだで、アプリケーションができて、それが進化してからの話で、  

僕の期待からは20年も後のことだった。他にも先走りの思いつきが  

30年後に事件として実際に起こったりして、自分の耳に届いていない

ものは、全部新発見だと勘違いしていたのだ。  それでもそれは  

自分にとっては、知らなかったのだから、新発見に違いない。  

他にもそういうのがまだ出てきて、「新」ではないと。  

それよりも、最先端の世間の発見に対して、それに対しての考え方が  

脆弱な見方しかできていないほうが気にかかる。そして、それは究する

ところ、自分とはなにか、につながってくるのだ。それは個人が解決しても、

解決してもしつこくやって来る。なぜなら、それは個人でも団体でも説明

可能なことではないからだ。生きることは単純化すれば、なにかすることだ。

反対は何もしないことで、それは死ぬことなのか? そのままなら、体は  

そう解釈して、そう受け取っている。だから、その片鱗でも明らかにする

ことは体の一方的な偏見を知る、という価値がある。  

無意識に悟ってしまった人もいるに違いない。だが、近辺や世間で  

そういう情報は得られない。誰もうまく説明できない。よく同じレシピで

同じように作るのに、作る人によって味が変わる、鉄人が作ると?

うまくなる?と言われるのは、それに近いことなのだろう。その答えは

僕らの「気」にありそうだが、自己の発見はそれほど社会的に外的なもの、

既知のものにあるのではなさそうだ。  

なので、悟りについてわかったように書いてある*本はすべて誤りである、  

と言ってもさして差しさわりはない。内容の話であって、その本の売れ行き

に関わる話なら、別だが。 

このことを書いておきたかったので、今回書けたのはめでたい(笑)。  

正直ついでに、その動機も話してしまおう。それは小林秀雄だ。彼を  

読まなくなってから久しい頃、絵画についてピカソを理解したと、ピカソの

ある絵からようやくその直感にたどり着いたと思っていた。絵画と

いうもの、その世間の見方から、画家が目指すというものとのギャップ。  

絵の見方、というのも小林に学んだ。小林は「ただ見ろ」ということだけを

言っていた。それはつらい経験だった。ただ見るのは、僕らの脳は退屈で  

耐えられないのだ。その苦痛の向こうに光があった。3回美術館へ行って  

「ただ見る」ことで、計5時間くらいだろうか。死ぬかと思った、おおげさだが、  

死ぬほど初めはつらかったということ。   

それから絵を見るのは楽しくなり、一目で絵がわかるようになった。それは  

画家がなにを狙ったか、ということだ。そのためのタッチ、光やものの描き方、

色調、構図があった。そうこう10年も経っていただろう、ひょんなことから

小林の近代絵画で調べることがあり、開いてみた。ガーンッである。

「近ごろの絵は解らない、という言葉を実によく聞く。どうも馬鈴薯らしいと

思って、下の題を見ると、ある男の顔と書いてある。極端に言えば、まあ

そういう次第で、さて解らないということになる。絵はなにかを描いたもの  

でなくてはならない。そして、この何かは、絵を見ない前から私たちが  

承知しているものでなければならない。まことに当たり前な考え方で

あって、実際画家たちは、長い間、この当たり前な考えに従って絵を  

描いて来たのである。例えば、パスカルは」(小林秀雄「近代絵画」から)  

僕は小林の絵画観よりも進んだ気でいた。発見が多く、理解は素晴らし

かったから。ところが、その何年もの努力のたどり着いたものが、ポン  

と初めから書かれていたのだ。小林は抽象絵画はあまり好きになれず、  

ピカソを書いて終わっているが、ピカソもルノアールほどには深い共感の

元に書かれていない。僕は抽象絵画を発見し、好きにもなったので、  

小林を越えたと思ったわけだ。その点はわからないが、絵画というものが  

何に出会ったのかは、ちゃんと書かれていた。僕と同じ考えなので  

驚いてしまったわけだ。すでに彼は達していたそこに、僕は読んでも  

文章の意味しか読んでいなかったのだ。たぶん、潜在意識には  

入ったのだろう、その言葉の意味を方向にして、絵画鑑賞・思考を  

追い続けたのだ。どちらが先かというのが重要なこともあるが、こう  

いう本物との個人的な出会いでは、どちらがよりも、それに確実に  

出会うことの方が大事なファクターになる。  

それにしても大事な出会いとなった本は、時々それを読み返すことで  

よく言われているように、また新たな出会いがあるようだ。 12. 29


* 衒学的、哲学的とか、抽象的な言葉で書かれていれば。と言っても

それは一般論を出ないので、「大悟達」とか、言葉が大仰なものは

まず怪しい。現代で悟りについて書くとしたら、今の悟りはどうか、昔の  

悟りはなぜわからないか、悟りのイメージを壊してから、新しく構築すべく、

その説明に入ることになるだろう。 12. 30


*明日、15日に島へ出発。Wifi を用意しないので、ブログ掲載は 

1週間おやすみします。帰ってから掲載しますので、よろしく。

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再び、空のタクシー [タクシー]

2030年にアメリカで空飛ぶタクシーが解禁?されるらしい。  

もう空飛ぶ車は、いろいろな型でマニアックに開発され、実際に  

空を飛んでいるので、いつかはと思っていたが、これで空の低空の  

法律も整備され、基地はSFじみたタクシー基地になるのではないか、と  

知る人は期待しているのだろう。

個人的には、間に合わない公算が大きい。だから、2030年は米国で  

空のタクシーに乗ることを望むのもいいわけだ。

タクシーが飛ぶなら、個人の空用の車も法律がゆるくなって、自由に  

(比較的?)飛ぶことができて、売れ始めるかもしれない。800万以上

の車もそうなれば、大量生産に回せるから、低価格になり、売れて流行る  

のかもしれない。 そうすると、誰かの(僕だが)夢だった(冗談だが)車の  

事故では、屋根に車が落ちてきました、ということが起きるのだろう。 

(飛び方はあのオスプレーと同じ垂直方式だ)  

不謹慎だから、ここで笑ってはいけない。が、実際、そのニュースを  

見たら、初めての時には、笑わないで済ますのは、難しそうだ。(ハハ)
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宇宙のあやふや [宇宙]

銀河系に新しいブラックホールが発見されたらしい。それが理論物理での  

限界を超えた大きさらしい。つまり、あり得ない大きさなのだ。限界値  

よりも2倍の質量をもつ。太陽の70倍の質量で、大きい。その太陽は 

地球の体積の130万倍で、質量も33万倍、というからそのブラック  

ホールの巨大さがわかろうというもの。

あと、宇宙に存在する物質の85%を構成すると考えられているダークマター  

(暗黒物質)はその証拠を残す記録はイタリアの検出器だけで、それが唯一。 

一回だけの検出。 

その物質がなにからできているかわからない。謎。それでもその本が出たりして 

有名になっているが、実際にはなにもわかっていないということ。  

そして、今回のブラックホールを説明するためには、その穴が事実だとしたら、  

現在の理論物理学を修正するか、新しい理論を考え出すか、しかない。つまり、  

今はお手上げ状態ということ。  

僕らの宇宙への知識と思考方法は、最先端の二つの発見が事実であったのなら、  

役に立たないということ。ダークマターがまったくその質が空間とかいうものと  

異なっていたら、銀河系の外へはロケット(地球物質)では行けないかも、という  

考えの学者もいるらしい。  

僕らは望遠鏡で見る宇宙だけで、その実態にはまるで届いていないようだ。

ニュートンが知ったら、驚いただろう。
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