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晴れて暇な日に 真理を発見しよう [真理]

相模River は 神奈川 Prefecture にある  。  

よく晴れていたが、なにか もの憂い日だった、のを 覚えている。  

あるだろう、 そういう日が。   小田急線の 本厚木駅で降りて、 

散歩していたらしい。  どうしてそこへ行ったとか、 は覚えていない。  

思い出そうとすると、そういうことって 多い。  

I know  anything   ・・  その河原に立った時の ことを書いた記憶が  

あって、  陽射しが  空中の埃に  ダストに当たって  キラキラ  

光るように、  そんな空気を感じていた。  そういう文だったような ・・。  

河原から 町の様子も  よく見えていたのに、  そんな光の 霞が 

かかっていたような  軽い うっとうしさがあった。   

自転車が 倒れていた。   ママチャリで、  捨てたのではない、 まだ  

新しくて  誰かがそこに 置いていった。  どこまで行ったのか、 周囲に  

それらしい 人影はなかった。  

川の本流に 流れ込む支流があって   飛び越せそうな、細い流れだった。  

深さもなく、上から 底の石が重なる様子が  見えていた。  

少し上流で カーブしていたので  その先は どうなっているのか    

眺めはなかった。 地図でナントカ川、 と確認していたようだ。  あとから  

見たのだろう。 そんな重要でもない支流を わざわざ 調べて来たとは、  

思えないから。  

支流の縁は  柔らかい土で 少しの雨でも 崩れ落ちてしまいそうだった。  

歩くのにも 気を付けないと  泥に足を取られてしまいそうで  気をつけた。  

流れのすぐそばに 立った。広い本流が 見える場所で  どこへ行くあてもなく  

そこに佇むために 立った。  陽射しが まともに  それなりに熱く  降り  

注ぐような  午後だった。  目的もなかったらしく、 手持無沙汰 だった。  


視線を下に落とすと、  そこで水流が二つ 前後にからみあうように  

W で回転しながら 面白い波形を  作ると  次の瞬間には  消えて  

しまった。水は同じように流れ、底の石が動いた様子もないから  すぐに 

その面白い波形を  見せてくれるものと、 暇にまかせて  眺めていた。  

同じ水量、 同じ底の地形、 それは同じパターンを  期待させた。  

だから、 5分も眺めていれば あの波形が目の前に、 と思っていた。  

そうして、15分。  心が 騒いだ。なんとなく考えていたことは  ただの  

夢だった。  空想にも近く、 暇人のなぐさみ、 そういう類のもの、 だった。  

それは 僕のもの憂い気分を  飛ばしたようだ。  眼を見張らなくても  

事実は 事実だった。 その波形は  一度も  ただの一度も  現れ

なかったのだ。  どうしての答えは 求めずとも  それが現れなかったという  

厳然とした 結果があった。   なんとなく思っていたように  単純な流れ  

ではなかった、ということだ。  何が起きていたのか?  

それを すぐには求めなかった。 うっかりすると眠っていたろう、 そんな  

河原の陽気。  風は それほど動いていなかったようだ。 

”なにかが  起こった ”  


単純な条件が 二つ三つ 重なるだけなら、  ものごとは 同じ状況を  

くり返すだろう。  それだけでも かなりのパターンを  生むだろうにしても  

やがて、 水流に 同じ波形を示すだろう。  でも、 それは起こらなかった。  

それが答えだった。  

少女の 長い髪だったら  よかったのかもしれない、  風に なびいて  。

僕は 散歩の切り上げ時が  来た と、 帰りの目的を もって 

はっきりと 歩き始めた。  


あれから 幾年くらいが  経ったのか。  結果が いつもの結果なのか、  

同じ結果がくり返すのならば  答えは 科学的な意味で  正しい、と  

なる。  そうは言っても、 いつも奇妙な 面白い波形に  出会えるわけ  

ではなかった。   それでも 大まかに  結果はまとめられて  ほぼ  

正しい、 と言えた。  同じ波形は 現れないのだ。  似たような波形は  

現れることがあった。  それでも ほぼ一度だけで。  

水というのは 生き物のように  臨機応変なのだ。  それが 最近、 

数年前か わかるようになった。  頭の良い人は  すぐにわかったの

かもしれない。  僕は 答えが出るのを 待つ習慣があるから  急がない。  

昔の 汽車はよかった。  車両のエレキトリック・ドアが 閉められたら、 

もう乗れない  ということはなかった。  走って  ステップに跳び乗れば、

いいのだ。  

そういう問題ではない のだが ・・・。  

水流は 旅行で 機会があるたびに  眺めた。 きれいな水、 清流のほうが

汚れていないから きれいな結果が得られる? と     それだけだ。  

僕は  部屋で  その時のことを思い出して  ずっと上方の  上流を  

見上げた。 源流という、 湧き水からそれは 始まっていたのだ。   

水は 粒子の集まりだ。  最小の粒子まで  分散するのでなければ、  

いくら集まっても  ひとつになろうとする。  それでいつでも、  いくつにでも 

分かれる。 そして、そのひとつひとつが  流動体で  体積も 形も  

重力も 変化させている。  それに流れの 記憶ももっては 放れる。  

ペットボトルの水を  グルグル回してから逆さにすると  水は一気に

渦を巻きながら  排出するのは  僕らが よく知っていることだ。  

記憶は瞬時になされ  バラバラにもなる。  それは 歴史に例えられる。  

数々の歴史をまとい、 それをバラバラにしながら  それぞれの粒子や  

その集まり(かたまり)が  それらを内含して  その何千通りが  

何千通りに 出会って  また 集中と分散の  歴史をくり返す。 その  

それぞれが一度だけのくり返しだ。  何千通りは  何兆、  何京 という  

単位に  無限に増殖を 重ねて   僕らが  見る水流は  何万時間を

積み重ねたような  複雑怪奇さ、  ・・ 化け物なのだ。     

今、見ている水流が  コンピュータが 量子の速さになっても  同じ、  

その水流の方程式は  無数に はじき出す。  まったく終わることなく  

時間とは関係なく  終わることのない  一粒子ごとに無数の数式を  

はじき出す、はじき出して、止めない。  だから、それによく似た、  

ほとんど近似の波形でも  見たいのならば、  僕は 1年も見続ければ  

よかったのだろう。  できるわけがない。(笑)  

ゆく川の流れは絶えずして、 しかも もとの水にあらず、 というのは  

表層な見方で  同じ水だけではなく、 それは一瞬も同じ 形も  

内容も 備えていないのだ。  これが  無常というものの  ひとつの  

説明になるかもしれない。  

と、ここまで来れば   過去の復習が できる。  

僕らの周りを 見回してみよう。 人工物でないものが あるだろうか。  

パソコン、 眼鏡、 コピー用紙、 ファックス電話、 地図、 ボールペン、  

壁も 窓ガラスも  すべて人間が 人間のために 人間によって(リンカーン風)    

作られたものだ。    

微細な条件まで 考えたら  生活はやってられないが、  それでも 現実の  

背景には  それが厳然としてあるのは  事実にちがいない。  ひとりの  

思いだけで  それが固定した数式に 変わってしまうことは  ありそうにない。  

人工物という  人間の安全や 便利さから離れて  自然に入ると  

僕らは  守られない。  その代わりに  真理の海に  入ってしまう、  

ということだろう。  感性が 無理なく開かれるのは  やはり  そういう  

環境が いいのだろう、  ある程度の 緊張をともなって。

この時も あのアドバイスが 役立つ。 自然に入ったら、  自然から  

語りかけてくるまでは  待つのだ。  水流を眺めるように  ただ  

眺めていたり、  聞いている。  風や  空気の匂いに  なにかを  

感じる。  Touch me ・・  

旅行で 歩き回り、  映像を撮りまくるのも いいが、  1時間は  

なにもしない、  そういう(実は) 豊かな時間を 過ごすことを  僕は  

勧める。  目的を 忘れるのが 大切だと、 想いはじめたら、  それは  

旅行ではなく  旅のコツを  覚えたという、  生活の根源、 命に  

寄せる行為、  人生という言葉ではないもの、  そういうそれらが  

形を  取り始めた、ということだと。   言葉だと 高尚に聞こえるが、  

小さなことが 大事なのだ。 景色を 変えてみることも 同じ。  

水流が  僕の見ている流れに たどり着くまでに  幾時代ともいえる  

変遷があった。  それでも 水は  水を 伝える。  

その時、僕らは 水流は 僕らが特定できないほどの 無数の流水の  

方程式を携えている、と言うのだろうか?  それは所有と 言える  

だろうか?  きっと、ちがうだろう。  水が 何を伝えたのか?  

その答えは  作り出さなければならない そういう性質のものだ。  

それが 僕が  水流や 自然から学んだことだ。  僕らはそれを  

すでに知っている。  これから 100億人の子供が生まれようと  

僕 (あなた) と同じ人間は 生まれないだろう、と。  

どうして 知るはずもないのに  そう言えるのだろう。でも、 僕らは  

それを 確信している。 まったく同じこの僕が この先に生まれるはずも

ないことを。  それは 二度と同じ波形を 見せなかった水流と  

一緒なことではないか?  

― 僕らの 瞬間瞬間は  厳密に  まったく  

 新しいという  証明のようなものではないか。 ―  


僕らは 実に  いつでも  新世界の ただ中にいる、なのに それを

閉じようとしている。何がそうさせているのか?  それは 目の前の  

人工物が 生活の安全と便利さを  人間に 与えているから。  

僕らの感じ方も  知的な狭小さに 押し込まれ  数理や その場の  

言葉の判断で  処理してしまっているから。  

だから?   それは社会生活に 必須なものであるけれど  一方で  

人間生活を  狭くしてしまっている。  この古くて 新しい問題に  

還って来て しまったけれども、  解決策はある。   あなたが  

”あなたから” 作り出す   答えの中に。  あなたが  あなたも  

自然の一部であるのを  しっかりと 感じるには  どうしたらよいか?  

どうして 僕らは  この問題の  堂々巡りの中に  いるのか?  

それが  直近の最終問題になる。  そう考え得た人は?  

人類のために  考えてみて。 (頬笑)
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こうなったからには [感染]

物語はどんどん現実化してゆく。ウィルスの現状を見れば明らかなことも、 

世間を憚(はばか)ってか、人を心配させないルールをおもんばかってか、  

現実を見ない。 直視しなければ、見れないのだから、言葉は言い訳に  

逃げるしかなくなる。 でも、言ってはいけないのだろうか? 

(パンデミックについての不安が大きいと自覚する方には、この先は読まない

ことを勧めます) 

1週間前の想定による想像は、もう現実になってニュースをにぎわせている。  

「こうなったからには」 パンデミックは起きている、とどうして言わないのだろう、  

TVのコメンテイターはバッシングを恐れ、官僚は出る杭にはならないように、

政治家は責任を転嫁するのに汲々とするので忙しい(旧態以前から)から、医療

態勢がどうの、試験試薬がどうのと、一応もっともらしく聞こえることを言っているが、

言葉を弄して、肝心の失態には触れず、それについての追加処置や反省対応など

は、一切言わない。    

あまりにのんびりしているので、拍手したいぐらいだが、火を点けたいわけではない。  

今の状況を見るには、この先の環境の事態を一度、確認して心に留めてからにした  

ほうがいいのではないか、と思う。  それはこれから起こるだろうパンデミックのまた

その少し先の話だ。   

阪神淡路大震災も死者6000人以上、東北関東大震災でも死者15000人以上を 

出している。これらの遺体処理はどうしていたか? 阪神淡路大震災では焼却場  

が意外と残っていたので、焼却に回せたが、それでも限りがある。近県にも応援を  

してもらったが、それでも全処理には3か月近くかかっている。ともかく多いので、  

まず一度土葬してしまう。そして、あとから順番に掘り返して、近県の火葬場に  

運ぶという算段を取った。   東北関東大震災でも同じように一度、土葬された

だろう。 これはパンデミックになった時も、病院は満杯だし、遺体収容所がある

わけでなし、状況は似たようなものになると思われる。 東京都でも条例で非常

事態の遺体処理については、どこの公園に穴を掘るのか、決めてある、と聞いた

ことがある。-と、ここまでは最も最悪の事態を想定した話で、今はまだそこから  

は遠い。なので、この話(震災時の)をした。  (ウィルスは土葬で死なないのと

、その場合の専門家の意見は調べていない、省く)

この事実をまず受け止めて、世情がどうなっているのか想像がついたら、現実に  

もどってまだまだこれからできる対策が見えるはずだ。家族にやってもらう水際  

対策の重要さも腑に落ちるはずなのだ。  体への対策は神経質になっていい、  

他人との対応は逆に誰がどう対応していようと、神経質にならずに放っておく。  

すでにエチケット対応が日本人の神経質でもあるのだから、少し、鈍いくらいで

もいい。マスクをしていないからと、非常ボタンで地下鉄を止めたりしないことだ。

二次災害は人災が最もばからしい。どのみち、今はまだ恐ろしい恐ろしい、では

かえってヤバい。  

医療態勢で効果のある治療薬の特定、病院の隔離体制、それらが効果的に  

全国的に増加・配備され、医療機関で検査がいつでもできるまで か、感染が

中国・韓国・日本でピークを過ぎるまで は用心に用心して越したことはない。

 




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もどかしさの独り言2. 入江COOL! [称賛]

もうこうなっては、というのは言い過ぎかもしれないが、感染拡大は  

一部の人を除いて恐ろしくはない。コロナウィルスは毒性は低いから  

健康で免疫のある人はそれほど恐れる必要はない。  

恐れていいのは、高齢者で、持病があり、肺に関わるので気管支系の 

疾患が持病である人だ。つまり、そのすべての該当者である僕のような  

人間だ。ここで笑っていいのか、おびえる様子をしたほうがいいのか、  

迷うところだ。無理に選ばなくていいのだが・・。  


クルーズ船の告発をしたのは、神戸大学病院感染症内科の岩田教授が  

政府が受け付けないので、ネットに流したのだが(今日、自分で削除)  

ほとんど予想した通りだったので、「まったく」と思ったきり、言葉が継げない。  

初めからクルーズ船の乗客への対応に、またウィルス対策としてどこまで  

きちんとやっているのか、疑問だった。船内からそういう情報が発せられて、  

TVに流れていたからだ。岩田教授はレッドゾーンとグリーンゾーンの区別が  

厳格ではない、そこにあいまいな場所もある、と言う。この発言がすべてを  

言い表していて、僕もそこにどういう区別で隔離が取られているのかが、  

はっきりせず、また検査の方法や準備もまだ確立されていない時期だった  

ので情報もないだろうし、そこが見えずわからなくて無理ないとは、思ったが  

それを考慮しても船内を自由にうろつきまわる人がいるのに、おかしいと  

危機意識のなさを思った。  

僕はすぐにも船内が二つに分けられて、感染者、咳などをする人、熱のある人、  

その同室者は消毒された隔離区域に入れられるのだと、考えていたので、  

その様子がないことに家でTVの前で中国での死者がまだ400人くらいの頃から  

もうパンデミックを考えた検疫を施行しなくては!と息巻いていた。1週間後には  

文句ばかり言っていた。それがこの頃は収まった。それで冒頭の「もうこうなっては」  

になったのだ。  

ここで政府の対応とかへの批判に移るのが筋なのだろうが、そんなことはこれまで  

のことで、憲法改正・消費税増税・などなど最近では公文書の破棄・黒川東京高検

検事長の定年延長というゴリ押しなど、いくらでも言えるので、今さら何をかいわんや  

である。単純に反対ではなく、自民党案のここに反対という、もっと別な健全なやり方

があるでしょう、というのが多い。  


ここからは、不確定な試論・仮説を基にしたことから話を展開するので、疑いながら、  

読んでほしい。  

入江璃花子だが、19日にインタビューを見ていて思った。この子は、実際19歳なの

で女の子なのだが、僕は彼女が白血病になる前の、水泳大会で優勝したのを

観ながら、その顔もしゃべり方も、言い方は悪いが、憎たらしいほど健康で大人で  

あるので19歳と聞いて驚いたことがある。優秀なアスリートにはそういう受け答えを

する者が多いが、彼女はそれが飛びぬけているように感じた。それなので、白血病  

で東京オリンピック断念、となった時には倍に驚いてしまった。軽いショックだった。  

どうしてか、それは彼女のような強さを内面からも持っているような人間は、運も  

強く、あまり不幸に見舞われないと、僕は今までの経験から感じていたから。  

なぜ、彼女が ・・?   

僕は中学生の頃から、子供の顔や青年までの人はその人の顔を見ると、なんと

なくその人生のおおまかな傾向が表れている、と感じていた。そんなことは教えて

もらったことはないから、自然にそう思えた。少しあこがれていた中学で同期の  

女子生徒がその後、幸せではない境遇になっている、と同期の友達から聞いて、  

ああ、やはりそうかと思った。しかし、予想外で印象に残っていた例がひとつあった。  

それは中学クラスの一番の人気者で明るい男だったが、かれが卒業してコックに

なるための修行にアメリカに渡航したことだ。その船で皿洗いをしながら渡米する  

つもりだったらしいが、その船が沈没してしまい、彼も亡くなってしまった。その若さ

で・・・、ということが彼のような明朗な人間が、と信じられなかったことだ。  

外側からの運命ではままあることで、これには避けることも、防ぐこともできない。  

自分の運命だけで人生は完結しない。外側から荒波が来るからだ。  

そういう前提で、病から回復した入江を見ると、もしかすると彼女はほんとうに  

ついているのかもしれないな、とふと思った。 パンデミックという事態になれば、  

それを想定すると、白血病を抱えたままではまずいが、その前に回復。東京  

オリンピックは開催されないか、一部のアスリートのみで観衆なしの大会に  

なるか、で残念な結果になる。それを彼女は前もって回避したことになる。  

実にうまいタイミングでの発病ではないか、というのが彼女の運の強さでは。  

だが、彼女は今大会の金メダルへの切符は捨てたかもしれないが、別の切符 

は手にした。  のではないか、と。  

入江は日本人初となるアジア競技大会6冠を達成、 伸び盛りで突然、梯子を

はずされた。彼女には絶望に近いものがあったが、家族や関係者の支えで

乗り越えられた、と感謝を述べていた。が、彼女の自我の強さは、ちゃんと  

家族に泣き言は言わなかった、と明言している。助けて、とは言わないのだ。  

要は、彼女は自分がこれで立ち直れないはずはない、と考えていたことだ。  

ここが憎らしいところで、彼女は自分を信じていた。そういう力があった。  

僕が彼女の不運にショックを受けたのは、そういう僕の、自然から与えられた  

信条が崩れることだったからで、彼女の立ち直り(強さ)は、やはりそれは正しい  

直感だった、という証明だ。そういう風に感じた。   

彼女は人生への切符を手にしただろう。そこを乗り越えさえすれば、彼女が  

アスリートになってもならなくても、これから先なにをしようとも、もういつも  

”はじめから立ち直る自分”しかいない。  僕は、そう信じる。  
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もどかしさの独り言 [独言]

人の心を 打つ  

よく 琴線に触れる、 とかいう  

それが 大事と思いながら、 そのか細さに  

弱い、  と思う    

琴線が触れ合うなら  それは 周波数が 合うように  

弱さが  触れ合うことだろう   

それが  そのまま弱さであるなら  ただ  弱さで  

終わっていただろう   そこからは  ため息だけの世界だ  

その美しい弱さを  伝える人がいる  

それが 唯一  直接に 伝えられるのが  歌声ではないか、  

と。  

同じ歌を  歌っても  天性のその声を持った人には  

敵わない   全然、 ちがうのだ  

声の伸び  繊細なイントネイションが  震えが   

見えない手のように  ハートを なでる  

その弱さを  支える  ものはないが  (個の内にだが)  

それを支えるのは  技術や  協力者 だろう  

それは 誰もが  ギャップとして  感じる  

それが  不安となり、  琴線を大きく  揺さぶる   

わかっている、  わかっているのよ   と   

弱くても  立ち上がって  歌っている   

その姿にも   拍手を 送るのだ   

がさつで  なんの 琴線も持ち合わせていない、  

そんな人も  いるようだ   

そういう人を  感動させることは  できない  

異常なことに  興奮するかもしれないが、  

美しさとは  無縁な人たち   、  いる   

それらの人でも  単一なグループではなく、  

特別な 才能を持っていたり、  そのために  

独特な生活を する人もいる  

病気と言える人でも  女性だが、  恋ができない  

動物を  愛する人だ   人間という種に  

まったく  興味がないし 感動することがない  

落ち着くのは  動物といる時だけなのだ  

頭脳は  優秀で  博士号を取って  

動物関係の 事業で  しっかり生活している (感心)  

この世で  強さは  男性系を  示してきたが  

それでも  ずいぶんと  女性系の  弱さが  

進出できて  強さは縮小されて  狭い範囲で

集中して  暴力ばかりが  目立つようになった  

そう見えるのは  僕の見方が  偏っているからか  

女性的な  つまり  文化的だということだが  

そういう方向に  世界は  進んでいる、という論文を  

書く  科学者も  いた  

僕は ボクシングを  観ても  あまり 感動しない  

一時的な  興奮はあるが  すぐに  忘れてしまう  

それよりも  大学のサークルか何かで  学生の

試合があった   そこでは テクニックの者が  優勢で  

相手を  圧倒していた。   ところが、パンチが  

一発当てられた!  その一発で なんと  彼は  劣勢に  

なってしまった   その印象が  何度も見たボクシングの  

印象よりも  強く 残っている   

彼は  一発のパンチに  戦意を喪失したのだ   

テクニック巧者の彼にとって  初めての急所への  

パンチだったのだろう   あれほどの 優勢が まったく  

なくなり、  顔には 明らかに  恐怖の影があった  

これが  ほんとの ボクシングだ、と思った  

僕ら素人が  試合をしたら、  こんなものなのだ  

戦意を喪失しない、そういう精神の持ち主でないと  

ボクシングは  うまい、下手ではないのだ  

弱さは  徹底して 弱い   技術では 勝てない  


強い世界と  弱い世界は  どっちがどうではないが  

それぞれの 美しさがある   

現代は  強さが 虐げられて  がさつさしか  見せられないのでは  

ないだろうか、と  ふと  思った   

現代では  ちょっと血が流れても  大騒ぎをする  

道徳的であるのは  よくないことではないが   おかしなくらいに  

できなかったことを  言い訳するように  

自分を責める 繊細さ的に  弱い行動を見る  


愛が 犠牲的だ  というのは 誤解だ  

愛は  相手に対する  究極の弱さで  相手の  

立ち位置に  立てることだ  

愛を抱いて  強く行動するのは  まったく  

自然に反している    が、   

それができることが  強いことでもある

具体例が必要な 事柄だが、  弱さに 倒れる愛は  

そのために  美しく  愛おしいと  人は  思う   

僕は  少し  不満だ  

それだけの 違いだ  弱さにも レベルや功罪があると、  

思うので  弱さに なるべくしてなった ことには  文句を  

言うつもりはないが   仕方ないと思えることでも  

ルールに強がるのではなく、  大多数を選択したから  

良いではなく  そういう社会的な(民主主義的な) 強さを越えたもの  

そういう 強さがあってもいい、  と思う。  

それを特定したり、 今は指摘できないが (未達・未熟のため) 

あれば  パンデミックでも  大事故に遭遇しても  

それにふつうに 対処できるだろうし  根本的な 改革・治癒についても  

やがて 考えが及んでゆけるだろう、  と想像するのだ。

  
* 僕らはいつでも 5万通りからの 判断を  その場で  

しなくてはならない、  そういう場面にいる。 これは 右腕を 

動かすだけでも、 脳のシナプスが 行っている 1秒間の回数だ。  

僕らの 限られた人間は  A I やI C チップスと つながって さらに  

スピードを要する 仕事をするようになるの かもしれない。


それも 一般は のんびりできればいい、 という話だが ・・・。
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彷徨するもの :自己と知性 [自分]

なにかを書こうとして、いつも「何も書くことがない」という感じがつきまとうのは、僕の 

事実だ。そして、そのその感じの奥にある動きがあるのを一瞬キャッチして書ける、 

と思うのも事実だ。それがなくても書き出すが、そういう時はそれがものになるか、今は

とまどいがつきまとう。昨年の前半では、それでも書くのに滞りはなかった。少しずつ

変わり始めているのには気づいていた。今年になってからは、いつまでガチンコで

その場で書き出しながら、テーマが現れるのを待ち、そのテーマに沿って構想もなく

書き続ける、文章上の僕にとっては冒険だが、それがこの先何年続けられるかは

不透明な気がしている。   

体調に以前よりも厳しく注意をしなければいけなくなったので、書く集中の継続が

どこまで保てるのか、予想がつかない。10年以上前のように、書くのにあちこち迷い、

苦労して推敲して、となるようだったら、やめてしまったほうがいい、と思うだろう。  

書くということの有効性は、頭で思っているだけでは気づかなかったことが、書いて

いるうちにそれが目の前に現れて、あやふやな点が固定されるとその先に思考が

進んで、別々だった考えのパズルのバラバラのピースがつながりを見せて、そこに

新しい発見があるからだ。

これは人と話しているときにもよく起こることで、話すことで考えているテーマの発展

という展開を見ることができる。僕の場合は、多少無意識下に入るので、特に意識

しないで書いている。あとから書いたものを読んでみて、自分の書いたものに変に

感心していることが多い。そして、詩の場合には、まったく意味を成さないように見える、

自分宛に書いた言葉が注目されて、その意味を見つけるのが面白い。それは書き

ながらでも、少し不思議に感じられて、記憶に残り、読み直して改めて注目する。

そうやって潜在意識にあるものを抽出すると、自分の生活・意見を強いるものがなにか

ということがわかる気がする。本来なら気づかずに、癖か自分の性質だろうくらいにしか

気に留めないものだ。それには理由があることがわかる。

例えば、「自分宛に」とどうしてわかるのか。意味をなさないだけでなく、それが自意識たる

自分ではないものから発せられて、問いかけるからだ。はっきり問われる場合もあれば、

そうでない場合でも、その言葉が自分に対してだ、と瞬間に感じるから。   

自己と知性が心のなかで双子のように振舞う、ということを以前から言ってきたけれども、

その説明に今、挑んでみようとする。その二つは、一種合わせ鏡のように向かい合って

いるが、ひとつのものとしての反応しか見せることはしない。自己の反応はそのまま

知性に映る。また、知性の反応は自己に瞬時に映るが、互いが同時に現れることは

なく、常に片方だけが映っている。瞬時に自己と知性が交代する。それで鏡は一枚鏡

に感じられるので、僕らは自己と知性とを別のものとして認識する。  

そのうちにいつか証明されるだろうが、基本はそのようだろう。なので完全な証明では

ないが、それと思われるものを挙げてみる。ひとつは睡眠の反応で、人は眠っても

完全に意識は失わない。失うのは自意識で、これは自己でもあり得るもので、また

自己の契機でもある。鏡がなければ、自己を映し出せないのならば、僕らはその

鏡を自己だと思っているはずだ。その時、意識は鏡の役割をはたしている。

眠ってみる夢は覚醒しているときのように、正確な映像でもなく、またストーリーも

人物もあいまいで、覚えている夢も目覚める直前のもので、ともかく夢は奇妙な映像

に満ちている。つまり、これは知性が十分に働いていないことで、眠りの中で僕らは

自意識と知性を半ば、失っていると言える。それは自己と知性が関係を密接にして

いるからに拠るからだろう。 

次に二つ目は自己と知性の依存性質が同じものである点だ。前に書いたように自分

は日本人だとは言っても、幼い子供の頃から他国で育てば、その国の言語や習慣に

よって、両親が日本人だったとしてもその国の人に(ほぼ)なるように、自己には

適応力があって、透明な器と同じように入れる水の色に染まる。両親による体の特徴

などに遺伝の影響が見られるが、自己の形成にはこれという基本の色はない。  

それは後天的な環境などの広範囲な影響を受け入れる柔軟なシステムである、と

言える。始めから自立した自分というものはないことを示している。 そして知性も

感情や感覚のように、対物質(人も含む)からの刺激から、直接感じるのではなく、

それらの反応を架空の心の世界に置き換えて、中空で観念を組み立てる。それは

直接の反応ではなく、それを言葉や数字で文法や、論理や数理に組み替えて、それを

さまざまに例えば図形とか、文章とかに表現するのである。なので、知性は直接を

間接に替えて、夢を見るように思考を組み立てる。知性はまず、前もって直接な何かが

用意されなければ、考えることができない。他の反応の場合は感情も感覚もそのまま感じ

て、それを別物に変換することはなく、そのまま感じればいい。その点で、知性はそれらの

原点となるものがなければ、働くことができない。僕らは思考自体を考えることはできない。

それは「なぜ」というものの中身、その意義を「なぜ」と問うことはできないのと一緒である。

「なぜはどうして、なぜなのか?」「どうしてなぜはなぜなのか?」という質問の答えは不可

だろう。それは「考えること自体」を考えられないのと同じだ。  

知性にはそもそもまったく自立性はないのだ。与えられたテーマを無差別に考える。

また、そうでないと困る。自由に考えるのが、知性の役目だからだ。感情や感覚で

嫌ったり、忌避することが始めに来るから、知性はそれを考えるのを避けることは

あるが、前提も条件もなく、知性はそれを考えるのに差別はしない。そこでこれらを

あわせて考えると、自己は知性のように柔軟性があり、自由な許容範囲があり、そこ

には始めからのオリジナルな自己というもの、知性というものがあるわけではない。 

また、知性は考えるテーマに沿った思考に染まる。感情に沿うと、嫌いに考えると

嫌いに染まり、好きと考えると、好きに染まる。絵にせよ、カメラにせよアングルばかり

で考えると、景色がなんでもアングルを通して見えてしまうほど、アングルに染まる。   

自己と知性の共通性は以上のようなものだが、それぞれ融通の利く変化への適応性

があることと、もともとの自立性(絶対的に固定した確立性)がなく、相対的なものと

してある、ということ。   

これが自己と知性が双子のように働いていると思われる根拠となる、その理由だ。

ついでに最後に、ここまで書いて思いついたのは、では、自己と知性の差異はどこから

来るか、ということで、入り口だけになるが、これにも挑んでみよう。  

それはプライドの問題である。知性は与えられたものにカテゴリーを与える。名前を

与える。量や数値を与える。つまり、きっちり囲うことをする。それが正しさの定義で

ある。正しさというものは、その時その場のその条件での定義であって、絶対の正しさ

というものは、考え不足で、それは空想である。だが、知性の人はこの「正しさ」に

こだわる。知性の視点からの正しさは、囲いを決めた後なので、絶対に正しく見える。

なぜなら、自ら標準を定めて、それに合うように範囲を決めたのだから、正しいに

決まっている。どこかの国の王様の足の長さを1フィートと定めたのだから(史実)、

隣の国の王様がオレの足とは長さが違うから換えろ、と言っても、認めようとしない。

それと同じ。  

そういう訳で、知性を中心に強く傾いた人は、「間違っている」と言われると、プライドが

刺激されて、激しい反発を示すことが多い。また、社会や人間への直接の現実への

思考から、思い込みをしやすく、自分の内面に暗黒を強調する結果に陥りやすい。

そんな人が多い。  

このプライドは罪なほうで、ものには功罪がある。功なるものは、誇り高い英雄的な

行動・偉業に対しての名誉などを示すものだろう。愛国心は、この高潔な誇りと考えられ

ている。僕は最近、そのゆるい(感情)感動体験をしたので、それについて考え始めている。 

罪なプライドは自己の防衛本能から来ているのではないかと、推測している。これは

死のイメージを持つものや、危険を察知し、避けるための行為なのだが、それが極度に

なって、なんにでも尻込みしてしまうようだと、サバイバルの生命を賭けた戦いの経験

から疎外されて、卑怯な行動も取りかねない、となってしまう。どこまで死や危険を恐れ

ればいいか、という基準はない。人それぞれの、それこそ「自分たるもの」が異なって

いるので、そういう個人個人の肉体や精神のバロメーターなど誰も知らない。

誰も知らないとは、誰も知らなくてもいい、という意味だ。そういうものは必要ないだろう。

社会は例えば、道路交通法などの基準はルール規制できるから認めるが、ルール規制

という足枷がはめられない個人的な基準に興味はないし、仕事にならないから、まず認め

ないだろう。精神事項については、そのほうが気楽でいい。  

自己の防衛本能は、考えずとも体から、主に半分?は遺伝子から来ているだろう。  

精神分野に知性が乗り出したのは、自然な棲み分けというか、采配というか、よくできて

いると思う。はるかに遠い昔に、自己形成とともに知性も登場したのだろう、ということを

伺わせる。実体を持たない自己と知性の、生活のための鏡の役割をこれからの時代も

それが事実だと認識させる映像を映し出すだろう。知性によりカテゴリーを築き上げること

で、逆に自己という架空世界に囚われながら、その奇妙な楽観性と夢を失った時の現実性

とのない交ぜになった混乱を続けていくのだろう。  


最後の最後に洒落ておく ::   知性に偏向した小リクツな話

僕が「事実」であるのは、そうだろう。「僕」が現実である、となると疑わしくなってくる。

僕は「僕の真実」を信頼しているが、それが真に確かなことであれば、「真実」はある。

その真実は絶対味を帯びているだろう。しかし、それが真実とは言えない事象・現象 

なりがこの先生じたり、確かな証拠を基に過去であっても存在していたら、僕の真実

も危うい。  

この文は観念文というもので、詭弁に近いものがある。それはそれとして、以上のような

疑いの念が知性には常にある。気をつけないと、真実も現実も銀河系の彼方に飛んで

行ってしまう。帰ってこないだろう。それで時折、僕は彷徨(さまよう)のである。

                                 2020. 1 . 19  島にて




*2020年になった。節分とは年を分けることだから、旧暦で正月になったということ。

暖かい日が少し続いて、春を感じていたら、今晩から急に寒くなると。島に行くのでも

ないと、天気の順行・不順はあまり気にならない。  

そうだ、思い出した、なにか忘れていると。パンデミック前なのだった。こうしていると、

平穏でこれからどうするつもりだったのだろうと、今年から来年へと自分の予定を掘り

起こしてみようとしていたが、世界も世間も荒れているのだった。    

なにか、こう、ものの本質がフワフワしたボールのようなもので、その中心からいろ

いろの光が放射されて、玉の表面から直線で出てくるのだが、それはそれでモヤモヤ

した感じの混合色なのだが、しっかりと青なら青系統、赤なら赤系統で、何色か決めら

れないという不明さはない。その色の一つが「哲学」という言葉(色)で、他は「生物学」

とか、「歴史」とか、「絵画」とかそれぞれの主張をよく色に出している、という直感が

あった、今。 

因果の要請による図式のようなものだが、その様相では最初の直感(15年以上前)である

因果律が直の印象だったので、それに気が行って、そういう当てはめには気づかなかった。

知性による区別を取り払って、それを言葉で表せば、そんな言い方にもなるのか、と

思われた。そして、そこに注目されたのは、僕らはこの色の系統を信じすぎているのでは

ないか、という”疑問”だった。「哲学」は或る部分、そこから「生物学」にも変容し、「学問」

は学術を捨てて「批評」に。「批評」は内容の喋り方を変えれば、「お笑い(落語とか)」に。

奇妙な着想かもしれない。”疑問”から半分は、感嘆詞だろうか。ああ、そうなんだぁ、と

でも言いたげな。 そろそろ日記(このブログと以前の)を読み直さないと、メモしたヒントが

忘れたり、ダブったり、必要だったりが、されていないのではないか。と、思った次第。     
                                      20.02.05
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昔という時代を、指でなぞると [昔]

いつか 

いつか  サム 

SOMEDAY 、 という  

夢で弾く  ジャズピアノ  

日記に 2月 11日 と 綴るのか  

嵐の 予感 

巻き起こる 瞬間の ・・  

ああ、 突然に  しあわせ よ!  


ラヴ というのは  止められないことだった  

君を、 そう、 見ていた  

白いカップに コーヒーを うまく  

注ぐように   

あふれるのにも  気づかずに  


初めて 愛し合うのは  

初めての 実験のように  兼ね合いが  

そろわない   そのまま 別れる  

憂愁が  やってくる  

思ってもみなかった  初めての 重みで  

繊細さが  必要だったのか  

繊細さが 要らなかったのか  

噛み合わない ・・・   それ・ 

・だけなのだ  


私を  月に 連れて行って  

そんな 彼女は いない  

いても 話ができる 男は  

少ないだろう  めんどうだ   


また  憂愁が  ・・  

それは 映画の匂いで  文学じゃ・  

・なさそうだ  

そこで 笑って  とか  

演出家や メガホンの 匂いでもない  

スクリーンに  ムーンリヴァーの  情景  

ゆっくりめな メロディー、 郷愁の ささやき    


冒険して ! と  声がして  

朝、 目覚める  まだ  

胸が 高鳴って  心臓ヤバい  

夢じゃないのに  誰かが いるのでもない  

(急に  涙ぐんで)   そうか  

自分の声 だった   

夢を  あきらめるな! と  

僕が 僕に  

ひとり 心で 泣いてしまう  


さあ、 泣かなくていい  

ミッドウェイは  広い  

彼女が それでいい、と  

It’s all right と 言ってくれる  

指を 広げて  いつもの サインで  

頬笑んで  

いつもの 光景が  やがて  

永遠の 情景になると  

知らないままで  いい  いい、  

いいんだ  

それは  陽が 暮れるように  

暮れさせとけば いい  いい、 

いいんだ   


それは あるものだと思っていた  

ロマンという 3文字が  街を歩いている、  

そんな風に 。 

ロマンは  死んだ   または  

短命を 生きた  19世紀に  。 

今は 骸骨を ぶる下げて  魔女のように  

箒で 飛んでいるだろう  

もう  捕まるのは  まっぴらだ  

愛の 贅沢も  言わない   


タクラマカン砂漠は 知らないが  

心の  峡谷という、峡谷に  

川は  流れるよ  

水は  それぞれ  自分たちで  それなりの 

形を つくる  

かたちを  つくるの  

わたしたちの  ために  

そのなかに  わたしたちが  生きるための  

すべてを  つめて  

生活を  はこぶのよ  

さあ、  流れていきましょう  

だって  水は  上流には  向かわないわ  

流れ 下るものよ  

わたしたちを  ひとつにして   

まるで 息吹きのように  

まるで  育てるように  

わたしたちを  包む   

わたしたちを  生み 上げる  

だいじょうぶ  

わたしが いるわ  

この世界は  あなたの  ものよ  

あなたたちは   あなたで  ひとつ  

あなたは  あなたたちで  ひとつ  

それが   

生きることよ   

考えなくても  それで  方向は  

あっているわ  


だいじょうぶ  

わたしが  見ているわ  

これまでの あなたも  そうだったし  

今の あなたも  わたしを 

知っているわ   そうでしょ?  

だから  

これからの あなたも ・・・  

また そのこれからの  あなたも ・・・  

また  次の  航海も  後悔も  

続けて  

それで  いいの  

あなたは  あなたなんだから  

今の あなたが  今の あなたなんだから  


水は  それぞれ  自分たちで  それなりの 

形を つくる 

わたしも  あなたも  

死なない  ・・・  

いつまでも  生きなくて  

いいの  

わたしたちは  

死なないから ・・・

死なないから  ・・・  




*昔は  あからさまに、 明らかにと 言うか  

  愛が ありましたね。

  




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ドラゴンキスの夜 [夜]

不思議な感じだよ

この、山間の分かれ道は  

まるで街灯が  貧しく灯る、路地に  

入って行くようさ   

空間の小窓が キラキラと 開いてさ  

世界を こぼしてゆく  

そこまでにしてくれ、と  

頼んでみるのだが   どうもそうはいかない  

三千も 窓が開いてくると  

いけない  向こうの世界が全体で  押し寄せて来る  

君は そうだったんだ  だから  友だちでいたんだ  

層が 層を隠して  段差に 気づけない   

どうして 何十年も  浅い付き合いを 続けなきゃ  

ならなかったのか   

君が好きで  煙たくて  

彼は 自分がないのがわからなくて  動物を  

よく知っていた

君は  彼に理想を見て  彼になりたがる  

僕は  窓という窓を  手でふさいで  

世界を 隠してしまいたいくらい  

僕らの 三つ巴の関係の  つながりに  悩まされる  

そう、僕は君を見る  

そう、僕は 彼を見る  

街角に 入り込むように  

霧が  壁に吸い込まれるように   

時の 過去と未来とが  交差して  スキップして  

フォークダンスを  踊るように   

キラメク 真実が  こぼれているように  

見えてはいるが  

これが 僕の現象で  君の現象や 彼のは  

そう  それぞれが  それぞれなのだと  

教えられている 気がする   

感情の襞(ひだ)が 頬を撫でていくかと思えば  

かけらに落ちた 感覚が 見えない音をさせ  

僕の 注意を引こうとして いる   


ああ、 ドラゴンに キスする夜よ!  

ああ、 枕を叩いて  ホコリが銀河に散らばる  夜よ!  


僕は 自分と周辺の 区別がつけられない  

君らは  自分と周辺を 分けて思っている  

どちらも 互いを見て ひとつの焦点から 

離れられないと  思い込んだまま

僕らは 回転木馬に  乗っている  

同じ乗り物  同じ距離  同じ中心を抱えて  

ぐるぐると  世界を  物と こととを  

眼で 刺していると  

捉えていることで  囚われている  

掃き捨てる 箒が あれば  

壊せる システムなら  そうしたろう  

君、 ノックしちゃいなよ  ノッキン  

雑多なんだねぇ  今の真理とかは  

世界は こんなに バラバラで いいのだろうか   

君とのつながりを  求めて  これが  答えなのか 

ああ、アーーーーーーーと、 言うよ  

叫びにならない  こんもりした 気持ち  

雨でも 降ってくれ、と  頼んでみる  

フライド  レイン  フライド  レイン  

彼まで  乾燥しそうかい?  

君まで  日照りの雨 かい?  

そうだよ  なんか  やりきれないよ  

古い曲が ・・・ 

アイポップ  ディポップ  ビーパップ  

ディーポップ  リ―ポップ  ルーポップ  ヒャー  

そうだよ  ベッドに入る やさしさが  

来る時も  あるよね  

あの時の  しあわせを  数えてみて  

そんな時から  また そんな時が  重なる  

後から  あとから  Time After ・・・


一瞬  

君を 見る !?  


ドラゴンが キスをしに来た !  

おお、 銀河の夜  

コールしてるよ、 君の あの電話に  

君を 連れ込もうとして  

山の 裂けめに  列車が刺さるよ  

ささやかな 風と  口笛  

この夜を  通して   通過して  

この両手を  広げて  

地球の上に  立っているよ  

君を  待っているよ  

世界を  待っているよ  

そのかけらを  待ち続けるよ  

僕が 

君が  

この世に 生まれたのは   

まちがいじゃない!  

この世に  あり得たことが  あり得なかった、と  

受け入れるだろう  

なにごとか  

隠されている  なにかを  

そこに  すべてが  

かけらが、

それが ドラゴン キス、、、  


ああ、 ドラゴン ナイト !!

ああ、 大量の 星降る  夜よ !!








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未完成本棚を完成する [本棚]

長らく放っておいた、作りかけの本棚を完成させた。  

本来なら、色塗りをして乾かし、ニスを3度塗り以上して、  

乾かして二週間だろうか、それで完成。  

なので、これは未完成品だ。  

それでももう、これ以上手を入れる気がないので、これはこれで  

おしまい。  いつから始めたのか覚えてないくらい前のことで、  

調べたら、どうも2018年の9月か、10月頃らしい。 のべ1年と  

3ヵ月かかっているが、実際の作業は3、4日である。そして、  

作業時間と言えば、3時間か。4時間はかかっていない。  

大工仕事は、気が乗れば得意なので、早い。  図面を  

引いたり、メモの絵を描くこともなく、頭の中で要点を決め、  

あとはその場その場で対処する。本棚の種類は、これで 

5つ目になる。

が、この本棚は出だしでつまづいた。なにか気に入らなかったのか、  

材料を買って、取り掛かろうとしてストップしてしまった。  

数ヵ月して、頭の中の本棚が、本来自分が作りたいものでない

ことに気づいた。頭の中は普通に縦・横の本棚だった。  それは  

面白くない。斜めの線を入れて、実用に妥協させよう、と。  

しかし、遅々として進まず、材料を全部切りそろえたのは、  

1年後だった。  昨日はなぜか、島へ行く前に作れる、と思って  

いたので、 始めたが、穴あけドリルが見つからなかった。あんな  

小さくないものが見つからないわけない、と数時間も探して、  

最後は瞑想にまで頼ったら、日付が変わる頃に見つけた。  

真夜中にドリルの音はまずい、それで今日になった。 

こんな感じ:

斜め本棚2 (2).jpg

ほんとうはもっと脇の板まで斜めにすればよかった。 一応、  

安定さを求めて、諦めた。 本を入れてみれば、意外に  

本が斜めにならず、違和感がない。  こんなものか。

斜め本棚.jpg

未だに買う量があり、増えているので、この本棚で部屋に  

散らかり放題だったが、収納できるはずだった本は、その  

半分くらいが収まったに過ぎなかった。  


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マスクの反省会(半正解)・ブッダ [マスク]

マスクについてピストンさんのブログで、マスクの真実という投稿があった。

それについて話したいが、その前に、ひとつ、前回の「原始の夜2.」で

追補しておきたい事項を思い出したので、まずそれから ::: 


前回、瞑想には「過酷な自我エネルギーが必要」になる、と書いた。それを説明して

おくとインドの歴史とブッダと仏教の関係が一部で理解を助けるものと思われる。  

それはよく知られている言葉でいう、情熱というもので、その種類を問うならば、その

ひとつかもしれない。

ブッダは小さいながらも一国の王子でありながら、三十幾歳かで真理を求めて、 

王座を捨て、妻を捨て、生まれた子を捨て国を後にして、当時インドに反ヴェーダの

宗教集団(ジャイナ教とか、アージーヴィカ教)が百もあったか(ないだろうが)と

言われる哲学的な指導者の率いる集団に入って修行をした。それは出家を意味して

いて、当時も今もその意味に変わりはない。ブッダが悟りを得て、修行者を募り

始めると、多くが出家したので、村の親たちはこれを恐れ、ブッダが来るというと、

子供を家の中に隠したという記述がある(後年?)。  

真理のためには世間を、家族を捨ててもよい、ということは、これで示されていない。 

それは誤解だろう。なぜなら、インドの王家ともなれば、四季に応じて春夏秋冬の

四つの別荘が用意されて、それぞれに側室候補の美女があてがわれたはずだから。

これは僕がインドに旅した時、シャンティニケタンを訪れたことがある。ノーベル賞の

詩人タゴールの居宅があり、そこが学校に変わっていたが、そのグランドの四隅に、

それぞれ春夏秋冬の別荘が建っていたのでふつうに流行しているものだったらしい。

タゴールのそれは別荘というよりも日本の庵のように、小さい小屋であったけれども・・・。  

ブッダ王子はその四人の美女の子供は生んでいないから、彼女らとの夜の営みは

避けたものらしい。これを節制するのは、相当我慢強くなければできないだろう。  

その理由は王家の相続で王位継承問題が必ず起こるからで、彼は正統の王妃から

子供が生まれて、後継者争いの種をなくすまで待つつもりだったのだろう。そして、  

生まれると早速、出家しているのは、そういう事情によるものだと思われる。何も

考えず、ただ出家したのではなく、彼なりに準備してからだったのだ。

インドにはヨガの修行の伝統もあり、その修行は過酷を究めた。現在でも、密封された

棺で地中に埋められて、1週間、掘り返して生きて出てくる行者がいるのは、その伝統

が継続しているからだろう。棺の中で非常に呼吸を少なくして、体の生体レベルを下げ、

少ない酸素量で生き延びることができるというもの。これは実証というか、実際に事故で

1万メートルの上空に運ばれたベテランのパラグライダーの女性が、気絶してマイナス

50度の極寒の世界に20分間もいながら、生還した奇跡の記録があるので、ヨガの

修行の世界がまま見える。

ブッダもそういう修行をしたのは、想像に難くない。それが「過酷な自我エネルギー」と

いうものの働きなのだということ・・・。ブッダはのちにそういう過酷な修行を否定した

ので、今のような瞑想の形を生んだのではないかと、想像している。インド人の修行のこと

からすれば、瞑想はたいして過酷ではない、とも言える。 :::



マスクは流行りのコロナウィルスやインフルエンザの予防には効果が弱い、ほぼない、

と書いてある、そのブログに。それで厚生労働省とかで予防にマスクという文言はない、

というのも調べている。あくまでも保菌者が咳やくしゃみなどで、他人にウィルスをばら

撒かないように、マスクをする、ということだ、と。  

そのくしゃみの飛沫をテレビ映像で見たが、さすがにひどい。半分、シャワーなみの

水滴が放出され、それがしばし空中を舞っている。やがて落ちるが、思うより中空に

いる時間が長い。  

電車で吊革につかまっている人がしたくしゃみは、その前に坐っている人には滝のよう

に降りかかる。見えないからだが、見たら怒るだろう。この時、坐っている人がマスクを

していても、アウトだろう。ウィルスは大きさ、1ナノミクロン、それは1mmの100万分の1

である。マスクの目などそれから比べたら、トンネルに飛び込んでくる蚊のようなものだ。

ましてや、僕らは息を吸うからそれに乗って、楽に口の中に入ってきてしまうだろう。  

うがい、手洗いがやはり、王道で基本らしい。  ただ、今度のウィルスは保菌者にも

症状はないので、保菌かどうかわからなくてもマスクをすれば、他にうつすことも少なく

なり、エチケットの意味合いではマスクをするのがよい、となる。  

マスクが予防になるのは、誤解らしいが、さすがに心理的にも、うつさない予防でも

マスクはしたほうがいい。医者が一日にマスクを8枚以上頻繁に交換するのは、

そこら辺りが理解されているからだろう。しかし、マスクはもう売っていない!(笑)  

(2月3日現在)
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