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彷徨するもの :自己と知性 [自分]

なにかを書こうとして、いつも「何も書くことがない」という感じがつきまとうのは、僕の 

事実だ。そして、そのその感じの奥にある動きがあるのを一瞬キャッチして書ける、 

と思うのも事実だ。それがなくても書き出すが、そういう時はそれがものになるか、今は

とまどいがつきまとう。昨年の前半では、それでも書くのに滞りはなかった。少しずつ

変わり始めているのには気づいていた。今年になってからは、いつまでガチンコで

その場で書き出しながら、テーマが現れるのを待ち、そのテーマに沿って構想もなく

書き続ける、文章上の僕にとっては冒険だが、それがこの先何年続けられるかは

不透明な気がしている。   

体調に以前よりも厳しく注意をしなければいけなくなったので、書く集中の継続が

どこまで保てるのか、予想がつかない。10年以上前のように、書くのにあちこち迷い、

苦労して推敲して、となるようだったら、やめてしまったほうがいい、と思うだろう。  

書くということの有効性は、頭で思っているだけでは気づかなかったことが、書いて

いるうちにそれが目の前に現れて、あやふやな点が固定されるとその先に思考が

進んで、別々だった考えのパズルのバラバラのピースがつながりを見せて、そこに

新しい発見があるからだ。

これは人と話しているときにもよく起こることで、話すことで考えているテーマの発展

という展開を見ることができる。僕の場合は、多少無意識下に入るので、特に意識

しないで書いている。あとから書いたものを読んでみて、自分の書いたものに変に

感心していることが多い。そして、詩の場合には、まったく意味を成さないように見える、

自分宛に書いた言葉が注目されて、その意味を見つけるのが面白い。それは書き

ながらでも、少し不思議に感じられて、記憶に残り、読み直して改めて注目する。

そうやって潜在意識にあるものを抽出すると、自分の生活・意見を強いるものがなにか

ということがわかる気がする。本来なら気づかずに、癖か自分の性質だろうくらいにしか

気に留めないものだ。それには理由があることがわかる。

例えば、「自分宛に」とどうしてわかるのか。意味をなさないだけでなく、それが自意識たる

自分ではないものから発せられて、問いかけるからだ。はっきり問われる場合もあれば、

そうでない場合でも、その言葉が自分に対してだ、と瞬間に感じるから。   

自己と知性が心のなかで双子のように振舞う、ということを以前から言ってきたけれども、

その説明に今、挑んでみようとする。その二つは、一種合わせ鏡のように向かい合って

いるが、ひとつのものとしての反応しか見せることはしない。自己の反応はそのまま

知性に映る。また、知性の反応は自己に瞬時に映るが、互いが同時に現れることは

なく、常に片方だけが映っている。瞬時に自己と知性が交代する。それで鏡は一枚鏡

に感じられるので、僕らは自己と知性とを別のものとして認識する。  

そのうちにいつか証明されるだろうが、基本はそのようだろう。なので完全な証明では

ないが、それと思われるものを挙げてみる。ひとつは睡眠の反応で、人は眠っても

完全に意識は失わない。失うのは自意識で、これは自己でもあり得るもので、また

自己の契機でもある。鏡がなければ、自己を映し出せないのならば、僕らはその

鏡を自己だと思っているはずだ。その時、意識は鏡の役割をはたしている。

眠ってみる夢は覚醒しているときのように、正確な映像でもなく、またストーリーも

人物もあいまいで、覚えている夢も目覚める直前のもので、ともかく夢は奇妙な映像

に満ちている。つまり、これは知性が十分に働いていないことで、眠りの中で僕らは

自意識と知性を半ば、失っていると言える。それは自己と知性が関係を密接にして

いるからに拠るからだろう。 

次に二つ目は自己と知性の依存性質が同じものである点だ。前に書いたように自分

は日本人だとは言っても、幼い子供の頃から他国で育てば、その国の言語や習慣に

よって、両親が日本人だったとしてもその国の人に(ほぼ)なるように、自己には

適応力があって、透明な器と同じように入れる水の色に染まる。両親による体の特徴

などに遺伝の影響が見られるが、自己の形成にはこれという基本の色はない。  

それは後天的な環境などの広範囲な影響を受け入れる柔軟なシステムである、と

言える。始めから自立した自分というものはないことを示している。 そして知性も

感情や感覚のように、対物質(人も含む)からの刺激から、直接感じるのではなく、

それらの反応を架空の心の世界に置き換えて、中空で観念を組み立てる。それは

直接の反応ではなく、それを言葉や数字で文法や、論理や数理に組み替えて、それを

さまざまに例えば図形とか、文章とかに表現するのである。なので、知性は直接を

間接に替えて、夢を見るように思考を組み立てる。知性はまず、前もって直接な何かが

用意されなければ、考えることができない。他の反応の場合は感情も感覚もそのまま感じ

て、それを別物に変換することはなく、そのまま感じればいい。その点で、知性はそれらの

原点となるものがなければ、働くことができない。僕らは思考自体を考えることはできない。

それは「なぜ」というものの中身、その意義を「なぜ」と問うことはできないのと一緒である。

「なぜはどうして、なぜなのか?」「どうしてなぜはなぜなのか?」という質問の答えは不可

だろう。それは「考えること自体」を考えられないのと同じだ。  

知性にはそもそもまったく自立性はないのだ。与えられたテーマを無差別に考える。

また、そうでないと困る。自由に考えるのが、知性の役目だからだ。感情や感覚で

嫌ったり、忌避することが始めに来るから、知性はそれを考えるのを避けることは

あるが、前提も条件もなく、知性はそれを考えるのに差別はしない。そこでこれらを

あわせて考えると、自己は知性のように柔軟性があり、自由な許容範囲があり、そこ

には始めからのオリジナルな自己というもの、知性というものがあるわけではない。 

また、知性は考えるテーマに沿った思考に染まる。感情に沿うと、嫌いに考えると

嫌いに染まり、好きと考えると、好きに染まる。絵にせよ、カメラにせよアングルばかり

で考えると、景色がなんでもアングルを通して見えてしまうほど、アングルに染まる。   

自己と知性の共通性は以上のようなものだが、それぞれ融通の利く変化への適応性

があることと、もともとの自立性(絶対的に固定した確立性)がなく、相対的なものと

してある、ということ。   

これが自己と知性が双子のように働いていると思われる根拠となる、その理由だ。

ついでに最後に、ここまで書いて思いついたのは、では、自己と知性の差異はどこから

来るか、ということで、入り口だけになるが、これにも挑んでみよう。  

それはプライドの問題である。知性は与えられたものにカテゴリーを与える。名前を

与える。量や数値を与える。つまり、きっちり囲うことをする。それが正しさの定義で

ある。正しさというものは、その時その場のその条件での定義であって、絶対の正しさ

というものは、考え不足で、それは空想である。だが、知性の人はこの「正しさ」に

こだわる。知性の視点からの正しさは、囲いを決めた後なので、絶対に正しく見える。

なぜなら、自ら標準を定めて、それに合うように範囲を決めたのだから、正しいに

決まっている。どこかの国の王様の足の長さを1フィートと定めたのだから(史実)、

隣の国の王様がオレの足とは長さが違うから換えろ、と言っても、認めようとしない。

それと同じ。  

そういう訳で、知性を中心に強く傾いた人は、「間違っている」と言われると、プライドが

刺激されて、激しい反発を示すことが多い。また、社会や人間への直接の現実への

思考から、思い込みをしやすく、自分の内面に暗黒を強調する結果に陥りやすい。

そんな人が多い。  

このプライドは罪なほうで、ものには功罪がある。功なるものは、誇り高い英雄的な

行動・偉業に対しての名誉などを示すものだろう。愛国心は、この高潔な誇りと考えられ

ている。僕は最近、そのゆるい(感情)感動体験をしたので、それについて考え始めている。 

罪なプライドは自己の防衛本能から来ているのではないかと、推測している。これは

死のイメージを持つものや、危険を察知し、避けるための行為なのだが、それが極度に

なって、なんにでも尻込みしてしまうようだと、サバイバルの生命を賭けた戦いの経験

から疎外されて、卑怯な行動も取りかねない、となってしまう。どこまで死や危険を恐れ

ればいいか、という基準はない。人それぞれの、それこそ「自分たるもの」が異なって

いるので、そういう個人個人の肉体や精神のバロメーターなど誰も知らない。

誰も知らないとは、誰も知らなくてもいい、という意味だ。そういうものは必要ないだろう。

社会は例えば、道路交通法などの基準はルール規制できるから認めるが、ルール規制

という足枷がはめられない個人的な基準に興味はないし、仕事にならないから、まず認め

ないだろう。精神事項については、そのほうが気楽でいい。  

自己の防衛本能は、考えずとも体から、主に半分?は遺伝子から来ているだろう。  

精神分野に知性が乗り出したのは、自然な棲み分けというか、采配というか、よくできて

いると思う。はるかに遠い昔に、自己形成とともに知性も登場したのだろう、ということを

伺わせる。実体を持たない自己と知性の、生活のための鏡の役割をこれからの時代も

それが事実だと認識させる映像を映し出すだろう。知性によりカテゴリーを築き上げること

で、逆に自己という架空世界に囚われながら、その奇妙な楽観性と夢を失った時の現実性

とのない交ぜになった混乱を続けていくのだろう。  


最後の最後に洒落ておく ::   知性に偏向した小リクツな話

僕が「事実」であるのは、そうだろう。「僕」が現実である、となると疑わしくなってくる。

僕は「僕の真実」を信頼しているが、それが真に確かなことであれば、「真実」はある。

その真実は絶対味を帯びているだろう。しかし、それが真実とは言えない事象・現象 

なりがこの先生じたり、確かな証拠を基に過去であっても存在していたら、僕の真実

も危うい。  

この文は観念文というもので、詭弁に近いものがある。それはそれとして、以上のような

疑いの念が知性には常にある。気をつけないと、真実も現実も銀河系の彼方に飛んで

行ってしまう。帰ってこないだろう。それで時折、僕は彷徨(さまよう)のである。

                                 2020. 1 . 19  島にて




*2020年になった。節分とは年を分けることだから、旧暦で正月になったということ。

暖かい日が少し続いて、春を感じていたら、今晩から急に寒くなると。島に行くのでも

ないと、天気の順行・不順はあまり気にならない。  

そうだ、思い出した、なにか忘れていると。パンデミック前なのだった。こうしていると、

平穏でこれからどうするつもりだったのだろうと、今年から来年へと自分の予定を掘り

起こしてみようとしていたが、世界も世間も荒れているのだった。    

なにか、こう、ものの本質がフワフワしたボールのようなもので、その中心からいろ

いろの光が放射されて、玉の表面から直線で出てくるのだが、それはそれでモヤモヤ

した感じの混合色なのだが、しっかりと青なら青系統、赤なら赤系統で、何色か決めら

れないという不明さはない。その色の一つが「哲学」という言葉(色)で、他は「生物学」

とか、「歴史」とか、「絵画」とかそれぞれの主張をよく色に出している、という直感が

あった、今。 

因果の要請による図式のようなものだが、その様相では最初の直感(15年以上前)である

因果律が直の印象だったので、それに気が行って、そういう当てはめには気づかなかった。

知性による区別を取り払って、それを言葉で表せば、そんな言い方にもなるのか、と

思われた。そして、そこに注目されたのは、僕らはこの色の系統を信じすぎているのでは

ないか、という”疑問”だった。「哲学」は或る部分、そこから「生物学」にも変容し、「学問」

は学術を捨てて「批評」に。「批評」は内容の喋り方を変えれば、「お笑い(落語とか)」に。

奇妙な着想かもしれない。”疑問”から半分は、感嘆詞だろうか。ああ、そうなんだぁ、と

でも言いたげな。 そろそろ日記(このブログと以前の)を読み直さないと、メモしたヒントが

忘れたり、ダブったり、必要だったりが、されていないのではないか。と、思った次第。     
                                      20.02.05
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