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帰らない桜を 聴いて [桜]

僕が 戻ってくる  

あの頃のままで  もどってくる  

君は   まだ 僕になっていない、 僕。  

君の季節には  まだわかっていなかった けれど、  

もう その未来の記憶は  感じて  

桜  舞い散るように   壮大な計画が  あって   

そんなことも  知らない、  知らないんだ。  

それが どうなるのか、  知らなくて  いいんだ。  

それが  僕に  伝わるという、  こみ上げるものを  

君は  君の  ままでいいんだ  

僕は (秘密だけれど・・)   君が  好きだ  

あの頃の 君  ああ  想像するだけで  

なんて  僕は  君を好き だったろう ・・!  

なんて  僕は  君を すきなんだろう  。   

なんと  僕は  変わってしまったんだろう !  

なんと  君は  今も そのまんまなのだろう  ・・!  

探すこともなかった  この二、 三日  

でも  君が  そこにいるように  

僕は  ここに  帰って来た   

わかったよ  

わかったよ  

これは  君との  約束 ・・  だったんだね   

知らなかった、  これは  君との約束だなんて!  

もう 遠い、 過去との 約束なんかじゃ、ない!  

僕が  君に出会うために  

こうして  新たに出会う ・・  ために。   

それにしても  わからないことばかり  

オレンジ熊の マスコット人形を  置いて行った子は  

家族で ワンボックスで来たんだ。  

どうして彼だけが  窓に来て  僕の気を引こうとしたのか?  

ワンボックスが  タイムマシンとか!  そんなの  

ありえない、 ハハハ  

せっかくだから、  無視したお詫びに  その熊さんは  

回収して  帰ったよ   

君は  誰の使い  だったのだろうか?  

なぜ  僕に  注目したのだろう?  

わかんないね   

わからないね    

でも、  ありがとう  この謎のプレゼントは  

気に入ったよ。  

君は  人形を  置いて行った。  

僕は  横目で  それを見ていた  

だって  僕は 君のこと、 知らないし、 

なぜか  君に 尋ねようと 思ったことがない  

そして  そうやって  僕は  あの頃  いたんだ。  

現実的に  解答を 求めることが  正解じゃないと  

知っていたから、  でも、  そう感じる 根拠は  

なにもなかった。  

わかることが  必要じゃないと  わかっていた !  

それが  どうだとは 知らなかった   

今  それが  わかる    ・・。   

今  それが  答えを 必要としない  ものを  

心に  抱くことだと、  はっきりと。  

そして、  そうした 君たちに  もう  二度と  

会わなかったことが  僕が 正しかったことを  思う。  

それが  あの頃の 君   

僕と  ふたつのものではなかった  君  

桜 舞い散る中に  淡い感触で  

君は  生きていた  その ・・  愛おしさ !!  

僕は  まだ 君として  生きれない  

君は  まだ  僕を  知らない   

ああ  知らないというのは  なんと  美しいんだ  

学生の君が  桜を見上げて  なにも思わぬ  

そういう君が  もう  桜なんだ   

いつか  舞い散る桜として  闊歩している !  

君の考えは  今や  壮大な計画に  化けている  

あの頃の 君  君がいたから  

僕が  いる   

君がいる  その素晴らしさを  

どうやって  抱きしめればいい?  

どうやって  ・・・ ?  

ああ  君の  なつかしさ ・・・  

その なつかしさで  
 
僕は  胸が ころがるように  

君の  そばに  い ・ る  !  

せつなく  

喜びに  

そばに  い ・ る !  



はじめよう !   

もう  約束は  はたしたよ  

二人で  同時に  消滅しようと  

二人で  歩こう !  

桜 舞い散る  君と  

・・・・・・・・  

君が   

・・・・・・・・・・  

好きだ !   

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*あの時、僕はファミレスの中華屋にいた。 君はガラス越しに僕を  

見つけたのだろう。 やがて、家族とともに隣のレストランに消えた。 


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コロナ終息後を見て [コロナ]

今までに手をつけなかった 多くのことが、 動き出すように見えるし、  

その気配を十分に 感じる。 が、 ・・  

どうだろう、 ほんとうに動き出すだろうか。  

それは コロナの後を 想像していることになるのだが、  きれいな風景が  

見えてしまう。 遊びで、 それが文学的な雰囲気に 味付けされていても  

いい、 という気もする。  または現代的な 建築の  設計の街が  

あったりして。  それならいいが、  悪い風景は 簡単に。  まず、 五輪だろう。 

1年後のオリンピックで IOCが  どれだけ負担するかだが、  ・・?  

負担しない気か?  3兆円が  もう一回かかると、 当たり前に6兆円が 要る。  

政府の手段は 増税しかないだろう。 古くからの手段だ。なら、 五輪、やめちまいな、 

という話だろうと。  

1兆円の黒字になっても、 前回の空振りがあるから マイナス4-5兆円(赤字)。  

と言うのも、 五輪の経済効果は消費押上げと、 その後の波及効果を見積もり計算

していて、これがほとんどだ。  まずこのコロナで世界経済が どれだけ ぶっ壊れる  

のか、 誰もわからない。職を失うものが大量に出ると 言われている中で それが  

来年、 回復するだろうか?   十分な波及効果が見込めるほど、  世界の  

インフラや企業・雇用体制は 健全に維持しているだろうか?  ロンドンオリンピックで 

その経済波及効果は 2兆円を超えると、 予測されていたが  電通総研の予測では  

8000億円になるらしい。  オリンピックが終わって、 8年経つがこれらは どうなった

のだろう?  ロンドンが決まって、 それから8年後のオリンピックが 終わってみては  

8年分で黒字が46億円だったという。 大会のために消費した費用よりも、 外貨や  

国内消費に波及があったということだが、 3200億円以上を費やして、儲け(黒字)が 

46億であってみれば、(オリンピック後は 考えずに) ロンドンは成功と言っていい  

だろう。  

片や、東京だが、始めの試算が8000億円を 超えていた。  昨年の12月で  

もうそれが1兆6000億円を消費してしまったという。  まだかかるという。  

3兆円に迫る、という。 そんないい加減な計算しかできない、委員会だかが  

果たして効果的な運営ができるのか?  黒字にできるのか。  

そして、このコロナの大きなマイナス効果の後で、 どれだけ資金が戻ってくるのか、  

誰も計算できないだろう。 ほとんど予想のつかないコロナ後効果の未来に、  

さらに重なったオリンピック効果の未来だ。 波及どころか、波に波が重なって  

その複雑な影響を 読まなければならない。  大変も大変。  

その指数を入力する人間が  まず読まなければ、 計算機(PC)も 動けない。  

出てきたとしても、その答えの数式や数字に  どういう意味が 隠されているか、  

気づくぐらい、  経済や社会インフラや文化について、 経験がないと  数字を  

語るだけになってしまう。   

僕らは 何を考えるべきだろうか?  僕は そう提案してみる。   

3兆円をかけて、 しかも1年延長の資金問題も考えて、 4-6兆円の予算?  

はたして黒字を 見込めるだろうか?  

個人的には 国家予算になると、 ピンと来ないので、 説明すると 日本の  

2017年のGDP(国民総生産)は 500兆円くらい。 外国人の爆買いなどの収入は 

4兆4000億円くらいで、 GDPの 0,88%に過ぎない。  なので3兆円と

言っても、 0,6%なのだ。   もっともこの金額(3兆円)を銀行に預けると、 

1%の年利でも 1か月に25億円!の利息がついて来る。 サラリーマンの一生涯

で稼ぐお金が 2億円くらいだから、 その人の12倍人生分の 金額が、 一か月で!  



日本の国家予算が 2017年度で 97兆円、 現在では100兆円を 超えて  

いる。 僕らはあまりにも、 生活費からお金を想像しがちで 億とか、兆になると、  

生活感覚ではないので  実際に感覚を もっていない。  それを変更しよう。  

お金は 生活費ではないのである。  だから!  

 ― 生活費は お金ではないのだ。  

生活費は食費でもない。それは計算であって、生活費は お米であり、パンであり、  

うどんやそば、そして、味噌とか醤油とか、 キリがない。  それがなければ、 僕らの  

命が保たないもの、 それはお金を指さない。 1万円札を ありがたくても  食う奴  

はいない。  衣食住に関わるものは、 他人から得るもので、 それは生活を支える。  

そして、贅沢でない遊興費や 教育費などは 本来、 お金がかかり過ぎてはいけない

もので、  政府の助成金などはそのために ある。   

さて、コロナにもどろう。  

日本政府のクルーズ船の対策の失敗は明らかだが、 今はその批判の時ではない。  

同様に、今のちまちまとした対策に、その都度批判をしても、本当のところはまだ  

わかっていない。それどころではないからだ。  ここは変わらず、感染爆発の前に  

例えることができる。 これは終息が見えるまでは、増加傾向が続く限り、いつまでも  

これから数ヵ月でも 言えることだ。     

そうなると、大打撃が待っている。医療崩壊をはじめとして、いろいろな社会インフラ  

が機能しなくなる。  それまでは言うことは言うべきだが、声を荒げる必要は  

まったくない。 気にしなくてもいいくらいだ。 それでも言おう。   

何が起こって、 なにが起きなかったか、  予想外のことや まだ現れていない  

次の問題が何かを、  考えていい時期だ。   少なくても、気に留まったものは  

記憶にとどめ、  何が起きるのか、起きたのかに 眼を向ける。  

それから終息時には、  これから何が必要になるのか、 どんな仕事が要望  

されるのか、  なにを仕事にすればいいのか、 そういうことが重要になってくる。    

それには どんなことが仕事として終わってしまうか、 また仕事の形態が  

変わるのはどういう場合かという 予兆が見えてくる。  それで変わった後は  

どうなるか、 何が必要とされるか、 を考えると、 TVや ネットで海外の  

ニュースを 観るのが楽しくなってくる。  今、  この今が  新しい時代の  

変わり目で  それで令和になったことが、  あと5年もすれば、わかる。  

そういう鷹の目、  鳥瞰をもつのに、  いい機会だと思う。  それは  

俯瞰する、 大局を観る、  戦略の思考を 育てる、  ということ。  



2008年の ギリシャのアテネオリンピックではどうなったか、 五輪後は  

政府が国民に借金を隠していたので、 しかも、公務員を多く雇い、  

給与も大盤振る舞いしていたので、あまりにいい加減なため、借金を  

さらに重ねて、 国家破産。 悪名高い I M F(国際通貨基金=金貸し)が

乗り込んできて、 ギリシャ市民に 無理難題の要求をしたのは、 記憶に新しい。  

日本の政府は 戦後GHQに 抑えられながらも、 経済の根幹を抑え、 

大企業と銀行を抑えて(保護して)、見かけはアメリカ用に、資本主義国 を装った。 

実際は、 修正資本主義的社会主義とでも言うのだろうか、おかしなもの

だったが ・・・。  

その頃の政策は、 経済的にはよかった。今は、 いまだにそれだけという、  

無策ぶりが、 コロナ対策でも 現れている。 ま、初めてだから、というのも  

半分、 よくやっているのも ま、見られることは見られる。 褒められたものでは

ないが (これが 偶然、 協力を呼んで うまくいったりするかも? 期待は

しないが) ・・・。   

  

コロナ終息までに、 なにがこれから起きるのか? 起きないか?  

その波及によって  僕らの生活で何が  変化をこうむるだろう?  

それは 日本の社会と 僕らの生活のなにかを  変えてゆくだろう。  

それが東京五輪の 来年開催にも多大な影響と 結果を  もたらすことだろう。  

それは 今、  皆の目の前で  起きていることに つながっている。  

それが  きょうびの  日々というもの、 なんだな、 これが。  

TVのどの局も コメントのコロナ関係のテーマは、 大局的に見て  半分は  

どうでもいいことをしているし、  そんな近視で見ていたら、  全体で  

何が進んでいるのかを  見逃してしまう。  新聞は もっとひどい(だろう)。  

まず、そういうことにも  気づきましょう。  では  -

もうひとつ、  今は コロナに向かうことと、  コロナを無視する時間を

作ること、  その二つの使い分けが 大切になる。 それは 生活費の  

ために  好きな仕事ならいいが、 したくない仕事でもしている。 それと  

同じ 両方を渡り、 コントロールが 大切になるから。  

― ということで 。。
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只今、コロナ自滅中 : 心の発見 [抗体]

月の光に 照らされて、 という感覚が もう失われて  

そういう自分なのか、 誰かなのか、 ピアノを聴く。  

コロナ自粛で 皆、 いろんなことをやっている、と  

テレビは 主張するが  こちとらは疲れてきてしまって、  

人のことは どうでもいい、と  そう思える。  

精神的に 自滅しているのかもしれないが、  もうひとつ  

自滅しているのではないか、 と思うのが 対コロナだ。  

昨年、島から帰ってから  今日まで  ずーっと小病が  

連鎖して、  社会生活に影響も、不便もないが  自粛に  

適した 小病連続だと。   大きい持病は 今年には  

収まり、 2月には尿道に 疾患があった。 それにしても  

熱や だるさが出るわけではないので、 病気としては  

可愛いものだ。  それも3月中旬にはほぼ 治って、  

解放されたと思う間もなく、  喉が痛みだして、 訳の  

わからない風邪に 悩まされる。  微熱が 微妙に出て、  

3月28日から、 今日まで 3週間以上になるが、 その  

うちの 19日を市販の風邪薬を飲んでいた。  熱っぽさと  

のどの痛みが 失せると、また来て という繰り返しで  

今日は調子がいい。  昨日は 薬を飲まなくても よくなったが、  

明日はわからない。  

買い物くらいの外出と、 たまに車も乗っている。  そこで  

思うのは、 コロナの抗体を作っていて、 風邪が長引いて  

いるんじゃないか、 という 都合のいい解釈をしていることだ。  

つまり、それで自家製の抗体で コロナ撲滅中を 想像していた  

ところだ。 座間市では6人、周辺の市では8-10人くらいか、 

感染者がいる。 めんどうだから、もう自分も感染している、と  

思った方が 対処しやすい。 抗体がどうやって作られるのか、知らないが  

かまわない、 その気になればいい、と  思っている。 僕らは  

その気になって なんでも作っているから。 特に微細な 粒子や抗体  

などは  作りやすいはずだ。 飽くまでも、 期待半分だが ・・・。  

それに抗体ができるのは、 コロナと共生する調整がとれた、 と  

解釈しているのだ。  ウィルスには 意思がない。生命ではないから。  

その点、 自我とも、  知性とも  共通している。  

動物としての猿の脳に、 自我と知性を 発生させるウィルスを  

埋め込めば  (空想上、 理論上) 人間として ホモサピエンスとして  

存在が成立するからだ。  


<心の発見>   4. 12 - 13  

これまでは  生まれてきたから  何事か  あるねん、  

というのが   はじめからあった。   そこからだった、  

なにかあるのは。   

ちょっとちがう  夜を  迎えた。  

なんで   生まれてきたねん?  

なんのために  ここにいるんか?   それが  ちゃんとした  

質問だと  初めて    思える。    

今夜の  気まぐれでいいから  そこを  突いてみたい  

いつもと  変わりないのは  答えがどうあろうと  

かまわない、という気が していることだ。   

こうして  尋ねようとしている この自分に 意味がある、 と  

いうことでもある。  そうかもしれない。    

僕は  どうして  答えがありそうもない 質問を  

しているんだろう?    

なにかが  足りない。     この足りなさは  なんだろう?   

この隔絶感、   ひとりであることの  孤絶感、というのだろうか  

凛とした   屹立感。   まず、 感じるのは そこだ。   

空気の 氷、  という存在感が   自らの中心である、  

それは 確かさと共に  むなしさが  ある。   

自分が 空しさである面は  なにも  生めない。   

それが  情熱の 不足を  感じさせる。   

なにものにも 拠らないで   立っているのは  

すべてのものと  どう関係しているのかという  無感覚を  

生んでいる。   

この広い夜に  広がろうとしないで  じっと   

中心さえない 視線  というもの  

その無機質な  僕は  僕と 呼べない   

おそらく、  

それが答えそのものなのかも ・・  

辿るものが  なにも   ありまへん。  

なんのために  生まれたのかとは  たわ言で  おます。  

親父は  どう考えたのだろう?   

子供が生まれる時には  自分の夢を  子供に  

託したのではないのだろうか?   

親父は  兄弟姉妹が多かったが  末っ子だった   

親父が  体質を変えられてしまったのは  戦争だった  

日本へ帰る 船に乗るために  2週間の行軍  

一睡もせず  歩き続けたらしい。  

それで 夏は脂っこいものを  好み、  冬は さっぱりしたものを  

好む、という普通とは 反対に  体質が変化してしまった。  

生きる執念が  あっただろう  

家系からも  自分を頼るとともに、  また甘えも  

当たり前にあった。   それを 特別に欠点と  思ったのだろうか  

強さを  求めたらしい。   教育方針も  子供を助けない、  

というものだったのだろう。  一人で  立つまでは  起こさない、 

手を貸さない、という・・。  

それは 成功したね。  

親父の甘えの克服という 動機と  僕の潜在の選択があったのなら  

青年期の 途中までの 精神の経過は  理解できる。  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

そう思うと、  やはり、 なんのために生まれたなんて  

答えは  むなしい、 ありそうもない。  
  

19歳からは  あまりに  わからないことが  多すぎる。  

これで  元に もどってしまった。   

この むなしさは  まだ  理解できないものとして  

依然として  ある、 ということらしい。  

子供は  親しい愛を  間違えない。 危ない人には  

近づこうとしない。  それで  この空しさが強い時に  

子供を  避けようとしたことがあったが、  必要なかった。  

子供は  この空しさを  まったく感じていない。  で、  

いつものように  遊びに  体にまとわりついた。  

子供には  まだ 自分が 育っていない、という  

ことで いいのだろうか、と。  

むなしさの  裏側が  自分なのだろうか?  

無意識下の むなしさは  単に感じることができない、  

ことなのだろうか?   

僕らは  ひとりにならなければ  むなしさを  見つけることは  

できない   このむなしさを  区別する方法は  ある。  

それは  無意識下の 空しさは  まったく  寂しさを  

感じることができないから。   

人恋しい、という  依存(甘え)の形態では  ないのだろう。  

ただ  屹立した  透明の氷だけが  ある。    

そうして、  死だけが 意識できる時に  

それが どんな底なのか、

そこまで行くと   愛が 現れる、 という感じ、・・?が  

するのだ。    

何千回も  何万回も  生かされて しまう。   


心は  今のようだと  まるで  どちらにも傾かない 。  

この平衡感、  落ち着きは  例えようがない。  

たっぷりと  ものがあるように  在るものが  

塊のように  ある、   のだが ・・。  

僕が  ひとりになれるから  僕から  はみ出すものが  

あるのだろうか?  

それは いつも  他人が  僕に見るもの   なのかもしれない。  

自分でも わからない自分の 分身?に  どう関係を  

もてばいいのだろうか?  

どうも 面倒な場所に  連れてきてしまった ようだけれど  

一度は  つまらない 試みもしておくべきだろう。  

と、思うが ・・・。    

(困ったね) どうにも  書きようがない。  

こうなると、  夢もない、 とわかるし、  

こうなると、 現実も感じられない、  となるし、  

つまり、  

・・ 

・・・ 

・・ 

やっと 発見した、  これが 動物の 心なのだ。  

考えたり、 区別したり できないし、しない、  その    

一律の 心。  この意識は安定しているのに、  

人間の愛も  透明な壁越しで  なければ 理解しない  

それが  動物の  感じ方ではないか。  

彼らには  彼らの  しあわせがある。  うーん、  全部  

上手く、 あてはまるぞ。    

僕が なにかにつけて 移項していたのは  

この 心だったとすれば   すべて  

納得できるぞ!   


美しい   人生は 美しい。  

こういうことも  できるんだ。  



*このことはずいぶん先まで、行き先があるのを予想させる。なぜなら、  

 この心を定点にして、応用・演繹させれば、新しく定義できることがあるから。  

 それに、幼少の子供の心は動物の心ではないか。”自分”が、まだ育って

 いないから。  

 これは僕らが生まれる前の、生まれる理由の、答えのひとつにもなるのか。  

 それも考えてみるか。  


*余韻があって、 それが続く。 これがどれほどのものなのか、明日以降に  

 わかるのだろう。  

  
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喜びと侮蔑:神との(”への”ではなく) [神]

今 ここにいらっしゃる 私が 幸せであるように  

祈る   というのが  神への意識も 含めて  

シューマンとかの 19世紀の 時代の 願いであったろうか   

神への願いは  そのまま ロマンであらせられた のであろう  

ここにある 蜜の甘さは  キリスト教の香りに 包まれた、   

神様という 憧れが  慈しまれて あったのだろう   

僕らの 愛(という概念、もしくはそのもの)が  神と  

重ねられて  語られ、  また 語りかけた  そういう  

世紀であったと   そして 腐りの始めの、その世紀であった、

と  僕には 思われる。    

それでなにかを  語ろうという気がないのが  不思議な  

ことなのだが   その人々の想いを大事にしたい、という  

気持ちと   粉々に粉砕してもいいと、 思う :僕と  

僕の中の 僕との:  葛藤にならない、あり得た 融和なのだとすれば  

その思考も 認識も  意味という感覚も 育てられない、  

そういう オアシスの豊富な  しかし、  見渡す限りの 砂漠に  

さ迷い  迷い込んだような  気がするに   ちがいない。   

トロイメライ  19世紀 、  シューマン

G線上のアリア   18世紀 、   バッハ  

魂の  さ迷いよ  

そこに 安心という 祈りがあった  信仰の 礎(いしづえ)よ  

御座(おわ)した 場所に  イマソカリ  

I need her

・・・・

I need him

・・・・

I need me

・・・・

I need YOU

I need everybody ! 


これほどに  あなたを  必要とする   その理由は?  

すべてを  あなたに  委ねてしまいたい  そのわけは?

それが スピーカーの増幅音のごとく  大音量に  

君の 心で  鳴り響き  鳴り止まない   

そんなに  

そんなことが  あったのだろうか !   


” もう どうにでも なりなさい !! ” 

「 モウ  

ドウニデモ   

なりなさい !!! 」 、と  
 

頭から  怒鳴られたら  そうなってしまうのだろうか  

屈辱に したがうのは  プライドが  許さない 

(そりゃ  できませんや) 

なら、 自分より以上の  

自分を はるかに 超えた

高貴なと規定された 存在へ、なら ・・・  

いいのだろうか   

おお  ウィリアムの 心よ

A Time for Us ロミオと ジュリエット  

悲劇は  高らかな 涙の代償、 ラ・カンパネッラ(鐘)   

気位高い 君の  要求に  応えるべく  

透きとおって行ける  感情を  抱けるやも  

どんな  苦難・困難 も   

ああ それこそが  ロマン   

夢に 堕ちた  現実というもの  

晦渋を好む  欺瞞になり替わった 懐疑というもの  

一人の会話が  どこまでも続く  闇の演出  

それに感動する  あまりに多くの 観衆  

あまりに 愚かな 真実の姿、 と  君は言う  

輝ける 我らが わずかな時間、と  僕は言う  

栄光は  ・・ あった   永遠は そこに  

・・・ ではないのか?   

もう 胸を かきむしるのは  やめよう  

僕らが  手と手を  合わせれば   

僕らが  愛し合えば、と  祈れば  

それが あまりに  ピタリと  僕らの心に  

当てはまる、 と  気づく  

これは! 気づいては いけないことなのだろうか  

前提として 僕らの心に  供えられている  

これは  何?  ”罠” じゃないよね  そんな  

邪推は  考え過ぎだよね?   

これは 僕らのために  周到に 用意されたもの、  

それが  愛 ではないよね?  


時間が ないとわかっても  

時間という 想定を  使う生活は  終わらない  

数字は  どこにもあるが  触ることも  味わうこともない  

聴いたり  見たりもない   それは  記号で現わされる  

それは1であることを 示す 言葉の  ひとつ  

実在していないが  生活から 外せない  

その時  心は?  あるよね  

思うという 想いという  感覚に  

愛してる  それは  僕を 裏切らない  

見えない  触れないが  生命の一部だと  

僕は  知っている  

生きることから  離すことが  できない   

死ぬ前に  それが来て  確かめられた  

生きることの すべてが  愛ではなかったが  

愛がなければ  生きてはいなかった  

それを知る  貴重な 一晩が    ・・あった

それは 人のつながりを  紡いでゆく  

追いかけることが  楽しく  

子供のように  笑えた !?  

それならば なぜ 僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・       

   
sぢvふぇrひおgjうぇdcなcgvb・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まだ  言えない 、 としか 。 (言えない)

死んでも 言わなければいけないのだろうか?  

それとも!!! 

死は  僕の手に 余る   

生は 僕の手に 余る、 と  

あまりに 当然のことを  言わなければ ・・・ ないのだろうか !

死に 慣れ親しみ過ぎた!、 と。  


それは もう 死ではないという、 そんな感覚を生んでいる 体。 

もう 生まれた時に備わっていた  死の恐れという  感覚ではないからだ  

むなしさが  残っているから  それが  時に  

深い  沈む  混濁の 大嵐を  吹かせたりもするが   

僕の死に  根はない  そのために  それで  

闇に  引き込まれることが  なかったのだろう  今までは

そんな  一日の ある瞬間は  やがて  過ぎる  

風が 通り過ぎるようなものと  長い年月で  学んだ (のよ  

あなたと  いっしょに ? ? )   

グーンと 落ちる  テンション  でも 元気  

私は  知っている  あなたが  私を  愛していると  

それを  どうのと  考えなくても いいことを  

パーフェクト ワールド  そう言わなくても  

あなた(僕)は  知っている (わ)  

なんという この 世界 !!!!!   

君 (彼女) を  呼ぶよ。  


君 (God) に  尋ねるよ  

(僕は) 愛は  僕らが  創ったと  思っていた、 この前まで   

そういう人たちを  見た(感じた)から ね  

でも  それらの想いが  集められたのは? と  

今  気づいてみると   君が  関わったのだろうか?  

とも 思えるんだよね  

愛は  どうしても  巧みに 隠されている  

どうして  僕らは  それを 求めて  

飢える人まで  いるんだろう?  

どれほど 否定されても  それを証言するものが  現れる  

生の一部であっては  逆らえない  <ヒットラーも  スターリンも>  

自我のエネルギー(英雄)では  対抗できない  

死を 恐れないだけでは  それは断ち切れ ない  

僕も  ただ  離れることが  できただけ   

それでも           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

君は  何者?

君は  何者?

君は  何者?

なぜ?  

なぜ?

なぜ?  

After - 育つことの意味は?  

アインシュタインの ように  

理論物理とは Situation が  異なるが

僕も これを ゲームとは  考えられない!  

壮大な トリックだが ・・・、

・・・・・・・・・・・・・・・・  

または、 ・・・
  

人間だから?!!!!  


・・・・・・・・・ (キリ がないな) ・・・・・・・・・・

 
憂愁が ・・・  

そうだ   

君に  会いたい     ・・・(これだ)

でも  気持ちが  そもそも  

僕らの 脳の根だと したら   

すべての  抵抗は無駄になるの ではないだろうか

それでも  

まだ   

緑の  葉  

知っている、  僕は 知っている と  言ってみたい  

ブラウンに  渋い  公園のベンチ  

しあわせを 知っている  満ち足りている、と  

振り向けば  そんな僕が  いる  

輝く  太陽の 光の束を  

僕は  もらっている   

この 狂った世界において  


そうやって  このまま  過ごして 終わりにしようと 

僕が  考えると  思ったのだろうか?  

それは ないだろう、

たしかに、  

それはないだろう。



*2020.2.9にこれを書いたときは、明瞭な動機があったのを知っていた。  

 今、それから2ヵ月と8日くらい経って、それにも或る疑問が出てきて、  

 (これまでの多くがそうであったように、ストレートに僕の立場から書かれている)  

 少し、泥水(他人との思惑)が流れ込んできて、この先を見なければ、と 精神的  

 にも自粛している。晴れるというのは、天気次第だ。空気が乾燥して、やがて  

 水滴も蒸発してしまう。明瞭さというのは、晴れ間が出ているだけのこと  

 なのだろう。 天気は変わる。  この考え方も古く、日本古来のものに基づいて  

 いる。
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ラプソディ イン ブルー、青い鳥と [青春]

<ラプソディ イン ブルー>


鮮やかにも 濃いブルーで  君は沈んでゆく  

まとわりつく 螺旋を  気にしながら  

もはや  世界が 横滑りに  傾斜してゆくのを  

眺めるほかはないようだ   

割れる階段は  山焼けに  さんざめく   

陽炎の  ベト化粧を  あとに 残して  


静かなる 視野よ  旅の  古墳よ  

沈むイメージに  別れを  告げるべきか  

椅子に足を のせて  足サックに 短剣を  刺すべきか  

ユマニテ   陽の昇る 絵画   

紺碧なる 寛容よ   許しがたい  恩恵よ  

さすれば 栄誉など  忘れましょう に


太鼓を 叩いている 男、  男   

鶏を ひねっている 男、  男   

彼を  迎えたまえ  ゼラチン・キナーゼ  

おお、 讃えよ  肩に 雷光が落ちる  男、  女  

葡萄酒 片手に  手に手を取り   ダンス with  酒樽 !  

ウンム、 タントト   クンム、  ラントットよ !


やがて  晴れてくる  濃く 青い、 空よ  

刻んだ プレゼントの  リズム、   さあ、 お手!  

チンタラの  尻尾でも   追いかけるのか  

ガード下の  トンネルを  縫ってゆくのか  

爆発する ケーキ  飛び散る   生クリーム !  

うん蠅   飛び 縄   改めて  御挨拶いたし ましょう ぞ  


コーヒーの土  山、  山  

ブルドーザーの  回転  踊りの 気になる視線  

カチン、カチン、  グラスを 傾け  鳴らすよ  

すみません、 ここ  邪魔して よろし?

ガニ股を  交差しながら   曲芸でも?  

いや、 メロドラマ  大団円、  大日の出  

その  明けてくる   清らかな 朝よ  

その スムージー・ スカイ  

マーベラス  ロウ(法律)、  歓待する 感激  

我らの  舞台よ !!



              3.27 ・ 28、 4. 2 ・ 5



*只今、青春を検索中(心の)でいっぱいいっぱい、感想も  

書けない。どういう感動なのか、これは。それが面白いところ。

                                  4 . 7  

<青い鳥と青春>

しあわせの青い鳥を探す童話が、メーテルリンクにある。

外に探しに出てゆくが、青い鳥は家の中にいた、という話で、変な話  

だと子供の頃は思っていた。それが幸せの身近な寓話だとはすぐに知る  

ようになるが、納得したわけではない。  

それが今は、昨日今日で納得した。 4. 6-7  

物凄く青春が押し寄せてきたので、驚くくらい。 以前から、青春は楽しくなく、  

悲惨な状況だと、生きにくく感じていたので、青春という言葉さえ、好きでは

なかった。 そこへ戻らなければならないのは、やはり苦痛だったが、音楽は  

和音で協力的に成り立っているので、ポジティブを心に形成しやすい。  

「アリス、~サザン、独り言」で書いたけれど、それからはその頃聴いた曲が  

すべて耳に、気持ちに、快く聴こえ、曲のはしごをしまくっていた。なにを  

聴いてもいいのだ、良いのだ。 3日目にはZARDになった。 ZARDは

負けないでの大ヒットであるように、あの頃の応援歌として、岡本のTomorrow

と共にあった。でも、僕の心の調整としての曲は、ビートルズの「Hey, Jude 」

とベートーベンの「運命(第五交響曲)」だった。双方ともに、1000回は聴いた

はずだ。 それにZARDは負けないで、からは聴かなかった。清潔で、きれいで、

弱さが感じられて、もっと力強い刺激が必要だったから。  

ところが、今はそれが違って、聴けるようになった。少し、BGM的だが、聴いて

いても書けるのだ。彼女の誕生日と2日しか違わないのも、なんとなく親近感  

をもてた。  

ともかく、来たものはしようがない。過去に戻るのは嫌いな性質だったが、来た  

ものにはそれなりの理由があるだろうからと、自分を信じて、素直にはまること  

にした。感動に次ぐ感動は2日続いた。続いてもいいくらいに、楽しかったが、  

やはり、一過性だったようだ。そして、過渡期の一つのフラッシュだったようだ。  

9日の今も、その余韻がある。今もZARDを聴きながら、書いているが、心が  

じっくり落ち着いてくる、あまり動かなくなるだろう、という明日を感じる。  

それは曲にと言うよりも、青春に、である。ここに青春というスポットがあった  

のには意味があった。そのほうが感動的なのだ、僕にとっては。  

まだ、心が進化し続ける、体感だからだ。昨夜のスーパームーンと時を同じく  

して、ひとつのピークが来たということが、また素晴らしい。自然とつながって

いることを、わかりやすく確認できるから。 ・・いつも。  

思い出す必要があったのだ。もう、むなしさが今すぐの力にならない時、僕が  

僕に青春にもどることを、示唆したのはとても自然なことでもありそうだし、  

実際にもどることで、自分の書いたものの、主に詩で、そのテーマはそこに  

あったのには感服した。自分では”パクる”つもりはなかったが、ほぼテーマは  

その内面はその僕の青春の中に、そのままだった。泣ける青春、というその  

中に。  

この心の躍動し始めた、新しさはこれから人生に向かってゆく、その期待と  

不安を超える、あの頃だったワクワク感で一緒なのだ。  

この熱い血を!  

君は 感じるだろうか   

この   

地球を  叩き潰しても  

生きようとする  不思議な  

生命の  力を !  



*僕は復活などしない。青い鳥の寓話も、愛の逸話も、戦いのテーマも  

 それこそが寓話だと思える。くり返しなどしていない。見かけがどう変わろうと、

 始めからやる!  

 今からやる!  それだけがある。  それだけだ。  

                              4 .  9 

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還暦過ぎてから、自分で買った。ロボットと、電球形アクセサリーと、触れると  

色が変化する目玉のおもちゃ。
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ほんとうのことに 意味ある? [ほんとう]

なにも書くことがないんだよって、毎回言っているのに、  

書いている。 この瞬間、あるし、 今は どうしたって、 今だし。  

俺が 作ってるんじゃない。  ここにあるんだ、 生きる理由が。  

叩きつけたい、このうずきが。 逃すつもりもないし、逃してもいないが、  

なにしていいのか、 わかんないよ。  

言うのか?  君は 失恋したんだろ。  そんな眼で見られりゃ、  

わかるよ。  君は君で  きれいな選択をしたかった。  でも、  

それが必要でもあり、 受け入れがたくもあった。  それを  

清潔に 選択したかった、わかるよ、  その気持ちは。  

でも、 つまりは  自分を捨てられは しなかった。  君が  

どう思おうと、 そういうことで  それは 悩みに変わってしまった。  

愛せないから、  でも  愛したい。  

君は 青空を  目指したのに。  そういう自分が 好きだったのに。  

破壊してしまいたい、 その衝動に加えて  素直になれない、

見かけとは違う  そういう自分も  いた、  そう  よくある。  

君は  そうやって  眠れない夜に  内臓を壊した。  

君の心が  病魔を  育ててゆくんだ。  そう、 知らなかった。  

でも、  許せないんだから、 傷のねじれは  どんどん  

大きくなる。  しかも!  君は 清楚で  清らかに  

恥じらいを  保ちたい。  君は きれいな夢を  持ち続ける。  

いいよね、 それは。  その瞬間に、  君は 恋する。  

はじめは  思い通りに進むから、 二人で 同じ夢の中に。  

夢を  追いかける、その素晴らしい 軌道、 光跡、  

広い航路。   

そんな眼をしたって、  僕には 君を助けるしか できないよ。  

君が  ほんとうに  君にできることを  選択するのでなければ  

自分で  選ぶのでなければ、  救いは  ないよ。  

揺れるだろう、 それが 君の想いさ。  今は それを  楽しめばいい。  

真剣なことは  軽く考えて、  友達に アドバイスするつもりで  

考えなよ。  やさしさを  拒否する必要があるけれど  どう、  

そういう強さには  ダメと 思う?  

君が すれ違いになるようになって  君は  愛してる、と  

思っている。 いろいろ きれいに考えて  言い抜ける。  

まだ あきらめるべきではない、と  思うように 自分を導く。  

君は  感じている、と  思い続けるのを  選ぶ。  

嘘は  嘘を呼ぶ。  心を開いてくれれば、 と思う、  

これだけ 想っているのに、  と 人のせいにしているのも  

気づきたくない。  愛が 見えないとは  気づいている。  

でも、 それを認める  自分を  許せないのかもしれないね。  

君に  負けないで、 と 言ってあげたい。   でも、  

単純に  勝てばいい、 ということじゃないだろう。  

だから、  単純に 生きるのは  楽じゃない。  

単純にするには  百千もの工夫をするか、  それとも  

なるままに まかせるという  千古の 知恵に頼るしかない。  

夢に 囚われている時は  目覚めて  今を  捕まえることが  

大切になる。  夢に破れ、  破ってしまうのは誰か?  

破ってしまえば  現実に生きるつもりだが  それは  できない。  

我慢しすぎて いるよ、  君は。

心から  生きることができないから。  そうなったら、 今度は  

夢を捕まえて  夢に生きる必要が  出てくる。  

そうして、  それも つらいよね。

僕らは  どちらかで  生きることは  心をゆがませて しまう。  

さらに。

夢も  現実も  同じように  コントロールしようとすると  

自分の位置を  決めるのは  まず無理になる。   

それは 虚しさとも  取引しなくてはならない。   

それは  それぞれの、  つまり 君が  君に応じて  

自然にすることさ。  それを  尋ねてほしいよ。  君が  どう  

見えるかは、  君よりも  僕の方が  よくわかるから。  

君は  きれいに 生きたいと 思っているのか、 僕も  

今の君に  今の君を  伝えたい。  考えたって、 


”ほんとのことがわかったって、 それに意味が あるのか”、 


僕はないと思うんだが、  それにしたって それは  

君の 求めるもの 次第だ。  

すべては ほぼ  なるようになって  君は  なるように

進まざるを 得ない。  

素顔で  いればいい。  思ったよりも、  素顔になると、  

怖くない。  

どうなっても  それが  君が選んだ 道だ、 ということさ。  

頑張りすぎる  君には  つらいね。  

君は きれいな夢に 生きようとした。  そして、 生きた。  

それが  すべてになる。  

突然の お別れになったけれど、   また  どこかで 会おう。  

僕は  ここで  喋っているから  、

君のこと  わかっているから  、

少し  好きになってきたから 。



                          4. 7 - 8 




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アルマジロに :自己喪失: [自分と知]

今日も、書くことがあるという”感じ” が胸から上がってくる。この感じについて  

思考を沿わせていたら、気づきか、思いつきか、分別のない独り言が あった。  

半分は自分のために、残りは深層心理に興味のある人に、書いておこうと・・。  


書くと長くなる。原稿10枚くらいは、15分か、30分か、ボーッとしていると、  

まとまってしまうからだ。 僕は自分が書こうと思うのは、ひとつの特殊な癖だと

考えていいような気がした。それもまた仮説なのだが、19歳で深層意識に

落ちた(たぶん、)ことは何度も書いた。  それは人間の取りつく島のない世界

で、個人的に”無”とか、”無限”とか呼んで差し支えないものと認めている。  

その10年後もしてか、の頃にどうしてそれだけの脅威に晒されて、恐怖を  

覚えなかったのかが、自分ながら不思議に思った。 近くは、底なしの闇を予想  

するのに、感じてもおかしくはないのに、少しも恐怖ではなかった。  これで  

二つのことがわかる。一つは対象が広く、大きすぎて、深すぎて(?)、なんせ  

取りつく島がないのだから、まったく新しい経験によるものなので、認識が  

追いつけず、できなかったということ。ある意味、ポカーンとしてしまった。  

これと対峙したのは、明らかに自分である、なのでこれを認識しようとしたのは  

明らかに知性だ。

このことは逆に、知性が過去のことを考える源泉や根拠にしていることを

裏づける。これが二つ目。過去に経験がないので、類似の経験で想像から  

認識に結びつけることもできなかったほど、衝撃的で、新しかった、ということ  

だろう。  知は、直近では見たもの、聞いたもの、味わったもの、他感覚から  

の情報をもとに言葉(=認識)に換える。その1次情報から(言葉や、色彩、音  

など)の二番煎じで、学や、アートや、交響する音に変換する。 知は必ず、  

自然の二番煎じである、ということ。 僕らが喜ぶものは、僕らが知っているの

だから、僕らのもの(人工物)に換えるのも、これ自然なことだ。 ただ大元は 

自然にある。  誰だったか、明恵上人だったか、のんびりしていては悟れない  

とばかりに、片耳をそいでしまった人だが、彼が「自然がわかったのなら、  

さして仏典を学ぶ必要はない」と言ってのけていた。  

さて、本題に入ろう。  

50代で、自我が育てた自分が一度クラッシュした。自己喪失である。これは  

資料がない。一つだけ、アメリカ人のキリスト教信者の女性が書いた体験談  

「自己喪失の体験」バーナデット・ロバーツ著(紀伊国屋書店)がある。僕は  

瞑想経験を映像では見ることができず、周波数かチャンネルがちがうらしい。  

彼女は夢遊病のように時を置いて、無自己の状態に陥るのだが、その感覚が  

僕の体験と同じ質であるのに、まず驚いた。彼女とは異質であるのに、その  

不可思議なFeering は同じだとわかる。そういう貴重な資料で、これまでで  

その感覚に出会ったのは、この本以外にはない。(近似のものはJ ・クリシュナ

ムルティの「生と覚醒のコメンタリー」(1~3)の中の、いくつかの短いエピソード  

に現れるだけ)  

その彼女であるが、キリスト信者らしく、「人格神はいない」と直感したらしく、そう  

書いている。 しかし、その後で、「私は新しく真の神を求める旅に出る」、という  

決心を書き残す。それが今、気になったので当時は続編が出ていなかったので  

その後のことは知らなかったが、出ていた。「神はいずこに:キリスト教における  

悟りとその超越」と大層な題で、(日本の出版社、または翻訳者によるものだろう)、

原題は「The Path to No-Self : Life at the center 」、であれば、「無自己への

小道: 生の中心のライフにて」 くらいの直訳だろうか。  

要は「無自己」では、日本で売れない、と考えたのだろう。「悟り」と「神」ならば、  

わかりやすい。 いずれにしても、彼女、主婦だった、はまだ神を探しているらしい。  

僕はキリスト教徒らしい、と単純に考えた。彼女は「人格神はいない」という  

その意味合いが理解できなかった、と。 彼女の体験は彼女が書いている通りの  

「この経験は神との結合に向かう瞑想の第1段階に属するものではないことを  

強調しておきたいのです。(略) 私の話は、(略)神と自己との結合を越えた彼方  

にある「不可知のもの」の沈黙と寂静の領域への旅の記録なのです」(はじめに)  

とあるように、それは「不可知のもの」への旅なのだ。この「不可知」がヒントで  

それは思考は感じられない、第三者からは幻想、神秘への内面旅行に読める  

だろう。  

しかし、はっきりと自己を失くしたことを感じている。つまり、自己と知は本来  

一体なのかもしれなかった。この自己喪失感が、だけが、他の幾多の神秘

体験と意を異にしている、ちがっている。   

彼女は幼くして瞑想経験を始めて、神と自己との一体を求めて、「自己とは、  

力の源泉であり静寂点である神にもとづいた肉体と霊魂、知性と感情を 

統合した存在であり、本当の自己はその深奥で神につながれ、神と離れて  

は存在しないと」思っていた。

続けて、「そこで私は本当の自己を含めて自己と呼びうる一切が失われる  

恒常的な状態を迎えて、非常に驚いたのです」 と。この感覚的な認識は  

とても正しい状態を伝えるのに、全体の判断ではこれを特別な状態として  

否定しようとする、おかしな彼女を僕は見てしまう。なにが、彼女にそう  

させるのか?  

彼女のこだわりが、神と自己は合一する、という”予定(期待)”が、そのはずだ、

そうならねばならない、という信条に(心情に)あるからだ。 神は僕らが頼りやすい  

アイテムだ。彼女は自己喪失の事実を感じても、そのアイテムを手放す気には  

なれない。それは当然のこと。生まれた時から、家庭はキリスト教一色だった

ろう、幼い子に瞑想をさせるくらいだから。そうして神は子供の頃から、すでに  

”実在している” 存在として、子供心に刻まれたのだから。  

彼女は悟りの第1段階に1歩を踏み出した途端に、宗教という先祖代々の  

環境に邪魔されてしまった、 のではないか。 その自己喪失という状態は  

体験しないとどうにも説明の不可なものだから、僕が言っても仕方ないのだが、  

神が実在ではなく、彼女やその先祖代々の概念であるなら、それが知の作り

出した、人間の完全への願望を投影したところにできる偶像であるならば、自己

が喪失した時点で、知の生んだ神も喪失するはずである。ただ在るという存在

の世界が、きっちり捕らえられたのならば、そこに人格神がいない、のは当然の

話ではないか。 彼女は新しく神を求めるのが信仰の道だと信じているから、  

「神はいずこに」と結果なるのもまた当然ではないだろうか。彼女の求めている

のは知的結果である「神」という幻影だから。  

信じることは、難しい。それは本質では、選択の問題ではないから、・・・。  


では、個人的な本題に入る。   

自己を喪失しても、自己の枠というものは新しく必要になる。水に自己を求めて 

も変幻自在なので、器に入れないと、それはなにも主張できない。 くまさんの  

形の器に入れれば、くまさん発言ができる。その他も。しかし、一度自己喪失を  

味わうと、自己というよりも変幻な主体になり、自分にこだわらなくなる。 僕は  

はじめは気づかなかったが、第二の自己に、第二の知を背負わせたらしい。  

自意識の左脳的な知、右脳的な知ではなく、体や脳の他に第二の知を心の  

内奥に据えたようなのだ。そう考えると、はじめはちょっとした疑問が浮かんだら、  

それをポンとインプットして(どこだかわからないが)、忘れてしまうと、あとで  

答えがふっと出てくる、という不思議な現象の説明がつく。これは面白いので、  

初期には面白半分で、矢継ぎ早にどんどん入れていったら、普段の思考力が  

落ちて、思考が遅くなるという、副作用があるのがわかった。それからは 

適度に、適当に使うようになったが、文章がその場でほぼ推敲なしで書ける  

というのも、この潜在力のおかげに違いない。 これが「自分と知性が双子の

性質をもつという論」の、傍証であり、そもそも自身が知性を二重に持つことで、

知性同士の比較ができるという客観性から得られたものではないだろうか。  

これには一種のすごさがあって、自意識である自分が考えるよりも、その先を  

考えた優れた結論を出してくる時が、ままあるのだ。 これは文章をよくする人

には必ず現れる兆候で、文章を書くことで、その場でその先の考えに発展する

ことだ。  文字という形を現実に取ることで、頭の中では夢のようにあいまい

だったものがはっきりするので、それを見てピースとピースがつながるのだ。

書くことで、新しい思考の展開・発展へと進める。それが文章を書くことの(発見

という)醍醐味なのだろう。 

僕はいつも自意識よりも、深層の知性の方が上手(うわて)だと思っている。それは

僕が望むことを僕よりも知っていて、気がつかなったけれど、こうしたかったという、

本来、僕が考えたよりも、よりよい結果を送り込んでくるから。 時には、書かれた

文章を推敲するようによく読んで、そのよく練られた考えに賛成するのだ。  
 

でも、二人だと感じたことはない。彼は飽くまでも、僕の情報を吟味して、その  

狙いを誤ることなく、深掘りができるようなのだ。僕が考えているのだが、自意識 

では乖離があって、考えていないような ・・・。 

そうだ、題の「アルマジロ」だった、 なんだろう? なにを考えて、この妙な題に  

したのか? こりゃ、ダジャレだな。 僕はこの文で「あるまじき」ことを言ってしまう

かもしれない。それが、ぽっと、「アルマジロ」に変わった。面白いので題にしよう。  

あとはなんとかなるさ、と思ったら、どうしても、つながらなくても、題は「アルマジロ」  

だったのだ。こんな言い訳こそ、あるまじき、いや、「アルマジロ」だろう (笑)。   


*この文章はよく推敲をしたほうで、追加した言葉(5~6文字×2?)、2,3語

 (助詞)を置き換えたり、と 全体で数%くらい後から手を加えている。削除はなく、

 文章の流れも変えていない。最近、小さな修正は多い。



                              20 . 2 . 28
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君は誰? [心理]

僕は僕の 個人を超える問題を 考えざるを得ない  

それは 悲劇な皮肉なのか、  喜劇なのろまだったのか  

自分という  枠と  知性という  変幻な物差しを  

手中にした  と思ったが   

それは  今までの拠りどころを  失うことでもあった  

それは  承知していたので  痛手にはならない、 と  

思っていた  

昨晩は、  その前から 胸騒ぎがして  僕は  

寝床の中で  僕を見つめた   自分ではない僕を  

どうやって  見るのか  考えた   

わからなかった   それは  意識の奥で  

僕である 主体自体を  見ることなど  

叶うわけわけないと、  思っていたから  

むなしさが  直接でなくなったのは  初め  

喜んだが  そして今も それでいいと思っているが  

どうにも  その極度の緊張を 失うことの代償も  

大きい、と  今更ながらに   感じている   

全力を出して  対峙する  相手が  いなくなった  

生活が  楽になるはずだったし、  そうなったが  

立っているための 手段でもあった  相手が  いなくなり  

僕は  自分を  ”失う”   

この失うは  これまでに考えていた 「失う」という  

全般での意味での  失う、 ではなかった   

だからまた  この感覚を現わす 言葉はない、と  

逃げてみるが    ・・・・・・・・・    

   
僕は  この世のあらゆるものが  あてにならないと知った時  

何もかも 自分から作り出さねばならないし、  作り出すものが  

皆、  自分の烙印になる、 と思った   

それは その通りだが   それは わかりやすい烙印どころか  

伝わることが  ほんの 糸の一筋でもある、 という  

頼りない 印になるとは  まだ 気づいてはいなかった  

ただ  後の者が  拾ってくれるさ、と  気楽に考えていた  

僕は  精神的には  大変危ない位置にある  

僕は  自分を信じないのではなく、 信じることはできないと知っている  

ので、  信じるとかは  問題外だ  

そして、自分を 信じることが  生きる関係をつなぐ、 ということも  

知っている ので、   信じないのは  問題外である   

この矛盾に見える矛盾は  論理の矛盾ではないので   

フラットに 並べられない  

でも 僕は 毎日の生活の中で  枠の中に  自分を置く  

創造する   関係をもつ  そうした時に  通常の判断が  

そのことについては できなくなる   

以前は  僕は  どこにいるか、 と  余裕だった   

どこにいても  僕は  支えられているのを 知っていたから  

今は?   自分として 生きようと思うと  非常に  

心もとない    緊張して 強い綱引きを しなくていいし  

勝手に  放り出された  このあてにならない世で  

それを 感じすぎる 自意識を  避けるように  

落ち着こうと  思って  ただ もがいているようだ   

だから  昨晩は  枕を頭の下にして  尋ねた  

(自分ではない僕、そういう)君は 誰?  

この質問にも  君(僕)は答えてくれるのだろうか?   

無意識に向かって  こういう質問を  するとは   

まったく 思ってもみなかった  


君は 誰?  


なぜ君は  僕なのか、 でも同じだった  

花々の咲く  公園のような  広い中庭で  

君に 案内されて  歩くのは  いいだろうね  

こうして  静かで  穏やかな日に  友と 話せるのは  

素晴らしい   それが  どんな会話であっても  

流れるに まかせて  なにを  話しているか  

何を  話したか  忘れてしまって   そんな光景が  

思い浮かぶ   

そうか   あの 中庭か   インドへ渡った時に  

高額な宿泊費だったけれど  インドの カルチャーフラッシュに  

興奮していた僕を  天国と思わせた  静かなクリシュナ系だったか  

ホテルに  案内されて  そこに  日本人もいて  

これからの  準備を  させてくれた  あれは  奇跡だった  

そういう用意を  してくれたのは   あの頃からいた 君  

だったのかもしれない   

僕の心の準備を させるために   手始めに サンティニケタンへ  

なにかを 届けに行ったのも  これも 抜群の緊張を  

強いられたけれども  それが  とても役に立った  

あの頃は  なにも  知らなかった   

27歳の頃と  今と  なにも変わらない気がする   

なにも  変わっていない   それがそのまま  

自分の胸で  受け止められるのに  あの頃は  

なにも 知らなかった、 と  言っている   

たぶん、 僕らは  過去の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  いつになっても  

これから先も  今の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  言い続ける   

そういう 動物なのだ   

そういう 言葉を好きな 動物の種、なのだ   


この気持ちを  どう言えば  なんて  可笑しカルラン  

言えば  いいのか  嬉しい   

この嬉しさが  条件なんてないよ、  ただ  嬉しい  

ともかくも  と 謙そん調で   気持ちいい  

この世にいる我、   無意識な自分、   悩む僕が  

それを  そのまま感じて   充実する  

それを「存在」という  無意味な  無機的な  言い方を  

したくない   それは 柔らかいボ-ルのように   

僕と  ともに   ある  


僕と共にある  やさしく 頼もしい一面と  

僕の思うようにさせる、  そのためには  

人間を 超えさせようとする  危険に  踏み出させる  

躊躇ない  厳しさの   こわもて?の一面と。   

これは プライドと   深い気持ちを 感じさせる  

それらの  調べのように  心を 回転させる  

僕が  想像することを  踏み越えず  僕の  

性質を  知り尽くしたように  容赦ない   

操られるのが  心地いいように  できている   

自分で 獲得したように  思えるように  進められる   

それが  君、 ではないのか?   

君は  人間の心の  主体というようなものでも  あるのだろうか?  

そこでは 人が 成長と共に  自分を形成してゆく過程、  

それも自然な  創造であるのかもしれない   


ここからは  書かなくていいだろう  

こういう認識が  いつの日か  古い認識だね、と  

思われることを 期待して  書いているが   

急ぐこともないし   先端は  変化があるから   

余裕を 取ったほうが  いいこともある  


こうして  僕は  毎日のように  

精神的に  倒れてしまって  立ち上がる、 という  

ことを  行っている   これは 日課なのだ、と  

自分で  気づこうとしている    

正確に 気づいている、という感覚は  もう  

僕には ないようだ   

僕が 信じているという状態と  信じていない状態とは  

別々の場所で  僕と共にある  ”君” なのかも  

しれないね   

                       3.18
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