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寺田寅彦の方向 [科学]

もういつのことかも忘れてしまったが、寺田寅彦の言葉は記憶に  

焼きついてしまった。科学者は頭はいいのはもちろんだが、バカで  

なければいい科学者にはなれない。 この言葉は矛盾して   

面白かったが、その理由がもっとよかった。 寅彦は頭がいいと  

小利口なことをひっくるめていたが、頭のいい人は先人が研究した  

ことは振り返らず、新しい発見を探すが、頭のいい実直なバカ者は  

先人が研究した跡をひっくり返して、確認したりする。小利口な者は  

それを無駄なこととしてしないが、得てして科学の大発見というもの  

は、そうした先人が気づかなかった端切れから、出てくる、という意見 

だった。それで先人の後からまた同じことを確認して進む見かけは  

バカに見える人のほうが科学者に向いている、と言ったのだ。  

僕はそのバカだった。自分で確かめるまでは納得しなかったのだ。  

生憎、頭は科学者向きではなかったが、それでよかった。知りたい  

のは、ある分野に絞るのではなく、全方向だったから。  

書店で古書で「寺田寅彦随筆集」を見たので、買い集めた。全5冊 

で、それからその文章を探そうと思ったのだ。時間がかかるだろう、  

と予測したが、外れた。「科学者とあたま」という表題があり、それ  

を読んでみたら、ビンゴだった。わかりやすい題をつけてくれたものだ。  

5ページ少しの短い文で、引用しようとしたが、実に要領のいい書き方  

をしているので、全文引用しなければ、と思えた。  

まず、Wikipediaからその紹介を引用しておこう。 

「寺田寅彦は、戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村冬彦、 

寅日子、牛頓(”ニュートン”)、藪柑子(”やぶこうじ”)の筆名でも知ら  

れる。高知県出身(出生は東京市)。 」  

日本の詩人であり、随筆をよく書いた科学者であった。ここからも  

文科系とか、理工系とかの分類を越えているのが伺えて、分類の  

どちらかだけ、それではダメだと言っている気がする。   

18歳で熊本の高校で、英語教師をしていた夏目漱石と出会っている。  

物理学の教師では田丸卓郎とも出会い、そこで科学と文学とを志す  

ことになる。漱石の帰京よりも先に、東京帝国大学に入学のため、  

東京へ。漱石はその4年後にイギリスに留学のために東京に戻る。  

のちの(5年後)「吾輩は猫である」の水島寒月や、「三四郎」の野々宮  

宗八のモデル、ともいわれるらしいから驚きである。漱石より12歳近く  

若いのに、どうも友達くらいに尊敬されていたと、漱石の手紙から推察  

されている。   

寅彦は東京から2歳で郷里の高知市に移り、熊本でも高校3年生で  

漱石を主催とした俳句結社をおこした。漱石の弟子としては最古参  

らしいが、高校生から文学上のつき合いがあった。弟子になった時は  

もう東京帝国大学理科大学講師だったろう。その4年後には理学博士  

となり、その論文が尺八の音響研究だというから、変わっている。なん  

でも博士論文のタネになると知っていた人だったろう。  

「科学者とあたま」はある老科学者の話として語られるが、その老科学者  

は彼自身のことだろうから(亡くなる2年前に書かれている)、省いて引用  

する: 

「「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の  

口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。  

しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題  

も、ある意味ではやはりほんとうである。そうしてこの後のほうの命題は、  

それを指摘し解説する人が比較的に少数である。

この一見相反する二つの命題は実は一つのものの互いに対立し共存する  

二つの半面を表現するものである。この見かけ上のパラドックスは、実は  

「あたま」という言葉の内容に関する定義の曖昧不鮮明から生まれることは  

もちろんである。」:  

山屋(山を登る人)として見逃せない文は: 

「頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような  

試みを、一生懸命につづけている。やっとそれがだめだとわかるころには、  

しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そう  

してそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して  

手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の  

前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然の  

まん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せる  

からである。」: 

まったく同感である。 続けて:  

「人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を  

投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟が 

あって、初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者に 

なれない事ももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要  

とするのは言うまでもないことである。 

つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。  

(略)  

最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては  

立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは科学が人間  

の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子の  

いわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の  

科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋  

でももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをももって  

いない。 そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈では  

ない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがる  

のは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるため  

には少なからざる障害となるであろう。」 :  

とまあ、全部言ってくれました、と言いたいし、個人的にはそう思うが、明治  

生まれの彼が晩年の昭和8年に書いたものだ。現在ではどうなっているかと  

言えば、それが学校教育に生かされているとは見えないし、むしろ弊害は  

広く、深刻になっていると言えるかもしれない。 前に触れたが、国民の  

4割がガンに羅患する。同じように4割が精神や神経の障害に見舞われ、  

神経科・精神科を訪れる。学校教師の半分がそういう科へ病院に通った  

ことがある、というのが現代。統合失調症でも8割が社会復帰をするが、  

完全治癒したからではない。社会生活が困難ではないと、医者に診断  

されたからだ。ガンも障害も4000万人が病院通いをして、克服の継続中  

の人も少なくないだろう、ということであってみれば、問題は今も見直さなけ  

ればならないだろう。  

これからの I T や通信技術・ナノ技術、 A I で監視社会の到来も近い、 

この他の避けられない変革、その嵐の前の現代に鑑みて、社会生活の 

あらゆる場面で反省が促され、それらから新たな提言がなされて行か 

なければいけないだろう。  

(コロナは立ち止まって考える機会をもたらした。人類にとって必要不可欠  

だったのかもしれない。そこで次に君の番が来た、というわけだ。)  

二律背反というベタな見方ではない、見かけ上の矛盾を納得した形で  

受け入れるにはどうすればいいかが、テーマになるけれども、それを  

他の本でも見つけたので、次はそこら辺りから探っていきたい。



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動物の影 (画像) [影]

コロナの陰から黒い暗影が やって来る。


まだコロナの光が強くて、 よく見えない。 


木々が 生い茂る  


青く、 緑の 森がある  


そこまで 如何ばかりか、 と。  暗喩を 尋ねてみるが  


また 夜明けに  なろうとしている。  こうして いくつもの  


夜明けを  迎えることに なるのだろうか。


動物の影3_Moment.jpg

動物の影  古代タイガー  構成・画 (陽秋)
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僕らの夜と地球をごちる [自然]

ブログを書いている、・・今?  あまり意識していないことを意識  

している。これ(ブログを書く意識)から書くことは、なかったろう。あまり 

深く潜らずに今回は書いていきたい、(できれば、― 気分は僕の自由に 

ならないことが多い)。  

君はそこで何をしているのか、・・ が、とても気になる。 と言っても  

この時刻。 人は寝ている。僕は寝てみたが、短時で起きてしまい、  

音楽を聴く。体力があると、この時間はなにもしていないほうが、心地  

よい。映画やドラマなど刺激の強いものは、邪魔になる。 どの音楽が  

気に入るか、ロック、洋和ポピュラー、ジャズ、ボサノバ、中国古曲、 

クラシック、・・・とサーフィンするように切り替えて聴いてゆく。 気に  

入る曲というのはジャンルとは無関係なのだ。それにしても、書き始め  

てしまうことができると、不思議になんでもよくなる。耳に聞こえても、  

心は聴いていない状態で書くほうに集中しているから。  

1年も前か、それより少し前か、書かずにいられない内奥の(表現の)

蠢きは弱く、少なくなってきた。 それで書くことはいつでもFullにある 

のに、書かずとも夜を楽しめる、そんな生活になってきた。  

いつだったか、布団のまわりの本を片付けたのだが、あの斜めの本棚  

を作った時である、本の購買欲=好奇心だけは旺盛で、いつのまにか  

同じ分量の本が重なってしまっている。散らして読んで、あちこちへと  

渡るので、本もそこらに適当に置くから、元の、床が本だらけの部屋に 

もどってしまう。必要なのは、自分専用の図書館風の図書室だと思う。  

しかし、資金があってもそんな部屋は作らないだろう。きちんと整った  

本の部屋にはなじめないだろう。ものが雑然と置いてあるほうが落ち着く  

のだ。ゲーテも自分の家に書斎を持っていたが、なんとガランとした部屋  

で椅子と机だけがあったそうである。わかる。読書する本だけをもって  

その部屋に入ったのだろう。壁だけで、目移りする書棚は一切ない。  

集中して本が読めたのだろう。基礎から積み上げてやるほうが性に合って  

いる人はそれが似合っているのである。そういう「性」というのがどこから  

来ているのかと思うと面白い、不思議だからだ。  

ゲーテは科学研究もしていて、論文も多い。しかし、魔法的だったのでは  

ないか と、僕は勘ぐっている。ニュートンの光学に反対して、間違っている、  

と自信たっぷりに、自分の光学の大著をものにしている。僕の勘繰りでは  

実証できない非科学的な光学だったのではないか、といつか読むだろう、  

とその本だけは準備してある。   

科学は誰が実験しても、繰り返しても同じ結果が出せる、という実証性が  

決め手になる。ニュートンの光学が認められたのは、もちろんだが、ゲーテ  

のは実証性がなかったのだろう。理論だけでは認められないのが、基本。  

ゲーテの研究はむしろ、超能力者関係の方面で好まれ、認められている。  


夜の欠点は、体力や気力が落ちていると、孤独感に耐えがたくなることだ。  

寝るのが一番、となる。実際に”夜の気”ばかりを受ける生活は長くしない方 

がいいように思う。昼間の太陽のエネルギーは明瞭で、健康に明らかだから。  

それで夜も平気だという、今夜のような充実している時は十分にしあわせを  

味わえる。 夜明けが来るのが楽しみにさえ思える。ひとりを楽しむことが  

できるというのは、社会から受ける楽しみではないものを味わえる要素が  

身に備わった、ということが言えるのではないか、という気がする。 昼間は  

当たり前に楽しめる、それで夜も楽しめる、となると今の人生は得している、  

と感じる。 結果がすべての言い方だが、それまでの努力とか見返さなければ  

ということで、損得の帳尻は合っているように思えるのだ。 

夜は暗くてもいいのだ。書く都合で明るくしているが、なにもせずに真っ暗な  

部屋でも、変だろうが、十分楽しいのだ。 今だけが本来だが、今回は長く  

コロナが終わるくらいまで何か月も、音楽のある夜も、音楽のない夜も続く  

と思う。  

夜の底が割れて、白み始めて来た。一日を迎える。  

地球が自転していること。地軸が傾き、この速度で回転するから、この速さで  

夜が明ける。それがおよその東の空に及ぼす影響は、どうしてこうも美しい  

のか。どうして月はあるのか。月の重力によって、潮の満干があるだけでなく、  

地球の回転も安定した。なければ、毎年例外なく、異常気象状態だっただろう。  

自然を知らずに、侮ってはいけない。夜にも知られざる恩恵がある。人は  

見えない、聞こえない、感じもしない沈黙の恩恵があるのを、忘れつつある  

ようだ。 空がピンク色に染まりだした ・・。  (ソフトクリームを食べて  

祝いたくなるように、美しい <笑>。)


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遊ぶ その5. 僕はどこへ [3D]

忘れてもいい、と言うけれど、 意外にそれが難しかったりする。  

何か気になる、考えはじめる、 とそれが忘れていいことだったり  

して、邪魔になる。そういう時は、詰まるようになにをしても落ち着かない。  

そういう自分がいる。  

例えば、ロボットはそういう人に気の利いたことを言えるだろうか?  

それとも、そういうことを覚え込ませるのはできるのだろうか? まず、 

できるだろう。ピントは合っていなくても、笑わせる台詞はいくつもあるに  

ちがいないから。 有名な台詞ほど、その年代に合わせて言えるように  

できるだろう。

さて、したら僕は彼に、なんと言ってほしいだろう?  

「Are You speak Jananese ?」  

なんて 退屈な会話だろう!? 

「機嫌悪そうですが、お腹 すきました?」 

「牛丼、食べたいですか?」  

「ラクダに 乗りますか?」  

ラクダ?どこから連れてくるんだよ。  

ヨーロッパの どこそこの某有名ホテルでは、ほんとうに  

客の要望に応えて、そんな大型の動物でも連れてくるらしい。  

そんな富裕層の客に、なってみるものいいかも。 ・・なんか  

アマゾンか アフリカの奥地にある ツリーハウスをデカくした  

ようなホテルに 行きたくなってきた。  

・・ 早く、コロナ 終わんないかな。    


23ロボット (2).png

僕はどこへ行くようにプログラミン、されて
              いるんだろう?  構成・画 (陽秋)
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遊ぶ その4. 宇宙飛行士 [宇宙]

1.水の飛行士_Moment_Moment.jpg

水に沈む アクア飛行士  構成・画 (陽秋) 


初めて成層圏に出て、つまり初めての宇宙でのエンタメ映画をトム・クルーズの 

主演で撮影するそうだ。前回のミッション・インポッシブルで隣のビルに飛び  

移ったが失敗、肋骨だったか(?)、骨折したトムだが、体の切れが落ちてきた 

ようだ。 

宇宙の映画撮影も人類初だが、せっかくならCGで作成した宇宙の背景では表現  

できないリアルな宇宙の姿を盛り込んでほしい。宇宙で骨折の心配はないだろう。 

他にもっと怖い事故があるが ・・・。 


歩いている宇宙飛行士_LI (2).jpg

見えない宇宙線渦に入った 宇宙飛行士  画 (陽秋) 


異次元の自己モデル_Moment (2).jpg

異次元の自分と 知性  構成・画 (陽秋)  
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遊ぶ その3. 幻想観光 [観光]

観光は ほぼしない。 けれども、調査や視察目的の現地が、観光地である

ことは、よくあることだ。そこでわざわざ、観光客ではない、とアピール 

するのもおかしなことだ。カンボジアのアンコールワットは発見されてから  

ずいぶん経つが、相変わらず柵はない。 どこからでも自由に入れる。監視員も  

1人か、2人だろう。外国人の旅行客しかチェックしない。顔を見て、判断して、  

正規の入行証を買って、入ったか、確かめるだけだ。 中へ入ると、タイから  

稼ぎに来た学生、または学生志望の青年が、監視員の目を気にしながら、ベスト  

(撮影)スポットを案内するから、といくらか払わされた。 どういう商売なのか  

というか、どのくらい違法で、詐欺なのか見たかったからだ。可愛い小遣い稼ぎ  

だった。彼らは観光客目当てに、学費を稼ぎだしたいらしかった。 多くは英語

を習って、通訳がしたいらしい。観光がタイ国やその近隣では、稼ぎ頭なのかも

しれない。遺跡は 夢では王朝の歴史であるが、 現実には 観光事業という 

金のなる木だ。

建物とアンコール_LI (2).jpg  

人は出かけて、またアパートに 戻ってくる  画・構成  (陽秋)
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遊ぶ その2.火星探査機の夢  [探査機]

火星探査機は 崖から落ちるのだが、 その短い時間に  

人類の夢を見た。 人類が火星で 生きるということが、  

生き残るためのサバイバルであるなら、 火星の環境を  

受け入れることだろう。その時、 音は? 視界は? 

味は? 皮膚感は? 必ず 変化を被るだろう。  

変化を体で 適応させるのが進化 なのであるから。 

その時、 人類は 見えない領域や 聞こえない周波や 

もしかすると、 もっと感じるなにかしらのもの?を 

受け入れざるを 得ないのかもしれない。 無意識に  

脳の内奥が 聞こえない周波数によって 活性化する  

のが 今日、実験で確かめられている。そういう まだ  

よくわからない 僕らの感覚は どうなってしまうのか? 

たぶん、次に 続く。


探査機の夢_LI.jpg  

崖から落ちる火星探査機、 計算ミス?  画構成 (陽秋)
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遊ぶ その1.ヒマラヤ猫 [3D]

PCに 3Dのソフトが内蔵されていたので、少し、 遊んでみた。

ブログや ネットの 裏情報系の噂で、ビルゲイツの財団がアメリカのコロナ治療薬  

レムデシビルの会社の大株主で、数年前に感染症に警告を発していることを、陰謀論的

に流している。日本人はこういうの嫌いだから、とまともなことも言っている。英語に 

強ければ「フォーラム201」についてその議事録?を読んでみるといい。

噂では、イムデシビルの値段は50~100万円に決まる(だろう)らしいが、本当  

だろうか?5日で効果が出るとして、5× 50万円、国が保険適用させても3割負担で 

5日 × 50~100万 × 3割で= 75万~ 150万円が個人負担。900万人

くらいの貧困層では、借金もできなければ、自力でコロナに打ち勝ちなさい、という

ことだ。 どうも実情に合わないデマ情報だという気がする。

まだ値段は決まっていない。ビル・ゲイツが決めるのでもないが、大株主なので口は

出せる。  誰か、支払いは100年ローンを認めてもらえる嘆願書をゲイツに

出してみない? それに日本では医療費の支払い上限が、医療制度で決まっている

とも・・・。

himarai 1猫.png 

ヒマラヤ猫  編集画 (陽秋)
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弱さの発見メモ、  節句絶句雪庇 日記 [弱さ]

強さが 強さであったことはないし、  

弱さが  弱さだけで  弱かったのではない。   

これは単純なことであり、 誰もが感じているが  知りはしないことで、  

説明されたことも  その一部でしかないので、  その単純性という  

解説は  いつも  残されたままだった。  

僕は  夢と現実との  関係については  知っていた。  お互いに  

譲らない境界を 持ちながらも、   互いに世界を構築する  

重しであり、 歯車であり、  支えであり、  共通するもののために  

相対・対立・相克するものと  見誤られていた。  

まず、 夢に生きるとは 比喩のことであって  夢だけで生きるのは  

死ぬのと同じことだった。   夢の世界を中心にして、  現実に生きるのが  

夢に生きることであり、  現実を中心にして  夢を軽蔑しても  

同じ夢である 愛や自由を  求めずに、その生き甲斐を捨てて  

現実に生きることは  歴史上でも  不可能だった。   

具体的な 話は  この全体を伝えるのには、  長すぎるし、  それを  

していると  肝腎の点が  ボケてしまう。    

いつもの例えで、  僕らは空を飛ぶ夢を  見たが  現実には  

飛行機で 運ばれているだけで、  棺桶で運ばれて、と  言う人も  

いる。  自分が(鳥のように) 飛んでいるという、 夢見心地になった者は  

いないだろう。   

夢は現実を 助けるが、  満たさない。   現実は  夢の代替物を  

作るが  夢を満たさない。  夢に生きるものは  夢の中で  それを  

満たし、  現実に生きるものは  現実の中で  それを  満たそうとする。  

夢は  現実に拒否されて  むなしく  現実は  満たそうとして  

満たすたびに  それは萎んでしまい、  飽きてしまう。   

形を成すものは  それを満たすと  終わり、  形を成さないものは  

心の満足でだけ  しか満たされない。  深く満足するものは  なにも  

得られず、  支配できたものは  一時の満足だけで、いつ裏切られるか  

失うかを  恐れるか、 しなければならない。   自分の願望を  

夢で実現するか  現実で満たそうとするか で選択する者は  

どちらかの代償を  選ばざるを得ない。  心で得られたものは  

誰にも奪われないので  管理する必要は ないが、  

現実に得られたものは  管理し、  保持するために  戦略と戦術とを  

備えなければならない。  

そういうことで  双方にそれぞれ 完璧なものは  男にも  女にもいない。  

右手と  左手を  同時に 二つの別な用事に  使うほどの器用さが  

いるが、 心と  体と  運で  それをするのは  また不可能なこと。   



強くあらんとする 者は  さまざまなマイナスの条件でも  勝つことができる  

そういうことを  求める。  体だけではないので  興奮剤だけでは  

生活は  やっていけない。  弱くあらんとする者は  いない。  それだけで  

マイナスだから、  それを身に着けるとは  考えもしないし、  出会うのは  

どうすれば 負けないかと考えてしまうこと  ばかりだから。  

それで 強くなった者は  また エネルギーが強いものは  負けを  

認めることはしない。  それは いつも心で  弱さを否定してゆくことだ。  

そして、その習慣は  弱さを見ないことになり、  弱い者がいることさえ  

見なくなる。  そういう感覚を 失い  自分の力を信奉することに  

人生の基軸も  据えられる。  それは一種の 錯覚(夢)なのだが、  

現実の夢に  囚われてしまい  気づけなくなってしまっていることなのだが、  

ある種  成功をした人ほど  ここにはまってしまう。  

それは愚かさを、  激情を、  無知を、  お人よしを、 センスのなさを  

頭から 否定してしまい、  そういう人を ダメ人間と定義づけてしまう、  

生きてる必要のない人間と  考えることなのだ。  そして、 実際に  

そう公に発言はしないが、  しっかりと思っている。   

では、まずあなたの中の、強さと 弱さを  否定してから進みたい。  

まず、 純粋に 強いとか  弱いというものは  この世にも、  どこかにも  

存在さえしていない  ということだ。  果たして次の 説明で伝わるか、  

こころもとないが、  大きいと小さいを  比較するとわかりやすい。  

子供と相撲取りがいて、体は子供の体積は小さく、  相撲取りの体積は  

大きい。が、子供の夢は宇宙飛行士で、相撲取りの夢は一度優勝することで  

あってみれば、  その気宇を比較すると、子供の方が大きいとなる。  

同様に、強さと弱さも  それがどういう比較かで、 どちらが強いか 弱いかが  

決まるのであれば、  僕らはあらかじめ 比較ということを 意識しないで  

「強い」  「弱い」 を想定している。  そういう考えの習慣が  ある。  

数学だけに強い人を  音楽家にはできないだろう。  味覚音痴の人を  

いい料理人に することも  まずできない。  

無知という 愚かさをもってして  子供を  痛めつけてはいけない。  

センスのない  愚かさを  もってして  人を 軽侮してはいけない。  

激情する  短気さを もってして  人を バカにしたり、 操ったりしては

ならない。   

完璧主義という 浅薄さを  もってして  人を 無知呼ばわり  

してはならない。  

これらの愚かさを  小馬鹿にしているのなら  それを 自分に  

偽ってはならない。  

その愚かさを 恐れて  自分を  世間から  隠してはならない。(A)  

なんでも 正直に話すのが  正しいことか、 または  まっとうな  

真実の道だと  思うのなら、  それも考え違いになると  自分に  

表明しなければ ならない。(B)  

(A)と(B) との表面的な 論理矛盾を  解決しなければならない。  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

人は 弱さと 強さを  兼ね合わして備えているが、  それはパーセンテージ  

ではなく、  比較が困難だということによる。  

やさしさは  それは 強さでも弱さでもないが、  どういう時・場面では  

どう行動するかが  問われる。 その時、 やさしさは  「情けは人の

ためならず」に  なることもあれば、  優柔不断という弱さにも   

いじめられている子に  声をかけてあげる、という強さ・勇気にも  なる。  

愚かさが 弱さであるなら、  そういう人は  確実にいる。  

どうして  こんな簡単なことがわからないのか、と  思える人は  

やはり、 確実にいる。        

僕は  弱さを発見することで  自分の強さを  再発見する。  

そして、 弱さを  認めようとしなくなりつつある  自分の考えの  

習慣も  また、  発見する。  (修正しようとする)

僕らは 強く、  愚かで、  また弱く、  賢い。 それは  そのプラスを  

求めている時に  限られる。  その判断をするように  自分に  

いつも急かして いるのは  強く、 愚かで、 弱く、  賢い その

毎日の 自分では  ないだろうか。  

僕はまだ、弱さを発見した時にしか、  愚かさをほんとうに 愛せない。  

悔しいが、  

それが 強い自分だ。  


*強さの 弱い部分は  強がっていることだ。  

 弱さの  強い部分は  自分がバカだと 思われてもどうでもいい、  

 平気だ、ということだ。  

                          4.20  




< 節句絶句雪庇(せっぴ) 日記 >


節句は 5月5日の 今日。  

絶句は まさに 今日の世間の 状態。 

雪庇は 積もった雪が 崖からせり出したもの。 

乗ると、一緒に落ちる = 遭難、そうなんだ。  

精神状態の 一種にすると  快感か?(笑)  


僕は したくないことを してみようと思う。  それは 僕が嫌っているから

だが、嫌う理由は 通常ではない。 面倒なのだ。  わざわざ書かなくても、 

それが それぞれの自分が 考えることで役に立つ、 という思いだからだ。  

それに 理屈は そのまま信じられるか、それは賛同しか意味しないことが

多い。 賛同でなければ、 反対するというのだが、 それは多くが誤解の

上で ”反対する・違うんじゃない?” と 感じることで  それはそうなんだ、 

それぞれの答えは 答えではなく、反応が、ほぼ反応なので、 僕には  

それについて 言うことはなにもなくなる。  ああ、そうですか、で 終わり

になるものだ。 

どこからどこまでが 信じられるかは、いつもあなたのその問題に即した

経験の深浅次第なのだ。 あなたが自分の思考のシステムを 悟らない限り、 

そもそも解明しようという姿勢が (この件に関しては) 誤りなのだから、 

認識は後にして、 まず そのものを経験しなさい、その後に認識すればいい

という話だから、 その 入口から混乱しやすい。  

まともに 基礎から語ると思うと吐き気がするので*、 自分をなだめ、気まぐれ  

でも横からでも、 好きな風に話したい。 どの部分を、 どう捉えるかという

のは 結局はいつでも僕の役目ではないから。  それぞれの人生があると

いうことが、 人はそれぞれであるという 真理を語っていると、思う。

(* 僕は人間の思考や思想以外で、 自然な物事が基礎から組み立てられて  

いる というおとぎ話を 信じていない。)  

子供にも  その子供なりの人生があるのだとしたら、 例え”「自分」という形質”  

が形の途上でも それなりに感じることがあるだろう。  僕は中学生の時に、

ドスト・・の長編小説「罪と罰」をわからないまま なにかに惹かれて読み切った。  

それは心理描写からそういうものを好む自分の特徴のひとつを、その語り口に  

見つけたからであった。わからくても、ちゃんと 反応していたのだ。  
  

(休憩)  5.5  昼過ぎのPM  

夕刻のPMになって、 坐り 書こうとしたが、その他の話題ばかりが押し寄せ、 

自己の説明に 集中できない。 この暑さで 不調なのだろう。さっきまで 

パンツ一丁で歩き回っていた。 少し運動しても汗をかく、5月の夏だ。 夏山の  

雪庇が恋しい。 

(休憩)  夕刻のPM  


翌日になってしまった。 まれに1年に数回、こういう時がある。もう、「あった」

だが・・。  ムカつくように体調の悪さを感じる時があるが、それは体のことで  

通常、こころのことではない。それが肉体的におかしくなるのに、体は悪くない。  

気持ちでそれを感じるが、精神のバランスとかの問題でもなく理由がわからず、

ともかくふて寝でもするしかない。  

それが昨夕だった。 夜9時に寝ようとして、布団に入ったが、結局寝られず、  

11時には起きだしていた。そして、千葉の地震。  場所を地図で見たら、うちの

姉(うちのは三女なので次女)の家と僕の友人の家(市原市)が近く、 揺れた

だろう。僕は3Fで、揺れが大きいので、これくらい揺れただろう。  


(中略)


僕は求める目的のためには死の危険があっても、その困難・危険を選ぶほど、  

利口ではなく、確かにバカだが、日本脳炎に罹ったことはない。と言っても、  

コロナのように感染しても発症しない保菌者だったのかもしれない。  が、  

近親者にも脳炎は出ていないので、それはないだろう。  

(買い出しの時間だ。 休憩)  5.6 夕刻  


思い出すことはあるが、大きな影響については、うまく思い出せない。  

次に進もう。本来、自己の知られる範囲について、客観的な範囲というものを  

書こうとして始めたのが、この文章だった。

(夕食 休憩)   

まだ雷が続いている。 地震が来たので、「地震、雷、火事、おやじ」の 「地震  

火事 カミナリ」という自然現象は、昔から好きだった、いや大好きだったことを  

思い出した。台風の吹きすさぶ商店街で、小さな僕ははしゃぎまわっていた。  

近所のおばさんが母に、外に出して大丈夫なんですか、と御注進に来たが、  

母は「言ったってきかないんですよ」と、 絶対に言うことを聞かない子供だったと 

いつだったか、聞かされた。 コロッケを買うお使いを頼まれて、なにが気に食わ

なかったのか忘れたが、通りで「行かない!」とわめいていた。そして、持たされた  

当時の10円札をその場で破り捨てたのを、覚えている。 あの頃の僕は 思いっ 

きり僕で、気持ちいいくらいにわがままな僕だった。最高の自分だった。

自然現象を考えていたら、夕食前だが、 雷が本当にやって来た。 GOT !



中断 !
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夜の祭り [夜想]

コロナの  音も 匂いも しない  

夜の街は  そのままだ  

街灯が  白いアクセントに  黄色っぽくも  

角や  テラス  駐車場を  照らしている  

ひんやりと  外気が  肌触りを  主張している  

部屋に もどると  お決まりの孤独が  はびこっている、  

そんな気がするが  気がするだけだ  

動物の心に  低下すると  ある地平を 感じるだけで  

掛け時計を 見れば  時間を意識するのを  嫌う  

カレンダーを 見ても  日付は 役に立たないと  

見えてしまう   

やがて 眠くなるだけだと   

自分に もどって  無意識に避けている  孤独感を  

引き寄せてみる    祭りの はじまりだ   

<なにもしないでいる  自分>なんて  説明だ  

現に そうした自分を 規定して   言葉でくくってるじゃん  

思考が  止まらない    

この 孤独のまま   どれだけ  過ごせるかとも  

思えるが   それは いい  

すぐに  孤独は  消えてしまうから   

ぴったりと  自分は  意識になってしまう  

鏡のように 照らし返す  それのみで  

反応に  命は  感じられない  

内面に 動くものがなければ  なにも(わざわざ)  

心を  閉じなくていい   

開きっぱなしで  風通しも いい  

感覚も 弱り   気持ちも めげてくる   

のだろうが、  事実は  感じようもなく  

のっぺりした  鉄板を  触っているようだ  

夜の空気が  透徹して いるのか  

反射の意識が  透徹して いるのか  


動かない 体と  動けない 肉体の  

動かないのか、  動けないのか の

区別がない   感覚を 失う  

自分が 殻(空)のままでは   

サイレンも 鳴らないし  炎も  見えない  

夕方  自粛に飽きた  数人が  通りで  

大きな声で  むしゃくしゃを 語っていた  

ムカつかずに  自主的に 聴こうとすると  

同情もできる 自分を  確認したが   

同情など  するわけではない  

* 外出禁止令下のロシア中部の町では、外で大声でしゃべる  

5人の若者を、男が射殺した。 (4月5日)


こんな状態で  散乱した本なども  手にとっては  

捨てる   

読んで 面白い本  続けて読める本が  ないのは  

こういう時 だ   

自分が  殻(空)のままでは   

知の 発動もない どれも 雑草になる   

本を買う 衝動は  どこから得られるか  

書店や  読書中の  興味や好奇心  

いつのまにか それに侵入され  「注文を確定する」 を  

また 押してしまうのだ    

部屋に入れると  ほぼ  屍体となってしまう  

書籍という  隣人  

まれに  知に欲望の 火が灯り  

本を開くことが  最高のパッションに  思える  

まれに、   だから  すぐ消える  

マッチの 火のようなもの だ    

数ページ読むと  次の本を  物色しているが  

ただ 暇だからに すぎない。  思いつきで  

別の本を  また数ページ読む  それでも   

読むだけ  まだ  ましなほうだ   

自分に  知を燃やす 火を入れようと しないのは  

どうしてか   血のめぐりが  

悪くなっているの だろう   

目的も  報酬も  あるのが わかっているのに  

うだうだと  酔えない見えない 酒を  汲み  

酔えない聞こえない 沈黙の音を  聴く  

なにもしない  継続を  どんな秤で  

測れば  いいのだろうか  

徹夜など しなくなった  この頃で  

午前3時半を  回ったのは  偉業にさえ 思えるが  

その 証拠に  

眠くなって  肩も重く  この祭りも   

もたないのかもしれない   

まだ  寝るな  

前略  まだ 寝るな  

追伸  まだ  寝るな  

そうは言っても  まだ  寝るな  

いや!  もう寝るわい   



寝ながら  祭囃子でも  聴くわい  

自粛の  自粛による  自粛のための  

生活とは  いかに  

コロナの コロナによる コロナのための  

ラムズ・・  とは  いかに

あかん!  すり減って  頭蓋が  

すり鉢状に  なってまう  

アホ! もう  寝るわい   

あの人(母)は  寝るのが  しあわせだ、と  

自分を  語るのだった  

その時も  寝たら  何もできないじゃん、  と 

いうのが  僕の 弱年の 通説 で 

今も  それは 変わらぬ   

つらいから  眠るのは  しあわせ だろうが  

僕は  今も  眠りたくは ない  

夜の祭りは  朝まで  続くから   


図書館の 借りた本も 6月16日まで  延長に  

伸びた 自粛と共に  

夜の祭りは  はじまったばかり  

天皇制には  頭は 良し悪しを 想い  

正田美智子さんの 婚姻シーンには  わけもなく 感動している

今朝は  憲法記念日で

憲法改正は  賛成だが  

自民党案には  もってのほかだ、と  

祭りの話題には  こと欠かない  

朝焼け 前の

鳥の さえずりが  聞こえはじめ  

今夜の  祭りは  終わりを迎えるようだ  


一日が 祭りと共に  終わり  

また 一日が  たった今  生まれる   

ほら  退屈も  孤独も  

とっくに  忘れている   


僕らは  


これも 生きざま  戦い

この時が  


我が 時 、

 

拳を 握りしめる  

力の  あらん限りの  


” 我が 時 ” だ   
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