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 [天]

< 天 >  


「天」 という言葉は、英語ではHeaven 、天国と訳されることが多い。  

が、もちろん、東洋思想の言葉で、人を超越した存在として、表現させる 

もので、中身は不可思議である。これといった神様ではなし、上空を示す  

が、場所を指すのではない。 天国では違和感、満載である。  

それでいろいろの意に使われるので、あいまいなほうが便利である。  

福沢諭吉の「学問のすゝめ」でも、「天は人の上に人をつくらず、人の下に  

人をつくらず、」と始まるが、突っ込んでみれば、何の意味か分からなくなる。 

天は、そうしたボーッと読ませてしまうのに適した言葉だ。読み進むと、 

人は平等である、という思想はどこかへ行ってしまって、頭を使った方が  

人生儲かるから、学問をせよ、といった風向きになる。まことに「学問の  

すゝめ」である。

日本では、・・だと思うのだが、「お天道様」という言葉があり、お天道様に  

顔向けできないような生き方はしちゃぁならねぇ、と「座頭市」の映画で 

みたいに聞いたが、江戸時代だったのだろうか。このお天道様は、太陽  

のことで日の当たる場所で生きろ、という意味なのだが、「天」の思想を  

含んで道徳的な観念をもっている。太陽が信仰されたのは、古く、釈迦や  

孔子、ソクラテスよりも古い、エジプト文明の時代だが、心が生まれたか、  

意識されたかの頃で、「天」と太陽の関係はこの頃から結びついていた  

のではないか、という気もする。   

太陽信仰では、ミイラによって、明らかに死後の復活を望んでいるから、  

死への知的な恐怖に満ちている。すでに心は生まれ、知が存在していた。  

しかし、もっと素朴だったならば、死後を望むのはそういう儀式を整え  

られる王などの権力者だけの特権だったのだろうか?  

ピラミッドの建設は奴隷的な使役によるものではなかったらしいとの説が  

有力なので、庶民は死など心配していなかったのだろうか? これだけ  

昔のことになると、どんなに意外な史実であっても驚くには値しない。  

戦いでさえ、神聖なものであったかもしれない。 
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生命の樹 [生命]

僕らがここにいる、ということはどんなことか。  

君らがここにいるとは、どんなことなのか。  

そういう設定は、聞いたことがない?  途中だが、  

赤ちゃんが飛んできた。初めてだ、 珍しい。  


コウモリ6.18-2.jpg

全長8cmくらい?

部屋の窓に、少し、シャッターを下ろし気味の、その隙間に(生まれて  

そう経っていないだろう)、コウモリの赤ちゃんが入って来て、網戸を  

動いている。人間が珍しいのか、眼を合わせても、こちらを見ている  

風だ。見えているのか?と思わず首を傾けて、見てしまう。

コウモリが飛んでいるのは、知っているが、こんなに 近くに来ることは  

ない。 なにか間違えたんだろう、窓を開けようとすると、器用に  

するすると下がって、元に戻るのだろう、飛んで行ってしまった。 

さすがに野生(人の街と共生しているが)、赤ん坊のうちから近づく  

危険から、身を守る感覚を備えている。  


 僕らがここにいる、ということはどんなことか  

 君らがここにいるとは、どんなことなのか   

そこから始まった。  僕らの世界が。  

僕らは 世の始まりに  世界の白夜に 

立ち会うことは  できないことなのだろうか  

僕は  想像する  その荘厳な 世界の夜明けを  

朝露に 濡れた  下草が 冷たかっただろう、  

裸足には  

朝日に照らされた 岩山の  神々しさを  

僕らは 敬虔なこころで  見つめた  

空気は  見えるように  澄んでいる  

心なしか  高山植物と  命名された  ツリガネの花が  

一輪  朝露に 濡れて  

僕らは  朝の  始まりを 知る  

朝からの  一日の はじまりを   知る  

そして  祈る気持ちに  させられる  

朝は  どうして  こんなに 神々しいのだろう  

こんなに 心が  開かれる  


僕の胸は  命を  鷲づかみにする  

水が  絞れるほどに  手が しびれるほどに  

生命を  掴む  

まったく  忘れていたのに  

コウモリが  知らせに来たかのように  

僕は  ここに  やってきた  

やってくると  わかることがあった  

来ないと  わからないんだね  ここにある、  

さまざまな  ありようが  

人は  人を  愛す  

それは  そうではない、  末端では  そうだ  

だから  人は  人のために  愛するのではない  

人間とは  なんだろう   

どうして  人ではいけないのか  

人は  僕らの 想像の神様であって  

だから  全知全能を  また 慈悲慈愛を  与えられた  

属性として  

人間は  不全知 不全能であって  未熟な存在だ  

ここにきて  僕は  新しい答えを  見つけた  

そう  誰も 賛成しないだろう  その答えを  

僕らは  人間になれば  神になる  

それは  不全知 不全能であって  未熟な僕ら  

不全知 不全能である  僕らという 未熟な神だ  

人の思う  僕らの影である、投影の神は  存在していない  

イメージは  それを大事に  育ててきて  

神のイメージは  歴史的存在に  なってしまった  

  
人は あの人、 この人を  知っている

人間は  いまだ  人間を知らない  

神のように  イメージのままだ  

僕らが  神を望むように  それは  外にはない  

僕らが  認めようとはしない  プライドの嫌う  

惨めな姿の 神  それが   僕らなのだ  

どうして  そう言えるのか  

なにも  言っている気がしない  

ただ  ありのままを  追求して  たどりついた  

その世界  その姿を  見たまま  言っているだけだから  

これは  そのまま  僕の 妄想にしても  

幻想にしても  おかしくはない  

でも  僕はそれに  反対はしなくても  

今は  それを 言い続けるだろう  

人の見る  人は 理想の姿を 取りたがる  

人の見る  神は  人の姿を  理想化したがる 

自分の 理想というもの  

自分という 理想の姿   

すべては  ぼくらが  希望する姿なのだ  

だから  皆に 受け入れられてきた  信じた  

それを 拒絶したり  否定する心情には  

なれなかった  

そういうものが  ぼくらの  芯にある  根本にある  

では  受け入れるしかないではないか  


君には  君の 答えが あるはずだ  

それが  いつまでも ”今” というアンサーになる  

僕も 同じように  今の流れを見るだけで  

明日も  同じ答えを  見るとは (必ずしも) 

思っていない  

その今の答えさえも  「僕がわかる」という意味では  

完全ではないからだ  

それは 人間だからこそで  不全能・不全知に  

行き着く  

今  できるだけ  わかったことを言う  

他にない  それだけ  

煙のように  次から  次へと  現れる  


もう少し  考えよう  

僕らが  そのまま  生きる支えなしで 息をすることも  

できない、と 思われる  

僕らは 生きていると 考える必要なく  

すでに 生きているのだが  それで 済まない

これを司るのは  認識という  自分であり、 知性だ    

それは  負の誇りでもあり、  自分の自分への証明、  

でもある  

自分は  なぜ 精神的にも  証明や  防御・依存すべき  

なにかが  必要なのか  

それは 単純な態で  死んでいないからだろう  

死んでいて  そこで生きていれば  生きている世界を  

認識できるが  そういう比較は  生きていては  

決して  できない  

精神的に  死んでもみない限りは  

この「精神的に  死んでもみない限りは」 が  

ひとつの答えで  迷いでもあった  

健全な  感覚が  それを 遠ざける  


生きるべきとか  そういうものがないのが  

健全な 世界なのだろうか?  

動物は  ただ  生きているのだろうか?  

考えを  構築・組み立てる 帰納がないから? 

それで  自分を イメージできないから?  

それでは  動物に  しあわせはないのか?  

家畜と  友情を築けた人々は  その答えを  

知っているのでは ないだろうか  

彼らが  知るのは  愛だろうか?  

それは  人の愛では  ないだろうが  

伝わり  交歓するものがあるのは   

一緒に 暮らすとわかる   

思いやって 暮らしてみれば  わかる  

僕らは  それを人の愛と  同じと  

思いたがるが  少し  ちがうようだ  

彼らは  生きる支えという  精神を  必要とはしない  

生きるから  生きる  

僕らのように  その点で  迷うことはない  

子供を  見ると  そのようだ  

動物な彼らは  自分の意見はない 代わりに  

喜びは  まったくの 喜びで  

その笑顔に  なんの疑いもない  

僕らの 恥じらいなど  ない 

悲しくては  泣くだけ  泣こうとする  

天衣無縫 という  魔法に生きている  

僕は  その 根っこに  触れてみる  

掴んだ手が  光になるように  

透けて  金色にも ピンクにも 光を  放つようだ  

これは  想像だ  そう、錯覚だと  

自分に 言っても 遅い  僕のこころは  

あたたかく  なりゆくから  

喜びを  創り 上げるから  

ああ  人間の 拍手よ  喝采よ  

君らの  喜びが  聞こえる  

これを 待っていたんだ  え? そうなの?  

僕は  知らずに  そう感じる  

この想いは  思い出なのか  今のことなのか  

僕にも  わからせろよ  ええ、  あんた  

君は  生命の樹 なんだろ?  

ああ  拍手よ  喝采よ  

生きるのは  もともとから  喜びだった  

そう言っている  これは 夢か?  

だから  君も  神なんだろう  

みっともない  人間という  

なんという  何という 処まで  

ぼくらは  旅が  できるのだろう  

なんという  なんという 処まで  

僕らは  生き続けたのだろう  

この 何千年と  僕は  何だったのだろう  

これで  よかったのだろうか?  

これで  十分に  できるだけ だったのだろうか?  

よく  

これからも  よく  やろう  

よろしく  君たち  

よろしく  コウモリたち  

僕らは  生命の樹から  生まれた  

それは 生まれ変わり続ける  女神だったような  

あまりに遠い  母の イメージだったろうか?  

不幸な母も  遠く  辿れば  

ここに 行き着くのでは  ないだろうか  

これを  冥福を祈る という言葉で  

人の気持ちを  現したのだろう  

君の前では  それが嘘であっても  冥土がなくても  

いいではないかと  僕は  

そういう気に  させられる  

生命の樹は  僕らを  守るだろう  

僕らの イメージは  いつも全滅して  また  

再生産を  くり返すの だろう  

幻は  幻だ  

僕らは  それでも  何の心配も 

いらないように  できている  

これが  もっとも  伝わらないことかも  しれない  

だから  もともと  今のまま続く  ということが  

どういうことか  わからない  

変化も  変わらない も  同じ天気の  

晴れと 雨だと   わからない  

見方を 変えれば、としか  思いつけない  

その イメージではなく  

僕らは  死なない  

同じ自分は  くり返せない  

ここに あるから  

それは どれだけの  奇跡であるのか  

それが  どれだけ 得難いことであるのか  

僕らは  なんであるのか、 と尋ねると  

僕は  気が遠くなってしまう  

それは まるで  恐れ多いとか  そんな  

形容を  思いついてしまうほどの こと

  
生命の  なんという  尊さよ 

ああ  僕らは  なんであるのか  

ああ  君らは  なんであるのか

ああ  人間は  なんであるのか  

 


*僕らがなにかに依存しなければ生きられない、と考えることも  

そう感じることも重要なことで、単なる考えで否定するような  

ことではない。僕らは精神的な危機に遭うと、自然に藁にでも 

捕まるように、なにかに依存する。そうできているのだから、やたら 

に他人の心の中心を占めるような重要な依存を否定するのは、  

その相手を一生世話するとか、面倒をみたりとかするのでなければ、  

そこに至る思いもなく、依存を批判・非難すべきではない。そこには  

たとえ偽善・欺瞞でも神や宗教の問題が入ることもある。 その人が  

生きるために偽善が必要なら、それでもいいのだ。相手が気がついても、  

代わりになるものを探すだけなら、煙草をやめて、食い過ぎでメタボに  

なるだけの話で、こころが現実にも夢にも依存しないで在る、という  

状態にはふつう、なれない。



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喧騒の中 [喧騒]

僕は都会の喧騒から逃れたいと思いながら、島に来た時だけ 

なんとか静寂に身を入れることができた。  

しかし、子供の頃から、喧騒の中で育った。千代田区から思い出もない  

幼少時に中野区へ引っ越してきた。そこは青梅街道の前で、都電が  

走っていた頃だ。大通りに面した商店街で、東京の発展途上だった。 6.15


もう昼を過ぎて、外は炎天下。クーラーは必要だが、精神上は気持ちいい。  

夏は個人的にもっとも健全さを感じる季節だ。この健全さは、言葉でない 

のは、なにも聴こうとは思えないのでわかる。どんな音楽も、バッハの  

無伴奏も、モーツアルトも、ベートーベンも、テイラー・ツイフトもラブメドレー 

も、血の湧くロックも、中国古琴、浪花節や、日本の祭囃子も、今を邪魔  

するように思えて、この清明さを邪魔させたくない。  

昨日は東京の発展途上で文が切れてしまったが、そのあとは地下鉄の  

工事につながるのだ。それだけを、・・・:地下鉄丸ノ内線の中野坂上が 

僕の家の目の前にできる地下鉄の駅の名前だった。ここから歩いても 

30分で新宿区へ入ってしまうほど、副都心新宿は近い。僕は子供の頃  

から屋根の上を歩く冒険家だったので、工事中の地下トンネルに深夜  

忍び込む、というのも芸当のうちだった。駅のホームなどはまだできて  

おらず、想像より大きなトンネルドームがあった。それでも作りかけで、  

どこにホームができるのかが見えた。電車の線路もなく、あちこちから 

まだ少しの地下水が染み出ていて、少ない照明の中で暗い洞内は  

湿気を帯びていた。子供だったので、トンネルは巨大ドームのように  

感じた。 それはいいのだが、まだ昭和中頃、公共工事のほうが  

人民の迷惑よりも幅をきかせている時代だった。なんと工事は  

突貫だったのだろう、深夜にまで及んだのだ。当然、夜は寝れたもん  

ではない。工事の電動ドリルの音がいつまでも夜に響いていたのを  

思い出す。僕はこの騒音と喧騒というものに縁があるというのか、  

死ぬまで一緒だろう。例えば、結婚して借りたアパートは住宅街  

だったが、上に田舎の人が越してきて、都会に慣れないため、 

水を出しっぱなしで出かけて、それがキッチンのうえから大量に  

漏れてきたこともあった。それに上の階なのにドカドカ歩くので  

ある。野放図な田園ではいいだろうが、ここは交通ルールを守る  

のが大切になる地域でもある。それで次に越した先では一軒家の  

借家にした。、5年も居ていい、という話がどう変わったのか、ここを  

売って建売住宅にするから3か月以内に出てくれ、と越して1年も  

しなかったろうか、言われた。それで近くの車道の前にあるアパート  

の2階に取りあえず移ったが、よく見ると、眼のまえが消防署だった。 

それからは朝に夜に、救急車の出発するサイレンを聞く日常に  

なった。地下鉄工事の再来である。  

まあ、毎日毎時というのではないから、普段は まあまあ静かだ。  

家を買うことにして、現在の処に越したが、2年間は隣接する道路  

の先の陸橋が工事中で車、トラックが通らず、静かだったが、工事も  

終わり、今では大型トラックの低周波に「左折します」と繰り返す 

警告のアナウンス、座間キャンプの外人や日本人の車からの

大音量の音楽騒音に時々悩まされている。考えは中断して、  

壊れるし、テレビの音声も聞き取れず、郊外の田園に一軒家という  

のは憧れかもしれない。  

昨晩は久しぶりに隣家の親子喧嘩か、夫婦喧嘩がはじまり、子供は  

娘でもう高校卒業しただろう。少し、障害がありそうな子で、通常の  

人のつくるメロディではない(自分で即興)作曲をしながら、それを風呂  

で歌っていた。メロディラインが、どう言っていいかわからないが、  

障害者の調子なのだ。気まぐれで、耳障りな音も平気、という感じ。  

僕はそれに慣れるやり方(別に、意識して耳を傾けるだけだが)を  

知っていたので、聴くように聞いていると、だんだんその、二度と  

くり返しのない単調にも聞こえるメロディが好きになってきた。今では、 

聞こえてこないかと思う時もあり、なぜか彼女も歌うのをやめて  

しまって、僕も忘れていた。  

それが夕方から怒鳴り声、金切り声、だいじょうぶか、他の近所が  

警察を呼ぶんじゃないか、というくらい大きな喧騒になった。声は  

途中止んだりしていたが、夜まで7時間、そのうち3時間は怒鳴り  

合いでその家の側の小窓を閉める始末だった。  

昨夜は大いなる喧騒の中。島でだけ、大いに沈黙を楽しむことが  

できる。もうこんなことには、慣れっこになっている。どんな生活にも  

子供の心配が終わったら次は?、というようになんらかの制限・  

我慢・忍耐がつきまとうものだ。はじめから一緒なのだ。 それらは  

自分のある意味、物象ではない子供のようなもので、うまく制御  

できる時もある、くらいのもので諦めて、それなりにつき合って  

行くしかない。それがトラブルにならなければ、それをどうやって  

楽しむかも、僕らのふつうな日常のテーマである、と思うのだが・・・。  


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独り言のための独り言 [独言]

ブログがなにかを報告する義務があるのなら、報告する  

何物もないことを報告することで、義務を果たせるといった  

ことを考える人はいないだろう。 義務という堅苦しい務めを  

背負っているようなのが、ブログであるはずもない。  

皆、気楽にやっているのだから、それで十分だ。  

そういう社会の制約を取り払ってみると、ブログは書かれていない  

原稿用紙のように、白い空間画面だ。 文字を適当に打っていく  

だけで何事かが刻まれていくように感じるのも、小さな事業を  

為してゆくかのように、気持ちがいい。  

自分とは、何か。 とも考えない。  

世界は、あるのか。 とも考えない。  

昨年の10月の入院での、病院での騒ぎも、ほんとだ。  

遠い昔のことだ。 と、それは思う。  

こうして決して姿勢も楽ではなく、坐っていると、ここにいる  

のが何事かであるのを、感じる。 取り立てて言うことではないのを  

知りながら、いつもそれを感じることを言っておきたい。  

誰のためでもなく、  

誰に向かってでもなく、  

自分に向かってでさえない。  そう思う。  

そ ・・う  ・・思う。  

信じがたいが、こうして坐って来た長い年月は、こうして  

坐って来たことに、つながっている。 もとよりそれに意味があるわけ  

ではないのは承知だが、 これをなにもないと否定してしまったら  

その時には、胸がさわぐだろう、と予感してしまう。  

それだけのことが、こうして坐っていて、起こったからだ。 この  

ブログ記事の数は、それを自分に照らし合わせてみると、すぐに  

わかる。ここであったから、それを思い出すことができて、それを  

思い出している、・・のではないようだ。  

それは強制されているのではないが、意識してみると、そうされていた  

ような、・・ある感覚が ・・・・ある。  

これからは追及できない。  すぐにわかってしまうのが、(自分でも  

思うのだが)、期待外れだ。  

チェロを演奏するように、こちらがリードして自分の力をセーブして  

曲を開放してやる、といった芸当はできない。  

テニスのガットを張るように、好きな調整もできない。  

弦。  

ガット。  

少し、自分を休憩させてやると、 こんなことしていていいのだろうか、  

と楽しむのに少し、不安げだ。  

文化を、  ・・  

ああ、  文化を  発信せよ。  

― そんな言葉が  聞こえる。  

意味不明だが、  書く時に坐る、ということが  

ただ 機械の前に坐る、という 行為とは”差”を感じる。  

この差が  すべてなのだ。 いつも同じで、芸がないのだが、  

そこになにかがあって、  そのなにかが すべてだ、と  

自分に 教えるのだ。 言葉の説明に正確さは欠ける、承知している。  

でも、そこに当たり前でない、僕らが 言葉にしてこなかった  

それを  悠然と  思うのだ。  

他にどう思えばいいのか?  悠然と 思う 以外に。  

僕らは  悠然。  

僕は  悠然。  

それは茫洋のように  どこだか見当がつかない、 そんな  

ボーヨーではない。  きちんとしている。  

たぶん、音楽に似ている。  その音で、 確かな感動が  

あるにも関わらず、  音を止めれば、  なにもかも  

跡形もなく  消える。  それが わかっている。  

でも、あったのだ。  素晴らしい、  なにかが。  

むなしいのではない、  心に旋律が 残る。  

消えても、  自分には残る。  

そして、  それで  たぶん、   

僕は 坐るのだ。  それが  ・・ 忘れられなくて。  


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考えるのを 嫌がる矛盾 [矛盾]

よくわからない。 よくわからないのは、最初からそれをわかりたくないから  

ではないか、と考えてみる。 なにか心に前提として、引っかかるように  

前もって答えを予想してしまっている。 それが誤解なのか、偏見なのか  

そもそもわからないのだが、それを半ば信じているから、それをはっきり  

させたくない。 その気がないから、はっきりさせることができない、と 

感じてしまっている。 これらが自覚に上ってくることは、ふつうないだろう。  

僕らはそれほど、意識的に日常を考えていないし、そういう人は当たり前に  

いるのだが、そういうことを考える必要を感じていない。  

それはそのまま、僕らの日常の言葉があいまいなままでいい、というのに  

通じている、と思う。 考えというのは、その雰囲気に左右される。 

例えば、哲学的に考える人もいる。 現実ではなく、言葉で現実の中の 

事実らしきもの、真実らしきものを構築するのである。言葉だから、それは  

空中楼閣を築くことになる。どこにもないものにまで、よく進むから現実から  

離れて、言葉の芸を弄ぶ風にも見えてしまうことも、ままある。 文学風に  

考える人は、はじめから私小説風の雰囲気を愛好していて、その中で  

酔うように物事を組み立てるのが好きなのである。写真家・画家は光と影、  

黒と白とを見えるものの思想の中心に置いて、そこから色彩の  

バリエーションやタッチ・感触の微細さから、形と色で、感情を考える。  

感覚がその全体を指揮して、芸術はなにかを主張せんと、欲する。それは 

民俗・民族・伝統であったり、美であったり、愛であったり、暴力であったり、 

怒りであったり、彼の自由な発想から生まれる。 法律家からは日常感覚  

とは違った法の解釈というものがあり、現実を法で解釈・判断するのに  

どの例文をどの条文に沿わせて、現実に一定方向(判断)を与えるかに  

腐心、考え・心をを砕く。 

文化人が好きなのは、およそ衒学趣味(学問風な言い方)が主流で、物事 

をほぼ現実を無視するほどに、自由に解釈して、思想らしく見せることだ。  

頭のいい人というのは、そういう頭のゲームを作る楽しさに逆らえない。 

この世にはそういう文化や思想の発信・生産する者がいて、それを形に  

する仲介者がいて、それを購入して享受する消費者がいる。  

僕らは知性とか、感情とか、感覚というものを、特別学習することはない。 

それらは学習するまでもない、前提で人間であるから、わかっているもの  

として扱われていて、心理学や神経医学などの特別な学問分野に進まな  

ければ、特に人生で注目することはない。  

それが意味するところは、僕らがそういうことを論文や一般書や雑誌など  

で読んだり、上司・部下・家族・友人・知人・噂などから耳学問で聴いたり  

してその知識を取り入れたことであるから、僕らの頭はその知識の 

認識で一杯で、それらを使って考えたりしている。それはどういうことかと 

詰めれば、すべて他人の考えで、自分の小さな問題から、人生上の  

重大問題まで、考えている、=”他人任せ”だということだ。ふだんは  

意識しないが、僕らの考えの98%はまず他人の考えから発祥していて  

他人のそれを利用している。これが僕らが単にいくら考えても、自身の  

問題にうまい適応した考えが出てこない、という原因の「ひとつ」なのだ。  

頭がいいから、哲学がわかるから、数学に強いから、弁論がたつから、  

そういうことは社会的な問題の現実対応がうまくいく要因であるが、  

多く個人の問題を取り扱う時は、役に立たないことが多い。  

自分に合わせて洋服など選ぶように、自分に合わせて問題を考える 

ようなことを教わってこなかったからだ。ソクラテスだったか、「己を  

知れ」という言葉はいくらでも、あちこちに出てきて独り歩きをして  

いるが、自分を知るということが、そもそもどういうことを言っているの  

かが、いまだにあいまいなままなのだ。 なので、己を知らずして  

自分の問題をうまく処理する適応が、他人の考えでは成功はしない、  

というのが相場になってしまっている。  

どうして自分を知るというのが、重要に思えるのに、ソクラテスから  

2420年くらい経っているのに、コロナのワクチンではないが、人類は 

これという教科書も手にしていないのだろう。 僕はずいぶん前に  

答えを見つけた時に、むしろ当然な答えに驚いた。  

たぶん、僕らは「ありのまま」が好きなのだ。ありのままの自分を最高  

だと信じ、そう思いたいのだ。ありのまま(?)というのは、謎の言葉だ。  

しかも、わかるような気もする言葉だ。自然のごとく、あるがままに。  

と言えば、日本人の思想・心情趣味に合うだろう。  


少し、飛躍した方向を先に見せたので、実際に何が起こっているか、  

見てみよう。 

僕らが基本、怠け者である、と規定していいだろうか。働く必要もなく、  

衣食住の、これらはすべて他人によって与えられるもので、そのために  

社会があると言っても、言い過ぎではない。お互いがお互いのために  

今ある生産を金銭を介さずに、生活に必要なだけなら、無尽蔵に与え  

られるとしたら、僕らは働く必要を失うが、働かずに好きなゲームや遊び  

や趣味などをしていられたら、強いて働こうとは皆、思わないのではない  

だろうか、という規定である。僕はどうも怠け者だ。好きに旅行に出かけ  

られたら、あまり帰ってこないだろう。  

僕らの体にはホメオタシス(恒常性)があって、体の内部を一定の環境  

に保とうとする機能がある。体温を36度付近に保つために、暑ければ  

汗をかき体温を下げ、寒ければ毛穴を閉じ、厚着して、体温を逃がさない  

ようにする。それだけではなく、血液内のカルシウムの量を一定に保つ  

とか、陸上で生活するために、数限りないホメオタシスのためにさまざまな  

生命維持活動を余儀なくされている。病気にならないために、死なない  

ために。  

この死なない装置が心にもセットされていて、「自己」は死の雰囲気を  

敏感に嗅ぎ取り、それから離れ、すぐに避けようとする。これはもともと  

体の危険信号を察知することから発生している。危険に対して、頭で  

考えるより体が先に動くのは、まだ動物だった時に獲得した習性だった  

ろう。知性がこれを受け継いで、知性自身の隠れ蓑のように「自分」に  

この機能が生じたのだろう。どうして隠れ蓑かと言えば、知性は通常の  

状態では「自分」を検証できないからだ。自分が考えること(知性)で、  

自分を知るというのは、例えれば、自分が脳に坐って、眼球から外を  

覗き込みながら、脳に坐っている自分を眼球(知性)で見ようとする  

ようなものだ。知性はAとBとか、AとBとCとを比較して、AはBでもCでも  

ないとか考えて、Aを見分けて、認識する(=わかる=分けることが  

できる)。 見ようとする本体を、本体から見えるはずもない。 自分で  

自分の背中には回れない。 それが論理的な理由で、それも重要で  

あるが、それよりももっと根本的な理由は、僕らが苦しみや悲しみ  

という死のゾーンに近い心に生じる生活の不適応からのマイナスを  

自己の防御機能が、避けるからだ。残念ながら、不幸はしあわせと  

ともにこの世にセットされているもので、そこから僕らは真実とかの  

なにかを学ぶ、あるいは学ぶようにセットされている。  

「自分」はそれを本能的に避ける。 それをまとめると、そんな不幸 

まで味わって、自分を知りたくない、ということで、それを生活感覚で  

言えば、僕らは実は自分を知りたくないのだ。顔が悪いとか、バカな  

自分とか、泣き虫・弱虫の自分、臆病で卑怯だったりした自分、それを  

人に知られるのが嫌だという前に、自分で知りたくないのだ。  

仏教は聖徳太子が国教として奉ったが、ブッダからは1100年後、 

大乗が完成してから、中国を渡ってから、400年後のことで、それ  

でもブッダは沈黙を保って書き残さず亡くなったし、聖徳太子から  

1600年も経った今日でも、悟りワクチンなる、確実なものは  

書かれたことも、できたこともない。なにがどうしてそうなったのか、  

誰もわからず、古(いにしえ)の個人の哲人が、道元とか、それらしい  

ものを書いたが、教科書になるには知的理解はできたが、真相は  

難解だった。  

それは仏教も悟りも、それぞれの時代のエポックであっただけで、  

ワクチンは完成しなかった。そこに人々が(わざわざ苦しんでまで) 

嫌なものは見たがらない、という千年、二千年の壁のようなものが  

出来上がっていた。  

弱い者はそのまま(強い者もそれを免れるわけではない)、人の考え  

の間で人生の自然がそうできているように、苦しい時には苦しみ、  

楽しい時には楽しみ、世の流れのままに自ら年寄りになるべく(それを  

意識してしているのに自らは気づかないが)歳を重ねるがために、歳を  

取ろうとして取る、老後を過ごすべきなのだろう。そこには逃れられない  

頑固さもあるが、経験から透徹したなにかを見透した、年の功もある  

だろう。


ひとつ、こんなことがあった。パチンコ屋の前で立ち食い蕎麦屋をやって  

いるおばさんがいたが、息子が事故死して、慰労金が数千万円も入った  

らしい。すぐにおばさんの蕎麦屋は姿を消した。旅行に出かけたとか、  

噂を聞いたが、3か月後には、また蕎麦屋をやっていた。 

どうして蕎麦屋にもどったのか、聞いていないのでわからないが、自分の  

経験ではそれなりの資金が入って、海外旅行から帰って、好きな時に  

好きな場所へ出かけたりしていたが、飽きてきた。退屈して、時間も金も  

あるのにこれではいかん、と体力以上に遊びまわった。というよりも、  

自由な生活をしているのだから、自由であるべきだと、あがいていた。  

つまり、自由を失い、求めて苦しんでいた。そして、オーバーヒートして、  

入院となった。情けないが、実話だ。 自由を求めるのは自由では  

ないし、それは金と時間が好きに使えることでは、意外に成し得ない。  

それは自由への夢ではなく、現実の雇用労働や神経疲労・介護疲れ 

を癒したい、解放されたいという一時的な願望に過ぎず、体とこころの  

ホメオタシスなのだ。 

金と時間があって、病院で反省することになるとは思わなかった(笑)。


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 [ホタル]

蛍を見るのは、久しぶりだった。  

それもこんな近所で、群れ飛んでいるとは思わなかった。  

目久尻川は一級河川だが、ここらあたりでは源流に近いせいで、川幅は狭い。 

そこで川面に群れ飛んでいるのかと、思っていたら、そのすぐそばの林だった。 

一匹だけ、川にまで来たのがいて、それが緑の蛍光色に光って、ゆらめいて、  

消えた。近所の人も来ていて、小さな駐車場の竹垣から、スマホをかざして  

撮影していた。それほど蛍は多くない、とも、また少なくないとも。  

そこからの林は真っ暗である。その中で、どこからかチラッと光が現れ、  

風になびくように揺れて飛ぶと、消えてしまう。その点滅が統一性がなく、  

五つ、六つ現れるかと思えば、一つ、二つを残して、消え、暗闇に近く  

なってしまう。そのにぎやかな瞬間を撮影しようとするのだが、撮れば  

真っ暗、が続いて、撮影はあきらめてしまった。それが以下 -


蛍.jpg  


あまりに暗いので、なぜか林の中では、緑の光ではなく、白い小さな点だった。 

これが自宅の庭で見ることのできた時代もあったかと思えば、優雅さも感じられた。  

夏の風物詩の、花火を見るのと、どちらがよかっただろう。  

でも、自宅の庭で蛍を楽しめるのなら、そのほうが優雅だったろう。
  6.3
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しゃべりと思考 [しゃべり]

あれこれ考えているが、考え続けていると いけない。  

その時に行けた処までメモが必要になるからだ。 考えは  

かなり多くの概念のあいまいな積み重ねの上に現れる  

砂上の楼閣といった特徴があるから、 気を抜くとさっさと  

崩れてしまう。考え直すのは、相当の集中を必要として、 

それは無駄を加えてしまったという結果ゆえ、となってしまう。  

また、メモしておいても、このブログのように前のブログと併せて  

一千記事になっているから、プリントアウトしていても、なにを  

どこに書いたかなど、探せるものでもない。  それでもその気  

になれば探し出すしかないから、メモ代わりに書き置いておく  

ことが重要だ。  (テーマを振り分ける機能をいまだに不使用)


今まで「わかりきっている」から説明してこなかったが、実は  

そこがわかっていないという例が、次々に見つかると、それは  

一般も障害の者も含めてなのでしかたないのだが、改めて  

知性の二つの性格とその動向や、それから出てくる問題点  

などは書いておいた方がすっきりする、と思った。  

僕は還暦までしゃべりが下手だった。しゃべりと知的思考は  

知性の二大性格なのだが、どの人もどちらかが得意に傾くという  

特徴がある。そして、それはそのどちらも持ってはいるのだが、と  

いう注釈がつく。 それは英語を例にすると、見分けやすい。  

日本人の英会話が伸びないのは、文語的な英語を習い続けて  

日本語を英語に訳文してから話そうとするからだ、と言われて  

いる。つまり、相手の英語を>日本語に、その返答を日本語で  

まず考えて>英語に翻訳して、とやっているので進まない。  

苦しい。と、そのとおりだろう。  

会話の性格は、その文の正確さにあるのではなく、伝えようと  

する内容にある。  以前の例文をくり返すが、日本のビジネスマン 

が外人と話していて顔をつぶされるようなことを言われたと思った 

ので、少しカッとなったのだろう、どう言っていいのかわからないから、 

とっさに「Stand my Face」と言った。日本語で「顔を 

立てろ」は「オレの面子を立てろ」の意味になるが、英語は  

「立ち上がる」動作だから、横のものを立てるとか、倒れているから 

立てる、の意味になる。 

が、それで通じてしまったのだ。 

要は会話は通じるまで知っている単語を並べればいい、という 

くらい乱暴なものだ。そういう流れが会話というものの流れだ。  


言葉を選ぶ必要は、もちろんあるが、通じればそれがずばり  

正確でなくてもいいということだ。 会話の基本はお互いの  

あいまいさを、お互いに多分にいい加減に解釈して満足して  

いることにある。 

だから、一般に結論や先を考えて、井戸端会議などしない。その  

場の思いつきで話は進行し、どこに行くかわからない。  

このしゃべりの性格と、知的思考の性格とは、反対とは言えないが、  

相容れない性格ではある。主に論理の構成で思考は組み立てられる  

ので、目的は意義や主張などの正確さ・その正確さによって導かれる 

正しさである。  

会話的思考は思いつきなので、つっこみどころ満載で、どんどん矛盾・  

筋道のないことを言ってくる。このしゃべりと思考の調和を図れないと、  

互いに平行線をたどる。しゃべりタイプは、気持ちがわからない奴だ、 

となり、思考タイプは、言ってる筋道がわからない奴だ、次から次へと  

論旨を変えたらわからなくなるのがわからない奴だ、となる。世間では一番  

多い不適応型の言い争いになる。 この二人はしゃべりも思考もがどちらも  

持っているとは言え、かなりどちらかに傾いているのが一般的なため、  

お互いのテーマや立っている土俵がちがうのが、理解できない。  

これは今までに、地方などで村の復興のためにゴルフ場を誘致すべきだ  

と主張する村民と、天然記念物やその環境保護のためにそれに反対する  

村民との争いでよく見られた光景だ。反対派は動物が可哀そうだ、植物  

を護ろうという感情論で、賛成派は村民の経済的に豊かな収入・暮らしの  

ため、と譲らない。そのままなら平行線で、実力行使をすれば、どちらも  

傷つく。 ここに経済学者の宇沢弘文のような人が仲裁に立つと解決に進む。  

彼は実際に成田空港の建設をめぐって農民・学生がバリケードを作って  

政府に抵抗した時に仲裁に入って、双方の妥協点を見出させた。  

そのようにお互いがどう妥協点を見いだせるかが、ポイントだ。  

反対派はゴルフ場の環境汚染を攻撃するのではなく、相手の経済的利益  

に眼を向けるべきで、賛成派はお金だけの問題に集中しないで、長く  

健康に生活する新しい環境づくりにも眼を向けるべきだ。  そうして、  

どこまで経済を優先させるか、どこまで環境を犠牲にできるか、双方の  

意を汲む形で議論して、どういう妥協点が可能かを見出す方向で話し  

合うのがポイントになる。一番は双方が満足しやすいアイデァを出すことで  

それが納得し得るものなら、半分解決したも同じで、後はそれをどのように  

実施・実行していくかの問題を残すのみだ。  

というのが、思考としての基本であり、理想であって、現実はもっとヤバイ。 

反対派を崩すのに金をばら撒いて、賛成派に抱き込む、とか人の弱みに  

付け込んだ汚い手が使われたりするのが、金のからんだ問題の現実だ。 

裁判がからむと、ドラマのような事態が実際に起こる。そうなる前に当事者  

同志で話し合える場を、普段から生活・行事に組んであることが望ましい。 6.8 


しゃべりと思考で、知性のおおまかなタイプがあるということで、それだけ 

では知性の二方向を説明したに過ぎない。 この答えを出すのは少しも  

苦労しないが、どうやってこの二方向の知性を統合させるか、と考えると、  

肝腎の点がわからない、となる。 「統合」という言葉でなにを現わそうとしたか、  

ということさえ、考えると、見えなくなってくる。

しゃべらない人は、思考を使い過ぎで、そればかりで生活をしている。気楽に  

しゃべるために訓練が必要だとは変な話であるが、しゃべり好きな人が思考を  

獲得するのにも、ある訓練が必要だとは考えられることだ。  

少し飛躍させないと、論点が見えてこない。  

知性、感情、感覚という大枠で考えると、それのない人はいないが、それぞれ  

そのコントロールや習熟度で言えば、皆が皆、バラバラだ。その上、それは頭脳  

にとどまらず、心においても単一の形で存在したことはない。境界線が定まらない、  

またはない。体からの思考的な指示や信号が発せられて、それで脳がそれを  

受けて判断する事項も想像するより多くて、それぞれが神経や連絡(化学)物質  

を使っていて、その経路にしてもそれぞれが使い回しているから、これが知性用、  

これが感情用とかの区別がない。どこからどこまでの境界は決められない。  

そして、その上で知性自身の直感、感情と組んだ直感、感覚と組んだ直感が 

あって、それを区別できていない。よく知られているのは、知性と感情がコント  

ロールされ、一種統合されると、それが「理性」と呼ばれることだ。 

しゃべる人は現実感覚に対応するので、直感が磨かれ、現実対応に優れてゆく。 

生活は多く、この直感を必要とするため、検証しながら進む科学的論理的な  

態度は、時間と労力が大きいため、世間ではよく考えるより、よくしゃべる人が  

多いのはこのためかと思われる。 また、思考能力に秀でていると、現実感覚に  

弱く、プラスに作用すると、楽観的になり、マイナスは悲観的になる。そして  

思考は自分の心の状態に染まるので、うまくいかない人は暗く、悲観に  

染まりやすい。考える人が悲観的になりやすい原因はここにある。うまくいくため  

には生活をなんにしてもその中心を明るく、健康に保たなくてはならない。  

また、知性だけでは、楽観的になってもなんでも簡単に考えやすく、実行の段で  

障害が現れ、悲観に陥る。心という内側に勝利して、世間という外側(内側に 

対応した外側なのだが)に適応・勝利するのも並大抵ではないのが現状で、  

それが延々と続いている。それが僕らだ。  


あともうひとつ、多い特徴はこころ傷つくということが、感覚的に、また感情で  

理解されているだけで、知的には少しも理解されていない、わかっていない、  

ということ。 感じたままを言葉に直すだけで満足する。それで終わりにして  

しまう不思議な習性がある。 (これは次の別なテーマになる。)



よい学者というのは、緻密で持続的な論理思考が明確にできる人だろう。 

しかし、よい学者であり、社会人であるには、それに加えて社交でよく  

しゃべることもできる人だろう。そして、寺田寅彦も言うように、バカなところ  

もないと、よい学者にはなれないだろう。    



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やすらぎに集う [やすらぎ]

花を くれた 君の手  

どこにも 行かないでと 言いたげだった  君の口唇  

どこまで ついて行けるか  わからない  僕の心  

伝えてくるものは  遠い  

鳴り響いてくるものだと  わかるために  

明日に  レコード屋に  寄り道を  させてはいけない  

道路に  点が はじまり  

多くの点が  染みになって  人家の窓が 開いて  

雨が 降って来たよ、と  家人に  知らせる 声  

大きく 両の手を  広げて  

誰かを  迎えている   そんな時、  時の彼方 が  

見えている   

ああ 時の彼方で  僕は なにをしているのだろう  

君は  ああ  想像できない  君の美しい姿  

カルモテン  カンブリヘキシトリン   ユンヌウンヌケキューラ ソ  

愛が  舞う  

古い時代の  カンテラに  照らされた  詩篇が  舞う  

愛してる  こんなに  雨が  舞っている  

濡れた 新聞紙が  くの字に曲がり  ソキューラ ソ 

音符が  ほら、雨粒の周りを  螺旋に   舞う  

きれいだね   美しいね   感動だね  

ガラスの  ストレッサー  ポットの 揺らめき  マウダソレティ  

心の 謀りごと   無礼な月に 質問する   宵の口  

なにも  疑えなくなってしまった  善意の うさぎよ  

僕が  耳を つまんで  持ち上げてやろうか  

曼荼羅  側転   皇居入口  感謝満点   ソラシド レ  

ヒマラヤ杉の  花粉よ   

愛が  舞う   

それは こういうこと   乱れる心  ランシン   カンシン  

関心  歓心  そして 感心 ・・・  

英国製の 家具に  感心する  君  

僕は  君の 歴史に  潜り込めない  

とまどい ためらい  悲しみの バレリーナが  

踊ってくれるのだろうか  シルクの庭に  つながる  

カーテンコール!  うやうやしく  銀色の虫が  

挨拶の口上で  舞台を  駆け回る  

なだれ込む  水色の  太平洋たち  蟹の たわむれ  

片手を 挙げて  なにを誓うのか  

歩いても  歩いても   無言ばかりの 棕櫚の木  

大切にされたいわけではない と  哀しい眼の  

シュテラインと 名づけられた  シェパード犬  

君が うちに来るのか   うちを捨てるのか  

長年という なにかが  潤って 震えている  

僕らは  ふたたび  時を   追いかける  

君らは  ふたたび  あの時を  尋ねる  

悲しいね  嬉しいね   なつかしいね  なにもかも !   

回る   回る   広がる   広がる   

なんて  すべてを  抱きしめたいのだろう !  

なんと  君たちに  会いたいだろう !  

なんて  君らを  愛していたことだろう  !  

そして   今も  

そして ああ、  今 も  


誰か  僕の代わりに  時の彼方まで  突っ走ってくれないか  

モウさんは  僕のうちに   朋(とも)あり  遠方より  

来たるの訪問を  してくれなくても  いいんだよ  もう  

今は  ただ 待つ   神のような  すり足を  

路地裏の  くたびれた ゴミ箱から  天使は  現れるだろうか  

跳ねる 雨粒   鳴りだす  トタン板  

そろそろと  歩き出す  僕の  こころ  

仲間が  バイクを 連ねて   出発を 待っている  

グウの音  ドライブの神経  かんざしの黒髪  

寒い 冷え切った君には  毛布と 味噌スープを  

にんじんの喜びは  君のこころに  届くだろうか  

誰も 待っていない  

誰か  待っている  

その間で  悩まないように  

魂を 立脚させるとは  どんなことを 言うのだろう?  

そもそも  魂って  なんだろう?  

僕の  魂は  ・・ わからないよ  

君の は  ・・・・  なぜだろう、  よくわかるよ  

君が  見えなくても  

君が  聞こえなくても 

君が  肌合いに なくても  

君が  匂わなくても  

それらが  ほんとうに  必要だろうか?  

この 感じ   

この 味わい  

この 感触  

この たしかな 感覚  

それが  なに、  とは 言えなくても  

君が  わかる  

わかる  

わかるよ!

なにも  なければ  なにも  還って来ない  

空(くう)を 掴んでいるなら  そこには  なにもない  

魂とか  知らないよ  そんなものは  

でも  そんな  魂とかでも しかたないから 呼んでいるもの  

それが  あっても  なくても  ほんとでも  嘘でも  

そんなの  気にして  どうするの?  

気にすることが  大事なの?  

フラメンコとか  陽気じゃない   フフ  

手拍子とか  こころ 浮き立つじゃない  テテ  

どうして  こんなに 空を   感じるんだろう !  

こころが  広がって  泳いで ゆくんだろう !  
 

君が  好きだ  

なんて  

なんて! なんて! なんて ! 、   

その、 それだけ  なんだろう  

どうすればいい、  この  ・・  

この 広がり続ける  限りない  こころたち  

もう  それは  僕を  通りこして  ひとつではない、  

鳴り響く  頬杖?  あくび?  いたずら?  

子供たち?   皆で  大きく  

柔らかな ベージュの空に なっている?  

どうして  君たちは  今晩 そっと 来たの?  

どうして  こんなに  集まれるの?  

アウドウネス  ユハンフェモーネ  ライハンベルグ  サルーネ  



 生きる、 その水の中に いる

 遠くを  見とおす  池にいる  

 広がる  空に  泳いでいる  

 あなたを 愛したい  

 君に  逢いたい  

 なぜ 永劫の 地を  求めるのか  

 生きるのは その水を感じること  

 遠くを見るのは  目の前が  わかること  

 広がる こころは  根のない  軽い魂 かも  

 悲しみが あれば  雨に 打たれたい  

 喜びが あれば  誰かに 伝えたい  



 これからも  

 僕は  生きる  

 そうですか、 ご自由に  

 君も  生きるんだよ  

 どんな 生物も  ただ 生きている  

 鉱物も  重力エネルギーとして  生きている  

 どんな破片も  重力は  宇宙の果てまで  届いて ・・  

 存在の 工夫は  この重力を どう集めるか  

 人の心が  無限に 届くように 作られているのは  

 可能性が  無駄なものではなく  

 条件次第で  すべてが可能であるという  

 夢を  担っているから    

 人は ただ 生きているのではなく  

 生きるんだ  

 ただ ・・・・・・・・・・・・・

 生きよう とするから  

 ・・・・・・・・・・・・・・・  

 生きるんだ

 






*やすらぎを見つけるのは、大変。思いもかけない時・処に、それは  

 いるから。がんばってみないといけないのに、もうこれまでと、  

 そういう時に(そこまでやってみて)、がんばりを外した時に、”不動の(?)  

 やすらぎ” が待っていたりする。 がんばってみて。
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パラレルワールドの試案による考察 [パラレルワールド]

ちょっと硬い題をつけてみたくなった。内容は遊びにも似たものなので、 

「P・ワールドについて」、ぐらいで済むのだが、思い切り仮説を組み立て  

ると、面白いことになりそうだ、 で、 そうした。(何を?)  


要は、タイムマシンの可能性を考えていて、長い間に固まって来た試論だ。  

: ―

僕は時間はない、と言った。それは非実在だと言ったのだが、調べたら、 

そういう題の本はいくつかあって、珍しい発見とか、発想ではなかった。  

例のとおり、本は「時間について」関係で、十数冊購入済みだが、例のごとく、  

一冊も通読したものはなく、30ページに達したものも一冊しかないだろう。  

考え方は人間、共通しているのですべての考え方を習得してしまえば、  

どんな難し気な本も読み解けるだろう、と思いがちだが、僕はそうしたら、  

80%以上を哲学でも、学術でも、小難しい論文でもすらすらと読めて  

しまえるはずだ。 が、そうならない。  

小林秀雄は自分はベルクソンに(ものを見る)観点を学んだので、自分の  

考えはベルクソンに拠っている、と書いている。そして、晩年には遠いが、

人生の後半に「感想」という、ベルクソン論を小林調で書いていた。(未読)
 

という次第ながら、雑誌に、文芸春秋だろう、5年以上も連載していて、中止  

してしまった。そして、晩年、自分が亡くなって全集を出すことになっても、  

「感想」は加えないでもらいたいと、遺言した。それで当初の全集は「感想」  

が含まれていなかった。ところが、実際に5年も連載していたのだから、それ  

を読んだ文化人からの書評が多く、雑誌や書籍などで載せられた。ところが  

処が、それを読んだ読者は「感想」がなんたるかがわからない。その書評が  

何を言っているのか、わからないのも同然だった。

(「感想」という小林の本は出版されているが、ベルクソンとはなんの関連も  

なく、まぎらわしい) そこで、「感想」を出版するように外から要請もあったの  

だろう、全集の続編として、2冊、「感想」が加えられた。  

評論家など、意見や感想を公表することで商売とする者には、死んでも  

プライバシーはないようだ。 それでいい、とも思うが。   

小林が全集に入れるな、とまで言ったのだから、「感想」は失敗だったのだろう。  

小林秀雄を評論した本は、かなり多い。でも、僕がパラパラと数冊、見渡した  

ところ、また「この人を見よ(小林秀雄全集月報集成)」を見ても、ベルクソンと 

小林をかけて書かれたものはないと見受けられた。  

僕は時間論のそれを考えて、ベルクソンの「時間と自由」を5,10年も前だろうか、  

読んでみたが、ついていけなくて、20ページであきらめた。感覚を判断基準に  

加えて書かれたものは、その基準を見つけるまでは読んでも自分の感覚と  

ズレているので要領を得ず、納得がいかない。その頃は、そうだった。今なら、  

読めるはずだ。  


前置きが長くって、いけない。  

時間は物の運動を見ていると、僕らがそこに記憶の上でだけ、形や様相の変化 

を見て、それを経過として感じてしまう。知性は見たものを考えて、それを一定 

のカテゴリーに入れるべく、概念化する。すると、運動の一場面があり、次に  

運動後の場面があり、それが一瞬で流れたという経過感を呼び起こす。そうして、  

物事を認識するには、どうしてもその感覚に名前をつけることになる。そこに  

時間という中身も言葉も生まれるわけだが、ないものに比較するものもない。  

ミカンは似たような品種が実在しているから、いくらでも比較できるが、時間は  

存在がないから、そもそも比較できない。そこで水晶の結晶の分子や、次には  

なにかの原子、電子の微細な等間隔に近い振動を利用して、「ない時間」の幅  

(秒・分・・)を決めることにした。それが今日の時計だ。その電子時計を基準に  

して、グリニッジを0時の起点にして時間を管理・運営しているのが、今日の  

文明、時計・時差だ。  

本来、時間が正確に存在しているのなら、国境など存在しないし、気にしない  

はずだが、一つの国の中で時刻が違うというのは、いろいろ都合が悪いので、  

国を単位にして標準時が割り振られている。それで(国際)日付変更線は  

地図の国の上では直線ではなく、グニャグニャに折れ曲がっているのだ。 

「時」があって、それを幅分け・区切ったものが「時間」で、その時間を国

に配分したものが「時刻」となる。正確な時間はそれぞれ計算すればいい。

東京は標準時の明石から16分遅れだから、プラス16分が東京の正確な

時刻だが、役に立たない。交通機関などはすべて、標準時で時刻表を作成して  

いるから。経済も人の待ち合わせも数字と同じで、役に立つから標準時を  

決めて使われている。 ミカンが時間だったら、ミカンから皮のついたミカン  

「皮有」、皮をむいたミカン「皮無」、さらに袋なしのむき出しミカン(の実)  

「裸実」、とか分類されて、使われていただろう(?)。

 

だから、僕はタイムマシンなるものは、まったくの不可能な空想の産物と  

して無視して、問題にしなかった。 それで一番の夢がタイムマシンを利用  

していろいろな過去・未来世界に行くことだという、自分の本来の夢には  

長く気づかなかった。還暦前後だったろうか、エベレストの夢が破れた時、  

(当時、エベレストは裏の山を登るくらいに、楽観に考えていた)自分が  

忘れて気づこうともしなかったタイムマシンの夢を思い出すことができた。  

タイムマシンは過去なら、行った先で自分に会うのか、会ったとして、 

それならどうして今の自分にその未来の自分が来て会ったという記憶  

がないのか。数日でも過去にいたのなら、現在にもどるのに来た時の  

数日後ではなく、来た時の日にちのままでいいのか、矛盾が生じないのか、  

数日後に戻ったら、違う自分に、数日未来の自分に会うのではないか、  

などなど合理的に解釈しきれない矛盾が山ほど出てくる。    

それを解決する算段の一つにパラレルワールド(並行した異空間の無限  

世界)という考え方がある。 それがほんとうに並行しているかと言えば、  

してないだろう。僕らの世界からは異次元なので想像できない。深海に  

住む魚が簡単な知性を獲得しても、陸上の空気の世界はまず、想像を  

絶している。水がないのだから!  

ここからは突飛な空想も仮説も駆使して、推論していこう。仮説がひとつ  

でも 真でなければ、その全体の予想がすべて吹き飛んでしまう。つまり、  

信じるには及ばない怪しげな言説だ。その代わり、面白い。  


その前に似たようなものに、この世とあの世という、思想があるが、ちょっと  

かじって話そう。 イメージで生者の世界と死者の世界である。端折るが、  

そういう対等の世界として、あの世は存在しないだろう。死者は生きない。  

その常識は、感覚として正しい、と僕は思う。それであの世を説明する  

世界中の、この世の霊媒とか、霊能力者とかはすべて、あの世を見て  

いたとしてもそれが自分の能力から見えてしまう錯覚だということに、  

気づけない。  

しかし、それだけでそういう現象を否定しようとも思わないし、現象が  

起きるのを「ない」、とは言えないが、あの世や死人の泣き言や恨み  

ごとは、あって、ないものである。  それが現象として現れるのは、  

死者の記憶の特殊な記憶信号の性質によるもので、それが死後に残留  

するからと思われる。 

あの世はこの世にある。この世の、あちこちにあるのである。この世と  

あの世がバランスを取って、対等に二つあるということは、死者が  

あの世で、生きているのでない限り、ありそうもない。 死者がどこそこでも  

生きていれば、この世に情報をもたらすはずなのだが、そういう情報で  

世の中が変わった例はない。それは特殊な記憶信号のあり態が限定した、  

また固定した知識しか持っていないせいだろう。 <中途になってしまうが、

(そうか)、それ説明すると、僕の母の死や、友人の母親の死後について  

書かなければならない。とても遊びで書く分量ではなくなる。いつか、  

いずれということで、 省略。 > 
 

例えば、僕らの空間だが、なにをもって「空間」なのか、実在としては  

疑問だ。時間がそういう非実在ならば、空間も実在しないだろう。宇宙の  

空間も無の空間ではないし、真空とは空気がないことで、その他目に  

見えないガンマ線とかの宇宙線や素粒子が無数に飛び交っている場所  

だ。空間を切り取っているのは、僕らの想像に過ぎない。そして、僕らは  

地上でも目に見えないが、専用のゴーグルをつければ、この世とはまるで  

別な空間に入ることができる。それが今、ゲームなどで流行の仮想空間だ。 

それを仮想現実と呼んでいるが、そのままでは現実になり得ない。 が、  

それを個人の脳の記憶部位に埋め込めば、その人間は仮想空間と現実  

とを、ある切り替えシステム(技術)で味わうことになる。その時でも現実  

では物質の抵抗に出会うだろうし、仮想空間では崖から落ちても、落ちない  

だろう。これがパラレルワールドとして実在したら、 と考えると、たぶん、  

この現実の世界とは同じ場所(としか言えない)に、この1mmくらいの 

幅にもパラレルワ―ルドが10億個どころか、もっと無数に存在するはずだ。

この仮想空間は実際は現実の空間質なので様々な条件で、特殊な記憶信号  

を充電させることができる。その波長に捕らえられると、その信号が集まり  

始める。それが心霊スポットの成り立ちになる。小さな目に見えない信号でも、  

記憶を中心にした判断や会話能力ぐらいはあるはずだ。しかし、その限界を  

超えては、考えられず、答えも言えない。中継となる能力者とか語る者が、  

彼らの想像と常識から類推して代わりに答えたりしているのだろう。それは  

詐欺なのだが、遺族や家族のためと商売のために、罪悪感なくいかにも  

それらしい死者の言葉が伝えられる。死者を冒涜するのではないが、明らか  

に遺族が聞きたいことを察してそれを創作している。生きている者は仏に  

ならない。死者が生きていれば、生きているように話す。具体例があれば  

いいのだが、僕は死者と言葉を交わしたことはない。ただ僕の体に入って  

来ただけだ。それだけで何が起きたか、わかる。 少し省略の予定を喋って  

しまった  ・・。  


次にタイムマシンを設定するために理論環境として準備するのは、過去へ  

行くことと、未来へ行くこととはどういうことか、パラレルワールドで説くことだ。  

ヒンディー語(インド公用語のひとつ)を三鷹の学校で習っていて、単語を  

調べていて「カルー」という単語に驚いたことがある。「昨日」という単語なの  

だが、「明日」という意味もあったのだ。昨日であり、明日であり、それは過去  

であり、未来という矛盾な取り合わせだ。どうしてこんな意味を複合してもって  

いるのか、あとでわかったが、それは「今」を起点として、1日離れているのだ。

今日の一日前は昨日、一日後は明日ということだ。ヒンディー語は語尾で  

時制変化するから、昨日か明日か、どちらかの意味かで迷うことはない。  

しかし、この考え方は悟達に関わっている気がする。時間が非存在、という  

ことは他方で、”今”しか実在していないことを言う。”今”から過去も未来も  

距離を置いているのでそこは今、実際に行為・行動できない場所、という  

こと。いや、インド人はすごい、ブッダの国だ、と思ったものだ。  

しかし、今回はそれを利用させてもらい、このパラレルワールドは恐らく、  

3次空間の全方位に、上下左右前後、その360度回転させた全方向である、  

過去と未来へとそれも並行に増殖し続けているのだ。どこまで?それは  

限界がないが、実際は現在の地球の成層圏から広がる宇宙の膨張に  

比例しているだろう。  

それらを僕らは想像することはできない。今の時間の概念をもって生活して  

いるせいで、時間を非空間では想像できないからだ。その構造さえ、思い  

つけない。 

このパラレルワールドを完成させるには、時間を変えなくてはならない。さて、  

そういうことが想像できるだろうか?準備はいいだろうか?  

今の時間の概念では過去には決してもどれない。一度行なったものは、  

取り返しがつかないように、今を定着させる何物もないから。時間にない  

のだ、内容を示す質というものが。だから、真の時間には、僕らの感覚  

(錯覚)だけによる実質のない空想ではなく、質を与えてやればいい。実は  

僕らのまだ発見できていない「時間質」を想定する。すると、パラレルワールド  

において(瞬間ごとに)記憶された実質として残る過去の出来事が、どんどん  

増殖する。  

そして、未来へ僕らの可能性の数だけ、過去と並行して未来の世界が増殖  

するのだ。いくら可能性の数が増えてもへいちゃらで、なにしろパラレル  

ワールドは無限なのだから。未来はその人が選んだ方向に進む。  

そうすると、もうちょっと飛躍すると、僕らは精神の死の回数だけ、そこで  

瞑世界に達した時だけ、知らずに世界を移動しているのかもしれない。  

つまり、パラレルワールドは今現在、使用している者は気づかずに それを  

移動して利用しているのかもしれないし、利用していても気づいていない。 

それは自分の世界を前もって準備する、自分を信じる力を強くする、そういう  

手立てを与えてくれる ”自分が自分を信じれる世界” を自ら想像し、創造  

すること、をしている。  

まさに万華鏡の世界だ。  

しかし、楽しいだけではない。それは宝くじを当てて自分の好き勝手に濫費する  

ように、自分の都合のいい世界に逃げることではないからだ。そういう逃げる  

姿勢では、精神が死を前にして、遁走してしまう。今の外世界を変えようとは  

しないだろう。それが今の課題であるなら、世界を移っても、同じ波動から  

似た困難につきまとわれるからだ。  

にしても、過去と未来を自由に往来できれば、それは素晴らしいだろう。  

そして、誰もがそれを可能にしたとしても、たかが75億通り(×未知数)の  

未来では、お互いの未来でかち合うこともなく、誰も他の誰かが世界を移動  

していると、気づくこともないだろう。 つまり、パラレルワールドはあっても  

なくても、それを証明することができないのだ。 が、これはパラレルワールド  

が人が個人の精神で築く場合での話だ。  時間質が実在してあるのなら、  

それを発見すれば、人間の体を分子化して時間質の変質方向や変質経過  

を計算して、過去や未来へ飛ばすことができる。通信はつながるから、  

飛ばした先で再合成してもとの人間にもどす。帰りははじめから、タイム  

マシンの受信機を一緒に送って、今現在から同じことをくり返して、現在に  

飛ばす。かなり、技術的に難関が予想されるが、理屈の上では可能だ。



僕は時々、そこに置いたはずのものがなくなっているのに気づくが、探して  

もなく、昔の人は「小鬼のいたずら」と呼んだそうだが、これは子供の頃から  

あった。最近でも3階のそこに置いたものが、別の処2階にあって、そこに  

あるのはおかしいと思ったりするが、パラレルワールドから小鬼?  

いやいや、パラレルワールドのせいではなく、物忘れがふつうに増え始めた  

ことだ、と思い、パラレルワールドと区別するのは難しくなってきた(笑)。




*時間質があっても過去にもどるのは無理かもしれない。エントロピーを  

考えると、宇宙はその増大の最中だと、科学者は考えている。ビッグバンも  

一理論なのだが、宇宙誕生からこれまで138億年、一度も減少したことは  

ない。過去は物質の分子運動の逆行をすることになるが、そのシステム・  

機能だけでは過去はあったまま(歴史)には生成されない。 が、もう考える  

必要はないだろう。僕らの知性では、感覚もし得ない様相・形態があること  

が想像されるからだ。光も透過してしまう質であれば、僕らのつくった機器  

では感知しないだろう。だから、そこでは僕らが新しい感覚を備えることが  

予想される。そこで初めて、タイムマシンなどがどうしても必要だ、欲しい  

となった時に、時間質が発見されて、新しい科学も開かれる。 それは  

夢のような話で、そこまで皆が行けば、の話だ。   

宇宙もこの世も、考える材料が足りない。わからないことのほうが星の数  

ほども多いからだ。



一句 : 記憶をや パラレルワールド 探すかな  


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夜の祭り [祭り]

コロナの  音も 匂いも しない  

夜の街は  そのままだ  

街灯が  白いアクセントに  黄色っぽくも  

角や  テラス  駐車場を  照らしている  

ひんやりと  外気が  肌触りを  主張している  

部屋に もどると  お決まりの孤独が  はびこっている、  

そんな気がするが  気がするだけだ  

動物の心に  低下すると  ある地平を 感じるだけで  

掛け時計を 見れば  時間を意識するのを  嫌う  

カレンダーを 見ても  日付は 役に立たないと  

見えてしまう   

やがて 眠くなるだけだと   

自分に もどって  無意識に避けている  孤独感を  

引き寄せてみる    祭りの はじまりだ   

<なにもしないでいる  自分>なんて  説明だ  

現に そうした自分を 規定して   言葉でくくってるじゃん  

思考が  止まらない    

この 孤独のまま   どれだけ  過ごせるかとも  

思えるが   それは いい  

すぐに  孤独は  消えてしまうから   

ぴったりと  自分は  意識になってしまう  

鏡のように 照らし返す  それのみで  

反応に  命は  感じられない  

内面に 動くものがなければ  なにも(わざわざ)  

心を  閉じなくていい   

開きっぱなしで  風通しも いい  

感覚も 弱り   気持ちも めげてくる   

のだろうが、  事実は  感じようもなく  

のっぺりした  鉄板を  触っているようだ  

夜の空気が  透徹して いるのか  

反射の意識が  透徹して いるのか  


動かない 体と  動けない 肉体の  

動かないのか、  動けないのか の

区別がない   感覚を 失う  

自分が 殻(空)のままでは   

サイレンも 鳴らないし  炎も  見えない  

夕方  自粛に飽きた  数人が  通りで  

大きな声で  むしゃくしゃを 語っていた  

ムカつかずに  自主的に 聴こうとすると  

同情もできる 自分を  確認したが   

同情など  するわけではない  

* 外出禁止令下のロシア中部の町では、外で大声でしゃべる  

5人の若者を、男が射殺した。 (4月5日)


こんな状態で  散乱した本なども  手にとっては  

捨てる   

読んで 面白い本  続けて読める本が  ないのは  

こういう時 だ   

自分が  殻(空)のままでは   

知の 発動もない どれも 雑草になる   

本を買う 衝動は  どこから得られるか  

書店や  読書中の  興味や好奇心  

いつのまにか それに侵入され  「注文を確定する」 を  

また 押してしまうのだ    

部屋に入れると  ほぼ  屍体となってしまう  

書籍という  隣人  

まれに  知に欲望の 火が灯り  

本を開くことが  最高のパッションに  思える  

まれに、   だから  すぐ消える  

マッチの 火のようなもの だ    

数ページ読むと  次の本を  物色しているが  

ただ 暇だからに すぎない。  思いつきで  

別の本を  また数ページ読む  それでも   

読むだけ  まだ  ましなほうだ   

自分に  知を燃やす 火を入れようと しないのは  

どうしてか   血のめぐりが  

悪くなっているの だろう   

目的も  報酬も  あるのが わかっているのに  

うだうだと  酔えない見えない 酒を  汲み  

酔えない聞こえない 沈黙の音を  聴く  

なにもしない  継続を  どんな秤で  

測れば  いいのだろうか  

徹夜など しなくなった  この頃で  

午前3時半を  回ったのは  偉業にさえ 思えるが  

その 証拠に  

眠くなって  肩も重く  この祭りも   

もたないのかもしれない   

まだ  寝るな  

前略  まだ 寝るな  

追伸  まだ  寝るな  

そうは言っても  まだ  寝るな  

いや!  もう寝るわい   



寝ながら  祭囃子でも  聴くわい  

自粛の  自粛による  自粛のための  

生活とは  いかに  

コロナの コロナによる コロナのための  

ラムズ・・  とは  いかに

あかん!  すり減って  頭蓋が  

すり鉢状に  なってまう  

アホ! もう  寝るわい   

あの人(母)は  寝るのが  しあわせだ、と  

自分を  語るのだった  

その時も  寝たら  何もできないじゃん、  と 

いうのが  僕の 弱年の 通説 で 

今も  それは 変わらぬ   

つらいから  眠るのは  しあわせ だろうが  

僕は  今も  眠りたくは ない  

夜の祭りは  朝まで  続くから   


図書館の 借りた本も 6月16日まで  延長に  

伸びた 自粛と共に  

夜の祭りは  はじまったばかり  

天皇制には  頭は 良し悪しを 想い  

正田美智子さんの 婚姻シーンには  わけもなく 感動している

今朝は  憲法記念日で

憲法改正は  賛成だが  

自民党案には  もってのほかだ、と  

祭りの話題には  こと欠かない  

朝焼け 前の

鳥の さえずりが  聞こえはじめ  

今夜の  祭りは  終わりを迎えるようだ  



一日が 祭りと共に  終わり  

また 一日が  たった今  生まれる   

ほら  退屈も  孤独も  

とっくに  忘れている   


僕らは  


これも 生きざま  戦い


この時が  

我が 時 、


拳を 握りしめる  


力の  あらん限りの  


” 我が 時 ” だ
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