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急に大人にならないでくれ [大人]

書くはずのない  数行が  増えるのを 

見続けると  その関係性が  問われる気が  する  

関係性は  無関係だろう、と  言わせたいだけだろう  

わかれば わかるほど  その徒労感も 増すのは  

どうしてか  

余分な 責任感をもつのは  真面目さと 不真面目さの 

中庸とかを  諮るようなものだと  思うのだが  

まず、 中庸を信じれないし   責任じゃない なにかが 

必要なのでは、 と 問題を回避する 問いもしてみる  

ぐる 

ぐる 

ぐる、と 

回るのは  頭だけじゃ  ないだろう  

灰色の  格好悪い  ゾーン  

今日とか  明日に  ドキドキ  振り回されている  

明日も  来るんだなぁ  何をしようとか  

今日のセーフに  安心しきった  生活  

そう  楽しもうとすれば  なにも不自由を 感じない  

一日中  アバターで  いればいいんだ  

現実に  現実感を 喪失してるって  

それは何? って  

スルー してるんだよな  

不自由を 感じないって   もう  

それだけで  失くしている という事実  

なんだな  


これは  知の勝利であるけれど  

どうも 人類の勝利では  ないと、思うんだが  

現実から  視界を奪って  映画だろ  

同じく  効果音に 酔うように  音響だろ  

そして、とうとう  五感を奪うように  

ゴーグルを かけるわけだ  

現実を  もうひとつ つくることは  

できないんだが  その錯覚を 楽しむことは  

できるんだよね  

錯覚でも  自分が  自由に思える方がいい  

それが  僕らの 答えなんだろうか  

答えは  ・・  

ないんだよね   

答えの  代わりが  これなんだろう  

それは 探さないこと  

探す 代わりに  無意識を  求める  

どんな 無意識か  知らない  

なにか 避けられればいい  そんなものだ  

ともかく  リズムに  ノンストップに  

スピードに  なんでもいいや、 突っ走れば  

マリオに  カカオに  カカオマス  

愛の スピードに  恋の ノンストップ  

ズラかる リズムって あったっけ?  

僕らは  思春期を  引きずるよ  

まったく  いやんなっちゃうよ  とか  

どうでもいい  

それを 引きずらない  大人も  見たことはないから  

黄昏れって  そこから  来るんじゃ ないの?  



僕らが 思うほど  

遺伝とか DNA(親)、 運命とか 占い、 世間とか 社会(組織)、 

本能とか 欲望、 孤独とか 孤立、 それら  モロモロが  

押しつけてくるように  感じる  その重さは  

君の 命以上に   重くはないよ  

それも  死ぬと思うまで やらなけりゃ、  なら  

しないだろうし。

これ以上できないのを  できるだけって言うし  

そこまで行けば  あとは  どうでもいいんだ  

気を使って  知らないところで  気がつかないところで  

人を 傷つけたって  それは  あとで  反省しなよ  

今は  それで 進んだことを  後悔すべきじゃない  

そんなことで  僕らは  歩いてこなかった  

イェイ、  ” そんなことで  僕らは  歩いてこなかった ”  

誰も。  

今は。  

人の内面とかが  わからないことなのは  自然の法則 (笑) と  

思っていいんじゃない?  

そこまで 期待するのは  自分じゃないの?  

そこまで 夢見ようとする のは  お前だろ?  

その自分の 気持ちの強さだけ  その激しさだけ  

失望が  裏切りに  

誤解が  ぶつけようのない 怒りに  

ああ  なんて  僕らは  我慢できないのだろう  

うまく できないのだろう  

それは  なにに  ぶつけて ハジケレば  いいんだろう !  

くだけろ !  ブルー地球    パンチを 受けろ !  ビッグバン   

おお、  さすがに  拳が  痛えな  



心配しなくてもいいよ  すべての 世界の半分は  

バカが  支配している  

それぞれの  別々のバカが  別々に  

違う世界を  支配しているから

杞憂だよ  君の 半分は  

バカが  支配している  

半分は  利口と  賢さが  争っている  

いつも  その境界線を  争っているんだ  

いつでも バカで  利口で  賢い 僕らが  

それぞれの  得意で  それぞれ  やっているだけさ  

善と 悪とか  右と  左とか  保守と  リベラルとか  

ありもしないカテゴリーで  ありもしない 言い争いで  

参加しても  なんにもならないだろ、  だろ?  

気がつけば  

ひとりで  歩いている  

寂しさと  自己嫌悪が  旅の お供のように  

心に  侵入しよう としている  

アマージャン   もう 天気予報  いらないよ  

そこで  最後まで 行っちゃう人は  

自分で ちゃんと 行っちゃうから  

どうしても 行けなければ  考え直したほうがいい  

自分に  できると思うことを  探す  

それからは  

僕に  聞いても  なんもない  

僕が  生きなかったことは  なんもない  

想像では  話せないから  

誰からも  僕らの 未来は  聞けないから  

急に  大人に  ならないでくれ  

そうなってしまうから    言ってるのだが(笑)  

儚(はかな)い 望みかもしれない  

急に  大人に  ならないでくれ 

そこで  歩みを  止めないでくれ  

無理な  願いかも  しれない ね  

それぞれ  事情が  あるだろう  

それこそが  

死からも  生(=関係性)からも  

無意識に  終わってしまうことを  認める  

それは  降参だ  

でも  降参しなくても  いいんだ  

でも  それは  できない  

誰かに  迷惑を かけるからだろ?  

ある程度の 迷惑は  お互いが  かけて  

かけられるのを  認めている  

自分の逃げる  理由の為に  いい子であろうと  

し・な・い・で  


でも  そうではない事情も  あるはずだ  

そうだね  

僕らは  生活の上で  GO  ON   

コロナ  みたいだ (笑) 

GO AROUND  回り  まわってゆく  


この 砂漠は  いつまで  砂漠なんだろう  

この しあわせは  いつまで  孤独なんだろう  

いつまで  僕は  ひとりで いられるんだろう  

抱えきれないほどの  愛を  もてあましながら  

猫が  それらしい要求の  ニャー、 を  聞く  

ニャー    そうだ  君らの 人間語だね  

君らの  助けを  借りるつもりは  ないんだよ  

許してくれるよ ね  


コウモリに 初めて  触った  

子ウサギの時 のように  柔らかかった (上高地で)  

僕は  ・・・  

君らは   ・・・   

人は   ・・・  

紙は  燃える   燃え尽きる  


神も  

人も  

動物も  

尽きる   

終わるのに  

どうして  僕は  尽きないのか  

この世界の  ある限り   

それが  死に絶えた 世界でも  


なぜ   

僕は  

尽きないのか 、  終わらないのか  

これが  妄想なら  

こんなに  安心できることは  ないのに  

この  無  

この  生命の 樹  

この  永遠  



なぜ   

僕は  

尽きないのか 、  終わらないのか  

これが  妄想なら  

こんなに  安心できることは  ないのに 




*そうだよね 

 僕の 10分の 1 くらいは  

 自分なんだから  

 自分を  完全否定する  なんて  

 できないよね  

 こうして  

 僕は  自分を消す という作業には  

 失敗した  みたいだ  

 この世 では 


 草が  伸びる  季節  

 Air  呼吸が  美しい 

 愛くるしい  女の子  

 いつも  夢に  出て 

 くれたね  

 そう言えば  

 君は  いつまでも  

 大人に  ならないね  




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自由へ 飛べる? [自由]

僕らは 鳥のように  空を飛べない  


ジェット機という  お棺に変わるかもしれない  


墜落すればだが、  詰め込まれて  運ばれる  


鳥のように !   とは


ほんとうに  夢だ !  


翼があれば という話じゃ  ないらしい  


やはり 翼にかかるエネルギーは  大変なもの  


一日中  食料探しに  暮れる  


僕らは  鳥のように  小型に 肉体を改造、  


それでも 飛びたいと  考えるだろうか  


この体では  相当に 大きな翼が  必要  


どうやって 動かすか  


どうやって  飛ぶように  なれるか  


A I が 自動調整するだろう  


飛ぶのは  それでいい  


着地は どうだろう ?  


ソフトタッチで  降りてくるのは  できるだろうか? 


体のバランスを  センサーで  キャッチして  


足をくじくことなく  あまり遅くなく  


ランディング できるだろうか  


ジェット機並みだったら  足は折れてしまう  


体の  重心を  どうやって コントロール  


するのか ?  


翼は  とんでもなく変形した  装置に  


なり替わってしまうかも   


それでも いい  


鳥のように  飛べれば  


ソフトに スムーズに  優雅に  


空を  散歩できれば  



わかるのは  


まだ  


人間で  いられること  


車を 運転して   わかるのは  


免許を取っても  少しも  


自由ではないことだ  


なるべく  好きに運転したりするが  


皆  同じ道路を 走っている  


どうしても  無理な運転は  危険が  重箱だ  

どうしても  安全な運転が  身に着く  


それは  車を  乗り回す、という  


自在さとは かけ離れて  


運転ではなく  周囲に 気を遣う  


そこが重視される  そうわかってしまう  


ふつうに 運転していれば  



空を飛んでも  何百  何千という  


人間が  飛んでいるのなら  限られた場所で  


自由にやるか  


周囲に  気を遣う  


自在さとは  かけ離れた  滑空  


なによ  それ  


僕は  ひとりで  自由に  空を飛ぶ、という  


夢を  見ていただけ  


なのだろうか?  


広い国土のある国か 


日本なら  ごく一部の 指定公園で  


そういうことに なりそう  


どんな  滑空規則を  覚えて  


試験に  臨むのだろう  



現実は  どうして  僕らの夢を  


かくも いつも  必ず  


制限して  限定して しまうのだろう   


それは  人間の 考えることだからか?  


そう  考え方次第で  



神のように  考えよう !  



全知  全能で  想像してみれば  いい ! !  


脳の想いのままの  翼も  簡単  


その場で 飛び上がるのも  


その場に  きっちり  着地するのも  思いのまま  


どこまで  飛んでいこうか  


ジェット気流に巻き込まれて  高度 1万m  


寒さで  呼吸もできないが  


全然、  平気 !  


ああ  30万回でも  回転して  進もうか  


ジェット機に乗った  シートベルトに つながれた  


観客たちに  手を振って  挨拶をしようか  


オレは  ここよ !  


自由 よ !  



そうだろう  


初日は  気持ちいいだろう  


3か月は  大いに  楽しめるだろう  


でも、 それからは ?  


半年、 同じことを  しているのだろうか?  


風を切る  その爽快感は  


まだ 続くのだろうか?  


1年、  3年、  5年もして  退屈で  


空飛ぶ 宅急便とか  アルバイト  


してないよね?  


そのために  飛んでいるの?  


政府の依頼とか  受けて  国の為に?  


人工衛星の代わりに  スパイ衛星になった?  


ああ  自由は  誇り(埃り) だらけ  



そんなに  ちっぽけなことを  しているなら  


一瞬で  世界を支配したほうが  早いって  


でも  旧約(聖書)の 神様は  そうしなかった  


人間に  さまざまな罠を しかけて  


自分の子を殺しても  私(神)を   信じろ、と  


眼を潰し  不幸をこれでもかと  畳みこんで  


それでも  私を 信じるか、と  


その人たちを  試した   


どうして  人を 信じさせることは  簡単では  


なかったのか?  


世界を  支配することだけでは どうして  


彼には 不満で  足らなかったのか?  



教えなよ  僕に  


聞いてやるから 



もっと  丁寧に  皆がやるように  


へり下って お願い申し上げる ほうが  


いいだろうか?  


たぶん、 そうなのだろう  


僕らは  心も  不自由だから  


そして  秩序を  大切にしたいと  

思うから  


でも、 そんなものが  頼るべき なにかが  


(真に) なかったとしたら ?  


僕らは  どうなんるだろう   


なにを  信じているのか  それが  


明らかに  明白、 明瞭に   ― なるだろうか?  


心は  壊れる のだろうか?  


新しい  世界を  迎えるのだろうか?  



教えなよ  僕に  


聞いてみたいから  



その 境界というのは  ないだろう  


それは  僕らが  決めることだからだ  


現実は  現実として  


夢は  夢として  


その境界は  ないだろう  


やさしさが   優柔不断と  思いやりとの  


間で  揺れて  解釈させないように  


夢は  神秘や  幻想を  分かちがたく  


見せるだろう  


現実は  八方ふさがりや  困難を  


そして  その出口に  荘厳さを  


演出するだろう  


まるで  幻想の中に  いるのでも、 かのように  


僕らを  リアルさに  感動させる  


これは  


人間が  


人間であることによる  


人間の ための  


システムであるかのように  


僕は  幻惑 させられる  


僕は  感動で  立ちすくむ  



なにを 解釈しようと  いうのか  


ここに  あるものに  


ここに  十全に  あるものに  


なら、  


自由も  


そこから  


獲れる はずだ 、  そうだろ  


人間の ための  


簡単に  自由にならない  


心も  体も  あらゆるジグソーパズル を  


解くため ではなく  


その ジグソーこそが  僕らだと  


そのバランスへと  適応するために



知る ために  



戦う ために  



慈しむ ために  



そこにしか  ないのでは ? 


そこにしか  ないのものは  そこにあるのでは ?  


そこにしか  自由は  ないのでは ? 



それは 勉強しない  


それは 学ぶべき もの  


現実と  夢との  境は  


僕らの中と  対外の 感覚にある  


口笛を  吹かないと   接着剤のように  


すぐ  固まってしまう  


僕らは  僕らと同じような 組織体と  


溶け合えない  抵抗する  


だから  それを  超えること  


もしかすると、   


・・


・・


はじめは  その底辺?に  信ずべきものを  


発見することなのかもしれない  


それ以外は  


恐ろしいほどに  すべてが  疑わしい  


それなら  


僕らは  人間じゃないか、と  


認められる! じゃないか  


まだ わからなくてもいいけど  


そうすれば  僕らは  


人間として  


人間を  超えられる  


にんげんだから  そのまま  


人間を  見つめられる  


それは  


君が  人を  ・・することじゃないか !  (*)



君の 涙は  


君を  どこへ  


運ぶだろう?  



どうしてなのか? 


どうして  これが  


揺るぎない  土台を  僕に  


感じさせるのか?  


揺るぎない  大地のように  
 


君の 涙は  嬉しいから?  


それは  僕を  


どこへ  運ぶだろう  



ああ  なんて  明瞭なんだ  


すべては  わからないもので  


世界は  ものごとの ありかた次第で  


無数に  創られて  


  
フレンツ  オ~ ル  


黄色い  ワイシャツの  帆のよう  


ナウ  オン  


ああ  なんて  明瞭なんだ  


僕に  還って きて  


フェイ  バ~  


早朝に  歩くのは  


気持ち  いいね  


リトゥル  ラ ウ  


さぼれないね  一日が  


あんまり  自由だと  


すべては  


できないよ  



それでも いい  


鳥のように  飛べれば  


ソフトに スムーズに  優雅に  


空を  散歩できれば  


 
心を  生きれれば





* ・・= 愛。
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感覚は環境に心は知に支配されるについて [支配]

見るということを、時においてくり返し同じことを書いて 

きたが、どうしても理解されているとは思えなくて、また 

書くためにどう工夫しようか、と考えたりする。 

道元などを読むと、彼が仏教哲学の肝のような中心概念 

を見据えているのがわかる。生半可の考察である書き方を 

していないからだ。 しかし、どうもそれについて道元ものを 

書いた評論というものは、そこに肝に達しているかどうかは、 

まず達していないことがわかる。 禅、ということになるの  

だろうが、この禅問答が頓智じみていて海外でその飛躍した 

センスが人気が出たのだろう、それが疑似的な悟りの代表 

みたいになってしまった感がある。  

道元の仏教哲学観は見事なもので、それはよく整えられた 

哲学のようにも読むことができる。そして、多くがそれをそう 

読んでしまっているのだ。それは一般論でこういう考えだと 

言っているようなもので、そこに肝があるのなら、それをどう 

表現するかで言い方に工夫をせざるを得ない。だから、その 

意味では道元が実際に悟った人かどうだったかというのは、 

わからないことだ。わからないとなっていなければ、道元を 

どう読むことも可能だろう。ブッダが知恵の人だったので、そこら  

辺りは仏教では実にあいまいである。そうならざるを得ないからだ。 

好き好んで難解を標榜したり、装ったりしているわけではない。 

その点で、美を例に挙げて、見ることを説いた小林(英雄)は 

適切だったと思う。  見ているものが、コップはコップに見えて  

薬缶はヤカンに見えているのではだめなのだ。これを聞いて 

え?なんでと思ったのなら、あなたはまだ「見える」ということ  

を実経験していないのだ。その時が来るまで、それはなんのことか 

わからない。が、一度その一般的にただ見る、ということが突破 

されると、一瞬で理解する。ああ、見えていなかった、と。  

人情でも、自分が親になると、初めて子への愛情がどういうものか 

わかる。人情はその立場になってみればわかりやすいことであるが、 

見るや聴く、肌で感じる、ということは実は言葉にならない肝を 

含んでいるのだが、僕らはそれを見ない。なぜなら、言葉で世界を 

入れ替えてしまう教育ばかりで、なにが肝なのかもわからなくなって 

しまっているからだ。それでも、その人の感受性や、仕事柄直感が 

働いたりして、それぞれその一部分では感じている。むしろ、ノウハウ 

やコツとして獲得したり、覚えているかもしれない。 それも脳で処理 

しているという意味で、見えていないのだ。  

僕らはものを見続けていると、自然にそれを認識しづらくなる。時には 

見ているモノだけがそこに中心でだけ見えて、その周囲が真っ黒に 

なったりする。集中してみていると、これは自然に起こる。例えば 

浮き出て3Dで立体的に見えるようにデザインされた図があるが、 

あれは眼の焦点距離を変えることで、浮き出て見える。そして、 

焦点距離を変えたまま、今までの世界を見ると、狂ったデッサンを 

見ているように見えるので、慌てて焦点をもとに戻す。 

それは形を変えた例だが、そのように実際には僕らは見ているものは 

一方通行で融通性のない日常視点で見るのに慣れ切ってしまっている。 

だから、なにかに美を発見してそういう絵ばかりを死ぬまで描き続ける 

という行為がわからない。そういう画家は実際にいたわけだから、残された 

絵画がその画家がその美を見続けたという証拠なのだが、現代絵画は 

子供のイタズラ描きに見える。つまり、そう見えるのは僕らがそこに美を 

発見できない証左なのだが、僕らはそこで自分が「見えていない」とは 

とてもとても認めることはない。一瞬、それが通過するかもしれないが、 

気に留めることはない。それが気にかかる人だけがその世界に入って 

ゆく。これは感情的な解釈で、どの絵が好きかとか、どの音楽が好きか 

という選別とは、まったく違うことを言っている。 

そこでは肝の発見というものにおいては、一般論という分野は存在して 

いない。それは人々が陥るところの社交術のようなものだ。  

「君の言っているのは一般論に過ぎない」という批判は暗に、君はわかって 

いないと言い表すようなものだが、それはとても失礼になると知っている。 

論は思考に属し、思考は知のものだ。知には自分と同じく、プライドが 

強く働く。頭から否定・批判したら、相手のプライドが傷つくのを知っている 

から、論理的な物言いになる。 

僕らがそういう社交術を気にしては、肝を発見するのは覚束ないだろう。 

自分で出会った、また発見した肝は人生の中心を占めるようになる。 

わかればわかるほど、わからなくなるからだ。

見るのも、初めは見れば見るほど見える気がするが、次第に見るほどに 

見えなくなってくる。「それ」に達するまでは。 

狼と一時生活を共にしていた子供は、人間になれなかった。自分の思春期 

もわからず、単語も数語しか覚えられず、夜の森のかすかな物音には 

非常に敏感に反応して唸ったりしたが、近くで銃を発砲しても聞こえなかった 

らしく、反応なしで平気だったという。 

今でもアフリカの原住民は2㎞の先の動物が見えるが、遠くを見ることを 

忘れてしまった僕らは、1㎞先でも見分けられないだろう。僕らは無限の 

可能性とか言いながら、非常に狭い範囲でのものごとにしか反応しない 

ような生活に追いやられている。それは感覚器官の事実だけを言って 

いるのではなく、心の夢や自由においても、平等とか平和、愛についても  

その在り方について、わからなくなるまでに、わかっていない。 

見えていない。  



*知は素晴らしいと、僕は思う。僕が気に入らないのは、現代は 

知だけが優先され、知だけが脅威になっていた。そして、自然の 

脅威がやってきた。が、そのコロナ後でさえ知で、AIやITで解決を 

図ろうとしているくらいに、頭まで偏向してしまっている。その 

傾向が顕著であり過ぎる。 

札束で腹は満たせないと、書いたことがあるが、数日はそれでも 

食えるだろう。煮炊きの燃焼材料にはなる。だが、電子マネーは 

まったく食えない。 電気や電波を利用したのは知の文明だが、 

そもそも電気や電波は自然のものだ。そして、その性質には 

詳しくなったが、電気はそもそも何?電波は何?光は何?という肝は 

そもそもなにもわかっていない。わからないものは、肝だから、わから  

ないものなのだ。

電気は電気だ。それはこうだ。言葉でわかるわけがない。電池の実験 

などで小さく感電して、指を少し火傷した時に知るだろう、電気はあの 

「ビリッ」だ、と。それこそが肝だ。ウナギの肝の話じゃない。 

その「ビリッ」の向こうのどこから来るのか、子供が想像するようなら、 

そのうちに電気の正体も明かされる日が来るかもしれない。 
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しあわせも 自由も [自由]

わからないよね  これから先、なんて  

先のことって  ほんとうの意味で  

それは  心配で 気を使って  考えてみる、という  

ことだけれど  

その意味では  実に  一度も 記憶がない  

大昔には  考えただろう、という  それは確実に  

当たっているだろうけれど   

今、言っているのは  そのことじゃない  

将来くらいに  近い未来が あるってことは  

わかる  

そのくらいのもんだ  気がつくのは  

どんな行動を 起こせば どうなるだろう、 という 

想像は  働かせるけれど  

それは  

わからない未来に  不安を探すような もんじゃない  

川に 笹舟を  流したら   どこへ行くのか  

ふつうに  気になるじゃない?  

算数の問題に  答えを出したら  

正解と 合っているのか、 気になるじゃない?  

それと  同じ。  


今を  今と  今だけ  呼吸する  


それを  他の わかりやすい言葉で  言い換えられる  

けれども  そうではない  それに 抵抗する  

それでは  言葉の持っている  長年のイメージに  

流されてしまうから  

ふつうに  知識の意味で  受け取られれば  

気にならない  気がつかれない  心に  

なにも  残らない  


今を  今と  今だけ  呼吸する   

それが  大事だ  

そうした 空気の中に いさえすれば 

そう言えば、 、  、  

これから先も  あったな、  と 気がつくくらい  

そんなもんで  いいのだ  

先(将来)って ものも  あったのだな、と  


この呼吸を  頭の脳の働きに  持っていかれては  

空気が  無駄、  呼吸が 無駄、   

それは  今ある その生命という  ボディが 無駄  

それは  しあわせの  まんなかで  笑っているのが  

見えるかい?  

その 笑顔の エッセンスが  

見えるかい?

その  まんなか(本体)を   感じるかい?  

イッソ  チャイルディ  

ユーディン  ノウ?  

蛍が 大きく 一回転するの、  

見たことないなぁ  

子供たちが  逆さになって  天井で  

遊んでいるのって  、 

見たことないなぁ  

僕が  いるのは  

そういうところ  らしい  

そういう気分が  いろんな  楽しいことを  

浮かび 上がらさせる  

しあわせって  まず  最初に  

しあわせに  ならないと  

自由って  なろうとすること じゃなくて  

まず  

最初に 君が  自由な気分であること  

自在な  気持ちである  そこから  

湧いて  やがて  あふれ出して  くる  

そう思うんじゃ なくて  

そうなっている ・ もの



今を 今と  今だけと  呼吸する  

この  聖なる?  動き  

それは  粋がっている けれども  

そうしたいくらい  清なるもの  

清なる ムーブメント  

ここにある 

僕が  両手を  広げている ・ もの   

受け止め る よ  

その  すべてを  

見えないばかりでなく  

感じも しない  <それ> を  

フィーリングを  超え  


サンダル 履いて  

カッコン  カッコン  

森を  歩いても  いいだろうか?  

音に  引かれて   カレラ は  

眼を  覚ますだろうか?  

僕の  後ろを  何だろう ? と  

つけて 来るだろうか  

バラード  ベラスケス  バランドン  

お金を  払う  ふりをしたほう が

いいだろうか?  ホンマに?  



叫ぶ  風が  

崖の下から  吹きあげて  来るように  

しぶきは  気持ち いいよ  

海の  しぶき   水面下は  

ぜんぶ  海水  の  匂いに  

満たされ  息も  できないくらいの   

遠い 暗がりに  光が  ユラ ユラ  

なにも 持たない  裸の ボディ  

君は  指さして  

すべてを     と 言う  

僕は   生まれる瞬間の  ように  

”わかる”   他の 言い方はない  

僕は  それを  受けない  

それはない、  僕は  

それになる !  (急に)

僕は  = すべて  という・ものに  

な ・ る  

それを  理解、  グム、 納得するよ    

すると、  言っていい だろうか?  

概念の ものではなく、  

この 世界というものが   始まる 。。。  



こう言ってくれ、  「たぶん(笑)」 、と  

これ以上、この秘密を  明かしてはいけない、と  

カレラ が  言っているが  

構うもんか、  でも  僕にも  

それは まぶしくて  見えない   

言えるはずが  ない、  ないじゃん  

ダーカシス? な 古典  ジャズ、  プレイ  

これは  夢なの  だろう   

とめどない  果てしなく 広がる  

そう言って  いいだろう  

可能性という  狭い言葉が  好きかも 

しれない  

ウェイターに  一度  注文してくれ  

「 可能性を ! 」 と   メッス・  YOU  

 チャレンジを !  と   

それが なにかわかる 必要はない  

それこそが  ”なにか” である、 のだから  

それこそが!  それこそが!  それこそが!  

<!>が  三つも  ついてしまったよ (笑)
 


君にも  カレラにも   しあわせを !  

それは  言葉だけかい?  

そうなればという お互いへの 希望からの  

むなしい 言葉かい?  

知ってた?  

戦争がなければ  平和があるのか  

影がなければ  光だけなら  

平和なのか  

すべてが  光なら  まぶしくて  

平和も 見えないのじゃ?  

戦争を望む  一握りの者たちは  

自由でも  しあわせでも  ない  

その理解にまでは  遠いけれども  

まず  

最初から  しあわせでないと  

最初から  自由でないと  

そこからの 出発した 理解でないと 

正しい 理解には  遠い  

そこからの  検討を  試してみないと  

子供の  しあわせは   遠い  

フリーな  自在感(ハンドル)は  もっと 遠い  


僕らの  目の前は  そのままなんだ  

答えは  目の前に  ある、  いつも 

いつも。

僕らは  区別して 分析して  

わ(分)かろうとする  

君が  自分の赤ん坊を  冬でも  

死なせないで  裸で  育てると  

子供は 風邪を  まったく ひかなくなる  

雪の日も  寒さを  感じない  

その時、君が  子を心配すると  

子は  寒さを感じてしまう  

その察知力は  鋭い  

君が  まず  冬でも裸で  平気だと  

信じていないと  子は  死んでしまう  

親は  「そのもの」 で  「そのまま」 と  

子は  すでに 知っている  同じ意識を持とうと する  

育て方は  必要だが、 狭い範囲のもので  

ほんとうは  子の(自然の)方が  知っている  


そのことが  僕らは  理解できないように  

自分の眼を  耳を  肌を  改造して  

きている   長い訓練に よって  

この 無意識に 気づくことは   ない  

その 全体は   結局  

不幸せに  甘んじるほうが  楽だから  

周りに 迷惑を かけないと  信じるから  

長い訓練に  よって  

親の 愛情によって  

お互いの  中途な 友情によって  

言葉という 通じ合えるモラルに  

相手にも  納得してもらえるのを  

期待するし  知っているから  

そりゃ  子供の  しあわせはないし  

自由も  夢、 夢、  だ よ ね  

僕らは  区切れない  秩序や  自由の  

境界、その限界を 求めて  苦しむ  

定義や意味を 求めて   悩んでいる 

不思議だよね  とっても  


この先、 なんてないのに  

そんな考えもあるんだ、  と  

ちょっと 思い出して  そんな感じのものも  

あったな、 と  

気づいてみるが  まだ  明日とか  未来という  

それは  思いつくのに  

少し、 間が あった よ  



せつないって  あったかいよ ね  

悲しいって  すぐには  移れないな  

今は  

そう  

これは  しあわせ  

変だな ?  

どうして  皆  しあわせじゃ  ないんだろう?  

誰かが いないと  すきま風が 吹くのは  

自分ばかりしか  いないからじゃない?  

誰も  単体に  ひとりに ならない  

誰も 現実には  拠りどころがない、と  

知らないようだ  

ひとりになれるのに  自分は 自分と  

結びついて 孤独を感じ  理由を探そうとする  

理由?  

それが わかれば 半分は解決するが  

それは 自分の隠れた 分身が  

君には  明かさないものだ  

この世に あふれている  

「人は ひとりでは 生きられない」という  呪文  

それは究極の意味であって  

僕らの 日常や  通常の精神状態では  

正しくない    だが、  

それは 自分によって  隠されている  

実に  巧妙に  

もう  

何十年も前に  何度も

言われた、  僕に  

「説明できる言葉というものは、ここまでだから」 と  

確かに  

でも  続けたんだ  

この 見えない「言葉にはならない」 壁が  

相変わらず  目の前であった けれども  

負けたくないよね    それが  

たとえ  不可能でも  

それは 「不可能」 も  僕らが教え込まれた  

言葉に  過ぎないから  

僕らは  遥かに 

ハルカニ ( 大昔ははるかに気が遠くなる )

言葉を  知る前 から   

ハルカニ ( 大昔ははるかに気が遠くなる )

その 始めから

心は  あったし  

生きていた   

ハルカニ  



よね  !?

よね   !? 


グ フフ フ  



よね  。。。  








* サメについては三つ話があるが、そのひとつ。  

 サメが群れで入り江に集まる海がある。そこの漁師で若者が  

 そのサメの群れに飛び込むというパフォーマンスをするらしい。 

 サメは水しぶき(音)があると、エサと勘違いして食いつくらしい。

 サメは目が悪い。音と匂いで2km先のことを知るという。水しぶき 

 は空腹時なら、その通りなのかもしれないが、腹、満ちていれば 

 見向きもしないだろう。そこで、飛び込む若者は、今、サメが空腹 

 かどうかを見分けている。どうやっているか知らないが、それが 

 できなければ、サメの中に飛び込むのは自殺行為だ。  

 観光客は驚く。サメの知識は乏しいからだ。地元の漁師は 

 命を張っているから、サメが今どういう腹具合かわかるように 

 なったのだろう。サメはいつも目の前にいた。 

 それがわかっても予想だから、初めに飛び込んでみせた奴は 

 英雄だろう。または、バカ勇気だろう。僕のように(笑)。 8. 3 - 4 



** 8. 4 
 追加: 

子供は天真爛漫さの面があるが、それは誰にも教わっていない。 

「最初から」というのは、そういう意味で、それを僕らは最初から 

しあわせに”なる”とか、最初から自由に”なる”と取り違えてしまって、 

最初から自由になれるなら、自由になりたいとは思わない、と考える。 

そこから、勘違いしていること。 

僕らがしあわせであるのは、意志強く”なろう”とするからじゃなくて、 

しあわせであるという元々に気づくことが必要で、皆、それは気づいて 

いなくてもそうしている。子供はそのヒントでもあり、答えでもある、 

ということなんだが ・・・。
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暑でもある圧、開放へ [開放]

まったくの夏バテである。 

体から心までぐったりしている。 気休めも言えないほどに 

コロナと熱中症からの圧に、夏の30℃越え、もう35℃越えか、圧が  

半端ない。母が冷房が嫌いだったが、レストランに入るのも避けて 

いたほど体に障ったらしい。亡くなる年には睡眠薬を40年も飲んで 

いたと聞いたが、それも体が普通ではなくなった遠因かもしれない。 

それでか、僕もどちらかというと、冷え性気味だ。冷房が嫌いで 

はないが、やはり長く冷やす環境にいると体の不調を感じる。 

それでだろう、よく寝るのだが、早朝、昼までとか、夕方知らず寝とか、 

不意に寝るとか、一日でここで寝るという時間帯がない。 

そういう生活には慣れたつもりでも、体は対応しきれないようだ。 

10日前には立ちくらみがして、どうも熱中症になる手前だったらしい。 

心もそれらのストレスだろう、急に絶不調になったりする。 が、心は 

これまでの経験から如何ようにでもなる。ここまでで突き当りがわかる 

から、そこからは進めないと、進まないで待つ。その時が来るか、時々 

チェックするだけだ。他のことをしてもいいし、その状況をつかめば、 

悩む場面にはそうそう遭遇しない。むしろ、悩みたいくらいの気分だが、 

そういう自在も、やはりそのうちに限界が来るだろうという、小さな予感 

はある。体の老化は避けられないし、そこからは予想もしない形で 

心の劣化が忍び込んできたからだ。これも友人という反面教師が 

いなければ、気づかなかっただろう。 一人で考えていても、自分の 

進化・退化には気づけない。  

なんにしても、この夏の特別な圧にはまいっている。 

休みに入って、ブログをすぐに書きたくなるのではないかと思ったが、 

反対に書かなくて、楽だと思った。6日も経っているので、いつもなら 

4-6本は溜まるのだが、一つもまともに書いていない。 

休みも延長して9月中旬までにしたほうがいいのでは、とも思ったり 

する。が、秋の気は外気の温度のことだけではなく、体の内奥で 

感じることができる。 

コロナは今、混乱している。それは当然の話で、コロナウィルスが 

変異・進化するので世界で都市封鎖をした場所では、そこで独自に 

変異する。武漢ウィルスは欧州ウィルスに変異し、それが来た日本は 

政府の中途な対策で無症状の感染者を野放しにして検査を怠った 

ので日本型ウィルスに変身させてしまった。ということで、世界から 

報告されたウィルスの後遺症とかなんだかわからない副作用とかが 

果たして日本でも起きるかどうかは、まったくわからない。未知数の 

状態なのだ。コロナは一民族(種類)ではない。 

だから、まだまだ混乱は続くだろう。ニュージーランドと台湾は実に 

対応が早かった。NJでは感染者一例目で重点的な場所を封鎖、 

店を自粛させてしまった。  一例目である。 

マスコミは日本と人口も体制も違うので、同じにはできないと言って 

いるがそれは違う。基本は一緒で、徹底的な検査で感染者を把握 

することだ。政府は未だに重症者や死者が増加しないことにあぐらを 

かいて、まだ高齢者の命を担保に経済の賭けを継続するつもりだ。  

豪雨に、熱中症に、コロナに、倒産。 

こんなことは言いたくないが、これで本当にあとは過ぎればいい、という 

時間の問題で終わるだろうか、と不吉な注意だが、喚起しておきたい。 

僕の休みの間の悪寒が気まぐれな杞憂であれば、それでいいのだ。 

・・ -ということで。


そうだ  

こういう時に  君の歌が  聞こえてくる  

それは  なぜか    遠ざかる 

新しい  知の限界とは  

こういう風に  聴こえている  

誰かが  戻ってくる  

僕の 姿が  ・・  

知らない人 のように   見えるが  

僕の 鼻の形を   なびかせている  

見知らぬ人では   なかったが  

懐かしい人でも  なかった  

彼は  僕の姿で  

どこへ行く のだろう  

僕の 名前を  言ってくれ  

知らない 名前を  呼ぶことはできない  

そのとおりだ  

僕は  以前にもあった  間違いを  

くり返したようだ  

クールに  ならなければ  

フールに  装わねば  

ピアノの  鍵盤も  叩けない  

少しの間だけ  日本人であった  

そんな 軍部の 記憶があったり する  

終戦記念の  影響だろう  

どこかへ 行けると思って いたが  

ここが  戦略基地に  見える  

知の  開放図だといっても  解放されない  

囲いが  テリトリーで  籠の鳥は  

自分 なのだから  

どうやって  ここに 網の目を  張ったのか  

もうちょっと  角に坐って  考えてみるが  

なにを どうすれば  この 網の目を  

巧みな 開放的に 張られた  戦略図を  

破壊できるだろう?  

高い崖から  海を  眺めたい  

この世界と  この世界に ぴったり 

組み合わされた  リアルと  見分けられない  

頭は  狭くなった ね 

それで 世界も  狭まった ね 

この世界を   もう一度  生かしたい んなら 

それは  もう一度  生きること  

だから  

その考えから  離れよう  

その見解を  捨てて  

ただ  見ることを  もう一度  

学んで みよう  

耳を  そばだてて  

息を  殺して  


君 ?  そこに  いる ? 

僕は  

知らない人と  遊ぶ よ  

見たこともない ものが   あるから  

この ドアの 枠は  

四角だと 思っていた  

でも  今は  枠というものが  

感じられる  

この 感覚   日常の ・・  

ゴッホは  この感覚に  入り過ぎた  

そういうこと ・・なのだな  

僕らは  狂気を  避けられるように  

僕も そうだが  

知の 覆いが  その隙間から 

それを  気づかせるのだ  

生活は  言葉で 満たされやすい  

生活は  時間で  見失いやすい  

僕は  いつも   

どこかへ  行こうとしている  

自分が  まず 新天地にならなければ  

ああ  どこにも  そんなものはない  

僕らの  出会いが  くり返したことはない   

いつも  思うのは  

あの時が  最高だったと  述懐するのだ  

僕らが  それに 出会うのは  

すでに  僕らが  そうであるからだ  

世界平和が むなしいのは  

僕らが  むなしく  心の準備が  なされていないから  

それを  始めるとは  

それを  始めるとは  

それが  始まるのは・・  

僕らが  すでに  それであるから  


< 求めるのではなくて >  




: それを 

信じれるのは  ・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・



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休むについて思うこと [休日]

< 8月16日まで、ブログ、 休載する予定 >


家の中で木の階段だが、直射日光は当たらない。 

素足で歩くが、その階段が熱くなっている。これはかなり 

ヤバいことになっている。去年、現在のコロナの死者よりも 

多い1200人以上が熱中症で亡くなるのもわかる。一昨年は 

一番多い死者数で1500人が亡くなっている。

高齢者は家の中で熱中症になるのだろう。 

家では僕がコロナの予想をまくしたてるので、妻には 

嫌がられている(笑)。大まかにはすべて当たるが、その 

時期はすべて外している。だから、予想は当てにならない。 

6月下旬といった、日本の場合のコロナ第1波終わりと2波の 

始まりは1か月以上ズレたし、東京400-500人と予想した 

6日前も4日先にズレた。

ところが、コロナウィルスはともかく変異しやすく、14,15日で 

新型に変異するとか(怪)。今、東京で感染が広がっている  

ウィルスは欧州型ではなく、変異したものが流行していて、その 

時期は6月中旬だったという発表がされているが、つまりは  

よくわかっていない、ということだ。わかるのは、多少毒性が  

弱まった代わりに、感染力が増した、ということだろう。  

夏になってもウィルスは収まらないとなった以上、コロナにも  

熱中症にも十分な対策を継続して臨まなければならないだろう。 

熱中症も発見が遅いと嚥下(飲み込む動作)ができなくなる、 

言葉がしっかり発音できなくなる、などする。それが僕の  

まだ熱中症が今ほど有名ではなかったころ、母が起こした  

症状だった。リハビリもむなしく、2年で亡くなった。  76歳 

だった、やはり高齢者は危険な30度を越える夏だ。



ふつうなら、お盆だが、今年は帰省もままならず、僕らの 

行事も変異を余儀なくされている。夜も暑くて、深い睡眠が 

得られず、不快だ。 

僕は帰省するところもなく、その考えもないが、休みだけ  

取ろうと思う。8月の16日までブログを休載にしようと思う。 

と思ってはいるのだが、今までの経験では、まず書いている。 

そして、溜まってしまうのだ。今度は無理にでも書かないようにと  

考えても、自分に関してはあまりにも僕は頼りない。  

それはこちらの都合なので、気にする必要もない。  


できることするのは楽しい。ちょっと前までは、数年前?、できること 

は自分でわかっていると思っていた。しかし、できると思ったことが 

意外にうまくいかない。すべての方向に経験を積んでいるのではない 

ので、自分でわかったつもりになっていて、思ったようにはならない 

のだ。それを学ぶと、知人の障害とも兼ねて考え併せて、結果を 

出して、物事をなすのに、微妙な恐れも抱くことはなくなった。 

今できないことを知ったら、少し後戻りして、それをもっと確実に 

自分のできることを始めればいいのだ。なにかやりながらでも、 

ともかくできなかったことに結びつく方向にある、「自分に(真に) 

できること」を片手間でも、何かと一緒でもいいのだ。小局や戦術、  

技術が得意ならそれをやりながら、大局、戦略、大いなる直感に  

たどり着くように、小さいことを大切にする。自分には無理なんだ、 

と思ったことも、いつかは崩れる時が、自然にわかる。 

百あるなら、一個ずつ潰していけばいいだけの話だ。 

今までやれたのなら、技術でいい、戦術でいい、知だけでいい、 

それをやりながら遠巻きに学んでゆく。 僕は今でも結局 

できるのにできないという、神経的におかしなことに苦しめられる 

よりも、今の歩みがそこをいつか突破するはずだ、というほうに賭ける。 

それはそうだろうかと、検討することじゃない、今、やっているか、 

いないか、だけに収まる。だから、僕は始めて、開始して、もう 

それを考えない。 

障害のある人は99%、50年も100年もかかるかもしれない。 

それに比べて、僕らはどんぐりの背比べとはいえ、まともだ。 

彼らよりも200%、1000%(10倍)、楽だ。それをあきらめるのは、  

贅沢の極みだ。

また、逆に毎日続けていることがあって、それを1日でも止めてしまう 

のは、そこで挫折して続けられないとかで不安を抱くなら、それは 

毎日続けている新鮮な力を失っている。それはもう、すでに不自由な  

ことだ。自分の中に不自由さを囲っている。こだわりになっている。  

見直した方がいいのでは? 生活はリズムだから。酒だって、

休肝日といって、体を休ませるのがいい、と。 心も同じ、よ。



僕はただ、休みが増えるという幻想を抱くだけかもしれないが、 

それは不快ではないので、一応、その予定でよし、としよう。 

僕がこんなにも自分の予定が下手で自信がないのは、たぶん、 

自分を越えてより多くのことを感じやすいからなのだと、・・

それは無意識についての意見になり、長くなるので今は、・・  

ということで。                                                         8 . 8


*自分でできると思っていたことができなかったのを経験するのは、  

誰でもあるだろう。僕も昔と言えるくらいに経験したが、この年に  

なってもやはり、これは絶望的だ、と自分の判断でそれは無理だと 

思った。でも、2週間くらい突きつめてみると、と言ってもその間 

考えたのではなくて、その無理だという判断(自分)に向き合った 

のだ、黙したまま。 

そうしてやっとのことで、それを見つけた。答えは、その判断がやはり 

想定内だということだ。今でも気持ちは「無理だ」と思っている。が、 

突破口を見つける可能性がない、と決定できるほどには不可能という 

ことではない、ことだ。まだあきらめないでいい範疇だ、という。 

たぶん、それを想定外と認めることが必要になる。ここで自分の 

判断に逆らうという芸当が必要になる。これは気持ちも含めて、 

精神的にプライドが関わるので、難しい。まだ実行段階にまでは  

進んでいないが、夏の終わりにはその糸口をつかもうと、思う。 

なんにしても、いつでも自分は正しい判断をする、という誤謬は 

心に忍び込み、棲みついているものだ。ほんのわずかに「違うの 

ではないか」という自分もいるのに気づく。無視してもいいくらいだが、  

時にはそれが正しい少数意見になる。歳を重ねるほど、次第に 

自分のパターンが出来上がり、それが心を固執化してゆく。  

これはこの妖怪に気がつくことをいつも学ぶのが、心身の老化から  

少し遠ざかることなのだろう。 



**僕はよく寝る。夜暑くてクーラーをタイムセットして寝るが、寒くて 

切ってしまう。うつうつとして満足しないのだろう、昼間でも、夕方でも、 

ちょっと考えをしよう、と思ったら、もう寝ている。深夜は寝られなくても、 

2時間は横になっている。 

睡眠というのは夢に入ってなにか自分を満足させる深さにたどり着く 

ことじゃないか、と思う時がある。眠くて昼寝なり、夕寝なりした後は 

食後のように、満足感があるからだ。
                                   8 . 9
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君らは黄昏れる [黄昏]

若さに 抱かれて  

その 素晴らしき世界に  飛んでみるが  

もう 早いと  思うのだが  

きれいな 青色の  空しさが   透きとおってる 

そして  中空に  張りついてしまう  

これは  もう 僕が  思い出さないもの  だな  

君らは  どこにも  まだ 行く場所が  決まっていない  

それは  独特な  オリジナルの  キャンディー  

ねぇ  見届けてほしい   なにもない  地平線  

君らの歌は  どんどん  電気音に  近くなる  

いろんな 叫び方を   発明する、 よ ね  

その キャラクターの 空間は  簡単に  破れない  

あっという間の  なにか  通ったの?  

30にも なると  もう  にせものの  黄昏(たそが)れる  

狂ってみたいと  ほんとに  思うなんて  想う?  

古い 魔法瓶が   過去を 照らすだろうか?  

それでも  通らなければならない道なら  

そんな 道はなくても  

君には  必要なの だろう  

ミ・ル・ラ・イ  パ 

ミ・ル・ラ・イ  パ  

小さな森  その木陰に  その小道に  

雨を  降らせるのも  いいかも  ね  

君は  濡れたい   木漏れ日を 夢見ながら  

君は  しっとり  沈んでしまいたい  

そして  僕に  なにを  知ってほしいの?  

急がずに  なにを  通り抜けようと、  するの?  

暗い 路地に  木の看板が  揺れているよ  

その奥に  光が  あるの?  

その ギガの  なにが  ニード ?  

ソノ  機械の  なにか  妊婦 ?  

初めてだよね   その  

30 に  なったの、  メリケンとか  

学校の  金網が  続いていたよね  

曇り空が  ゆっくりと  落ちてきて  

Nothing だね   

ん~  Nothing  I  Knew  

Nothing  だね  

I Knew  ユー   ユ~  だね  

苦しめたり  してないよ  

声が  可愛くなってきた  じゃないか  



黄昏(たそが)れて  



黄昏(たそが)れて 



少年  少女  王朝   黄昏(たそが)れて  

君らは  そうだね  

家庭が  忙しくなってくるのかな?  

子供が  高学年に なろうと  

もう  30じゃ  いられなくなるん だ ね  

生活は  君らのどんな  キャラクターなのか  

まだ  そういう  発想で いられる?  

どんな 名前を 探して  どんな  古い  

フィルムを  観るのか   Many   So



少しは  飽きるのかもしれないね  

それなりにやって  それなりに 得られたと  思う  

それなりの 後悔と  それでよかったと  

また 思う日々  

8月に なったら  なにかに  別れようと  

そんな自分が  いるのを  見つめる  

そんな 自分も  いないのを  知っている  

君らは  どこにも まだ  行く場所が  決まっていない  

さあ  もう 初めての  40が   始まっている  

フ~ ウウウウ  

若いと  思っていたのに  

若いと  知らないのに   

そう思う   そんな余裕もない  

ザ、 アアアイ  



黄昏(たそが)れて 


黄昏(たそが)れて 



君らは  どこにも まだ  行く場所が  決まっていない  

フ~ ウウウウ 

ザ、 アアアイ 

君らは  どこにも まだ  行く場所が  決まっていない   

若さに 抱かれて  

その 素晴らしき世界に  飛んでみるが  

もう 早いと  思うのだが  

きれいな 青色の  空しさが   透きとおってる 

そして  中空に  張りついてしまう  

これは  もう 君が  思い出さないもの  だな  


ヒ’ズ  L O V E    

ハー’ズ  L O V E 


ねぇ  僕らは  なにを  知ったんだ  


ねぇ  君らは  なにを  知ったんだ  


ヒ’ズ  L O V E    

ハー’ズ  L O V E 


ねぇ  僕らは  なにを  知ったんだ  

ねぇ  君らは  なにを  知ったんだ  



* 若さにはそのエッセンスという秘密がある。  

どこまでそうするか、と どこで止めるか は  

僕らの自由なのだが、 これに気づけないほど  

僕らは 年齢を重ねるのに忙しい。自分でそう 

願い、そうしているのも自覚はできない。 

僕らは学ぶように子供の頃から訓練されて、 

その自由に振り向く暇はないようにしている。 

そして、自分の分野・視野・業界・知識・労働・  

カテゴリからの見える事実を真実と捉える。 

若さはその大きな隙間から、漏れて、落ちて  

しまう。なぜなら、僕らが教わるのは、人は 

必ず死ぬことで、それは今の生活に反する  

ことだし、見て見ぬふりしかできないと考える 

ことだから。それだから、怖いのだ。知ることで 

生きて来たのに、それは知り得ないと教わる。  

例外はない、と教わる。肝心なのは、死を 

精神的な意味で知ることで、ほんとうに知る  

ことでしか、それを否定できない、・・という  

ことを知ることではないのか。知って、それ  

を次には捨ててしまうことが必要、というのも 

あるのだ。それはほんとうに知ったからできる  

ことで僕らは足踏みをしながら、社会の  

必要と不必要を知らず、その現実と幻想を  

知らず、半分しかない協同や絆を信じる。 

僕らが生きるのはそれらの矛盾を同時に  

生きることだろう。どんな知もやがて固まる  

運命を逃れられない。でも僕らは初めての  

20代、30代、40代、がやって来て、それに 

対応するのに手いっぱいで休む暇がない  

のだ。 *



君は  濡れたい   木漏れ日を 夢見ながら  

君は  しっとり  沈んでしまいたい  

そして  僕に  なにを  知ってほしいの?  

急がずに  なにを  通り抜けようと、  するの?  

暗い 路地に  木の看板が  揺れているよ  

その奥に  光が  あるの?  

その ギガの  なにが  ニード ?  

ソノ  機械の  なにか  妊婦 ?  

初めてだよね   その  

30 に  なったの、  メリケンとか  

学校の  金網が  続いていたよね  

曇り空が  ゆっくりと  落ちてきて  

Nothing だね   

ん~  Nothing  I  Knew  

Nothing  だね  
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想定外はまともじゃないってわかるの? [想定外]

「想定外」というと、僕らは想定したことを越えたものと、 

イメージする。それがアウト。ここがポイント、ほんとうに 

想定外なら、「想定外」と規定した時点でそれは想定内 

になるんじゃない?

言葉を弄しているんじゃないんだが。            
                        (7.16 



おお、 さかさまなのよ   ウップ 

まともじゃないのよ  Stay  そこで ! お待ち !  

なんて  言っちゃう  論理の世界が  あったら  

おかしいよね  

ああ、おかあさま !  金ぴかに  飾ってみて  

お目目  なに 見てんのよ  

賠償  Buy Show  売娼  バイバイ!  

確実にある、という ものの ために  

なにが  いるのか?  

それは  僕らが  いることだけが  きっと  

標準に ち ・ が ・ い ・ な ・ い 

でも その標準が  ちがうんだよね  

それが 賠償できないなら  せめて  

覚えてほしい  よ・ ね 

なにも なくて いいんだ と いうこと・ を  


ヘイヘイヘイ  平成  冷静  平常心  

ルッ ルッ ルッー  現代  近代  金目鯛  

なにか  せつない声が  聴きたいなぁ  

僕が 知ってた  白い霧に  隠れてしまう  

君の ように   

まだ 待っていたんだと  自分の心を  

僕が  知ることが   できるように  

ラ  ハーアイ  ル  ローハイ  

帰ってくる  回帰する   霧の中の   

君のよう に  

言って !  

言って !  

もういいよ  



これから  どうなんるんだろう ね  

   ぬ
駅で  待ち合わせ かい ?  

   め
いいよ ね  


浅い  浜辺まで  歩いて いこうか ?  

足が  沈みはじめるまで   波打ち際を  

届くかな   僕らの 想い  

ワクチンの  副作用って  トカ

過去は  賠償できないよ ね 



- - 空飛ぶ  木馬、  トカ。



ね、 これから 

    どうなるん 

           だろう 

                ね 



                  (7.24 
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