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新月の晩に星を眺める [新月]

9.19の過去記事:


星を眺める。 ちょうど夜の外気に誘われたのだ。 以前はよく夜に 

出歩いていたが、ここ近くは外を歩こうという気にはならない。 

もっと以前は、考えてばかりだったので、歩く必要があった。 そのほう 

がたやすく考えが進む気がした。 瞑想も昨日は、坐る気になって 

驚いた。いつから瞑想のために坐らなくなったか、忘れているほど 

瞑想を意識したことがない。 これは無意識との交流が盛んになった 

ことと無関係ではなく、そのパイプがつながったために敢えて、坐る 

必要がなくなったからだと、思っている。 

昨日は、坐りたくなって、坐ってみたが、瞑想が来ることはなく、今夜 

は満月の晩のように外を歩きたくなったが、星を見ただけで家に 

戻った。 夜の街を歩き続けるほどの強い衝動が、今はない。 


自分はわからなくなった。最近の自分は深層心理を探っているよう 

な気分で、少しも自分のことではない気がする。 つまり、新鮮な 

心の追究の頃は、そういう旧来や伝統のものが自分に属して 

いないと、それで自由な感覚があるのだと考えていたが、天皇へ 

の尊厳の気持ちや歴史のあり方に伴って、自分で自分に許容され 

ている範囲内だけでも、自分を知るのは確信になったことであり、 

自分を知るのは確実にできることだと、そう信じていた。 

だが、自分からなにかがその域を越えて広がり始めると、それが 

そのまま自分の歴史という意味不明な巣窟に囚われてしまって、 

歴史がそのあり方という基本が、僕を自分の闇に隠してしまう、 

そういう現象が起きている、と感じるのだ。 

まさか、自分についてもわかればわかるほど、それがわからない 

ものという実体になって、僕の認識が復讐されようとは、思って 

いなかった。それは体の仕組みのことで説明すると、頭と手や足 

とか、次にそれぞれの内臓の役目とか分離させると、体のことが 

よくわかる気になる。が、実際には、頭(脳)は司令塔だという 

イメージが昔はあったが、現在では骨や筋肉、腸などで多くの 

化学物質によるそれぞれのシステムで、筋肉や骨の増加や 

減少を命令しているのは、脳ではないことがわかっている。 

消化されたことから満腹感が左右されるのは、脂肪の働きに 

よるもので、脳が食べた量で満腹を測っているのでもない 

こともわかっている。 体にはホメオタシスで自動的に体の 

体温や血液の成分や、その他の栄養素など多岐にわたって 

一定に保つように常に、そのバランスに向かうように指令が 

飛び交っている。これは体の各器官や各システムが複雑に 

相互に働くことで保たれていることだ。 

それと同じように、心も一応、知性とか感情、感覚、また 

そのコラボ現象で直感や直観、理性、悟性などが働くこと 

はわかっているが、なにがなにして、どれくらいで、どれくらい 

にどうなる、とかは複雑すぎて、わかっていることよりも 

わからないことが多い。そして、正しくはわかればわかるほど、 

わからなくなるばかりだ、という風に答えが変化し続ける。  

僕が祖先の深層心理を掘り起こしているのだとしたら、その 

心理のどこからどこまでが自分なのか、境界が決められない。 

その意味で、僕は自分がわからなくなった、と言ったのだ。 

それは理解しがたいかもしれないが、わかるから言えるのだ。 

「自分とは」そういうことで、説明がますます困難になっている 

が、自分という統一体はわからないものとしてあるほうが都合 

よく、さらに、そうであるからこそ、そのかたまりとして、しっかり 

わかるのだ。 それは認識しているのではなく、知だけではない、 

全体として認識する力に預かっている。 


あなたが好きだという感情を、誰もそれを数字や図形で表現 

しようとしないのは、はじめから直感的にそれが無意味だと 

僕らが”わかっている”からだ。 ただそれを意識的に考えた 

ことがないだけだ。頭でそこまで突き詰めては整理していない 

から、わかっているのにうまく説明できない、というようになる。 

それはその国の文化にもよるが、基本、教育の問題だ。 


それにしても深層心理というのは突つきまわしても無駄になる、 

そういうものだと感慨する。祖先なんて、誰のことだかわから 

ないし、親子でさえ、亡くなってから少しして、はじめて親の 

時代の個人的な話を聞いておけばよかった、と後悔するくらい 

なのだから。それくらい家族でも相手をよく知らないうちに 

別れる。それは、お互いにそれなりにわかり合っているという、

半ば真で、半ば嘘の気持ちがあるからだろう。心の絆が 

生まれるから信頼する。また、そこにお互いの社会的位置、 

立場において、気づかいにしても、知られたくないにしても 

必ず、恋人・友人・夫・妻などとの家庭や仕事・会社との関係性 

で隠したり、強調しすぎたりするので嘘や秘密が生まれる。


今夜は月が見えない。見えない位置にいるのか。それとも、 

そこにあるのに新月なので細くて見えないのだろうか。それは 

ない、と思うのだが ・・。それが両方で真だとしたら、 まるで 

量子力学の世界ではないか。 

それはウィットな話だが、わかっている自分がわからなくなる 

というのは、生活の現実的な話で、僕には事実だ。素粒子の 

ことではない。不思議なのは、僕がそれで途方に暮れたり 

しない、ということだ。寂しいとか、孤独感があるとか、そんな 

気休めのコースではなく、これはどうしようもない、という感じ。 

なんか、この裏側みたいなものがあったとしたら、このわから 

なさの感興から、気を抜いて振り返ったら、僕は世界が 

裏側に替わったとしても、気の迷いだと思い、気づかないの 

ではないだろうか。 

そう思って、夜空に新月を探してみたが、見つからない。 

裏側に替わったのでは、なさそうだ。  





*どうも新月は17日だったらしい。月齢が1,32となっていた。


**9.28現在は微妙に微熱が1分2分、上がり始めている。熱っぽい。

顔が火照る感じ。ゆっくり過ごす。
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風邪をひく [風邪]

風邪をひいたので、1日2日、ブログを延期。 

しかし、それくらいのことで断りはいれないだろう。 

それで断りを入れたら、風邪は治らないだろうが、 

僕に何らかの変化があって、なにかを書くだろうか、 

と気になって、一応、報告を入れてみた。  

少し、顔が熱い気がする。これが風邪薬による、風邪の 

表面化で熱が少し出たのなら、もう少し待って、判断したい。 

ないと思うが、コロナの可能性もわずかにある。  

今日は島から封書が来て、そこに役場からの健康診断の 

連絡と、受診票が同封されていた。10月上旬の集団健診 

のことなので、間に合わない。 


数日前も、新上五島警察からTELが来て、家に居ない 

理由・状況を尋ねられた。担当が替わったらしい。また、 

替わるということではじめから説明した。神奈川は全国で 

2,3位を争うコロナ激戦区だ(?)。お年寄りばかりの 

島の家・郷には危なくて帰れない旨を。 

それでなくとも過疎地は人口の減少が激しい。月に10人は 

亡くなって、生まれる子は数人だ。3万人いた人口は今では 

半分だろう。 一年中できる産業としては、製麺業でうどんだ。 

日本三大うどんのひとつで、「五島うどん」の発祥の地だと。 

千年以上の歴史があるらしい。偶然だが、僕が島に家を持つ 

ようになってから最寄りの駅に「かんころ亭」だったか、上五島町 

のうどん屋ができた。島でも全国配送、配送料も安いと聞いて 

驚いたが、まだ入って食事したことはない。 僕自身はそば派で、 

うどんにはあまり関心がない。 10億円くらい売り上げがある 

そうで、島では一番かもしれない。 

南海汽船だったか、二つあったフェリーの船会社のひとつだが、 

経営者が佐世保のフェリーは撤退してしまった。今では残った 

従業員が結束して、長崎からの高速船だけを運航している。 

一度だけ長崎からの高速船を利用したが、時間をミスして、 

駅から歩いていては間に合わず、少し歩いたのだが、引き返して 

これも偶然、タクシー会社の前に出たので、乗ったら、5分前に 

着いた、と記憶しているが、パンなど買ったので、も少し時間 

に余裕があったのかもしれない。 また、5分もあれば、切符 

だけを買うなら余裕である。 

旅行ではいろいろあっても大抵、間に合う。間に合わなくても 

長崎市で一泊するだけの話だ。 海外で予定なしの陸上移動の 

国境越えを何度もしたので、旅行で困るという心配はまったく 

ない。 日本にいる時はそれだけで、安心が3倍になる。  

今の、微熱っぽさも、神経を休め、楽にしてくれる。  これで 

本が読めるかもしれない。


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まだ見つからない自分の「時」 [自分]

( もう 詩を書くのを  やめようと 思うと 

 あいつが  )

必死に  土から生まれるように  

情念の 泥を  まとって  

ハスキーな くぐもった声で  歌うよ  

モグラじゃ  あるまいに  

誰も  死のうとは  しない  

僕が  こちらの方向に  行こうとすると  

まだ 何か忘れて  残っているかのように  

うめきが  したくて  

あちらの 世界が  マグマのように  

流れだして   

おう  

熱いよ  



ミルクが  冷たく 凍る  部屋の湿度 という  

もう 腐ることのない  空気 と 空間 。

大通りを  大手を振って  歩きたい  

なつかしい  ラピュタの  大工場が  

見上げた 遠くに  黒々と。  

街は  変わってしまった 、  

それでも  広い通りは  広い 舗装道 が 続く 

水道が  クラッシュして  洪水は  あふれる  

土手を 逃げる人で  流される人も  

その飛沫(しぶき)は  夢の中なのだろう  

もの怖い 光景ではなく  

僕らも  緑の 土手を 人々の  

後を   追いかける  

おう  

明るい 陽射し、ね  

生まれたての ように   まぶしくて  

家へ  帰る  ハブ駅を  探しているんだね  

  

そう  ゼンマイを  巻いてるよ  

壊れた 君を  直そうと  

唇の 端に  煙草を   加えて  

インドの 煙に  目を パシパシ  させて  

ああ  このもどかしさ  

どうすれば  どうやったら   どうにも  

じれったい  段取り  

どうすれば  どうやったら  どうにも 

Careen 、   

ならない  



この デジタルな  滴・しずく  

機関車や  蓄音機の   光と レコードが  

Careen 、

飛び交う 

濡れた コットン・シャツを  引き裂いて  

掴まえた  つもりの  滴・しずくが  

アイム  ソーウリー、  

手の中に  ない  ない!  

僕を  教育して  るの?  

歯がゆさを  はぐらかして  るの?  

言って  

言って、  

言って、  言って、  言って  

イッテ よ  



黒い油の 波に   汚れた  海岸の 岩々 

Gan  Gan  イワ   イワ  

ハー  ア  アァァァ  アィ  

ミサイルは  回転して  速度が ギュル ギュルー  

ハー  ア  ラァァァ   ラアィ  

哀しげな  二胡の  世話は  誰が?  

ポ ポ ポ   ポロン  ポロン   

スパイが  歴史を  つくるのを  

やめても   やめても  

チキンフライは  バッドゥ ガイ に  ならない  

全面 B面   全開 旋回   原価 限界  

蘭花  乱火    ラン カルフォーニア  

ねぇ、聴いてる?  サビは  まだだけど  

この渋さは  なんの サラダ  だろう  

  

見せて  

見せて  

見せて、  それを  



言って 

言って 

言って、  まだ 言えない  

その 悔しさ  を  

Bit、  You、 

その 思いやり を  

    別に   

子犬を  ドブに 蹴落とす  

悲惨さじゃ  あるまいに  



そうして  感情は  

黄泉がえる よ  

「私は  

 はじめて  

 愛を     知りました」  

それが  

君の  なんだったのか  

知らないまま  

時に  呑み込まれ  

それを  美しい 

旋律の  所為に  す る  

A N S E R  は 

i love you じゃない  



ああ  とか  

おう、 とか  

言うのも  かったるいよ  

君が  あれだよ、  あの  

銀河系の  縁まで  飛び出せたと しても  

愛は  遠いままだとは  

想像も しないだろう  

それも ほんとうだし、  

一瞬の  それが  ここに 

あるのも   真のこと、だろう  

一瞬のものが  君に  

とどまるだろうか?  

あるけど  ない  

ないけれど  あるというのは  かくも  

悩ましい、 ・・か  

ピンと 来ない、 ・・か 



君は  愛を 感じ  

愛を  見るのに  



僕は  それを  

与えられない  

そんな必要もなく  

目の前に  あるから  



・は 愛を  感じ 

愛に あるのに  



そのあり方が   

悩ましい、  ・・か 

威厳を前 に  引いてしまうか  

恐れ?  

自分は  いつから  

そうやって  

ひれ伏すように  

なったのか ?  

誰が  君に  

罪を  与えたのか ?  



そう 考えるのは よそう  

やめよう  

それは 君が  このリアルの  

上に  隠すように  こさえた  

雰囲気は  最悪の  コスチューム・プレイ (仮装)

愛は すぐ 感じても  

勝手に 現実を  構築(仮想)してしまう  

そういう 無意識な自分 を 防げない  

「自分」を 崇めることと  

神を 崇めることが  まったく  

同じと   見えなければ  

愛は  存在しない も  同じ  

すでに  死んでいる  



森の中で  暮らすと  

まるで  キャンプ状態  

洗濯したものを  広場を走って  

ロープに  乾かしに  

太陽が  ある時、  それは そうだ  

この時、 だ 

空気が ある時、  それは そうだ  

この時、 だ  

そこから 派生する  枝葉は  

水であり、    光の反射であり、  

体の 動脈であり、   草の、動物の、 

僕らの 呼吸であり、  青空であり、  

雲であり、  朝であり、  夜であり、  

星であり、  雨であり、  雪であり、  

嵐であり、  僕らの 顔や、腕や、腹や 

皮膚に あたり、  通り抜けてゆく  

風、  だ。  

この時 が  十全に  感覚されるなら  

それは  そうだ  

愛を  生産する、 その時だ  

言わなくても  それは  多くの先達が  

僕に  語っている  

言葉ではなく、 まるで  

動物の  声のように  

それは  野生の 響きが    する  

それは  内奥の  声と  

呼び合う から  





*今晩、 ゴキブリを 窒息させて ティシューに 

包んで  潰した。 僕は  ブッダのように  

蟻を 踏まないように その命を気づかって  

歩いたりは しない。 

それが 殺し合いの 始まりでないのは  

あまりに  当たり前なのだが、 当て嵌まらない   

思考= 「 善悪で 判断しようと」 =して  

それが 悪だと思う 人の  多いことか。  

それは どこまで行っても  基本で  

微妙で雑多な この世の 複雑な問題は   

それで 済ましているから 自分は   

二者択一の 考えは していない、 という 

人(僕ら)なのだ。

雨が 降る。 濡れるのが 嫌なので  隠れる。  

雨に  濡れ切った時、 心まで  グショグショに 

なってみると 突然、雨に濡れていない 感覚に 

襲われる。  

もう いくら濡れても 同じ、 かまわない!  

濡れている感じが しない。 雨は  苦しみ、 

悲しみで 濡れるのは  その中に  飛び込んで 

しまうこと。  

断食でもある、 はじめは  食べ物が  頭から 

離れない。 昼も、夜も、  食いたいだけ。  

突然、 食わなくても いい、という感覚が  

訪れる。 それは 一時期の感覚 でしかないが  

体験することが  すべて、 という 重要なファクター

外国人が  日本人よりも  日本の美に 気がつく 

ように、  比較文化が  なければ ならない。  

生活を 照らす 比較文化は  死活だろう。 

それは 自分と知、という プライドが 防衛本能 

とやらで ストップしている。 

嫌なことは 見ない、が自然と  見なされている。  

だから、言葉と知 ばかりで  金メダルもないのに  

長く続く つらいことは  しない。  


僕らの歴史が  必ず、理性的な進行を してこなかった 

その原因の 底にある根本は  そのことにかかって  

いる。   僕らは産業革命を  大きな分岐点として  

仮想と リアルに  生活の現実を 二つに 引き離し  

続けている。 僕らは 決して  死を見つめることは  

しない。 自然状態の、生の中に死があり、  死の中に 

生があるのを  見逃し続ける。  体験談などで 

それは 経典も同じで、 言葉で 解決を図ろうと する。 

仮想に生き、 リアルから 遠ざかる。 この時代も、 

次の時代も。  スピリチュアルな人の  言動は 

「わかりやすいから」  その観念世界を  歓迎する。 

それが (自ら) 生と  死とを  分離させていることに  

自らも  気づけない。

その乖離が  僕らの精神の  混濁・ 混乱・ 混沌を 

生んでいる。 

見ることは、根本的に重要なことで、 それは言葉を使わず、 

頭でも無言で  見続けるより、 ない。  

限界はわからないが、  はじめから 気にすることじゃない。  



― とか言っても、ブッダも 世界を 真には覚醒できなかった。 

死後、五百年後には  新たな解釈経典(大乗)に なって、 「無」 

とか「空」とか、 新しいブッダの「大日如来」・「弥勒」とか、  

仮想世界が飛び回っている。   すべての さとりは  自己流 

になってしまった。  千日回峰行とかは、 体の異常な 健全化、 

心の安定、  過酷な自然との 闘いになるから  尊敬すべき 

人格は  形成される可能性が 高いが、 それはさとりの  

因果、ではなく 別物な 質 だろう。


かくして、 歴史は  くり返すのだろう。

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フランスユリ知らず  予告? [小説風]

予告というのが、ふざけた言い方だろう。 予告するほどの 

作品を考えているのではないし、骨だけで、血も肉もこれから 

という代物に、予告もないもんだ、というのが自虐的な意見だ。  

少なくも、自粛的な意見だ(笑)。だから、当たり障りのないこと 

を書こう。  

フランスというのはゴッホなどで浮世絵が偶然、包み紙として 

輸入されて、印象派に大きな影響を与えたことで知られているが、 

僕のイメージでは「政治」なのだ。そのイメージの元も知っている。 

「Z」というイブ・モンタン主演の政治映画だ。政治家「Z」が架空の 

軍事政権下の国で暗殺される。それは軍事政権下の王政の 

ギリシヤで起こった事件を題材に書かれた小説があり、それを 

映画化したものだ。1969年制作だが、観たのはもっと後だろうが、 

僕も若い頃で、強く印象に残っている。なにか政治についてその

イメージを集約するものを得る印象があったのだろう。  

政治の根本とされる憲法は、東アジアで最初の憲法になる 

大日本帝国憲法が、ベルギー憲法、プロシア憲法(ドイツ)を 

基礎に制定されたので、こちらを発想するはずだが、やはり、 

映画の媒体は強い。文字やニュースではそれは伝わらない。 


この「フランスユリ知らず」は題名が浮かんで、それから内容を 

考えることになった。その時、ギュンター・グラス(作家)の政治 

活動を知って、興味を持ったのでその手紙からストーリーを 

壊しながら、壊れたものが重なってつくられるという手法を考えた。 

そして、そもそもこの題名が浮かんだのは、なぜだろう?と考えた。 

ギュンター・グラスはドイツ人で「ブリキの太鼓」の小説で有名に 

なった作家で、フランス人ではない。目に留まったのは「フランス」 

の次の「ユリ知らず」だ。これは僕なら、「ユリシラズ」に似た 

フレーズを無意識に浮かべただろうから、それは「ユリシーズ」という 

小説からだろう。 

著者はアイルランド人のジェイムス・ジョイスで、これもフランス人 

ではない。そこで思い出したのが、「谷間の百合」だった。 

著者はバルザックで、唯一読んだ小説が「谷間の百合」だった。 

バルザックはフランス人だから、「ユリ」のイメージからフランスユリが、 

ユリ知らずとは「ユリシーズ」からの連想だったろう。 これらの混合 

で「フランスユリ知らず」の題名は発想されたと、思う。 



残念なのは、予告するほど、楽しくもおかしくもない、感動ものでも 

ないストーリーに仕上がるだろう、と予想していることだ。  

それとも、このまま予告だけで、幻のまま終わらせてしまおうか、 

とも思うが、まだ期待されないうちだから、それでもいいのだろう。 

バルザックとジョイスについては、作品よりも彼らの人生のほうが 

面白いかもしれない。波乱万丈型はバルザックで、事業家と破産と 

ベストセラー作家をくり返した人だ。 

一方、ジョイスは22歳までダブリンで過ごしてから、放浪癖がある人で 

亡命したり、ナチスから逃れてスイスへ行ったりと、娘も統合失調症で 

その治療で苦労したりした人だ。 作品世界は、常にダブリンから離れ 

なかった。 僕はこの人の放浪癖が羨ましい。  

「ユリシーズ」、まだ読んでいない ・・・・。 


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30分の、短い独言 (自分の正体) [自分]

Stance は3~4の意味がある言葉だが、どれも当てはまるという 

ことでは、スタンスに替わる言葉はない。それはそもそもの僕の 

スタンスを示す。  この世について解題しようと決めたのは、いつ 

のことだったろう。そう遠い昔ではない。だが、それがはっきりしない 

のは、「自分の内側で構築されていくことから反射されること」を描く 

ことと、自分が皆の誤解の迷妄の中に導かれ、それがなにか視界に 

現れる時、逆に自分が照らし出されるのには、気づいていないことだ。

それは年単位での出来事で、姿を現した。今はその人混みの中で 

掻き分けて進もうとしていたが、急に視界がよくなって、過去に 

引き戻された。 

そのことで打ちのめされるような過去に見舞われたのではないが、 

そこで自分の元々のスタンスを思い出し、むしろ、呼び覚まされる気が 

するのだ。と言っても、個人的な内面のことなので、説明が説明に 

ならないのはしかたない。 


やはり、人混みを気にしていては進めない。また自分のスタンスを 

取って、律儀に構えるべきだ。だからと言って、以前と同じような 

ものにはならないだろう。  

またもとに戻るだけだ。それはパターンのことで十全に元に戻るのは 

不可能で、つまりできないことだから、そこは明日のこと。明日は 

明日に考えればいい。 

皆がわかっている(と思っている)ことを、今まで使われてきた平坦な 

言葉ではただくり返し、もう録音済みの言葉が鳴るだけだ。皆が 

自分で解釈してきたように、すぐに理解した気になり、その中身を 

反省もなく聞き捨ててしまう。そこで今までとは違う意味合いから 

焦点を当てたり、違う雰囲気から醸造したり、見る角度が違うと 

どうなるか示したり、とやる。それは気づいてもらうためで、答えや 

僕の意見を言うためではない。 

そんなもので埒があくのなら、誰も苦労しないだろう。何度気が 

ついてもらえれば、それを実行するだろうか、ということも気にできない。 

それが確かにできるのなら、セラピストにでもなって努力したほう 

が成果が見込めていいはずだ。 

祖父は医者だったので自分にその素質があるのは、クリニックの 

世話人仕事で経験したが、医者などの福祉方面は自分の仕事では 

ないとわかった。なぜわかったかはわからないのだが、はじめから  

そうだと、その時その場で確信した。 

例えば、あなたが好きだ、理由はわからないが、好きなのは確かだ 

ということに、よく似ている。 

僕は自分が医者にはならないと知っている、そういう自分だ、と。 

もう少し、理屈をこねたくなってきた。 「我、思うゆえに我、あり」 

とはデカルトのコギトとして有名だが、その逆バージョンは 

「我、何も思わず、そこには我なし」となるだろう。  

僕らの常識は朝、目が覚めて世界は存在している。だから、僕が 

いなくなっても世界は存在し続けるだろう。だから、僕が自分を 

思うことは、自分が存在していることの証明のようなものだ、と。 

そのことは「思う」ということがポイントになっている。 自分という 

中味には体という物質だけではなく、そこから派生する心も 

存在する。しかし、体は心が従わなくても、ケガで傷を負うと

痛い。血が出ると、勝手に痛い。体には体の秩序があって 

脳に報告する。心が痛いと思うから、血を見て痛いのではない。 

そこが面倒。

ダーウィンの進化説が基本、ほんとうなら類人猿の前は動物 

としての猿から分化が始まったのだろう。(ちなみに、USAで 

2001年ごろ、世論調査を行ったところ、進化論を信じると 

答えた人は40%だったそうだ。他の人は相変わらず、聖書 

を信じ、神が人間をこさえたもうたものなのだ。州によっては 

学校で進化論を教えないのも、納得がゆく。これが欧米の 

内奥の心理・心情で日本人の独特な道徳感からは理解し 

がたい。北極にも近いアイスランドだったか、地下の温泉を掘る 

のには国の許可がいる。途中の地中に妖精が住んでいないか、 

調査する必要があるからだ。法律で定められていて、ちゃんと 

妖精省みたいな役所もある。これも理解しがたい。だから、 

習近平が・・・余談、略 ) 

話が長く、端折ろう。動物が自分を認識するだろうか?猿は 

鏡に写った自分を「自分」とは認識しない。いろいろやって 

相手が無害の動く存在とわかって気にしなくなるが、それを 

「自分」とは認識したか、疑わしい。それで人間から認識する 

心が生まれたことがわかる。心の前に体があった。 

人間が地球上からいなくなっても、世界は存在しても、人間の  

心は物質的には存在しない。だから、自然状態では「自分」 

は存在しないことがわかる。つまり、人間だけが自分が 

存在していると、思っている。確かに、それは知性から生まれた。 

それで認識力としての知性がない状態では、僕らは自分を特定 

することができない。重度の狂気の状態も同じだろう。 

動物が狂気の状態ではないのは、明らかだから、「自分」は 

知によって(仮想として、想像として、概念として)心に作られた 

ものだとわかる。その仮想の意味で「コギト」は正しい、とわかる  

が、それなら、その反対命題の「我、何も思わず、そこには我なし」 

も正しい、というのがわかる。仮想や想像なら、なんでもアリ、だ 

からだ。


では、自分とは何か?それは知がこさえた、僕らの社会的な属性、 

というものだ。名前とか、性別とか、癖とか、出身校とか、鼻が曲がって 

いるとか、いないとか、いくら年収があるとか、会社や役所で出世した 

とか、プライドが知の裏にいるから、他の自分への評判に関わるもの 

すべてが気になるのが自分で、あらゆる人間の性格や表情の形容詞・ 

名詞、社会的状況を固有に集めたものだ。 

問題は、「自分とか自分らしさ」が「人間として本質のものではない」と 

しっかり自覚できるかどうか、ということ。

僕らはその点が、ほぼあいまいなのだ。批判ではなく、気づいて 

ほしいのだ。  自分のそういう属性を全部、嫌というほど確認する 

なら、それがたぶん、90%以上になったら、自然に弾ける。 

その時、自分の=その人のあり方が登場することになる。  

これは予言ではなくて、そういうものだからだ。しかし、単純には 

行かないかもしれない。やはり、途中の壁があるから。襲い来る 

どんな自己嫌悪(その時、世間を恨み、批判し、他人は汚い人間 

に見えて、嫌悪するが実際は深層心理の闇のことで、日常の僕ら 

には関係なく、濡れ衣だが)にも耐えて、その先の自己を認めて 

肯定までこぎ着けなければ、ほんとうに自分を好きにはならない 

だろう。 

それは世界(世間とかいろいろな)に対して態度が変わる、ことを 

意味する。それは自分の人生が変わることだ。もしも、変えたいと 

思うなら、の話だが ・・。 


30分以上、時間を取ってしまった。


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i Love You, そんな気になる時 [詩]

道路を 歩くこと  

まじな 荷物を ころがしながら 

道を  歩くこと  

それが 当たり前に  進んで やること、 

そう思っていた  

道路は  どこかに  着くことで  

目的を  達成する、  万事は  そういうこと  

命令、  だった  

空は  黄色でも  よかった  

雲は  洗剤の 泡、 でも  よかじゃん、 と 

どこで  道を  間違えたのか  

道路を  失ったのか  

迷子になったので  

考えてみた  

それでも  歩きながら  だった 

なにかを  聴かせてくれる  

そんな 貝殻を  拾おうと  

海岸 道路も  歩いてみたが  

蟹が  横切っていて  

車に  潰されたものも  

やつらにも  道路を 横切る  

そんな理由が  あるのだろうか  

ささやいてくるのは  君の 唇、 だろうか  

ボツ ボツ と、  その先に  

なにがあると  言いたいのだろう  

ガロンハットが  似合うけれど  

君が  待っているわけでは  ないだろう  

炉端のある 家が   あるだろう  

そこへ行って  休んで  みよう  

音階を  辿るように  

階段を  降りてくる   鍵盤の 音  

ささやかに   弱弱しいね  

ハープの  艶を   撫でるよう  

奏でるものの  棲み処 を出て  

こちらに  来て  

ともに  歩くのだろうか  


隣の  電話の 話し声が  

アパートの  ダーク色の  壁を  

伝って  

いつか  それを  聴いている  

すべては  人生の 中  

それは  かすれた 声、  にしか  

聞こえない  

欲望を  出すことは  

悲しみに  聞こえる  

哀しみに  聞こえる  

黄昏に  足首で  拍子を とっている、よ  

あたしが  言っているの、  聞こえるだろ?  

ブルーに  旋回する  なげやりに  

慰めを  待っているんじゃ ない  のよ  

理解 も しないだろ、  

そんな もの  


i  Love   You  、   そう  

そんな気に  なる  

そんな 時、 と っ て も  


病院で  待っているよ  

白い テーブルに  坐って  

家庭の デジャブを  食らって  

忘れていた  ビスケットの  味が  しない? 

真実は  甘い?  

真実は  抜け殻  

真実って  誰でも  言いたいもの?  

叱られるのが  怖いと  そんな時が  

あった   

あたしが  言っているの、  聞こえるだろ?  

慰めを  待っているんじゃ ない  のよ  

そんな もの  

白い テーブルに  坐って  


i  Love   You  、   そう  

そんな気に  なる  

そんな 時、 と っ て も 



パップ、 ユー、  ダイ  

下を 流れる 川に沿って  

カーブする  道路  

それが  嫌いじゃ  ないのさ  

なんか  答えが  曲に乗って  

来るような 気がして  

静かに、  黙って、 と  

自分の 心に    言うよ   

静かに、  おだまり、 と  

ハイウェイを   歩くように  

気分は  風になって  

ね、  匂うだろ  

なにもなくても  


すべては  人生の 中  

ラ  ラ   フラ~  

ラ  ラ   フラ~   

ひとりでも  

お互い   フラット に  

アクア  フラ~  


ね、  匂うだろ  

なにもなくても 


・・・  フラ~  


Nn  ~  Nn ~  Nn ~  


・・
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稲光と海  朗報 [島]

< 稲光と 海 >

昨日は  今日に  

今日は   明日に と  

思えていた  日常は  半年もの 

自粛で   何と言って いいか  

わからなくなった  

今日は  昨日のようであり  

明日は  来ないのだろう  と  

それが  ありふれた日常 

・・な  気がする  


一昨日の 晩、 ほんとうは  昨日の 

明け方なのだが  

妖怪の  奇妙な 夢を 見た  

それで  昨晩は、  これも  

今日の 今朝方だが  続きを 見たくて  

そう思いながら  寝たが  

夢は  続かなかった  


群馬に  土砂災害や  竜巻の注意が  

神奈川から  は  遠い  

まさかの  稲光が  そのほうで  

幾度も  暗い雲の 中で  発光するが  

音は しない  

それが 遠い距離を  示しているの  だが  

光が  目の前に  見えるので  

群馬が  隣に  なったようだ  


スズ虫は  まだ  

ガサツな 虫の 鳴き声と  

窓用冷気扇の  雑音だけ  


    ああ 

     夜を  渡る   



世界の  あり方を  そこで  

感じてしまう  

こんなに  

狂いそうもない  自分を  

確信して  見るのは  

ひさしぶりだ  


日常というのは  

今  

僕のことだ  

夜と  触れ合っている ものの  

ことだ  

見晴る け き  

岬に  打ち寄せる  波しぶき  

それを  見守る  

海面の

生まれては  消える  

泡ぶく  の 

ことだ  





<島から 朗報>

島から便り(メール)が届いた。 島の家は雨戸を閉め、玄関も 

ベニヤ板を打ち付けてくれて、瓦も飛ばなかったそうだ。(依頼は 

していなかった、感謝)その6日の晩は朝方近くまで起きていた。 

台風10号は鹿児島沖で急に勢いが衰えて、超大型ではあるが、 

「特別警報」を出すには至らなかった。 

僕は少し、真剣になっていて、なんにしても災害に見舞われれば、 

半端な金額で修理にしろ、潰すにしろ、再建にしろ、済まない。 

それで気持ちの上では、島の家の中で(覚えているので二階に居た) 

ずっと内観で見ていた。それに一日中集中したわけではなかった 

が、半ば諦めて、ただ見ていた。こんな時に欲を出しても逆効果 

だと知っていたので、任すしかない。それが最上なのだ。 

ところが、覚悟した如何ばかりかの被害が、「まったくない」、と  

聞いて、驚きに打たれる。  

9号よりも近く、10号はまったくの真上で、風も雨も弱まったらしい。 

9号で海面がかき回され、水温が下がり、弱まったのではないか、 

と気象庁では推測しているらしいが、ちょっとあり得ない被害の 

少なさ、ではなくて「なかった」のだ。 

まだ人生は無事に進んでいる。これは言い意味にも悪くも取れる。 

これから先の困難が大きいので、今はまだ、無事に生きている  

必要がある、という意味にも、僕には聞こえてしまうのだ。  

これは心理学的には、神がかりに陥る心理作用があるらしいが、 

それはもうずいぶん前から、用心していることではある。 

だから、天変地異の場合は後はどうなろうと、任せてしまうのだ。

ただ、今回も台風被害を免れた。もう通算、3回目?4回目? 

だろうか。こんな超大型で、真上通過で、ふつうではない。そして、 

そのことを特に思う必要はないのだ。 僕だけに与(あずか)って  

いることではない、それは確かだから。 

もういつからか、願い事をする、ということはなくなっている。 

そう、それを今、気がつき、思い出す。願いはしないが、ある 

方向性は大事にしている。それくらいだ。声に出して、主張 

するようなことは、この世にない気がする。 

どうするか、どうすればいいか、待つのか、内観するか、 

行動するか、生活は日々その連続だ。  


朗報、遠方より来り、また喜ばしからずや。
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台風は偶然でいいが [嵐]

今、台風10号が島の真上を通過している最中だ。これは9号でも 

そうだが、島のすぐ西脇を通過した。これで島の家が壊れるのは 

いいが、瓦が近所に飛ばされて被害が出るほうが厄介だ。 

なんの保険も入っていない。入ろうとしたが、スムーズに行かず、 

今日になってしまっている。だから、そうなっているんだろう、と 

高を括っている。 

もともと、これも書いたが、家はマイナスの資産だとわかっていた。 

その出費を覚悟しても、手に入れるか、三日考えた。それで決めた 

のだから、今さら文句でもない。ここまで来るか、とは驚いているが。 


それはこの3年間の台風シーズンをすべて避けて通過しているから、 

対策も間に合うつもりだった。ところが、そうは予定させてくれなかった。 

コロナが来たから。それは頭では想定内だったが、実際には気持ちの 

上では追及しなかったので、無対策のまま、想定外になってしまった。 

9号は9月2日に五島市の脇を通過したが、その3日前に「青い空の下で 

 やがて嵐が」という記事を書いたら、嵐がふつう台風なので、偶然 

ピタリ当たるかのように重なってしまった。この嵐は僕は、少なくも 

1年から3年後に設定した、世界的・社会的嵐のことを言っている。 

それが本物の自然の嵐で、その通りのものが真上に来たのだから、 

皮肉なものだ。  

東京五輪の中止については、それらしいことが続いたので、ほんとうに 

中止になるのではないかと、だんだん思い始めた。それは直接は 

エンブレムの問題が持ち上がり、次に競技場のデザインが一度 

決定されたにもかかわらず、やり直しになった。次いで、東京での 

マラソンの会場変更や東京湾でのボート会場での汚水問題など 

出てきて、そういう流れ独特のパターンになった。それで結果、 

中止が見えるようだった。  

しかし、一番に不吉な感じがしたのは、実は天皇交代で、令和に 

元号が変わったことだ。実は現天皇とは直接は会っていないが、 

ビクターの工場でニアミスはしている。ピックアップの部品を作る 

アームロボットの現場を当時、皇太子が見学されたのだが、その 

部門のその職場に入ったのが、下請けの派遣で、それを僕が 

会社から頭で10人くらいを連れて入った現場なのだ。 

皇太子とは無関係だが、見学の日の直後にアームロボットの現場 

をまかされたが、僕には波乱続きで2年近くか勤めたが、当時は 

短気だったため喧嘩もして、現場も退いたが、その下請けの会社 

も辞めてしまった。 その皇太子が天皇になったので、嫌な感じ 

がしたのだ。そうして、それはその通り、波乱になっている。 

コロナについても似ている、と個人的には思っている。 

それは昨年のちょうど今頃(9月)、島で岩場から落ちて、頭と膝を 

打撲している。気持ちは攻撃的で平気だったが、翌10月には 

7回目の持病で入院してしまった。いつものように1週間で 

(この持病で入院するのは2回目だが)、退院したが、今までと 

違うのはぶり返しがあったこと。それも4回、5回、と初めて 

にしてはくり返しぶり返して、そのつど不快で不調になった。 

入院時に体の自由が効かない<大>老人体験をして、退院

後のぶり返しでは頻尿で、小老人体験をした。今はもう 

それらがあったのも忘れそうに恢復してしまっているが、 

市販の頻尿の薬を時々、感じた時に飲んでいる。自粛にも  

飽き飽きしているし、少しずつマラソンもしてみようと考えている。

このことは大きい教訓だった。これでやっと志気が下がり、用心 

しない僕が用心をし始めた。 

コロナが東京で感染が盛んになれば、当然のように出かけて、

自分が羅患するか、試すのがいつものバカ勇気な僕なのだが、

今回、この半年で最近までで4回、東京へ行こうとして、考え直し、

中止している。 

ロンドンのペストの時に「ロビンソンクルーソー」を書いて有名な 

デフォーもロンドンにとどまって、羅患せずに生き延びている。 

それを真似てみたかった、命を懸けて。命を懸けてなどと言える

のは、コロナ特有で、数少ない高齢者の特権だろう。 

新宿の歌舞伎町にマスクなしで歩き回ってこようとしたが、 

考えてしまった。コロナには神経質な女房をどこか2週間預け 

なくてはならない。僕が自宅で自ら隔離している間に、である。

それを考えたら面倒で、実行してから考えればいい、というのが 

いつものパターンだったが、今回はそうならなかった。少なくとも、 

今日までは。 


僕は普通でないのは、生死についてだろう。これは一般的ではない。 

生きているのと、死にゆくのとを両天秤に掛けたとして、生きたいから 

死にたくない、ではない。また、逆に死にたいから、生きたくない、でもない。 

さらに、生きたくも、死にたくも同じという、矛盾を抱えてもいない。 

それがそもそも両天秤だとは思ったことがない。それは同時にある、 

自然状態というもの、僕にはそういう気がしている。それは不可抗力なら 

生きても、死んでもかまわない、というニヒリズムにも聞こえる。 

確かにそうかもしれない。積極的に死にたいとは、露ほども思わないが、 

明日ぽっくり死んじゃうのなら、それはそれでいいじゃないか、と思う。 

死ぬ準備なんか、誰でもできるようなことじゃない。残された、後の人は 

それで揉めたりするだろうが、それはそれで成りゆくことだ。それなりに 

始末するしかない。そういう波乱の種が大きかったら、事前に準備 

して遺言でも作成しておくのがいいだろうが、相続税もさしてかから 

ないようなら、そんなことも考えないだろう。 

以前、社会的に、家族的にではなくて、内面的にまったく”ひとり”を 

感じていた時は、自分勝手に死ぬことはごく当たり前に感じて 

いたが、葬儀や施設のことではなくて、なかなかひとりだけでは 

死ねないだろうな、とは近頃、思い込まされている。 

笑い話だが、山の中に、死ぬ直前に入る自動焼却炉を作って、そこ 

で焼いて骨になって出てくる、そういう装置を作ろうと考えたこと 

がある。葬儀も、焼香も、そういう雑事のない完全お骨製造機(笑) 

である。それが変わったのは、家族の間接な、家族は知らないだろう 

その助けがあって、それからいろいろな事情や、世界が変化して 

自分も四重苦から脱出しようとして、克服に10年かかった。 

振り返ればの話で、時の経つの計算もなく、無我夢中だった。  

そして、還暦から急に人生が変わってしまった。 5年もすると、 

高校時代のクラスメートのブログを読むために、偶然アメブロを 

見つけて、書き溜めた文でも公表するうちに、書き始めた。 

初めは絶対無理だと思った毎日ブログも一時書いていた。それは 

やがて自分の内面を越えた対話に発展して、時にはその無意識に 

指導されたのではないかとも、思ったりした。



さて、マイナスの資産の島の家は、それをどのように成就したのか。 

まだ見にも行けない。床下浸水なのか、床上か、屋根の雨漏りは 

穴が開くほどか、窓ガラスは何枚割れているのか。まだ買って、

1年未満の冷蔵庫と洗濯機は動くのか。

これから、なにが始まるのだろう? 

もちろん、1~3年後の先の世界のことだ。
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君には期待しないから [期待]

こんなことは (自分に)  聞いたことがない 

書くのが 怖いの?  ・ ・ ・ ・ ・ 

おしゃべりだな、 君は  それは、 ・・ 

恥ずかしいから?   ハズ モー  

話しても つまらないからさ  たいしたこと、 じゃない  

ア  ニュー  YOU  

どこかで やはり 人に期待して しまうんだな  

それは それで かまわないんだけれど  

それで  終われば、 ね  

終わらない?  

つまり、 そういうこと  だな  

期待するのは  甘いテイスト、甘味料  

それが 体に  浸透する   サニー  

去りがたい 恋人のように  ハニー  

期待するだけ (自分にも)  期待してもいい、 と  

相手にも  思ってしまう   

それも また  安心の バニー  

それで、 そのほうがいい  

そういう人のほうが  はるかに  多い  

僕は  人種が  異なるかのように  

そういう中では  落ち着かない  

野宿が多い者には  家の中が  しっくりこない、  

のに  似ている  

ふつうは  早死にが  合っているのだが  

長く生きることも   ある   

半世紀も  孤独が 寝床だった  

そう言っても   おかしくない  

人は  人と 生きる  

その息と  意気と  肌合いで  

それに いろいろ名前を つけて  

生き甲斐の  ひとつになる  

それが 生活の  中心になる  糧に  ・・  



書くのが 怖いのは  僕が  

楽になった からだ  

皆の 孤独なんか  僕には ない  

これっぽっち  も  

厳然としてある そのリアルさ  

それは 現実のリアルさ でもある    でも、  

それは  皆の  現実じゃない

皆の現実は  お金がない、  寂しい、  

うまくいかない、 苦しい  

そういう 幻影  

それは  世間と  人間関係とやらの  

他人との 間で  よく  起こる   よもやまごと  

紙切れや  金融システムや  お互いの言葉の  

足りなさ   行き違い、  そんなもの  

そういう 幻滅  

なにを 信じるようにするか  その方法は? 

と 学校で 教わった者は いない  

それは 複雑で  個人差があって  

一律に 教えられないもの、 というのが  

僕らの 通念という やつだろう  

テルミー  ブックマイ  セルフ   メッス・ YOU  



通念というのは  あいまいだが、 その 曖昧さの  

中でなら、  ぬるくて、 有効なのだ   

硬いことを 言ったり、  決めつけたり、  

これしかない、とか  思わなければ  

ぬるくても  それほど   

不自由では  ない  

でも  新しい  基準や  ルールが  

文化として  制度として  入ってくる  

時に 理不尽でも  通念のプールに  

入って  ぬるさで 生きて来た人には  

それに  抵抗することを 知らないか、  

ただ 感情的に 反対しか   唱えられない  

給料を もらう側に着いたり、  生活ができない  

その怒りに  身を まかせる  



なんか  いつか言ったことを  また  

言ってるだけ  だろうか   

共同体の 幻想などと  言ったとしても  

それが  わかったとして  なんになるのだろうか  

ニヒリズムでも あるけれど  

「あいまいさの 有効性」 という  ぬるさの他に  

それよりも  確かな  生活法や  生き方が  

あるのだろうか  

それでダメなら  他を持ってくる、  それがないと  

打つ手がない、というのが   僕らの考えだ  

他が すでにあるなら  それは もう過去  

一度は 役に立ったが 今は役に立たない、か  

役に立たず、  埃を  かぶっているか  

復活や  再発見を  待っているか  

どのみち 未来を予想はできなかった  過去のもの  

予想は  十全に  ものごとを  明らかには  

できない      だから、  

いずれにしても  誰かが  新しく  生みだすしかない  

先覚者とか、  魁(さきがけ)とか  

でも、  僕は つまづく  

どうして  そういう歴史に  僕らは  

飽き飽き しないのだろう?  あ、  

また言って  しまったか  

僕らは  数千年もの 歴史を  振り返る  

そういう余裕は 持たないように  訓練されて  

ものごとの 機械的な処理を   生活にも  

取り入れざるを 得ない  そういう環境を  

与えられ  そういう環境を  作り 続けた  

製造業も  文化事業も  基礎研究も  

経済のどんな 主義も 関係なく  

利益を だすという 資本主義的な  考えに  

支配されて   誰も 疑えない 社会環境までに  

育て 上げて来た  

それは 分業という  社会の助け合いの中で  

主導権になり、  グローバルでは 後進国を  

金がかかる農業を だまして納入させて  

平和に 暮らしてきた村は  一年の豊かな、 

と見えた収穫 の後には  1年限りの種子、 

その種子にだけ効く 肥料、 なんでも  

毎年 それらを 買わなければ  

遺伝子組み換えの種子の 耕作からは 一切  

収穫はできなくなった  搾取の始まりだった  

平和な村は  貧しくなって しまった



始めから搾取がある 考え方の 人たちと  

僕らの 助け合いの 考え方の  違いは  

どうして 生まれたのだろうか?  

世界や 僕らの地域が  締めつけで 煮詰まるまで  

待たなければ  ならないのだろうか?  

それから  また、  実力行使? かい?  

平和な手段であっても  それが 追い出す人たちを  

生まないと 言えるだろうか?  

改革できれば  それができれば、 目的のためなら  

過激でも  犠牲が出ても  いいのだろうか?  ホント?



僕らは どんな ”中” に いるのだろうか  

どう見たって  出口が見えない  そういう処に  

いるようじゃないか  

僕らが  孤独や  閉塞感を  抱くのは  

そもそも  僕らが  そういう風にしているからじゃない?  

そう言うと、  君は 言うんだよね  

どうすれば いいんだ? と  

答えを  他人に  求める  

ともかくも  答えという  なにか 

それで解決になる 方法とか 考えとか  

求める  これが  実に 僕らの  独特な  

生理的ともいえる  反応とは  思わないだろうか?  

反応なんだ   慎重に考えて  出した質問じゃない  

そこで  「反応」という  生理的な 社会習慣だとも  

思わないで  平気で  いられる  



これが  第一歩になる  

”僕らは  なにか?” という そこにたどり着くための  

長い道のりの  ほんの 一歩になる  

もう何度も 聞いて  退屈かもしれない  

そこから  進まない、というのが  

君の  感想で  批判かも しれない  

これを 恐れていたのだろうか?  

目の前に 答えはある、と言ってきたが  

ニュートンが リンゴが落ちて  万有引力の考えを  

着想したのは  煮詰まるほど それについて  

考えて いたから  

だから 森羅万象の 現象が  そのヒントになる  

そういう生活を 強いられたから  その当時は  

ペスト だった  今は  コロナ?  

この 第一歩が  すべてに  優る、と 言える  

まず、  見ること だろうか  

どれほどに  今の 潜在環境を  見たいと  

思うだろうか?  

もし、 始めたとしたら  君は  一時的に  

孤独に 一人で 作業を始めるから  急に  

世間では  行方不明に なってしまうから  

僕には  わかる、 かもしれない  

コロナを それに役立てた人は  いただろうか?  

それに気を 配らなかったので  そういう人に  

僕は  気づいていない  



見ることを 商売で使う人は  僕らの  

想像もつかない  ことをしている  ・・・

ああ いつまでたっても  同じことを  

書いているよね   僕も  飽きたし、  

飽きた人も  いるだろう  

書き始めたのは  つくづく  失敗だった、 

と 思う  

ここで 僕は  失敗をしたとは  思わないことにしている  

同じことなんだが、 僕は  「失敗もするということ」 を  

していると  認識しようとする。  

それも 僕が  今できることをしたから、だ  

できることをしたのなら  その結果というのは  

一瞬という 一時的な過去に  過ぎない  

にしても、

僕は  ほんとに  だらだらと 文を書くように なった 

もう そろそろ  書かなくても  いいだろうか?  

そう思う  



さて、 見ることについて 何を参照したか については  

書いておいた方が いいだろう  

小林秀雄の 「私の人生観」 の中で  仏教の 観法に 

かかわって、 美について書いてある  

その美が  画家にとってどういうものか、 そういう文の  

処で よく 劇画漫画で  ガーン!! という描写が  

あるように  雷に 打たれてしまった  

僕は 大学へ向かう 小田急線の 車内で  

新しい世界を  予感した



そこから (自分なりの工夫で)  上野の西洋美術館を  

皮きりに  尋ね歩いた  

修行と  同じよ、  苦しかった  

たった 3分も 1枚の絵を 見ていられず、 1分に変えた。  

2時間もして 美術館を 後にすると  

ぐったり  疲れきっていた  

その後も  2,3回  ぐったりを  くり返した  

苦しい  ただ 見ているのは  想像を超えて  

ただ ただ  苦しいだけだった  

はい、それで終わりにしよう、 と やり切って  

言いたかったから  やり切ろうとした  

そんな 必要はなかった  

かなり 過激とは思わなかったが、  次第に  

絵が  <見えはじめた!>

奇跡ではなかった  今まで  見ていなかった  

それが  わかった  

::見ていなかった だけ::

 

絵を 見る  というコツのような 細胞が  

僕の 視神経に 生まれたようだった  

ああ  やっぱり 書いてしまったか  くり返し  

それほど  絵画が 僕に 飛び込んで来る、 という  

のは感動的で  刺激的だった  

今まで  見ていなかった だけ、  なのだ  

信じたり、  疑ったりする 必要は  無駄だ  

ただ  ものを  見つめることをする、 それが 

どういうことか  やれば  わかる (かもしれない)  

ヒントは  自分の思考を  止めることだ  

見ている時は  ただ  「見ること」 だけをする  



苦しいよ (初めだけは) 覚悟して  

 それだけさ  

たぶん、  人生って 単純なんだ  

見る、 がわかれば  あともトライ したくなる  

豊かさの 意味が  体中で わかるから  


絵が 困難に感じたら  周囲のもの  

なんでもいい  それが眼のまえに あるものだから  



答えは  目の前にあると  言ってるじゃない  

まさか、 漫画でもいい、 とか思っていない? 

(笑えるけど)


君には  期待しないから  適当に 暮らして 


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見ればわかるは、感覚の開放で [感覚]

ヘッドフォンで波の音を聞いていると、打ちのめされる気に  

させられる。 波としぶきの感触が、一緒にやってきて、 水の  

膨大な量の、海を連想させるから。 1,5kmくらいを海水浴場の 

浜まで泳いだ、中学生だったろうか、泳いでも泳いでも、目の前 

の浜が見えているのに近づかない。 遠いとは見えないのに、 

遠かったのを覚えている。  

やっと足の立つ浅瀬にまでたどり着いて、あとは歩こうとしたが、 

もうへとへとで、後ろから来るさざ波に、もろくも耐えられず、倒される。 

また、泳いで膝がつく処まで。そして、立つとまた波に倒されるので、 

四つん這いのまま浜で遊んでいる人の間を通って、ようやっと上陸  

した。  -なんてひ弱なんだという思いだけ、あった。  

よく海難事故で海に投げ出された人を救助するのに、ヘリコプターや 

救助機が出されるが、海なんかなんにもないのだから、広い範囲を  

一目で見渡せる。だから、数日も遭難者を探せないことに、おかしく 

ないか、と思っていた時期があったが、海の広さはプールじゃない。 

太平洋に日本列島が何十も入ってしまう。東京23区だけの広さを捜索 

するだけで大変なのに、さらに日本国中を、そしてさらにその日本の 

数十倍も楽に探せるものか、とあとで反省した。  


目の前に答えはある、という話の続きをしよう。と言っても、うまくそうなるか  

まだわからない。これには人の”感受性”が深くかかわっているというのは、 

誰しも想像がつくと思う。どういう統計か、確かめるべくもなかったが、

感受性の特に鋭い人を「H S P」(Highly Sensitive Person )と呼ぶらしく、 

5、6人に1人はいるらしいので、障害者ほどまれな存在ではない。  

こういう人たちは神経質と呼ばれるにふさわしく、神経疲れも激しいはずだ。 

日本人は欧米よりも肩こりの人が多いそうだが、 「H S P」が気質として  

あるのかもしれない。  僕もそうだとは、自信を持って言える。言えるのは 

これくらいかもしれない。まだ学生の頃、上野の音楽会で生のピアノ演奏を 

聴きに行ったことがあった。目を閉じて聴いていたが、特異な感じに感想を  

書いた。メロディに半音が多く、流れも通常の美しさを奏でるものではなく、 

時々キーを外したような演奏もあった。演奏者のミスではない。それを狂気

の曲という言い方を中心にして、感想したのだが、調べると作曲者は発狂して 

悩んでいた人だった。これには自分でも驚いたが、そういうことが続いて、自分 

がかなり音や色などの感覚だけで直接ではない事実も、知ることができると 

思った。それは後年になってみれば、まだ浅い認識で、それよりさらに驚く

認識力の可能性を人間は備えている、と今は知ることになった。 

もう若くはない50代には、僕らが忘れてしまったか、未開発の未知の感覚 

が自分のうちにも在る、ということを確認していた。これが本当に確認できた 

のは還暦過ぎて、無意識との交流ができるようになってからだった。  

仏教ではないが、物事を知るとは、感覚を正しく受けること(正覚)が必要 

で、それはふつうに見る、聴く、雰囲気のような全体を皮膚で感じる、と 

いったことで、それを開放させることが必要になる。それはインドで昔  

行われた修行のようなことで、例えば、昔だし、少し外れるが、台風が 

近海に来た時に、海岸まで車で行ってみよう、と若い奴らが(自分も似た 

年齢だったが)誘いに来た。車だから大丈夫だろうと、荒れ狂う波を見に、

海まで走らせたのだが、彼らと来た日には、松田聖子の「赤いスイートピー」 

が好きだったらしく、車に乗っている間中、車内はガンガンに「赤いスイート 

ピー」が流れまくった。 

僕は松田聖子はその当時、趣味ではなかったので閉口した。やめてくれ、 

とは言えずに、何時間聴き続けただろうか。はじめは頭、壊れるんじゃ 

ないだろうかくらい、嫌いだったのに、帰って来て1日も経った頃には 

すっかり聖子ファンになっていた。松田聖子は好きではないが、今も 

「赤いスイートピー」は聴ける。  

これは聴き続ける苦行であったと、言えないだろうか(笑)。 

はじめは嫌だったのは、間違いない。しかし、強制的に聴き続けて 

好きになってしまったのだ、その楽曲が。  

もともと耳は悪くないと思っていたが、ある研究では(科学的根拠が 

まだ長年、脳に発見されていない)日本人は秋の虫の音を「言葉として」 

右脳だったかで、聴いているらしく、欧米人には聞こえないという。彼ら  

は「音」として左脳で処理するので、微妙な音が聴き分けられない、と。 

科学的根拠がなくても、効果は抜群な、東洋医学の鍼治療もあるし、 

気にしなくていいのかもしれない。  

そこで僕はいつだったか、秋の夜にどれくらいの種類の虫の音を 

聴き分けられるのか、試したことがあった。  

これは正確な数字が出た。7種類だった。何度やっても、7種類を頭に 

振り分けておいて、そこから新しい8種類目を聴こうとすると、必ず 

頭がクラッシュして、整理した7種がバラバラに弾けた。気分の問題 

はまったくなかった。限界を思い知らされたが、人の経験を尋ねた 

ことがないので、7種類が平均より上か下かも、知らない。  

虫の音、・・本当に日本人だけ? と思ってしまう。  



見てわかる。だが、どうしてわかるのかわからない。これって意外に  

ふつうだと思う。安倍首相が辞任。それは僕は5.22のブログの 

「また沈黙する 0 ロボット」、その最後に < * 首相の顔に 

挫折印。 内閣退陣の影。 今年? > と書いた。

よく考えれば、辞任で、内閣退陣ではない。単なる、判断ミス。 

見たのは、テレビに映る首相の顔の左眉の翳りだった。それを見て 

運勢の挫折を感じた。それを裏づけるように、すぐに顔いろの翳り 

にも気づいた。これは内臓関係の病の症状。所謂、直感なのだが、 

何も考えていないで、向こうから情報が飛び込んで来るのがわかった。 

そういう時の直感は当てになるのだ。でも、時期というのは疑心暗鬼 

で、今年か来年早くに、じゃ、今年?と「?」をつける。 

判断するなら、疲れではなく、持病を疑うべきだった。感覚は見た 

ものを過(あやま)たないが、判断がそれを誤解させる、とは今まで 

言ってきたことだ。自分で言ってきたことだが、自分でいい例を作って  

しまった、というわけ。  

仁術ということを体得した医者は、患者の顔色を見ただけで、病の 

種類からその病名まで見抜いてしまうだろう、というのが僕の感想 

であり、今では信じられなくなった昔の人の記録や伝説、なのだろう、 

と思う。  

例えば、テーブルの上を見ずに、指で触った時に、異物を感じて 

指先を見ると、1本の細い髪の毛が触れていた、というようなことは  

誰も経験している。ところが、そんな細い毛をどうして感じれたのか、 

とは考えてみれば、不思議な話なのだ。恐怖・不安がなければ 

見ないで触れたものの感触は、その微妙な感触の区別をすること 

ができ、そのことに驚く。 実際には、それを磨いて数万倍とかも  

夢ではない気がする。  

「天空のラピュタ」とか好きなアニメの宮崎駿だが、絵は技術のことが  

80%とか思いがちだが、宮崎が描く動きになる画が、若い弟子には 

描けない。十分に訓練したライターのはずが、宮崎にしかその動きは 

描けないそうだ。人にまかせられない、まかせたいのに。これは技術以上 

の感覚がものを言っている、そういうことを示した、ありふれた事実なのだ。 


それはもう一つの事実を言う。現在の人間国宝で彫金というのだろうか、 

金属の表面に花びらの模様を均等正確にあしらう職人技術があるが、 

その人間国宝が言うには、昔の名人がいて、その人はまったく完璧に  

コンピュータのようにそれをやってのける、と。実際に作品が残っている 

ので確認できる(テレビ画面)。ところが、その幾何学模様が、やると、 

わずかにズレてしまう。 それが真似できないのだ、人間国宝なのに。  



僕らは技術は公開されれば、人から人へと渡り、次第に進化して、時代が 

下れば下るほど、よりよい技術になる、というようなことを信仰しているが、 

事実はそうではない。その職人が亡くなると、失われてしまう技術もある  

のだ。  

つまり、基礎からものは次第に手を加えられ、発展するものだというのは  

僕らの先入観であって、感覚はその人のもので、受け継げない。  

だから、今、 あなたが感覚を磨くことは、まったく無駄にならない。誰も  

それを真似できないかもしれないのだから。  

僕にとって自然はロマンじゃない。恐怖だ、と同時にしあわせだ。 

例えば、海の深さは夢の響きじゃない。素潜りで海に飛び込んだら、 

たった3mくらいで、水中メガネが顔に食い込んできたので、恐怖を 

覚えた。海に潜るなんて、とんでもないというのが、真っ先の感想だ。 

海の深さは、 僕の顔に食い込んだ”水圧”と同じなのだ。それを 

味わいもせず、ロマンを語るのはやめてくれ、と言いたい。  

そして、それを突破すると、人魚のような魚たちとの直接の触れ合い 

をすることができる。そうなると、その感激・幸せを求めて、また海に 

潜るのだ。  



僕らは感覚に勝利すべく、現在十分狭くなりつつあるその開放と拡張を 

自身に求めて、自然に立ち向かい、それに包み込まれもしてみるべきだ。  

そうすれば、有用な無駄と、無用な無駄との区別もつくし、過激な欲望や 

有益な欲望の境界・節制も感覚でわかり、必要なコントロールもつく、と 

いうものだ。 

そうではないか、諸君。 


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