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寝る子を起こすのは誰? [夢想]

なぜ じっとしていなかったのか

眠かったのなら  なぜ  寝ていなかったのか 

あとから  そう聞かれても  

答えられないことが  多い  

僕は  いつからか  暗さが  

わからなくなって  そこに  

落ちることができなく  なっているから  

子ども のように  

自分を うまく 説明できない  

どこへ行っても  どこにいても 

見るもの   見えるもの、 

それは 背景に  影の世界を  

抱えている   

朝は  まったく  同じ景色で  

開かれるのに   そこに  

新しい 空気の匂いを  感じている  

これほどに  新しい1日を  感じているのに  

それを  喜んでいるうちに  

すぐに  日は暮れて 行ってしまう     

体は  目覚めるのが   遅い  

その頃には  僕は 期待と  高揚感で  

疲れてしまっている  

なにか 別のことを   してしまい  

そんな 失敗の、くり返し   
  

畑の囲いの  鉄パイプが   意外に 

頑丈で  寄りかかれる  

葉物野菜は  収穫期を 過ぎて  

厚い葉が  開いて 

花の芽が  中から  顔を のぞかせたのも  

僕は コミュニティの キャラバンバスに  乗った  

初めては 乗ってみないと  知らないことだらけ  

交通カードが 使えない  

おつりが  出ない  

運賃箱は アクリルで  運賃は  

箱の底に  雑多にあるまま  

運転席からは  小銭を下に落とすレバーが  

コロナ除けの  ビニルシートがあって  下ろせない  

乗客が 下ろすのでも あるまいに  

バスに 乗りたかった  

平凡な 一日は  こうして   走る  

いつもは歩く  近所の道も  

バスの時刻表で  来る時間だった  

乗ってくれと  言わんばかりに  

僕は こういうのに   弱い   

一度は  乗ってみたかった  コミュニティ・バス  

終点の  さがみ野駅まで  

そう、  

休日は  バスに乗って  

どういう運転を するのか  

一緒に バスを運転する  気になって  

そう、 

休日は  バスに乗って   



なにも なくなってしまった   午後  

帰りのバスまでは  1時間以上  

マクドナルドは  店の外まで  人の列  

歩き始めた足は  交差点を  

僕らは どうして  信号に合わせて  

交差点を 渡ろうとするのか?  

そんな 当たり前なこと、  考えてみたこと  

なかったな  

原点というのは  僕らの過去の 頭の 

ことなんじゃないか、と  考えた  

それもそれも  いつもと 同じ歩く道も  

どうでもいいじゃん、   と思えてきた  

どうして  また  同じ道と  僕らは

考えるんだろう?  

それもそれも  いつもと同じ考え  

やはり、  

どうでもいいじゃん、   と  

僕らは  類似の場所や  似たことに  

当たると  同じことを  考えている  

順序や  規則や  記憶を わざわざ  

尋ねている のではないのに  

どうして  わざわざ  退屈の罠に  

嵌(はま)ろうとしてしまうのか? 

違うことをしていても  同じパターンの  

過去の時間や 一日を   引っ張ってきて  

無意識に   毎日毎日、同じと 

言い続けている  

僕らの  この習慣は  なんだろうね?  

なにが  そうさせるんだろうか? 

僕らが  開放感・解放感を 求めるのは  

たぶん、  そのせいじゃない?  

自分が作り出している、  その退屈オーラの  

せいじゃないのか?  

なにかを  予定して  それに  自分を

あてはめてない?  

次から次へと  自分の行動を  はめ込んでいるのは  

自分なんじゃ ない?  



晴れた 昼間は   活気がある  

静かな  夜は   透明だ  

それでも  それは  同じ新しさを  

秘めて  包み  隠し持っている  

それの  そのものは  同じように  

感じられるのだが、 ・・・・     
 

明るいか  暗い かなんて   
 
ほんとうに 区別するほど  

大した  違いなのだろうか?  

小学校の頃の  夜の道の  怖さは  

格別で  闇があった  

今は  闇がなくなって  

夜に 歩くことは  不審者と思われるとか

不法侵入とか  社会からの  他人からの

制圧感があって   闇のダークな怖さではないけれど  

妙に  肩身が狭いのだ  

夜道は  歩いちゃ いけないような、 ・・・  
 

だから  僕らは    それだけで  

僕らの 意識は  自由ではないのだ  

昼間、  自由だと思っても  それは  

夜には  肩身の狭い  自由になるのだ  

カタコト   バキバキ   バキバキ  

機械が  突進する   街が  暴れる  

萎(しお)れた 田園都市   汽車は  

行ったっきり   

バコボコ  バコボコ  ロッチターン  

と、  そんな風に  壊したくならない?  

なにか  現実的、とか  リアル的、とか  

求めたくならない?  

それは  もう 実現されて  久しいよ  

なんにしても  「的」 なんだけどね  

僕らが  求めるものは  隠しても  

気づかれてしまう   

それで  そういうものが  街に  あふれる  

そういう単純さが  世の中と言ったら  

笑う?   

おかしい?  

可笑しい?  怪しい?  

でも  そういうことが  感じられなくなっている、  

それが正解のことも  あり得るね  

それが なにかであるようで  もう  

あるは無しに なっている  
 

負けたくないから   勝ちたい   

死にたくないから  何度でも生き返る  

それこそ  もう  実現された 僕らの  

バーチャルの 世界 だよね  

もう  その望みは  叶っている  

現実を知らない というより  知りたくないから  

バーチャルで  叶えさせてくれるのが  

僕らの  資本主義だろう  

そう考えてゆくと  いくらでも  知ることが  増えて  

なにかを  知り続けることは  

同じ  ゲームを継続しているのと  

同じになってしまうんだが、 ・・・ 
 

猫の  癒し喫茶も  できたし、  

草花を  見たり、聞いたり、  

成長に 心を 寄せたりは  そこに  

生き物の 匂いを  感じ取っているようだ  

生きているものが  人を幸せにするのは  

よく知られている  

それはまた  僕らの過去からの  

絶大に  長い  伝統や習慣によって  

育てられた 感性でもある  日本の、  ・・・ 

つまり   それは  真には  

新しさではない、と 
 

朝起きて  やってくる  新しい1日なのか、  

僕には  疑問で   わからないこと、 だ 
 

雨が降っても  同じなのだが、   

それは  新しい、     だろうか?  

それは  生きる糧  なのだろうか、 なっているだろうか?

雨に濡れたら  着替えなきゃ、とか 

洗濯物が  増えるからとか、  風邪に、 とか?

昔々の、  古代の人は  いくら濡れても  

平気だったんじゃ? と 考えたろうか? 
 

子供は  水たまりに バシャバシャ  やろうとする、 

その楽しさは  古代も  同じだったろう 

忘れた?  もう  数千年か 

忘れたか、  そうだよね  

紳士淑女、諸君   君たちは 誰?  

誰、  なんだろう?  

もう  そういうことも  思い出さない?  

そうだよね  

もう  遠いこと、  

僕らは  子供によって  新鮮な気持ちを  

取り戻したり  している  

子供の世界が  新しいのは  知っている  

でも、  別なことを  教えなければならない 

どうして  魚の胎児も  人間の胎児も  

初めは  同じ形なのか?  

どうして  進化を 母親の胎内で  

短時間で  やって  生まれてくるのか、  

なぜ? 

僕らは  何?   そして、 何物? 

人間  、 ・・・って  



そうか。


紳士淑女、諸君   君たちは 誰?  

誰、  なんだろう? 
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誤解と理解の前提をいう [知の思考]

脳というのは雑多なものだ。雑多だが、どんなものとは言えない。

それだけ解明がされていないのだが、それにしてもひとつの

世界では、ある。 

脳の一番の機能は地図を書くことだ。それは具体の地図もあるが、

主に、もの・ことの様相を概念化して、区切りや枠を与えて、現実を

別のもの(=概念>数式や論理)で比較して表現する。ほとんどは

その国の言語が使用される。

わかる、というのは意味深な言葉だ。理解するというのは、もの・ことを

実際に概念化して現実と分けることだからだ。この「分ける」が理解する

という「わかる」になった。例えば、僕らの体を細分化して調べれば、

何で構成されているかがわかり、体を理解できると考えるようなものだ。 

だから、古代では原子という見たこともないものを、想定して物質の

極小の形だと考えてみたのだ。 

それは海は水からできているから、酸素と水素を突き止めれば、海の

正体がわかる、と考えたのと同じだ。

それはわかるということを、ほんとうに明らかにしたとは言えなかったが、

物質を実証的に役立つ形でうまく固定化させることができた。それは

概念化のことを言うのだが、その結果はいつも一面を固定化させただけ

なのだから、実際にその法則を利用しても現実の物質の性質が邪魔して

実用化するためには、様々なトラブルを解決しなければ、冷蔵庫も洗濯機

も生まれはしなかった。が、その着火する役目は果たせたので、化学・

科学は数学の概念を利用して発展をした。青写真から製品までには

いろいろなトラブルが発生するのは当然のこととして、本質の問題とは

捉えられることはなかった。 

だから、僕らは科学や数式を信頼している。数千年前の算数からでも

子供に教えている。その基本概念がないと、それらで作られたそれらの

機械や規則を理解できないからだ。もの・ことが本来そうなっている

からではなく、僕らがそういう風に使うものを作り、ことをそう言う論理での

規則に定めたからであり、自然界も大まかにとらえられているように見え

るが、それはそういう言葉がないと話が通じないのと意味は変わらない。 

僕らはこれまでにどれほどの風景写真・画像も撮って来たし、どんな

映像もCGで作り出せるにもかかわらず、やはり、自然の新しい映像に

惹かれ、それを信じて、カメラでそれを捉えようとする人は後を絶たない。

もっと見える人は画家として、同じ花を40年も描き続けていたりする。 

この動き、変わりゆくものを見るのが楽しみであるのは、本能とさえ

思えたりする。僕の父は認知症になって、おかしくなってもしばらくは

窓の外の車やバスが通り過ぎるのを眺めるのを楽しみにしていた。 

自分の視界を遮る場所に同じ認知症の入所者が坐ると、怒って

どくように文句をしたものだ。 

今は科学は理論物理学が花形で、それはマクロ(宇宙)を扱う

相対性理論とミクロ(素粒子)を扱う量子論に二つに分かれた。 

アインシュタインは量子論を初めから知っていた、半ば作った一人

だったが、粒子の現れ方が確率でしかないことを認めたくなかった。

それで二つを統一する理論を晩年まで探っていたが、見つけられ

なかった。 

僕にはこの分離した理論同士は科学の成功した形ではないかと、

予測しているが、半分だ。 僕らがそれをほんものだと錯覚する

ためには、視覚映像なら簡単だが、視覚映像だけでは僕らは

実感をもてない。ただ種明かしを見せられても、まだ混乱してしまう

だけだ。自分の手足を隠して、マネキンの手足を見せて、実験を

用意する。自分の手足を触覚で、つまり、偽の手足と同時に触って

錯覚を起こさせると、偽の手足に危害を加えようとすると、恐怖が

走る。

それは自分の手足ではないのが見えていても、触られた後では

錯覚だとわかっても呑み込めないのだ。実感を基にして、錯覚を

疑えないのだが、その恐怖は起こる。すると、恐怖は頭の錯覚で

実感ではないこともわかる。 

僕らの触感や情感はわかる感じが違う。脳は、たぶん、その

どちらかを利用しないと、実感を想像させられないのだろう。

それでも視覚の世界のことで、犬も抱いてみないと、その筋肉

や体毛の質感、柔らかさは感じられない。そして、それは映像・

画像よりも僕らに「犬」を強くそのまま感じさせる。画像はまず

吠えないだろう、鳴かないだろう。その情感のある動作の何とも

言えないものを、人に伝えないだろう。 

わかるというのは、そのものを別の形(言葉)や映像にして

視覚や夢(脳のあいまいな映像)として記憶させることだ。悪く

すれば、同じ言葉で幾通りもの解釈を許す言い方をすることも

できる。 

それは同じことを聴いたり、読んだりしても、およそ同じとは

言えても、似ているが微妙に違うからまるで違うまで、様々な

理解を生んでしまっている。だから、よく言葉だけで理解するのと、

ほんとに理解するのは違う、とか言われる。聞いてわかったと

思った授業を家で復習したら、わからなかったということがある

のも頷ける。 わかった気になったのは言葉だけだからだが、

小さなけがでも痛かったら、記憶から抜けることはないだろう、

しばらくは。痛いのは「わかった」よりももっと直接な体験なのだ。

嫌でも痛いと「わかってしまう」のだ。

細々と書いてきたが、要は僕らはわかったと、わかった気になった

とは区別できていないほど、日常では聞いて、読んでわかった気

になっているということではないか。

ほんとうにくり返しくり返し、同じようなことを書いている。 

本を読むというのは、僕にとって他(人)を読むということだ。それは

困難に足を踏み入れることを意味している。脳や感覚の世界は

広いので、僕は大まかに書くために、その全体像が欲しい。

全体を知るには、多方面からの検討がどうしても必要だ。それで

1冊の本を読むとは、大抵30冊の本を資料読みするというのに

他ならない。どういう意味で著者はそういうことを言ったのか、十全

に書かれていれば、読めば必ずわかるので、読むしかないだろう。

僕の読んでいる1冊はこの世のすべてを知る、という1冊なのだ。

それは人間を本質とする。

となれば、僕が本の読後感想をあまり書かない、いや書けない

理由も想像できるのではないか、と。

ひどい理由だ。世界の、地球の歩き方から病院選び事典、理科年表

から世界史、昭和史、野に咲く花、動物行動学から周恩来秘録とか、

挙げるときりがない。トンパ文字とかウルドゥー語やカタルーニャ語

などあまり聞いたことのないものも好きで、購入してしまう。 

僕らは誤解から離れられない宿命を背負っているようだ。それが

「わかる」ということだからだ。どんなに良くても鏡にそれを映した

くらいで、それでも鏡ならどうしても逆さまに映る。知は僕らを

自然のもの(表現できないものも含めて)から頭の中に別なもの

を投影させるから、それ自体が「そのあるもの」からとは違うもの

なのだが、それを判断する形で獲得することを「わかる」という

ことにしたのだ。それがそのまま、本当も嘘も「わかる」、という

誤解(=認識・世界観)になったのだが、それは学校で教えて

いない。教える先生もその誤解の中に子供のころから染まった

のだから。 

僕の言うのは、わかるというのはモノ・コトの理解の一側面を

担ったもので、モノ・コトは僕らのモノ・コトになる。それは理解

されれば、その人のその現時点でのすべての正解になる。

だから、真実を語る、というのは厳密に、また実際に私の真実と

認めたものを語る、ことになる。真実そのものは、ない だろう。

どのことの、なにについて、どんな時の真実についてなのか、

そのほうが重要だ。より客観的に迫って、距離が縮むからだ。



どうだろう?こんな処で今まで言ってきたことのより理解への

手助けになっただろうか? では、よろしく。



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夢は感傷的に、もっとセンチメンタルに [感傷]

僕は  学び屋 だった。  なんでも、 なにかから

課題を見つけて  そこからそのテーマを  自分の

ものとして考える。   そんなことをしてきた。  

そんな学びが、 長くあった。  

映画やTVのドラマ番組を観ても、 そこに感情移入する

のは、あまりすることではなかった。感動は来るときに

くればいい。それよりも、その主人公なりが、どうして

金を稼いでいたのか、このストーリーのどこで生活費が

出ていたのか、工面できたのかは、最も気になること

だった。中学生の頃から、経済学に興味があったが、

当時の経済学はまだ未発達で、人心の流動性や

無意識な購買傾向という心理の考察にも欠けたもので、

肝心の金融のバックについてが抜け落ちたものだったので、

役に立つものではないと、わからなかった。 

ただ経済が世を動かしている原動力の一つだという勘が

あった。そういう学びの傾向は、それでいつしか経済には

向かわなくなった。1番ではなく、2番以下になったのだ。 

それでも上位だった。  

だんだん、お金がどうでもよくなってきたからだ。お金を

自分の運命から除くのは、ふつう怖くてできない。生活は

どうなる?とすぐ不安がのしかかるからだ。 

この時の課題が、お金なしでもどうにかなる、もしくは

持っている人から、金のある処から調達すればどうにでも

なる、と思うことだった。 

まるで笑い話だが、お金なしでも生活できるのじゃないかと

考えた。それはバイト生活で資本主義がどういう下層住民

を生んだかを見てきたバイトや下請けで長年苦汁を舐めて

きた生活熟練者が思うことではない。逆にお金の儲け方とか、

貯め方、投資の仕方、商売の仕方とか、集中するようになる

のなら、わかりやすいのだが。 

僕にはお金が見えなかった。僕らが同じ営為でお金なしで

同じ仕事をして、同じ作物を作ったり、事務仕事をして、

同じ生活をして、そのお金がしていたやり取りを、誰もが

見えて納得いくものになっているのだったら、その具体的な

方式やソフトはできていないが、そうだとして、僕らが自然と

社会生活を営為しているのなら、僕らはこのまま続けられる

のではないか、と。コインやお札は食べられないが、畑の

生産物は見えないお金で売られて行き、清算も銀行がする。

ただし、銀行はボランティアの仕事で、誰も金利は払わない。 

それがうまくいくかどうかは、まだ未確定な問題で不確かだが、

問題はそうであっても僕らは同じ仕事をしていられるし、物流や

販売で同じように店で消費を、つまり購買できるのではないか。

お金が世の中から消えてしまっても、畑や田がなくなってしまう

わけではない。衣食住は僕らの労働を対価にして続いたように、

仮置きにして仕事を続けることで、どこかの破産はどこかの

利益超過で調整できるし、衣食住に関わらないサービス業も

書類の山も、データの山も捨ててしまえばいいのではないか。

という、世の権力からすれば、とんでもないことを考えていた。 

それでは税金も搾取もペーパーマネーも成り立たないから。 

もっと単純に僕らがそれが正しいと50%が認めたら、それは

できてしまうのだが、その前にそういう価値観を共有しておかなく

てはならない。軍隊も警察もその国に必要な道徳律だけで

すべてを取り締まる。軍隊は要らないだろう。その時は

世界中がそういう認識で一致しているだろう、少なくとも

50%が。 

そうすると残りの問題は、武器を所有して、平時の民衆から

略奪・簒奪する者たちをどう阻止するか、となる。それもどう

にかなるが、答えは今、要らないだろう。  

現実に戻ろう、  

ある程度の現金は毎月必要になる。それは多額ではない。

自給自足に近い生活でも、山奥でも電気・機器が必要だからだ。 

そういう細々したことを問題ない、と割り切れない。生活が

あるから、と考える。だからこそ、そうではない、と僕は考えた。

それでどうにかなる、というのは信じがたいし、狂気の沙汰と

思う人も多いはずだ。 

そこに僕の反抗精神が応じて、自分を信じてみようと思った。

お金がなくても、そこまでいったら、どうにかすればなんとか

なるのだ、と。どうしてそんな無謀なことに、任せられるのか。 

それくらいなら、いや、それ以上に厳しいのがこれまでのチャレンジ

だった。そう思う。だから、これくらいのバカをやらないと、それを

越えられないのだ。生活は一人ではないから、子供が巣立つ

までは待たなければならなかったが、親の遺産もすべて使い

切った。生活費のことは大まかにしか考えずに、海外でできる

ことをしてきた。世界を、日本を知ること。 

3年前には借金生活になった。計算は強かったので、50万に

なった時に100万になったら、その返済と生活費で毎月いくら 

必要になるのか、はじいて初めてゾッとした。それまで平気で

暢気なものだった。就活もしたが、数か月、いやもっと落とされ

てもなんてことはなかった。そういう風に自分を信じてみたのだ。

でなければ、すぐに先のことを考えて、震えあがっていたのだろう。

なにも考えていなかった。それで計算をしてみて、初めてこれは

ヤバいとなった。何を今更、なのであるが、その時まで借金が

いくらであろうが、なんの心配もしなかった。そういう風に信じた、

と言ったが、それはそういう風にするまでには、なかなか葛藤が

あった。すぐに心で承知できたのではなかった。どうにかなる、 

というのは、どうにもならない時を含んでいる。その時はどうする

のか?その時に、僕は気がつかなかったが、無意識に山に

帰ったのだろう。暖かい日の、清浄な山の空気の中で草を食べて

いた。それだけだったら続かないだろう。ではどうするか? 

答えは簡単だ。食うものも食えなくなったら、飢えて死ぬのだ。

そう思ったら、肩の力が抜けた。なんだ、そんだけのことだった

のか、と。ほっとした。今までに幾通りに死んだだろう。今度は

肉体ごと、そうなるだけなのだ。なんだ、それだけのことか、と

ある程度は終活も必要だな、と思ったぐらい。  

それはもう10年以上前に思った想いと同じではないか、と

思い出した。その頃は生きるのにうんざりしていた。もう生きる

のは退屈との闘いばかりだという想いだった。その時は、

無意識に飛び込むという無茶をやって、また人生が開けて

しまった。 死や愛を具体的に感覚的に陶冶するように捕らえ

られた。  それは散々、書いてきた。  

100万になったら僕の労働や投資キャパで稼ぐのは大変と、

何年振りかでビビったら、あっという間に就職が飛び込んできた。

今までで一番楽なのに、一番高給で、数か月で借金が終えて

しまった。それから一年後だった、コロナに見舞われたのは。 

その前に、岩場で岩に頭を打ち、海に落ちて半分死に

かけたが、 ・・。 

確かに、平穏だとか、運がいいとか、ぴったし言えるような

生活ではなかったが、ひとつ、どうにかなっていることだ。 

なぜ、膝の激痛に耐えて、それを医者なしで治してしまえ

たのか?僕の意志を越えてそういう風に働きかけたのは

誰なのか? 強敵コロナで外に敵がいる時には、どうして

内部の敵?の持病は去年のようにぐずついたりしないのか? 

ぶり返さないのか? なぜ、なにもかもバランスが取れて、

一方的に負け戦にならないのか?僕は僕でライフワークを

それなりに相変わらず、進めることができている。 父は86

まで生きた。100まで生きる、と言っていたが、それがよく

わからなかった。 頭がおかしいわけではない。そうまでして、

100までという時間を自分でいたいという気持ちがわから

なかった。僕はもう生きるのはうんざりしていた頃だったから。


今はもうそのことに、積極的にも、消極的に死んでもいい、

とかは思わなくなった。恐ろしいほどに自分は変遷して、

めくるめく生活は変遷・変化するから、何もしていなくても。 

僕が今は5000冊だが、その本を集めた理由について

思い当っている。本は僕にとって、幻滅と夢なのだ。

現実に(ノウハウではなく)役に立つことはない。僕には

つまらないことばかりだ。それは全体の印象のことで、

本は僕に細かさで時々、新しい印象を与えてくれる。 

僕はその印象を夢に託して、新しい世界を創造できる

気がする。だから、いくら本があっても足りることはない。 

そして、まともに読む気も起らないのだろう、ただ、そこ

かしこを読む。最も贅沢な読み方になるのではない

だろうか?と思っている次第だ。その著者の言わんと

していることでは僕はうんざりするが、その述べる過程

で多くの宝が、宝石が眠っていると思う、思える、という、

そう云う訳だ。それで僕はその本の中身ではなく、本

という造形が本棚や部屋に散乱、積み重なっている

のを見るのが楽しいのだ。本という存在へ愛着を感じ

ているのだ。それで未だに、一冊を通して読むことに

こだわらないのだろう。本という物質が好きなのだ。 

中に夢がある、ということに寂しさや郷愁、時には

恐ろしいドラマ、あり得ない事件、そういうものを

予感させられる、それが好きなのだ。 

お金は要らない。僕は夢を食って生きる。 生きれる

だけ生きればいい。そして、終われれば、それが

いい、最高に、  ・・そう思う。 

そういう夢は、なにも本ばかりにあるのじゃない。

すべてが、     ・・いや、
      

朝の光りに、  

扁平な君でも  その横顔は、  

肩にかかる  長い黒髪、  

夕に 美しかった  枯葉の緑が しおれ、 

ブロック塀に 咲く珍しい花は  

取れば、 わずかな根も  涸れてしまうだろう、 

明日は  雨を 教える

野良猫が  エサをと、 前日に、 

風は  冷たく、  

陽射しは  あたたかい、  

1秒の狂いもなく、 信号が変わって

少し遠くから 歩いてきたのに、  

なんでもないのに   僕らは なにかであると  

信頼するものがあるのは  どうしてか、 

奇跡でもないのに  僕らは  

生かされていると、  考えるのは  変なのに、 

子供のころ、 

王子や お姫様、 

冒険や  英雄の話を  創っては 

それで   遊んでいた、 ・・
  

夢を 食むのは  同じらしい


・・・・そう言ってしまうと、雀のように

僕に群がってくる夢の子供たちを思い出してしまう。 

僕の愛する子供たち。 ・・・・・・・・・・・・・・、  

人間には ならない 子供たち、 


きっと   そうなのだろう  


いつまでも、  ・・・


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夏はウスユキ草に会う [夏]

選曲をしながら、だんだん何もかもがわかるような、

そういう幻想な中に入る気分になる。 

なにかでありたい、または なにかになりたい、と。 

それは自分を離れてゆく、遠い、 遠い、 気になる。 

自分を忘れたいのだろう。

どうして今の自分では満足ではないのだろう? 楽しく

ないのだろう? 

特別、なにかの苦しい、悲しい時間ではなくても、その

なんでもない時間に耐えられない。それは無意識に

自分と対面してしまう時間だからか? 

なにか心に気分を盛り立てたい。心動かされるもの、

そうでありたい。 夢を語るものが多すぎる。 

僕らは夢の洪水の中にいる。溺れても、アップアップ

しないし、さらにそれを求めようとする。

そこにはなにがあるのか? もしくはなにがないのか? 

寂しさは、どこから生まれるのか。僕らをなにに誘うのか?  

一人でいたくないのは、なぜなのか? 

この日常的なことが、よくあることがなにも問題ではないか

のように、日々はそれを無視して過ぎ行く。

物もことも、それらを背景にして僕らが要求をのみ込む

ように、立ち上がり、作られ、広まる。 小さなパレードや

お祭りごと、そういう飾りやショウウィンドウが花開くように

多くの製作者が集まり、いろいろと事業を展開させてゆく。 

この一連の大騒ぎをドラマ化するのが仕事であるかの

ように、一大事であるかのように発展させようとする。

そういう一連の作業が僕らの文化であるらしい。 

そういう一連の作業が僕らの目標であり、目的であり、

今や生きがいであり、それこそがなにかであるのだ。

皆がこぞって称賛して、その価値を高める。それで

自分たちがなにかである、と思うから?それで自分は

価値があると思いたいから? 

なにかを協力して作り上げる素晴らしさが、僕らの

なにかであるから?  そこには確かに、なにかがある。 

僕らの精神や心を形にする、なにかがある。でも、

それは幸運な仕事の部類とか、運よく自分に合っていた

ツキとかに分類されると思う人は、すべてがそうではないと

知るほかはない。そこからも寂しさは生まれているのかも

しれない。

そこでは逃避の恰好で夢を見るのだろう。そういう人たちが

少ないのならば、金が稼げる風のプロのスポーツ選手や

映画俳優とか、テレビ局にCMで大金を払う企業もなかった

だろう。 

どれほど夢を見たがり、それを憧れる人がいれば、社会は

こういう風になるのか。バーチャルのキャラクターが死ぬと、

実際に葬儀をしたり、なんらかの舞台が設けられ、そこで

演じたりする。現実に存在しないものに価値を転嫁させる

のは何がそうさせているのか。それは僕らに違いない。

これは僕らがそういうものを創造すること、単に想像する

のではなく、そうしてきたことを望んで、長く長く、くり返して

いるのではないか、と考えてしまう。

僕らは心に誓うと、ほんとうにそうすると、それを創る能力

がある。インドの聖者のひとりは、ただの人だったが、古く

からの伝統の女神に会いたがった。何年も希求して、もう

これまでと、あなたが私の前に現れなければ死ぬ、と

決心した。そして、息も絶え絶えになり、気絶してゆく、

その中で女神は現れ、彼はそれを信じ、教えを説くように

なり、聖者になった。僕はインドでその聖者に縁のある

ホテルにしばし、泊まることになった。 

人が思いつめると、どうしてその現象がその人にとって

はまるで現実のように心に結晶化するのか。人は

死ぬ前にどうも自分を助けるように思えてならない。

(精神の死についてであるが)インドではそうして

生まれた神が多いように思える。その人が神という

バーチャルを固定化する。それが強いと、他の人にも

それが見えたりする。それほど、人の一念は強い。 

その人にとって、その神は真実になるだろう。

初めはバーチャルだったかもしれないし、誰もの神には

ならないが、その人にとってそれが中心を占めてしまう。 

聖者もなにかが貧しくて、そこに希求するしか自分を

救うことができないと思ったのだろう。それはその人の

人生なので、誰かが無理強いに否定することじゃない。 

でも、僕はその道を取らなかった。 

そう言えば、なぜだろう?それは僕には当然のことに

思われて、疑問には感じなかったからだ。寂しさから

神を創ることで、心を平安にしなければいけなかった

人はいるだろうけれど、僕はそうしたくなかった。

僕は人間として人間でありたかった、たぶん。神という

イメージは人間が作り上げたものだから、決まっている。

僕らを愛し、僕らを守り、僕らを平安に導いてくれる

ありがたい存在として、皆イメージしている。  

だから、だ。僕は自分に守られ、自分を壊したら死ぬと

思っていた。ある意味、それは正しい。それにはエネルギー

と柔軟な駆け引きが必要で、かたくなな心ではなく、また

肝心の処で踏ん張りきる力が内在していなければならない。

でも、そうではなく、自己を突破する者は無意識にでも

そうして来た、過去には多くの者が。

僕の場合は悲惨なほうだったのだろう。半世紀も死と

隣り合わせで生きなければならなかった。それは非常な

緊張とむなしさとを伴った。それに釣り合うエネルギーが

求められ、精神的にはタイトロープの上だった。 

だから、僕は一般的な神の概念を推奨しない。安心を

求めるのは安易さを容認してしまうことだと、思ったから。 

でも、今からはそれを解除しようと思う。そういうものが

あろうがなかろうが、僕らが人間であることには変わりない。 

蟻は蟻だ。僕らは人間以上にはなれないし、その必要が

ない。と、今は言えるからだ。

僕の前に、これだ、と言えるようなものはなにもない。 

それはそうだ、というものではなくて、僕がそうしたのだ。 

世界が理解できたら、それをすべて捨てる、それしかない

と感じたから、そうする。それだけの話なのだが、あまりに

単純なことで、理解しがたいかもしれない。 

こうしゃべることが、いかに気持ちいいものか。それは

プライドじゃない、素直さのことだ。ほんとに思っていること

を、これがそう、と言えるのは素晴らしい。なにかそれを

小難しく証明するように言ったり、言葉を工夫しなくていい。 

ただただ、それだけを言う、それだけだ。 

ひとつひとつ取り上げて、これがすべての証明だみたいな

話や論調はいらない。今まで散々言ってきた、言うことは

なにもない、というのがほんとうになってしまった。そんな

感がある。あるよ、ほんとに。 



清明さ、という  

山脈が  連なる、  

荘子は  そういう時に  巨大な 

鳳凰になり   天地を  抱きかかえた、 のだろう  

羨ましい  

まことに    まことに   

稀有壮大*、  という  

人が  世界になる、   そういうもの  

僕は  街と コラボして  

夏には  薄雪草と   会って  

電車では  駅弁を食べ、  

また  

縄文や  アイヌの人に 

逢いに  行きたい  





*
正確には、「気宇壮大」らしい。が、この書き方が

広まっている。定着することもある。
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もの憂い明日と [もの憂い]

我思うゆえに我あり、を考えると、我、我を守るゆえに

我ありに行き着いてしまうので、どうにかならないかと

思ったりする。  デカルトは全く違うニュアンスでその

言葉を言ったのだろう。なにかしらの存在証明であるか

のごとくに。

デカルトはその意味では健康だった。  理性は健全な

働きをしていただろう。 現代では理性はそれほど安全

な地位の上で活躍するには、狂気や病気が幅を利かし

て、動きにくくなっている。 


この ゆるい 動き  

もの憂さ、   そう言ってしまうと  

なにもかもが  その幕を浸透して  

出ていってしまう ようだ  

Say、 グッドゥ バイ、  と  

難民が  国境を越えるように  

遠い旅に  立とうとする 人たち 

僕は   ここで   

思索を  していなくては  いけないのだろうか  

なにかを  求めて  

どこかへ   出かけては  いけないのだろうか  

でも  そうなんだ、   今は  

ここに  留まっていたいのは  僕なんだ  

どうして 

突然、  ・・ 

わかってしまったんだろう? 

・、   ・・、   君を  

待っていれば  いいのだろうか? 

これからは  

苦痛、    悲惨、   それを  

眺めるだけ  なのだろうか  

これだけ  輝く 可能性も  見えるというのに 

ちょうど  この、 ここに  

留まれ、 と言うのか  

チャンスを  掴め、  と言うけれども  

狂った パレードに ついて行く 他に  

どんな 日の過ごし方が   あるんだろう? 

All The Time  

白い煙で  見えない  

ガラスの 灰で   眼が痛い  

窓越しで  世界を  眺めるために  

家に  帰るより     ないのだろうか? 

日々が  

もの憂い、  


この  ペイン、  

僕は  これを  待っていたのでは ないだろう    

世界は  なにも  期待したり、  

期待されて   いないのだろうか?     

まだ  戸惑いは  感じられないが  

これから  潮が   満ち始めるの だろうか?  

僕は  君を    待っているのだと、   思った  

君に逢う 前に  こうなるとは  

思いも  しなかったんだ  

僕は  なぜ、  ここまで来たの?  

これまで  来ることに  意味があるのじゃなかったの?  

そのために  ここまで  来れたのではないの?  

まだ  なにかを  発掘する時間が  

あると、  それは 誤解?  

僕に  なにが  できるのか  

これが  僕たちの  望むことなのか  

自然の  節度、 なのか  

冷静に  なれば  なるほど  

これまでの ストーリーが   見えてくる 、 

恐ろしい ほどに  

どういう 仕掛けの  戦いだったか  
                                    

そう、  そういう解釈も  成り立つ  

スリリングに  

刺激が  酸っぱいくらいに  

そう   反理性的に  反カント風に  

だから  

心で  弄(もてあそ)ぼう     

この 気の滅入る  サーカスを  

まだ  なにか  

そう、  なにかという 

一手が    ・・あるはずだ  

氾濫を  反らしてしまう   水門が  

それを   見つければいい  



もの憂い日は  まだ  しばらく  続くのだろう。  

この街をもう一度見るだろう。 陽光に照らされた歩道を

吐息で明るい色にするだろう。続いていることを証明する

ために僕はジェット機に乗るだろう。 

機内で開くページは重いだろう。パリパリに音のする本は

ただもの憂いにちがいない。 話声で声をかけられたかと

思ったが、この狭い空間でもまだ日本なのだった。 海外で


機内で声をかけられるのは普通だったが、国内ではほぼ

経験しない。まるで村のようだ。知り合い同士で話す。 

少し慣れるくらいがいい。慣れすぎると、うるさくなる。 

トランジットをどうやってこなしたか、もう覚えていない。

誰かに聞いただろうか? 

海外でよかったことなんか、あっただろうか?気がつけば

一番教えられたのは、自分が日本人だということだ。 

習慣や常識、というものがまるでその質が違う。その反射で

自分が日本人であるのが嫌でも反省させられる。僕は

日本人を無意識にやっていた。それを知った。アジア人だ

というのは香港に4回も行って、東京駅に着いてから、そこ

が香港にまだいる気になっていたことで、だ。 

不思議に香港人がわかっていたのに、東京駅で区別が

もうつけられなかった。ベトナム人も、中国人も同じ

だった。最近も、これが何人の特徴だ、というのが日本人

にも同じように見られる、と感じ続けている。島国の感覚

というのがある、とは聞いたことがないが、僕にはある、

と思っている、良くも悪くも。 

香港で何をするのか、というと、最もするのは歩くことだ。

歩いて歩いて、香港の空気を自分のものにするのだ(?)。

18000歩も歩いていた。

日本はジャングルの街は少ない。空気は清潔だ。それが

大きな違いだ。見えない空気が渦巻いていることがない。



でも 明日はまだ、  もの憂いのだろう、   W i ッ。 




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妄想めいた進行(ひと言だけ、その後のフロー) [妄想]

丁寧な言葉というのは、意識できない気がする。どういう

ことか? 自然に相手によって言葉遣いを変えるという 

習慣が身について、意識しないで切り替えているようだ。

怪しげな敬語も使う。 

Need You Now を聴いていて、曲はいいと。和訳の歌詞を

偶然見て、白けてしまった。愛は男と女の劇をベースに

それぞれの心に意訳されているのだろう。そう見える。 

僕の中心はそこにはない。それがふつうとは違うのでは

ないかと、気づかされたが、そうなのだろうか。

僕には体の要素は強く感じられる。恋が心のものだとは

少しも信じていない。体の感覚のものだと思っている。

心はむしろそれに錯覚させられる、騙される、ということ

だと。 それが美しいのだと。だから惑わされる。それが

魅力的で惹かれる。騙されるしかない、そういうものだと

思っている。そこでは迷う場面があって、あり過ぎるほどだ。

しかし、迷っているだけなら、実は悩まない。悩むのは、

どうしていいか対処の行動がわからないからだ。それは

錯覚の中にいるのだから、当然の帰結なのだが、失敗

するしかない。その中で恋を成功させることは不可能。

そう覚悟してしまうのがいい。僕らはそうできているの

だから、小利口に構えてもしかたないのだ。ただ、相手が

それを見越して、それを利用することはある。その時、

僕らはその正しい忠告を聞くことはできない。信じられ

ないのだ。すでに心は決まっていて、それを認めるのに

時間をかけているだけなのだから、結果は見えている。

周囲を悲しませるくらいのことなら、しかたない、想定内、

と諦めなさい。それ以上になる場合が予想できるなら、

それはとても慎重にならないといけないのだが、難しい。

その時、自分の気持ちを裏切って、それを確かめる

勇気が必要になる。大金を渡す時、大事な契約に印を

押すときは一人で決めない。バカバカしいと思っても、

それを押し切って、確かめる。その困難に打ち克つこと

が、自分の気持ちを信じすぎない限度を知ること。 

それはこの先きっと必要になる。 と、ふつうにすべてに

言えることを書いたけれども、今はオレオレ詐欺の応用系

の詐欺が多く、これに当てはまるのに気づいた。 

つまり、それほど僕らは自分は大丈夫だと思っていることで、

そう思う人ほど、実際を知らない。困難は自分を信じないで、

気持ちを切り替えることは思ったよりも、できないことなのだ、

と誰もが認識に不足していること。その時を振り返って、

自分の考えていることに、実際の経験が伴っているかを

確認しておくことは役に立つ。できれば、自分のそういう

座右の銘にどれだけ自分の経験の裏打ちがあるか、チェック

しておくことが望ましいのだが、・・・。 

僕らは感動したことを信条のように心に留め置いて、信じるが、

映画でも小説でもそれらは撮り方、書き方がある幅、ある表現に

限定されている。しかもその範囲で感動するように撮ったり、

書かれたりしている。それが監督や作家の技量というものだ。 

僕らは恋に落ちるように、それらを見たり、読んだりしたがって

いる。そういう前提が自分の内にあるのを感じないだろうか?  

静かに見つめてみれば、感じているのを、その期待を感じる

はずなのだが、 ・・。 

そういう僕らの「自分」が、恋に落ちる。それはこれは確実な

投資だと思い込んだり、息子の危機を救いたいと思う、その

人道のイズムを親の役目だと思い込むのも、そういう前提を

心に持っているからだ。 

僕らのこの憧れは古い。遥かに昔から僕らはそういう自分に

憧れてきた。なのでそういう期待がされる機会が来た時に

それを裏切るまいとするのだ。そして、罠の中に飛び込んで

しまう。いついかなる時でも、急ぎ過ぎることはない。待つ。

少しでいい、待つ。短い時間で、それを確かか、確かめる

方法を考え、それをする。 

恋に落ちたら、それがまったくできなくなる。だからこそ、

それに騙される経験はとても貴重で、常識的に限度を

越えなければ、それに騙される必要がある。わかる

だろうか?  僕らが世間体や暴力に弱いのは、そういう

経験が少なすぎて、経験から学ぶ機会が少なくて、それ

から身を守る方法にたどり着くまでの習慣がないからだ。 

あの人のことを想うと、もう胸が騒いで、高鳴り、涙ぐんだり

さえしてくる。それは少しもクレイジーなことではない。 

僕らの体に備わった生物的な精神作用で、ちゃんと体内

では化学物質がホルモン関係?にか、放出されるのだ。

酒を飲んだら、酔うように、それも僕らをそれなりに狂わす。

そして、酔いたい時があるように、僕らのほとんどは恒常的

に恋に落ちたいのだ。滅びると知っても、その火に焼かれたい

と願うのだ。― 眼が覚めるまでは。

(ここからひと言がふた言に・・・)

そういう意味でなら、僕は何度も死んでいる。そして、その都度

死に損なっている。うまく逃れてしまうのだ、自分の意志に

よってではなく。それはその夢の中に、百年も千年も自分の

過去が望んだものの遺影や、カスといったものが匂うから。 

それから逃れられずに、僕らはさ迷う。心が涸れるまで泣きたい。 

もう失ってしまったもの、取り返しのつかないもののために。 

僕らは祈りを捧げる。 

強い精神はそれらを避けることを知っている。そして、行き過ぎ

てしまう。気持ちを無視しても勝ち続けようと思う。頂点が目的

になり、そのために策をめぐらせて、犠牲者を作り、それを無視

するのを信条にする。そして、最後はヒトラー、毛沢東、スターリン

など、他の数多の人々がそれに中途に連なって、最後に愛に

飢えてしまう。

僕らはどちらの方向をとっても成功は叶わない。全体でそれを

得るという方法はない。恋や投資でブレイクしてしまうか、

第一人者や権力を求めて適当に留まれず、裏切りか愛の飢餓

に陥る。これは綱引きではない。どちらにも解決の方法は

初めから「ない」ことに依る。 

小さな幸せはそれだけで十分、美しい。僕はそれを忘れない

ようにしている。いつまで経っても僕らは諦めない。次はうまく

やれると思うから。そういうことであるなら、ことは楽だが、

次はもう条件が変わっていて、それまでの経験を応用させる

だけでは不十分なのだ。それで十分な例はある。それは

その人とその成功の方向が合致している時だろう。それなら

僕らはいつでもうまくやっている。頂点は振り子の極点の

ようなものだ。そこまでで後はない。そこからまた逆に振れる

ようになっている。その自然な成り行きには逆らえない。

頂点で留まれるのはそう長くない。それは個人の力量の

問題ではなく、全体の流れに逆らう問題だからだ。どんなこと

をしても逆らいきれない波が来る。彼は一番大事なものを

犠牲にしなければならないだろう。一人で支え切れるような

ものではない、バランスがある。     

今、君が必要だ、今、君に逢いたいのだ、と切に思っても

彼女の運命をコントロールできない。できる時に、できた時に、

またその時に調子を整える。愛だけでは僕らは生活できない

のを知っている。そして、愛だけの生活ができても、それだけ

では愛を維持できない。愛はそうやって育てられないからだが、

僕らの生きる意欲との犠牲を伴う調整がどうしても必要だ。

ドラマで見るような必要な節制は惹かれている時にはそうでき

ないだろう。絵にかいた餅という昔の言葉があるが、知って

いても役に立たないだろう。

夏目漱石は I Love You を私はあなたを愛しますとは、日本では

訳さない、月がきれいですね、と訳す、と東大で学生に教えたそう

だが、笑い話ではなく、実は理に適っているのだ。愛はむさぼれる

ほどに長持ちする薪ではないのだ。じれったいほどに。 

僕のように短気では育たない。相手が夢で隣にいるので‐は

なにか事情があるのだろうが、・・・。 

語れることが多い各章のことに気づくとともに、全体にかかわる

結びつく肝心のことの等々がまだ見えない。こうしていても

ただ書いているのではなくて、そこからしか見えないものが

見え始めるのがわかる。

誰かが、だから書くのよ、と言っているような気がする。僕は

まだこのコントロールされた生活をまだ続けるようだ。

僕の好奇心という謎好きの肝を掴まれているらしい。そう思う

と、自分で納得がいく。

まったく。どうすればいい、というのか。誰か他にできるのだろうか。

もどる場所もない。大まかな計画の下でさ迷うことをしてきた。

どう進むとか、どう後退するとか、できないように歩いてきた。

そうではないか。そんな判断はいらないと、僕は抜け殻の自分

を道具にして、予感も直感も頼りにせず、街にあふれている

人生の交通標識のようなものは振り捨ててきた。もうどこを

歩いているかではない。 

僕は、・・ 僕は、 ・・ 死んでいないのはもちろんのこと、

生きている気もしない。死からの開放としての生の喜びと

いうテーマ、そういう生活も明るく振り返れる、ただの過去

として。 

なにかあるはずなのだ、この生きていられる手ごたえが、感じ

られなくても。現に、生きてるじゃないか。どうすればこの

歯がゆさを、  どうすれば?  おいおい、  歯がゆさの

理由がわからない。ただ(感覚が)あるだけなんてないだろう。


こういう僕が、 ある。 これは何なのか? 

なにも、 苦しいわけでもない。  悲しいのでもない。  

これは 何なのか?  

君は  そこにいるのか?  ほんとうに  いるのか? 

ほんとうに?  よく聞いてくれ、僕は言葉をひとつ、ひとつ

噛みちぎりながら、 聞いている。 

ああ、   うう、    君も  いるのか? 


I  Need you  now 

君が  必要だ、 という 叫びが  聞こえる  

聴こえる、  

そうなのか?  

これ以上、  人間で いられない  

これ以上  むなしさで  いられない  

これ以上  そういう僕では

いられない  

そうではないか  

自分のためではなくても  

君のためかどうかも  もう  

わからないよ  

僕は  どうにもなっていないよ  

でも  

どうなっているんだ、  

空気が、  酸素が、  

足りない  

水が、   愛が  

足りない  

光が  あたたかさが  

足りない  

このまま  僕は、  

このまま  僕は、  

ああ、  うう、   

話していた、  あの頃  

何を  ・・ 話していたろうか? 

コロラド州に  世界一の  

バンジージャンプが   あるらしい 

400と 何m、  だったろうか  

そこから  飛びたい  

今   飛びたい  

アイム、 ナウ  

Oh,  おおお、  おうおう  

How を 知らない 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・ 

大漁、  

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

イントロ、 

・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・

And  I  ワンダーぁ 

僕は    たぶん  

これまでの  いつよりも

僕、 を   知っているよ  

これが  

この姿が 、 ・・ 


fu、 u、
 
これまでの  いつよりも

僕、 を   知っているよ  

 
これまでの  いつよりも
  
これまでの  いつよりも

ああ、  

これは  何か? 

これは  なにか 

これは  

・・・・  




:: 
妄想めいた進行と、浮き沈みの中から、 

触れるはずのない心の裏を、そのあり方を 

直接に感じた、というだけのことです。
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心と精神のシーソーゲーム [ゲーム]

精神と名付けたものは、実際、何なのだろう? 

精神とは、なんだろう? 

心の一側面を担うものとは知れているが、その

本当のところはどんなものを言うのか? 

精神力、という。どんな力? 

僕のうわべの神経質さや繊細さが、弱そうに見えて、

内部は自分の意思を動かさない強烈な力がある。

世界に逆らっても、それは変わらず、そういうことが

起きたら、1mmも動かないだろう。と予測できる。 

臨機応変さが必要でなければ、それは動かなくても

いいのだから、世界対1人になる。それをやって来た

からわかる。 

そういうものも頑固さに見えるし、精神の一つの動き

なのかしらん、とぞ 思う。 


色は ブルーが いい  

寝巻とは 言わないな  バスローブを 一枚だけで 

裸足で  夜の街を  歩く  

警官に 遭うのはよくない  法に触れるかもしれない 

でも  ハミング調で   酒場を 目指す  

首から  ぶる下げた  金の鎖が  

精神の  象徴かも  しれない  

耳に 快い  言葉をころがして  

なにかを  待っている気 になる 

カウンターの  隅が  いい  


微妙な差 は ある 

あたたかい 心  

あたたかい  精神は  ズレる  

精神が  マインドなら   

心は  ハートだと 言うと  

それで  ジャパン側からは  当てはまる

精神は 情緒に 沿わない  

心は  情緒と  区別が つきにくい  

精神は  知に 傾いているのだろう  

スターティング  Over  

精神は  恋に 似ているだろうか? 

平凡な  しあわせを  夢見て いるように  

それは 短い夢に  なって  どこにでも

ありそうだが  シャボンのように  消える  

精神は  じゃ、  夢か  

ありそうで  短い夢のように  

仮初めのものか   儚いものか  

僕らにとって  精神は  記号のようなもので  

それで  恋の ように  ドキドキしたりしない  

恋は  記号のように  暗号だろうか?  

彼の  彼女の  揺れる気持ちは  

暗号よりも  キーワードが  変化してしまう  

つかみどころのない  不安な  要素  

彼の 精神を  欲しがったりしない  

彼の心を  彼女の心、 を つかむ

イズムは  精神に   合うだろう  

精神は  戦う  

心の 戦いとの     違いは なんだろう? 

思想と  戦い   揺れる気持ちと  戦う  

どちらも  揺れるのは  間違いないようだ  

僕らは  高貴な精神に  会い  高い感興に  

包まれたり する  

でも  君に逢いたい、  という気持ちは 

強くて   高貴な精神でも  それ(精神)に  

逢いたい、とは  ならないようだ  

精神は  レッテルに  なりそうだが  

心は  告白の 看板になる、と  

精神に  対抗する、だろうか? 

肌合いが  違うようだが、   どう? 

たぶん、  ふたつとも  水なんだろう  

精神は  固くなった  氷りのようで  

心は  形を変えやすい  水溶体なのだ  

同じものでも  それをどう 扱おうかで  

僕らは 心で  それを  マインドや  

ハートに してしまう  

そして  同じものから  育っても  

兄弟  姉妹でも  違う人生を  歩むように  

彼らは  厳然として  袂を分かつのだ  

そして  感情のようなもの を  生み出す

そして 一方では  知性のようなものを  生む  

それを  決定する  化学反応は  

媒介があるのだ、  いつも   

意識という   料理の味を  整え  

時には 決定してしまう  調味料のような  

君は   塩? 

心は  固めるなよ、  と言う  

精神は  気まぐれに 形を変えるなよ、  と言う  

心は  あたためたい  

精神は  突きつめたい  形を  

僕らは  何を  錯覚して いるんだ? 

僕らは  ほんとうに 異なったものを  扱っているのか?  

え、  僕らの 考えていることって  

ほんとうのこと?   

それが  決まらなくて  ほんとうに  

真実とか  真理とか  言ってること、  

導けるの?  大丈夫?  

せっかく  泥団子を  饅頭に  

固めたけれど  それ、  

水に  溶けちゃうんじゃ  ないの?  


僕は  思うんだ  

自分が  どこにいるのかわからない  

それに  慣れることはないにしても  

隣にいる  呼吸くらいは  つかみどころを 

知る  

そうして  世界は 変わっていくんだけれど、  

すると、  どんどん  この世の約束事が  

崩れてゆく   波にさらわれる  海浜の 砂山、 

なんだよね       

現実は  夢じゃないけれど  

現実が  それまでと 違って  いよいよ  

夢っぽく  見えるんだよね  

僕は  バスローブで  

夜の街を  裸足で 歩く  

自分の 夢を 見る  

ペイメント   ストリーター   ブルーカラー 

ベストの  ドレスを着るって  なんだろう  

それを  褒める相手が  いなきゃ  

フィーリング、  感じてみて  

僕の 精神  んなものは  ないんじゃない?  

僕の心  んなものは  夢なんじゃない?  

それがなければ 生きられない   

そういう類の   そういう 肝心の  

僕らの  グーッ、  なんじゃない?  

たぶん、  それを 認めないのが  僕らの  

争いの  原因だよね  

僕らは  まさに、 まさに  それを   

守ろうとするから  

自分を  守ろうとするから  

Work  Out  

どのみち  働くしかない  

楽しく  働きたいよね  

僕らは  どうやって  これまでやって来たように  

決められないものを  決めるんじゃなくて  

どうやって  決めないことを  決められるんだろ? 

そんな  勇気を  持っているのだろうか?  

それを  発揮するとは  どんなことだと  

誰か  言っていただろうか?  

コロナの 暗雲が    収まるまで  

11階の ビルの 屋上から  

下を    覗いてみて  

自分を 守る  強い力を  

感じてみて  

ここで 言わなければ、  と思うと  

黙ってしまう   気持ちがあれば  

素直に なれるわけじゃない   

僕らの  心の  葛藤というやつ  

僕らは  いかに  心の 奴隷か 

僕らは  いかに  精神に 支配されるか  

まだ  心が  幻じゃ いけない  

まだ  精神が  日照りじゃ  いけない  

僕らは  壊れそうだから  

余計に   矛盾に 満ちた  

おかしなことを  しないと  それが  

わからない  

そうかも  

そうなの   かも  

ストロング  ウィスキー  

ラビング  フロー  

あるだけ  やるよ  

いいだけ  持ってきな  

それが  節度、 さ  

いつのまにか  波が  来ていた  

足まで   濡れちまったよ  

夜の 海岸は  気持ちいいから  

試してみて  

それが  冒険、 さ  

燃やされて  精神が  焦げると  

好きだと  感じるけれど  

好きじゃないみたいだ  

30年も  気がつかなかったが  

あったのは  愛したい、 という  

それが  君じゃなかったのが  

今も  わからないんだが  

僕は  燃やされて いた  んだ  


僕の  壊れなかった  精神  

壊れそうになった   心  

引き裂かれる  心と 精神の  綱引きに  

身を  任せたのだろうか?  

そこらが  あいまいなままだ  

ここにいると  思ったのは  常に  

君のことだった  

どこにいるのか、と  迷ったのが  

いつも  僕だった気が  するよ  

精神を  僕だと感じたのじゃない  

けれど  嫌いではなかった  

心を  捨てられると  感じたけれど  

それは自分の中では  好きだった  

水中は  水の中の  世界であり  

海上は  海面の上の世界で  

空が   あ っ た  抜けるように  

心は  じゃ、  海か  

精神は  風か 

僕は  月か?  

その力(重力)は 微弱でも  

1日に  2度の  満潮を  引き起こす  

沈まない  太陽の 地帯があるのなら  

月が  沈まない 地帯も   あるのだろう  

むなしい  

すべてが  むなしい    だから  

なにか  救いがあるという意味で  

僕らは  なにか  ポジティブに  

いいことで  終わらせたいのではないか  

いいんだ  

今夜は   ネガティブで  

明日  どうせ   晴れちまうんだから 

朝の  空気を吸って  

どうして こうも   すっきり、忘れてしまえるんだろう?  

皆、  忘れないように  出かけてゆく  

社会を  背負っているのは  彼ら、 なんだろう  

自分も  そうだった  

やっていることは  同じだった  

思っていることが  異なるだけだ  

世界を  背負っていた  

革命が 必要なのは   わかっていたが  

歴史上の  どんな  革命も  

汚いと  感じられた、ので  

なにも  参考にならなかった  

なぜ  戦争も  革命も  汚いのか?  

それが  答え、 というもの

それは  正体、 というもの  

それが  僕らというものなら、  

精神なのか  心なのか  

その双方に  解答が  あるはずだろう  

別々の  答えなら  まず、意味がないだろう  

精神の側でも   心の側でも  

双方が  納得いくことだろう  

さて、  

証明 終了、  だろうか?  




さて、 

それでも  愛したいだろうか?  



それが  聞きたい 


おうおうおう、  子供たち  

公園で  野球を  しているよ  

ラジオの 時代、   知っているのだろうか?  

あの頃、 夜に 空襲で  

空が  赤く    燃えたのを 

夜が  紅く  染まったのを 

僕は   

知らない
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完璧につぶやくなら [つぶやき]

書きたくない気分が、誰にでもあると思う。そういう時は

書かない。そうなのだ、それがいい。 

僕は自分がわからない。わかろうとすればわかるが、

それをサボっている。それで自分の気分を無視してしまう

ことも多い。苦しみや悲しみのネガティブなものが強烈

なのは、自分の内にいれば通常のことで、自分の外に

いれば、それほど強いインパクトは受けない。だから、

寂しさというのは弱いインパクトなので、なかなか感じる

ことができないでいる。悲しみがマイナスにならないのは、

マイナスにならないのではなく、インパクトが弱いからだ。

悲しみは普通の寂しさ程度にしか感じない。これは心を

閉じても同じ現象になるが、それとは違っていて自分から

離れた位置に心の中心があるからだ。そんなことができた

理由は聞かない。いろいろと困難に対して心を工夫する

過程でいつのまにかこうなったのだから、できるかでき

ないかという問題ではなかった。 

これは内容とは違い、見た目は精神的にタフになること

だろう。実際は多少はそうだろうが、と思うくらいで舞台に

立つ役者の苦労工夫を知っている本人としては、それ

ほどタフになったとは感じていない。 

ただ人とは異なり、自分という枠から距離を取ることが

どういうことかわかっているので、その点での便利さ、

有意性があるとは感じている。それでブログを書くのを

嫌がる自分を無視することができる。書く主体が自分で

なくていいからだ。最低限の知性を働かせれば、それは

できることだ。体があまりに疲弊したら無理だろうが、気分

については変えられる。そういうポジティブに変化させても

そこからの気分というのはあまり選択できない。やはり、

自分に任せるほかない。そこらはあいまいだ、認識して

いない。 

書きながら、なぜ書いているのかわからないので、なぜ?

という意識がバックにありながら書いている。こういう精神の

軌跡がなにかであると、信じたいからまずそう思うことを

前提にして書いているのかもしれない。いつも、書き終わって

からわかればいいのだ、書き始めたら終わりを感じるまで

書けばいいと思っている。同じことを読んでいる人は飽きて

きただろう。

最近は緊張感がなくなってきたので、わかりやすく書いている

ことが多い。それは人の通常の考え方に合わせて(=おもねて)

書くということなので、説明のうまい先生のようなものだ。授業は

よくわかった気がしたが、いざ家に帰って復習しようとしたら、

できない。わかったつもりになっただけなのだ。算数でもやはり

自分で苦労して解いた問題は類似問題が出てもすぐにわかるが、 

一度でも解答を見ておいて覚えないと、問題は解けない。 

そのためにどういうインパクトが必要かと緊張したが、当時は

その緊張の元がそこにいたからそうでなくてはいられなかったが、

今はその束縛がない分、楽に流されてしまうのだろう。いつも

どおりに思ったように書いても、その気分がそのまま文章になる。 

ほんとうにおしゃべりになった。 

そこらあたりがこれからの課題なのかもしれない。 

標準を立てるという習慣を捨ててしまったので、こういう時の

方針の立て方がわからない。面白い。簡単なことのほうが

わからなくなっている。知的サンプルは山ほどもあっただろうに。

それでも流されないのは、流れるものを見ている側にいるから

だろう。まったく基準がないことはないが、それは見えていない

くらいに少ない。道というものがないのは知っていたし、仮に

そう呼んで示したことはあるが、それがそのままになったのだ。

方向に迷う?今はそれがないようだ。今日は。 

さて、今実際に何についても話していないことは知っているが、

それは初めからだったのだろう。 

ここまで書いても新しい地平が切り開けない。日も変わって

しまった。 


彼は言うだろう。 彼は言わない。 彼は思った。 彼は思わ

なかった。 彼は提言した。 彼は提言したくなかった。 

君は どう思う?  それともどうとも思わない? 気にして

みて カイワレ、   どうにも可愛くないね  

できるなら 悲しくなってみて    というのも おもねてる

僕らは説明できないものに囲まれているけれども、どうも

それが説明されていることで、安心しているようだ。 

それで分かったつもりになることが大事で、わかった、で

なくてもいいんだ。 そこに有意義をもたらしたくて、やれ

事実とか、現実とか、それで言い足りないと、証拠とか、

真実・真理とか言い出すけれども、それもレッテルになって

しまっていないだろうか? レッテルではないそのものに

動かされる時、僕らは錯覚を除いて、それを感動と呼ぶ。

経験と呼ぶ。 それが本当だったと、それらのレッテルで

名前をつけるけれども、それが感動していない者には名前

が伝わるだけだと、気がつかない人が多いのは、どうした訳

だろう?

またくり返しに戻ってきてしまった。僕の頭の回路もそんなに

パターンが限られてしまってきた、ということか? 

もしかしたら、これは認知症の前兆の、そのまた前哨戦の

ようなものかもしれない。ここから何かしないと、そのレール

を歩かなければならいとか、と考えると一定に刺激的だが、

まだまだるっこしく、どうも眼は覚めないようだ。 

どうもここまでくると、こういうことのようだ:: 

自分から離れることを知ると、楽になる。自分に向き合わない

からだ。そうなるまでは楽なことではなかったが、そうなってから

はそうするのが楽なのだ。この楽さはハッピーでもあるから、

こうして書いていることもハッピーなのだ。それで本を読んだり

なにか実社会のことをするのはどうしても自分に向き合わねば

ならない。それで気分に関わりなく、こうして書くことで今の

気分を楽しむことができる。これって、普通の人が楽に流される

ということとまったく同じことだ。僕が社会には流されないかも

しれないが、今の自己内部の状況には流されている。そういう

ことだろう。ここから反省して、また始めよう。

ということで、またやり直し、ということで。 (僕の生活は

この調整と呼べるような精神の海に浮かんだ状態なのだろう。

これは僕らが日常に無意識にしていることを意識化させて、

できるだけ”僕” を意識に同一化する作業なのだと、その実態

についても考えてみるのが今後の課題か)



スルーするもの、 スルーしないもの  

僕が 「そこ」 であるもの、  ないもの  

なにか  詩的に 終わりたいと  考える  

ここで  心を  切り替えるのだろうか  

やめておくのだろうか  

なあ、  もう いい加減にしないか?  

な、  僕 

いいんじゃない? 

君が そうなら  

孤独になりたがる 必要もないし  

寂しさを  恋しがるのも  

いらないんじゃない? 

無理に  人間らしさを  求める、

それも  ないんじゃない? 

ああ、  僕よ  

いい子に  ならなくても  

いいんだよ  

その必要さは  自分が  引っ張っている  

だから、

君が  それに  無理するようなこと、  

じゃないんだよ 

もう  しっかり  見えているだろ?
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グレタ15歳の演説 [環境問題]

まだ未熟ながらも、世界の一端を変えるべきと、その

可能性を示唆したことが、15歳なので世界に衝撃を

与えた。僕には彼女がジャンヌ・ダルクに見えた。

世界を相手に発言することは難しいことではない。 

その明確な展望と意思を持っていればいい。 

この新しい子たちがこれから戦い、活躍するように

僕は応援する。

以下、CNN より、3年前、12月 :::


「 15歳の環境活動家、COP24で演説
 
(CNN) 「あなた方は、自分の子どもたちを何よりも愛している

と言いながら、その目の前で、子どもたちの未来を奪っています」

――。スウェーデンの環境保護活動家、グレタ・トゥーンベリさん(15)。

ポーランド南部カトウィツェで開かれた第24回国連気候変動枠組み

条約締約国会議(COP24)で、集まった190カ国代表の大人げの

なさを嘆き、子どもたちの未来のために行動するよう訴えた。

COP24では15日、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」

の運用ルールについて合意したものの、目標を達成することは

できなかった。科学者や交渉担当者は、化石燃料の使用や

森林伐採を食い止め、地球温暖化に伴う気候変動を避ける

ためには、ルール採択だけでは到底不十分だと訴えている。

トゥーンベリさんは今年9月、学校を休んでスウェーデン国会前

で座り込む抗議運動を展開し、数千人の子どもたちが温暖化対策

を訴えるきっかけを作った活動家として知られる。

COP24で12日に行った演説の全文は以下の通り。


私はグレタ・トゥーンベリといいます。15歳です。

スウェーデンから来ました。「クライメート・ジャスティス・ナウ」

の代表として演説しています。スウェーデンは小国なので、

私たちが何をしようと問題ではないと言う人がたくさんいます。

でも私は、どんなに小さくても変化をもたらすことができると

学びました。もし、たった数人の子どもが学校へ行かなかった

だけで世界中の注目を集めることができるのなら、私たちが

真に望めば力を合わせて何ができるかを想像してみてください。

しかしそのためには、それがどんなに不快なことであっても、

はっきりと発言しなければなりません。

あなた方は人気低落を恐れるあまり、環境に優しい恒久的な

経済成長のことしか語りません。非常ブレーキをかけることだけ

が唯一の理にかなった対策なのに、あなた方は私たちをこの

混乱に陥れた、あの悪いアイデアを推進することしか口に

しません。それは大人気のない発言です。その重荷をも、

あなた方は私たち子どもに負わせているのです。でも私は

人気取りのことは考えません。私は気候の正義と生きている

惑星のことを考えます。

私たちの文明は犠牲にされています。ごく少数の人たちが

莫大なお金を稼ぎ続ける機会のために。私たちの生物圏は

犠牲にされています。私の国のようにお金持ちの国の人たち

がぜいたくな生活をするために。その苦しみは、少数の人の

ぜいたくのために、多くの人たちが払う代償なのです。

2078年に、私は75歳の誕生日を迎えます。もし私に

子どもがいたら、一緒に過ごしているでしょう。子どもたちは

私にあなた方のことを尋ねるかもしれません。まだ行動できる

時間があるうちに、なぜあなた方は何もしなかったのかと。

あなた方は、自分の子どもたちを何よりも愛していると言い

ながら、その目の前で、子どもたちの未来を奪っています。

政治的に何が可能かではなく、何をする必要があるのかに

目を向けようとしない限り、希望はありません。危機を危機

として扱わなければ、解決することはできません。

化石燃料は地中にとどめ、公正さに目を向けなければ

なりません。この制度の中で解決することがそれほど難しい

のであれば、制度そのものを変えるべきなのかもしれません。

私たちは、世界の指導者たちに相手にしてほしいと懇願する

ためここへ来たのではありません。あなた方はこれまでも私たち

を無視してきました。そしてこれからも無視するでしょう。

私たちは言い訳を使い果たし、時間も使い果たそうとして

います。私たちは、あなた方が望もうと望むまいと、変化は

訪れると告げるためにやって来ました。

真の力は人々のものなのです。

ありがとうございました。    」

greta-thunberg-un-climate-conference-super-169 (2).jpg

学校を休み、国会前で座り込む抗議運動を展開したトゥーンベリさん


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宇宙空間の旅としての自分 [自分]

宇宙空間というのを想像すると、細かい危険な漂流物は

思ったよりも多い。恒星・惑星・衛星も少なくないが、傍を

通過するには遠くて、睡眠中に通過するとか、それは冷凍

睡眠だろうか、SFではそれを避けるためにワープ航法が

実現している。 

宇宙空間ではどうなるかという実験をしていると、忙しく

て遊ぶ暇もない。が、それがなければ案外、暇すぎて

いくらでも退屈できるのではないか。ほとんど自動で

環境は整えられるから、なにか船外作業でも生じなければ、

やはり寝るしかない、という。 

これはお年寄りに最適の環境だが、知的な老化の個人差が

あるから、それ以外はアンドロイド化の技術がカバーする

だろう。 

大きな窓ではないだろう。その窓から黒い宇宙空間を眺める

と、そこは深いと思ってもすぐに浅いのか、深いのかの区別

がつかなくなるのかもしれない。同じものを見続けるから、

退屈するだろう、とその場にいない僕らは想像するが、僕は

最初は惹かれると思う。ダーウィンはいろいろとビーグル号で

島を訪れたが、船から見るそれらのなにもない荒涼たる砂漠、

数えられるほどの立ち木とか、草、そんな砂漠を見て、ダーウィン

は惹かれたそうだ。まだ23歳くらい。何もない、ということが

人を惹きつけるものがあるのを僕はこれを読んで知ったし、

思い当たる気がしたのだが、どうしてか、とは考えなかった。

考えるまでもなく、それは非日常で、異常であったから、それ

が人を惹きつけるのは、当然と思った。それは僕の経験から、

特別にそう思ったのかもしれない。それは当時はわから

なかった。 

だから、宇宙空間には最初の経験では想像してもわからない

異常な感覚に誘われる可能性がある、と僕は考えている。

例えば、高山にしても空気や空の青さが違い、その開放感

からして山岳写真を見るのとは大いに違う。人によっては

別世界の絶景に出会ってしまう。しかも、そういう機会は

ほぼ二度と訪れないと、山行を重ねるうちに気がつかざるを

得ない。一期一会なのだ。 

なので、宇宙空間にま向かうということがもう体験になり

やすい。月へ降り立った宇宙飛行士は神が導いていると

感じたそうだ。そうして導かれるままに行くと、そこに石が

あり、それをサンプルに持ってきた、と回想している。

それが現在の月の石のサンプルなのだから、彼にとっては

ただの石ではなく、一種の宗教体験なのだ。彼の人生の

一部になっているだろう。

それは心を俯瞰した側から見れば、僕らの日常が実に

狭いもので、単純なことが単純さという僕らの定めた概念に

収まっていて、それがいかに破れ難いかを現わしている。 

それは僕ら自身が、むしろ社会経験が主因となって、僕ら

の生活をそこに閉じ込めている、ということなのだが、それが

知(判断)と自己とが連動しているために、僕らの思考からは

僕ら自身の思考を十分に客観的に見ることができない。そこ

から来る、一種の錯覚と言っていい。

仏教で一切色=夢である、というのはそれか、それに近いこと

を言っているのではないかとも思う。 

そういうことから抜け出すためには、非常識な方法になるのは

論理帰結からも当然なわけで、退屈なことをするのも納得

できる。例えば日常性が壊れるまで、一つのものを見続ける、

とか。ま、やらなくてもいいのだが、一度やると、思った以上に

恐ろしく退屈なのを発見する。そこでやめてしまうのが、オチだ。 

僕らの生活は意識を働かせて、そこから自然の仕組みを発見して

それを応用して、生活に役立てることで生き抜いてきた、と思って

いる(文明文化)。実際は地球規模の偶然がホモ・サピエンスを

環境保護したので、他の人類は絶滅した中で助かって生き延びた、

というのが僕らの真のきっかけなのだが。 

地球のスパンは人間には長く、そんなことはとうに忘れている。

近年まで60年の寿命が80年に延びても、地球からすれば

数秒、長く生きられる、というくらいだ。僕らの単位はせいぜい

10年で、それをひと昔とか、ひとスパンと思っている。 

その10年で周囲がいろいろ激変しているように見えるから、

そのスパンでものを見る習慣になっている。習慣になったこと

には気がつかないようになる。僕らは忘れ去ろうとして、短い

時間に逃げ場所を見つけるのがうまくなっている。それは

それで役立つ。そういうくらいのことで後々害がなければ

それでいいに違いない。  

つまり、人類全体で全体の心に見えないゴミを増やし続けて

いる。現実のごみ問題がどうなっているかを見れば、僕らの

心のつけもどうなるか、予想がつくだろうが、環境問題の

ように差しあたっては害は見えないから、後回しにされる。 

しかし、それをもって反省の機会にする人は限られるだろう。 

それは僕らがそのまま自分を顧みないことから起こること

なのだけれど、それは戦争も暴力もその動機やこれまでの

経過という歴史も、すべてが集約していることを感じ取れない

ことから来ている。すべてが「自分」という根本も社会(世間)

もそれらは概念ではないし、誰の考えでもないことだ。

目の前の事実を見ないのは、そこから来ている。 

自分のあり方がそれに集約しているのは、概念的に誰もが

納得できるのに、それを体験的に自分のこととして考える

行動体制を取るには、やはり身近な体験しかない、という

事実がいつも見逃されている。 

生は死の補完を必要としている。戦争体験者が戦争絶対反対

を必ず訴えるが、未体験の僕らの反対は概念的訴えで、絶対

ではない。それは小市民的訴えに貶めて、国家では戦争の善

を論議する学者・論者・政治と大同小異のようなものだ。アメリカ

で銃乱射事件がいくら起こっても、銃規制は遠く、その製造や

販売の関連会社に勤める社員は全員、銃は身の安全を守るもの

だと論を擦り変え、声をそろえて主張する。彼らは家族を守って

いる(給与を出す会社を)つもりかもしれない。 そういう欺瞞自身

である自分を見ないか、認めていないのだろう。 

自分とはあなたのことではない。自分というものはあなたが

作った、世間=親とか知人友人とか、組織・共同体・法律・規則

とかと共同でつくった仮想本体だ。あなたの頭の中にある。 

それが生活や日常という世界を中心で操作している。

政府が後手後手なのは、政府が悪いというよりも、政治家自身が

新しいコロナに対応するには今までの出世体験や利権体質と

いうものから離れられない政治世界の自分=世間・社会を引きずって

いるからだ。それは日々古くなる体質という固定化の方向でしかない

概念世界だからだ。彼らにとって、自分とはつまりその役職や身分の

代弁をする仮想本体のことだ。それを立場、というがそれが主観で

あるために国民・市民を客観的に見れないことは、すぐに見て取れる。

それも全員が全体で、というのでもないし、どれくらい、というのでも

ないから、話はそれる。平均を取って、仮に半分としよう。

半分の政治家・官僚が心の半分でそれを中心にそう思って、互いの

保身のためにかばい合い、税金などを合法的に流用したりしている、

という結果がこれまでにも十分に予想がつくということだ。公文書の

書き換えがあったが、ということは信じられないことだが、その

「自分たち」の体質の中では当然のすべきことになってしまって

いるのだろう。 



(今日は晴れていて、窓からの眺め(景観)は大してよくはない

のだが、電線とか見えて、棚引くもくもくとした白い雲は、なんと

美しいのだろう。)


あなたは自分ではない。それから自由に、また自在になるには

それは敵を知ることから始めるのではないか。敵は自分なの

だから、自分を知るところからが筋だと思う。それが考えの

結果だが、”僕” もそう考える。僕は生と死の二重の層を

意識として生きているから。

まずは宇宙空間を旅して絶望的に退屈してみてはどうだろう、

もち、冗句だが。(笑)

愚陀仏庵.JPG


2017年 6 月撮影。

処は愛媛県松山市、道後温泉に近い松山市立子規記念館。 

漱石の下宿だったのか、漱石は愚陀仏庵と言っていた。

正岡子規が一時同宿して、俳句仲間や新しい日本語をひねり

出していた明治の漱石・子規の青春時代だ。 

庵をそのまま記念館の何階にだか、移築した。これはどうしても

中で坐りたくて、観光客に撮影してもらった。 漱石気分で、満足。


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