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弱さは他人への強さに、強さは孤立しひとりになる [心理]

地球は回り続けるのだろう。僕らの

寿命などは気にせずに、地表に光を

照らして、それが朝だとか、日没だ

とか、夜だとかは区別していない

だろう。

僕らは理想を持って生きてゆく。

それが理想だとは知らずに、ただ

生きる指標とか、経験から信じた

金箇条・信念かも知れないが、それ

を抱く。

気持ちを、特に愛とか、それが僕ら

にできる最高の善なのだと思う人

も多い。天草四郎の島原の乱は幕府

の将軍は家光だったが、最後に原城

へ籠城したが、この時の戦いに宮本

武蔵も参加していた。そして、中に

は自ら抵抗せずに切り殺されてゆく

信者を見て感動している。

キリスト教の許しの教えは有名だが、

世界の教会でそれが国とともに機能

しているとは言えない。

親や兄弟、恋人などが殺されて、その

犯人を許さずに責任を取らせるのが、

法治国家だからであるが、感情が

自己に結びついているのが僕らの

生の一般の状態なので、愛する人を

亡き者にされてそれを許すのは

自然な感情ではできない。



克服できないものを克服してしまう

のは、強制的な心だろう。それは

強さを超えて無謀になってしまう。

それでも後悔しようとしないだろう。

克服への恐怖は人を臆病にするか、

少しでも立ち向かおうとして、弱さ

を発揮して説得に向かうだろう。

信頼の輪を築こうとするのは、そう

いうタイプの人間だろう。突き進み

過ぎないでお互いの間で策を導こう

とする。

それは相手を真に理解しているか

どうかよりも、お互いの関係性を

大事にするので人の輪が広がり

やすい。

あまりに強い人も自分のエネルギー

が相手を押さえつけて、好きで自由

な意見を言わせなくしている。

そして、友人でもその中にいるので

気まずさや不愉快を受けるのを覚悟

して、意見を言う人は少ない。

コミュニケーションに失敗が多いと、

その強過ぎる人は臆病になりながら

もそのプライドは決して譲らないの

で、相手の意見など無視してしまう

のだ。彼は小さな輪を作るかもしれ

ないが、自分を理解することから

ますます遠くなるのだ。

そういう人でも相手を理解しないに

しても、気まずさを避けるためには

一般的・常識的なことを事務的に

述べることはできる。ただそれは

平板な意見なので、そのくり返し

が多いと聞いてる者は退屈するか、

耳を貸さないようになる。

そういう時に彼が関係を結ぶこと

が出来るのは、異性で、女性だろう。

男と女のそれぞれの違いが無理解と

なっている場合が多いせいか、その

壁が逆にお互いが小さな喧嘩を

くり返しても、お互いの足りない

部分をお互いに支える形ができ

上がるようだと、妙にしっくりくる。

理解できないことがお互いにはっきり

しているほうが、返って安心できる

利点が男と女にはあるようだ。

特に女性は子供を産む期間があるから、

その視点で男を考える・選ぶ伝統が

ある。

男と女のそういう関係について書こう

とすると、とても一人の経験が何人

あろうと、それ以上に別人の経験が

重要・必要になるから、恋愛から結婚

論まで書き終えることはできない

だろう。


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過去+未来は現在ではない・・・ [心理]

ちょうど 揺れて 揺れて

ティーカップの 紅茶が

揺れるように 

見えているのではない

この 1日の 全体というもの 

見えてはいないが 

すべてが  静かに 大きく

揺れているから 

それが 

見えているのではない 

僕らの  世界という もの  

永遠の  一部  という ・・



君が 僕を 切り捨てた 時のように

その時だけ 

瞬間 見えてしまう  

その不安定な ソーサ―と  

ティーカップが  揺れて



静かな  今宵が  ある  

もう  夜に叫んだ  過去はない 

さまざまな 奇妙な 経験が  

幻燈に 照らされて  

見えるくらいか 

誤解は  あった 

それでも それを  裏切りとは

責められない  

僕の  思い込みは  

理想に 憧れ  それを  

常識や  習慣の考えに 

無防備に  委ねていたから  

自分が  それを  恥ずかしいからと 

君と  離れたのだろう 



山の 夜明けは  美しい 

それは それを心に 刻んだ 

信仰のようだ

今は  海の浅瀬は  

ヒタヒタした  干潟のようだが 

心にも 夜明けが  来て 

歩けるように  道を  

乾かすだろうと  信じている 

あの頃は  正しいと思い 

過ちとは 気づきもしなかった

けれど  

やがて  そうではなかったと 

思う日が  来る  

その時に  それ以上のことが 

できなかったとしても 

それが 精一杯だと  わかるほど 

思い出すなら  

僕らは  誰を  許せば 

いいのだろうか 

自分や  人を  どうやって  

納得できるほど

見つめたの だろうか  



気難しさと  気恥ずかしさは

似たような  誤解を生むのだろう

お天気やと  予想できない気まぐれも 

似たように  からかわれるの 

かもしれない  

生きている限り  僕らは

変り行く  心と体を  止めるのは

できない  

それは その時の 正解も 

その先の 答えだとは 言えなくなる

過去を  変えたいのも  

今を 今のまま  とどめたいのも

僕らが  正解があると

間違えて 思ってしまって 

いるから だろう 



たぶん  君が  僕を必要とした 

それが  僕の 知らない処で 

一致していた  

それで  十分だった 

その時は  

だが  それを  誰が

知るのだろう 

僕らの  誰も  君の墓地を

想像して  君に 声を

かけないだろう

生きるものは  生き物に  惹かれる

土の 一粒にも  

それが  あるかもしれない  



あの頃の  君との間には

見えない 二人の 共通の

島が あった 

そこで 同じものを 呼吸して

同じものに 触れあっていると  

信じる  僕らが  あった 

その島が  空想の世界のように  

やがて  かすんで  消えてゆくのにも

気づかず  

まだ  あったと 

思っていた




過去が  二人を 結びつけたのだろうが 

僕は  遠慮なく 

過去も  食べ尽くそうと  したので 

僕らの 関係は  裸になった 

誤解だらけの  ボロ傘のように  

骨が  透け透け だった 

それが  君には  見えない理由も  

わかる  

それは  君の非では ないけれど 

それを知った  僕は  

過去に すがるようなことは  

できなかった  

だから  

新しく  君に会う 方法を 

探しているけれど  

まだ

そして  まだ  

見つからない

お互いの  人の好さが 

遠慮して  そこを  言わないらしい 

ある時だった 

そうして 周囲を  見渡してみると 

歪んだ  いびつな因果を 持たない

人は  ひとりも いなかった 

僕だけが  自分を そう思っていたのでは

なかった 

類は  たしかに 友を  呼んだのだ 

誰の  せいでもない  

僕らは  自分たちを  

呼び寄せて  共通の傷を 

舐め合おうと  している  



そういう人間ではないと 思った

自分が  すこし悲しい 

世界が  まったく  見えていない 

社会が  まったく  見えていない

世間が  まったく  見えていない 

つまるところ、 

人間を  知らない  

また  そこから  始めようと 

気を  取り直した ところだ 

君から  離れたところで 

僕の 自分を 置いてきたところから 

これまでのように  

歩いて  いこうと  思うのだ 

なにかを  失ったのではなく  

なにかを  取りに 行くのではなく  

まず 

君を  見たいと  思う

彼を 見たいと  思う  

君は  なにを  必要と 

しているだろう 

彼が 頼るものは どんな理由からか

僕は  そこで 必要なのか 

そこら あたりから 

始めて みたい 



窓を  開けると  

すぐ近くまで  海が  

拡がっていた  

浅瀬の さざ波が  続いて 

僕は  いつの間に  

こんな 素敵な場所に 

引っ越してきたのだろう、 と 

夢の 中で  思った

遠くに  岬の 半島があって  

現実に  こんなことが 起きるんだと 

夢の 中で  思った  



夢が  始まりなのだろう 

それを どうするか 

それは 問いなのだろうか  



夢は  始まりなのだろう 

それを どうするか

そして  

夢が  その答え でもあると 

今  わかった 



自分には 秘密である 


僕の 隠した  



僕の  秘密が ・・



僕の  望みが ・・

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これから: 怒りと技術革新 [心理]

織辺日記で魯山人のことをちょっと

書いたので、彼を例に挙げよう。

彼を嫌いだと書いたが、本人も嫌われ

安い自分を承知していて、私が嫌いだ

という人は多い、とおっしゃっている。

それは彼がこだわりが強く、気難しく、

決めた時刻とか少しでも遅れると、

癇癪が落ちるからだ。女中が何人も

辞めたらしい。女房も六人替えた

くらいだから、そのガミガミが顔に

出てしまっている。それで彼の第一

印象が悪くなっているのだ。晩年は

寂しがり屋が表に出て、よく泣いて

いたらしい。自分と折り合えなかった

後悔は少なく、むしろ孤独やものの

あはれに近い心情だったのではないか。


人はこのように社会へ出す顔と内面

では矛盾したような面を抱えるのが

普通である。これはギャップとして

本人に意識され、内面は隠されがち

なので、本音とか言われるが、そう

ではなく、心の自然なバランスである。

両方必要だから、そういう生活になる

ので、無理にかぶせた仮面生活という

ものではない。

僕らは怒ると、怒らなければならなか

ったことを嘆き、涙をこらえ、笑うと

可笑しすぎて涙が出る。どちらも心

が壊れそうなので、涙でそれを中和、

または抑えようとする作用だ。よく

言う、(もめ事は)水に流す、という

やつだ。


僕は短気だが、初対面でそう思う人は

いないらしい。大昔には一度も怒った

ことがない人に(見える)と言われて

恐れ入ったが、短気は克服したが、それ

はなくなったことではない。

およそこの性質は親父譲りで、親父は

短絡で短気だったから、早とちりも

時々あった。僕はまず怒らないから、

一応それで非常時にはまず冷静である。

それは事態に対処しようとするからで、

話している相手が理不尽な攻撃をして

きたり、何度もこちらの要請を無視

すると、昔は突然、切れた。それが

突然であるのは、アドレナリンの性質

で、ゆっくりゆっくりと怒りが高まる

というのは、特異なことで僕は見た

ことがない。

アドレナリンは危険を感じると体が

発生させるもので、危険から逃げる

のに素早く行動を促す。それは思考

するのを避けるので、考えるよりも、

例えば手が出る(人を叩く)、激高

して反論する、危険(毒蛇とか)から

即、離れ走り出す。


それが短い我慢の限界の後に起こった

が、アドレナリンが出た後なので、

当然、考えもできず、後悔すること

になった。たいていは自分も我慢強く

なってきたな、と安心する頃に、それ

は突発した。それが克服できたのは

還暦を越した頃に、無意識を瞑想で

その根元を探り当ててからだった。

対策がわかったので、アドレナリンが

勝手に出る前にその準備行動ができる

ようになった。それは大安心だった。

それまでは半病気のようなもので、

自分ではコントロールできなかった

から。

それでもちょくちょくは激しくは

ないが、出てしまう。このブログでも

対社会面なので、短気が出ることは

ないが、真剣なことについて、こちら

の寛容を見越して(普通なことだが)、

軽い質問を戦争や平和についてされる

と、カチンときた。対面で話してい

れば、そういうことはないだろうが、

戦争の悲惨さは現在でも生中継されて

いる。事情は少し複雑だが、戦争前の

昔のウクライナについては子供ながら

に洒落で「うっ、暗いな(ウックライナ)」

とか言っていたが、それを現在とは

切り離したつもりで別の記事を書いた。

そこへ平和について冗句のような軽い

質問が来たので、アドレナリンがちょ

っと漏れたらしい。きついコメント

返しになってしまった。


もう五年も前だろうか、NHKの

セールスが来て、こちらの話を聞き

流して、一方的に話すので、三度目に

は怒鳴ってやった。というのは違い、

そうではなく気づいたら、怒鳴って

いたのだ。その声の大きさと言った

ら(笑)、近所50m四方に響いた

だろう、というくらいだった。

ちょうど娘が訪ねて来たらしく、

近くで聴いたのだろう、顔がこわば

っていた。それほど厳しい怒鳴り

だったらしい。

そして、その声が出てしまったのに

気づいて一番驚いたのは、自分

だった。自分では気づかずに怒鳴っ

ていたのだ。最後に怒鳴ってしまっ

てすまない、と謝ったくらいだった。

冷静になるのも速い。


文章で見せる顔というのもそういう

具合に、内面を丸出しにできるもの

ではない。それぞれ家庭での顔、会社

での顔、本人の思う内面の顔、勘の

鋭い人の気づくその人の内の顔、趣味

をしている時の無心な顔といったもの

は、それぞれ違い、異なる。

僕は以前は、他人には僕がどう見えて

いるのか、気になったのではなく、

純然として知りたかった。が、社会は

あてになるものひとつなく(説明が

必要だが、しない)、そのいい加減さ、

あてにならなさというのは、一般の

社会人も同じだとわかったら、そこ

から客観的な僕への判断を尋ねること

が、それ自体無理だというのもわか

った。それ以来は、「いいね」の中身

がどうなのかも気にならなくなった。


革新技術が開発されている現在、人間

の生理も改革され、長寿命がより強化

されそうなのであるから、年金などの

生活費は片方で重要であろうけれど、

心の意識改革はより重要になると自覚

される日は近いと思う。

年取って頑固でいることが許されなく

なる日も来るんじゃないか、とそれは

何が問題でそうなるのか。まず、知に

よるいい加減な脳の進み具合が、文明

を発展させ、そのための行き過ぎた

分化・危うい集合技術の脆弱や矛盾を

もたらし、それに文化が追随している

現在の精神バランスの不健康が心身

ともに露出し始めている。それを具体

的に語るとキリがないが、当然、これ

から必要とされる時期ごとに、重要

とされるカテゴリーごとに必要だろう。

そういう全体をテーマにできる大学も

出来ればいいし、また設置・施行され

ればいいのだが・・。

20年近くも言えずにいたから、ここで

言えたような気がする。過去に書いて

はいないと思うが、ままよしである。

それは僕がこれからも書き続ける

テーマであり、その晦渋さを整理する

ものだろうが、それはまた、僕が生き

られる年月を示すとも、言えるのだろう。

長崎の離島の家は手放したので、終の

棲家はそこではなくなった。では、

活火山のあるハワイあたりにしよう

かと、呑気に考え、夢見ている。


(昨年・10.28 投稿の記事)




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ガラスの希望でも絶望でもない臨床的な意識 [心理]

(これは、メモである)

例えば、量子力学は僕らの現実に及ぼす物理的・物質の影響力 

というものは微々たるものだ。学問として微細な世界の物理的 

追求がこれに代わるものがないために、現代では花形だが、 

未来社会ではともかく、現代社会では法則ひとつ決め切れない 

矛盾を抱えていて、ガラスのように固形に見えるが、厳密には 

ガラスと同じでしっかりとした固形物になってはいない。ガラスは 

溶けた物質が結晶化することなく固まったもので、それを非常に 

粘度の高い液体と呼ぶことができ、定義が難しい。半液体の 

半固体の統一体というようなもので、量子力学もそういう学に 

なり切れないものである、と僕は言えると思う。 

今夜はどうにか自分を抑えて、どこにも逃げないようにして 

その望みを聞いてみた。

彼は始めに孤独の牙を感じて、それが近いので恐れる、と 

示した。彼特有の言い方で、大げさにドラマ化して表現したい 

のだ。それから二律背反の考えを出してきて、それらが進化 

するのに知の発達と自我の発達ではその成熟に差がある、 

と言い出した。それがどうであるにしろ、それらは自分の 

依拠できる在り方ではないこと、そしてそれから比べたら、 

しあわせというのはそれぞれの個人の依拠の工夫であって、 

ほぼ気持ちの切り替えに近いもので、なんら困難なものでは 

ないと言う。彼は3つの愛を示そうとして、その色合いは見せた 

が、説明はしなかった。さして大きな問題ではない、と言いたげ 

で。そして、彼は孤独の牙はその希望と絶望という(実は安心 

とか安全とかを前提にした場合に心にできる)要素を越えて 

はるかな絶望・無がある。そこで彼の「孤独の牙」は消えて 

しまう。彼はそのカードを別な呼び方をする。その絶望には  

自由を感じると言う。規定できない巨大さの前に、僕らは 

何もできない、それはこの世的には(自分から尺度を測る 

から)絶望なのだろうが、現世的な絶望なら、つらい、 

せつない、むなしい、もうどうしょうもない、で済むが(現世 

では実際それで済まないが)、それはそれが絶望したくらい 

では何も起きない、変わらない、そんな絶望は無駄だと、 

親切に?教えてくれる。 

まったくそれらが僕ら人間だ、ということにすべて還元させ 

られてしまい、僕らはふつうに言葉を失う。どうしようもなくて 

使う「言葉を失う」というフレーズが嫌でも浮かんでしまう。 



彼が内心で言うのは、肝心なのはそのことは知ることができ 

ないから、こう書いたのを理解することは役に立たない、だから、 

こう書いたのを読んでもあまり意味はない、それよりもこの事態 

が他の緊急な自分自身の事態と比較出来て、その場面に 

自分を置けるか?ということだ、と。それができることが前提で 

その時に、その立ち位置でこれが何を示すかが想像できる。 

そして、それから初めて、これについて無駄にならない想像 

の思考を働かせることになる。 

そうしたら、次に言うことがなにを示そうとしたのかを、我が事 

として理解される。それが不毛に見える、知と無の対決である。 

戦いではない、人間の知と無限の無では比較にもならない。 

現実に地球の大きさは太陽の130万分の1だとしても、その 

地球から太陽に「太陽」と名付けても、近づくことも、中を 

直接調べることもできない。この距離のまま、この距離を 

保ちながら対峙するしかない。それと似たように、無は 

巨大で、必要十分に感覚できないから暗黒世界だ。 

だが、意識を失った時の感覚で?そこに存在していると、 

感じることだけできる。なぜか、そういう感覚と比較すること 

で僕らは一度死んで復活したように、この世を別な比較の 

眼で見ることができる。それがその経験の内在の感覚が 

芯となって支えている、とこれが彼が説明したことだ。 

彼の意志は、相変わらず変わらない。歴史始まって以来の 

同じテーマ、自分の存在意義だ。社会テーマで見ると、 

我らは何で、どこから来て、どこへ行くのか、という。 



ここで僕は登場することにしよう。今までは混乱を避けるため 

統一して書いていたが、はっきり彼(自分)と僕を分けよう。 

僕は彼と同一体で経験を共にするから、かなり彼の言うことが 

わかる。これは想像するより、意外に当然なことではない。 

彼のプライドはまっとうに生きているし、彼の感動が僕を 

生かすエネルギーでもあるからだ。彼を完全支配できるとは 

思ったことはないが、ある程度、時には全面的にコントロール 

できるとは思っていた。残念ながらそのあたりの事情は、 

特別で僕は意識を失って、そういうコントロールをする 

らしく(いつもではないが)、その瞬間が空白で、どういう 

具合にするのかがわからない。気づいたら、意識が飛ばされ 

ていた、と。 



19世紀から20世紀へ、無意識の発見から、精神分析は 

始まったが、心理も小手先ではなく、心全体の感受性が必要で、

関わっていて、十分に解明されていないばかりか、深い誤解が 

ある、と僕は危惧している。 彼(自分)が思うのは自分が自分に 

思う意義だが、それにもう一つ輪をかけるように、僕は僕と自分 

をひっくるめて、この状態の二人全体を模索している。どこまで 

行っても新しい状態が続くとは言えるが、それでは人間は死ぬ 

まで生きる、というのと同じことを言っている。芸がない。 

せいぜい、僕という液体でもなく、自分という個体でもない、 

ガラスのような半固体、 ・・・・・・・。



:― と、ここまでメモを残しておく。 

スクリーンショット2234 (2).png


太陽と海王星: 比は適当。太陽の22,500分の1くらい。

素粒子の寿命はどれくらいか。電子は長い。数十億年と言っても 

想像を絶する。ヒッグス粒子は短く、1兆×1000万分の1秒(たぶん)。 

どちらも僕らの日常に影響はなさそうだ。僕の臨床意識も似た 

ようなもの、なのかもしれない。


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中高年への箴言 [心理]

始めは「中高年への・・」という題は思い浮かばなかった。

若さの秘密、とか老人への提言とか、だったが、書こう

として少し考えるうちに最も役立つのは、現在の中高年

にあたる人たちだと、思い至る。

若さの本質は、そのまま若さの秘密である。僕は自分で

役立てているが、公表には興味がなかった。僕はサボテン

の鉢植えをたくさん持っているが、育てた覚えはない。

サボテンは成長の限界をその鉢の土の栄養環境や

日光などの自然環境に負を覚えると、急に子供をつけ

始める。それを取ってやって、他の鉢植えに移せば、

またそこで大きく成長をし始めるのだが、なにせ

彼らの世話に興味がない。生活にも関わっていない。

それは例えば、犬猫だったら彼らの食事・排泄・居住

環境の世話は必須になるので、手を抜いていられない。

要求の鳴き声を浴びるのが眼に見えている。

サボテンは偶然、拾ったか何かで、ちょっと鉢植えに

移してやったが、それがきっかけで大変なことになった。

親指ほどのが、足の太ももほどにも成長して、子供も

バンバン増やす。最初は手を入れていたが、もともと

世話するつもりで鉢に植えたわけではないので、ほぼ

放っておくことにした。そういうわけで、サボテンの鉢植え

は今やサボテンの死滅する地獄に変わりつつある。

その間も、日射量や水の量、驚いたのは部屋に入れた

場合、換気(回数)によっても成長の姿や度合い・速さが

変わることだった。

そういう興味のないテーマが若さの秘密でもあった。

ところが、自身が老化の真っ最中なのであるから、

それについて日々気がつくことが、自然多くなる。

それで腰を上げることになったが、まず、若さの本質

は若者のものでもなく、老人のものでもないことだ。

若者は若さが体の分子運動や細胞分裂で、自然に

未来を目指す気分が与えられている。そこで若さの

秘密とか、本質など気にする必要はない。そして、

気がつくと老化に入っている。

また、老人というものは例外なく、自分は老人ではない

と思っている。 まだまだ年を取ったというほどではない、

と思っている。それが老人の最大の特徴だと、たぶん、

誰も思っていない。そこに老化の事実があり、秘密があり、

つまりは若さの本質がある。それは老人のがんこさが

生成される秘密でもある。



では、解題:::

若者に生成される若さというのは前に向かう”気”である、

と一応言うことができる。その気は体に充満する成長の

ための化学反応や細胞、その分裂やそれぞれの盛んな

分子運動からもたらされるのだろう。それは当然、力を

感じさせ、何かをやる気にさせる。これが未来へ向かう

方向なのは言うまでもない。だから、体が基本である。

心はそれに沿う形で、将来への希望をかきたてる。それは

付随現象と言える。心は体全体から生まれるから、肌でも

腸でも骨でも、脂肪でさえ化学反応で思考現象を発生

させる。(まだ現在、最新の情報で未確定なものも含む)

脳は記憶や文化的な行為に関わって、(その他あるだろうが)

それぞれを管理する部位が19世紀に発見されているが、まだ

まだその意味や意義については研究段階。

僕らは自分から年を取る。大したことではない、寝起きが

スッキリしないとか、膝が痛い、腰が痛い、体がだるい、

とかで「ああ、これは年だわ。」「自分にも年取る順番が来た。」

と思う。その大したことない、ほとんどが運動不足、睡眠の

不調というストレスへの対処が適切に行われていないこと

などなどから来る、毎回毎回の「自己暗示」によって、そこ

からほんとうに老化を潜在意識に植えつけ、自分を守るよう

に気持ちも考えも感覚も動かして、その結果、老化機能が

促されてしまう。要は、老化の初めで十分に戻せるのにも

関わらず、自分で自分を年寄りにしてしまうのが老化の、

大きな原因だ。自分が犯人。

自分が自分を年取らせている、それが事実。

なので、本来個人の体質もあるから、50代後半から75歳

くらいだろうか、75は経験していないので、想像比較

しかないが、その間は本来、(日本の場合)老人にならない。

と、僕は思っている。

それは人間の受ける最大の激痛をそれをもたらす持病で

抱えたので、この35年間(くらいに)に7回発症して通算

21日150回以上も耐えてきた経験から実証されている。

そのおかげで膝の痛みが始まった時も、準激痛にして

克服して、医者にも行かず、鎮痛などの薬も飲まず、

(一般の人はひどい時は飲んでもいい。ただし、運動は

控えめにする、薬で痛みが抑えられているだけで、感覚

が鈍くなっている)歩いて、克服してしまった。とても

経済的だった。その一番初めは2時間歩きとおして、

ほぼ死にそうで、明日は歩けないだろう、と思ったことは

2年前?、書いた。翌日、全快。ランナーズ・ハイの脳内

麻薬が発生して(自己治癒)、1週間痛みがなく、戻ら

なかった。

僕らは40-50年の内には、誰かの葬儀に列席する

ことになり、そういうことを何度も目撃する。老人を

見て、体の不調を見る。やがて、20代には自分も

老化する、成長が止まるということを、早くも納得して

しまう。これがくり返すのが、老化の第一原因。こうして

決めてかかったものは、意識の上で根になり、先入観

になる。老化はまず、この自分で植え付けた先入観から

始まる。それは、自分は年を取らないと思えば、老化

しないのか?という意味ではない。また「年を取らない」

と強く決心しても、その言葉の中に「年を取(る)ラナイ」

「年を取る」という概念(言葉)が入っているので、潜在

意識にインプットされてしまう。「年を取らない、取るまい」

と思うことはそれ自体が、年を取ることを認めてしまう

ことだ。

若者は若さに気づかず、老人は若くなりたい、自分は

年取ってない、と思う、思いたいだけ。その中間にいる

中高年が最も有効なのが、早めに体の世話をすること

である。中高年の時代が最も人生の繁忙期で、家の

ローンや子供の学費やそろそろ老後を考えはじめて、

と稼ぐことだけに集中してストレスを溜め、自己の

健康管理が怠りがちになるのだ。それが老化の第2

原因。勢い、アルコールや風俗、ワーカホリック(仕事

中毒)でストレス解消だけに努めがち。

これで脳をやられた人は還暦以降は一直線で老人

へと進んでしまう。悪く集中するので、痼疾のように

悪影響で善悪や正義にこだわりを強く持ち始める。

思い通りにならない抑圧で、自己甘えから思い通り

にしたくてあおり運転やストーカーなどと影響は

広がる。

日常の行動でどうして老化が進むか?それが

年を取るのは当たり前という先入観がどうかかわる

のか、を説明すると、まず足が不如意になると、体は

自然、自分を守ろうとする。

それで例えば、日々の階段の上り下りでも、腰を引いて

しまう。すると、重心が腰のあたりに来て、体重を

すべて支える形で足に負担がかかる。ゆっくり降りよう

とするから、余計に負担の時間を長くして、足を疲れ

させる。それでは今までどうしていたか。上りでも下り

でも体はやや前傾にしていた。そこで重心が腹の前に

なって体重はベクトルで分散されるから、体への負荷

が少なくなる。極端に言えば、落ちる勢いで階段は

ある程度勢いをもって下りる。一歩前を上る感じで

勢いをつけて、素早く階段を上る。そういう気持ちで

上り下りしないと、どんどん体は重く感じ、年取ったなぁ

とまた意識に語りかけて、必要以上に老化を早めて

しまう。悪循環だ。

そうなる前に、足を鍛えておく。と言ってもオリンピック

選手じゃないんだから、強化訓練ではない。まず、

片足立ちで靴下を履けるかどうか。それぞれ交互に

履くことができ、ふらついて両足をつかなければいい。

ふらついてうまくいかないのは、もう足腰年齢が60代

かもしれない。

40代ならジョギングとか、50代ならよく歩く、足の屈伸

をしたりして、片足立ち靴下を成功させる。中高年なら

まだ楽勝のはずだ。還暦過ぎると、それが3倍から7倍

も時間がかかり、運動してもすぐに回復しない。ちょっと

走っても息切れするなら、ゆっくり短い時間から段階を

踏んで、運動せな、あかん。 

一概には年取るのは平和なことで、75歳(平均)までは

年取る必要がない。

怖いのは、近未来に筋肉や四肢の交換が安価でできる

ようになった時だろう。交換部品では化学反応は起き

ないから運動能力は向上しても、先入観はそのままだ

ということ。ガンコでこだわりの強い、社会で発言力の

ある老人が増えたら、どれだけ日本全体に害毒を流す

ものやら。(一党独裁政治という腐った見本は、歴史上

数が多過ぎるくらいだ。)

100歳まで嫌な仕事で雇われて使われて働くのはバカ

バカしい。好きなことやって働くべきだ、それを世界の

マネーを操り、ルールを決めている連中に従って、稼ぐ

に集中しても負けるばかりだ。社会全体がそういう

システムに構築されればいい。そういう社会にするには

どうしたらいいか。コロナ後に考える世界とはそういう

ことだろう。A I が人間の仕事を奪うのを心配したり、

考えるのは、ほんとにせこく、無駄なことだ。(先走った

が・・)

ほんとうに老人になったら、早めに平和に亡くなって

いくのが、よろし。(ハハ)

                         11.18
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君は誰? [心理]

僕は僕の 個人を超える問題を 考えざるを得ない  

それは 悲劇な皮肉なのか、  喜劇なのろまだったのか  

自分という  枠と  知性という  変幻な物差しを  

手中にした  と思ったが   

それは  今までの拠りどころを  失うことでもあった  

それは  承知していたので  痛手にはならない、 と  

思っていた  

昨晩は、  その前から 胸騒ぎがして  僕は  

寝床の中で  僕を見つめた   自分ではない僕を  

どうやって  見るのか  考えた   

わからなかった   それは  意識の奥で  

僕である 主体自体を  見ることなど  

叶うわけわけないと、  思っていたから  

むなしさが  直接でなくなったのは  初め  

喜んだが  そして今も それでいいと思っているが  

どうにも  その極度の緊張を 失うことの代償も  

大きい、と  今更ながらに   感じている   

全力を出して  対峙する  相手が  いなくなった  

生活が  楽になるはずだったし、  そうなったが  

立っているための 手段でもあった  相手が  いなくなり  

僕は  自分を  ”失う”   

この失うは  これまでに考えていた 「失う」という  

全般での意味での  失う、 ではなかった   

だからまた  この感覚を現わす 言葉はない、と  

逃げてみるが    ・・・・・・・・・    

   
僕は  この世のあらゆるものが  あてにならないと知った時  

何もかも 自分から作り出さねばならないし、  作り出すものが  

皆、  自分の烙印になる、 と思った   

それは その通りだが   それは わかりやすい烙印どころか  

伝わることが  ほんの 糸の一筋でもある、 という  

頼りない 印になるとは  まだ 気づいてはいなかった  

ただ  後の者が  拾ってくれるさ、と  気楽に考えていた  

僕は  精神的には  大変危ない位置にある  

僕は  自分を信じないのではなく、 信じることはできないと知っている  

ので、  信じるとかは  問題外だ  

そして、自分を 信じることが  生きる関係をつなぐ、 ということも  

知っている ので、   信じないのは  問題外である   

この矛盾に見える矛盾は  論理の矛盾ではないので   

フラットに 並べられない  

でも 僕は 毎日の生活の中で  枠の中に  自分を置く  

創造する   関係をもつ  そうした時に  通常の判断が  

そのことについては できなくなる   

以前は  僕は  どこにいるか、 と  余裕だった   

どこにいても  僕は  支えられているのを 知っていたから  

今は?   自分として 生きようと思うと  非常に  

心もとない    緊張して 強い綱引きを しなくていいし  

勝手に  放り出された  このあてにならない世で  

それを 感じすぎる 自意識を  避けるように  

落ち着こうと  思って  ただ もがいているようだ   

だから  昨晩は  枕を頭の下にして  尋ねた  

(自分ではない僕、そういう)君は 誰?  

この質問にも  君(僕)は答えてくれるのだろうか?   

無意識に向かって  こういう質問を  するとは   

まったく 思ってもみなかった  


君は 誰?  


なぜ君は  僕なのか、 でも同じだった  

花々の咲く  公園のような  広い中庭で  

君に 案内されて  歩くのは  いいだろうね  

こうして  静かで  穏やかな日に  友と 話せるのは  

素晴らしい   それが  どんな会話であっても  

流れるに まかせて  なにを  話しているか  

何を  話したか  忘れてしまって   そんな光景が  

思い浮かぶ   

そうか   あの 中庭か   インドへ渡った時に  

高額な宿泊費だったけれど  インドの カルチャーフラッシュに  

興奮していた僕を  天国と思わせた  静かなクリシュナ系だったか  

ホテルに  案内されて  そこに  日本人もいて  

これからの  準備を  させてくれた  あれは  奇跡だった  

そういう用意を  してくれたのは   あの頃からいた 君  

だったのかもしれない   

僕の心の準備を させるために   手始めに サンティニケタンへ  

なにかを 届けに行ったのも  これも 抜群の緊張を  

強いられたけれども  それが  とても役に立った  

あの頃は  なにも  知らなかった   

27歳の頃と  今と  なにも変わらない気がする   

なにも  変わっていない   それがそのまま  

自分の胸で  受け止められるのに  あの頃は  

なにも 知らなかった、 と  言っている   

たぶん、 僕らは  過去の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  いつになっても  

これから先も  今の自分を 思って  

あの頃は  こうだった、と  言い続ける   

そういう 動物なのだ   

そういう 言葉を好きな 動物の種、なのだ   


この気持ちを  どう言えば  なんて  可笑しカルラン  

言えば  いいのか  嬉しい   

この嬉しさが  条件なんてないよ、  ただ  嬉しい  

ともかくも  と 謙そん調で   気持ちいい  

この世にいる我、   無意識な自分、   悩む僕が  

それを  そのまま感じて   充実する  

それを「存在」という  無意味な  無機的な  言い方を  

したくない   それは 柔らかいボ-ルのように   

僕と  ともに   ある  


僕と共にある  やさしく 頼もしい一面と  

僕の思うようにさせる、  そのためには  

人間を 超えさせようとする  危険に  踏み出させる  

躊躇ない  厳しさの   こわもて?の一面と。   

これは プライドと   深い気持ちを 感じさせる  

それらの  調べのように  心を 回転させる  

僕が  想像することを  踏み越えず  僕の  

性質を  知り尽くしたように  容赦ない   

操られるのが  心地いいように  できている   

自分で 獲得したように  思えるように  進められる   

それが  君、 ではないのか?   

君は  人間の心の  主体というようなものでも  あるのだろうか?  

そこでは 人が 成長と共に  自分を形成してゆく過程、  

それも自然な  創造であるのかもしれない   


ここからは  書かなくていいだろう  

こういう認識が  いつの日か  古い認識だね、と  

思われることを 期待して  書いているが   

急ぐこともないし   先端は  変化があるから   

余裕を 取ったほうが  いいこともある  


こうして  僕は  毎日のように  

精神的に  倒れてしまって  立ち上がる、 という  

ことを  行っている   これは 日課なのだ、と  

自分で  気づこうとしている    

正確に 気づいている、という感覚は  もう  

僕には ないようだ   

僕が 信じているという状態と  信じていない状態とは  

別々の場所で  僕と共にある  ”君” なのかも  

しれないね   

                       3.18
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なにも変わったことは起きていない、と思い込む [心理]

コツンと 固い音がする

これは まったくのイメージだ  その言葉は

でも  確かな 状態と  孤独と不安の これからはじまる

予測を  もたらしている

この半世紀が 壊れることは  僕が  今までの

方向を 失うことだ 

島から帰って  なぜか  もどらない 

体調も  精神衛生も  この状態が 一時的だとは

期待しているけれど   ほんものなら  ここから

記事が 続けられるとは思わない

まだ 現実が リアルに感じて  よりクリアな気が

しているが   この過渡期が  過ぎるのならば

一気に  夢は闇に 変りはてるのかもしれない

想えば そうなる  そして  いつもは 思わない

今度は  その確信がない

これまでなにかしら その芯が感じられたが

今は  それから離れ  放っておかれる

これが 僕の  望んだことか?

このままでは ヤバいという  意識はそこにある

どうでもいいと  僕は 思っている

そんな悠長さよりも  この予感を  出処を

わかるものならば、 と  探す

探す と言うだけのことで  反応がない

ないから  このことは  何らかの意味で

決定されている   少なくとも僕のルール、パターンの

なかでは  そうだ

決定の意味は  ふたつだろう

ひとつ  過去はまったく意義を 失ってしまったこと (確信の喪失?)

ふたつ  このことに 因果が  ないこと (心に引っかかっていない)

つまり  今の僕には  まったくわからない状態だ、、、

ということだけが  確かなこと

瞑想を 越えるとか、考えたことはなかったし

今も  あり得るとは  考えなくていい、と思うのだが。

因果ではない 素因について  匂わせたことがあるが

それが 関連しているのかも 

それにしても、だ

なにが起こっているわけではないのに  心は平穏だ

世間では  平穏ではない  僕も  なにを していいのか

どれを コントロールしていいのか   なにも

引っかからないのだが

どこか 全体で 「コツン」と 固い音がする


2,3日  遅くても 1週間とか  1か月で

これを説明する日を  希望してみよう  

久しぶりの  外側からの  予期せぬ襲来

これは 始まったばかりか   一時の気の迷いか

なにごともなければ  それで よし


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「令和」に群れようとする虫と鳩 [心理]

「虫」は魑魅魍魎などの妖気や心理分析の象徴に使われる。「鳩」は平和の有名な象徴で

あり、またハト派という政治での穏健派の象徴でもある。また、ノアの箱舟では、大洪水

により破壊された地球に現れ始めた陸地の印を、オリーブの葉で持ってくるのが鳩で、

新天地の知らせ、その使いでもある。

新元号は元号である。テレビでその号外に群がる群衆を見て、思った。元号は知れば

足りるもので、号外として獲得するものとは思わなかったので、ここには僕と共通する

日本への心情があるのか、と考えてしまった。

その号外の取り合いで、端が破れ、しわくちゃの号外をインタビューに答えて、

「取れて良かったです」と言っているのに、また驚いた。家の家宝にするのではない

ようだから。また、将来歴史の証拠として高値で売るのでもないのだろう、質が

悪くて。

そこにはやはり、根っこのある群集心理が働いていて、意識せずに突き動かされて

いるようだ。いつの時代も変わらないものなのだ、と感慨まではしないが、ふーん

と凝視する。

科学者的な見方をすると、これはつまらない現象だで終わってしまう。が、これは

科学的・化学的現象ではなくして、歴史的、歴史としての現象なのでそれで終わりに

はならないし、できない。

これはそれほど真面目で、真剣な話題ではないのだ。言葉は大仰になっているが、

時間の長さと積み重なった僕らの心を示しているにすぎない。

レコードがまた流行り出したらしいけれど、そういうことに含まれている僕らの

古く、新しいカンのようなもの、それについて。


今の明仁天皇は特別な道を歩かれた。・・少し急ぎ過ぎた。


チャールズ・ダーウィンは「種の起原」によって自然淘汰説を説いてから、のちに

「人間の由来」で二つの予測をした。ひとつは人類の進化が始まった場所で、地球

上に生息している哺乳類はかつて同じ地域で生息していた仲間と近似関係にある。

ゴリラやチンパンジーは類人猿に似ており、アフリカにいるから、人類の遠い

祖先はアフリカ大陸に生息していた可能性が高い、と。

ふたつめは二足歩行、道具を作る技術、大きな脳という人類の大きな特徴は、

いっせいに現れ、セットで連鎖的に進化した、というもの。この仮説は明解な

シナリオであるため人類学の発展を支える柱となった。(「ヒトはいつから人間

になったか」リチャード・リーキー:著)

ダーウィンから20世紀にかけての科学者はホモ・サピエンスの特殊性を確信して

いる者ばかりだった。それでこのふたつめの仮説は受け入れられて、人類の発生には

超自然的な力が働いていると考える方向で研究が進められた。

反対にアフリカ人類発生説は、まだ初期人類の化石は発見されていなかったので、

ダーウィンの推測によるもので、科学者に指示されなかった。

面白いことに、他の科学者に指示されなかったアフリカ発生説は正しく、指示された

「セット」で進化した説は、1970年前後からの生化学(分子遺伝学)からの研究

で否定されることになった。しかし、その論争は10年も続いた。

ここでのポイントは科学者たちがなにを人類の基本に見ようとしたか、認めたかったか

という点に尽きると思う。科学者たちは暗黒大陸と呼ばれるようなところから、人類が

始まったとは、考えたくなかったのだ。それは人間の尊厳を損なう気がしたのだ。

同じように、セットで進化したのは超自然な力、つまり神の意向が働いたのだと

考えたかったから、指示されたのだ。それこそ人間の誕生にふさわしいではないか、

と。ここにあるのは自分という人間へのプライド・誇りである。大きくは聖書の

影響である。子どもの頃から、親、教会、大人から、つまり社会から受けた感化

なのである。

そこで元号にもどってみよう。明仁天皇が象徴としての役目を果たすため、福島の

被災地、戦没者の墓などに頻繁に訪れ始めたのは記憶に新しく、僕らはその姿に

感謝の念を覚えた。

僕は若い頃は天皇の存在は見なかった。そういう人が日本にいる、としか感じ

なかった。当然、興味もなかった。だが、テレビを通じて天皇の姿に感謝だけ

ではないある投影が感じられた。そういう人間天皇に転換した姿を見て、逆に

天皇という日本の歴史的位置・地位というものを胸に沁みて感じられるのだ。

これは思ってもみなかったが、日本に天皇を抱いてきた熱くなるような誇り

であり、感激だった。天皇が自分たちの代わりに日本を代表してくれている

という感謝もありながら、それを支え、もしかすると越えてもいるかもしれない

尊厳を感じるのだった。

この日本人としての胸の熱さはここから来るのだな、と思った。この誇りに

海外から日本が褒められるとわけもなく嬉しくなる、そういう衝動の動悸が

隠されている。そして、思うのだ。これはダーウィンを指示して間違えてしまった

科学者たちと同じパターンの誇りであり、プライドではないか、と。

恐い。

これは1300年に及ぶ日本人アイデンティティ成立のための大化の改新前後から

のマインドコントロールに相当するではないか、と。日本人のヒステリーとも

言える伊勢神宮へのお蔭参りやええじゃないか、などはそういう心根が狂喜乱舞

したのでは、と考えてしまう。

と言うのも、僕はこの狂喜を喜びをもって迎える気持ちを持っているのを、無視

できないし、このルーツという芯を手放すのは、よし、としないからだ。

元号の号外に群がる者たちに同じ血が流れているのではないか、と思え、そこに

無意識な天皇崇拝の芯を感じるからだ。これは僕には個人問題に置き換えること

ができるが(今ではないが)、一般命題としては群集心理になるのだろうか、

それで収まるような問題なのだろうか、と。

今言えるのは、これは僕ひとりの問題ではない、という微妙な気づきのことでは

ないだろうか、と。

どうだろう、僕らはほんとうに天皇の子であるだろうか?

精神の子孫でもあるのだろうか?

僕らはそれに群れようとする虫なのだろうか、それとも鳩なのだろうか?

それとも ・・?

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追加: この世をマウントするのは君だ [心理]

*今朝の記事の続きです:-

昨日深夜(日付は今日だが)に書いた記事は、やはり多少力不足で、もれが出てしまった。

まず、統合失調症の人でも見たが、強迫神経症に近い人でも行動が瞬間に爆発する

傾向のある人がいる。その人と一緒に書店にいて、僕が本の著者を「この人は翻訳もして

いて良い」と言うが早いか、もうその人の本を抜いて買おうとする。隣にいると驚く。

まったくタメというのがなく、著者がよくてもいい本とよく書けてない本があるのだが、

まったく準備もなく、尋ねることもなく、聞いた途端に行動に出る。

見かけは直感的だが、直感は自ら感じるものだが、彼らは他動なのだ。自分の

考えや経験のタメがあって、そこから辿りついた直感ではなくて、衝動なのだ。

だから、彼が話を聞いて理解を示していても、どこまで彼の心に達したのかが

まったく予測できない。わかっていると思ったその意思表示がまるで嘘のように

次に会った時にはなにも理解されていないことが示されたりする。障害者のする

理解への判断はとても難しい。これが彼から感謝されても、素直に喜べない事情だ。

彼らの理解は、衝動や反応と見分けがつかない。9年、話しても。

でも、確実に無意識な理解から少しずつ成長しているのは、感じられるのだ。

セラピストというのは患者の答え(病名)を出すだけ、状況をわからせるだけだという

のは、大いなる誤解だ。出した答えを患者がどう理解して、どう生活に組み込んで

いくか、(=彼が自ら生活をコントロールする)それを援助するのが最大の仕事だと、

僕は感慨する。

70%くらいまで答えを出して、応援する。大事なのは根気よく自立性を高める

ことで、彼がそこまで成長すれば、あとは放り出しても、自分でやっていける。

もちろん、実際問題としては、ケースバイケースになるだろう。


このことを止揚(アウフヘーベン=より高いレベルに置き換えるby ヘーゲル)する

と、来るべき新時代に適応するためには、今の社会概念や規則を善と見ているだけ

では、役に立たない。だから、自分でそれを根底から考え直す必要がある。

年金制度も医療制度も崩壊しながら、改変・廃止されざるを得なくなる。それらが

崩壊することから社会全体がどう改変されるのか、もう見え始めている。

社会機能という部分では言われているように、AI(人工知能)が活躍するだろう。

人間は?生活は? とこれまで考えてこられなかった部分が脚光を浴びることに

なる。

例えば、僕らは生活を考えたことがない。僕らは入学だ、結婚だ、就職だ、家だ、

と言っても、頭の中は入学費であり、結婚費用、給与レベル、住宅ローンのことで

ある。僕らは生活という言葉は使うが、中味は生活費のことで、定年後の現実は

考えたことがない。それも老後資金というどこまでほんとうかわからない、見かけは

必要に見えるファイナンシャルのことだ。高いレベルの生活資金のことで、楽しい老後

とは何かではなく、生物的にまた、見かけで貧乏くさくない生活のために、いくら必要か、

という計算をしているだけだ。生物として、また最低限の社会生活するための資金は、実は

金の問題ではなく、衣食住の確保の問題だ。それは生きるために必要であって、

金ではない。札束を料理して食う人はいない。

生活は食べること、着ること、寝ること、運動すること、話すこと、笑うこと、楽しむこと、

喜ぶことであって、金で雇った人たちや芸人が笑わせてくれても、それは一時的な娯楽や

気晴らしであって、いずれむなしくはなっても、いつでも思い出として宝物のように残る

ものではない。それがあったから生きてこれた、というものではない。

だが、生活を考えるとは、そういう意味での全体の健康・幸福を願うことで

その補助的手段として、金銭・資産がある。最低生活資金がわかったら、

それ以上が趣味や学費、さまざまなローン準備になるが、テレビの宣伝や

他人、つまりは自分の集まりの世間という水準評価を信じていたら、ただ

働いて、だまされているだけになる。

日本は世界の第2位の経済国である。中国の経済の指標は矛盾だらけで、とうてい

信頼できるものではなく、日本は抜かれていないだろう。

それで生活費でも世界からではレベルが高く、今のなんでもそろう生活に

国民の不満が高まることはないが、日本国内だけを見れば、消費税を上げる

必要はまったくないのに、あるように見せかけられて、僕らは税金で絞り

取られているのに気づけない。僕らは2000万人の金持ち層と40万人の

極貧層とプラスα を除いた8000万人くらいの大多数の日本人実は貧乏層だ。*

*(統計を概算したが、独自の見方も含む)

世界では非常にレベルが高いので満足しているが、格差を日本だけで考えると、

皆貧乏。中間階級と推測できるのは4000万から1億数千万の資産までを

所有する人たちで、多くはない。

40年前には韓国にキーセン(妓生=芸妓)観光での売春観光が盛んになった

時期があった。喫茶店のウェイターとかの職業でも出かけてみると、社長さん、

社長さんと呼ばれていた。今より3,7倍ほど円高だったから、韓国旅行は

安上がりだったのだろう。不品行な日本人は道で一般人のおばさんに抱きついた

りしたが、彼女はなにもできなかった、見ていた人もなにも、という現地の哀しい

話を聞いたりもした。慰安婦問題は見当違いだが、根はもっと深い恨みがあるのかも

しれない。

話が反れた。

「定年後」という新書が売れたのは、定年になってから「こんなはずではなかった、」

という人たちが参考に読もうとしたのだろう。金のことは考えていたが、定年後に

なにが襲ってきたか、なにを失いつつあるか、現実に目覚めたのだろう。とても

定年後のことを考えたサラリーマンが買ってゆくとは思えない。生活のためとか

考えても、よく考えてみたら、生活費のことだけだったと気づいたら、今からでも、

生活とは、とそこから考えたほうがよい。


そのうち、日本の借金が1022兆円ではなく、その半分も実質ないことを本から

と財務省で示したい。

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むなしさが終わったとさ [心理]

:: 長く続いた憂鬱とむなしさの日々。
   それは想定内なのに、突然やってくる。::
   ・・別の記事を書こうとして・・・


ハンナおばさんがハムを持ってきてくれたよ。今日はノリノリでいい日だ。


Good bye  Good bye  My Love


なんだっけ。


Good bye  Good bye  My Love  Good bye 


ちがうな。


いや、これでいいんだよ、僕ちゃん。


口笛に 歌を乗せて  Good bye  Good bye  My Love  


ほら、起きて。  いい天気だよ。  いつまで寝てるの。


リンゴがあったよね。  そいつを齧りながら。


首が 長~くなり 喉が飛び出して


どんな世界の 住人に なったのか ハハハ オホホ


オレンジ色の  オレンジ いや ハハハ


トメート色の  トマト  ハッハ  いや  ハハ


いや かんべんして  可笑しい


これが THIS  あれが ザット  ざっとそんなとこ


ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ   [わーい(嬉しい顔)]


抜けたよ  剥けたよ  リンゴの皮


昨日までの 憂鬱  今日からの  リンゴの皮 皮  皮


ふっ ふっ  ふっ  ハッ  ハッ  ハッ  いやいや  


Doっ Doっ ドウッ 白い椅子に 坐るよ


ほんとに  坐ってる  坐ってる  いやいや  坐ってる


ダメでしょ  イイでしょ  この興奮


イクスサイティング 


ダメだね  解題?  ハハハ      [わーい(嬉しい顔)]


ダメだよ 全然  解説?  ハハハ おほほ    [わーい(嬉しい顔)]


わるい  こんな調子だから  書けないよ


ともかく  終わったんだ  むなしさは



書きなおそう  書きなおそう  ははは  おほほ   [わーい(嬉しい顔)]


BUT Tomorrow


TomorroW    


Good bye  Good bye  My Love !


また!

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