SSブログ

屈人織辺の日記 9.益子・笠間陶芸旅行 (1) [旅]

横浜を出発して、益子に着いたのは

10時でした。約3時間、アイマスク

で寝ていたので、寝ているうちに

着きました。ちょうど5分前くらいに

起きて、それらしい風景を眺めました。

コロナのお陰で、窓際2人席に一人なの

でゆったり快適でした。

益子駐車場1.JPG

駐車場:

駐車場から益子陶芸センターの裏へと

通じていて、そこで紙袋をもらいました

が、お土産袋で、茶碗が二つと、生姜

の漬物、あとパンフか何か入っていま

した。割引運賃でお土産までもらうと

なにか特別得をしたような気になります。

陶芸センターの前では陶器屋の屋台が

並んで、その向こうに通りがあるよう

です。

一部壁がありましたが、そこに廃棄処分

とそうではない皿などがびっしり貼りつ

けられていて、こんなにクズがあるの

か、と。

益子1-1.JPG

下は小さな池で水が張られて:

店並び:
益子陶器市1-1.JPG


益子陶器市3-1.JPG

ともかく目的のひとつを訪れたかった

ので、このテント群れを突っ切ると、

通りに出ました。すると、予想よりも

多くの人出。日曜なのでおかしくはない

けれど、お祭り並みに人が出ていて、

混雑していました。

益子陶器市4-1.JPG

このタヌキは有名らしい:

益子陶器市503.jpg


陶芸メッセという名称が陶芸美術館

でした。やや広い公園のような感じで、

濱田庄司の自宅がある処へ、の高架橋?

を渡ります。

益子陶芸美術館1-1.JPG

益子陶芸市5-1.JPG

上から陽の差す紅葉は赤茶色に:

濱田庄司邸1-1.JPG

濱田庄司邸:

大きい、というのがまずの印象。また、民芸

運動をする人が住むのは、こういう処だろうな、

という範囲にはすっぽり当て嵌まりました。

この向かって右側に窯がふたつありました。

-1.jpg

穴窯:

濱田庄司邸5-1.JPG

登り窯:

濱田庄司邸6-1.JPG

濱田庄司邸 近影:

庄屋か地主の古民家を改造して住んだ、

という感じだった。

濱田庄司邸9-1.JPG

濱田庄司邸8-1.JPG

観光客だが、マスクが黒なので、

泥棒にも見えた。笑

濱田庄司邸7-1.JPG

陶作の作業台に使ったのではないか。

益子陶芸美術館というのは旧称なのでは

ないかと思います。益子メッセが今の

名称で、それは濱田さんの作品が置かれ

ていないことです。それともどこかで

見失った?とも思えません。それは翌日

わかりました。

               つづく




nice!(17)  コメント(0) 

益子・笠間の旅行こぼれ話 [旅]

何を書いていいのかわからないのは、

まだいい徴候で、何を書いても

つまらないだろう、と感じるのは

やはり、書かないほうがいい時

だろう。

益子・笠間の旅行から帰ってから

一日が経つが、ちょうど疲れが

出始めてきた。

今回の旅行は陶器を巡る旅だったが、

その点では大いに満足があったので

よかったのだが、その他に書きたい

出来事がいくつかあり、陶器につい

ては画像の処理が90枚以上あるので

少し、報告が遅れるので、その前に

勘違いの多かったことなどを、書い

てみたい。

まず、旅行の前日は僕の自主休日で、

自主の意味はその日のパターンは

3分の1の割合で約束事が破られる

日になっていた。これは長年の経験

則から決めたもので、なぜか決め事

がうまくいかないのだ。

だから、旅行前日の前の日までには

すべて準備を終わらせるのがベスト

だった。そのつもりだった。

ところが、益子の次に笠間に行く日

が月曜だったが、予定の美術館など

全部が月曜日定休だったことが急に

わかった。ダメだ。

そこでうまくいかない5日土曜に、

急遽、一日伸ばして宿も取ることに

した。ダメな日など気にしてはいら

れない、必要な手続きはその日しか

できないのだから。

テレビでCMをよく見るアゴーダで

安い宿を探したら、Wi-Fiつきで

朝食もつくビジネスホテルだろう、

見つかって少し、駅から遠いが

それほど心配することもなかろう、

と予約した。この時期で全国支援

だからか、3582円というのは信じ

られないほど安い。

その時にメールが返信されて、陰性

証明が必要との報せ。また、抗原

検査の予約かよ、と笠間市の薬局を、

(今、だいぶ揺れた。茨城で震度

5強らしいが、ほぼ笠間市に近い。

僕の所為ではないので。笑)

薬局を調べて無料検査予約をした。

話はほぼ移動日の月曜で、その日の

ことだ。

 6日 益子着・陶器市に陶器美術館

  など。民宿、泊。

 7日 笠間への移動日 (この日の

  ことだ)ホテル、泊。

 8日 県立陶芸美術館・魯山人の亭

   帰宅。 

笠間駅に電車が着くと、町内循環バス

の時間に合わないので、軽い気持ちで

歩くことにした。予約時間まで1時間

近くあった。余裕だと。

駅を出て、斜めに道路を進むと、3本の

道路がまっすぐ北へ向かっている。

区画整理か、都市計画でもしたのか、

と思った。2㎞、それ以上か、長い。

ネットで調べた時には薬局はイオン

の中にあると思った。そこでイオン

まで行ったのだが、長かった。5分前

に着いたので、いつもと同じだと思っ

たが、そうではなかった。イオンで

その薬局はない、と言われた。近く

だそうだ。が、スマホはWi-Fiが使え

ない状態なので、地図でナビができ

ない。そのうちに予約時間を15分過ぎ

てしまった。残り、15分。しかたない

ので、電話して、遅れる旨を伝えた。

10分もして薬局を見つけると、間に

合ったと思うが、茨城県民でないと

有料になると言われた。それで思い

出した、そうだ県内住民の無料検査

だった、と。

神奈川県であまりに検索しまくった

ので、そのことを忘れてしまった。

昨日は民宿に泊まったが、陰性証明書

を持っていたが、高速バスでも民宿

でも見せてくれ、とは言われず、いい

加減なものだった。商売第一になる

のだろう。そこでホテルに電話して

確かめると、やはり、5日の証明書が

あるのなら、期限は切れているが、

構わないとのことだった。(だろう)

無駄な予約と薬局探しだった。

それからホテルへ向かうのだが、国道

50号線を人家もなく、人もいない、

車道だけがトラック・車でにぎやかな

孤独な歩道をテクテク歩いた。歩いた

が、着かない。

ホテルなら看板が出ているはずだ。

歩けど歩けど、それらしき何物も

出てこない。歩数計を見ると、昨日の

1万3千歩をすでに越えていた。

膝の激痛の中で島の家まで歩いた長崎

のことを思い出させた。しかし、激痛

はなかったので、かえって疲労が増加

した。

軽いめまいを覚えて、気を引き締め

ないと、倒れるかもしれないと気づい

た。そうしたら、少し先で犬の死骸

らしいのが見えた。やれやれこんな

時に。トラックの新聞輸送をしていた

時に深夜なので撥ねられたタヌキの

死骸を片付けたことがある。他に

猫や犬の死骸も処理していたので、

最近5年ほどはお目にかかっていな

かった。

ところが近づくと、タヌキだった。

夜行性だから、夜間に撥ねられたの

だろう。タヌキはヘッドライトに照ら

されると、見たまま立ち止まってしま

う性質がある。

その当時で月に400頭が犠牲になった

が、現在では高速道路だけで年間1万

8800頭が撥ねられたりして、一般道

も含めると、20万頭、30万頭、という

データがあるという。北海道が多いら

しいが、ここも茨城だ、田舎だ。

今日は勘弁、と通り過ぎたが、やはり

引き返して、タヌキを持ち上げた。

毛並みはいいが、硬直していて、平た

い枕みたいになっていた。重いかと

思ったが、日にちが経っているのか、

乾燥して重くはなかった。

道路わきの草むらに入れると、周囲の

枯れ枝や、枯れ葉、また花もたくさん

添えてかぶせただけで、済ませた。

穴を掘って埋めれば、微生物が骨を

残して処理してくれるのだが、穴を

掘っていたら、暗くなってしまう。

タヌキの埋葬1.JPG
タヌキの埋葬

国道のアップダウンを2回超えたが、

出てきたのは古い寂れたカタカナの

ホテル名の夜は蛍光灯が中で照明する

だろう、という壊れて破損した看板

で、そこを折れた横道の先にはもう

廃墟になったホテル、ラブホテルの

残骸が見えた。

もしかすると通り過ぎたか、電話だけ

入れようとその横道を入りながら、

話し始めると、その先の遠くに予約

したホテルの看板が目に入った。

やっと着いたぞ!

まだ5分は歩くだろうが、あとは近づく

だけだ。早く風呂入って汗を流し、

ベッドに倒れ込みたい。

その途中でガマの小さな林を見た。これ

だけ多くのガマを見るのはそうないので

カメラに収めた。

ガマ密集1.JPG
ガマの密集する処

ガマはガマ科ガマ属の多年草。ミズ

クサとも、古くはカマとも呼ばれる。

ソーセージのような形で、白い綿の

ような毛をまとう。昭和の頃には

東京でもよく見たが、茨城で見れた

のでなつかしい。

廃墟のラブホテルの隣に、現役だが

中古のラブホテルがあり、それが2軒

並んでいた。いかにも装飾がラブ

ホテルっぽい。その奥に目指すホテル

はあったが、入口を見て驚いた。

やはりラブホテルなのだ。車が入れ

るように広く、玄関のような入口は

奥らしく、見えない。

歩いて入ってゆくと、宿泊目的で

ひとり、しかも車でなく徒歩で来た

のは僕が初めてではないか。そう

だろう、ここまで歩く奴はいない。

ともかく、初体験だ。

ラブホ部屋1.JPG

本格的なラブホではなく、天井に

鏡などもない。ただベッドは振動

するらしく、好奇心で試そうとするが、

アプリをインストールしてどうの

こうので、面倒そうでやめた。

次に予想外だったのが、夕食もつく

ことで、一泊二食付きだった。ビジ

ネスホテルより待遇がいい。電気

ポットもバスローブも当たり前に

ある。

疲れていたので、9時には寝てしま

った。いや、まさかである。ネット

の紹介図にもラブホテルとは名うっ

ていなかったし。



翌日の8日はタクシーで茨城県立陶芸

美術館へ行ったが、帰りに周回バス

を待っていると、同じく待っている

中年の女性に声をかけられ、話になっ

た。眼鏡にマスク、声が大きく、自立

した女性をうかがわせた。北海道の

人で旦那は歯医者だそうだ。辺鄙な

ところで釣りなどするのが好きな人

で、今は稚内だというから日本最北端

だ。前々から北海道に行きたかった

そうだ。奥さんは旭川にいて、週に

何回か通っている、つき合いの多い

人で、また全国に親戚がいて、お墓

参りに寄るらしい。

仕事のことで茨城に来て、プチ旅行

をするのだと言っていた。

地図で見ると北海道の大きさは、感覚

が違い、わからない話から、僕は長崎

の離島のことを持ち出したら、なんと

彼女と旦那も五島列島の僕の隣々島の

福江島に住んでいたそうだ。で、お互い

にその偶然にびっくり。今まで離島に

住んでいた人に会ったことがないと。

それはお互いに同じだった。

ともあれ。そんな偶然に話は弾んだ。

彼女は笠間駅で降りて、僕は春風萬里亭

へ。

僕はよくそういう風に出会う人はいるが、

いつも後で、名前もなにも聞かなかっ

たな、と反省する。聴く必要を感じた

ことがない。

6日の日に歩いたことで腰の痛みを

感じたが、翌日、またその翌日の

帰宅の日と、時間とともに腰は

痛みが弱まっていった。

今日はほとんど痛くない。やはり

腰や膝の痛みは運動不足なのだ、

と自己治癒力を再確認する。

これで陶器旅とは関係のない話は

済んだのではないかと思う。

nice!(21)  コメント(0) 

よう来なんしょ(出雲大社) [旅]

出雲大社にドライブで行ったのが2013年と知って、いささか感慨である。  

4月出雲(島根県)、6月初めには熊野古道(和歌山県)と続けて行ったので、  

過労で持病が起きて、(初)入院という事態に。あの頃か、というわけ。  

この旅をいつか書くつもりだったが、もう6年も経ってしまった、ということで  

そろそろか、と。入院直前にこのことを書いた文章を見つけた。以下:-



「 上野国立博物館                   2013.6.17 ?

 正式には東京国立博物館という。美術展や書展や小音楽祭なども催されて

いるので、上野公園は文化に触れるには施設がそろっている。それぐらいの理由

でふらっと出かけてみたが、縄文時代や弥生時代の考古学の掘り出し物にも

会えるのではないか、という期待もあった。もっとも、ささやかな淡い期待では

あったけれども。

 それくらいの暇つぶしの気だったので、事前に何も調べずにさがみ野駅から

相鉄線に乗る。東南アジアの旅以来、その場のカンや行ってから目的を決めると

いう「お出かけ」のパターンが多い。それはロスタイムを一概に無駄と考えなくなった

ことに依っている。日々の生活にすでに組み入れてなければ、「余裕が大切だ」と

いうことも、無意味な念仏に過ぎない。

 上野では特別展「大神社展」が開催されていた。建物の2階で見られる。正面

の広い階段を上り、順路をぐるりと一周して出口に。そこは上ってきた階段に

もどるしかけになっている。さして見るものもなく、ぐるりと一周を歩いて出て来て

しまった。映画館にはいったのだが、映画が30分で終ってしまったような具合

だった。

 建物は一棟だけではなく、他に常設展や資料室、広い展覧グッズの売店の

部屋などもある。ぶらぶらっと流す暇もなく、特別展の真下が平成館考古展示室

だった。何でもアメリカのスミソニアン研究機構のデザイナー、ジョン・ゼルニック氏

による展示のデザインだとか、それはどうでもよかった。そこには縄文期から江戸

期までの掘り出し物から陶器や瓦など、特に縄文から弥生期の銅剣・銅鐸・銅鏡・

埴輪・土器が国宝を交えて豊富に並べられていて、見る者を狂喜させる。もちろん、

そこで小躍りして狂喜したのは、僕ひとりであったかもしれない。
 

 展示グッズコーナーで
                                         06.17
 銅剣・銅鐸・銅鏡、そして縄文土器はもちろん、埴輪や勾玉など以前はこれほど

つまらないものはないと思っていたものを、1時間はかけて注視してきただろうか。

人生で初めての経験だった。なぜこれらの大昔のものが僕の心を引くのか、展示品

に見入りながら、頭の片隅ではおおいに謎に思えた。

 まだ充分に若い頃に西洋絵画展にのめり込んだ時期があった。絵画を理解する

楽しさを充分に味わったが、それと似ていた。しかし、見るものは絵画よりも単純に

見えながら、そのストーリーはなかなか見えてこない。問題は言葉の綾でなく、

そこにストーリーがあるのを感じることだった。これが歴史の一側面なのかもしれ

ない。今までの歴史というものを確信したその精神的な中心を、この具体的な縄文

から弥生のあやふやな時代に、現実に応用できるかどうかが鍵となる。これは少し

重いトライになる気がする。

 しかし、招待状はもう受け取ってしまった。それはこういう訳である。平成館考古

展示室で喜んだ僕は、展示品をまとめて紹介した写真入の本を求めた。大抵の

美術展なり博物展にはそれらをまとめて載せた本が出口あたりで販売されている。

それを探したが、展示室の近くでは置いてなかった。そこで別の続き棟と思うが、

そこへ回ってみると、いろいろなグッズが豊富な資料と共に販売されている広い

売店室があり、そこで目当ての本を探し当てた。売店室は100人くらい入れる

教室ぐらいの長方形の部屋で、壁に、狭い中二階の資料本棚まで回るスロープ

がある。スロープは車椅子でも登れるくらいの広さとゆるい角度のもので、一度

直角に曲がると次の角が中二階である。売店を見下ろす側が低い本棚になり、

そこで「日本の考古ガイドブック」を見つけ、それが考古展示室の丁寧な案内本

だった。ところが、話しはここからでその本の真向かいの壁にポスターが貼られ

ていたのだが、そのひとつが島根県立古代出雲歴史博物館での「出雲大社展

(特別展)」だった。

 なぜ旧十月は島根が神在り月になるのか?出雲大社とは何か?その当時の

邪馬台国との関係は?次に勢力を伸ばしてくる大和王朝との接点や経緯はどの

ようなものだったのか?

 卑弥呼は弥生文化の頃で、縄文時代は世界的にも古く、長く弥生文化との明確

な分岐は確定されていない。縄文から弥生へ、北九州の邪馬台国群と山陰の

出雲王国群の時代、次に大和王朝の時代へ、そして聖徳太子へ、太子の死の

後に大化の改新が起こり、大宝律令が制定され、そのすぐ後に「古事記」と

「日本書紀」が成る。「古事記」は神話の物語なので非常に古いイメージを持つが、

出雲の王国時代からは400年も後に完成した大和王朝の天下取り物語という

比較的新しい書物なのである。

 このポスターを僕は招待状として受け取った。何しろこの上野へ何の準備もなく来な

ければ出会わなかったし、まず「大神社展」なるものを知らなかったし、見つけて

平成館に入らなければ考古展示室も見なかったろうし、ガイドブックも探さなかった

だろう。本を見つけた処でポスターにも出会わなかった。でき過ぎている。

 しかも、展示の開始日がその上野へ行った翌日、明日からだった。明日から開催

です、というのは「よう来なんしょ」ということだ。いつでもいいではなく、明日から

だから早めに来なんしょ、ちゅうことだ。心は決まった。

 出雲への旅は生涯で稀に見る快適な旅だった。片道12時間の運転、休憩を入れ

て15時間のドライブだったが、いつもの運転疲れを感じなかった。そればかりでない

のはもちろんだが、快適・痛快は本筋ではないので省く。  」

IMGP0583 (2).JPG

出雲というのは、大和人が日本に入ってくる前からいた人たちで、古事記で有名な  

大国主命の話が全国に伝わっていたらしい。熊野大社や須佐神社など四大神社の  

大元がここから発祥している。和歌山の熊野大社もそのひとつで、祖先のような

ものか。   

大和人がある事情でこの出雲を征服したことになって、それを神話で残すために  

新たに天照大神を創作して祭り、伊勢神宮に収めた、という経緯がある。歴史は  

作り物だから、古くなれば既成事実として認めていくのが、慣例になっている。  

そこらあたりも書くものと思っているが、 ・・・今のところは。   


nice!(28)  コメント(0) 

千葉の最南端 [旅]

ドライブ旅行をした。というと、そういうプランがあって友人が集まった(3人だが)と

思うだろう。違うのだ。千葉の友人の家へ行き、どこかで昼飯でも、というだけの

ことが、外房へ行き、海が見たい、と言った一人の気まぐれで外房まで行くことになった。

友人の家は房総半島の中部で、それも北のほうで千葉市もまあ近い。

第一、友人の家に着くのが昼の予定だったが、遅れて1時になった。まあ千葉は広くない

ので、地元の友人に運転をまかせて、外房まで出かけることになった。

面白かった。勝浦に出てみたが、2時も過ぎていたか、どこもやっていない。海鮮

料理とか希望していたが、町を歩いても、夕方から営業で、港の猟師の食堂もやって

いない。それで上総興津の駅前にもどってみると、昔3人でよく来ていたという食堂

がやっていた。なんせ50年以上前の話だ。知っている人や関係者がいるはずもない。

懐かしのかつ丼を食べたが、なるほど味は変わっていないようだ。作っているおばさん

も当時は看板娘だったろう、と友人が茶化していた。それに終わらず、覚えているか

どうか年寄り同士話していた。彼はいつも話の先導役で、この旅行中ずーっと話して

いた。

千葉の最南端の岬に近づくと、そこへ以前行ったことがあると言っていた。野崎灯台

があり、この日風が強くて、最南端は風をさえぎるものがないので、きつく強かった。

入り口に近く、海からの風で体が飛ばされそうで、行くのが危ぶまれた。僕は

風が強くて、嵐が好きな少年だったので、風に呼ばれている気がして、ぐんぐん

歩いて行った。後ろから二人がやめよう、もどってこい、など言っているようだった。

「そこまで」と聞こえないだろうが、言って、そのままどんどん進んだ。

風速20m以上あるだろう、眼鏡が飛ばされそうで、眼鏡を手に持って歩いて行った。

この風でも家族連れが一組いた。

眺めのいい岩場まで来ると、荒れ狂う海は絶景だった。波頭が岩に当ると高い波しぶき

が上がり、離れたここまで水滴が飛んできた。二人も遅れてやってきた。

こういう自然を相手にすると、勝手に興奮してしまう。その力をダイナミックに

感じるからだろう。

この自然に立ち向かう性質は、若い時はやり過ぎることが多く、同じ3人で蔵王に

スキーに行った時も、僕が直滑降をして、無理して右足を膝から捻ってしまった。

骨折医のところへ行き、翌日からは一歩も歩けなかった。2人でスキーをと僕は

言ったが、友人は諦め、その日から2日間スキー旅行は旅館で麻雀旅行に変わって

しまった。

千葉の友人の家からアクアラインを通って帰ってくるのだが、友人の家まで送らずに

小田急線の駅まででいい、と言う。行きもそうだったが、帰りもカーナビは安物で

ルートの再計算に時間がかかる。ひどい時は1分もかかったりする。もう道順よりは

通り過ぎていたり、とあてにならない。それで彼は僕がカンで運転しているのを

知ってしまい、バレていたので帰りはほんとうに不安になった。僕も、「電車の

ほうが絶対に(家に着くのは)早い」と承認するように言った。

カーナビは方向性が役に立つだけで、ちょっと電波が乱れても再計算しはじめる

から始末に負えない。

で、僕も方向がわかっていれば、右往左往も多少のジグザグだと思っているので

心配せずに運転している。むしろ、野崎灯台のようにどこかの最南端というほうが

わかりやすいだろう、と勝手にかまえてもいる。

そんなおっとりした、久しぶりに心も足も伸ばしてみた旅行だった。

nice!(18)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。