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自然の在り方 理法という空想、あるいは理法の在り方 自然との関係 [果ての話]

パソコンの画面を開いて、30分。

それ以上、・・・。

どの音にも心は沿わない。

待つこともなく、ただ白い画面が

そこにある。

もう、書かないのだろう。

一切が空に 飛び去って 

地球に 海も  山も 

すべて なくなって 

それでも マグマがあるのだとしたら 

マグマは どうして 

燃え続けることが  できたのだろう 


今 マグマの 君が 

ひとつになってしまった のなら

暗黒の闇の中 

太陽に照らされていれば 

まだ 明るいだろう 

が やがて  冷えてきて 

鉄の塊に なってしまうのか 


軽くなった君は 

太陽へと 引かれてゆき  

やがて 太陽と ひとつになって 

しまうのだろう  

もう地球の 軌道には 

なにも 残っていない 

なにも ない 


暗い空間に  なにかがあったと 

記録する なにものも 

そこには 見当たらない 

一粒の 塵さえ 

空へと  散った 地球の 

痕跡は どこへ行ったのだろう 


恐らく  その頃から 

何百億年か あとには  

宇宙の時間軸が  逆転するのだろう

太陽系が 孤立系のままなら

増大していた分子運動が  縮小を

始めて  分裂したものが 

個に 戻る 

過去は存在しないから 

それは過去に 戻ることではなく

老人が  赤ん坊になる 

そして  精子と 卵巣に 

退化するように 見えるのかもしれない 


それでも それはすべての消滅を 

意味しない 

それどころか  世界をつくる 

種子に すべてが  もどってゆく 

その様相を 広げているだろう 

どんなに なくなろうとしても  

なくなることはできない 

どんなに 消え去ろうとしても

消え去ることは  不可能なのだ 

僕らが  またいずれ 死後に

何らかの形で  人間になる時は   

自分は  跡形もなく 消え  

新しい 他人が生まれる 

自分とは 似ても似つかないが 

また 新しい生を  生きることに

なるように  

僕らの 宇宙は  また 

いつか 振り子のように 

時間を戻しはじめ また 

新たな種の  新しい世界の 

展開を  始めるのだろう 

そこには 幾分か 

かすかな 人間の記憶の 

破片も  含まれているに 違いない

その世界は  どう続くのか 

未知の  そのまた未知に 

なるだろう 

現在の世界を 構成している

同じ 物質というものは なくなって 

まったく異質な もので 構成される

そういう 想像の及ばない 

要素ばかりで  新世界は  展開

されるのかもしれない 

そうなれば  そこで生まれる 

生物たちは  形があるとは

言えないだろう  音もないかもしれない 

ないだろう 

僕らの  感覚する世界では ないのだ 

しかし  生物であるならば 

生命の 根源は同じだから 

そこに  愛によく似たものが 

流れるだろう 

光の 温かさというものが 

生物の  繁栄の源に なるだろう

あとは  語っても 

ただの 空想だろう 


生きるというのは  

そういうことだと  

僕は 感じた  

教えられたと いう 

気分でもある 

あの時も  あの時々も 

そして   今も 

生命の  因果を  

まるで 自分のように 

感じ続けることが 

反省して みれば 

すべてだ と  


それは あまりに わかり過ぎている 

あまりに わからないことだ 


きっかけが  なくなれば 

すべての  終わりも なくなる 

そう 言ってみたら 

すべてが  始まろうとしている 

その向こう側で  すべてを 

片づけようと している

僕らの  営み 

始まらないものだけが  

終わりもない 

始まってるものは なおさら 

終われない



僕は 終わらない  

それが  自然の 営みだから 

この 矛盾 

この 整合性の なさ 

それらが  すべてを  表している 

ものが  ある、

ということを 


精神も  心も  体も 

ある条件で  生かされた世界  

それが  僕らの 宇宙という 

ひとつの  無限な 遊び場でも 

ある 


僕らの 自分は  この先 

どんな未来においても 

くり返すことは ない 

だから  今を  生きている 


このことの意味は  

語れない 

それが  すべて 

だから 


僕は  すべて を 

知らない 

演繹という方法 ではなくて 

ものの あり方という 

ひとつのものを  感じて



すべて を  

知る 



僕らの それぞれの自分は 

空想だが 

架空だが 

僕らの それぞれの僕は 

それぞれの 体は 

それぞれの 心は 

それぞれの 精神は

それぞれの 自我は

エネルギーのような 

実態のように

ある 


それを 悠久と呼ぶのは 

ロマンが ある 

月は  悠久ではなく 

滅びるから 

ロマン なのだ 

だから  僕らは 

月を  悠久だと

思っているのだ 

滅びの悲しみ として 

悠久など 

知らなくても  いいから




:::

全体で全体を語ることは、本来

できない。時間逆行の仮説をもって

例え話を、自我と自分も分ける例

で書いたが、分けない例で書くこと

もある。そういうものを扱うから、

そこが矛盾しているとか言われたら、

答えようがない。

僕らはお湯を沸かす、と言うが、

正しくはお湯に(するために水を)

沸かす、という意味で使っている。

僕は<自我>は、ものでは精神を生み

だす一種のエネルギーとして、概念

では自分の内なる核として、使い、

また<自分>は主に社会的総体として

のその人にまつわる呼称(日本人とか

学歴とか性格とか、癖など)として、

他人と区別のための語で使っている。

自我はそもそも本質なので、自我の

本質という解釈はないと思っているし、

自分の本質は概念的な意味合いで

あっても、実質的にはあるものとして

扱えない、と思っている。

                              2022. 12 .28
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コップ一杯のキャパとは [果ての話]

飛行場へ向かう時はなにか心地よい

興奮があった。希望と夢の海外への

旅行だった。というのが、ふつうの

思う旅行や思惑というものなのかも

しれない。

僕もそうであったら、と思わない

こともない。が、そんな明るい気持ち

で飛行場に向かったことは一度も

なかった。一度も、だ。

平均してだから、いつもではないが、

5年も日本にいると、煮詰まって来て、

外へ出なければ、どうかなりそうだ、

ということが体質・心質にあった。

精神に絡まる神経的なストレスで

同じ場所、同じ生活をしていると

耐え難くなった。体が震えてくるほど

のストレスだった。それで会社勤めも

最大で5年が限度だった。あっけなく

もあっけらかんと辞めてしまう。

明白な神経症の症状だろうが、病気

というには5年は長いし、休息を

設ければ症状は回復した。本人が耐え

がたいだけで、周囲は多少ほどにしか

気づかなかった。程度の軽い自閉症だと

も言えただろう。(神経疾患は名前ばかり

で多様な真因は解明されていない、この

百年)

それでどうして海外へ行くのか?

逆療法というやつで、もっとストレス

のかかる言葉もままならぬ、習慣も

食事も違う他国のストレスに己が身を

晒すことで、活気づけようとしたのだ。

二日酔いで迎え酒を喰らうのとそんなに

変らない。

傷心の旅行とか、愁心の旅行とか、そんな

ロマンなんか砂粒ほどもない。緊張して

カリカリの心境で飛行場に向かうのだ。

バカだね、の一言で済む。実際その

通りでひとりで行くので楽しい会話も

なく、観光地に行っても歴史の実地

見聞のためで、観光気分というものは

味わったことがない。

それは忘我というものを誘うためだった

というのが穿った見方だが、本当のとこ

ろかどうか、怪しい。

忘我というのは、緊張しすぎたためだ

とも思えて、それは帰って来てから、

気持ちや神経に余裕が持ててから、旅行

は役に立ったといつも思えるからだ。


反省して初めて気がつくことがある

ものだ。それは例えば、自分が日本人

であるために、そこでそのように考えた

のだ、ということや、無意識にそう

いう行動に出たということなど。それ

は新しい社会環境との対比がなければ

決して気がつかなかったことのようだ。

それで海外遠征は損をしたと思えた

ことはなかった。(地球上の)世界を

考えるというのは、その国の肌合いに

触れることや異質さを感じ取ることだ。

それを体にある意味、叩き込むことだ。


日本で本など読んでいたって、旅の映像

など見ていたって、まったくわからない

ことだ。観光コースを外れて、その国の

生活をしてみることだ。便利や不便、

おいしいまずいをその国民と一緒の

生活の中で体験してみることだ。


海外に留学した者がホームシックになる

と、ともかく漢字が見たくて、なんでも

いいから日本語の本を「見たくなる」

そうだ。漢字でさえ、心に習慣化し、

染み入ったものらしい。文化もまた、

恐るべきものだ。日本にいて普通のこと

が実はこうだったという言葉にならない

日本経験は逆の気づきだろう。

それはホームシックという言葉ではなく、

僕らの心の烙印のことだ。

僕らはどこまで自由かというのは、そこ

からが出発点になる、そうではないだろ

うか。

これも前に書いたことだが、また書いた。


つまり、自分を慰めるのではなく、自分

をさらに苦しめる要素を加えて、僕は

海外へ行ったのだ。これはもしかする

と、自然な自己防衛だったと思える。

なぜなら、無の体験をしたと書いた。

それは書いたことで何も伝わること

はないだろう、という経験だったから、

僕は知らずに臨戦態勢に入ったの

だろう。


無とか無限とか、そういう人を越え

たものを受け入れることはできない。

まず、人を越えたものの説明をしたい。

人のキャパシティを越えるとは、

通常の経験なら相当の恐怖を味わう

はずだ。ところが、僕は当時のその時、

恐怖に類するものはなにも感じなかっ

た。これも数年して気づいたが、どう

してなのか、どうしてもわからなかっ

たが、人が受け入れるだけの質量を

越えたものだから、僕ら人間では

客観化できない。できないから、それ

を対比してなにかの概念(言葉)にでき

ない。

だから、知を通しての感覚が働かない。

つまり、何も感じないほどだ、という

こと。

これは僕らが恐怖を感じる、というのは

人間の受け入れる範囲内にあること、

その体験は僕らはそれに対して何も

できないことを意味している。つまり、

人間に対してそれは何の意味もない

ことを語っている。

僕は抗えないほどの存在を前に恐怖に

逃げることさえできず、それと闘う

ことに人生を賭けてしまったのだ。

といっても、その強烈さから逃れ

られない以上、前を向く以外の方向

があったとは思えない。攻撃は最大

の防御なのだろう、それで否応なく

僕の追及は始まったのだ。

リアル現実はリアル夢でもある、と

いうのが、その世界だ。


今はもうため息しかないが、無意識

とは僕が相手のいないような存在を

前にして、瞑想しか手段がないことで

心に入り、心を突破することをして、

心を去り、無くして掴もうとして、

それは気味が悪く、死に損なうこと

だった。

その長い長い戦いが、無駄ではないと、

長い長い時間の後に夜明けのように

次第次第に明らかになってゆく。

まだその余波が続いている。

その期間で陶冶された僕の心が想像

外の考え方や感情、感覚の捉え方を

生んで、そこから光を発するからだ。

それは正しくなくても、確実に新しい

見方・感じ方を演じている。直接伝え

られないので、なにかこの世に託した

もので演出の方法を取らざるを得ない

のだ。故意のことも背景から完全に

故意ではないだろう。

だから必然で、人が聞きなれている

習慣化した教訓や声掛けは避けられて

いる。普段聞いているような言い方

では、その感じが残らないからだ。

この世にはその余韻のような直接では

なくても、人は毎日聴いたり、感じた

りしている不可思議なものがある。

それは間欠的で、わずかな刺激なので

すぐ忘れられてしまうが、それが増幅・

増長される経験をしたならば、生き方

も変わってしまう人もいるはずだ。


ブログを始めて1年ほどしてから、

記事が書けるようになってから、

伝える相手は2人か3人だろう、と

思ってきた。それは誤りだった

ようだ。

万人が伝わる要素を備えていると

いうのがわかったからだ。と言っ

ても人によってだから、1%から

99%までそれは多様で、こちら

の予断など許さない。これはそも

そも長い長い話なのだ。


地球から160万キロかな、そこに電波

望遠鏡が打ち上げられた。

そこから映像が、主に多くの銀河が

輝く映像が地球に送られてきた。

地上のハッブル望遠鏡だったかな、

その銀河の映像から現代の原子物理学

で予想されたものを想像していたが、

学者たちは予想外のものを見ること

になった。銀河の数が多いのだ。

その数、数千億個。ビッグバン以来

のコンピュータの計算でもつじつま

が合わない。

これはビッグバン理論で銀河も

衝突して、大きくなり、数も遠く

なるほど少なくなる、という理論から

はかけ離れている。つまり、ビッグバン

理論では説明がつかない。

しかし、映像は送られてきて、ちゃんと

ある!

たった160万キロに望遠鏡の位置を

変えただけで、僕らの先端理論・

常識にもなっているビッグバン理論

は破綻してしまった。

僕には、驚くこともなく、これが

僕らの世界で、まだ何かわかった

というには僕らの知識は脆弱なもの

だということだ。

いつまで、とかではない。これは

追いかけっこのように、リアル現実

と概念の夢とは違う、異なる、全き

別なものという認識が行き渡るまで、

いつまでも続く。

そこまででもなかなかの進歩だが、

そこではまた、その先がある。

わからないことを言ってもしかたない。

僕らは僕らのものを造っているので

あって、なにかをまったく新しく

生みだすことはできないし、それは

僕らが無限に変異することが可能な

要素(人間体)であると、いうこと

であり、またそれらは人間や生物に

特有のもので、どこかにある真実とか、

どこかの永遠とか、どこかにある

存在・実在とかではない。そういう

客観化は僕らにはできないこと、

不可能事なのだ。

人類が続けば、当然ながら、僕らは

人間とは似ても似つかないものに

なり行く。人類が気の遠くなるほど

続けば、の話だから、なにも気にする

ようなことではない。あなたはいない、

その時、確実に。

だから、例えば、AIに自分という意識

が生じるという話を信じないほうが良い。

その時はある個人学者か天才・奇人が

自らの性格性質から膨大なデータを構築

して、AIにインプットして、仮に自分

であるように見せることだろう。そのAI

が反乱とか人類に戦いを挑んだとしても、

それはある特定の人間だった個人を相手

に戦うことになるということに変わりは

ない。そのAIとは戦えない。彼は

マシンでインプットされた「特定の自分」

に従って動くだけだ。学習することは

計算の簡略化・効率化でなにをするかと

いう命令にある。感情や生理感覚の数値

は持てないから、過去のパターンをすべて

覚えることになる。それは発想の飛躍は

できないということだ。人間征服の基礎

プランというプログラムもインプットされ

なければならない。ということで、その

AIは開発者のコピー人格なのだ。僕ら

の敵はいつも僕ら人間なのだ。変わらず、

永遠に。

宇宙はアインシュタインが考えたように

重力だけではバランスが取れていない

だろう。僕らの心のように、様々な要素

があるので、バランスは常に不安定な

のだ。問題はそれが原点だと肝に命じて、

そこからこれまでの歴史のように難題に

当たって、解決できようと、解決でき

なくても、技術だけでなく、あらゆる

ことが変化する(無常)、また新しい

課題が現れる。できることを、自分に

できるだけをする。


そうすることで、生きることは何かを

心に秘めて、自分の生き方を育てて

ゆく。あなたが育てなければ、あなた

の生き方などどこにもないからだ。


また同じことを書いている。もう新し

くはなれないのだろう、キャパは

精一杯使ってしまったのかもしれない。

人を越えたというのは、そういう感覚

のことだ。感じたからと言って、人間を

越えるものではない。

そういう相手だった、 ・・・・・・。

キャパシティ.png

陽秋:画  「コップの夢」


(注):: キャパ、キャパシティのこと。

      収容能力。例えば、定員。



  : :ビッグバン理論はジョージ·ガモフら 

    によって提唱された。
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バーミヤンのあとは物理学、あとは哲学と感傷 [果ての話]

えー?と驚いたのは、ブログでミスっていたこと。


下書き保存したつもりが、昨晩は眠くて中断したので、ボケて公表してしまっていた。


ブログ開けたら、なんで?である。偶々、区切りまで書いたので、確かにギリギリ


公表した形でもいいと。仕方ない、続きを書こう。と言っても、まったく話題は


切り替わってしまう。一応、「1.」も載せておく。読んだ人は飛ばして。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:

「今晩は若い知人が成長していたのに、少し驚いた。

バーミヤンで2時間半ほど話した。今まで同じ料理を頼んだことがないのに

同じ定食を注文した。これは相手と波長があっていると示す時に、出る行動

である。この8年で初めてとなれば、驚いてもいいだろう。

自分の考えた新しい考えも披露していた。これにも驚いて、「君の言うとおりだ」を

連発した。人が進んで、成長した姿に出会うと、まるで自分の世界が変ったように

感じる。でも、彼は仕事上で大変でアドバイスをもらいたいと、思っていたのだ。

成長する素直さが出て来て、自分の考えを述べるようになったら、ほとんどアドバイス

は必要ない。聞いたら、すべて前もって答えを得ようとする心配で、考え過ぎという

不安だった。やはり、アドバイスは必要ない。

人は失敗を恐れるあまり、未来の答えを現在に求めようとして、考えても仕方のない

答えの出す不可能を、考え出そうとする。

そういう心の問題はその場で答えを出せばいい、と。それだけだ。

その時までに自分の心や気持ちがどうなるかはわからない、いつでも、永遠に

わからないことだ、と。その時にその時の自分が答えを出すべきで、今の自分は

関係ないのだ。だから、つまらないことで悩む必要はない。


物理学の話はまったく出ない。彼には興味がないからだ。彼とは中国人による

中国史をやろう、ということで話が決まった。  」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:


このブログでは科学をやろう、と書いてあるので、中国史などの歴史はやらない。


話すのはこれもたまたま手に入れた本で、「光と物質のふしぎな理論」で文庫本だったが、


単行本になった。という言い方はおかしいので言い変えると、文庫本は紛失したので、


図書館で借りたが、単行本だったということ。


量子電磁力学について書かれている。Quantum Electrodynamics で略してQEDと


している。QEDでは quod erat demonstrandum のラテン語で「証明終了」の意味で


こちらのほうが有名かもしれない。漫画の天才学生の探偵もので「QED-証明終了」


もあるが、関係ない。


本の全体では量子電磁力学をとても長くなるが、矢印を1万本も使うことで、勉強に


4,5年もかかる数学を省略して、誰でもそれで理論の理解に導くということらしい。


安心してもらいたい。そんな退屈な話に引きづり込もうということではない。


入り口で著者のR・ファインマン博士が言っていることの意味を新しく捉え直したい


だけだ。量子電磁力学も量子力学を基本にしているので、極微粒子の動きを確率的に


説明して示そうとした理論だ。はじめの理論はポール・ディラックが作ったのだが、


光と電子の補正を計算すると、無限大になり、理論の欠陥になってしまった。それを


解決したのが、著者のファインマンとジュリアン・シュウインガーと朝永振一郎の


三人だった。それは実験の結果とごくごく微妙な差で、有意な理論の間違いは見られ


ないというものだが、なんと量子電磁力学が生まれてから、50年もいろいろな範囲


のものを試し続けて来たというのだ、半世紀である。


これは科学者の誠意であり、正しさの追求でもあるのだが、嫌味な見方をすると、


量子力学が正確な答えが出せずに、確率である以上、常に実験と照らし合わせる必要が


あること、それはファインマンにも疑いがある、ということだ。この講演でも「なんとか


皆さんをおどろかして、「なるほどこの説はホンモノだ」と思っていただこうとの魂胆から


なのです」と言っている。とても奇異な感じ。それで50年も実験をする?という。


でも、僕はこの極微のミクロの世界で量子力学によって、化学全般、物質のさまざまな


性質を解明するという偉業を成し遂げた。それが確率によるというのは、なんとしても


物質の根源については正確な答えは出せない、ということではないかという結論に注目


してしまう。これが限界とは思わないが、科学(理論)での解明の淵というものに近づ


いたのではないか、と。


例えば、感情の数式化を考える人はこれまでもいたし、これからもやる人が出てくる


だろう。それで感情のあらゆる面とそれらの関係を数式で結びつけることは、たぶん


失敗するだろう。それで感情は「感じることから」出て来て数式に情が移るとは思え


ない。だが、その追及の過程で人のなんらかの心理システムを解明するような理論を


発見することは、あり得ることだと思う。鳥にはなれなかったが、人は飛行機を発明


して空を飛んだように(毎度同じ比喩で、申し訳ない)。そう言えば、化学実験好きの


少年がただで道路工事のコールターをもらって実験していたら、偶然、素晴らしいブルー


が現れて、とても美しいので、彼は切り替えが速かった。そのコールターから染料を


つくる会社をつくって、その社長になった。世界で売りさばいて、儲かったという話を


聞いたことがある。


ここでまた、話題が変る。:-


根源、というのはむなしさを通して感じられた。この世という自分の世界にはないが、


死の地帯と呼んだ、人がそれを仮想とも実在とも区別ができない世界になる。ある、とは


言えない。それでは自身の認識で語ることになる。ややこしいが、その感じられないが


感覚はするのは、むなしさとして感じることでもわかる。自己は防衛本能からそこには


入らないように厳しくそこに恐怖をつくり、自分(その本人)に強い恐怖を感じさせる


ように働く。


丸一日歩いても闇ばかりが続くのであれば、慣れない我々は一歩歩くのもつらく、一日など


とんでもない、と思う。これは眼をつぶって簡単に実験できる。闇を歩く恐怖は最初は


想像以上だ。それで坐って確かめる。


それでも死と愛を境界から確認するだけで何年もかかり、そこから愛を見切って、死の淵


にまで行ってみたのは、つい最近のことだ。精神的に限界を一時?感じて一旦意識上で


戻ることにした。それは個人的に重要な発見だった。死に淵を感じたということは、


死の地帯にある境界があることであり、そこからさらに先が別のものがある、という


可能性が高いからだ。エベレストの空気地帯が人間の血液の酸素レベルを下げるの


だったか、そういうようなことで生理的に7000mより高い地域ではそのまま


人間が自然に息絶えてしまう地域なのだ。この世ではない世界でも同じような感じ


で、そこにいるのは現実の自分の肉体ではないにも関わらず、長居ができないのは


面白い。死の淵とはそういう世界であまりに広すぎるので、この銀河系とかの宇宙


がいくつも入っていてもおかしくはない、といういい加減な感想を抱かせられる。


根源とかいう言葉は、またすべての言葉という認識標識はここではまったく役に


立たない。闇の世界で「なにが見えますか?」と聞かれても答えられないのと同じ。


だから、この根源というのは僕のその世界へのかすかな郷愁なのだ。ノスタルジア


に過ぎない。人間のささやかな気持ちに過ぎない。


ニーチェの言うニヒリズムはちょうどそんな感じでこの虚無を捉えているが、それは


認識からそれを観察したような言い方(哲学)で、そのなかのどうしようもない実感が


言わせたものには、僕には感じられなかった。僕なりには、それが哲学的知の限界だと


思えた。


こうしてパソコンの前に坐って感じているのは根源への感傷なのだ。根源という言葉の


響きに想いを重ねるが、その先はむなしい空間が無限の彼方まで続いてゆく、という


想像しかできない。


そして、


僕はここにいるから、その窓の外からそれがずーっと


夜の果てまで一緒に続いている気がしてならない。不思議に心理や精神を歌うような


楽曲はどれでも似あう。響き合う。


アー、アー、ア  オウ    ( シンセサイザーっぽい 狼の声  だろうか










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