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考えても 考えても [思考]

考えても考えても、だろうか、それとも

考えれば考えるほど、だろうか。

思い出したい情意がある。情景、か。

夢を覚えていないが、夢の雰囲気

だけ妙に印象に残っていて、それが

思い出せないような時。 時間。


人の弱さはよく見えない。手を伸ばし、

助けたつもりでも、感謝のお礼もない。

気にしなかったが、宿題を出しても

ことごとく忘れられる。病気だとも思った。

理解と忘却の関係がわからない。

子供時代の親とのトラブルの話は聞いた

ので、トラウマかとも思ったが、臆病で

ありながら、素直。その素直さは臆病

から来るものと、相手にへりくだる形で

話を合わせる、という自己防衛だと

気づいたが、それでも納得には遠かった。

見た目の弱さから、初めからそう弱さと

判断したが、これが自我のあまりの強さ

の裏返しだと気づくのに、10年かかって

しまった。たぶん、トラウマの影響から

なにかの発達障害もあったのだろうが、

素直でいい奴と、人などなんとも思って

いない、ただコミニュケが取れず、その

防衛処置としての相手の話をオウム返し

することと、生来の臆病さが重なっていた。

見えないのは、そういう弱さに隠れた

剛情さとプライドの高さが、うまく素直さ

とバランスを取っていた。

人はそれぞれ、水の流れのように

生きにくさを自分なりに対応できること

で応じてゆく。そこに嘘や偽りを交える

余裕はなくて、見た目や他人との一瞥

の関係ではわからない複雑さと、内奥

がある。そういう例だった。

彼にとっての、こうなればいいは、もちろん

あるのだろうが、それもこちらが促した

ことに同意するという、いつもの彼の

対応であるなら、それが彼の本心か

どうか、彼にも分らないに違いない。

そう、わからないのだ。

僕らはよく知っていることを、大抵は

自分もわかっていることだと思う。

そして、嫌いなこと、イヤなことには

見向きもしない日常を意識すること

はない。8年くらい、人生で必要な基本

は教えて、共有できたつもりだった。

彼がわかったという感触は確認を入れて

きたし、その場でそれができたから、

まさか後で、しかも時間をさほど置かず

に忘れ去られるとは、思いも寄らなかった。

彼は嫌なことは自分の内に入れない。

僕の言葉にショックを受けた表情は

本物だったが、それが短時間の命だと

は考えもしなかった。

まるで知的障害者のような一方通行が

脳にあるのだが、知識としての幅や

レパートリー(上演の演目や領域)は

広げられるので、医学の資格試験には

合格するという、とても矛盾を感じる

性格だった。論理の飛躍がわからない

性格だった。


答えを出すことは得意だったので、それ

では足らないことに気づかせてくれた

のも、彼だったろう。問題の答えと解決

はまったく違うことで、答えはその知的

概念の解答でよかったが、解決は現実

の場での効果があるか否かに拠る。

解決しないのは、答えの先にまだ

未解決な問題が潜んでいることだ。

彼の心が、心のカルテや光景のように

パネルで目の前にある。

見ても見ても、その解決の糸口は見つ

かりそうもないし、考えても無理なのは

わかり切っている。

彼を見ていると、まったくふつうの一般人

なので、彼の自己についてそんなプライ

ベートな話をするようには見えない。僕も

概念以上のことは書いていないが、その

先に光が差すまでには長い長い時間が

あるような気がする。

脳のもっと細かい検査とか、僕は必要

な気がするが、専門になれば、もっと

他の検査も思い当たるのかもしれ

ない。

僕は医者ではないので、心理で見る

のはこれくらいが限度ではないかと考え

ている。人の精神心理自体が、一種の

概念的事項であるから、時には治癒

よりも元気づけの交わりのほうが大切

になるのだろう、と思う。

彼の臆病さに隠れた自我の強さが

あるという想いに至ると、意識しない

傲慢さで彼の時折見せる自分(ふて

ぶてしさ)がようくわかる気がする。

そして、それはそれに彼が気がつく

までには、いくつもの関門があって、

彼は知らずに思い悩むのだろう。

今の彼のプライベートが落ち着い

たら、そういうことを話し合う機会も

訪れるのだろう、とも思う。

僕の自分の問題に関わらない人は

僕に関わらない。僕の友人、友達

だった人も、かろうじてつながって

いる人も、珍しい人ばかりで、それ

ぞれがその代表格みたいなところが

ある。

一番の共通する特徴は、論理は苦手で

直感で決めるタイプが多い。逆に動物

的だが、勉強家で人にあまり疑いを

持てない、自我の少ない(弱いではなく)

友もいる。それらも最近知ったことだ。

皆、僕の鋭さを警戒するのだろう、僕に

近づかないか、勘づいていないフリを

して来た。

僕は僕でそこには気づかなかった。

そういう壁を友人に対しては築いて

いなかったので、訳が分かると、

やはり、大層がっかりした。

社会を逸脱すれば、常識を超えるでは

すまない。ルール無視という範疇で

見られてしまう。

気持ちの明るい人は、知的なことを

書こうとはしないだろう。知とか自己知

とは概念事項が多いので、方向は

いつも過去を向いている。これをよく

認識し切らないと、パートナーの死や

体力の衰退には抵抗するのが困難に

なる。どこか自分が間抜けていないと、

自殺を選びやすくなる。当人は社会

批判をして、またしているつもりだから

だ。

大きい意味で社会批判は意味がなく、

したがって、できない。個々の問題に

ついて責任を問うのが、一般的に

できることであって、それを世界の

思想や主義主張に向かって批判して

いるつもりでも、それには実際、実態

がない。幽霊だ。返ってくるのは虚しさ

だけだ。

見かけの議論はそれなりに勝ち負けが

あるように見えるが、その場やその時の

勢いというものが、そう見せる。ショー

なのだ。ムキになって、細かい知識や

資料を持ち出して、相手を出し抜いても、

自分は賞賛を勝ち取ったという栄誉に

関心があるだけだ。相手が友人や

親しい人なら、後味は悪く、むなしさ

が残る。大した利益や賞賛にならない

のなら、同じく、むなしさが残るばかり

だ。

だから、公平・公正な議論で真実と

やらを望むのなら、まずその対決の

結果に金銭や名誉の利益がどちらに

どれくらいあるのか、気にした方が

いい。利益目的の仕事や交渉なら、

初めからそんなことは問題にしない

だろう。東南アジアのある国でも、交渉

にはふつうにリベート(賄賂)を要求

される。



思い出す情景は、見えないが、眼の前

にある気がしている。思春期も迎えて

いない子供に、恋愛感情とか説明する

のは退屈だろう、初めから、理解でき

ないことがわかるから。

自分のことなら、解決策までたどり着ける

のに、と思っても、それだけだ。

相手が知らない事柄で説明することは

できない。僕らがわかったつもりに気づけ

ないのは、なかなか大変なことだ。

それこそまったく他人事になってしまう。

それが嘘でも、正確でも同じことだからだ。

聴いたことのない言葉を聴くようなもの。



<考えても考えても、だろうか、それとも

考えれば考えるほど、だろうか。

思い出したい情意がある。情景、か。

夢を覚えていないが、夢の雰囲気

だけ妙に印象に残っていて、それが

思い出せないような時。 時間。>  



そういう時間を、なんと呼べばいいの

だろうか?
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漢字の「心」:概知の新天地に迷い込んだ、探る その9. [思考]

さて、「さて」である。

心の問題を取り上げれば、僕らの長い歴史の中心的な流れは見据えることが

できる、という視点から話を進めて、こころの発生というものを捉える場面

まで来たのだが、ここでもうひとつクリアしなければいけないことが生じた。

それはこころの発生に伴う事象で、こころの発生から僕らがそれをどう感じて

どう扱ったか、という僕ら側から見た心へ初めて接触してからの混乱のことと、

もうひとつはそのこころは僕らの中で実際にはどういう形態をしてなにを演じて

いたのか、という二つのことである。

無意識な精神心理というものが発見されたのがこの100年くらいのことであるから、

はるか昔に直接こころを扱った文献というものは存在しないだろう。これからが

手探りの面白いところだ。なにもないところから新しい学問分野を発見するのは

いつもこういう手作業から始まっている。本に書かれているならそれはもう過去の

事柄だから、新しい発見は無理な話なのだ。

だが、間接的なヒントは本から見つけてもおかしくはない。年代などを特定して

ゆくには、そういう考古の資料は大事だろう。その著者の考えがある場合は、そこ

には慎重に考えと事実とを区別しなくてはならない。その事実からどう考え、どう

結論するかは、その人次第で千差万別という、野放図というか、いい加減さが

あるからだ。

僕らが購入する本というのは、ほとんどが自分の意見や主張を織り込んだ、自分と

似た意見のことが書かれているものが多い。趣味や娯楽はそういうもののほうが

いいに決まっているが、いざほんとうのことを知ろうとした時には、それは妨害

にはなっても、事実が”よってなる処の真実”のようなものを見せてはくれない。

知りたいのは真なるものであって、自分ではないから。

(ここでもう一つ注文をつけると、先に進めない)

まず、漢字から始めよう。漢字の「心」は心臓を象形にしている。中国大陸では

すでに心臓から始まっていること。

紀元前1600年から前1046年までの卜文には現れていない。聖化儀礼としての文の

字形の中に現れるだけだと。前1046年からの金文から心の用法が現れる。

この頃から心が使われ出したらしい。それからの500年間からは心に対応するのに

さまざまな思考する者が現れた。ギリシアではソクラテスが現れたのを筆頭に

100年遅れて、インドではシャカが、中国では孔子が現れた。釈迦と孔子は同時期

に亡くなっている。

孔子の論語は同時代に書かれたと思われているが、なかなかどうして、簡単に

論じられない。それは孔子の生きていた時代にはない字が使われているから。

これは後世に論語を筆写などしながら、研究も併せて、その時代の漢字を

使ってしまったからのようだ。

「謹みて信あり」という言葉も、言葉を謹(つつし)み、言ったことは行え、

ということだが、「謹」も「信」も孔子の時代にはなかったというから、驚き

だ。さらに「愛」も「仁」もなかった、と。あと、「四十にして惑わず」という

有名な句があるが、この「惑」も孔子の時代にはなかった。(以上は「身体感覚

で論語を読みなおす」安田登:著より)だから、「身体感覚で論語を読みなおす」

の著者も「惑」を「或」に読み変えて、新しい解釈を試みている。それも面白い。

この著者は能楽師なのだが、なんでも屋で、医療家、中国文学の研究者、舞台

プロヂューサー、語り芸、ジャズ・ピアニスト、ゲームデザイナー、高校教師

と幅広く、特に体を使って理解しないと気がすまない人だ。

基本的なことを基本に従って、はじめから研究すると、こういうように新発見

ばかりになる。こういう本が多いほうが真相に辿りつきやすい。それは権威

という伝統を守る、例えば大学のネームバリューのような、そういう固定観念

から抜けられない方向を守ってしまうことになる。それでは悪しき伝統に

なってしまう。

ここまでで、少し漢字には手をつけたというところで、また少ししてから、

書きたい。




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こころとは何か :概知の新天地に迷い込んだ、探る その8. [思考]

心はいつ生れたのか? と、言葉は簡単だが、僕は「いつ」が知りたいのだが

それよりも問題なのが「心」だという次第になってきた。なにを「心」だと

捉えることがそもそもはっきりしない。

僕らはこころがあるのを知っているし、直に触れていると感じている。楽しい

のも悲しいのも、心があってのことだ、と。僕らは心を所有しているはずなの

に、むしろ所属しているだけであって、所有物のように自由に扱えない。

命令されるわけではないが、1時1分からは楽しく、1時2分からは悲しく

というようには、心を変えられない。気持ちは時間を必要とするし、それは

頭で切り替えても必ずあとでその気持ちの反動があって、完全に切り替え

られたわけではない。

こころは古代ギリシアとかの昔は腸や腹のことだったらしく、ギリシア語の

原語はそれを使っているらしい。それから胸に移ったのだろうか?それも

変な話で、なにか理由があるのかもしれない。

ともかく調べていると、生物学的に、漢字発生では、進化の過程では、と

その専門分野に引き寄せて専門家の意見があるので、逆に信用できない。

それは僕が泌尿器科の持病で病院に行った時に、ちょうど泌尿器科は休み

の日で、代わりに大腸科の先生が診察に当たって、泌尿器科の検査を

まったく無視した。その上、便が止められているから、腹に穴を開けて

排出する手術を言いだした。持病だから、そのことを言うと、超音波の検査

を加えた。それで僕の言う持病がわかった。

つまり、手術などはまったくの誤診だったのだ。一言の謝罪もない。人の

腹を開けようとして、それが誤りだとわかったにも関わらず、患者に

教えてもらったにも関わらず。ああ、医者は当てにならない、といつも

ながら思った。専門分野以外で診断を考えられないのだ。(6年前)

そういう経験をしているので、本に書かれているからと、その筋の権威でも

おいそれと専門家の意見でもすぐには信用する気にならない。

法律でもそうだが、その大まかなことがわかっていないと、弁護士に何を

どう質問するかもわからない。そういう状態で裁判に臨んでも、相手方が

内密でこちらの弁護士を懐柔してしてしまうことがあるのを、親戚の離婚

事態で経験した。

ともかく、自分でおおまかにでも判断できないことを専門家に頼んでも

あまり、いい結果は期待できない、と思うようになった。法律は、だから

事態をどう考えようとするかは、刑事法と民事法ではどう対応が違う

ということからも、僕らの常識ではないその考え方はわかるようになった。

そこで「こころ」だが、それがあまりにふつうにわかっているものと、自分

でも使っていたので、実際にこの問題にぶつかると、意外に難しいと

知った。こころの定義が、自分の中にはない、と知った。なんとなく使って

いた言葉だった。

残念なのは、ここである一定の水準の自分で納得できる答えを出さないと、

まったく専門家の意見を判断できない、ということだ。腹に穴を開けられて

はたまらない。(笑)


こころとは何だろう。

今の形は脳による”思考”、その世界である”精神”。それと古くからの”感情”中枢。

それが人それぞれで分かりにくいように、さらに”感覚”の違いはわかりにくい。

”直感”は僕は、それは思考・感情・感覚などのように(厳密には区切りは

見いだせないが)一分野というものではなく、記憶を中心に思考が補佐

して、感情や感覚と組み合わさって、一種の飛躍・昇華を行うものだろう。

思考が思考の飛躍を行うと、直感が直観という字に変わるのかもしれない。

こころには眼に見える形も、機械によって見る形(映像)も見出されて

いない。どうにも捉えどころがないものだ。

なので、どうなってそれがあるように意識されたのか、また、意識とこころ

はどう違うのか。または意識は心の部分なのか、その反対か。違うとしたら、

その発生はどちらが先に発生したのかも問題視されるだろう。

ま、ここらでお手上げなのだ。本を読んでも調べても、まるで無駄にはなら

ないだろうし、ヒントは拾える、と思うようにしても。

半世紀もただ心を使うだけではなく、内面を探っても来たので、なにも

手掛かりがない、というわけでもない。が、思ったよりは面倒な作業で、

今のところ、なかば、答えが自然に思い浮かぶのを待つより、手はない。

なかば、自然(環境)との交流で刺激があるはずだ。

でも、実はほんとうにわからないものを探す時は、手探りで、霧の中を探る

というのが正解な方法なのだ。なぜなら、それはたぶん、まだ誰も発見して

いないからだ。それは新しく見つけ出す必要がある。本に書いてあるはずが

ない。あれば、もう確定な説として、今さら考えることもないから。

本は資料として使うのに価値がある。答えは期待できない。


「心の発生」をテーマに進んできたつもりだったが、ここで一番大きな

障害が立ちあがった、という報告になってしまった。つまり、これの

ほんとうにある真実は、これはどんなに変に思えようと、

答えは眼の前にある、ということだ。

ニュートンのリンゴの木はどこにもあったはずだ。でも、万有引力の発想

はニュートンに生れた、というように。

なので、自然(環境)に出て行くのには相当の理由がある。僕らの日常は

すべて人工、という答えに囲まれている。眼の前のパソコンもスマホも、いや

鉛筆から消しゴムまで、なにからなにまで人がこういう物があったら、とか

こういう便利さやサービスがあったらいい、として出来上がって来たもので、

つまり生活のための答えがすべての加工品・人工物なのだ。答えには

すでに目的からの結果しかない。歩いても、何しても、何を見ても街や都会

という答えばかりだ。だから、自然という人間のために生れたのではない、

人工の少ない、太古から存在して来た環境からのほうが、新しい答えは見つけ

やすい。考えてみれば、簡単なことだった。

僕らはいつも古い答えに囲まれて、古さの中で新しいことを見つけようとして

いる。あなたは75億人分の1で最先端なのに、そんな古さの中に答えがあると、

思えるのだろうか。

基本的な考え方や気持ちや原則さえも、取り払わないと眼の前に気づか

ないのは、そういうことで、知らない間に1000年単位の祖先から、親から

洗脳されているのが僕らではないだろうか。そうすると、ここにも心の発生を

知る必要が生まれている、と思えたりするのだが ・・・・。
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知と解剖 概知の~探る7. [思考]

じっとしている。特に、待っているというのでもない。

待つと、早く来ないか、という焦りを感じるが、それはないから。

来るとか来ないとかではなく、なにも待たずに坐って、待つような構えをする。

ずいぶん、おかしな心象の態度があるものだ。言ってみると、今していることが、

一見おかしなことだとわかる。

あまり言わないほうが身のためだということを言ったよ、という本が書かれて

いるが、それが少し増えたかと思うが、そういうことなら自分にも似たことが

言える、と誰でもが思うのではないか。僕の場合は本の直訳的な感想を述べる

ことで、それがとても無駄に思える。自分で本を読んでその感想をいくらでも

持ったりするのはそれなりの良さというものがあるが、それを人に伝えると

いうのは、才能の無駄だ、と。伝えるほど面白く書ける、ということだろう

から、それはどんなに真実とか真理とか標榜して、真摯に書いても所詮は

人の書いたものを評価する、評論するという、二番煎じ、四番煎じになる。

原著でさえそれは一個人の感想である限り、特殊なものである。それをまた

特殊な一個人が色をかぶせて評論するのだから、重ねれば重ねるほど色が

変わり、どんなさわやかな色でもどんどん黒に近づいてしまう。

特に、例えばマルクスの考え方を借りて、ある抽象を論じるとなると、

その著者はどうマルクスを理解しているのか、それによってその本をどう

読み解くのかが変わってくる、というのは厳密な意味でもなく、当然のこと

なので複雑極まりない。それでその論点の欠陥を見つけても、その著者を

批判するのか、マルクスを批判しているのかわからなくなる。

そういうことで読書感想会などで議論になるのはその議論の元になっている

ものからは離れた誰のものでもない論点について議論していることになるので、

そもそも無意味だ。議論する価値などありはしない。あるのはその論について

自分のほうが理解しているというプライドの主張だけだろう。ディベートの

ためにやっているのならいいだろうが、そうでないなら、始末に終えない。

だから、非常に目端の利く哲学や評論を語る人が、簡単に陥ってしまうのは

一人ではどうにもならないが・・、とか自分にはそれだけの力がないとか結論

から次に進まず、悲観に落ちてしまうことだ。

つまり、状況の整理という頭の整理はお上手だが、現実問題としてどうするか

と考えると、立ち止まってしまうことだ。言いたいことは言える、答えは

それなりに出してしまえる。が、その先が暗い。結局、どうしようもない

という結論を抱えてしまうからだ。

これは単純な「知」というものの持つ本来のミスで、思考の世界から行動の

世界へは意識のジャンプをしている。自意識で考えるが、なにかをしている

最中は思考は行動にまつわる計算思考だけで、それもない場合が多く、

ほぼ無意識状態でないと、ジャンプとかの実際行動はできない。ジャンプ

しながら今4メートルだから、あと3メートルで世界記録なのでそこまで

飛ぼう、とか反省はしていない。単に1,2、とかタイミングの計算はするが、

それを組み合わせて、ああなったらどうだ、こうなったらとか考えていては

飛べない。

できないことをしようとするから、それはダメだ、とか自分ではできない、と

なる。反省や頭の理屈からはその否定の結論になるのが決定づけられている

からだ。科学の思考方法はこれと違って、はじめは仮説(反省)を立てて

実験を積み重ねる。この実験(経験)を通して、くりかえして理論通りになる

ものを正式にその理論として認める。それは狭い範囲での経験と仮説との反復

から誤差の少ない理法を発見・確定する作業なのだ。確立された理論は始め

から理論だけで確立されたものではない。量子電磁力学では答えは確率でしか

示せないので、実験をくり返して、理論に修正を加えている。現在、それを

始めてから50年くらいになるというから、驚きだ。

そういうことで知識人や文化人の弱さは、知的結果に寄り過ぎていることだ。

どんな思想も現実問題にかぶせて考えていると、暗く沈んでゆく。知とは

一定の認識世界(概念)を組み立てることであって、現実とは始めから乖離

している。それで自分の人生も賭けてしまうから、自殺も肯定するようになる。

せざるを得ない。そして、自分の頼る現実の妻とか、友とかと死別してしまう

と、寄る辺をなくしてしまう。もう、自分の理論は死んでいるから。

そういう時には、保守とかリベラルとかいった態度は死んだ鎧になってしまう。

正しいことを言っているだけでは、なにが起こるのか実際にはわからない現実

を相手にしていることにはならない。それがどんな答えであっても、その答え

をどうするか、またはどう生かすのか、どう克服するのかが、ほんとうの僕ら

の問題だからだ。答えは重要だが、他人の答えほど頼りにならないものはない。

僕らがひとりひとり出会う問題は一人ひとりが違う人間の対応をしなければ

ならない問題だから、それには半無限のタイプが存在するだろう。答えが

ひとつであるはずはないからだ。その人にはできないことをアドバイスされる

こともあるだろう。

それを本に求めることを考えたら、それは馬鹿らしいことだと気づくだろう。


誤解のないように、以前のことをくり返すが、本やその道のプロが役に立つの

は人間が発明した言語・数・数学・時間・法律・規則というものを学ぶ時に限る。

つまり、漢字辞書や参考書や理系資料や法律全書や時刻表や図鑑や地図やマシンの

マニュアルなどの主にハウツーものの類である。

哲学はその著者の真理との触れ合いの物語であって、それは特に独自のものになり

やすい。真実とかこだわって求めるなら、そこには砂粒ほどのヒントしか転がって

いない。思考の世界でサーフィンして、そのさまざまな哲学世界を楽しむには

いいだろう。そして、どの天才の考える人たちも若い時に本を捨てて、学びに出る

のは、この世間という書物である。その部分ではミケランジェロもダ・ヴィンチも

デカルトもそれを確かめるために人体解剖を行っている。君も、真実を知りたいなら

いろいろあるが、まずは、人体解剖を見学に行くべきだ。

夕陽.JPG

五島列島の夕陽
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人間と人という運命 :概知の~探る6. [思考]

いろいろと糸(意図)をたぐってゆくと、さまざまなものがひっかかる。そのなかで

やはり、気になる重要事項があって、予備知識や思考準備として書いておきたいと

思う。その時思いついたことを、先になって思い出せるものでもないので、多少

時機としては早いが、それよりも忘れてしまわないうちに、ということで。


少し強引だが、人と人間の線引きをしたい。”人”は生物的な時のもの言いで、”人間”は

社会的・心理的なもの言いで使う言葉、だと。

そこで「生命」というと、どちらかというと、これは人に対して行われる方向だ。

学者が人の生命に関心を持つとは、人文学者ではなく、化学・科学者だろう。

人文学者なら、生命ではなく、その生死や生死観について述べようとするから。

人は「ヒト」であり、生命を扱う上で即物的に扱われるが、人間は生死という場合、

生きるのはなぜか、とか、どう生きれば、とか、それは心の問題として、また

社会との関係の上での問題で扱われることが多い。

この時、僕らは大抵、どちらかの見方をしている。ものを考えようとする時に

自分の専門であったり、共感した知識(本)であったり、経験から学んだ曖昧な

感覚を言葉にしたものであったり、それらは勉強量や経験量に数や受けたショック

の深度にも依っているが、僕らはそれらの凸凹の認識(考え)を持っている。

それはこういうことが言える。

僕らは物事に相対する時に、自分の考えを鏡のようにして、その眼の前の事実に

照らして写そうとする時には、そこでもうすでに事実からある規範(考え)によって

取捨選択がされていることだ。これはこう、あれはあれ、とういう大まかだが

分別がされてしまっている。

例えば人が倒れていて、血が流れ出している時に、救急車を呼んでから、あなたが

考えたとして、生命から考える人は血の流れた分量から、助かるとか、助からない

とか考え始めるかもしれない。別の多くの人は、どうしてこんなところで倒れたのか、

ひき逃げにでも会ったのか、と考え始めるだろう。原因と結果について考えている

のだが、双方の隔たりは大きい。

ある評論家の本で見かけたが、海外の革命が起こった騒乱の群衆が流れる眼の前を

記事にしていたが、隣の記者も記事にしていた。それを読んだ時、まったく自分とは

正反対の意見を述べていたので、事実は眼の前にあるのに、と記事を書く気を失って

しまった、と。その評論家と同じに、僕も面白いと思った。

僕らは考えたことでしか、行動できない。車に乗っていても2分くらい走ったあそこ

のコンビニに寄ろう、と考えると、すぐ別のコンビニが現れても、停車せずに、まず

想像で予定したコンビニまで車を走らせてしまう。

これが信念にも近い人生観とか価値観とかになると、妥協はほぼない。だから、自分

の考えというものは、行動を決める指針になっていて、見たもの事を瞬間で選別して

いる。これを生活で想定してみるなら、これが運命だと言っても差し支えないのでは

ないか。僕らがあいまいな考えしか持っていないならば、あいまいな行動しか取れ

ないのだから、それはあいまいな人生を送るしかない。それは考えだけではなく、

ブレない人は考えに昇華していなくても、経験から体が動く。ただ、それは違う、

と感覚・感情的にわかっても、言葉にできないだけ。

これは僕らが眼の前のことの対して、自分の考え(つまりは、自分)から、初め

から判断しようとすると、その時に次の行動への指針はすでに方向・傾向が定め

られてしまっているということだ。これを運命は自分で決めていると言わずに、

なんて言おうか?

つまり、僕らはそういう時はすでに偏見・先入観・差別に囚われているのだが、

少なくともテリトリー(縄張り)・カテゴリー(ある範囲)から捉えているので

あるが、自分ではそうは思っていない、自分は正しいと思っている。

本当にそうかどうかは、個別に確かめる必要がある。それは他人にはそれが

わからないからだ。でも、僕らは自分が正しいと「わかっている」から、それは

必要ないと考えている。ここで意地を張ると喧嘩になる。ほんとに正しければ、

そのことはそうようになるのだから、喧嘩せずに見ていればいいのだが・・。

話が反れた。

運命を変えるというのは、つまりは自分を変えるということだ。ここはひとりで

考えてもらえばいい。運命はそういう自分というものと、外側から来る予想も

つかない運命もある。リストラに遭ったとか、勤めている会社が倒産したとか、

自分ではどうしようもできない。これにもパターンがあるのだが、人それぞれ

なので人の外的運命は、というように一括では説明できない。

せいぜい大波といくつかの小さい波がそれぞれ複合してくる、といった言い方で

〆るしかないのだが、僕の人生経験では10年の浮きと沈みは、程度も違うが

誰にでもあるような気がする。そんな統計は誰も持っていない。自分で作るしか

ないだろう。

でも、この時に自分の命運について或る確信があるのならば、流されるボートに

用意された一本のオールくらいの役割は果たしてくれると思う。平穏なところ

まで行き着くのに、ある程度のしのぎでコントロールしてくれるだろう。


まとめよう。

人は自分の考えや信条を持っていると考える。それは通常のことで問題はない。

問題は眼の前のことをすべてそれに「初めから」照らし合わせて、判断して

しまうことだ。子どもが悪さをしたら、どうしてそういう事態になったのか

子どもに尋ねもしないで、手をあげる母親・父親に似ている。当然、子どもに

謝ることができない親になる。または頑固じじいになる、しかも人の意見を

理解しないし、無視する、めんどくさいタイプの。

自分は子どもの時の意見があり、少年・青年時代の意見があり、中年・老齢の

考えがある。それらは変遷して身に付けたもので、過去が幼く、歳を取るほど

年の功がある、と思いがちだが、大間違いである。それはあなたの時代でだけの

話なのだ。

経験によって心から動かすことができないものが、必ず考えの芯になる。だが、

その正しさは言葉にならないもので、ほんものほど言葉になりにくいので、

その見極めは他人には困難。しかも、そういう堅固な信念もその過ごした時代の

傾向を反映していて、それから自由にはなれない。

着物は日本人の発明したものだが、和服で過ごした長い年代よりも、この150年

のほうがよほど短い。僕らは最近、洋服に着替えたことを忘れている。平安時代に

母音が8つもあったらしいが、そんな言葉を使う日本人はもういない。昔の言葉で、

立派な日本語だったものも、今では古文として授業で習っている。

というわけで、身に危険が迫るというような事態ではない限り、僕らは今起こった

ことに対して、実に謙虚な態度が求められている。

つまり、”初めは考えるな”、ということが。

僕らは学校教育によって、ある程度心を搾取されている。なにが奪われているかと

いうと、感覚による受容だ。これには自然な防衛と知性の独占的拡張があって、

一長一短がある。これは社会自体がすでに言葉によって方向理念を備えているので、

やさしく言おう、社会が役立つ人材に育つように、ものを区切って、名前をつけて

覚えるように、言葉・数字・時間という人間の発明品でそこから頭に世界を形成

するように強制(教育)するからである。

これはやや正しい。それはすでに産業革命期を経て、僕らは爆発的にそういう知識

で生産してきたものに囲まれ切っているからだ。人間が人間のために人間によって

生産したものでないものを、日常生活で探すのは難しい。あなたの眼の前に自然の

ものを今、見つけられるだろうか。安心して、あなたのサボテンは人工ではない。

猫も。でも、家ネコのメスは去勢手術はしたほうがいい。

あなたが愛猫王になりたいのでなければ・・。

僕らは知的知識なしには、就活もできない。収入も望めないのだから、資格とか、

四角ではない、おかしなものが出てくる。

看護師でも資格はあるのに、患者に寄り添えない者は患者への不始末を犯しやすい。

それは資格を、四角にしたほうがいい。(ここは意味はないので・・)

世界で車の車検があるのは、日本だけとか。昔はディラ―が車検で交換する必要の

ない部品を交換して儲けたり、虐げられた部品メーカーの下支えになったり、はては

世界で故障のきわめて少ない信頼を得て、中古車が売れに売れたり、とかこもごも。

功罪はすべてにつきもの。

話が反れた。

脳は体のすべてをほぼコントロールする知的中心(センター)だというのは、もう

古い。体の骨や筋肉、脊髄、皮膚、脂肪などがそれぞれ化学的な信号で満腹を伝えて

「腹いっぱい」を出すように指示(脂肪から出る化学物質)したり、その他はあり

過ぎて忘れたが、脳はその場合、ただの交通整理のおまわりさんの役割しかして

いない。整理係なのだ。

それでか、眼の前の現実から受け取った感覚情報のほとんどを体中にばらまいて

しまう(この部分は、僕の想像)。体を絞る運動をすると、高校時代とかの感覚

(細胞に記憶?)が甦るのはそういうことだとの、僕の感じ・仮説。

体と脳というのは思ったよりも全体で機能を分け合っている、一体なもの。


もうひとつは、知識教育によって僕らの感覚は(感情は古いし、脳の根幹にある

せいか、まだ強い)衰退しがちだと考えられる。まずは、考えずに眼の前を見る

ということ。何があるか、起こっているか、その形、色、色合い、風味、風情、

その光と影、そのそれぞれの関係、どう動いたか、どう変化したか、どこに

違和感があったか。そういう感覚をひとかたまりにして一旦心にとどめ、後から

それを、数秒後でも、概念化=考えてほしい。その時も、自分の気持ちや考えで

選別してしまうのはタブーだ。見事に流れや地図に整理できたら、さて、自分は

これをどう思うか、どう判断するか、というそこであなたの出番だ。

あなたは「人間は」考えるとも、「人」は考えるとも思っていない。確かなのは

「自分が」考える、ということだ。逸脱する、僭越する「自分」にご用心!


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心の発生の準備と、問題への姿勢:概知の~探る5. [思考]

3000年の集大成とか言い出したら、大変な作業になって「出雲大社への旅」を書くどころ

ではない、となったのは認める。でも、それは想定内なので、大変な作業は最初から

わかっていたし、先へ進めば進むほど作業は楽になるので、「出雲~」についても書ける

時間が取れるだろう、とは考えていた。ただ3000年は最初、大きい網で捕えなければ

ならないので、多少のゴタゴタがあるのは仕方ない、ということ。

まだその内容には入れない。重要ではないが急ぎのこと、雑用もそうだが、そういうことが

日常で増えると、そうそう放っておくわけにもいかなくなる。それで最近では夜勤明けでも

帰って来て寝て、起きてからも休むだけでなく、書く時間が取れるように、生活を変えて

来ている。そうすると、フルタイムで働くサラリーマン以上の仕事量になるが、やむを

得ない。自分で選んでいる。

考える、というとふつう人は計算するか、論理思考をすることを思っている。評論家の

大家だった小林秀雄は考えるを人間の気の行為のひとつと捉えた。それは心という

感覚や複合した直感で対象と切り結ぶことを意味した。思考のようにそれをレッテルを

貼って理解したという(概念化)ではなくて、考えることがすでに生きる行為として

対象を経験するのだ。

まったくボーリングゲームをしたことがない人が、それを見て玉ころがしてピンを倒して

なにが面白いのか。馬鹿じゃね、とか考えるのが机上の論理とかいうもので、実際ボール

をころがすと、ピンが先頭のが倒れれば、ほぼ全部倒れるだろう、くらいの思っていた

のが、思うように倒れない。やっているとストライクを取るのはそれなりに技術が必要で、

思ったより難しくて面白いことがわかる。

映画で血がドバドバでも見ていられるが、実際の交通事故現場で運転席の血の飛び跳ねを

見ただけで気持ち悪くなってしまうように、経験して考えることと考えてだけで判断する

ことは、まったく理解の深度が違うのに気づく。

僕はこれを応用することを見よう見まねで自然に覚えた。

それで本を読んでもその実際を見に行っても、まるで考えることをしない。その場では

ただなにがあったかを、全部見る、聞く、感じる、味わうということに徹する。

そして、帰って来て、または体験を終えて、または沈思を終えて、それから書く。

書くということが考えるということまで高まれば、これがスムーズにできる。

僕はこれを無意識への出入り感覚を使ってしているらしいが、誰でも意識するか

していないかで、していることだと思う。それでこうして、今考えながら書いて

いるので、会話のように話題があちこち飛びやすい。

考えたことをまとめようとか、書いたことをあとで推敲しようとか、思わないので

書きっぱなしでほぼ公表する。一度は見直すので明らかな誤字・脱字とか言い間違え

とかは気づいたら直す。が、文章を別の意図に変えることはしない。その時思ったこと

をその場で文章にしたのだから、「その時」を残すのが書くことだと思っている。

現在、近年まででふつうの推敲文章は長いことやって来て、還暦近くからこの文章・

書き方に辿りついた。それがブログを3年やっているうちに身についた。

だから、僕はまさに、「今」考えている。

僕に悩みがわずかしかないのは、たぶん、日頃考えずに生活しているからだ。

ものごとに一喜一憂しないからだろう。それの考えにしろ、感覚・感情にしろ

依(よ)って来るのはどこか、なにからかというのを、浸透するように眺める。

むしろ、おぼろげにまとめるように見る、呆然とした認識(考えの一部)が入る。

突き詰めて考えるのは後だ、書く時だ。


「心の発生」という面白い着眼点から進むと、僕らの人間の問題の原初からの

暴力から文化への流れや体の本能への服従から自由へと変化して行ったことで

人間の問題の半分以上が解けてしまう気がする。それに気づいてはみたが、

漢字の「心」の発生からそれを導き出すのは、眺めているうちに無理なように

思えてきた。いろいろ学問的な見地から様々な意見が言えるので、それを

放り出すためには、心と意識について、堅固な自分なりの認識が必要だと思った。

僕は以前は、意識は認識不可能だと考えていた。今でも、不可能と可能との間

をさ迷っている。それを早急に解決しようとは思わないし、できないと思える。

それでまず、古いものからだから、その第1段として提出しながらどこまで

浸入し得るかを試してみたい、とそこらあたりの見当をつけている。(次回から)

日本の言語学からもその起源について面白い発見があるかもしれないので、

あたってみる。

今のところ、次の本が資料である。

 「言葉と病い」    豊水武盛・著       (言語学と精神分析)
 「神々の沈黙」   ジュリアン・ジェインズ・著 (古代文明への多彩な認識から)
 「身体感覚で論語を
      読み直す」 安田登・著        (漢字の成立)
 「心の起源」     木下清一郎・著 中公新書 (生物学的見地)
 「意識の川をゆく」 オリヴァ―・サックス・著  (心理学者の晩年の感想) 

 ここで疑問が出れば、カントの純粋理性批判に赴くのかもしれないが、

 それはまた古代に近くもどってくる時の次回に、となる。

前回端折った”問題への誤った姿勢”について。

くり返すが、問題を前にすると僕らはすぐに答えを求める癖がある。試験、

試験で苦しめられた後遺症かもしれない。(笑)

数的、数学的、論理的、論理的抽象のそれぞれの問題は、純粋に頭の問題である。

僕らが主に悩まされるのは、そうではない。人間関係、恋の悩み、子どものしつけ

とか、思うようにいかないこと、不倫、パワハラとか現代問題への応対がわから

ないとか、いじめ、不登校など病気についても何をどうしたら、はては何を信頼

したらいいか、etc これらの尽きない悩みは、ほぼ心の問題だ。

まず僕らは問題そのものがわからない。苦しみを気持ちで捉えているだけで、

問題が正確になにとなに、どれとどれがどうなっているかがわからない。それは

問題が見えていないことを示している。当然、問題を説明できない。ルールとか

常識?で多くは相手が悪いとか、わかっていないから悔しい、ということに。

悩むというのは基本、僕らが問題を誤解していることから起こる。問題が見え

ていないことから誤解が生じて、誤った判断をするので、どうにもできない、

どうにもできなくなると思い込み、悩むのだ。

だから、答えは問題そのもので、通常はその中にある。社会的問題でも第三者が

必要とされるのは、この問題がどういう問題かを冷静に調べる必要があるからだ。

僕らの個人的問題もその点は変わらない。

正しい姿勢は、その問題そのものを検証することに尽きる。まずそれを前において

いつから、どのように起こったのか、どうしてそうなったのか、自分で記憶と

その時の相手やものの気持ちの動きを考慮しながら、どういう経過を辿ったのか、

ひとつひとつ思い出す必要がある。人には人の意外なこだわりや考えがあるから

自分の気持からだけ考えていては、それは自分のプライドを忖度しているだけで

一向に相手の実情に辿りつかない。

数時間考えてもわからなかったら、翌日考え直す。それでダメなら相手と話すのが

いいのだが、それはできない事情であることも多い。

半分以上答えが見つかるのは、自分の考える習慣を打ち破るしかない。問題を

見つめるだけで、その時々で気持ちを入れないで、考えを入れないで、つまり

感情的にならず、すぐに答えを見つけようとしないで、問題事項と対峙する。

黙って、退屈なままそれでも問題を注視する姿勢。(ひとりになれる静かな時間・

場所のこと)

これは実施して慣れればいいことで、今、それでなにがわかるの?とか

聞くことが、もう違反である。焦りだ。最初は時間がかかる気がするが、慣れる

と、問題から答えが出てくるようになる。この不思議も体験して納得する。

これですべてではない。肝心のことは答えをどう応用して行動・行為にして

解決への方法に結びつけるか、である。

友人と話をするのも、その沈坐という準備を終えてからでないと、友人の考えに

振り回される恐れがある。あなたがなにかそういう頼りになるものを、すでに求め

ているから。

苦境の時に教会の看板を偶然見て、キリスト信者になる人もいる。信仰の道も

あるにはあるが、逃げる形で入信するのは、歪んだ結果をもたらすことになる。

友人も宗教も、あなたを知らない。それらはあなたではないから。少しずつでも

問題への正しい姿勢を取れるようにならなければ、偶然取った箸でどんな料理にも

対峙してしまう。スープが出て来ても、箸でなめるだろう。これが私の役目だとか

誤魔化して。あなたの問題は、実はあなたが一番よく知っている。それを見れば

いいだけなのだが ・・・。


:-というところで。
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身体で読む本 概知の~4. [思考]

さてこれまでのことをまとめて、そこから進み始めたことを少しずつ話して

みよう。

なにしろまともな書き方をしようとすると、僕の個性が邪魔をする。書きたいように

書き始めてしまうのだ。それは今、思いついたことが中心になって、友達と話す

ように内容にこだわらない。その場で思いつき話したいように話すだけだ。

それでも歩み寄りや妥協が必要な接点は知っている。ただ、それを説明している

時間が無駄に思え、自分で退屈してしまうことだ。それをこうやって、どこかで

見出そうとそれなりに喋って、喋り続けるといった具合だ。

今日、1冊の本が届いてため息をついているところだ。原題は「The Origin of

Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind 」というもので、直訳で

二院制の心の決裂による意識の起源、というもの。日本訳での題は「神々の沈黙

ー意識の誕生と文明の興亡」という。

本のことを書くって、こんな晩はなぜか、楽しい。その本に好意的か批判的かとか

は関係なく、この時間が持てるというのはいい。本を語るのは楽しみでそれしか

ないし、ほんとうにそれだけだ。前に言ったことがあって、それからどんな変更も

なく、変わらない。本から真理とか、真実とか、生きがいを学ぶなどできっこない。

そんなのは幻想だからだ。本から偶然それを見出すことはしょっちゅう起こっている。

でも、それは本が、言葉がその知識が起因ではない。すでにそれをどこかから発見

するだけの何かしらの経験がそれを求めて育っているから。(培養という)

喉からそれに値するものに手が出る、それはそれを示す言葉でもかまわない。信号の

点滅でもかまわない。ちょっとしたことだ。その時、自然な直感が起こるから。

ただの思いつきや気まぐれではなく、心で醸成されたその人その人のsomething 。

本や、絵画や、言葉だけからそれに気づくことは、決してない。ただし、そのこと

さえも忘れていたら、本から学んだと錯覚するだろう。よく思い出せば、必ず

そのショックや経験・体験に気づくだろう。

この本は600ページ近くある。僕は5分くらいか、パラパラめくって数か所を

読み流してみた。なにが書いてあるか、それでおおよそはわかってしまう。これは

速読ができて、ケンブリッジだったか、本の読み方を教わった(僕はその番組を

テレビで観た)学生・人には簡単なことだ。本は3割しか理解しないが、全体で

なにについてどこら辺のことが引用されるかが見て取れる。そうすると、読んで

どれだけの必要な知識が得られて、どれだけ得して損するかが、大体わかる。

あとは著者がその引用した本(著者とは他人の)についてどういう感想をもったか

がわかるだけで、それは自分にも研究にも役に立たないものだ。(それはもちろん、

卒論や研究論文などの社会に提出用のものではない限り)

というように、人の書いた研究というものは他人の本や知識の上で成り立っている

ものだから、70億以上の、分の1に過ぎない自分にはそれは混乱する種になる。

著者が実際になにを経験して、それがなにかが大事で、それが自分には理解でき

なければ、そしてそれがまったく気にならないと確実に思われるならば、その本

は捨ててしまってかまわない。何万冊からめぐり合っただけで、これからまだ

重要と考える本を手に取ってみなければならない(かもしれない)のだから。

日本語に翻訳されていない本は考えない方がいい。気が遠くなる。

僕は中学生の時にドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ。読みきった。本に力が

あって、僕は理解できないのに、本に読まされたのだ。それは僕が「心」の問題に

深入りする運命の象徴のようなものだった。ドストエフスキーに深入りするのでは

なく。

僕ら人間って、変なんだよ。まともだったり、矛盾していたり、それを善や悪に

錯覚して考えたりしている。両親が自分の7割を決めているとよくわかるように

なるには、自立する時代を越えなくてでなければならないし、それから自分の

苦労が親と重なったり、両親の高齢を面倒みたり世話したり、あとは亡くなって

から、それは自立してから平均して30年くらいして、両親の子だったとほんとう

に気づく。

それは社会的自立ではなく、結婚・就職したとかではなく、実に自分の人生の

入り口に気づくということで自分が生きるとはこういうことだと、始まるのだけれ

ど、遅すぎない? ここが矛盾しているよね。

これは1.で書いた問題のことで、「理解という内側の問題と外側の煩雑な知識世界

の問題」の関連についてのことだ。それらは別々に問題があるのではなくて、関わる

からそこに問題が生じている。だから、内と外のこととして区別して考えるのは

まったく無駄に考えることになってしまう。


ここからはまったく視点を変えて話して行かなくてはならない。少し、手前に

もどるが、僕らがどうして理解を急ぐか、ということから話したい。会社では

特にそうだが、結論から話せ、と教わる。ともかく仕事は現実問題だから、

時間や手順や段取りなどどんどん前へ進めなければ、競争に負けてしまう。

学校教育でも試験ばかりで、僕らは答えを早く出すことを覚えなくてはならない。

そういう習慣がついているために速いのはいいことなのだ、と思っている。

で、話も聞かない。で、結論は?と常に聞きたがっている。そういう自分の

結論を急ぐ実際の”勢い”を確認されたい。思い出してみて。

それは僕らがすでに答えを求めていて、それが尋常ではないことに気づく。

むしろ、すでに答えがあるのを知っていて、それがなにか、それを君はなんだ

と思うのか、と尋ねているからだ。もう、それでは答えがあって、それをどう

選択するか、ということしか残っていない。だから、その答えを知っているか、

知らないかだけが問題で、それがどういう問題なのかは二次的なことになっている。

ここに問題に対しての誤った姿勢の問題がある。

この姿勢については今まで語って来たので、今はその気になれない。もう少し、

待とう。

その先について書く。「心」の発生について書くとは、なにを解決することになる

のか、それを書く準備として、「神々の沈黙」と生物学から進化過程を問題にした

本などを読む。「心」の漢字が発生した時期(論語と関連)など、それらを自分の中

で統制したいと思う。次には、順番は現代になるのだが、一応内容は未定。





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種と知性 (概知の~3.) [思考]

これは「概知の新天地に迷いこんだ 探るその3.」である。副題で「種と知性」

とした:-


日も落ちる頃、目覚める。 夜勤明けが隔日で続いたので、 なかなか疲れる。

書きたい気持ちが膨れ上がっているので、 ウズウズしているのがわかるが、

以前のように体調を考えずに、その日を全力全開で、それ、フルスロットルの

ことか、やってしまうとダウンしてしまう。そうすると3日が休養で無駄になり、

抑えながらやるほうが先へと進むことができる。もう数十年前に覚えた教訓だが・・。


外に出ると、西の丹沢大山方面だろう、空の底が明るい。山の裏に日が沈む、という

のはただ地球が自転しているから、なのだが。 知識には情緒が欠けたりする。

散歩コースは海老名市の北部公園までの道筋が決まっていて、それは20数年変らない。

目久尻川、一級河川だがまだこの辺りでは、川幅5mくらいだ。公園には桜並木が少し。

その一番手前にある樹は桜ではない。なにか知らない。その樹木に注目したのは、はじめ

動物のフンらしいものがたくさん散らばっていたから。拾ってみるのに、腰を落とすと

すぐにそれが種だとわかる。100以上、この樹のまわりだけなので、この樹の種だろう。

親指の第1関節くらい大きいので、実も大きいだろう。それで想像がつかなくなった。

そんな大きな実をつけていたら、今までの散歩の時に気づくはずだが、記憶にない。

梅干しの種の2倍ちょい大きいだろうか。ランダムに皺が入っていて、穴になった

皺もあるので、見方によって人・猿の顔に見えなくもない。

季節で花を咲かせれば、調べがつくだろう。

そうして種をひとつ指の間で弄びながら、自分に調べる気がないのを知る。どうして

だろう、いつもはすぐに調べて知識をストックするはずなのに。

どうしてどうでもいいのだろう。百科事典の知識に辿りついて、それをストックしても

百科事典以上にはなり得ない。そういうことなのか。

自分で知識を創出する、そういう態度を保持したかったのかも。それで特に何かを対象

にしてという目的があるわけではなかった。イメージは高等遊民なのだろう。

この「高等遊民」という言葉は杏(女優)がヒロインのドラマで、その相手の長谷川博己が

働かないで自らを称して言っていた。が、初めて聞いた言葉で、ずいぶん時代的だと感じた

が、実際その通りで、明治から昭和初期まで使われていたそうだ。

その意味ではないが、その意味での精神版というようなもののイメージなのだ。立場は

ニートと似ているが、もっと高尚で貴族的な生活態度なのだ。


既成した植物学におもねるのではなく、自分で植物の学を創成すればよい、という気分で

これは勢いのようなものだろう。今までの分類や解剖ではない見地から新しく作ればいい

のだ。例えば、「植物社会学」(ブラウン・ブランケ)は流行らなかったが、そういう

感じのものだ。

(ここで前回の記事で家にある在庫の本が400冊以上、というのを4000冊に修正。

 0がひとつ足りなかった。評論家でも数万冊は在庫があり、4000冊も少ない方

 なのだ)

今のこのブログは既成知識の全体に言及するようなことを書いているが、書けばキリが

ない状態なので、まずここから幾分か詰める必要がある。例えば、教科書から始めよう

とか言ってしまうと、世界の教科書を翻訳しなければならないし、それだけでも大変

なのに、それを読むともっと大変なのがわかる。特に歴史については自国に都合のよいこと

が書かれていて、自国自賛なのだ。当然、関わった戦争についても負けたのに、勝った

というこじつけもあれば、経過を捻じ曲げたものもあり、中国やインドなど大陸なので

そのさまざまな民族が入り乱れて、他国からはうかがえない事情もある。

例えば、日清戦争は中国人との戦争ではなく、満州人との戦争であって、正確に中国と

戦争したわけではない。が、日本の教科書はそうなっていない。アメリカがもし、

アイヌ人が日本の半分を支配して、そこと戦争したとして、アメリカの歴史の教科書には

日本と戦争したと書かれていれば、僕らは違う、と思うだろう。それと同じ違いが日清戦争

にはあって、中国史を扱っている学者でもそこがわかっているのは、数人しかいない。

中国大陸にいれば皆、中国人になってしまっている。歴史認識の事実の違いはここにもある。

そして、くり返すが精神風土や宗教感情などによる認識の違いは、より甚だしい。

進化論は日本では常識かもしれないが、アメリカのカトリック教会のテリトリーでは、

地方に多いが、進化論は禁止されていて、聖書が正しく、人間は神が土から作ったものだと

教えられている。またアメリカは自由の国だと言われているが、9.11の後のアフガン

戦争開始に「戦争反対」を唱えたある一女子生徒は、クラスメートから、教師から、学校

から総ボイコットを食らっている。アメリカ大陸でも東と西は教育は違い、南と北でも

違う。


さて、そうしたら何を頼りにこの古い新天地という、この世を理解し始めればいいだろう

か?
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概知の新天地に迷い込んだ 探るその2. [思考]

僕らの理解の仕方という問題と、外側の煩雑な知識世界という問題を扱うのに進行は

その交互で行うことを前回で言った。次のことは起点をどこにするかだか、行うことは

山ほどあると言うよりも、一生をかけた時間でも足りないと、言ってもさして誤りでは

ないだろう。ではダメじゃん、とするのは誰でもする平凡なことだから、それは必ず

誤りを含んでいる。

まず、終わらないからやらないというのは、期限付きの仕事で、そこまでに完成しないと

もう役に立たない場合のみである。僕らの人生は死ぬまで続くし、いつ死ぬのか不明

なのでできるだけやる、というのがまともな考えだ。

千里の道も一歩から、という古い諺があるが、この正しさはともかくもやってみろ、

一歩も踏み出さないでどうのこうの言うな、というのが真意だ。それで、この諺は

今回のような場合は使えない。誤謬が含まれているからだ。

千里の道は直線を想定している。だから、一歩は一歩でしかない。ところが、全体を

追及しようという場合は、ある一か所を征服すると、その知識なり認識なり考え方を

使って、他の項目がより迅速に攻略できる。また、関連があれば省略も可能なので

これもより迅速に次に移れる手段になる。つまり、攻略地点が増えれば増えるほど、

僕らはそれらを見まわしながら、より速く、より効率的に全体を摑むことが容易に

なってくる。だから、千里の道ではない。この世という丸のなかをつぶしてゆく

作業なのだ。それで進めば進むほど、作業は楽になる。つまり、始めたもの勝ち

だということ。

範囲は、だが、広すぎる。のは、変らない。こういう時はどこから始めていいか

わからない。だから、どこから始めてもいい、ということなのだ。それは適当に

大雑把ないろいろの要素を取りそろえて、テリトリーを決めるしかない。

そして、決まった範囲からどれをピックアップするかで、条件は緊急と重要なもの

というのは、教科書的に言われているので知っているだろう。他の条件はなんだろう?

それは1.精神内部の理解について、2.外部の知識、3.資料を挙げておいて思うと

まず1.においての緊急と重要の選択(a)、同じく2.においての緊急と重要の選択(b)、

ここは読み流してかまわない、その(a)と(b)のそれぞれの関連に注目しておくこと、

また、そこから1.と2.との全体の関係性にも触れないと、別々の分野でことが進んで

しまうように見えて、すべてを「理解」するとは、どういうことかが鮮明にならなくなる。

3.の資料はそれぞれでチェックする。いつでも資料のどこを見ればいいのかが自明で

ないと、靴をはきたいのに、靴下を探して時間を取られることになる。

この準備で決定する作業は3日あれば十分と思うが、変則に仕事を依頼されて、明日から

3日ほどつぶれる。その後に3日なので、続きは24日以降になるだろう。


*その手前の問題は、他のブログを見に行く暇があまりないことだ。あまり、とは正確

 じゃない。ほとんど、に近い。家には4000冊以上の本があり、ほぼ数ページは見て

 いるが、読みとおしたものは10冊くらいだろう。それでも毎月本は増えている。

 本を見ると、それが何に関連しているかわかるので、ざっと読んで、詳しく知りたい

 となると、つい購入してしまう。、、、癖がある。
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概知の新天地に迷い込んだ 探るその1. [思考]

今夜も

自分が こんなに面倒なものに  関わりあっていると

再認識する。 例えば、この3000年の文化と 科学・歴史・学問の移り変わりを

どう説明するかということ、   どこから始めるかということ、

どちらも 難問に見える。  僕は まだ  その点には注目・集中したことが

ない。 Nothing!

ともかく、始めるのはいつも 今からで その場で始めなければならない。

うまく どう進めるかが まとまるように考えられればいいのだが・・。

46億年の地球の誕生から始めるのは、よくない。わからないこと、知られて

いないことが多すぎて、結局は役に立たない想像や仮定ばかりの 知識になってしまう。

古いことほど新しい知識が多く、それは新発見によって覆されてしまうことが、 

よくあるから。

手塚治虫は過去の日本から始め、未来の日本を次に挟み、どちらも現代に近づけて

最後は現代を漫画で描こうとしたのが「火の鳥」だったが、趣向が面白いだけで

基本は同じことだ。  未来は予測できることが限定されているし、想定外で

すべての未来はひっくり返されてしまうので、新しい事態、今のコンピュータや

ネットは、誰も想定しなかった。そのように未来は不安定だ。

僕らの頭は固定的で、それは知が概念で区分けをして考えるからだが、 善悪に

代表される二元の対比・対立思考という癖がはなはだしく、そこから抜けるのは

容易ではない。

そこで、僕らの理解という内側の問題と、外側の煩雑な知識世界という問題とが

浮かび上がる。これをどうするか。

両方交互に混合させた書き方をしてやって、はじめはそれほど広がらないが、

でも広がるのに、時間はかからないだろう。それはそれで、またどうするか

考えて、まず一応それをやり方にして、次ははじめの起点をどこにするかだが、

う~ん、次にするか。緊急と重要と、他に選択するための要素がありそうで

今すぐには思いつかない。が、放っておくと痛い目に会うのはわかっている。

(明日は外出なので、パソコンに触れない)続きは19日の予定。
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