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散歩の手がかり 2022 [散歩]

散歩は観察にとってもっとも適した

条件を与えてくれる。散歩を日課と

する人なら、眼を止めるだけでいい

ので、あとはその人の好奇心と記憶力

次第だ。



20数年前、近隣の散歩に出ると、初め

は手当たり次第で歩くばかりだが、

五回目くらいだろうか、歩きながら

いつも通る道が決まって来る。

好きな道というのは自分が何に惹か

れるかによって異なるから、僕は

自然に惹かれて、その道も早くに

決まった。川に降りてゆく道で、

そこから〇部公園へ、その広場の隣に

テニスコートがあり、横に体育館が

ある。中に温水プールがあるので、今

でも営業しているのではないか。

その先の隣に小学校のグランドがあり、

校舎がある。それがすべて川沿いに

ある。小学校の先まで川を挟んで反対

側沿いの小道を歩いたりするのが、いつ

もの散歩道だった。


僕らの想像は大抵、現状から飛躍しない。

現状をそのまま認めて、年月が重なれば、

ほぼそのまま固まってしまう。それで

そのままの現状が固定化したことに気づ

かないのが、またよく見られる現象で、

不思議なことだ。

それでいつも僕は自然に驚かされてし

まうことになる。それは今回の散歩でも

同じことだった。


この数年は、4,5年だろうか、コロナ

も含めてあまり散歩に出ることはなく

なってしまった。それくらいだと思うが、

1,2回の2,3年前にしたとしたら、その

時の散歩は忘れられているのかもしれ

ない。それで今回は散歩の総括であり、

その広がりでもあった。

この川には大きな鯉と鮒がいて、赤や

金色も一時いたのだが、見なくなった。

鯉の飼育業者か売るのを目的にした暇人

が、その色のいい鯉をさらっていったの

だろう。

しかし、黒いのはたくさんいる。公園

のわきの深い場所がある処では40匹は

いるだろう。橋から下を覗くと、鯉が

何匹も口を開けて集まってくる。

いつもと同じ光景だ。

アユが誰かに放流され、小さな群れで

行動しているのは書いたが、まだ現役

で泳いでいるようだ。

排水路がある。

川のわきにやや並行して走った用水路

のようなもので、ここでの観察をもう

一度書くと、ある時この幅1mくらい

の水深も5cmていどの浅い水路に、

ハヤだろう、その群れが大発生してい

て驚いたことがある。ざっと数えて

みた。ほぼ400匹もいた。

が、1週間か10日かして、来てみると

それが1匹もいなかった。その代わり

に赤いアメリカザリガニが20ほど

いた。あれだけの魚は、5,6㎝とは

いえ、どこに消えたのか。

少しして、やっと気づいたのは、

浅い水路では夜行性のザリガニに

簡単に捕食されてしまうことだった。

隠れ場所がない。全部捕食されてし

まったのだ。気の毒に、とか思う

必要はない。自然の摂理はそうい

うように働き、もともと水量が制限

された排水路なので、川から水の

供給が絶えることがあり、そういう

時に捕食されなくても、水路の水生

生物は絶滅してしまうのだ。

ザリガニも例外ではなかった。数週も

待たずに、ザリガニの姿もバラな死骸

が見られて、生きているのはいなか

った。何が起こったか?

恐らく魚も食い尽くし、お互いの食い

合い=共食いが始まったのだ。その

残骸だろう、残っていたのは。


その排水路を見て歩くと、初めのほう

では泥がたまっていた。ここらあたり

は水が溜まらないやや高台になるので

通常の状態だった。生物もいつもほぼ

いない。しかし、白い芋虫が死んでい

た。なに?という感じ。なんでこんな

処に落ちたのか。

それは3,4個の死骸が見られた。

しかも食べられた後もなかった。何?

である。

やがて白い細いものが、やはり死んで

いるようだ。まず、ミミズだろう。

これは多い。20くらいか、もっとか。

気にならなかったが、そこで水面

すぐ下の泥がひび割れているその理由

を考えてわかった。

ここには底に土がたまっていた。適当

な湿り気で、そこにミミズとセミの

幼虫が潜ったのだ。そのうちに雨も

降らず、川の供給もなく、土は干上

がった。一昨日だろう、熱くてミミズ

もセミの幼虫も土から出てきて死んで

しまった。そして、昨日に雨が降った。

鳥にも見つからずに、きれいな死骸

のまま浅い雨水の中に残った、という

ことだろう。

ひび割れた泥、きれいな死骸から

察するのは、そんな処。



水路は続く。その先に行った処に

地主の広い家があり、その前から

先の水路が低い場所でいつも水が

たまっている。行ってみると、なに

もいない。落ち葉がたんまりとあっ

て黒い小さな貝がちらほら見える

だけ。この川の流域で蛍が飛ぶので

昔に放流した餌になる貝のようだ。

カワニナ?

もう何もいないつもりで、水路を

辿ると、水面にビチビチッと小さな

輪ができる。いっぱいなので一斉に

空気の泡が枯れ葉の下から出たのか

と思った。そうして、眼をこらして

歩いたら、見つけた。稚魚が一匹。

また見つけた、2匹目。

なるほど、さすが自然の生産量、

魚は全滅していない。稚魚が残って

生息し始めているのだ。あの泡の

数から50はいるだろう。稚魚

だったら、ザリガニが発生しない

限り、ある程度までは育つだろう。

この排水の栄枯盛衰は20年経った

今日でも、まだ延々と続けられて

いたのだ、めでたい?笑。


そこから川にまた出て、もう少し

足を延ばし100mほどまで下流に

行くと、相鉄線の架橋の下に鯉や

鮒がまた多く集まる場所がある。

ここには以前まで正方形の深い

穴があって、そこが安全地帯なのか、

生息しているようだった。

ともかく、今でも体が大きい。公園

のも大きいがそこよりも一回り大きい

のが多くいる。ここも相変わらずだった。

しかし、最も驚いて、想像力の飛躍の

なさを気づかされたのは、この地点に

来るまでの間で、だった。

所々に大きい鯉はいたが、川幅4m

だろうか、それほど大きくはないが、

その中流を見て中型の15から20cm

だろうか、魚の群れがいた。上流に

向かって塊になって泳ぐ。見ていると、

それは帯状になっていて、網で掬えば、

5,6匹は入りそうなほどの太さで

一列になっている。それだけではなく、

その一列が続く。いつまでも続くのだ。

やっと、その数の多さに、え?となる。

30秒か、1分か、それくらい眺めていて、

やっと列の最後が縮まり、すぼんで

いった。アユではないか?

こんなに大量にアユが群れの行動を

起こしているなんて!群れと大量とで

二重の驚きだった。なんにしても、

この20年の散歩は何だったのか、と

思ったくらいの、斬新な衝撃だった。

田舎じゃないのに、こんな河川で

大量のアユが拝めるなんて!



いつの間にか、僕は近所の川を軽蔑

していたのに気づいた。それはその

まま自然の豊かさを馬鹿にしていた

ことだ。自然が好きだとか言ってお

いて、なんとその根本の脅威を忘れ

ていたことだろう!

その生産量と生死を断行する脅威が

なければ、僕ら人間の生活はなかった。

そもそも進化すらなかっただろう。

益子市や笠間市で、田舎だ、トノサマ

バッタやマダラ蝶がいる、なつかしい、

とか書いていた自分が恥ずかしい。


帰り道は同じ、亀島公園を通った。

ほんとに狭い、小さな公園だが、真ん

中を湧き水の小さな流れが通っている。

その始めが池になっていて、ほんの

3,4メートル幅の楕円形だが、行き

では珍しく、多くの魚が出てきていて、

まるで歓迎されているようだった。

僕の影を認識しても、逃げずに泳い

でいた。そこを通りかかって、歩みを

止めた。池の前で立っている。数匹の

魚が泳いでいた。たぶん、ハヤ。

しかし、数が少ない。・・待ったが、

出てこなかった。そして、また自分の

間違いに気づいた。

期待したのだ。また魚に歓迎される

ことを。人間に狩られた経験のある

動物はほぼ人間を警戒する。魚は

その影を感知し、足音を察して、見つ

かる前に隠れる。

それは彼らの感知機能に人間の気を

感じるシステムがあるらしい。人間

の気は自分という自意識からできて

いる、魚にとっては殺気だ。警戒す

べき気だから。

僕は気づかず、魚に期待した時に

それは強い自意識だったのだが、

社会生活に慣れると、その気を注意

するようなことに出会わないから、

自然とのつきあい方を忘れてしまう。

僕も山の生活からずいぶん離れて、

忘れてしまっていたようだ。

自然には僕らのエゴからなにものも

1mmの期待できるものはないのだ。

それが農家などで、その年に豊作に

なると喜びが大きく感じられることだ。

自然は大きなパターンも小さなパターン

もあるが、同じようにはくり返さない。

そして、時折、そのパターンから大きく

はみ出して、人間を驚かせる。

僕らは小刻みなパターンに慣れてしまう

習性があって、いつも自然の脅威の大き

さを疎かにしてしまう。それを突然の

ことに思い違える。

自然に近い人ほど、気を緩めることが

できないからだろう。大星空は、また

オーロラは地球を切り裂くほどに感動的

で、僕らを本来の人間に戻してくれる。

それが一瞬の反省であるにしても。



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回復の散歩 [散歩]

昼まで寝て、起きると回復したのがわかった。病み上がりの 

特徴のスッキリさがあった。微熱も下がっていた。夕方には 

しなかった散歩に出た。心の気が外に向くと、僕は自然に 

外出する。散歩は特に、虫や季節や花に出会う好奇心の 

期待が蠢(うごめ)くようだ。微熱があると、自分の不調に 

気が行ってしまって、外への興味がなくなっている。考えも 

少し、ボーッとしてしまう。 

亀島公園の例の小さな池で、今の状態を確かめる。 

いつもしているのだが、初めに池の前に立つと、水生 

生物たちは人の気を感じて、素早く隠れてしまう。 

池に愛情を注いでやり、しばらく待つ。なにも出て来なければ 

僕の体調は心と共に、まだ不調だということだ。 

いつ頃から、こういう自然を相手に自分の調子を尋ねる 

ことをしているか、思えば記憶を辿れないくらい、昔からの 

ような気がする。一番のイベントは亀を呼んだことで、これ 

は皇居の池で古い大亀が出てきたことが、ひとつのエポック 

だった。 

水面の波形を見るが、暗がりと池の底も石も黒いので、それ 

が何か見えない。が、他の処でも小さいのが泳ぎ始めた。 

まだ5cmくらいで、この春に生まれたのだろう。2匹が最初。 

次に反対側で1,2匹。池には飛び石があり、子供が置いて 

いったペットボトルの半分に切った入れ物と、ザリガニ用の 

釣りのタコ糸が捨てられていた。昨日か今日に、置いて行った 

ものだろう。大人のフナはどうしただろう、もう捕獲されて 

しまったのかもしれない。姿を見せなかった。  

公園を出て、目久尻川を覗く。 

銀影が光る、アユだ。変わらずに棲みついているらしい。  

20cm近くの立派な大人だ。ここから4,5km離れた 

相模川では6月だったか、禁漁が解放される。その前に 

アユを1万匹くらい放流する。養殖だから釣り人を知らず、 

その頃はよく釣れる。アユは警戒心が強いので、また 

縄張り意識が強いので、オトリ鮎に針をしかけて、側を 

泳がせると向こうから敵愾心でぶつかってくる。 

まんまと針にかかってしまう仕掛けだ。 

この目久尻川のアユはその相模川で釣られたアユが 

10年以前くらいに捨てられ、放されたものだろう。 

環境が変わってしまったせいで、そういう一匹で暮らす 

アユの習性はなくしたようで、群れで行動するように 

なった。 

つまり、ここでも自然については教科書は役に立たない。 

それなりに変化してしまうことを示す。 人間はアフリカ 

に発祥したとなっているが、アユが人間の養殖という 

進化への介入でどうなるか、といった発展途上の 

現象は毎日の身近な出来事を観察していると、 

(どんなプランも必要ない)思ったよりも例外の物事が 

見つかるものだ。

ただ、群れていても近くに来るものを避けるようにか、 

体をひねってそれが光を放つので、攻撃の習性は 

消えたわけではない。 そのうちに蟹を見つけた。 

死んだ蟹は昨晩、夢で見たが、ここのはちゃんと 

生きているし、テトラについたコケを口に運んでいる。 

その両はさみがデカい。うっすらと石のテトラに緑の 

水生コケが生えているので、それを主に食べて 

いるのだろう。自身の甲羅にも、はさみにもコケが 

生えているから、まあまあ大きいくらいだが、年季は 

入っているのだろう。  

北部公園を目の前にしていたが、マスクをして 

こなかったので、神経質な人は嫌がるだろうから、 

そこから引き上げた。うっすら汗をかいた。 



もう少ししたら、体力も回復して説明が難しいことにも 

挑戦するだろう。
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