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東風吹かば、 春を忘れるな [春]

白い画面を見て、多少驚く。パソコン

の前に坐って書こうとしていたこと

を思い出したからだ。そして、その

緊張感もなく、音楽を聴きながら

書くことを忘れていたのに、気が

ついたから。

なにかふわふわして気持ちが定まら

ない、そんな感じ。

音楽を止める。

このほうがいい。なにかである必要

はない。意味もない。

檜の風呂に入ると、木の香りがして

心地いい。そういう風になにもない

空気に嵌ってしまったかのようだ。

すると、それでよい、となる。

終わる、

終わり続ける。

変化が起こるのを待つのだろう。

起こるのは期待していないから、

起こるとは思っていない。

考えを動かさなければ、このまま

だろう。

そう、前から書いてみようとして

いたのが、「火星の人類学者」だ。

長い。書いたらばの話だ。

それでもう、その気を失くしている。

不精になったというが、そんな気は

ない。もともと不精だからだ。

だが、書くことは楽しかったから、

不精は消えて、言葉にならないもの

言葉にしにくいものへの挑戦のよう

に挑んでいったのだが、そういう

楽しみがうすれた。

なぜだろう。

少し、混乱したままだからだろう。

物の世界は感性という感覚を突き通す

ような世界で、今までは言葉で整え、

表現主体の精神の世界を相手にして

いたからだろうか。そんな気もする。


絵画はその中間の性質があり、精神の

要素も強いし、感覚が中心の世界でも

ある。しかし、陶芸というモノづくり

の世界に入ろうとして、入ったと思った

地点で戸惑っているようだ。

ものがやって来た、得も言われぬ体験が

あったのでそれを疑えなかったが、その

あとがいけない。粘土をいじりながら、

それは自然に出て来るものだろう、と

思っていたら、最近は全然でてこない。

五里霧中という熟語があるが、そのよう

で一向に拉致が明かない。

何も考えずに昨日、教室に出て作りかけ

の壺を完成させたのだが、口に装飾を

凝らしてアクセントを加えるつもりだ

った。三つくらいのアイディアをイメ

ージしてこれだという感覚を捉えよう

としたのだが、ダメだった。そのアク

セント自体が失敗だと感じられる。

それで諦めて、口を細めるだけに

したのだ。

完成前壺.jpg

これが形だけの完成前・直前の姿。

白磁花器1.jpg

::シリーズやきもの入門「はじめての
   磁器作り」から:


図書館で以前に借りた本をまた借りて

きたのだが、開いて驚いたのが、同じ

形の白磁器だった。この写真はすっかり

忘れていた。見たかもしれない。

たぶん、見た。それでこれはいい、と

思ったのだろう。それが焼き付いて、

覚えてもいないこの丸い胴体に四角い

首の壺を作ることになってしまった

のだ。

まず最初から、ーこの作品を作る際に

壺を作ることにした。初めから、

胴体は球に決まっていた。そこから

の首は決まっていなかった。

次の回の教室で首を四角に決めた。

そこから口になにか装飾を施す

ことを考えた。いつくかアイディアが

あったが、実際に粘土を見ていると、

どれも合わないように感じた。

それでやめた、という少し紆余曲折

があって、この壺の最終形を決めた

のに、本の写真に同じ体形の壺を見て、

これが作りたかった(と以前から

無意識に思っていた)、それで悩んだ

末にこの写真の形に辿り着いたのだ

という気がした。

迷ったのは、作る形が決まっていて

それにたどり着く必要があったから

だ、と思い、そして思わせられた

という気もした。

どうも物の世界に食い入るには、

迷いがあり、そこらを十分に見極め

て準備しなければ、この’もの’への

感性を失うのではないかと。

濱田庄司の作品を見て、興奮して

いた、つい最近の昨年11月頃の

あの熱がない。あの熱とともに

ものへの貫徹した直感があった、

そう反省させられた。


どういう生き方をするかというのは

それほどに微妙な問題なのだろうか、

と。民芸運動や地方の陶器を見て

回ったりが、まだ大事なのかもしれ

ない。なにか見落としているのだ。

もう少し、本気で取り組め、と

言われている気もして、改めて

沈思黙考したほうがよさそうだ。

小花瓶は完成した::

梅と花瓶2-1.jpg

梅と花瓶1.jpg

陶芸教室の先生が僕の花瓶にと、梅の

枝を折ってくれた。匂いがよい。


こちふかば、 ・・・・

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 

 あるじなしとて 春な 忘れそ 

 ::菅原道真 「宝島集」


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東風吹かば、 春を忘れるな [春]

白い画面を見て、多少驚く。パソコン

の前に坐って書こうとしていたこと

を思い出したからだ。そして、その

緊張感もなく、音楽を聴きながら

書くことを忘れていたのに、気が

ついたから。

なにかふわふわして気持ちが定まら

ない、そんな感じ。

音楽を止める。

このほうがいい。なにかである必要

はない。意味もない。

檜の風呂に入ると、木の香りがして

心地いい。そういう風になにもない

空気に嵌ってしまったかのようだ。

すると、それでよい、となる。

終わる、

終わり続ける。

変化が起こるのを待つのだろう。

起こるのは期待していないから、

起こるとは思っていない。

考えを動かさなければ、このまま

だろう。


そう、前から書いてみようとして

いたのが、「火星の人類学者」だ。

長い。書いたらばの話だ。


それでもう、その気を失くしている。

不精になったというが、そんな気は

ない。もともと不精だからだ。

だが、書くことは楽しかったから、

不精は消えて、言葉にならないもの

言葉にしにくいものへの挑戦のよう

に挑んでいったのだが、そういう

楽しみがうすれた。

なぜだろう。

少し、混乱したままだからだろう。

物の世界は感性という感覚を突き通す

ような世界で、今までは言葉で整え、

表現主体の精神の世界を相手にして

いたからだろうか。そんな気もする。


絵画はその中間の性質があり、精神の

要素も強いし、感覚が中心の世界でも

ある。しかし、陶芸というモノづくり

の世界に入ろうとして、入ったと思った

地点で戸惑っているようだ。

ものがやって来た、得も言われぬ体験が

あったのでそれを疑えなかったが、その

あとがいけない。粘土をいじりながら、

それは自然に出て来るものだろう、と

思っていたら、最近は全然でてこない。

五里霧中という熟語があるが、そのよう

で一向に拉致が明かない。

何も考えずに昨日、教室に出て作りかけ

の壺を完成させたのだが、口に装飾を

凝らしてアクセントを加えるつもりだ

った。三つくらいのアイディアをイメ

ージしてこれだという感覚を捉えよう

としたのだが、ダメだった。そのアク

セント自体が失敗だと感じられる。

それで諦めて、口を細めるだけに

したのだ。

完成前壺.jpg

これが形だけの完成前・直前の姿。


白磁花器1.jpg

::シリーズやきもの入門「はじめての

   磁器作り」から:

図書館で以前に借りた本をまた借りて

きたのだが、開いて驚いたのが、同じ

形の白磁器だった。この写真はすっかり

忘れていた。見たかもしれない。

たぶん、見た。それでこれはいい、と

思ったのだろう。それが焼き付いて、

覚えてもいないこの丸い胴体に四角い

首の壺を作ることになってしまった

のだ。

まず最初から、ーこの作品を作る際に

壺を作ることにした。初めから、

同体は球に決まっていた。そこから

の首は決まっていなかった。

次の回の教室で首を四角に決めた。

そこから口になにか装飾を施す

ことを考えた。いつくかアイディアが

あったが、実際に粘土を見ていると、

どれも合わないように感じた。

それでやめた、という少し紆余曲折

があって、この壺の最終形を決めた

のに、本の写真に同じ体形の壺を見て、

これが作りたかった(と以前から

無意識に思っていた)、それで悩んだ

末にこの写真の形に辿り着いたのだ

という気がした。

迷ったのは、作る形が決まっていて

それにたどり着く必要があったから

だ、と思い、そして思わせられた

という気もした。

どうも物の世界に食い入るには、

迷いがあり、そこらを十分に見極め

て準備しなければ、この’もの’への

感性を失うのではないかと。

濱田庄司の作品を見て、興奮して

いた、つい最近の昨年11月頃の

あの熱がない。あの熱とともに

ものへの貫徹した直感があった、

そう反省させられた。



どういう生き方をするかというのは

それほどに微妙な問題なのだろうか、

と。民芸運動や地方の陶器を見て

回ったりが、まだ大事なのかもしれ

ない。なにか見落としているのだ。

もう少し、本気で取り組め、と

言われている気もして、改めて

沈思黙考したほうがよさそうだ。


小花瓶は完成した::

梅と花瓶2-1.jpg

梅と花瓶1.jpg

陶芸教室の先生が僕の花瓶にと、梅の

枝を折ってくれた。匂いがよい。


こちふかば、 ・・・・

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 

 あるじなしとて 春な 忘れそ 

 ::菅原道真 「宝島集」




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春の風に吹かれる [春]

風の強さ、樹木の斜めに倒れんばかりに揺れるを、見る。

春らしさという、風が目立つのが季節を想わせるのは、面白い。

こちらは窓を少し開けておいたのを忘れて寝て、起きてみると、喉が痛い。

冬ならすきま風はすぐに冷たくて、気づいたものを。暖かさによる風邪を

ひいてしまった。これも春らしい。

駐車場の隣の市民農園が空き地になって、半年は過ぎたものと感じるが、まだ

トランクルームが立ち並んだ他は、野地のまま。駐車場を横切ると、まだ下りた

ばかりのムクドリが早くから感づいて、一斉に飛び立つ。空き地には春の花が

ところどころで咲いている。

IMGP0016 (800x600).jpg

ヤグルマソウ、または矢車菊。

自生ではなく、農園をしていた人が脇に植えたものか、その種が飛んだものだろう。

IMGP0017 (800x569).jpg

近くにあるヤグルマソウの小さな群れ、二つあるそのもう一つ。花弁の欠けたもの、花軸

が折れたものもあり、風のせいでもないだろう。花の紫はただに色ではなく、目立たせる

ためか光を反射する微粒子があって、それが輝きになる。美しいと思うのは、それに

誘われているからだろう。

IMGP0020 (640x480).jpg

こちらは雑草のホトケノザ。春の七草のホトケノザとは違うという。七草のほうは

コオニタビラコといって、黄色い花が咲く。茎が太くて、たしかにうまそうだ。やや

タンポポの葉に似るか。

IMGP0018 (640x479).jpg


漢字の起源というものも、なにかの文献に依らなければならないのだから、ほんとうに

「心」の漢字が発生した、その記述文献は残っているのか、すでに廃棄・消失して

しまったのかと思うと、おおまかに100年単位で誤差を見なければいけないのか、

とも思う。


東風(こち)吹かば  匂いおこせよ 梅の花

あるじなしとて  春な 忘れそ  (菅原の道真)


万葉集の時代では、花は梅だった。桜は詠まれたが、数は少なかった。

桜の花がよく読まれるようになったのは、新古今和歌集あたりからとか。

それでもまだ、ソメイヨシノは生れていない。しだれ桜は見事だったので、

京都でもそういう桜が詠まれた。世界に輸出されて有名になったソメイヨシノ

は江戸時代に植木職人の人だかが品種改良してつくったとか。花が長持ちする

のが受けたらしい。ところが、いっぺんに咲くのはいいが、いっぺんに散る

特徴があり、ここから桜の花の”はかなさ”が生まれた。僕らが習った古典に

出てくる桜は、僕らのあまり知らない桜かもしれない。

桜のイメージは伝統のような気がするが、近年150~160年くらいのこと

で意外に新しい。コブクロや他の歌手が桜を作曲して歌っているが、まさしく

今の時代背景での過去の日本とは違う「桜」なのだ。言葉も変わるが、それより

も自然趣味は変りやすい、ということだろうか。

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