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休日X.1 [観察]

今日は自主的休日なので、好きなことをする。

好きなことをいつもしているので、休日には

ストレスのかからない、スピンオフの自由に 

まかせるのが通例だ。この場合のspin-off

の意味は今までの方向性から外れることだ。 

興味があっても必要性がなく読めなかった 

読書もその一例だ。 

映画などを観て、空気を一変させるのもそれ  

だ。スパイなら、その死と紙一重の緊張感を 

生活に感じさせると、一気に楽しくなる。 

韓国やグアムに行って、実際の銃の試射する

のに臨場感を持つことができる。初めて銃を 

撃つと、その衝撃で大抵の者は汗をかく、顔 

は上気して赤くなる。目の前で見てきたから、 

間違いない。試されよ。


<<外野の大局 :

弾丸の速度は拳銃で400m/s、ライフルで 

800m/sとか。急所を射抜かれたのなら、

だいじょうぶ、即死する、痛いと思う暇はない。

傷を負う方が長引き、つらい。その後に身体 

に障害が残れば、もっとつらい。死んだ方が

まし、とその時に思うかもしれない。実際そうだ。 

死ぬのに慣れると、命を粗末にしやすいだろう。 

そうは言っても、心の防御が働く場合は、最大 

の緊張感になるので、これをそう易々と乗り 

越えることはできない、日常生活では。 


ペットにマイクロチップを埋め込むのが、来年 

6月から義務化されるらしい。個人のペットは 

努力目標らしいが、ペットショップや施設など 

では行施されるから、来年から犬猫を購入して 

飼う人は、皆マイクロチップ付きだ。 

電波を飛ばし続けるのではないので、その 

ペットに専用機器をかざせば、特定番号が 

分かり、そこから飼い主とかの情報が取り 

出せるという寸法だ。 

人用のチップもとうに開発されている。今では 

その大きさも 0,075mm で、肉眼では見えない。 

なので、コロナワクチンに入れられても、ほとんど

見えない代物だ。日立製作所で2017年に開発 

されたが、2000年にはビルゲイツが Microsoft

Windows DNA をベースにしたソリューション

事業のための日立との合弁会社を設立している。 

当然、マイクロチップの技術もマイクロソフトに 

流れただろう。

これから5Gの時代が来るから、そのアンテナ

設置にこのチップを感知する機能も加わること

だろう。そこには常識として、マイナンバーから

得られる情報がてんこ盛りの筈だ。監視カメラ

など要らなくなるのかもしれない。

日本の政治家はまともなデジタル庁さえ作れない。 

5Gの体制が海外の国にコントロールされれば、 

まず電気の設備に関係する施設がコントロール 

されるだけで、照明が点かない、とかではない、 

水道もガスも電気も、つまり交通機関も通信も 

すべてのインフラが機能しなくなり、闇が訪れる。 

予備電源とかあるだろうが、それさえも今の 

IT技術ではどこまで復帰できるか、役立つか 

心もとない。少なくとも、そういう脅しに対して 

政府は早々に降参してしまうだろう。 

例えば、今のドラマ風に、ある大臣の持病を 

その病院でハッキングして見つけ出す、その 

カルテのデータを改ざんして、その持病を悪化、 

または死亡させる薬に指定してしまうのも可能 

になる。

すると、最悪のシナリオはそのために日本国民

が全員降参せざるを得なくなることだ。それは 

国民全員ペット化するという、・・・ ま、その  

前に実験的におかしなことが起こるだろうが。 

PCR検査を発見したドクターがこの検査を

コロナの検査に使ってはいけない、その他の 

ものやウィルスも捨ってしまうから、と言った 

ニュースはどうなったのだろう? 

このコロナ騒動がその前哨戦でなければ 

いいのだが、 ・・・・。 

いろいろな情報で混乱する。だが、それらの 

流れを統合しながら、出来上がる組み合わせ 

を眺めると、陰謀説が根も葉もないもので一つ 

もないというのは信じられない。それよりも世界 

国民ペット化計画の方にしっかりした線が見える。 

それが現実ではより複雑に絡まっているに 

せよ、ただ見えることをそのまま見れば、 

それを調べれば、大局で半分近い確証と小局 

でかなりの傍証が得られることは確かなことだ。 

そういう悪い方向の計画があるだろう。ただ

それを単純に実行に移せる環境が整うか、

そういう世界情勢になるか、自他国の経済・ 

軍事などの情勢になるかどうかは、未明だが、

それをいい方に期待だけするのも、愚かなこと 

だろう。予防策をそれなりに進めなくてはなら

ないだろう。 


<<内野の小局 :

家蜘蛛がいる。ハエトリグモの仲間だが、僕は 

彼らが好きである。大好き、だろう。白い筋のある  

アダンソンハエトリとチャスジハエトリはよく見かける 

し、部屋にいる。嫌いなのはアシダカグモである。 

見た目が気持ち悪いし、彼らの子は一度に 

二百匹くらい生まれるのではないか。古い家屋に 

いるので、家では見かけない。好きなハエトリは 

見かけるが、見かけると捕まえてしまう。逃げる 

クモの跳ねる方向に手の平を差し出して、クモ 

が手の平に乗ったら、潰さないように手の中に 

閉じ込めてしまう。で、窓を開けて、そこから 

放ってやる。好きだとは言っても、子を産んで 

撒かれてもらったら、大変だからだ。 

しかし、大体、2,3ヵ月後にはまた部屋に戻って 

来るから、感心する。二三度目に見かけると、 

また捕まえて逃がす、をくり返している。 

彼らも安心しているのだろう。何度でも帰省 

してくるから、またまた感心する。 

娘の玄関には毎年、ツバメが巣作り・子育て 

に来るから、それと同じかもしれない。彼ら  

にも変に通じるものがあるのだ。  

僕がそういうことで学ぶのは、クモだから嫌い 

とか、蛇だから嫌いとかはない、ということ。 

顔を見たり、付き合ったりしてみると、必ず 

好きになる奴と、嫌いになるのが出てくる。 

相性というのか、その一面でなら、人との 

関係に似ている。それでまた、嫌いな奴を 

好きになる時は、必ず、その嫌いな面に 

或る時から親しみを感じた時だ。嫌いな 

面が直接に好きになるというのでなく、 

嫌いになることもないではないか、という 

余裕が生まれて親しみを感じる、そういう 

時だ。それは、だが、そいつと別れてから 

思い出して、あいつもそれ程悪い奴じゃ 

なかったと反省できる季節のようなものだ。

季節が来れば、好き嫌いじゃなくなる。 

よっぽど関係をこじらせないことだ。 

一二度の喧嘩くらいでは、その後は 

時間や季節が修復してくれる。  

そっと手の中に包んで、見えない処に 

放して、遠目につきあうことだ。



 :: 
外野の大局と内野の小局では、それぞれ 

異なる法則が支配する。現代の物理が 

マクロでは相対性理論だが、ミクロでは 

量子力学が適応しているのと似ている。

だから、戦争も大局の分野と小局の分野 

に分かれる。 

戦争は絶対に起こしてはいけない、という 

のは小局の鉄理だが、大局の政府や権力が 

関わると、一向に通じない。まったく目的も 

論理も心情も違うからだ。戦争経験者の声 

を引き継ぐのは大事なことだが、それは戦争 

解決の手段には遠すぎることも理解しなければ  

ならない。 

大局と小局は物事の二つの層であって、それ 

ぞれに対応した法則と心情が対応している。 

取り違えると、不適応になり、無駄な言い争い 

や悲劇がもたらされるばかりになる。

「適応」に自然の理がある。

              2021 .12. 4
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夏休みらしさと雨のアプローチ [観察]

まだ決まらない。決まっていたのだが、いざ書く段になると、 

異なった道筋から書きたい気がしている。 

少しだけ書いておこう。子供が幼稚園だったから、僕は 

30代後半だったろう。息子のクラスに乱暴な子がいて、 

どうしようかというような話だったと思う。すかさず、やっち 

まうしかないな、と息子をけしかけた。まだ子供の頃は 

それを見過ごさずに、直接相手と対決・対話することが 

必要だとは知っていたので、子供の頃は喧嘩が手っ取り 

早かった。今ほど確信していたのではなかったが、 

プライドが発達する前に暴力を経験することは大事なこと 

だと感じていた。勝っても負けても、そこは子供なのだ。 

いずれ、自分で修正する。息子は喧嘩に勝ったらしい。 

呼び出されたのは母親だろう、僕にその記憶はないから。 

クラスの周囲からはよくやった、みたいな声があったらしい、 

と聞いた。そして、その子と仲直りした。それで息子は 

もう喧嘩はしないと決めたのだろう。それは成功に見えたが、 

副作用もあった。父親の僕を恐れはじめたらしい。喧嘩を 

推奨したからだろう。それは時間に修正されたが、ある時、 

なにかは忘れたが、息子をその時小学生だったか、激しく 

叱責したことがあった。漱石のように短気だったが、明治の 

時代ではない、すぐに度が過ぎていたと反省した、謝らなけ 

ればと思った。すぐに謝らなければ、たぶんもう謝る機会は 

なくなるだろう、と。 

それで気が変わる前に、取って返して、息子に謝った。と、 

事実はそうだが、この謝るには大きな葛藤があった。父親が 

謝ることはないというプライドが立ちはだかったのだ。 

それを押しのけての謝罪で、その瞬間の強い葛藤は家族の 

誰かは感じたのかもしれない。が、僕にはわからない。その 

きつさだけが記憶に残っているからだ。謝るのって、簡単じゃ 

なかった。 



知識というのは学問の匂いがするが、その特定の分野で 

人の知らない知識を持っていることはあっても、知識が 

すべて学問的で、専門的であるという人はいない。 

僕はそう考えてみて、自分の知識が相対で中学生レベル 

ではないか、と思った。知識のほぼすべては派生したもの

で、枝葉末葉が膨大にあるといった、その根本・芯は 

わずかであるのが通常だ。だから、理想の空想じみたこと 

を言えば、物事の根本とそれらの関係性が理解できれば、 

それはすべてが因果に見える。そこからすべてが説明 

できるはずだ。これは知的な想像ごとで、実際にはその 

バージョンとかバラエティとか、バリエイション次第で、 

それを固定させることができないから、T.P.O.(時間・場所・ 

場合)という現実の現象・事象の様相に合わせて、知識を 

活用することが求められる。昨日は晴れていたが、今日は 

雨だとか、昨日は社長はご機嫌だったが、今日は機嫌が 

悪いといったようなことの、もう少し込み入って複雑な 

複層・階層の諸事情を勘案した様相のことだ。 

それらは枝葉末葉の知識を動員しても解決しない。ただ 

混乱を増やすだけだ。そこにどの知識を動員して、いかに 

活用するかを判断するための、統合の知恵が要る。 

それは経験を重ねた熟練者が必要だということで、有体 

に言えば、失敗を多く経験して、それを肥やしにしてきた 

という経験だ。つまり、知識を正しく適応させて使うため 

には、そのために失敗の経験の積み重ねとそれを活かす 

ための努力をすることを怠らないことが必須になる。 

だから、今のうちに自己保身の姿勢が固まらないうちに 

できないと考えていることでも、どんどんやって経験を 

積むのが早道で役立つ。それはその時の自分の限界を 

知ることが、それこそが自分を知る王道だから。 

まず、失敗してその位置を確かめることで、その後に 

ステップアップをする時に、自分の成長の刻み方が 

わかるし、成長した結果を受け止めることができる。 



今日は曇り空の下、図書館の隣で盆地になった広い 

公園に行った。樹木が多いので、すり鉢を円に沿うよう 

に下りの道が整備されていて、渦巻きを描くように 

一周して、底にあたる池まで下りる分かれ道がいくつか 

ある。ブナを食べる虫がいるらしく、カバーで養生して 

いたり、虫殺しの液体に誘い込むトラップが仕掛けられ 

ている。一本に10のトラップがあったが、その虫は 

写真が貼られていたが、一匹もいなかった。 

そういう養生を見ると、自分の動植物・昆虫に関する 

知識はいかに貧しいかがわかる。僕の想像は食い 

意地の張ったもので、ある特定の大きな葉の低葉木 

が隣の無被害な葉と比べて、ほぼ大きな穴だらけで 

食われているのを見て、その葉の区別がまったくでき 

ないのを知る。それよりも、その穴からイモ虫がその 

葉が大好物だったのでは、と思い、そいつはどれ 

くらいうまいと思いながら、その葉を食ったのだろう、 

と今度は自分もあく抜きをして、その葉を食べて 

みようかと、食欲を煽るのである。うまかんべぇ。 



シダ類の葉だろう、ネムリソウに似た葉に、丸まった 

広葉樹の葉がついている。これは知識が邪魔した。 

すぐに中にサナギが入っているのだろう、と。そっと 

していたら、それが間違いだとは気づかなかった。 

ちょっと吹いてみたら、葉はひっくり返って、裏側が 

見えた、何もいなかった。しかも、サナギが丸めた 

のではなく、自然に枯れて丸まったものだと。 



歩いているうちに雨がシトシト降り出してきた。頭上 

に樹木の葉があるうちはいいが、下まで行くと、休憩所 

までは濡れるだろうな、と。トイレに行く都合から、それ 

もしかたない。屋根のある池周辺の休憩小屋では 

家族連れやぶらぶら歩きの近隣の人が雨宿りを 

して、にぎわっている。 

民俗資料館のような古民家が建っていて、そこが 

公園で一番大きい建物だ。隣に公衆トイレ、その隣に 

なにやら道具や装具が入れてある、倉庫がある。 

よく繁った樹木の下の、木の根を模(かたど)った 

椅子の座っていると、隣の古民家の前で雨宿りを 

している婦人の話声が聞こえてくる。どうやら蛍が 

ここで見られるそうで、わぁ、私も見たいわ、という 

話だ。(実は急いで書いていて、これまでの話でも、 

端折っている。その感想を書いていたら、最後の話 

にとうてい行き着かない。ここも続けない) 



こんな公園でも一周歩くと20分か30分かはかかる。 

道も間違えると、反対方向に歩いていたりする。それで 

また池のほうへ戻ってきてしまった。雨が小やみになって 

休憩所を出てきたのだが、また降り出してきたので、屋根 

のある小屋でベンチに座った。隣り合わせのベンチに、 

もう一人婦人が坐った。そこへ小さな子供3人、一人は 

若い父親が前に抱えている、家族連れが来た。しばらく 

屋根の下にいたが、少し離れたベンチがあり、樹木の下 

なので父親がそちらへ移動した。上の男の子二人は 

雨も気にしないので、3段下がった扇形の踊り場へ出たり 

して、母親に注意されている。まだ驟雨は続く。 

10分もしたろうか、また小止みになってきた。そこで 

家族連れは移動し始めた。それと入れ替わるように 

何が来たかと言うと、飛んでいた。ヤンマだ。トンボの 

7,8の群れが飛び交っていた。そして、二匹で番(つがい) 

になって飛んでいるのが一組いた。その他のヤンマも 

塩ヤンマ、通称塩辛トンボでうす青い胴体が特徴だ。 

番の相手は黒に白い腹の模様だった。

この雨止み待ちが自然との扉を開いた。僕ら知的動物は 

この公園に目的をもってやって来る。子供のための 

家族サービスや、歩いて運動しての健康目的や、日曜の 

コロナ自粛の気晴らしとか。雨が降るまで休憩小屋は 

どこも無人だったに違いない。皆、せっせと自分の仕事

をしているのだ。

僕も歩きに来ている。自然のことは忘れて。人間の気は 

彼ら動植物・昆虫にとって殺気と同じである。残念ながら、 

これは事実だ。人間が考える時、意思決定する時、気を 

放つ。これは意識が飛ぶのですぐに感知できるらしい。 

新横浜の川べりを歩いていて、5m先でドボンッという音 

がしたら、それはカメが日光浴をしていて、人間が近づ 

いて来たのを察知して、川に飛び込んだのだ。まだ姿 

も見えていなかっただろう。 



シオカラトンボは2mまで近づいた。何度か来て、近づいて 

ホバリングしてからは、また飛び去るが、また来る。 

なんのことか?想像だが、警戒しているのだ。なにに? 

実はさっきから、番のメスが相手から分離して、一匹で 

卵を生みつける動作をしている。そのすぐ周りで飛んで、 

気遣っているようにも見えるのは、シオカラのオスだろう。 

その大事な作業に邪魔が入らないように他のオスの 

役目で人間の監視に当たっている、というのが僕の 

自然での経験から学んだ知識、そこからの推測だ。 

そして、驚くことにその場で謎が一つできた。その 

メスは踊り場の板の上の水たまりに卵を生みつけて 

いるのだ。たぶん、50回以上は移動して、生みつけ 

ただろう。これはどういうことか?そこは人間が歩き、 

踏む場所で水たまりも晴れれば、あっという間に乾いて 

卵は死んでしまうだろうに。 

初めに気づいたのは、雨が上がるだろう、ということだった。 

大雨になるのだったら、彼らはこの作業をしなかっただろう。 

天候については彼らはほぼ100%間違えないはずだから。 

あとは、今夜か明日の朝には雨が多量に降り、卵を池に 

踊り場の板の上から押し流すだろう、という推測だった。 

どうしてもトンボがこのやり方を最初からしていたとは 

思えなかった。雨が卵を流すという計算がなければ、 

この産卵行動は不可解だった。それとも1日や一晩で 

ある程度幼虫になり、池に流されても卵のままでいるよりは 

他の魚や昆虫に食べられてしまう危険性が低くできるの 

だろうか? 憶測はこれくらいだが、偶然だろうか、雨が 

止んで、薄日が見えた。 帰宅して天気予報は明日も 

雨模様だった。推測は正しいのかもしれない。しかし、 

それを早朝、見届けようというほどの、自然観察の好事家 

ではない。 



傘は車に置いてきたが、それがかえってよかった。自然と 

出会うにはどうしても、向うが隠れて警戒している防御を 

解除するまで待たなければならない。僕らは昆虫採集に、 

魚獲りに、植物・野鳥観察に、と殺気を発散して森や林に 

向かう。その目的のために静かにするのを学ぶが、それが 

どういうことなのかを学ぶことはない。学校でも聞いたこと 

はない。それで僕らは自然はそこにあると思っているが、 

そこにあるのは人間を察知していち早く姿を隠した、異常な、 

自然の営みのない自然の状態なのだ。逃げるもの、隠れた 

ものを追いかけていることを知らないのだ。彼らがいつもの 

活動をするのは、皮肉なことに人間が人間であってはなら 

ない、そういう儀式を必要とする。 

そうしてそれを知った者はそこには新しいことが頻繁に 

起こり、退屈しそうもない千変万化の世界だというのを 

わかってしまうのだ。大抵は動植物・昆虫の一分野で 

マニアになって、偏向してしまうのが惜しい。 



雨は今度はぶり返して降ることはなく、傘はいらなかった。 

市役所の駐車場までと、また家の近くの駐車場で車を置いて 

からもついに降らなかった。



公園で拾ってきたもの ::

IMGP0005.JPG
カラスの羽。

IMGP000455.JPG

バッタの踏まれてぺったんこ。 


::

6.15 に追加。 

人の殺意と気がほかの生物にとって同じというのは、 

僕らは普段、そういう生物に出会わない。僕らは自然の 

中にはいない。 

公園を自然とは呼ばないように、野生の豹と家の猫は 

明らかに違って、家猫には人の気は慣れて、エサを 

くれる主人であって、猫の気質次第で友になってくれる 

こともある。池や川で人にエサをもらった経験の魚も 

野生ではない。もう殺気も忘れているかもしれない。

自然と社会の境界が、日本の場合、あいまいで区切りを 

いうのは難しい。
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雑感:魚の謎 [観察]

雑多な日記も書いてみよう。

なにをしても謎は増えるばかりで、少なくなることはない。

観察と着眼点が豊富になればなるほど、そう思う。

釣りでもそうだ。魚たちの知恵というものを想定してしまう

ことに遭う。島で堤防で釣りをすることはあまりない。

リール竿でやや遠くに投げないとポイントがつかめない気が

するので、新しくリール竿を買う気がしないから。

岩場で釣りは楽しめるので、誰も来ない入り江近くで

ひとりで釣りを楽しむ。堤防ではもっぱら観察するだけだ。

そこでもかなり大きな魚が堤防の近くまで来るので、今度

釣り糸を垂らしてみようかと、思うが見ているうちに気が付く。

どうもそこにいる数十匹の小魚の親か世話係のようなのだ。

僕が見ていると、底に沈むように沖へ行ってしまうかのよう

だが、実際にはすぐ戻ってきている。

小魚の様子を伺ってなにか支持しているのだろうか、と思う。

魚が子供を教育する姿は見たので、彼らは僕らが思うような

バカではない。

それは有川港の端の堤防で釣り糸を垂らしたとき、透明度が

あり、魚がエサに近づこうとしていたので、これは釣ったなと

こっちのものだと。ところが、その魚より少し大きな魚が近づい

て来て、その魚は停止した。大きいのに遠慮したから、大きい

のがエサを横取りするのだろう、と思った。

大きいのはエサにギリギリ近づいて、それから離れると、

その小さいほうの魚に近寄った。そして、2匹でエサから少し

離れたところを一周回って、去ってしまった。

これをどう解釈するか。僕には親が子にこのエサには食い

ついてはいけない、と指示したようにしか思えなかった。

見える魚は釣れない、という格言もあるが、親の教育下の

魚も釣れない、という格言もつくってよさそうだ。

堤防の小魚だが、数十匹いるのだが、これが不思議なことに

ペアを組んでいるのだ。2匹が並んでゆっくり泳ぐのだが、

止まっているのも2匹で並んで止まっていて、全部が2匹で

行動しているのだ。あまり大きな動きはなく、堤防から離れ

ないが、おかしくないか?親の指示でもなければ、ペアを

組むという行動は取れないのではないか。もしもそうなら、

彼らはそういう交信をして、或る程度概念的な指示を理解

することができる、と言えるだろう。

側溝の大きくしたような川があるが、底はコンクリで平ら

なので棲みつく魚はいないが、クサフグやクロと地元で呼ぶ

メジナの子だろうか、他にも満ち潮とともに小魚のグループ

が上流へ入ってくるが、必ず一度はその親くらいの大きさの

魚が数匹入ってくる。これらのグループはみな一緒で団体

行動をとる。魚に子育てのある仕組みや共通の育てる

過程があるのは、間違いないことのように見えた。

クサフグは中くらいになると、4,5匹で大きなのの後に

ついて堤防を長く入り江のほうまでヘチを家族のように

泳いでいる。それでなのか、夕方にクサフグが釣れ出すと

もうクサフグばかりになる。彼らは鋭い歯を持っているので

平気でエサを針ごと飲み込んで、糸をかみ切ってしまう

のだ。クサフグは合わせが遅いと、飲み込まれるので

針を持っていかれ、仕掛けをそこだけ付け直ししなければ

ならない。で、フグが釣れると、ヤバイ、となる。

だが、フグは背びれなどに針もなく、手で持っても刺ささったり、

痛いことはないので安全は安全だ、食べなければ。

ま、たいてい3本は針をもっていかれて、10匹くらいで

釣りをやめることになる。ただ、フグに交じって他の

食べられる魚が釣れることもある。なんにせよ、あまり

歓迎できない魚だ。よく泣く、愛嬌だ。


フグ釣れて  ふてくされるは  夕日かな



あと、その針を口の中に入れて、引っかかっているはずの

魚なのだが、針のついた魚を釣った経験は一度もない。

たぶん、釣り人は誰も経験していないはずだ。彼らは

どうやって返しのある針を口の中から外すのだろう?

魚の社会生活の本は見たことがない。柳田國男が全国

を歩いて民話をお年寄りに聞いてまわり、日本民俗学を

打ち立てたように、全国の漁師・釣り人を訪ねまわったら、

魚の社会学の本が書けるのかもしれない。柳田が初めて

やったように、まだ始めた者がいないだけなのかもしれない。

魚.png
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時間について、再び? [観察]

時間は非存在か、という題の本があったと思うが、どうだろう?

時間がそこら辺に落ちていないのは確かだ。今日の時間は痩せているね、

とかの声も聞いたことはない。

まず時間のそれについての前に前提条件を決めておこう。僕らの何かに

ついての感覚がある時、その感覚の出どころは尋ねないでおこう、という

ものだ。そこから疑ってしまうと、なにも進まない。

時間への感覚がふつうに正しいものならば、時間はないと言える。非存在

というわけだが、非存在というのは「存在している可能性をにおわせる」

ので正しい言い方ではないだろう。

大事なのは「ない」というあり方になる。いかに「ない」と言えるか。

そうすれば僕らの時間感覚はただの錯覚になる。それをうまく感じれば

いいことになる。

では、どうなるか。まず時間は物質にしてもなんにしても、或る質を

持っていない。数字と似ている。「1」がどこにも落ちていないし、

これが「1」だと1に関することはそれを示せばすべて当てはまる、

という「1」は現実世界のどこを探しても出てこない。ただ、数字は

印刷されたものや看板など、液晶画面など目に触れる機会は多い。

ために社会での市民権を得ている。まず学校で教わるし、計算は

この世で生きるのに最低限、必要な技術だから。

時間を測るものは時代によって変わった。最近までは水晶の分子運動

を振り子のように応用して、秒を決めていたとか。現在はもっと

微妙な振動を利用しているらしい、素粒子だろうか。

僕らが時間を知るのは、すべて運動による。時間という間隔はどこ

にもないからだ。時計なら針の指す方向と針の運動である。デジタル

なら液晶の数字が一定の感覚で数字が変化する。それも電子運動や

数字のパネルをめくるモーターなどの動力による運動だ。

太陽が昇って沈むように見えて、一日を感じるのは見ているのは

太陽の動きや位置であって、時間というものではない。

100m走で世界記録が出ても、ランナーの姿は見たが、その

走る運動は見たが、時間は見たことがない。これが北極や南極に

行けば、半年は太陽が沈まない、または出ない、という白夜などが

見られる。僕らは時間の感覚を少し失うだろう。明日がいつ来るか

わからないからだ。

もしも、今に時間的な間隔という、まさに時間のことだが、ものが

あれば、放たれた矢は的に当たらない、という事態は正しく存在する

だろう。それは矢を放つと、的に当たるまでにその半分の距離に

到達するまでに半分の時間がかかるから。そして、半分に達したら、

次の半分の距離の半分に達するにも、4分の1の時間がかかるから、

という具合に半分に達するまでに半分の時間がかかるから、そして

常に距離には半分の距離があるのだから、矢はその微妙な的の手前

で止まってしまうように見える、という問題だ。時間が存在するなら

この事象はあり得ることになる。

実際にはあるのは運動だけだ。だから、矢は放たれると、的に当たる

まで止まらない。これは現実に合致する。だから、「現実が間違えている」

か、「時間がないから」のどちらかを選ばなければならない。

僕らは矢が的の手前で止まっているのを、いつも見逃しているのだろうか?


あとは自分を納得させるのに、自分の時間の感覚がただそういう気がする、

というところまで観察をして、よく考えて(確認して)みることだろう。

明日は僕らがなにかの数字をめくったりしない限り、僕らはその日になった

と意識できない。それは今も「今は今だ」という感覚を取り戻すことかも

しれない。年月日の数字は僕らが約束事として、自らで決めたものだ。

だから、カレンダーの1月1日は来るが、明日はその日が来ても、明日は

「明日」なのだ。どこにも行かないし、来たこともない。
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夕方の桜と、ついでの観察 [観察]

どうやら、サーバが回復したらしい。でも、もう書く気がしない。

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駐車場の画像。毛布がめくれてるのに、苔が生えているのはおかしいと、その下に

もう一枚の古い毛布発見。苔の雨時などの保水水源。

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日焼けして、ひび割れ、色も土色に変化中。

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道路わきの家の側溝(ドブ)に飛んできた種で、花が咲きかかっている。

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クローバーの葉にそっくりだったが、種が違い、カタバミの仲間。現場を再確認

したが、色は強気に黄いろになって、クリッとキンセンカのように咲いて、上の

画像では見分けられない。

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なかよし公園の、逆光での桜の木。逆光も面白い、肉眼ではこうは見えない。

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地面を多く構図に入れると、自動露出でふつうに見えた。薄暮のソメイヨシノ。


さて、やはりなにか書いておこう。近所の野良猫でルーシーと名付けた年の

入った女傑の猫がいて、もう4年くらい、もっとか?、来ると餌をやっていた

のだが、餌の供給がうまく得られないと、僕のところに来る、と勝手に決め

ていたのだが、この冬が開けて、春先だというのに彼女がうろついていたり、

僕のところに来る様子が見られない。こちらも彼女の姿を探して、見つけると

手をふって呼ぶ。すると、必ず餌をもらいに来る、来たのだが、どうも最近

見かけない。もしかすると、とうとう冬を越せなかったのかもしれない。

彼女ほどの年季が入っていれば、人に見られない処を死に場所に選ぶから

まず見つからないだろう。まだ1カ月は見込みがありそうだが、どこにも

見かけないのは気になる。

可愛がってくれる女の人にはよくじゃれていたが、ある時その人が連れていた

犬の頭を片手でなでているのを見た時は、驚きだった。一緒に飼われている

のならわかるが、犬も子ども扱いなのだろう。ありえない光景に映った。

取りあえず、ふつうの猫缶の他にビタミン入りの猫缶をひとつ買ってあった

のだが、老齢には勝てなかったのかもしれない。人間と違い、病院で長患い

せずに、ぽっくり逝くのだろう、うらやましい。・・お疲れさま。

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