SSブログ
知の思考 ブログトップ

思想(知識)の転向は壁の色を塗り替えただけ [知の思考]

日本という国に何かが起きるのは

わかっている。もう30年以上前と

は思わなかったが、第1次湾岸

戦争からそれだけの年月が経って

いた。

が、それが日本なのか、僕自身の

ことなのか、よくはわからない。

なぜなら、今の日本への関心は

異常なほどで、単なる思想的関心

とか形而上の危機感とは大きく

異なるからだ。この処、日本に

関しての本が目に映り、すぐに

手に入れてしまう。自分でも変だ

なと思うくらい。僕と日本が重なり

合っているのは、意識上しかたない

ことだとしても、それで確かなこと

が不明になってしまってもいる。

こういう凖・動揺状態の時には

正確な判断は望めないが、それ

でも僕をパソコンの前に坐らせる

には十分な条件だ。



あれだけ探して見つからなかった

「善の研究」:西田幾多郎の代表作

とされている:が階段の本棚にある

のを見つけた。もう買い直して

しまったので、ダブってしまったの

だが、最近は二回目だ。初めは

自転車の鍵で、駅の駐輪場で停めて

あったのだが、鍵がない。ポケット

を何度も探してみるが、失くすはず

もないものだったので、車の鍵に

つけていた鈴を失くして以来、また

かと思った。

今度もすぐには出てこないとったので、

三日後に合鍵を作ったら、その日に

(洗濯に出した)ズボンにからまっ

て?出てきた、とうちのが言った。



それは余分な話だが、西田の「善の~」

は僕は善が感情表現なので、思想的

には評価しなかったのだが、どうも

それだけではないようだと、考えを

改めた。

それはこれまでも言ってきたことから

人が人を理解することの困難さは

感情→思考→感覚と進むほどに困難さ

は増すことを、感情的には速い理解

になるという僕らの関係性であっても、

思考と感覚への理解になると、人が常

にまだら・あいまいにしか理解しがたい、

となってゆくのは避けられない。また、

ひとつ詰め、応用すると、そこにこの

世の知識の歴史が浮かび上がるのを

見た気がした。

知識は結果のものだと思っている。

言葉の資産だと言ってもいいだろう。

僕はこの資産というよりも精神の遺産・

本・書籍というものへの出会いに恵ま

れている。

知識への批判はともかくとして、

子供の頃からの未知を探索する癖を

つけてくれたのは読みたい本を探す

ことからだった。

一定の世間やこの世の常識をその

時代のレベルでおよそ全般で備えて

いないと、まず基本の判断の基準が

定まらない。

思春期には感覚や感情を鍛える

こと、そういう経験をに出会う

ことが必要になる。しかし、人は

自分の心身の条件からどれかが

疎かになり、大人になってから

その未熟さのために苦労する。

僕は感情の未熟さがあったが、

人と全般に付き合うことはしな

かったので、また自己追及が

自分に合っていたので、ずいぶん

先まで社交性は未熟さが残った

ままだった。その代わりに、精神

の事項での発見が絶え間なく続いた

ので、面白くすぐには転向でき

なかった。

革命家北一輝と思想家大川周明は

出会って語り明かしたことがあった。

北一輝は半裸状態らしかったという

から夏の夜なのだろう。頭脳明晰な

二人がお互いを理解しようとして

一晩?だか議論したというから、

言葉の表す概念がどれほどの意味を

抱えていたかが知れる処だ。

その単語の意味がひとつで明快で

あれば、その明晰な二人がそれほど

時間をかけなくても理解はスムーズ

だったろう。話は速い。思った時に

すぐに言葉に換えられる。それが

長い議論になったのだから、意味が

複雑で錯綜していたから、相手が

それをどういう位置から捉えていた

かがはっきりしないと、なにを考え

見ていたかはわからない。

書物は考えた結果の言葉がそこに

落とし込まれるが、考え方が違うと

さっぱりわからないという、妙なこと

が起こる。それはもっと言葉よりも

明晰だと思われる数学でも同じだ。

数学もやはり幾何的に考える人も

代数的に考える人もいて、数学者は

相手が出した解答を自分の考え方で

数式を変えて考えてみないと、それ

が正しいかどうかが理解できな

かったらしい。

(答えが二つあったとして、それぞれ

の考え方が答えにあっていて、正しい

という場合と、その二つを比較して

どちらも正しい、という言い方も

できる、正しいにも意味が複合して

ある)

それほど自然は単純ではないという

ことなのだが、思想家も哲学者も

数学者もそうは考えない。飽くまでも

自分の学問分野の範囲の中でのこと

として捉えようとする。

これが真理のあり方だとしたら、その

ままだ。真理はそれを見る人の考え方や

見方の数だけその側面を見せる、という

ことだ。

僕が他人の本を読むのは無駄だと言った

過去があるが、その意味はここにある。

一人の人間を研究するなど宇宙の一部

でも半無限な範囲があるのに、無茶な

話なのだ。それがある思想を研究すると

なると、実現可能に見えてしまうらしい。

それは知識が固定された明確な概念と

して定義されたように錯覚している人

が多いからだ。 

AIの学習に関する理論が出回ってから

は特にそこに人間の知能との違いや範囲

を線引きできなくなって、ますます混迷

が深まっている。

僕らは間違えることがわからない。間違え

るのだから不正解、だからそれは正しく

ない、それは悪い、と二者択一で考えて

しまう。そのワンパターンな思考こそが

間違えていることに気づけない。

あることでは間違いも自然であり、真理

の一部なのだということは教えられて

こなかった。だから、それが常識に

なってしまったが、僕らは実に一つの

解答ではなく、多面的な解答を同時に

理解するように迫られている、常に。

ほんとうに単純な問題で、人がこさえた

算数の問題などは単一の解答がある。

といっても厳密には解答は同時に二つ

あるのも往々にしてある。例えば√4

の答えは+2と-2とで二つ正解がある。

算数でさえそうなのだから、自然界の、

また社会の機構での正解はいくつもある

のが常態だ。

僕らは正しい答えが単純にぽっと存在し

ているつもりだから、煮詰めないで、

答えをいい加減に済ましやすい。

時代を通じて変化に揺れ動いている常識

が存在している人々の意識層というの

はその程度のレベルなのだと思う。

それは世の中を賢く渡るのなら、70%

くらいは大丈夫だが、万全を求めるに

はほど遠い。

僕らは他人と会って、すぐに相性みたい

なものを感じる感性を持つ。これは長年

の経験で鍛えられたもので、一代のもの

ではない。そして、第1印象を超えて

つき合い始めても、話が通じない人だ

とか、話のわからない人とか、親しく

なりたい人だとか、その人への評価を

する。これは何を示しているかと言う

と、自分との違いがどれだけ感じる

かを示しているのだ。

端的に、この人は自分ではない、と言っ

ているのと同じだ。自分と同じ自分に

これまでに一度も出会わなかったよう

に、それほど僕らは各人ひとりひとり

感じ方が異なっている。

そういう僕らが言葉で議論して尽くせ

ない自然や思想を相手にして、それは

その人と真実との切磋琢磨という処

に発見・出会う・真理というその側面

になる。あの人の納得とこの人の理解

とはかなり異なるものを指して、言葉

にしてもその内容の意味のそれぞれ

の分量・配合が違って当たり前なのだ。



僕らが読む真理ものというのは、そう

いう妙ちきりん(へんてこ)な思想と

いう概念の知識媒体なのだ。

だから、和辻哲郎などは偉いもので、

仏教を論じても、実際に自分も瞑想を

やってみることをする。しかし、巷の

仏教学者は言葉の仏典や資料に充(あた

る)だけで肝心の芯を突かない。

そして、言っていることがわからない

と、わからないことを以てして、ウソ

ばかり述べていると批判したりする。

何をか況(いわん)や、である。

それが世の中で横行しているつまら

ない本だ。



自然に体当たりしていれば、多少の

怪我で収めて、見えるものは見える。

そこで今までは考えもしてこなかった

見えないものがなにかという感触も

掴まえられる。

実際の行動に正しい感覚で出会った

ものを受け止め、それを思い出し

(反省)、あいまいなものがはっきり

するまでは、あいまいにしておくの

が正しい。

あとは自然に任せる。その感覚や習性

も自然に学べるものだ。

川を見る。昆虫を見る。植物を見る。

見ていて、見る、見る、見る。

見るうちに学ぶものがある。それは

言葉にすれば誰にでも通じるという

ものではない。現実にこだわらず、

夢だとしたら、夢のまま捉える。

それを現実に還元してはいけない。

それでは別のものに変えてしまう。





中高年を過ぎて。難しい哲学書などは

好きな人は(楽しめるから)別にして、

ほとんど無駄に終わる。一生かけて、

その対象の人となりがわかるくらいだ。

内容は3割も理解できればいいとこだ。

7,8割も理解したと思う人がいたなら、

それは自分の見方という狭い範囲での

成果になるだろう。真のものはものごと

の芯にあり、理解した論はなにか別の

(自分の)素材で作ってしまった模型だ。

そのために自分の人生を効率の悪い

他人から学ぶのはよくないだろう、

と思う。

もっとも偉い人はいるから、ヒントは

古典からゴロゴロ拾える。そして、

それでも最初の関門は自分の命で

開けなければならない。



:::
人間を理解するのは面白い、とても

難しく、闇を手探りするくらいに

手に触れたものが見えないので、見る

ように直感的ではないので、わから

ないことが多い。その分謎が多く楽し

める、とも言える。

神経が崩れるように正常な反応が

できなくなると異常者をつくるように、

少しの異常でも生活が変わってしまう。

昨日の午後から今日の午後にかけて

神経は少し、異常だったと思う。

僕は甘いもの好きだが、あんこ派で

チョコレートも好きだが、あんこの

ほうがよく買う。

ところが昨日は疲れたと思っていたが、

チョコレートが食べたくて、珍しいと

思って食べた。ところが今日も2枚

別種類の板チョコを買って、片方を

食べていた。

昨日、これから後になにかが起こる

ような予感がして興奮して、動くの

はた易いが、なにか落ち着かなかった。

そのうちに書くことにしよう。
nice!(13)  コメント(0) 

知的頓挫と常識的な理想 [知の思考]

 P・G・ハマトンの「知的生活」は渡部昇一・下谷和幸訳で、 

日本で再発見のようにブームになり、自己啓発の古典・ 

名著と言われている、そうだ。渡部について書くので、まず 

渡部はハマトンに大いに啓発されて、一部原文を暗記する

ほど読んだ、とそれほど傾倒した。 

はじめに断ってしまうが、これは渡部やハマトンという知的 

人間への半ば批判であり、その知的形態の説明である。 

「知的生活」という言葉に、はまる。なんと響きのいい言葉 

だろうか。自然の中で知的環境に囲まれて悠々自適な 

生活が出来たら、なんと素敵なことだろう、と僕も昔、 

夢見た。それこそ理想を絵に描いたようなものだ。 

そして、本を手に入れて、あとがきを読んだら、あとは 

放り出してしまった。まさか、今頃それをまた手に取るとは 

思っていなかった。 

僕の現実的な志向・嗜好はハマトンがどれほどにせよ、 

そういう生活を実現したものと疑わなかった。自分の 

経験からそのエッセンスを書いたのだろう、と想像した 

から。 それはほぼ山での自給自足をした「森の生活」を 

書いたソローの影響だろう。

が、ちがった。彼は今でいうHSPで、感受性が強く、病的で 

特に汽車ノイローゼだったという。夜行の鈍行にしか乗れ 

ない。それでも発作が来て、途中下車したそうだ。だから、 

彼に非はないだろうが、彼は普通の生活ができる人に憧れ 

はしたのだろう。 

それは始め大量の詩を書いたが、まとめられず、失敗した 

らしい。それがどういうことなのか、またどうして失敗なのか 

わからない。本人は知的人間によくある完全主義者だったの 

かもしれない。が、19世紀末である。そういう知識は流行って 

いなかっただろう、彼に非はない。 

そこで彼は画家を目指して変身し、画家としては写生ばかりで 

個性がなく大成しなかったが、美術雑誌の編集責任者となって 

成功した。評論や論文も掲載して、当時の文筆家として有名に 

なった。 

それで、というわけではないが、彼を決算すると、人々の好み 

に合わせたものを書くことに長けた教養人だった、ということだ 

と思う。だから、雑誌は売れただろう、また「知的生活」はそう 

いう本だった。第1章で知的生活における肉体的基礎、と題を 

打っているが、若い作家へ、学生へ、若者へと小見出しが並ぶ 

が、自分のノイローゼはひとまず置いて、書いたのだろう。 

そして、第2章ではその精神的基礎、として並べて書いている 

が、内容は歯を食いしばるような努力の礼賛で、人が思うような 

想像がまことしやかにそれらしく書かれていて、読者はそうだろう、 

私が思った通りを丁寧に語っているよ、と言いそうな記述。歯を 

食いしばるというのは僕の表現で、彼はそれを「たいへんつらい 

骨の折れる」というソフトな表現をしている。ちょっと乙にかまえて。 

彼が運動を奨励しているように、その道のセミプロにでもなったか、 

と思うが、晩年、痛風の症状が出たらしく、その予防をするために 

戸外運動というから、マラソンでもしたのだろうか、やり過ぎて心臓 

を悪くしたという。自分の体をよくは知らなかったようで、精通には 

ほど遠い。 当時は栄養状態も良くはなく、知識も不足がちだった 

のだろうか。 

ハマトンは田舎に引っ込んだのは自然を愛好するというよりも、 

人と付き合わず、静かな環境を選びたかったからだと思う。 

晩年は、60で亡くなったが、奥さんとの会話も知的興奮のある 

というものではなかったようで、知が伝染せず、奥さんは耳が 

聴こえなくなっている。子供も独立し、巣立ち、二人だけであまり 

に静かで寂しくて耐えられなくなり、山から郊外に引っ越して 

いる。彼はソローにもなれなかっただろう。 

僕は非常に早くその理想もどきに気づいて、山が好きだし、山の 

生活に憧れもしたが、長くは続かないだろう、とその気がある 

うちに山へは1年に1回行くくらいで、滞在も長くて3ヵ月くらい 

でいい、あとは郊外や都会で暮らしたくなる、と思っていた。 

そして、山へも都会へも行ける、やや郊外を居住地に選んで 

いる。 当時は田園も残っていたが、今はもう市街地になって 

しまった。 

ハマトンは世間通で教養人だった。決して知的巨人というような 

個性は持ち合わせていない。とても仕事に協力的な奥さんと 

しあわせに過ごしたようだ。それを感謝しているが、彼の夢は 

知的人として社交生活をすることにあったような気がしている。 

だからこそ、人がふつうに何を考え何を望むのかわかり、そこに 

自分の夢を教養文にして重ねて載せた、そんなように見える。 

一般的な人生だろう、編集者として成功して、山へ籠って 

家族で暮らしただろうし、自分の感受性にもさして煩わされ 

なかった。晩年の不幸はそれでか、次男がフランスの国立大の 

教授資格を取ったらしいが、自殺している。そして、ハマトン夫人 

の耳の不自由、自分の通風、と不幸が重なった。ルーブル博物館 

から帰って、心臓病で亡くなった。当時としては60歳、大往生 

だろう。現代では似たように成功した人が晩年、突如として半身 

不随になっている。 


そういうハマトンの教養としての知的生活に同じ理想を抱いた 

であろう、渡部昇一(ここでデジャブ。この場面、見たことある、 

いや、経験している)が登場する。 彼の「魂はあるか?」という 

本を知って、ほぼ最後に書かれたので少し、死についての体験 

を期待(予想)したけれども、もう一つの予想である、誤解の 

混ぜ物では、のほうが当たっていた。 副題の「死ぬこと」に 

ついての考察、もなんもない。死についてはその周辺ばかりで、 

死そのものについては、なんもない。ただダーウィンとウォレス 

の発見が断定で書かれていたので、ここを調べて見たいと 

思わせた、すでに本は所有している。 

僕が死についてまた?書くの?となったのは、人は自分の 

体験が重い時には、その体験で人生が左右されるし、それで 

あるからこそ、そこからの結論を絶対として信じやすい。 

信じるのは結構だが、それひとつだと、信じるのはそれは 

自分だけを信じるのと同じだから、いつも検討できる時には 

思いつきにせよ、他人の経験にせよ、それなりに敬意を払って、 

検討し直さなければならない、と最近、再度考えていることだ。 

特に僕の場合は次からくる経験がその一度目の体験を 

裏書で応用・証明・保証するものだったので、疑う機会は 

なかったといえる。生ま新しかったので、新しい表現を考え 

なければそれについては1行もままならなかった。いまだそれ 

を否定する材料は現れない。 

しかし、それだけがすべてではないのは、いかになんでも 

気がつかずにはおかない。そのほうがいいのだ、比較できる

から、こちらのテーマが強められるか、怪しげかが感じられる 

ようになる。そのどちらでもない場合、別な世界解釈の可能性 

が現れた、ということだろう。 なんにしても面白いではないか。 
                                  
とは言え、」  6. 1- 2 




日を空けると(1日半)、書き続けた想念の流れも切れてしまう 

ことがある。 最近は特に、重要なことを書いているという意識 

がないせいか、途切れた時の想念を思い出せない。また初め 

から書けばいいではないかという、その場主義だからだろう。

渡部昇一については、新しいことはなかった。想像したまんま 

で、少し前に書いたパスカルの神を信じたほうがお得である、 

という確率を渡部はそのまま守って、あの世まである、と何の 

検討も加えずに、「だからこそ私は、シニア世代には特に、この 

賭けのことについて考えてみてはどうかと勧めたいのです。 

無に帰して風にさまようくらいなら、一歩踏み出すくらい何でも 

ないはずです、なにせ、負けることのない、必ず勝つ賭けなの 

ですから」 と、最後を締めくくっている。 

彼の主張は一理ある。わからないことを考えたり、疑っている 

よりも、しあわせに生きるほうがいい、そういう精神状態をつくる 

には神とか、魂とか、無作為に信じるほうが健康にいい、という。 

そういうことを言っている。 

だから、まぜっかえすようで理屈に誤解されるだろうが、彼は 

自分が期待し、憧れることをそのまま信じたほうが利口だ、と 

言っている。それはそれが真だとか、正解だということではない。 

わからないことを悩むよりも、まだ信じてしまったほうが楽だから 

精神的に得だ、利益があるという。これは拡大解釈すれば、どの 

宗教でもいい、好きな宗教を信じて、幸福でありさえすれば、 

その先を考えるのは損だという立場で、なにか社会学者の話した 

結婚とは収入のパフォーマンスだ、と断定するのに、似ている。 

それはどういうことか、突きつめることができる。人生、楽できる 

なら、それでいいじゃないか、という人情に合った思想である。 

思想としては未熟で危ういが、現実には一理ある。生まれて 

から恵まれて、幸せに育ち、人生順調に進んだのなら、それこそ 

理想的で素晴らしいではないか、という考えだが、実際には 

不幸に襲われない人生はないので、理想の考えも嫌でも不幸に 

修正されるから、その理想の実現が責務ではないか、そのため 

にそのゆるい思想が奨励されても、さほど不都合ではない、の 

ではないか、というものだ。 

僕はそれを強く否定する気にはなれない。世間を慮(おもんばか) 

ってのことではない。そういう夢もある程度は役に立つし、小さな

ことでは大いに使ったほうがいいからだ。明日、講演を控えて 

いて、その前の晩に急に憂鬱になって眠れない、とかになった時、 

「大丈夫、うまくいく」と、自分を安心させるのは大事なことだ。 

この時、講演がうまくいくかどうかは関係ないことはわかるだろう、 

その前に不安を緩和しなければならない。僕も慣れたせいか、 

自分を落ち着かせるのに、不安な理由を思い浮かべ、それを 

潰してゆくという方法を以前に取っていたが、今は、自分が 

不安を感じているのを察知したら、すぐに「大丈夫、うまくいく」 

と3回くらい唱えると、なにもしなくても2,3分で落ち着いてしまう。 

不安は必ず、自分が招くものだ。それを消して、うまくいく場面に 

遭遇させれば、または、成功して喜ぶその後の場面を起こして 

やる。そもそも不安はない、とわかる。 

渡部にとって、魂の存在も、死後の世界を信じるのも、それは神を 

信じるのと同じ範疇にあって、一緒くたなのだ。神があれば、魂も 

あるし、死後の世界もある、と。 

僕は、おいおい、と大丈夫かよ、とオタついてしまうが、彼は専門の 

英語文法学ではドイツの大学で哲学博士を授与されているようだ。 

英語や言葉の本が18冊くらい、(社会における)生き方や処世法の 

著作も多いが、主に歴史と政治・社会の方面で200冊近く、共著を 

含めると、300は超えるだろう、そして、翻訳も100冊くらいの、 

それで知の巨人と言われるらしいが形而上学、経済や宗教、心理に 

ついては書いていない。 

それで人生の最後は賭けることで満足して終えた、のだから、なに 

を批判せにゃいかん、ということで、極貧の少年時代から出発した 

ので後半、しっぺ返しもなく、大往生。彼は彼の人生を生きた、とそう 

締めくくっていい。 

僕について書くのは、興を失くしてしまった。僕の死の経験はそれ 

のみで構成され、それを信じてきたのではない。突きつめられない 

神秘と実感の入り混じったことや、確実に自己の崩壊だと後で 

分かった経験など、数々の新しい追体験が起こり、それを解題 

することで、次第に初めの体験が補足され、強固になるという 

流れを追ってきたので、僕の体験を崩す事実が現れなかった 

以上、自分の実感を信じないわけにはいかない。 

僕はこれでやって行く、ということで渡部のような賭けは児戯 

じみたように感じられるが、書いたように無下に否定する気 

にもなれない。僕らには、社会的にも心理的にも、それぞれ 

の納得する思想が用意されていて、その選択はその人に 

任されている、それが僕が信じることだからだ。どう信じるか 

というのは、信じるのを恐れてなにも信じないよりは、幾千倍 

もマシなことだ。敗れて、また荒野に戻ったら、新しいことを 

信じてまた始めからやり直す。今、それをする、今、そう 

考え直す、という行為が大事だ。そういうことであって、 

前もってそれが正しいとわかるようなことは、起こらない。 

僕らが生きることを信じている前提がなければ、なにも 

起きないし、起こらない。すでに信じている処から始まって 

いるのが、僕らの生だ。これだけは、疑えない。その他は 

いくらでも解釈が可能だ。 これは神を信じることに賭ける、 

という知的立場ではないが、信じることの重要さでは同じ 

炎がともっている。

生きよう、ただ生き延びるために、他人の協力ではない 

犠牲を強いるような卑怯な手段でも許すように、ではなく、

自分の、これが人間の一匹の生き方である、と主張 

できる、そういう生き方をしよう。



IMGP0021 (1024x796).jpg

ザクロにはギリシヤ神話から仏教、イスラム・キリスト、どの宗教 

にも逸話があり、紹介しきれない。 

nice!(14)  コメント(0) 

誤解と理解の前提をいう [知の思考]

脳というのは雑多なものだ。雑多だが、どんなものとは言えない。

それだけ解明がされていないのだが、それにしてもひとつの

世界では、ある。 

脳の一番の機能は地図を書くことだ。それは具体の地図もあるが、

主に、もの・ことの様相を概念化して、区切りや枠を与えて、現実を

別のもの(=概念>数式や論理)で比較して表現する。ほとんどは

その国の言語が使用される。

わかる、というのは意味深な言葉だ。理解するというのは、もの・ことを

実際に概念化して現実と分けることだからだ。この「分ける」が理解する

という「わかる」になった。例えば、僕らの体を細分化して調べれば、

何で構成されているかがわかり、体を理解できると考えるようなものだ。 

だから、古代では原子という見たこともないものを、想定して物質の

極小の形だと考えてみたのだ。 

それは海は水からできているから、酸素と水素を突き止めれば、海の

正体がわかる、と考えたのと同じだ。

それはわかるということを、ほんとうに明らかにしたとは言えなかったが、

物質を実証的に役立つ形でうまく固定化させることができた。それは

概念化のことを言うのだが、その結果はいつも一面を固定化させただけ

なのだから、実際にその法則を利用しても現実の物質の性質が邪魔して

実用化するためには、様々なトラブルを解決しなければ、冷蔵庫も洗濯機

も生まれはしなかった。が、その着火する役目は果たせたので、化学・

科学は数学の概念を利用して発展をした。青写真から製品までには

いろいろなトラブルが発生するのは当然のこととして、本質の問題とは

捉えられることはなかった。 

だから、僕らは科学や数式を信頼している。数千年前の算数からでも

子供に教えている。その基本概念がないと、それらで作られたそれらの

機械や規則を理解できないからだ。もの・ことが本来そうなっている

からではなく、僕らがそういう風に使うものを作り、ことをそう言う論理での

規則に定めたからであり、自然界も大まかにとらえられているように見え

るが、それはそういう言葉がないと話が通じないのと意味は変わらない。 

僕らはこれまでにどれほどの風景写真・画像も撮って来たし、どんな

映像もCGで作り出せるにもかかわらず、やはり、自然の新しい映像に

惹かれ、それを信じて、カメラでそれを捉えようとする人は後を絶たない。

もっと見える人は画家として、同じ花を40年も描き続けていたりする。 

この動き、変わりゆくものを見るのが楽しみであるのは、本能とさえ

思えたりする。僕の父は認知症になって、おかしくなってもしばらくは

窓の外の車やバスが通り過ぎるのを眺めるのを楽しみにしていた。 

自分の視界を遮る場所に同じ認知症の入所者が坐ると、怒って

どくように文句をしたものだ。 

今は科学は理論物理学が花形で、それはマクロ(宇宙)を扱う

相対性理論とミクロ(素粒子)を扱う量子論に二つに分かれた。 

アインシュタインは量子論を初めから知っていた、半ば作った一人

だったが、粒子の現れ方が確率でしかないことを認めたくなかった。

それで二つを統一する理論を晩年まで探っていたが、見つけられ

なかった。 

僕にはこの分離した理論同士は科学の成功した形ではないかと、

予測しているが、半分だ。 僕らがそれをほんものだと錯覚する

ためには、視覚映像なら簡単だが、視覚映像だけでは僕らは

実感をもてない。ただ種明かしを見せられても、まだ混乱してしまう

だけだ。自分の手足を隠して、マネキンの手足を見せて、実験を

用意する。自分の手足を触覚で、つまり、偽の手足と同時に触って

錯覚を起こさせると、偽の手足に危害を加えようとすると、恐怖が

走る。

それは自分の手足ではないのが見えていても、触られた後では

錯覚だとわかっても呑み込めないのだ。実感を基にして、錯覚を

疑えないのだが、その恐怖は起こる。すると、恐怖は頭の錯覚で

実感ではないこともわかる。 

僕らの触感や情感はわかる感じが違う。脳は、たぶん、その

どちらかを利用しないと、実感を想像させられないのだろう。

それでも視覚の世界のことで、犬も抱いてみないと、その筋肉

や体毛の質感、柔らかさは感じられない。そして、それは映像・

画像よりも僕らに「犬」を強くそのまま感じさせる。画像はまず

吠えないだろう、鳴かないだろう。その情感のある動作の何とも

言えないものを、人に伝えないだろう。 

わかるというのは、そのものを別の形(言葉)や映像にして

視覚や夢(脳のあいまいな映像)として記憶させることだ。悪く

すれば、同じ言葉で幾通りもの解釈を許す言い方をすることも

できる。 

それは同じことを聴いたり、読んだりしても、およそ同じとは

言えても、似ているが微妙に違うからまるで違うまで、様々な

理解を生んでしまっている。だから、よく言葉だけで理解するのと、

ほんとに理解するのは違う、とか言われる。聞いてわかったと

思った授業を家で復習したら、わからなかったということがある

のも頷ける。 わかった気になったのは言葉だけだからだが、

小さなけがでも痛かったら、記憶から抜けることはないだろう、

しばらくは。痛いのは「わかった」よりももっと直接な体験なのだ。

嫌でも痛いと「わかってしまう」のだ。

細々と書いてきたが、要は僕らはわかったと、わかった気になった

とは区別できていないほど、日常では聞いて、読んでわかった気

になっているということではないか。

ほんとうにくり返しくり返し、同じようなことを書いている。 

本を読むというのは、僕にとって他(人)を読むということだ。それは

困難に足を踏み入れることを意味している。脳や感覚の世界は

広いので、僕は大まかに書くために、その全体像が欲しい。

全体を知るには、多方面からの検討がどうしても必要だ。それで

1冊の本を読むとは、大抵30冊の本を資料読みするというのに

他ならない。どういう意味で著者はそういうことを言ったのか、十全

に書かれていれば、読めば必ずわかるので、読むしかないだろう。

僕の読んでいる1冊はこの世のすべてを知る、という1冊なのだ。

それは人間を本質とする。

となれば、僕が本の読後感想をあまり書かない、いや書けない

理由も想像できるのではないか、と。

ひどい理由だ。世界の、地球の歩き方から病院選び事典、理科年表

から世界史、昭和史、野に咲く花、動物行動学から周恩来秘録とか、

挙げるときりがない。トンパ文字とかウルドゥー語やカタルーニャ語

などあまり聞いたことのないものも好きで、購入してしまう。 

僕らは誤解から離れられない宿命を背負っているようだ。それが

「わかる」ということだからだ。どんなに良くても鏡にそれを映した

くらいで、それでも鏡ならどうしても逆さまに映る。知は僕らを

自然のもの(表現できないものも含めて)から頭の中に別なもの

を投影させるから、それ自体が「そのあるもの」からとは違うもの

なのだが、それを判断する形で獲得することを「わかる」という

ことにしたのだ。それがそのまま、本当も嘘も「わかる」、という

誤解(=認識・世界観)になったのだが、それは学校で教えて

いない。教える先生もその誤解の中に子供のころから染まった

のだから。 

僕の言うのは、わかるというのはモノ・コトの理解の一側面を

担ったもので、モノ・コトは僕らのモノ・コトになる。それは理解

されれば、その人のその現時点でのすべての正解になる。

だから、真実を語る、というのは厳密に、また実際に私の真実と

認めたものを語る、ことになる。真実そのものは、ない だろう。

どのことの、なにについて、どんな時の真実についてなのか、

そのほうが重要だ。より客観的に迫って、距離が縮むからだ。



どうだろう?こんな処で今まで言ってきたことのより理解への

手助けになっただろうか? では、よろしく。



nice!(16)  コメント(0) 

知性への警戒 1. [知の思考]

僕は批判をよくしない。大事な目的があれば、それが批判対象より、

また批判自体より重要だとわかっていたならば、批判はわき道に

それることであり、時に必要だが、わき道にばかり構っていては

目的を見失うからだ。

でも、一度は知性への批判の面を明確にしておくのは必要なので、

それがどういう考え方によるものか、少し試みておきたい。


「内臓が生みだす心」を、心は内臓にある意見派のひとりの本として

読んだが、・・・ ここで再び断っておくのは、基本”本(書物たるもの)”

はあなたの人生の案内役としては、ほぼ役に立たないこと。 また、

本が役に立つのはノウハウ本とか数学、外国語、法律、など社会のために

決められた規則があらかじめ考えられた法則に則って成立しているもので

あって、経験を踏まえなくても実効のあるものだけである。

哲学も心理学も、大体フィフティフィフティ(50対50)で益もあるが、

およそ多くの者に害を及ぼす。

ソクラテスはアテネの街で神からの宣託を受けて、人々がいかに無知で

あるか質問をして、その答えがいかに矛盾しているか説いて回ったが、

若者もこれを本質を理解せずに、弁論だけで大人をやり込めたので、

ソクラテスは青年に悪影響を与えた廉で告発され、死刑を言い渡された。

ソクラテスは知性の人と呼ばれているが、すでにこの時代からその行く末は

暗示されていたのだ。

本の著者は、東京大学大学院医学部を終了した、れっきとした医学博士だ。

それだけでなく、自分の名前の研究所の所長であるし、人工歯根、人工骨髄

の開発における第一人者でもある。

しかし、この人の考え方は情けないのである。「心のありかをさぐる」として

その研究の答えを示そうとしている。

まずはじめに、引用を:-

「心のありかをさぐる研究は意外なところから突破口が見つかりました。

原発性肺高血圧症に冒されていたクレア・シルビアが1988年にアレキシス・

カレルの内臓移植術を発展させた、当時米国でも最も先進的な心肺同時移植

手術を受け、この手記が「記憶する心臓」として1988年に出版されたのです。

 その中に心臓と肺臓を同時に移植されたクレア・シルビアの心が、ドナー

の若い男性の心に替わってしまったことが報告されています。」

この「記憶する心臓」という本をページを3割ほど適切に読み拾ってみた。

そうすると医学博士の「クレア・シルビアの心が、ドナーの若い男性の心に

替わってしまった」というのは間違いだとわかる、そんな結果だった。

だが、ここではいろいろと指摘しておかなければならないことがある。

医学博士の著者は続けて、「筆者のサメを使った系統発生の進化の研究

でも、顔の筋肉と舌筋と心肺は一体となった鰓器に由来する腸管内臓系で、

ここに心が宿ることを明らかにしたちょうどそのときに、このクレアの

手記の存在を知ったのです」と。

医学先生は「心が宿ることを明らかにした」と言っている。この断言は

おかしいので後で理由を説明する。

クレアは心肺同時移植を行って、数か月後生活も落ち着いてから、夢に

青年が現れ、彼の魂と合体する。この高揚した気分は、彼がドナーだ、

という根拠のない確信からだった。それから奇妙なことが起こり、自分の

興味のないものに興味を示したり、飲まないビールが飲みたくなったり、

知らない記憶が蘇ったり、とクレアはそれがドナーからもらった心臓の

せいだと考えるようになる。

まず、クレアという女性は夢に特殊な感覚を持っていて、予知夢を見たり

することもあり、内面への感性がある。手術の前は薬で治療していて、

現実と夢の区別ができないこともあった。その彼女が祈りや瞑想を用いた

健康増進の訓練を受けており、心が精神面に傾くのは自然だろう。

彼女は大変な苦労をして、ついにドナーの名前を聞き出し、その住所を

訪ねて、その家族に会い、家族もその青年の家族への知識の正確さに

驚き、彼女を受け入れる。彼女は正しかった。それで彼女は心臓はただの

ポンプじゃなく、心も移植するものだ、と確信する。

さて、僕もそれは正しいと思う。ただ、それは彼女の場合においてだ。

他にも例はあるのだが、多くはないようだ。小さな事例やあいまいな事例

のほうが多くて、まとめる人がいないのだろう、と。

クレアにはもとから夢への精神特性があり、記憶にコネクトするのに適性が

あった。それがクレアの場合にドナーの情報が驚くほど正確だった理由だろう。

それに彼女が瞑想や祈りの状態が取りやすかっただろうから、内臓の記憶に

たどり着きやすかったのだろう。

しかし、「心が、ドナーの若い男性の心に替わってしまった」わけではない。

クレアはクレアの心(自意識)から変わりつつある自分を、その一部を見て

いたのであり、彼と意見を同居したわけでもないし、彼の心と入れ替わって

しまったのでもない。クレアはクレアだ。だから、若い男性の心に替わって

しまった、という言い方は明らかに、誤りだ。

医学先生が280ページほどの本を、どの程度読んだのかわからないが、この

手記をもってして、心は内臓にあるというのは、早合点にすぎる。

このクレアのような例がクレアほど明確に、あと100件も出ればそれは

内臓に今までの常識ではないものがある、と言えるだろう。それでも

それが心だ、とは言えない。記憶だと言えるだけだ。

記憶は過去の知識だ。生きてはいないから、成長などしない。心は成長

するし、気持ちも考えも変わる。医学先生は心は記憶の貯蔵庫のように

固定して考えているらしい。記憶も確かに、僕らが無意識に少しずつ

変えてしまう側面はあるが、意識して変えているのではない。成長とは

別のものだ。

医学先生の批判を一冊の本でしたつもりはないので、次に彼が行ったと

いう重要な実験について。

「三億年前の脊椎動物に起こった上陸劇の再現実験では、サメを実際に

陸上(ママ)げし、陸棲の脊椎動物への体制の変化を検証しました。

すなわち、水中で鰓呼吸をし、血圧が極めて低いサメを陸上げすること

により、のたうちまわって血圧が上昇すると、鰓で空気呼吸ができるよう

になるのです」この驚くべき報告は、「このように脊椎動物の各進化の

ステージでは、突然変異が起こったのではなく、重力や流動電位などの

エネルギーや、化学物質によって細胞の遺伝子が発現し、たとえば、

軟骨が硬骨化し、骨髄造血巣などが獲得できたのです。これは、行動形式

が代々伝わることでからだの形の変化が生じる、という用不用の法則の

正しい解釈をも検証したことになります。」

という、とんでもなく重要な結論を述べているが、その実験について

のひとつの有効な結果からだけで、かなり雑な形而上学や進化学、精神に

ついての推論を引き出している。根拠はサメの実験だけというのはあまりに

貧弱ではないか。サメがあらゆる動物の進化の代表だとでも言うつもりなの

だろうか。この人の重力や用不用の法則への着目は面白いし、僕の考えも

含んでいるので、賛成したいが、なにせ根拠が少なく、論拠も納得いくもの

ではない。いくどころか、概念だけを弄ぶように、机上の空論を振りかざし

ているのに気づいていない。

「重力対応進化論」という進化論も出しているので読もうかと思ったら、

そのアマゾンの書評で、論拠も示さず一方的な結論で、もっとダーウィンの

進化論のように多くの例を挙げてください、もっと勉強して、というような

ことが書かれていて、あ、同じような酷評がされている、と思った。これで

は読む必要がないだろう。

この医学先生はサメの実験で幸運な発見に恵まれて、その部分についての

医学的技術的な開発ができ、スタッフにも恵まれて、堂々と好きなことを

書いているのだろう。その道の権威だというから、周囲では誰も表立った

批判などできないのだろう。

というわけで、国立大学は知性の殿堂だが、学歴があっても、どんなに多く

の本を出していても、アマチュアからも書いてることはおかしい、という

先生はいる。心についての真剣な経験が訪れるように願う?しかないのか。


「内臓に心はあるのか」については、今回は見送った。
nice!(15)  コメント(0) 

こころの知的解釈 :概知の~探る その10. [知の思考]

ここで僕の「心」についてのおおまかな(知的)見解を書いておこうと思う。

その統一見解は僕にとっては不可能に思えるので「知的見解」と断っておく。

一応説明すると、心について感覚で捉えると、僕には未知の部分が多くて

書けるまでに至らない。まず、これから見解を語るにしても、その知的見解

はあくまでも知的にわかりやすいので、伝えやすいことになる。それで

書き出すことにしたが、感覚的説明からすると、知的見解はかなりあやしい

ものになる。思考も感情も感覚も渾然一体になってしまう態のものだ。

そういう感覚的な断面から見たものを知的に整理して見解をつくることは

できると思う。まだそれらしいものを論文、記事、書籍、雑誌で見かけた

ことはないので、気がついても誰も、その難しさに手を着けないのだろう。

前置きはもういいだろう。

これは「過去を語る:自分を測る」の記事の一部を解題する形で書かれて

いるが、全般ではこころの説明になっている。


珍しく、自分の書いたものをブログ記事”全体”で解題する。

僕の頭では常識になっていても、もう3年も書いて来ての

ことだから、昔々の記事になってしまっていて、僕の見解も

微妙に異なっているのかもしれない、と思うと、これは

自分のためにも復習しておいたほうが「良かんべぇ」と

なった。

人間の細胞は約37兆個の細胞でできているのが、最近の

研究結果だそうだ。受精卵は1個の細胞なので、それが

46回分裂をそれぞれくり返すと、37兆になる。2の45乗に

プラスαというところ。その増殖過程でいろいろ何になるかの

機能が決まって行くらしいが、そこはまだ研究中なのだろう。

この37兆という数はぱっと見て、わかる気がするが、現実に

1秒で3個数えることができたとして、数えるとなんと40万年

かかるらしい。時間を戻す方向なら、今の文明文化もどこかへ

いなくなってしまう。

次に心のあり方(存在として)は即物的ではない、と誰もが感じ

ながら、それを特定でないことも経験で知っている。この経験は

前提としてある「知識」で、知が働くと同時に、意識と心が即、

立ち上がる。もの心がついてから、そのくり返しで僕らの心に

固定された。

その話をちょっと覚えておいてもらいながら、”準”本題に入ると、

心はどこにあるのか、ということ。僕はどこでもいいじゃん、と

思ってるけれどもそれでは納得しない人も多いので、考えとして

は説明になるものと。

それは心は脳から生れたという、主に脳科学、精神科学系の

学者と、心は臓器(消化器系の胃や腸、または心臓)から生れた

という内臓系の学者とがいる。さて、どちらからか、と僕らは考えて

しまうが、それは無用なのだ。結論として決定的でないものを、

それらだけが候補だとするのも、あやしいからだ。

と言うのは、まず心は脳にあるにしろ、臓器にあるにしろ、物質では

ないということだ。ここから離れなければ、どこにあるかとか、どこから

生れたのかという問題には慎重になったほうがいい。いずれナノ技術

の展開から、新発見があって肩すかしを食わされる恐れがあるから。

では、心は物(物質的計測の可能なもの)でないのならば、なんな

のか。これが正しい問いだ。

答えは、まだ誰も知らない、だろう。誰もがそれを経験して、使用して

いるとさえ思っているのに、なんだか知らないのだ。でも、恥でも

なんでもない。電気の性質や法則は知られているが、電気は「何か」と

答えられる科学者はひとりもいないから、それと同じだ。単純なことで

わかっていないことは、気がつくと多い。これが「わかっていない」とは、

教科書では書かない。

でも、基本的なことはわかっていないことが多い、ということはイメージだけ

でもこれは固定化して置いた方がいい、と思う。これから話を進めるのに、

その固定化は役に立つからだ。


僕は、こう考えた。例えば、木片を燃やすと、燃えて炎が上がる。

木片は物だが、炎は酸化による化学反応現象だ。それを物=脳

や臓器から生れる炎=現象と考えれば、わかりやすいのでは

ないか。木片(脳、臓器)から生れた現象が炎(心)であれば、それ

が存在している形象が違っても、かまわない、というものだ。

だから、燃え尽きれば炎も消えるように、人間が死んだら心は

消えてしまう。(実は、そうではないように見える話も多いが、

それは記憶という信号がものに転着する問題で、別なことになる

ので、今回は割愛)。


では心の内部のことに移る。

脳の内部が神経シナプスによってさまざまな反応があり、その

速度もケタ違いで、僕らの想像を越えているのは知られている。

心も同様だろうとは、想像がつく。説明のためにはそのイメージが

必要だ。昔から認められた領域が3つある。思考・感情・感覚が

それだ。それが表面に現れたものとしてイメージしやすいので、

ここでもそれを使おう。

ここで思考・感情・感覚がそれぞれある、というのは肝心なこと

ではない。複雑で問題なのは、それぞれの関係性で、2つ3つが

重なって同時にいるのは、心の内部ではいつものことだろう。

この時によく言われるのは、理屈っぽいとか、感情的だとか、

センスがいいとかの言葉にその人間の中心な心の傾向が

現れることだ。理屈っぽいのは思考中心型の人間と呼べばいい

のか。感情は伝わりやすく、わかりやすいので「感情的」と言う

だけでなんのことかわかってしまう。感覚も同様に考えればいい

だろう。思考中心とか、感情中心とか言っても、それで他の

要素がなくなってしまうわけではなく、その中心を補佐したり、

修正したりで、同時にあって、補佐している。と言って、物では

ないので色の青と赤が混ざって、加減で紫や赤紫、青紫に

混ざり、変化する。その時に、その中心は動かない。

思考型は変わらずに思考(概念とその操作)から考えるし、感情型

は感情的に気持ちの動きのままに考える。

今の韓国民は感情型なので、法(思考)の正しさを重んじ得ない。

気持ちを大事にして、大切なので、法的正しさよりも気持ちが

こうである、というほうを正しいとする。お祭り好きでもある。

思考はもともと、知性のものである。知識・認識・意識は思考の

分野と考えるのが妥当だろう。僕らの自分は意識によって成り

立っている。夜に眠ると、意識は低下して働きが落ちる。

夢を見ても名前や行為が安定せず、支離滅裂になりやすいのは、

そのせいだろう。意識が自分自身に向かう時、それを特に「自意識」

という場合があるが、僕らが目覚めている時はほとんどこの自意識

が働くので、僕らが考える行為をしているのは、自意識が働いて

いるからだろう。

この自意識がさまざまな概念という概知としたものを駆使して、組み

立てたり、組み合わせたりして問題を見極めしようとする行為を「認識」

と呼んでいる、と考えられる。

そして、その結果として明文化されたり、常識として認識されたり、

されるものを「知識」と呼ぶのだろう。

思考は気持ちのように、心に根を持とうとはしない。それで他の

感情や感覚とは自由に結びつくことができて、化学反応のように、思考

による思考の直観とは別な「直感」となるようだ。

思考による直観とは、プロが盤上の将棋を見てひと目で十数手先の詰み

の手が見えるのと同じ。年季のもの。途中の手をいちいち読まずに、

それがわかる。

気持ちの直感はその雰囲気だけで、気持ちの嘘・ほんとを見分けて

しまう。感情型に特有というわけではないが、多い傾向。

感覚型は説明が難しい。最も伝わりにくく、他人の感覚は学習できない

し、まさに感覚的であるので、繊細だからだ。それでなのか、直感は

一番鋭い。そういう人が多い。なんでも色と形に還元できる、という人も

いる。

そして、そういう人で繊細な認識ができにくいと、すぐに本質に辿りつき

やすいがために、思考や感情をおろそかにすると、ふつうにわかりやすい

論理的な説明や、または感情的な表現ができないことにもなる。


次に心にとって最も重要な「自分」について。

(心はたぶん、無目的につくられたものではない。それは別方向なので、

同じく割愛)。

自分は知性とともに現れた。と、僕は考えるが、まだこの半世紀を振り

返ってもそれに合わない事象なり、現象なりには出会っていない。

と言っても他人の心を覗けるわけがないので、これは想像の域を

出ない。僕の内部の自分を無(意識?)から観察すると、そうなる。

ここでは僕がそう想像する理由だけ説明する。動物には人間の知性

というものは備わっていない。イメージは言葉から映像や気分など

を想像できるが、動物はまったく別な感覚でそれに代わる生存への

必要を満たしているようで、人間知性のように概念をつくり、それを

操作して別な構成にしたり、工夫したりはできない。概念ではないもの

で、それをするかもしれないが ・・。

イメージは知の認識によって生まれる。認識の親は意識で、この意識

は自意識なので、自分がないとイメージも生れない。心には思考の他

にさまざまな情意・感覚帯が渦巻いているが、認識の「区切る」という

機能によってあらゆる感情・感覚のほとんどは直接対象に関しないもの

については捨てられ、必要なものだけが分けられ、言葉(名前)をつけ

られ、それが何というもので、役に立つか立たないかなどの情報を分析

して利用される。

この訓練のために学校の知的教育が必要になる。(感情も感覚も内部の

区切りができないので、変化も多用で、整合性(=思考性)という安定を

得られないので無視されている。そのために社会の方向は思考向きに

一方通行になっている。ほぼ必然だろう)。

それは高度文明社会ほど、その素早い認識作用が必要になるから。

電車の時刻表を見つめて、ホームで10分も突っ立っていたり考えている

のは、通常は許されない。一人二人なら邪魔にならないが ・・。

この認識作用は現実から、現象を切り離してそれを抽象化(概念・観念)

する。それで知性はもともと現実離れしていて、非現実の領域に類する

ものだ。例えば、考えだけの無益さを、「机上の空論」とか批判する言葉が

ある。


さて、ここらで俯瞰しないと(まとめる)、混乱して来ただろう。(僕もだが)

主要なテーマは人それぞれが中心を、思考や感情や感覚などに持ち、

しかもそれらがコラボしたりするので、ほぼ無限の性格や性質の人間が

いる、生まれ続けるということ。で、思春期の自己の完成に向けて親から

生れ(民族とか貴族性やら庶民性)やお国柄や言語、習性・習慣を学び

社会的に自分(というもの)を形作る。自分は知性でもあるので、現実では

ないのでA国で生れたA国人でも赤ん坊なら、B国人にB国で育てられたら、

B国語を話し、ほぼ半分B国人になってしまうように、自分ははじめから

何かに固定されていない。その環境の色に染まるのである。

つまり、自分はそれを形にする枠という鎧を持ち、その中に社会的自己

をつくったり、入れ替えたりする。その鎧が自分を守る役目をする。そういう

自分を僕らは「自分」と考えるのである。

実はその意味では遺伝子からの引き継ぎや成長過程で得られた経験・記憶

から自分という記憶が形作られている、と考えているが、記憶だけではない。

記憶は体の細胞にも蓄えられるので、自分がそうだ(=自分だ)と思われる

ものをそう決めつけているだけで、「自分は心のように境界や区切りが

つかないものだ」というのが、正確なところだろう。自分が自分だと思っている

記憶や知識があるが、それはいい加減なところでは正しいが、厳密に

規定しようとすると、あいまいで煙のように頼りないものだ。

思春期を過ぎてからも僕らは成長する。

子どもの頃から僕は同じ名前の人間であるけれども、子どもの自分を

今の自分とは考えていないし、違うものと思っている。だから、僕らは

同じ自分でいることは不可能で、常に変わりつつある生き物だ。体も

変化し、心も変化する。同じ環境で過ごすならば、親からの遺伝子に

よる体・顔の変化や心の中心型の変化はあまりしないので、これが

その人の性格や性質と他人は位置づける。根なしの知性が大きく

変りやすい。あの人は変った、と言う時はその人が考え方を変えた

ために、行動も変化をこうむり、性格が変わる。

僕らの過ごす日常は、実は少しずつ僕らが変化している日常でも

あるはずだ。でなければ、僕らは子どものままに違いない。

この成長部分を僕らの自意識はオンタイムで確認できない。それ

は「今」に関わっていて、僕らは行動している時は、意識は知性から

は切り離されている。それで「今」を知性で俎上に載せたり、料理して

咀嚼したりはできないのだ。これは心の未知の部分として、常に

現在として存在する部分だ。

やっと本題に近づいた。僕らが他人に発見する新しい性格という

のはそういう部分かもしれない。くり返すが、自分では自身にそれを

発見することができない。それで僕らは100%自分を発見することは

はじめから不可能であることが分かる。まだ生成中のものが自分の

中に未知のものとしてあるからだ。

では僕らが自分を理解するという時にどれだけの自分が理解できると、

言うのだろうか。僕らの中心が思考や感情、感覚に依っているだけでも

3パターンある。この時、他のパターンはその中心に寄ってくるものとの

区別はつけていないだろうから、ふつうでも理解しやすいのは元から

未知の部分を除いて、30%くらいだろう。それでも感情の関連性から

は理解できないが、感情を感じるのはたやすい。そういう感性による

理解を含めれば40-50%くらいだろうか。年とともに体験が数・量とも

に増すので、言葉に現わせないが違いがわかる理解も増す。年代に

応じてこの数字も変化する。それでもざっくりと自己知というものを

自分(主観)で考えるものを100%とすると、客観では60-70%

くらいに落ちると考えるのが(平均としては)妥当だろう。 

だから、自分で自分のことが完全にわかっていると思うことも、自分は

自分のことがまるでわからないと思うことも、どちらも愚かなことだが、

人はどちらもそう極端には思っていない。そこでいい加減なところで

相手を信じたり、疑っていたりする。こういうことは通常では避けられ

ないことなのだ。僕らは変化する自分、社会、自然環境というものの

中でどうしようもなく、苦しみ・不運・不幸・災害という一端(誤解ない

ように、一端である)に出会うようになっている。

善意の(あるいはお人好しの)子どもは悪意を知らない。その時に

出会った悪意を理解しない。理解するのはまだ先のことなのだ。

その時、子どもの心に悪意は存在していない。そのままでは困ること

になる。悪意に気がつかないと、善意への甘えが利用され、悲劇を

生んでしまうからだ。この成長過程がそれぞれの両親や家族環境で

とても異なっている。そこにはもともと自分が備えていない矛盾や逆説

な思考や、さかしまで耐えがたい感情や、魔法のような理解しがたい

感覚というものがあって、そこには僕らの心の底に眠っているものも

あるだろうし、もともと人によって備わっていないものもある。

それは微妙なものにとどまるのが多いとはいえ、ないわけではない。

そこまでお互いの心をすり合わせた時に、お互いの理解が生れるの

は、かなりの時間と意見と、認めるべきは認める精神があったから

になる。それを求めるのは理想的なことで、あまり現実的ではない。

僕らは社会がどんなにルールで区切って物事を秩序化しようとして

も、感情も感覚も割り切れる性質のものではない。

だから、社会的に絆という象徴を創り上げる。僕らは仲間で、とか

兄弟だとかで気持ちで結びつく方が、現実的で集団や組織を

作りやすい。絆はその気持ちの上だけで存在する。夢を掲げる

わけで、理想を掲げるのは必要なことで、現実のルールだけでは

きつくて、長持ちしない。夢なら、ゆるくていい加減だから、ルール

ばかり、時間の拘束、人工的、結果ばかりというきつい社会には

合うのだ。潤滑油ではない、無意識に対抗しているものだ。

以上、いろいろ言ってきたこれらが以下の詩の作文の背景に

なるもので、理解すればそのまま解題になる。



(「過去を語る:自分を測る」から)

「 僕が  僕の バックドアを つくっても

それが どこへ通じているのだろう

通じているから  どうなのだろう

答えは  なにかの  変形ではないだろうか

解決は  なにかへの  変化形ではないか

それが うまく当て嵌まるには  それなりの

工夫や タイミングが  あるだろうが

それは  それで 済んだとか

終わりになるものでは ないのではないか

だから  どう生きるかが  大切になる   」  


自分への答えも、社会への疑問も、自然への対応も

すべて変化する物事への変形を、または変化形を促す

もので、僕らはそれをどうするかが問われる。

あなたならその答えをどうするか、というのがほんとうの

問いだ。あなたはどうしたいのか、それをよく知っているのか、

あなたも含めて、短い時間に、長い時間にそれぞれはすべて

発展、衰退、逆転、惰性に、変遷する。あなたは休憩を挟んで

常に問われ続ける。それはそれに適応するためにそれに立ち

向かう限り、それは新しい発見をもたらす。それがない結果は

まだ結果が出ていないことだ。

ある臨界点を越えると、物事の質が変化してしまう。それが

世界、あなたの世界が変わることだ。これは劇的なので

はっきりとわかる。どこがどうというのは、僕も「不完全」という

性質のまともな人間なので、僕に関してだけわかる。僕の場合

は劇的だった、と。

人間性・人間らしさという言葉は、善意( goodness ) からつくられ

ている。嫉妬や残虐を人間性とは呼ばない。ただ野生動物から

区分して人間性と呼んだわけではないだろう。


長くなった、 読んだ方はご苦労さま。







                         4.27 ~ 5.2(6-7h/3days)
 
nice!(28)  コメント(0) 
知の思考 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。