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日曜画家と絵の本質 [絵画]

習慣で書くのではないかと、表現が

ありそうな気がして、坐ってみた。

書くというのは、少しおかしなこと

だという、初めての意見を持った。

なにか構えている。気持ちのこと

ではなくて、考えていなければ、

または考えたことがなければ、

書くことができない。

その書く姿勢になると、なにかを

心でジャンプした気がする。

素朴に坐っていても書けないから、

その概念の海へ飛び込むような

具合で、心なしか跳ぶのだ。

頭脳にそういう垣根があって、それ

を跳び越えて書こうという姿勢に、

その態勢になれるのだろうか。

そんな意見を持った。

それをよくスィッチが入ったとか、

比喩で使うのだろうか。その小さな

感覚は無意識に気づいているから、

誰かが言って、皆納得して、心の

スィッチという発想になったのかも

しれない。

このスィッチは何か、となると、心に

潜らないといけなくなる。科学的な

装置が発明されて潜るなら、それは

なにか勘違いな別なことを成し遂げ

ているのかもしれない。

それは前々から気になり、考えた

ことがあって、本のサビ紹介で最後に

書こうと思っていたことだ。

それはレヴィ=ストロースの「悲しき

熱帯」の一解答を出すことでもある。

それは単純にして、考えさせられる不可

思議である。

例えば、苦労しないで得た金銭は、簡単に

浪費されるが、汗して得た金銭は大事に

する。それは自分の意志を超える時がある。

パチンコなどで玉が出た時は、お金に

換金すると、いつの間にか消費して、なく

なっているが、それに懲りると、現金では

なく、商品に替える。すると、形になっ

て残るので、少し、儲かった気になれる。

その応用というのではないのだが、苦労

しないで快楽を手に入れても、それはそれ

だけの話で、ドラッグなどで快楽を手に

入れても、なにも精神的に変わるもの

ではない。しかし、滝に打たれたり、修行

など、また死ぬ気で勉強したりなどすると、

ちょうどちょっときつい山を登り切って

征服したような気になるのと似て、

自分にそれなりの自信が持てる。

そこらあたりは、ぼくはまだ中途半端

ではないかと思う次第だが、小さな

スィッチは入ったのではないかと思う。

その気持ちがその行為や練習・苦行

を終えてからも続かないのは、死との

接点を持って真剣にならざるを得ない、

という経験までは達しなかったから

だろう。

ドラッグなどやらなくても、修行者は

自分で脳内麻薬を浸透させる。それは

ドラッグのように無制限に、つまり

あるったけの中枢神経化学物質を

脳にぶちまけるのではないので、人間

に適した限界内の量に収まる。

ランナーズ・ハイもそうして起こるが、

それは遠泳をしても、他のスポーツ

でも起こるはずだ。それがただ坐った

ままでも瞑想には起こる。だから、それ

は自然な営みで、特別な精神作用とか、

究極を目指した悟りとかではない。

(悟りを究極のものという捉え方は

誤解で、歴史的な過程で積み重ね

られた祭り上げである)

小さな悟り現象は日常でいくらでも

見られるもので、それがふつうに

気づきを超えるようなものなのかは、

誰も答えられないだろう。

僕は美術館で絵画を一枚ずつ数分

見続けるというつらい作業をしていて、

1日で2時間を費やした。その三日目

で、急に絵画の色や、色調、形や影、

陰の使い方、タッチ、その表現の仕方

などが一度に見えるという驚きの体験

をした。

3日目ともなると、もう精神的にフラフラ

なのだ。見ているんだか、見ていないん

だか、惰性だった。ただ見ている真似を

しているのでもあった。そこまでが必要

だった。

あとでわかったが、まだ見ている絵を

考えられたり、ここはこうなっている

とか、判断しているようではダメなのだ。

疲れ切って、それでも見る。そうすると、

何が起きるか。子供の眼になるのだ。

子供は汚いものでも、汚いのを知らな

ければ、平気で触ってしまう。判断が

ないから、ただ見ている。

僕らは大人の判断を控えているが、

この子供の眼になることができる。

そのためにほんとうに考えるのもまま

ならないほど、見て見て見て、まだ見て

見ることに倦んで、疲れ切ってしまわ

ないといけない。僕らは、つまり、絵を

見るのではなくて、判断しようとして

いるからだ。

絵を見るのに、第一に必要なのはそこ

にどんな絵があるか、見ることだが、

それができないのだ。見て、判断して、

答えを出すことに子供の頃からの学校

での教えで習慣になって、慣れ切って

しまっているので、絵を見る、という

最初の大事が欠けてしまう。しかも、

絵を判断しようとするか、好きか嫌いか

だけだから、見ることを忘れていると

いう感覚にも気づけない。失っている

のだ。

これは少しズレているが、3D絵画の絵

がある。そのまま見ても、いろいろな色

がダブって印刷されているようにしか

見えないが、焦点距離を変えて、それ

を眺めると、そのズレた焦点に合うと、

絵が立体で見えるものだ。ちょっとした

視点の加減で見えたり、見なくなったり

する。これに似ているが、もっと集中

して見る必要がある。

これは答えが簡単に導けるし、誰でも

できるが、今までの眼の体的習慣を

否定するものだから、一朝一夜では

できない。しかし、やってみるかみない

かのことだけである。

僕は自分の周囲の人にもっと身近な

もので試すように促したりしたが、

我慢できた人はいないようだ。誰

も報告してきた人はいないので、

僕の三日は通常より早かったの

かもしれない。が、比べられる人が

出て来なかったので、わからない。


これで絵が描いた者の主張や思想、

感情などになって、絵の方から僕に

それをぶつけてくる。そういう不思議

な体験をしてからは、判断もできる

ようになった。

ある時、アメリカのアンディ・ウォホール

というマルチタレントの描いた絵の展覧

があって、見に行った。その他のアメリカ

の画家の作品も込みだったが、ウォホール

の作品は手強かった。缶詰の写真の

ような葉書大だろうか、それが縦横に

50枚?もきちんと並べられた、それ

だけだった。丁寧に描かれていたが、

缶詰で全部同じ。変哲がない、缶詰が

きれいに整頓して並んでいるだけだった。

一旦見て、通り過ぎて思った。わから

ないぞ、いや、そんなことがあるものか、

と思った。絵は見えるはずだったから。

少し、焦って、もう一度見直すために

戻って、同じ絵を見続けた。何も来ない。

そして、途方に暮れた。なんもない。

そうして思考を停止した時に、閃いた。

なんでもないんだ、それを主張した

かったのだ。

答えは出れば、あとは楽だった。

ウォホールはある種のリアリズムを

主張したのだ。わかりやすくは、絵画

から芸術性を取り除いたのだ。芸術

なんてどうでもいい、ただ描いてある

だけという作品を描いて見せたのだ。

アメリカらしい、と思った。アメリカ

は芸術よりも、絵画への将来への投資

の方が盛んなのだ。そういう風潮が

いつ生まれたか調べていないが、

ウォホールはそれを皮肉にも芸術的?

に見世物にしてみせたのだろう。

芸術の否定の芸術もあり、だと。



絵画はよく描かれた作品ほど、練れて

自然なフォルムになり、そこに自然な

絵の具の流れになるのを見る。

カタツムリは殻の丸さに従って、絵の具

が丸く流れ、小さく描かれた坐った人物

も体の線に沿って、絵の具が流れる。

なるほど、画家の苦労や工夫とそれが

自然と重なり合うのが、驚く。



これは僕らの主要な特徴のひとつ、見る

ということをテーマにしている。五感すべて

がそういう驚きで語れるのが、ほんとうに

驚きなのだが、皆、それを忘れてしまって

いるので、今では美術論を語るくらいに

特別なことになってしまっている。

そう言えば、僕は絵を理解しようとして

見ることを始めたけれども、同時に

油絵を実際に描き始めて、どう描けば

いいかという、まっさらなキャンバスを前

にする最初の小さな恐怖も味わっている。

やってみないと、何事も絵空事だ。

ここに、この色を塗る、というそれが冒険

だったとは、描いてみなければわから

なかったろう。

発見するのは、自分に絵が描けるとは

思わなかったことだ。描いていると、

うまくいかないので、必ず、途中で破いて

しまいたくなる。そこを我慢して、後で

それは決めればいいから、ともかく

描き切ることだけ考える。

1,2日すると、描いた絵が落ち着きを

見せ始め、今度は絵の方が自分を

主張し始める。その時、絵は画家の

手を離れる。まるで子供のように。

それも小さな、深い嬉しさなのだ。

そこで絵を破いてしまう人もいる。

が、日曜画家なら、破かない。

出来の悪い子ほど、親は可愛いと

いうではないか。(笑)

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美羽展で写真撮影してくる [絵画]

昨日は暑かったが、そのさ中、海老名に

行ってきた。銀行と海老名図書館に用事

があったが、銀行はパソコンでも用は

すんだが、ついでだ。

メッシュのニット帽を濡らして、小冷凍

パックを入れ、落ちないようにつば広帽を

かぶって、キャンプにでも行くような恰好

だった。

まずラーメンが食べたい。こんな時期、

食べたいものでも食べなければ、食欲を

阻害してしまう。チャーシューが10枚以上

入っていて、食べても食べてもチャーシュー

が出てくる気がした。

昨日の話じゃない。今日も暑い、とかの

話でもない。

川崎の岡本太郎美術館へ行ってきた。

今日の午後の予約だった。すぐ着く手前で

道を間違えて左折しなかったらしい。細い

道だったので、無視したのだろう。それから

ナビがおかしくなって、その半径100m

ほどを2回も回って、やっとその細い道に

入った。また、これか、と言った。時間が

余らないようにだか何だか、手前で道に

迷うのだ。で、そこをクリアすると、ほぼ

時間にオン・タイムするのだ。だから、

焦ることはない。時間に合わせている

ので、間違えるのだ、と言って構わない。

2度や3度のことではなく、ほぼ慣例に

近い。何も考える必要はない。これで

遅れたことがないからだ。

場所は生田緑地の中にあった。丘陵に

なっていて、西口駐車場からは下るよう

になっていた。

川崎の岡本太郎1.JPG
川崎の岡本太郎2.JPG

岡本太郎らしいオブジェが出てきた。

目当ての小松美羽展は、岡本太郎の常設展

と併設している。

川崎の岡本太郎4.JPG  

岡本太郎の両親。

父は岡本一平。一世を風靡した

漫画家。母は岡本かの子。こちら

も一平と一緒になる前は、もう一人の

男と一平と三角関係で、同じ家で

三人暮らしていた。それについては

書いていたら、キリがない。

ふたりとも、稼いだから、太郎が生ま

れてから、子供を連れてフランスへ

旅立つ。ともかく優雅だ。2年してからか?

帰国するが、太郎はなんと、フランスに

置き去りにされた。処はパリである。

しかも、ピカソなどの今では錚々たる

近代画家の代表たちが集まるカフェに

太郎も出入りしていた。太郎はピカソを

尊敬し、ピカソも太郎を可愛がったらしい。

これも書けば、尽きない。

川崎の岡本太郎5.JPG

太郎のカウボーイハット姿は、人形で

初めて見るが、こんな姿を彼は自分で

気に入っていたのだろうか?

川崎の岡本太郎3.JPG

このオブジェは僕も気に入っている、

少ない一つだ。僕はあまり太郎の作品

は好きではない。が、かれが目覚めたのが、

縄文と関わっているので、無視はできない。

それも今日はやめておく。

< 小松美羽 >

下向き加減の本人写真が大きな

パネルである。たぶん、相当な美人だろう。

これからは展覧の写真集を購入しなかった

ので、展示されている順番が、およその

制作年代だろうということを信じて、感想

すると、:  

小松美羽4.JPG

初めは、眼である。彼女は眼を感じている。

かすかか?恐怖も感じている。

小松美羽5.JPG

なにか眼を通して感じるものに出会った。

そこに注目していた。が、いつからか、それが変わる。

小松美羽6.JPG

神話とか、神獣とか、特に狛犬・獅子を意識

したオブジェが増えてくる。アフリカのウガンダ

に行った頃からだろうか?

小松美羽3.JPG

これは初期の妖怪じみたものだ。水木

しげるの漫画を髣髴とさせる。そう言えば、

鬼太郎の親父は目玉おやじで、子の鬼太郎

の右目だったろうか。子から生まれた親父、

というのが妖怪らしい。美羽は戦争経験は

していないから、水木のように腕を切り落され

たりしたことはない。思想の芸術の方へ進む。

小松美羽9.JPG

可愛らしい。

小松美羽11.JPG

これも前へ3枚目と並んで秀逸。

小松美羽12.JPG

小松美羽13.JPG

曼荼羅になる前の図案が出てきている。

コロナウィルスではないようだ。 (‐o  ニッ

小松美羽1.JPG

どこかで見たようだが、よく描けている。

小松美羽2.JPG

それを拡大したもの。素晴らしい。


今日の今日で、まだ絵を見ている

時間はない。絵が見れて、彼女に

ついてもう少し、考えが分かるもの

でも読めたら、自然に、彼女について

書くことになるだろう。

今の処、彼女から天啓を受けるなど

の、強い刺激は感じられない。作品

の感想のみだ。

あっという間に見て、20分もいた

だろうか、10分だったろうか。ともかく

ささっと出口に来てしまった。

写真を撮って、後で見ればいいくらい

で満足した。

館を出て、階段を下ると、脇に水を

落とす水路があって、その水音が

いかにも気持ちいい。上高地を

思い出しさえした。暑いせいだろう。

古民家で伝統工芸をしているという。

小松美羽14.JPG

この急な階段は、見た目は素敵だが、

この3倍は上に伸びている。ま、山

歩きの訓練だと思って登る。

小松美羽15.JPG

伝統工芸は染物だった。陶器も漆もない。

そうそうに出てきた。目に留まったのが、

上の展示。

「試行錯誤のもよう」と題されている。確かに

きれいなシンメトリーにはなっていないが、

試行錯誤、とか伝統工芸に名前つけるか?

迷ったんだろうな。ま、思い切りはいい。


小松美羽展は座間図書館に貼ってあった

ポスターで知った。曼荼羅図に心止まる。

それを忘れていた。

小松美羽7.JPG

これではない。

小松美羽7-.JPG

上の図の中の九つの図。

小松美羽10.JPG

これでもない。

小松美羽8.JPG

これの真ん中の円形の曼荼羅図が

ポスターだった。

真言宗総本山「東寺」(京都)に奉納

されるそうだ。制作もこの寺の境内に

籠ってしたとのこと。 8月23日まで。

(条件付き、写真撮影は許可)
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山とペイント [絵画]

ペイント山と.png 

山と犬を目指したが、ピンと来ない。適当に題名をつけた。
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