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教えないで教える方法 [伝達]

この間、英語だがカタカナ日本語にも

なっている単語の意味を調べたら、

これは自分がこれまで採って来た方法

だと思った。これが僕の方法だと

しても、方法でそれがよくわかると

いう訳ではないが、それなりに(ブログ

の)理解に役立つだろう、と考えた。

それはコーチングだ。コーチというと

野球のコーチを真っ先に思い起こすが、

コーチの仕事とは異なるようだ。

もの や こと を教えるには、職業とし

ては二つあるようだ。

ひとつは学校や大学の先生・教授その他

講師諸々で彼らは主にティーチングする。

これは既成の知識を受講者に与えると

いう、上から下への教育にあたる。その

質問も講義内容についてのもので、

あまり受講者が独自の見解を教授に

尋ねるということはない。

そのことでは一方通行的だろう。

もうひとつのティーチングはコンサル

ティングで、これは企業内部の問題を

聞いて、その対処法をアドバイスする。

対処・解決のための提案が主な仕事で

これも上から下への指示になる。

一般のコーチというのは、このコンサル

ティングに当て嵌まるのではないか。

では、コーチングは何かというと、

相手に考えさせて、相手自身が答えを

導き出すように指導することで、その

時のコーチは提案もアドバイスも知識も

通常は与えない。ヒントを出しながら、

相手が考えるのにまかせる。

この手法の一部はセラピーなどで使われ

るかもしれない。

しかし、これは日本の職人などの伝統的

な指導法ではないかと思う。親方は弟子

になにも教えない。ただ見ろ、と言うだけ

で弟子自身がそのコツのようなものを

掴むのに任せる。

昔の刀匠(刀鍛冶)になると、厳しい

もので焼けた刀身を水に入れて急冷

させるが、その温度を知りたくて、

弟子が親方の眼を盗んで水に手を入れ

たら、その手首をすかさず切られて

しまったという話もあるくらいだ。

たぶん、刀身を入れた時の蒸気の激しさ

で覚えねばならないのだろうか。

ひよこの話はよくしたが、くり返すと、

ひよこのオスメスは見た目ではわから

ない。オスメスをわける職人は日本

にもいて、信頼が高いらしい。

その親方も弟子にはなにも教えない。

弟子はわからないままオスメスの籠

にひよこを振り分けてゆくのだが、

親方がそれをまた正しく振り分ける。

それだけだ。それでわかるはずが

ないのだが、1年もするとそのコツを

つかめるらしい。オスメスのなにを

違いとして感覚するのか、親方も

知らないのだろう。しかし、なんと

なくわかるものがあって、その微妙さ

を捉えると、あとは楽だ。

そう言えば、少し昔の話だが、天体

望遠鏡の何枚ものレンズは真円でない

と、コンマ何ミリ(100分の1ミリ

くらいだろうか?)違うだけで、たぶん、

光年単位で距離の誤差が出てしまうの

だろう。当時では日本の職人がその

レンズ磨きができたらしい。機械では

レンズを真円に磨けないので、日本の

職人が手で触りながら、その感触で

真円に導いたらしい。

手の平でコンマ1ミリがわかるのか?

と思うが、事実はできている。

これが不思議な人間の職人の能力で

その感覚を研ぎ澄ますことができる

らしい。

それは見えず、聴こえず、測ることが

できないものだろう。そういう感覚で

そういうものに接触するのだろう。

もう漫画やSFの世界だが、宇宙だって

いまだにダークマターとか惑星なんとか

という意味不明の物質の存在を天文の

世界では探し求め、解明しようとして

これまでの天文物理学が否定されて

しまったので、まだ混乱に陥っている。


ソクラテスは一晩中、神の声を聴いて

徹夜したというから、電波星である木星

から発する電波を聞いていた可能性が

ある。それにしても現在、木星の電波を

生身で受信する人などいないだろう。

あまりに5Gや4Gなどの周囲を飛び交う

何百何千種類の電波で聞き分けられない

に違いない。

僕らはそうやって失ったものがあるのは

確かなことだろう。例え、エベレストに

登ったにしても、ギリシヤ時代の静けさ

は取り戻せないのだ。



もうコーチングでなければ、僕らが今、

失いつつあるものを取り戻す方向に導く

のは無理だろう。僕がブログに書く、

特別なことはそういうことであるという

気がする。読んで意味不明でも、事実に

拠っているから、あるきっかけをヒント

にして歩き出してみるのがいいだろう。

人それぞれの歩みがあるので、それが

僕という実際例と重なることは、あまり

ないかもしれない。     12.3 

例えば、科学者だったら、科学の全般を

理解して、その本質がわかっているのなら、

1万冊の科学書は必要ないだろう。その

9550冊を除いた、50冊、あるいは100冊

に近いくらいでその全体は理解できる。

ところが、資本主義の世の中は金の流れ

はどこが金になるか、何が金になるかに

資本家が集中してその方面の人に、また

学問も研究成果に集中してその新発見に

流れ、新しい学問分野を増やしている。

これは全体を、という方向ではなく、

内部に向いていて、専門分野を増やし、

そのための専門職業を生んでいる。

大腸の専門医は泌尿器のことがわから

ない。多くの似たような症状から、

病名がいくらでも考えられるのと共通

している。

本来なら、科学者が科学のわかった

ことは、ここまででこれからは全く

わからない領域で、それはわかった

領域の何兆倍もある、いやそれ以上

かもしれないと言わねばならないが、

学界からはつまはじきされるだろうし、

それは個人的にも負けたことになる

ので、誰も言えない。成果ばかりを

強調する危うくなった政権の政治家が

言うようなことばかりだ。

これが僕らが示すプライドで、それ

を支える「負けた実績の報告」が

ほぼない状態だ。プライドはけっこう

だが、それで世間も自分をも錯覚に

陥らせるのは、碌なことではない。

なぜなら、全体が掴めているから、

鳥瞰することが新しいヴィジョンに

繋げることができている。

一方通行の先走りがどこかで破綻する

のはまだ常識の範疇だと思うのだが。



例えば社会学者が社会の全体を理解

し得たら、わかっていることから、今

わからないことの断面が見えてきて、

根本的な解決のためにまず何が必要か、

ということにたどり着き、その順序を

想像して、新しい社会改革の提案が

次々に出てきて、頭がアイディアで

いっぱいになるはずなのだ。

しかし、どの社会学者もひとつや二つの

小さな発見から、自分の理論を組み立てて

それを総合分野にまとめようとするのに

邁進してしまう。それはそれでまとまりと

してできてほしいが、そればかりが流行

してそれが王道だみたいな習慣になって

しまうと、それはどんどん過去になって

いくわけだから、本になる頃はもう遅れて

しまっている。

同じ知的思考でも、知だけに拠らない

他の質世界からを見据えながら、まず

事実からそれが知的思考に向かなくても、

別な区別をする方向で、全体の方向へ

進む途があるはずなのだ。それは当然

のように、一面的ではない矛盾を孕む

だろう。

論理矛盾だけではない、そういう色合い

を物と事とに持ち込むべきだと、僕は

考えるがそれを意味する事実には、

出会ってはいても確定や同定はできて

いない。まだできないのか、もともと

できないものなのかも、わかってはい

ない。

科学というその中味が知識だけがわかっ

ても、その科学がそもそもどういうもの

かがわからなければ、真夏のビーチに

突然現れた氷のかけらをダイヤモンドと

間違えるだろう。

そういうように科学という学問を理解

すれば、水は氷になるし、水蒸気にも

なり、雲にもなり、霜にもなるとわかる

ようなもので、それが変化しても驚か

ない。

そして、水以外のものはた易く見つけ

られる。そしてまた、わかっていない

ものの膨大さにも想像がつく。科学

という学問社会の内部の細々とした

分類・新発見・整理だけに追われる

こともないはずだ。

さて、僕はなにをコーチングしている

のだろう?


今夕は寝室でいつもの反対側に座椅子

を持ってきたが、レースのカーテン越し

窓に空と雲が映っていた。なにか惹か

れて、カーテンを開けて、ガラス越し

に雲を眺めた。ああ、これが事実じゃ

どうしようもない!と独り言ちた。

見た目には静止画像だったが、ゆっくり

と動いているのが感じられた。

どれくらい?

測ってみると、3分から5分以内には元の

雲の形は崩れ、変わってゆくのだった。

少しずつだが、全体のそれぞれの各部分

が変化している。それが見えないほどに

見れば見えるのだ。

雲だというのはわかっても、今の姿を

残すのはシャッターを切ることだろう。

そして、その3分前は、3分後にはそれ

は明らかに変化してしまった後の姿なの

だ。あの詩人が言ったのは、雲は生きて

いる、という意味のことだろう。

子供時代の僕が今になってしまったのと、

何も変わりがないではないか、と。僕ら

は過去の写真を映像を持ち出して来て、

変わったねとか、幼かったとか言うが、

今、それが終わったのではない、ただ

続いているのを確かめないだけだ。

見ればいいだけだが、 ・・


どうやって? (え?)


なにを?   (ええ?)


< さあ?




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Breathで それを [伝達]

この想いの 先に  君はいない  


それが わかっているのに  


君に  逢いたいという この気持ち  


いくつも こういうシーンが あって  


いくつも いくつも  


乗り越えてきたと  思っていた 


けれど  


君を 求める  これが 


これが?  そう これが 


終わらない と言っている  


地球ほどにも 大きい水玉が  


落ちてきて  潰れ  世界に  洪水を


もたらす  


走る水面が  震える  


君が いたこと  


君が  話したこと 


君が  笑ったこと  


それが 大事なことだと 


感じていた  


それが すべてだとまで は 


知らなかった  


・・ 知らなかった  という  


それが  悲しみになると  


知らなかった  


僕が  愛したいという  その求めたものが 


それは 君の範囲を  はるかに 


超えていた  それが 


わからなかった  


泣き叫ぶほどにも  強いものだとは 


気づかなかった  


愛したかった・・ 


僕の生きることも  死ぬことさえも  


包み込まれることを  期待していた  


気づかなかった 


死のうとして 生きていた  まだ 未熟な 


自分の状態に  気づかなかった 



君とのことが  もう 修復できないと 


わかった  気持ちの問題なら  よかったのに 


2年間 一日のように  踏切を通っていた 


そして  その世界が  現れた  


フェンスの金網  その内奥で 輝いて 


見えない命が  あった  


今なら わかるが  わからなかった 


その時 


金属にも 命があることに  ただ 驚いた 


そうではない  


2年の 失意が集中して  死者たちを 


呼んでしまった  


それは あたたかく  やさしさにあふれた 


信じられない  しあわせを 感じられる世界 


なにもかもが それが それだとわかる 


それが 自分であり  世界であり  その物であるという 


そこにあるだけで  じぶんでさえ  それだけでいいという


まったく完結しながら  生きている喜びである 


もう、すべて、 と言って  その先が 


なにも 言う必要が なくなる 


今は 説明になってしまう  その強烈なイメージが 


もう  甦らない



その人たちが  創っていたのが  愛 


それだった  知らなかった 


死者たちは  死のゾーンに  不死のものを 


創ろうとしたのだろう 


会社を辞めて  僕は別れ  ひとり 


喪失感と どう折り合っていくのか 


夕方に バイト帰りの 踏切を 


毎夕 渡っていた  


僕が  2年の間に  踏み込んでいた  死のゾーン 


彼らは  僕を 見つけた  


僕は  神秘 というものを 感じ続けた 


その時間帯だった  アパートまでの 5分間だった 


未だに  しあわせいっぱいで  記憶がない。  


生きていた  道路が  家の壁が 


見渡す なにもかもが     内奥の光に 


見えない内側から  キラキラしていた 


あの頃は  なにも わからなかった  


しあわせの”直接”が あったということが 


それは 直接過ぎたのだ  あまりに 


頭が イカレるほどに  


三日から 七日だと  日数がわからない 


あまりに しあわせで  しあわせに 耐えきれない 


それほどの  直截な “生” というもの 


話しても無駄というもの  その ハードさ  


まったく ”すべて” という言葉で あとに 


続ける言葉がない  それが 直にあるのに 


何を 言う必要がある、 言える?!  


リアルは 言葉ではなかった  見るものが すべて 


輝き 生きていた  その全体という 高揚 高気圧 別世界!


彼らも  愛したいという  要求が強くて 


果たせなかったのだろう  


僕は  ついに  もういい じゅうぶんだ、と 


言ってしまった  


人は  幸福にも  耐えきれないと  知った  


あっという間に  それは消え去った 


どうして 僕の言うことを 聞いたのか?


長い疑問が  残った


それが 心のものであるのは  それでわかった 



もう 40年経った  そういうことは  一度しかない 


一度 拒否すると  もう  どんなに頑張っても 


それは 訪れない 


しかし  相手は  永遠に属している  


そのかけらが  何度もやって来た  同じだ  


かけらでも  永遠は 永遠だ  


僕は  すべてで 巻き込まれる  


そして  愛からも  遠ざかる決心をする  


それは もう 書いた  


全体を 捉えられる チャンスは  その一度なのだ  


あとは  アレンジされて  部分になる  


今は?  もう記憶だ  


愛の記憶は  愛ではないと  わかりすぎるほどに 


わかる  



僕らがすること 出来ることは  条件さえ満たせば 


無限だと  僕に  わかり過ぎるほどだ  


それが  伝わらない、わからないだろうことも  同じ様に 


無痛な 痛みのように  感じる  


直接の感覚は  伝えられない 


それは  自分を超えて 精神の死のゾーンという  


危険から  奇跡的に生還 しなくてはならないのなら 


どれほどの 自我(ひとり)のエネルギーが いるのだろう? 


自我の 異様な高揚!


眼が 覚めると  地球で一番ちっぽけな 


自分が いるのに 気づく  いつも 


常に  人間にもどされる 自分がいる   必ず!


僕は  誰に それを期待できるだろう? 


その 人間の意志なんか  無視される


極度の振幅に  耐えられる  誰か、 を


え? 



僕は  今も  愛したいと  


そこに 理想を見てしまっている  


近づく女の子は  なぜか  私なんかを、と 


つまらない卑下した  言動をみせた 過去 


まだ つき合ってもいないのに  


夢は 現実にならない  


人間は  空を飛ぶのに  飛行機をつくったが 


鳥のように  優雅に  飛び立つ夢は  


叶えられないでいる   


これからもじゃないかも しれないが 。


僕らは 希望や 可能性を 夢だと 


するが


現実になるものは  夢ではない 


男は 女になれない  女は 男になれない 


手術も  気持ちも  どこか 中途半端 


年齢がくれば  男も女も  ただの人間という 


最後になる



僕は  夢を見る 


終わらないだろう  


自分は  「なにを  したかではなく 


何を しようとしたか」 


その言葉を  生きようとしている 


あのおじさんは 言っていた 


隣は 道路のごみを掃除しないから 


こちらも 掃除しない  あちらの分まですることはない、と 


ほんとうに そういう問題なのか 


それは あちらのやり方を 真似ること  だから 


あちらと同じ 仲間になることなのだと 知らない 


おじさん!  あんたは ほんとに  なにを望んでいるの!  


道路の清潔さが 好きなら  ぜんぶ、掃除しなよ! 


あちらの思惑は  あなたの人生に まったく 


関係ないんだよ!  文句は いらない


したいことを しなよ!  しよう!


気持ちいいから



僕は まだ 


夢を 見ている  


Breath 


愛で 息を したいんだ 





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