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天地創造のぬり絵 [ぬり絵]

旧約聖書の神について、そもそも神話について思いを巡らせ

ていると、天地創造は知の、知的なそれらしい発想だと思いついた。

聖書の「創世記」ではじめに「はじめに神は天と地とを創造された。」

とある。これは僕らの世界用の話で、まず僕らが今、それを見ようと

して見ている、この現世界を前提にしている。これは僕らが無の空間

のようなものの中空に浮かんでいる、といった不安な状態を避ける

ためでもある、と考えられる。神も地に足をつけ、空を見上げたかった、

という僕ら自身への僕らの弁明でもありそうだ。

続いて、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が

水のおもてをおおっていた」とある。

僕個人としては、この「闇が淵のおもてにあり」という表現は重要であり、

この表現が僕の意識に沈んでいたのでは?と思わせるものだ。と言う

のは、僕が闇に感じるのは、まさしく死のゾーンの淵からそれは広がって

いると想像させるものだったから。

しかし、いきなり水が存在しているのはおかしい。さらに「水の間に

おおぞらがあって、水と水とを分けよ」「神はおおぞらを造って、おおぞら

の下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天

と名づけられた」

つまり、天にはその上があり、それは水だというのである。この頃の人は

空の上に天があり、天の上の今の宇宙は、水でできていると考えていた

らしい。さらに、「はじめに神は天と地とを創造された。」の後、2日目に

「光あれ」と光を創ったらしいが、どうも順序が不自然だ。

と疑問を呈していっても、つまりは無駄なことだ。天地創造は神話に類する

ことで、おとぎ話のようにお話として作られている。韓国の古代の英雄は

なんと卵から生まれている。韓国ドラマでもさすがにそこまでは神話に

忠実には話を作っていない。


僕も天地創造を仮説として作ってみたい、子供がぬり絵で遊ぶように。

所詮、人の知恵である。この世で見たものを材料にする以外に想像の

働かせようがない。神話の事実にはお手上げだ。

まず闇があったとする。これは変わらない、というよりこれ以上に人間の

認知の及ばない根源を表すのに適した言葉もない、と言える。それは

光の介在する闇ではなく、混沌である。そこに光がないのだから、わからなさ

を感覚で闇とするのは、適当(適切)だろう。 その混沌にチリが生まれ始める。

チリが増殖するのは遅い。チリとチリとが衝突するのは数京年(1兆年の

10000倍)に1回くらい。その時にチリが圧力で膨張し、また崩壊するので

チリが増える。はじめはこのように、なにも起こらなかったと思える時間が

無限のように流れた。やがて、数京年の数京倍(?)もの時間が経つ頃には

チリの中から反応するものが現れる。そして、チリの増殖と衝突の増加に

ともなって、やがてその反応が加速度的に増える時が来る。と言っても、まだ

数十億年単位だろうけれど。で、ついに生命反応が現れ、最初の有機体が

誕生する。まだ細胞にもならない、その前生命体という根源。それと前後して

チリの衝突から熱が反応して生じ、それが炎となり、光をもたらせた。

やがて10億ミクロン分の1の物質体が反応し始め、それが長い長い間に

分子となる。ここから宇宙の発生までは現在の科学的な推移の説明になる。

人間の進化が始まるのは、ほんの一瞬前となる。 


この話も、神話を否定するのと同じくらい簡単に、”人間の猿知恵でこしらえた

だけ”くらいの批判ですんでしまう。どんな仮説も自由なくらい、わけのわからない

遠い過去の事由だからだ。 神話を楽しむのは、そこに人間の意識という

鏡があるからだ。人は自分を投影して、そこに鏡に映った自分を反映させ

てしまう。ただ鏡に映るように、姿が反対に映るとか、そっくりに映る、とか

ではなしに、あらゆるイメージとして反映させてしまう。そこでは理想化が

よく行われていて、神はその最大限の象徴だろう。

僕は旧約聖書の神は最大の謎のひとつと考えている。彼は非常な力を

背景に人類の分離を図り、争いの火種を撒いている。ユダヤを選良として

他の民族を差別し、自分だけを信仰するように誘導している。

キルケゴールは自分の子を捧げものにするように命じた神への信仰で、

子を捧げようとする父のアブラハムを最高の信仰に位置付けているが、

どうもスッキリしない。子供を殺す寸前で神はそれを止めて、アブラハムの

信仰を確認したという。それは欺瞞が残る気がする。神に服従するためには

自分の子供でも殺せ、ということか。

ともかくも、ムハンマドにもコーランで神(同じ神)は差別を残すかのように、

後継者の決め方を指示しなかった。それでイスラムはスンニ派とシーア派が

後継者争いを発端に争っているが、この差別がすでに見えない意図であった

のは、十分に疑えることだ。

旧約の神が人の前に姿を現していたのは、アブラハムやモーゼの頃であり、

これは古い。ブッダ・孔子・ソクラテスがほぼ同年代に現れたが、彼はそれ

より1000年も前だ。一種の超人、だが、人間種だろう。力は西洋・中東の

大陸に限られ、東洋までは出かけなかった。これはスーパー人類のような

もので彼の意図が(かつて英国が植民地政策で使った)人類を分割統治

するという、史上最初の手法によって力を駆使した、中身は野心の塊だった。

そういう観点から調べなければ、それから1000年後にどうして三人もの

心とか天とか知について、根本にたどり着くものが現れたのか、解明は

されないだろう、と思う。

現代の西洋哲学の根本は、ソクラテスの発した疑問から綿々と継続してきて

いる。ハイデガーの「存在と時間」も序文にプラトンが引用され、ギリシャから

出発している。イスラム教が分離したように、ユダヤ教もキリスト教に、キリスト教

もカトリックとプロテスタントに、キリストの出現を契機に解釈(他)革命(ルター)を

経て、分断されている。

孔子の儒教はすぐに1000年ほど沈滞して、歴史から消えてしまい、(孔子死後

300年は沈滞、その後前漢後期から国教となる。が、そのあとはアジアは仏教

の隆盛で、700年は沈黙してしまう)朱熹あたりからか、色々な思想を混在させて、

復活している。もう宗教・哲学混ぜ物になってしまい、江戸末期の西郷隆盛や

大久保一藏(利通)はその本、近思録(もとは朱子学研究者四氏の書物からの抜粋

だったが、近思録のほうが有名になり残り、底本は散逸した)を教科書として、

青春時代に暗記音読した。当時の日本では武家ではそれが主流だったらしい。

西郷の「敬天愛人」もここから来ている。

それぞれが脈々と、当時は書かずともわかっていたことを、千年も経つうちに

わからなくなり、内容はそれに合わせて衰退していった。旧約聖書も古代

ヘブライ語で母音がなくて、後世の学者がこれでは間違えて伝わるかも、と

母音をつける作業が行われた。それで旧約聖書も異本があるらしい。

天才空海が中国に渡っても、たった2年で帰国を中国の師から許されるはず

である。経典がわかりやすいものになって、すでにインドにおいて衰退していた

からである。

日本では経典では死のゾーンに入るので、即身仏になるか、修行三昧の無為な

日々を送るが、無手で悟るものは修行を終えると、それ以上の師匠もないので

直接の師に許しを得て、または師がそれを許し世間に行脚し、全国を行き来、旅した。

現在、紀元前5-600年ごろのことを伝えるものは、その後1000年を経てから

書かれたもの以外ほぼなにもなく、その中身も言葉の意味だけに近い思想という形

に衰退してしまった。僕らはゴミに近い本を読み繋いでいる。それは歴史の三千年

の恨みであるだろうか。カツ丼のレシピを読まされて、カツ丼を食べたのだと教わって

いるようなものだ。


これは極論だと言われるだろうな(笑)。




*僕は体がだいぶあやしくなってきて(腰痛4日目)、いつほんとうに動くの

もままならないという状態に陥っても、体の自然のことだとあきらめざるを

得ない、そういう前の状態ではないかと、思うことさえある。例えば、病気

でも骨折でも、一度入院でもしてしまったら、筋力のみならず免疫力も落ちる

だろう、と。エジプト行きを早めようとも考えている次第だ。



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