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島へ出発前と 天気予報と知の本能 [本能]

島に行く日が迫ったが、いつものように宅急便も荷支度もまだだ。  

もう慣れているので、これでも余裕があると思っている。以前のように

深夜になって始めて、出発の2時間前だ、なんてことはない。    

前回の5月では不用意に(これもいつもだが・・)島で闇に深潜してみて、

驚くほどの不調になったが、弱くなったものだ。  

今回は次の目的があるので、できれば必要なことを経験したいものだが、

そんなに調子のいいことができるとは思えない。思えないからと言って

なんでもできるのが根底の仮説なのだから、その記録を更新したい

だけだ。   

これは脳の構造に関係しているのだろうか?   

脳はともかく普請中だ。元の家を次から次へと建て増しして、一度も

根底から新しい方式に作り替えたことがない。それで学者は脳はいい

加減な作りになってしまった、のによく機能していると感心している。    

脳はいい加減にできている、それが社会の方式とよく一致している

のはまったくおかしなことだ。(可笑、可怪)   

島では「孔子伝」に集中しようかと考えていたが、「フォーリン

アフェアーズ」(定期購読のみの雑誌)という外交関連の雑誌を読ん

でいて、人工知能の記事があって、その未来予測が混乱している=

いろいろな意見があって、総意を見ないので、以前に「自分=自我」

と「AI」との関連で考えたことがあったが、それをしっかり思い出せ

ないほど。自我はAIでは成立しないとの考えも、もう一度考え直す

必要があると感じた。以前のその結論の出どころも確認したいし。  

それに強く、AIに対する意見、その元々のコンピューターの親の

チューリングにも惹かれる。どうなるか、いつものようにその場

その場で決める。行ってみないと、実際になにをするのか、わから

ない。7日までは島は雨だそうだから、本読みには好都合だろう。  


島へ行くことには興味を失くしつつある。そして、失くした。   

ただのひとりの静けさを求められる場所になった。もしも借りた場合の

宿泊費が交通費になり替わっていると思えば、交通費もネックでは

ない。1か月いてもわずかな光熱費のみだ。   

自称(小値賀島役場公認?)、無人島(一人、船の定期便の都合だろう、

登録島民がいる。山屋だ)の野崎島についても思い出したい。できれば

予約を取ってもう一度出かけてもいいのだ。また、無人のプライベートの

ホワイトビーチなのだろうな。浅瀬にエイがごろごろいるが・・・。    

9月と言えば、またアゴ(トビウオ別称)の捕れる季節で、すさまじい風

だろう。


*島とはそのまま、長崎県の離島のことだ。長崎市より佐世保市の

ほうがよほど近い。対馬は北方にある。飽きた面もあるし、もっと詳しく

見たい面もある。プランではまだ行っていない南方面を訪れるつもりだ。

いろいろあるが、来年に。  


< 天気予報と 知の本能 >


天気予報がこれからもますます当たらなくなる、という話。  

これは寓話である。そのままで進む物語ではない。機械の

技術発達で社会変化は起こるので、予報の形さえこの先

変わるかもしれないのだから。   

天気予報が比較的当たっていた時代は去ってしまった。

毎年、史上初の気温とか数十年に一度の台風、50年に一度の

豪雨などが発生する時代になってしまっては、四季が順当に

おだやかに変化していたようには、天気は安定してくれない。

天気予報は今までは過去のデータに頼って、似たような天気図

から次に起こる天気をその翌日の天気図に求めていた。

それで当たっていたのだが、こうして天気が不順になってみると、

今までは単に過去のデータに追随していただけで、予報の

なんたるかは追及してこなかった、ということだ。追従してきた

から、これまでの方法が通用しなくなると、特にゲリラ豪雨など

は範囲を広げて予報せざるを得なくなる。大雨になるかも

しれない、という不確実な予報なのだから、考えように

よっては誰でもできる予測だ。明日は晴れか、雨か、曇りです、

とか言うのに似てなくもない。それが予報となってみれば、

当たらなくなったと感じるのは当然な感想だろう。

一日で翌日の晴れの予報が雨に変わるという予報さえ、ちらちら

見えるこの頃でもある。もう当てる自信はないが、予報はしなくては

ならず、可能性ばかりが目立つ予報となってしまう。   

前にも書いたが、オーストラリアだったかの気象学者が1年後の

天気を予測するシュミレーション(正しくはシミュレーション)で

コンピュータにデータを打ち込んでいたが、数値を0,0001間違え

て打ったので、修正しようとして、その日の天気を見た。確認して

数値を正しく打ち込んで、その日の天気を見て驚いた。データの

一部で、しかもたった1万分の1の数値の違いで1年後の天気は

まったく正反対になってしまった、という。その学者は賢明にも、

予想が何の意味もないのを認めて1年後の天気予測はやめて

しまったそうだ。それほど地球上の空気と水との予測は複雑で、

またその因果関係についても知らないことが多すぎるということ

らしい。   

僕はこの知る、を発展させた文明社会において、現代では「知ること」

が本能の一つと認定されてもいいように思う。食欲、性欲、睡眠欲という

動物行動からの生まれつきの情動を本能ということが多いが、定義は

混乱していて、それは学問分野が多すぎて混乱しているからだが、

これといった共通の定義はない。

ともかくも、その本能に知りたい欲として、知求本能を加えてもいいの

では、と思う。それが強烈に中心になって人生を推し進めてゆくという

例は多いからだ。飲まず、食わず、眠らずに資料を読み、考え、研究

するというそれ以外に楽しみがないような学究の徒も古今に多い。

明らかに他の本能を上回っているではないか。

だからと言ってすべての学究の徒が品行方正というわけではなく、  

誤った考えからある理論を勝手な方向へ結び付けたり、持って

行ったりしてしまう人も見かける。  

どちらにしても知の操作が飯より女性より、好きなのだ。疲れるから

睡眠は摂るだろうけれど。  

知が本能になっているならば、これは高尚な趣味いうばかりのもの

ではなくなる。飯を食ったり、眠ったりが高尚な趣味ではないように

体がそういう行動に向かうからだ。そういう止むにやまれぬ生理を

示している。そういう人にとっては、人生を教えられたり、感動させ

られたりしたという経験が、知識を通してあるはずだ。日常では

TV(教養?)番組・講座などの雑誌・学術や人生論風の本・という

脳への刺激がたまらなかったはずだ。だから、それは知に傾いている。

20歳までに粗方、30までには職業上のノウハウ本を含まないで、

本からの知識は吸収してしまえる。社会に出てからは別な行動様式

が必要だと会社などで感じたはずだ。そして、それはそこにいる現役

の(過去の)同僚のマネをすることから、今に至っては日常の雑な忙しさ

から、新しい行動様式とかの必要は忘れ去られる、または忘れ去ら

れたのだ。

体の動きが職業になる能や歌舞伎役者などの人たちは、言葉少ない

が、知に傾かないある種の体感覚から得難い経験を体得している。

そこでは主に言葉はもっぱら比喩として使われて、直接の定義を

しようとする人はまずいない。つまり、言葉ではない世界を体得して

いるからだろう。しているからこそ、芸の奥が深いのを感じる。


天気でもある地方の年寄りの話が印象にある。彼はその村で  

観天望気をするのが得意で、空を見てはこれからの天気を占ったが、

一度も外したことがない、という噂だ。この話はありそうだ。毎日毎日

山からの雲の形や流れを見ていて、そこから全体が予測できる人が

いるのは事実だから。彼はその村の天気の膨大なデータを直感で

引っ張り出すことができたのだろう。また、湿度の感触がわかったの

だろう。僕も山を登っていたころは、天気の異変は雨のにおいで

気づくことができた。どうしてわかるのか、というのが面白いところで

気がつくとわかっていた、という感じで頭など使っていないのだ。

もうそういう人は観天望気も芸のうちなのだろう。   

僕らは年を取ると、体に引きずられて老化してゆくので、億劫(おっくう)

さと今までの取り得た知の方法だけでいっぱいで、それを守ろうとする。

今更新しい方法などごめんだ、というわけだ。かくして、本人が思った

以上に固くなってゆく。体も頭もコチコチに。なればなるほど気がつかない。

なるほど今の自分がそうなのか、と思える人は幸運の部類だろう。

アイデンティティ(自分らしさの勘違い)が必要なのは「自分」という「知」の

本能ゆえなのだろう。どうして君は自分をなにかに結び付けて、保証したり

存在を確かめなければならないのだろう?
  

言葉のない分野で生きている人は多くいるが、なにしろ伝える手段と

しての便利な言葉を使いづらいものなので、自然に以心伝心に

なってしまう。だから、直接会わないと、なにもわからない。今、伝える

べきが伝わりにくいのは、そういう事情もあるのだろう。TVやネットでは

ダメなのだ。(これ、覚えておいて)ほぼ、絶滅危惧種だから。



天気予報がこれからどれほど精密なデータを世界から取り寄せることが

できた(これはいずれにしても必要)としても、気象に即した考え方と

変化率を確立して、その地球の地域ごとの細分則から分析を行わなけ

れば、天気予報の未来は暗い。晴れの予報は当分の間、出ないだろう。

まず、発想を変えよう。

ニュートンがコペルニクスやケプラー、ガリレオの考えや天体観測、その他

の天体運則資料からプリンキピアを書いて導き出したようなものだろう、

天気の予測をより可能にするのは。

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