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ヒグマのどんべえ [ヒグマ]

僕らは何を知っているんだろう?と、時に思う。   

僕らは一人で処理できないほどの知識を見ているし、抱えている、とも  

思っている。電気の性質や、その法則については、調べればわかる。  

電磁波も同じように、学問として成立しているので、読み切れないほどの  

論文や著書がある。どうしてもそれらは読むのに一生かかってしまいそうだ。  

だから、 僕らは多くのことを知っている。そうだろうか?  

僕も若い頃はそう感じていた。そう思っていた。だが、日本のノーベル賞を  

初めて獲得した湯川秀樹博士の本に、物理の教科書でも整合性が優先されて  

すべて辻褄が合うように説明されているが、先端のものではまだあいまいさが

残るものでも、きちんと合理的に説明できる部分だけが選ばれている、と。

それからだ。僕らの知らないところでは、そういうようになんらかの政治的・  

経済的・教育の強要のために操作が加えられているのではないか、と疑い

だしたのは。  

そうして有名なユークリッド幾何学でもそうなのか、湯川氏の言葉を確かめて  

みると、そのとおりで、ユークリッドが明確にできなかったことは省略されて

いた。それからはあらゆるものを、目についたものを調べると、どうもこの世

の確固たる世界と思われてきたものは、そんなに堅固なものではないことが  

わかってきた。数年のうちには、この世には当てになるものが何もない、と  

まで思えた。だから、学校から社会へ出ると、教科書では役に立たないのだ。  


どうしてそれに誰も気づけないかと言うと、そういう教育を受けていないから

だ。僕らは自由な教育を受けている、と思っているが、それは半分正しく、  

半分間違えている。知的教育によるものは、知が優先されるものだからだ。  

知的認識が「ものごとがわかるうえで、絶対だ」という錯覚を教え込まれて

いる。知的認識がものごとがわかることだと、すり替えられているからだ。  

感情的な受容や感覚的な受容でなければ理解できないことは、知に劣るもの

としてなのか、教育科目にない。教養的に芸術や技術工作があるが、それ  

が知的認識を上回っている場合については、なにも教えられて来なかった。  

それはそう考える者がもういないからかもしれない。複雑化した公務や  

仕事の細分化で覚えることが多くなりすぎ、知識を抱えるだけで頭は  

一杯になってしまう。誰も余裕がなくなっている。僕も、これについて  

考え始めたのは、還暦を過ぎ、給与仕事を離れ、自由に研究する時間を  

持ててからのことだ。その下地になったのは、19歳から始めた、人は

なぜ生きるのか、という疑問を発展させてきたからだった。  

初めに社会より先に動物を知らねばならない、と20代で思った。それ

から自然に向かった。偶然が、北アルプスへ向かわせ、山からそれを

始めた。それで動物のことは、それからずっと先のことになった。  


    
動物を知らねばならないと思ったのは、ムツゴロウの本による。

ムツゴロウは通称で、ペンネームでもない。名は畑正憲という。動物学者  

だったが、作家になった。「さよならどんべえ」という本を書いた。  

本来、ユーモアのある動物との出会いを書いたものが多かった。  

どんべえは飼っていたヒグマにつけられた名前で、子熊から成長するまで

育てた。その可愛がったヒグマが事故で亡くなってしまった。それを書いた  

ものだったが、ユーモアはなかった。すぐにその悲しみから立ち上がれない  

著者の例えれば、頭ボサボサ、無精ひげ(これはそのまま)、よだれを  

流しているようなだらしない姿から始まる。なので、読み進みたくなくなる。  

捨ててしまおうかと思ったが、適当なページを拾い読みをすることにした。  

ちょうど、そのヒグマに噛みつかれるところに当たった。  

ムツゴロウさんは夢を見た。金太郎がクマと相撲をして遊ぶ話で、自分も  

クマと相撲をして遊ぼうという夢を持ったのだ。それで北海道で子熊を飼う

ことにした。北海道ならヒグマである。しかし、ヒグマは成獣になったら、  

2-3mになるし、力は桁外れに強い。子熊を叱るにも、バットで叩いた

そうだ。それでもあまり感じないらしい。それでもその怒りの勢いが怖くて

言うことに従った、と。相撲どころではない。 それで  

ヒグマが若い頃にしようとしたのだろうか。しかし、ヒグマがムツさんを 

背中に乗せて遊ぶところまではできた。金太郎のように背中に乗って  

方向もわからせることができた。それでムツさんは欲をかいた。人に見せ

たくなったのだ。撮影もして記録に残したかった。ところが、どんべえは  

二人きりのところでしか、撮影の用意をしても背中に乗せなかったし、人が  

いると、違うことをしようとした。

ある時、やはり見学人がいた時にどんべえに乗ろうとして、失敗した時

だった。がっかりして、檻の隅にいるどんべえに不用意に近づいてしまった。  

いつもは必ず、彼女に心で声をかけるように発信して近づくのだが、その時  

なんの考えもなく、どんべえの背後に近づいた。その瞬間、物凄いスピード

でどんべえが振り向き、そう思った瞬間には顎をガブっと噛まれていた。  

クマの攻撃パターンで次に爪をのばした手を振り下ろして、一撃を加える。  

うしろで弟?が見ていた。クマが手を振り下ろしたので、死んだと思った

そうだ。ムツさんの記述によると、どんべえは顎に噛みついた瞬間に  

相手が親代わりのムツさんだと気づいた、気づいたが攻撃のパターンは  

後戻りできない。振り下ろしたが、ムツさんと気づいた意識が、手を

手前に振り下ろしたので、頬に爪がひっかいただけですんだそうだ。  

ヒグマが手を振り下ろすと、往年のホームラン王、王選手がバットを 

振った力と同じものが襲うそうだ。顔の半分くらいなくしていたのでは  

ないか。  

動物はより本能的に生活する。僕ら人間がキレた時に、アドレナリンで  

売り言葉に買い言葉、または出した拳が止められず、相手を殴ってしまう

ように、クマは危険を感じると同時に反撃のパターンを、なんの考えも

なしに即、取る。その代わりに、その感覚は人の想像を超えて、鋭いもの

があり、自分の気をクマに送るだけで、それを判断することができる。  

ムツさんはそれを怠った。背後に人が来たから、それを敵だとして、 

即反応するのが、自然で生きる掟だ。ヒグマに非はない。ムツさんが  

起こした事故だった。が、ムツさんが死んでしまったら、どんべえは  

銃殺されてしまっていただろう。ここに猛獣を飼う危険や悲劇がある。  

それからどんべえはムツさんのもとに来ようとはしなかった。  

動物は感情で生きる。愛情には難しい面もあるが、愛情で答える。  

犬や猫は人の社会と共存できるまで重宝されて、この数千年も共存  

しているが、それぞれその動機は違う。また、他の動物よりも共感力  

が高く、人間の気持ちを読むのに長けている。  

しかし、それは犬猫に限られないようだ。クマのどんべえも悪い、と

いう気持ちが強くて、親のムツさんに甘えたいのに甘えられないのだ。 

ムツさんはそれを純粋なものとして、どんべえへの気持ちを強めている。  

動物は驚くほど、僕らがなにをしようとしているか、したがっているのか、

知っている。考えはまったく読めないが、気持ちはまったく隠すことが  

できない。それを僕らが見るような感覚で見るように知っている。  

僕らが犬猫を可愛くてしかたないのは、そういう彼らだからだ。その人が  

喜ぶことがわかる。猫はそれを自分のエサのために操作する。猫の

友情を獲得するのは容易ではない。犬は逆に、人がすることを自分も  

することが嬉しい性質があるようだ。例えば、馬もそういう感性を  

もっていて、ムツさんの北海道の道産子の競争でも、ゴールまで  

極限まで走り抜いて、死んでしまうことがある。ムツさんは、馬も勝ち

たいのだ、と言っていたが、勝ちたい気にさせたのは馬主だろう。  

馬は馬主を喜ばせたかったのだ。それで命尽きるまで、走ってしまう  

とは・・・。  

僕は、僕らは動物のなにを知っているだろうか、と疑問ではなく、

感嘆符で思ってしまう。少しでも、動物の不思議な感覚に触れたり  

すると、その不思議がそれだけではないぞ、と僕らの想像を超えた  

世界がいくらでもあることを予感させる。  

これ以上は、予知能力とか、境界を越えてSFじみてくるので、  

そこには陥りたくない。だが、そこに関わっているのは間違いない

だろう。つまり、動物の世界も含めて、僕らは知らないことの方が  

遥かに、遥かに、宇宙を超えるほどに多い。僕はそう感じる。  

目の前に囚われていては、この豊かさに気づくことはないだろう。  

しかし、明日も職場で仕事が待っている。

いつ僕らは僕らを解放できるのだろう。そういう気にさえ、なることが  

できるのだろうか?それは生活費よりも大事なことなのか?  

命あるとは?  生の動機とは?  やむにやまれぬ理由?  

生きる理由がわかった!  =それはいつ?  

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