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明治からの四方山話、+第2章 未来デザイン [明治]

飛び切り、個人的な感想を、記憶に

頼った当てにならない話でしていい

だろうか?そう聞かれたら、それは

まずいな、と答える。碌なものしか

ないし、誰もいない部屋に盗みに

入る?そんなような話だ、これから

書くのは。答えは落胆するだろう、

という落ちだ。だジャレではない。



西郷(せご)どんはNHKの大河ドラマで

林真理子の原作で作られたが、よく

書かれてはいるが、一つ物足りなかった。

西郷吉之助の人間の大きさと呼ばれて

いるものが出ていないのだ。

女が書いたからだ、と言うと、女性蔑視に

なるのだろうかとも考えたが、男としては

西郷の西南戦争でも彼が戦いたかった

だろうな、だから、青年たちの説得に

こらえきれなかったのだと見ている僕は

ドラマに戦いに血が騒ぐ男の本能が見え

てこず、これも物足りなかった。

武士の気概という、無駄に見える精神が

幕末には充満していた。勤王浪士はいつ

新選組に鉢合わせして、刀を抜くかわから

なかったので、なにが怖いか、という話で

聞かれると、死ぬのが怖いとは決して

言わなかった、武士の恥だった。それで

下駄の鼻緒が切れるのが怖い、と言った。

斬り合いともなれば、下駄は脱いでしまう

のに、鼻緒が切れたら布の端切れを

使って結び直すのが面倒だ、と可愛い

ことを言ったのだ。

坂本竜馬は物騒なので、師の勝海舟に

護衛をつけたらしい。人斬り以蔵だった

とか。

実際、刺客に襲われて、以蔵は素早く

斬り殺したが、海舟は殺さずとも、とか

言ったらしい。それで以蔵は、先生、オレ

が斬っていなければ、先生が死んでいま

したぜ、と答えたらしい。(小説?)

海舟は殺さずの精神を言いたかったの

だろうが、現実は殺さずんば、死がある

のみ、という状況があるのも、確かだ。

現実は精神論では通じないことが多い。

学力は深かったが、性格剣呑で、法螺

吹きとも高杉晋作に言われた恰好づけ

の佐久間象山も西洋かぶれの反発を

買っていたので、勤王の刺客に襲われ、

背中を見せて斬られ、死んだが、武士

が逃げを見せたというので、幕府からは

なにか家格か?なにか、下げられた

らしい。

それほど武家は名分に対しては原則

主義で厳格だった。

もちろん、それは原則論が通じるお裁き

が行われてのことだ。巷はそうではない。

ただ江戸時代後期の武士の肩見は狭くて、

刀を抜くことは、御家断絶につながる行為

だった。

ある藩ではフランス船が攻めてきた時には

負けて、藩の命令で戦った武士たちに罰を

与えろ、とフランス側から要求があった。

その理不尽な要求に、その藩士たちは

涙を呑んで従う他はなかったらしい。

切腹を命じられた。藩のために戦い、藩から

その戦いのために自ら死ぬことを命じられ

たのだ。森鴎外がドキュメンタリータッチで

書いている。見直してみるとそれは「堺事件」

のことで、土佐藩の話だった。

フランス水兵の上陸でその狼藉でトラブル

になり、水兵が一人殺され、水兵側も短銃を

放った。水兵を追いかけていた土佐藩の

二人の隊長がとっさに決心して、兵卒に

撃てと命じて、結果、フランス側は13人、

死亡した。これに抗議したのである。

ふたりの隊長も命令なしで反撃した

かどで隊士もろとも切腹を命じられた。

その前にも町でも狼藉があり、藩士

も町民も腹に据えかねていたので、

自然な成り行きでもあった。(なんか、

沖縄の米兵のレイプ事件などの狼藉

を思わせる)

これからが凄い。

フランス将校や兵士が見守る中、切腹

が行われるのであるが、「武士」である。

並みの精神の持ち主ではない、その

理不尽な鬱憤から、ある者は腹を切って

から、その自分の内臓を引っ張り出して、

千切り、フランス兵に投げつけたらしい。

これにはフランス兵も驚くだけでなく、

吐き気がして皆、切腹の会場から逃げ

出してしまったらしい。その後の者は、

罪はそのままだが、切腹は免れたの

だろう。

これをどう見るかだが、僕はしてやったり

と喝采したい方だ。残酷とか、気持ち悪い

とかは、軟弱な神経にしか思えない。

男にはそういう処があるが、こういう

感覚も精神もわからなくなって行くの

だろうな、とも思えるのだった。

西郷の「敬天愛人」も若い頃、学んだ

中国の儒教やその他の思想のごった煮

の書物「近思録」からの影響だったろう、

それは彼の理想精神であった。

「敬天愛人」そこから鹿児島に西郷神社

が祀られ、彼は神さまになったのだ。

現実はそうはいかない、死に場所を

求めることと戦いという命のやり取り

に身を捧げたいということはたぶん、

彼の中では同じであった筈だ。

人間の大きさは、竜馬がうまい例えを

残している。西郷は大きな鐘のようで、

小さく叩けば、小さく、大きく叩けば、

大きく鳴る、と。それは彼の「自分の

容量」が底なしで人を受けいれるのに

制限がなかったことを示している。

(敬天愛人の=人を愛す)

気にするほどの小さな自分をもって

いなかった。宴会で険悪な喧嘩が

始まった時には、自分の金玉を

さらけ出して、それにろうそくの火を

かざして、(熱いのが)我慢できるだけ

待ってくれ(?)、とか言ったとか。

周囲はあっけにとられ、喧嘩どころ

ではなくなったという話だ。九州人は

物や動物も人並みに扱うようなところ

があり、変人だ。僕が営業をしていた

頃にも九州の浅黒い男がいて、公園

で猫に話しかけて営業をした、と話し

ていた。西郷も川を流れる下駄に

どこへ行くですか?とか話しかけた

エピソードが残っていて、猫に話し

かけるくらいは当たり前らしい。



人間精神の幅・範囲を超えている。

それが一度死んで生き返った西郷だ。

彼がいなければ、明治維新は徹底して

戦われ、また行われなかっただろう。





第2章  未来デザイン


科学というのは手法のことだと思う。

真実も、いや真理でさえ無関係だと。

科学は科学の世界を数理の概念で

映し出すが、それは常に現実と乖離

している。と、幾度も書いてきている。


数学はその内実の世界の正しい論理

を想定して、正しくなるように設定され

たが、そう区切っても、それを展開させ

ると、数理自体が現実に近づこうとして

おかしな概念を次々に含めるようになり、

ついには理解不能になる。

数理は数理自体に還元されるのが

本来なので、人間が数字に置き換え

られないのと同様に、固有の区画は

人間に適応できない。数理は現実に

近づければ近づくほど、また近づけ

ようとすればするほど、矛盾をきたして

理解できなくなる。心はそれを質・量

共にあいまいな結びつきや飛躍に

よって数理を超えてしまう。アルゴリズム

は初め一部の関連を結びつけ、次に

経験学習によって、その範囲を広げるが、

その全体を固有の因数で結びつける

のは変わらないので、人間の直感とは

無関係な、無機質な連想に関わって

いることになる。機械の発想と人間のする

発想は異なる。手品で超能力に見せる

ことはできるが、どれほど速くても、計算

にはその過程があることに変わりない。

人間にはその全体をシフトしてしまう展開

としての飛躍がある。全体と一部を交換

するにしても人間は自然な体と心の知能

がその選択をするが、機械はそれを誘導

する「自己」がない。

AI にあなたの好きな曲はなんですか?と

尋ねたら、AI は何と答えるのだろうか?

答えたとしたら、そのAI に自由な発想は

できるのだろうか、好みがあることは

すでに優先事項が決まっていることで、

正しさではない、その意味は理解でき

るのだろうか、AI が自由を理解するのは

心もとない。

もしも、機械がその人間の自己を複製

するなら、できたとしても、それを理解

した人類からたぶん、将来、自らの知性

を全体で進化(突然変異)させ、残りの

知性も同じように進化してしまうはずで

ある。

可能性は新しい感覚の獲得という可能性

かもしれない。新しい感覚が生まれると

いうことは、それによって役立ち、必要

である、そういう事態や事実に対応する

ということで、それは新しい世界の分野が

もう一面で誕生することである。

これまでの五感の世界が統合・修正

されることになる可能性が非常に高い。

そうなってみないと何がどうなるかは

詳細は予断を許さないが、想像の外

のことが起こるはずである。

例えば、これまでの経典や聖典と呼ば

れるものを廃棄して、新しい考え方や

教条のようなものを思想する人間が

現れる。既存の概念・常識では理解

できなくなる。

新しいブッダであり、孔子・ソクラテス

は必然なのかもしれない。その聖者

たちのイメージは根本から古くなると

いうことだが、僕らの心の秩序が変化

してしまうことは、俄かには信じがたい。

だが、刷新というのはそのことを指す

のだろう。


< そして >


明治なら藩が消滅してしまう廃藩置県

の実施にあたる。しかし、それも中央

集権体制という外国からの借りもので

あったが、 ・・・。 

民衆の中には廃藩置県で天皇がぼた

もち?をくれると勘違いしていた者も

いて、いろいろあらぬ噂があったようだ。

情報が自由であるように見える現代に

あっても政治(日本は敗戦による米国

からの洗脳事情)がからむと、情報統制

が必ず起こる。

科学も思想や体制という概念分野であり、

その実行・実施は現実による混乱が引き

起こされることになるのが、今までの

歴史の常である。

未来もそれは変わらないに違いない。

 
::

この稿と、「自分の在り方・・・・」(追加)と

「曇り空・・・・・」(詩なのであまり追加ない)

の3稿を交代でくり返し、同時に書いて

いる。とても楽しい。この稿が最も追加が

多い。

まだどれを先にUPするのか、決めて

いない。
                   6.15


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明治の作家を逍遥す [明治]

坪内逍遥(明治になった時は9歳くらい)という作家  

がいたが、同じ「逍遥」で気ままな散歩を意味した。  

それらしい響きなので散歩にはいい。  

後が続かないのは、僕が嫌がっているのか、  

自分が嫌がっているのか、・・・僕だろう、この  

場合は僕が僕を説得することになるが、矛盾  

しているだろう。考えたこともなかったが、僕は  

自意識下の自分ではなくても、自分の調整を  

しているつもりの僕はここにいなければなら  

ないが、居るはずがないと思いながらも、居る。  

無意識には空間、もしくはそれに類する場所が  

存在しないのだろうか。同時存在はあり得ない  

から、混乱するのだが、無意識と自意識の調和  

という状態が存在するのなら、それもあり得る。  

その時、僕は僕であり、自分でもあるという  

二人を演じる。そして、瞬間での交替は一人の  

意識しか持たないだろう。今はこれ以上考える  

のをやめよう。続かない。  


坪内から始まったので、少しだけ。彼は明治に  

なる前安政6年に生まれるが、安政と言えば、 

井伊直弼の勤皇派への弾圧で有名な「安政の  

大獄」があった。勅許を得ずに日米修好通商条約  

に調印、次の将軍職に家茂をつけたので、反感を  

買って、暗殺されたのが「桜田門外の変」である。 

その頃、生まれた。長生きした。昭和10年まで。  

評論「小説神髄」が有名だが、興味なく、読んで  

いない。    

茶川龍之介は教科書でおなじみだった。たしか、 

トロッコが載っていて読んだ。茶川(ちゃがわ)  

ではなく、芥川(あくたがわ)。子供だったので、   

ちゃがわりゅうのすけで通していた。  

芥川の子供たちは、音楽家(也寸志)や俳優  

(比呂志)として芸能で有名になった。 

彼自身は自殺している。その生前の写真(当たり  

前だが、死んでからはあまり写真は撮れない)を  

見ると、いかにも線が細い病的ともとれる知的で  

神経質そうな表情と、そのなかでもさわやかな青年  

らしい表情も覗かせている。   

夏目漱石の山房に遅く弟子入りしている。翌年の 

第4次新思潮を発刊して、その創刊号に載せた  

「鼻」が漱石に絶賛されている。が、1年で漱石は  

亡くなってしまった。

国民作家としての漱石のイメージとしてはかけ離れた  

評を芥川がしているので、引用する::

菊池寛に向けて書いた手紙らしい。 「この頃久米  

と僕とが夏目さんの所に行くのは、久米から聞いて  

いるだろう。始めて行った時は、僕はすっかり固く  

なってしまった。今でもまだ全くその精神硬化症

から自由になっちゃいない。それも唯の気づまり  

とは違うんだ。(中略)始終感ず可く余儀なくされる  

ような圧迫を受けるんだね。(中略)僕が小説を  

発表した場合に、もし夏目さんが悪いと云ったら、  

それがどんな傑作でも悪いと自分でも信じそうな、  

物騒な気がしたから、この二、三週間は行くのを  

見合わせている。人格的なマグネティズムとでも  

云うかな。兎に角そう云う危険性のあるものが、  

あの人の体からは何時でも放射しているんだ。  

だから夏目さんなんぞに接近するのは、一概に  

好いとばかりは云えないと思う。我々は大人と  

行かなくっても、まあいろんな点で全然小供じゃ  

なくなっているから好いが、さもなかったら、  

のっけにもうあの影響の捕虜になって、自分自身  

の仕事にとりかかるだけの精神的自由を失って  

しまうだろう。兎に角東京へ来たら、君も一度は  

会って見給え。あの人に会う為なら、実際それだけ  

にわざわざ京都から出て来ても好い位だ。 ー」  

と、まあ漱石のオーラを紹介しているのだろうが、  

小説を褒められたお礼なんだかわからない。  

神経質と神経質が出会ったような、特殊な匂い  

を嗅ぎ分けているようだ。漱石の家には弟子や  

弟子を自称する者が尋ねてくるので、木曜だけに  

会うのを制限したらしいが、そこからは親しみ  

やすい、人を引き付ける漱石の人柄を想像するが、  

芥川にとってはそうではなかったらしい。  

漱石が「こころ」を書いたのは芥川に会う1年前  

である。「こころ」の先生は自殺してしまうらしい  

(未読)が、現実には先生(漱石)を尊敬していた  

芥川のほうが自ら死んでしまう。そして、後年、  

芥川を尊敬した太宰治が心中自殺を遂げて  

しまう。しかし、太宰の場合は少し込み入った   

事情があるようだ。その後川端と三島の悲劇   

に絡まってゆくが、それでは明治を遠く通り  

越してしまうので、省略する。    

次の文は、「大川の水」という短い随筆からの 

引用:::

「自分は、大川端に近い町に生まれた。家を  

出て椎の若葉に掩(おお)われた、黒塀の多い  

横綱の小路をぬけると、直(すぐ)あの幅の広い  

川筋の見渡せる、百本杭の河岸へ出るのである。  

幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆ど 

毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲

と、水の上に生まれて水の上に暮している  

あわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の  

午すぎ、燬(や)けた砂を踏みながら、水泳を  

習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ  

河の水の匂いも、今では年と共に、親しく思い  

出されるような気がする。  

自分はどうしてこうもあの川を愛するのか。  

あの何方かと云えば、泥濁りのした大川の  

生暖かい水に、限りない床しさを感じるのか。  

(中略)  

自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、  

初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと  

白い花を落とすのを見た。自分は幾度となく、  

霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むそう  

に鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の  

聞くすべてのものは、悉(ことごとく)、大川に  

対する自分の愛を新にする。 ・・・・・」  

という情緒豊かさを前面に押し出した文に僕は  

間違えたのかと、文庫本の表紙を確かめて  

しまった。これがあの芥川の文章だとは。   

(芥川龍之介随筆集より)  

芥川は永井荷風の江戸趣味を批判しているので  

有名である。やはり、随筆集から「徳川末期の  

文芸」にも「僕は所謂江戸趣味に余り尊敬を持って  

いない。同時に又彼等の作品にも頭の下がらない  

一人である」と、言い切っている。芥川のそこからは  

大川への愛という江戸趣味のような情緒が書かれる  

とは想像できなかったのだ。   

僕らはイメージの囚われ人だ。芥川はこう、太宰はこう、  

漱石はこう、というまとわりついたイメージに翻弄されて  

一面ばかりを見て、また一面ばかりに限定したがる。  

わかりやすい表現やキャッチフレーズに囚われる。  

それで世の中がイメージ社会になるのだが、それが 

知の性(さが)だと言えるだろう。半分は、それ以上か、  

お里が出ているのだ。習慣は癖になり、習俗は伝統に  

なり、歴史になる。僕らが作ったのだ、性で。
 


僕は文学論は書きたくないものの一つだと思う。  

小説や随筆・評論などその時代を知るには非常に  

重要な情報であり、時代の禁止事項をかいくぐる  

工夫があったりで、参考になる。が、真理になると  

いろいろなものが詰め込まれ、介在するので  

真理は細かく、小さく輝くのみで、全体では大きな  

虚構という清も濁も併せ呑むものに巻き込まれて  

しまう。作者と個人の対話ならいかようにもできようが、   

それは他人の手鏡から相手の顔を伺うように手鏡の  

状態次第で良くも悪くも、楽しくも悲しくも見える。  

読書だけならそれでいいのだが、なにか論が起こせる  

といった者がいて、自分が感動した小説は必ず 

人も面白く感じる、と思い込んでいる者もいる。 

逍遥なので、目についた処を歩いてみた。やはり、 

全体の百分の一も辿れなかったが、目的はそこに  

ないのでかまわない。  

太宰治では思い出すことが多かったが、ほぼ略さざる  

を得なかった。調べるポイントも、そもそも太宰の  

見つめる眼も皮肉も、左翼運動や心中への行動の  

軽さもわかる気がする。が、僕のテーマではない  

だろう。捨てられてしまう運命のテーマだ。それで  

なんだが、というのもなんだが、ブログ初期に書いた  

文で太宰のものを載せておこう。

もう、6年も前になる、 ・・・・。



< 太宰の 空気 (人を好きになると)>
                 2015. 9.14

カモメが 鳴いていたのか

今も 覚えていない 横浜港

汽笛のような かすかに響く 透明な記憶

イチョウの落ちた葉 いつかの銀杏(ぎんなん)の

臭いは なかったが 空の紙コップが

公園の石畳を ころがる 風があった

太宰治展 その歴史をたどる 流れにはなっていたが

なにが太宰なのか ポイントが どこにも

置かれていない でも 嫌いだった作家の

そこに ここに 自分が 僕が

来ていることに 重要な意味があって

僕は 裸で歩いているような 気がして

みのむしの蓑(みの)を着た 原始人となって

無味乾燥な ショーケースの間を

経験したことのない 前世紀の緊張に つつまれて

歩く そして 見る その固さはというと

ケースのガラスに 僕の頭にかぶった

プラスチックの角が ぶつかっている

横浜港には 昔は豪華客船だった巨体が

飴色の太い鎖に 係留されて 静かにゆれている

客室は 寝台車の倍くらいしかなく

贅沢な船旅が なぜか さみしげな旅愁を 漂(ただよ)わせる

船体の錆(さび)を 映している 機械油の 海が

そこから かつての沖へ 時代の水平線へ

出帆しようとしている

帰ったら 君の本を 読むとしよう

やはり それが一番 手っ取り 早い

文学館と 海浜公園と 段差のあるレンガ道

船長の古い友となった 時代じみた豪華客船

ここは 潮の香りがしない

海賊や 宝島が 生まれそうもない 近代の街

どこにでもありそうな 街の 洒落(しゃれ)た通りを

なぜか 知っている時間の匂いを さがしながら

お茶を 飲む場所を 見つけている

歩きすぎて 興ざめのする 6車線の大通りに

渡るのに 長い 横断歩道と 夕方の陽射し

それでも 街が 僕を 気にかけはじめる

路地をはいると そこにSUNという海の

外国風な 喫茶店があった

よかったよ ありがとう

二階へあがって 大きな窓が 僕らの空間をつくっている

光と スローなジャズと 人の柔らかい話し声

適度なあかるさ 暗さ ほのかに ダルい空気

階下から 昇ってくる 焙煎のコーヒーの香り

太宰よ 君は 感覚の王様だ

僕に 感覚の文章を教えた その神経に

今は 足を組んで グラスを傾けて 休んでくれ

僕も 歩き疲れた足を ソファから 投げだす

僕の 血流を 癒(いや)すもの あたたかさ、

伸びてゆく リラックス、

― n、

― ん、 は、 さ、

(ビバ!)

破れかぶれの 太宰 なんでかな

僕は 君が好きになったみたいだ

ビバ! 太宰 ビバ! 横浜

心の つぶやきが 楽しい「秒」に 変わる

それは「分」に 「時間」にふくれて

「 日 」に 溶け込み

僕は 今日が 特別な一日だ と感じる

それが 目の前にある 見えない空気だと わかる

一日って 空気なんだ

人を 好きになると 空気って


―  変わるんだ

君が好きになって


―  変わるんだ

人生って なんだろう


―  変わるんだ

ああ でも 浮かれていないで


この珈琲を 味わって いや

やはり 乾杯しよう ビバ!君

ビバ! 人間

ビバ! 僕たち

ビバ! 君たち

ビバ! 治(おさむ)

(君を好きになるとは、思わなかったよ

中華街 みなとみらいへの 地下鉄の入り口

通りに面した側が 窓の広い、裏側で

裏通りに入口のある 不思議な喫茶

街路樹 そこ ここに

足音 聞こえない 聞いていない

太宰、君は どこを歩いているのか

帰りの途上で 急に

右手に 手持ちぶさたになって

君の もう一冊の本の 題名が

思い出せなかった


でも 駅の 地下の深いホームで

つぶやく


(一日って 空気なんだ)



::
過去記事を出すのは久しぶりだ。

あまり変わらず、まとまっていないので安心する。  

昔の感受性がどうのこうのを認めるのは気持ち  

よくない。  

僕らはその場で書くのみだ。その時、その場。 

他になにがあるだろう。
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ござれ ござる時 [明治]

ただ ブログを 開く   

書く予定は   ない   

ただ  退屈に  ブログを   開く   

誰かに  愚痴りたい時に   似て   

おしゃべりが   したいだけ   

そんな 魔 のようなものが   

あって ござる   やれ  トントン  

明治を 歩く  自分の風情  

いつか  僕は  明治の 関りを  

出雲から  歩いてきた   

それは ラフカディオ・ハーンに あった。 

歴史事実を  書くつもりはない  

教養になる  知識を  つづるつもりも  

さらさら さらさら と    ない   

ハーン(最近はヘルンという読みが

流行っている? *) は島根の 城下町に住んだ  

その 松江城に寄った 6年半前  

喫茶店で  詩を 書いた   

小泉 八雲 旧居があり  偶然  

その前を通り  「怪談」を書いた人とは  知っていた  

興味は  なかったが  入ってみた  

出雲で(四日目)  すべての予定の 神社は  

発見できて  明日は  帰宅する  

それで 余裕があった  

それが  今に  つながるとは  思わない  ふつう。 

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ハーンは  初めての日本 横浜に着いて  

感動して  午後から 夕方の 景色が見えなくなるまで  

リキシャ―を 飛ばして  街を  走り回った  

こちらが 恥ずかしくなるくらいの  ほめ方で  

日本の 第一印象を  飾っていた  

彼は  隻眼で  左目の視力が ない  

右目も  弱かったらしい   

それで 薄いベールが  街を  美しく見せて  

いたのかも しれない   

それとは違うが   明治の 古い写真を見た  

僕は  同じように  感動してしまった   

これは 漱石の影響で  彼が見た明治を  

自分も見た、という 重ね合わせの 感動だった  

直接に  今  その街を  見ている錯覚に 落ちた  

殺風景でもある 薄汚れた 貧しい街と 人の  

様子が  こんなにも  なつかしいとは!  

自分でも  変に 思ったくらいだった   

それは  明治を 直に経験した、 という感動だった  

映画や  小説ではない   

触りたいくらいの  その当時の女の 顔があった  

まるで  母を見るように  なつかしく   

不思議な 時間だった   



ハーンがそこで 勧められて結婚  「小泉せつ」は  

関係ないが  僕の女房の  母の名だった  

2月生まれで  僕と一緒なのも  関係なかった  

ハーンは 決心して のちに  小泉を名乗る、帰化したのだ 

それは 東京帝国大学の 英文学講師に  就職した年  

これも関係ないが 退職しての 後任が  

夏目漱石 だった   

僕が 小泉八雲を 見直すきっかけに なったのは  

TV番組だった   ハーンが 八雲と名乗ったのは  


「八雲立つ 出雲八重垣  妻籠みに 

 八重垣作る  その八重垣を」   

  
古事記の歌から  採っている   

その「八雲立つ」 のテロップが  出てきたときは  

まったく  しびれてしまった   体が  

震えるのではないかと  思ったほどに   

一気に  万葉集などの  古代に  

持っていかれた、 と 感じた   

それは なんとも  気持ちの良い  感動だった  

こういう感動なら  避けることは  しないだろう   


そして  

ハーンが  怪談から  導き出したものは  

僕の  愛から 導き出したものに  共通項があると  

すぐに 気がついた   彼は  直覚していたのだ、と  

そうか  幽霊 か  そうとも 言うかも (うす笑い)  

「八雲立つ  ・・・」 そうか   なるほど  

そういうことか  と   トントン  

そうで ござりまする  

僕らは  回り 回って  とか  トントン  

それが そうでござる 時   

時、  

僕らは  もう 百年 二百年も前に  失ってしまった  

自分に  出会うので  ございましょう  


そんな  アホな   

とか   トントン









* ハーンという読みは正しい。ヘルンとは日本に来て、そう呼ばれた音で、 



本人も気に入って、そう呼ばれるのを喜んでいたらしい。
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