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自然の営みも僕らの営みも [自然]

YOUTUBEで自然の画像を検索した。

安曇野での清冽な水が流れる、水車

が三基下流50m先に回っている、

森の木々に囲まれた幅4mほどの川

の映像があった。美しい水、小鳥の

鳴き声も時々。

ここは訪れてみたい場所だ。

そう思い光景に惹かれ、眺めていると、

気がついてしまった。川の流れに

水面から顔を出す水草が、時々

流れに負けて潜り、しばし姿を見せ

ない。これはよくある現象なので

不思議ではない。が、4分も見て

いると、別な違和感を覚えた。これ

が自然をよく知る者の反応だろう、

と思う。

これは反復画像ではないか、と思い

始めた。ある程度の時間を撮りっ放し

にしておいて、後はそれをくり返す。

同じ水の流れに見えるので、バレる

ことはあまりない。

しかし、この違和感は僕の興を削ぐ

ものなので、検証した。これは自分

の何気げない反応が正しいものなのか、

といういつもの日頃の検証と同じもの。

そして、見つけた。

小さな白っぽい羽虫が画面手前から、

出て、下のほうを左へ移動して、左側

からはみ出て行って消えてしまう。

ずっと見ていると、それが2,3分で

またくり返す。同じ虫の種で、同じ

軌跡で飛んで、同じ場所から消える。

それでもう見るのを止めてしまった。

興が乗らないのである。


僕の知っている山の自然は自然を裏切ら

ない。それは当然のことなのだが、何が

違うかというと、自然は長い時間同じ

表情を続けることが出来ないのだ。

どこかしらかが少しずつ、あるいはそれ

まであった表情から急に別の表情に

変わる。雲の流れが少しずつ変形し

ながら流れるように、なにかが変わら

ない自然というものは自然ではない。



僕は山の生活でそれを学んだのかもしれ

ない。上高地の梓川の流れを見つめて、

飽くことがなかった、1時間くらいなら。

いつもそれ以下で切り上げていたが、

それは他に山の楽しみがあったからだ。

水流の流れに同じ変化がいつまで経って

も(近似はあっても)二度と起こらない

のに、感心したのもその頃の発見だ。

だから、同じ映像には自然と死のように

動かない何かを感じて、急に気づく。

なにかそういう疑いを前提に考えて

眺めているのではないから、これは

自然に身についたものだ。



前にも書いたが、CDの音楽は生の

演奏を編集してしまって、人間の耳

に聴こえない周波数は取り除いてし

まっている。僕らは生から少し違った

ものを聴いているのだが、それを

意識はできないと思いがちだが、最近

レコードの人気が上がって来て、中古

の書店チェーンでも、中古のレコード

の販売をするようになった。

レコードはほぼ生の音を拾い上げる。

聞こえてはいないハズなのだが、人

はレコードのほうが音が柔らかい、

とかやさしい、と言う。これは聴こえ

ない音を、聴こえてはいないが、なに

か感じ取っているということの証明

だろう。人の感性はさまざまなので、

聞こえない音を耳でなく、感じ取る

人もいるのだ。それもそんなに少数

ではない。

つまり、世界の自然は見えないもの、

聞こえない音、肌に感じるなにかで

満ちているが、それは見えず、聴こ

えず、肌に直接反応しないために、

記録されなかった。が、この世に

確かにある(存在)ものなのだ。

それを感じるには喧騒から離れる

必要があるだろうし、僕らは無意識

にそれを求めて、野や山に海に、

渋滞を覚悟して出かけるのかもしれ

ない。

そういう雰囲気だけでしかわからな

いものは、僕らが人間関係で敏感に

相手がどんな感情化を察知するように、

それと同じくらいに気づかず(自覚せず)

に察知していてもおかしくはない。

それはこれからも僕らを豊かにして

くれるなにかであるし、なにかで

あり続けるはずだ。

こうやって、気がつきにくいくり返し

の映像に気づくたびに、こういうこと

を見つけるたびに、山への感慨を

深めるのだ。そこには僕らの想像を

はるかに超越するなにかの塊がある、

と。

近くのそれなりに広く深い林のある

谷戸山公園に行っても、あの北アル

プスのはるかな雰囲気に出会えない、

という感慨はそういうことなのだ、

と。

IMGP0083 (1024x524).jpg

これは南アルプスで、たぶん、11年前。


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自然の条件と言われるもの [自然]

だんだん書く気が失せるのがわかる。

投稿よりも書き終えた記事のほうが

増え続け、7つも8つも溜まって

しまうということがなくなった。

言いたいことはほぼ書いたからだが、

それでもすべてを網羅して書いたか

と言うとそんなことはないと、細か

い部分はまだまだ残っているから。

テーマ別には随分と残してしまって

いる。つまり、それを書くには下調

べが必要でやたら時間がかかるので、

ブログにはそうそう落とし込めない、

となる。



興味が毎日変わる相当な気まぐれを

有しているので、一つのまとまった

ことは自分でも自分に期待できない。

誰かがいずれ書けばいいとも思って

いるので、余計に夢中になれない。

非常な、もの好き、で好奇心旺盛と

来ているから、新しいテーマを追っ

ていたら、陽は沈まないだろう。

気づいたら、夜だったとなる。

なので、今夜もまた深くなるかも

しれない心には描かれているテーマ

を書いてみよう。


ひとは死を恐れる、という普遍なテーマ

だが、いつからだか僕には無縁のテーマ

になった。自分という偶像は生きてい

ない、そこから生きていると錯覚され

た自分が死を恐れるのは十分に自然で、

確かなことだとわかる。

自分が恐れるのは「無」という闇で

そこから無価値や無名声や無評価を

残念に思い、そういう自分にされるの

を恐れる。死はその最大のピンチだろう。

それは自分を大事にする人は誰でも

逃れられない関門だ。

何の関門だ?  人生の関門というの

に、相応しいのだろう。

仏教の難点はその修行の段階で世間と

は疎遠になるように清貧の生活(出家)

を強いられるので、そのままだと生きた

ミイラを目指すほどに、死のオーラに

取り込まれてしまう。死を恐れない

どころか、感性を失くすので、死にた

いと思い始める。自分を失くすことを

していると簡単な哲学原理や科学理論

とか、そういう確固として見える(人間

がそういう風に造ったのだから、当然

なのだが)概念や宗教を信じやすくなる。

それを避けて自分という概念を突破する

のは強い自我を必要とする。それは自分

ではなくそれが現れているためのエネ

ルギーである。

自分という概念存在を突破すると、その

後は自分を支えていた社会概念が無く

なることを示しているので、とても

精神的に不安定になる。それからが

第二の関門になる。


もどってみる。

その前の第一関門、その前には死を

恐れる状態が続く。人から評価され

なくなったり、劣っているとされたり

することがプライドを非常に傷つける

気がする。

第一関門は自分を失くすことにあるので、

そこでは自分が無価値であることが何の

こともなくなる。つまり、それについて

心が抗わなくなるので無頓着になり、

またその気になった心からは世間の社会

的評価・価値ではない命の意義について

(目を向けるようになる)経験を得る。

これ自体は自分の死への恐れに対して

効果があり、畢竟死は無であることを

受け入れることができる。


心はこの時あると言えるのか、言えない

のか、僕はその人の意識次第だと思う。

最低、自意識は超えないと、そういう

経験はできない。心が思ったよりも

頼りないと感じるのもこの時だろう。

想像力は言葉ではないから、その人の

想像力が現実に即して想像が実際に

行えるのかについては、何とも言え

ない。

ライアル・ワトソンだったか、あの人

はそれについては信用できない。彼の

知識は素晴らしいし、科学と非科学の

境界を探るというテーマはいいが、彼

自身は直接は何もできない。

焼けた炭の上を速足で歩く火渡りでは、

記憶を失くして、ホテルで我を取り

戻して、足に炭のカスがついている

ので火渡りはしたのだろう、と自分

を胡麻化している。それは殺人犯が

ドアの向こうにいるかもしれない、

という現実の場面でも、記憶を失く

して家だか、どこだかに逃げ帰って

いる。自我エネルギーが現実に耐え

られないのは、しかたない。自分で

もそれを認めるかどうかは、別として。

彼の集めた事例はテレビでも紹介さ

れたらしいが、本もそういう事例は

面白いので楽しめる。



体は死を恐れるか。恐れはしないの

だろうが、死を感触すると、すぐ

さま対応して、ハイになったり気絶

したりする。

哲人だが、インドでは聖者と呼ばれる

J・クリシュナムルティは覚醒者で

瞑想を極限?までした人だが、もの

ごとに向き合うので、簡単に気絶する

人だったらしい。体の反応は心では

制御しがたい。

僕は50mのバンジージャンプを7,8

年前にしたことがあるが、飛び出して

からすぐに意識を失った。紐が全部

伸びて、1回くらい弧を描いて揺れ

始めた時に、気が付いた。3,4秒の

気絶だった。下で待ち構える、紐を

外す職員も誰も気絶に気づかなかった。


死を恐れることについて、人は知識

では対抗できない。どんな神秘的な

体験やスピリチュアルもその後に

言葉で概念的に閉じ込めることが

できるが、それは見たものをモルタル

で自分の印象として壁に塗ったような

もので、別なものを表現してしまった

のだ。他の人にはその人の体験があり、

それは別な色や感覚が盛り込まれ、

出てくる事象も違うだろう。

現象の経験、その神秘、幽霊やUFO

などの事象を見たり聞いたりしたのは

確かな事実でも、それは心理的事実

で、見る人によって変化してしまう

事象なのだ。違うのだが、同じテーマ

を見ている。僕らは自分が確かに見た

のだから、絶対だと思い込みやすいが、

それは相対的な経験で、自然はそう

いう働きをするものなのだ。

犯人を見たという目撃証言でも随分

異なる、矛盾した証言が重なるらしい。

思い込みは自分が誤っているのでは

なく、自然な状態なのだ。だから、

裁判のように客観的な証拠が重要に

なる。

僕らは直感に頼り過ぎる傾向がある

のも事態を複雑にしている。

また逆に言えば、事態が複雑になる

のがよくある一般的な事態なので、

異なる意見が噴出して、言論が発達

する余地があった。



死を恐れないということは、考えて

みるとわかるのだが、実際にはそう

いう気持ちにならないとそう「考え

る」ということさえできない。

死を恐れずに自分の心身などの安心

を得るとはどういうことか想像できる

だろうか?

そこから違ってくるのは明確なことだ。

そうなってみないと、理解には及ばない、

だから日常の環境で人が社会から断絶

されずにその気持ちになるのはほぼ

不可能だ。

生活への不安が極端に減ってしまう、

その気分のことだけヒントに言ってお

こう。

不安自体はなくなりはしない、それは

この世のあり方からしてあり得ない。

ただ不安に応じない心はつくれるので、

時に応じて無視してしまえるほどの

不安がいつものように生じるだけで、

それに囚われない。あればあるでいい、

なければないでいい、いろんな条件

を見据えてそうだと思う時、なるよう

になるのが見えるだけだ。その時に

なってみなければ、どれだけのことが

できるか、しなければならないかが、

わからないし、またそれが見える。

あとはそれに従う。自然とはそうした

ものだ。

心が無になったり、闇になったりは

ないが、そうしたものに適応ができる

ようになる。適応しさえすれば、ほぼ

不安は寄せつけない。

中国の荘子があれだけの気宇壮大な

心をもってしても政治に参加せず、

自分は泥の中にいるほうがいい、と

言って山の中に引き籠ってしまった

のも、ただ気楽に気儘に生きたいと

いうのが彼の望みだっただけだ。

参加するもしないも、その人の

望むがままだ、社会を客観化して

見ることで、その人がどう行動す

るかは、まったくその人まかせだ。


悟得というのは、自由な生き様を

体得するので、一見社会に反する、

または対抗するような場面に見え

もするが、ただ世界は人間社会中心

を超えて広がるので、生きるには

生活のカテゴリーが広く伸長して、

その中から自分に合うものを選ぶ

ようになるということだ。

自分の国を離れて海外で暮らすこと

を選ぶのならば、その国の風習・

習慣・制度によって生き方はまた

変わるだろう。

日本人を選ぶなら、きちんと税金を

収めるだろう。 笑



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僕らの夜と地球をごちる [自然]

ブログを書いている、・・今?  あまり意識していないことを意識  

している。これ(ブログを書く意識)から書くことは、なかったろう。あまり 

深く潜らずに今回は書いていきたい、(できれば、― 気分は僕の自由に 

ならないことが多い)。  

君はそこで何をしているのか、・・ が、とても気になる。 と言っても  

この時刻。 人は寝ている。僕は寝てみたが、短時で起きてしまい、  

音楽を聴く。体力があると、この時間はなにもしていないほうが、心地  

よい。映画やドラマなど刺激の強いものは、邪魔になる。 どの音楽が  

気に入るか、ロック、洋和ポピュラー、ジャズ、ボサノバ、中国古曲、 

クラシック、・・・とサーフィンするように切り替えて聴いてゆく。 気に  

入る曲というのはジャンルとは無関係なのだ。それにしても、書き始め  

てしまうことができると、不思議になんでもよくなる。耳に聞こえても、  

心は聴いていない状態で書くほうに集中しているから。  

1年も前か、それより少し前か、書かずにいられない内奥の(表現の)

蠢きは弱く、少なくなってきた。 それで書くことはいつでもFullにある 

のに、書かずとも夜を楽しめる、そんな生活になってきた。  

いつだったか、布団のまわりの本を片付けたのだが、あの斜めの本棚  

を作った時である、本の購買欲=好奇心だけは旺盛で、いつのまにか  

同じ分量の本が重なってしまっている。散らして読んで、あちこちへと  

渡るので、本もそこらに適当に置くから、元の、床が本だらけの部屋に 

もどってしまう。必要なのは、自分専用の図書館風の図書室だと思う。  

しかし、資金があってもそんな部屋は作らないだろう。きちんと整った  

本の部屋にはなじめないだろう。ものが雑然と置いてあるほうが落ち着く  

のだ。ゲーテも自分の家に書斎を持っていたが、なんとガランとした部屋  

で椅子と机だけがあったそうである。わかる。読書する本だけをもって  

その部屋に入ったのだろう。壁だけで、目移りする書棚は一切ない。  

集中して本が読めたのだろう。基礎から積み上げてやるほうが性に合って  

いる人はそれが似合っているのである。そういう「性」というのがどこから  

来ているのかと思うと面白い、不思議だからだ。  

ゲーテは科学研究もしていて、論文も多い。しかし、魔法的だったのでは  

ないか と、僕は勘ぐっている。ニュートンの光学に反対して、間違っている、  

と自信たっぷりに、自分の光学の大著をものにしている。僕の勘繰りでは  

実証できない非科学的な光学だったのではないか、といつか読むだろう、  

とその本だけは準備してある。   

科学は誰が実験しても、繰り返しても同じ結果が出せる、という実証性が  

決め手になる。ニュートンの光学が認められたのは、もちろんだが、ゲーテ  

のは実証性がなかったのだろう。理論だけでは認められないのが、基本。  

ゲーテの研究はむしろ、超能力者関係の方面で好まれ、認められている。  


夜の欠点は、体力や気力が落ちていると、孤独感に耐えがたくなることだ。  

寝るのが一番、となる。実際に”夜の気”ばかりを受ける生活は長くしない方 

がいいように思う。昼間の太陽のエネルギーは明瞭で、健康に明らかだから。  

それで夜も平気だという、今夜のような充実している時は十分にしあわせを  

味わえる。 夜明けが来るのが楽しみにさえ思える。ひとりを楽しむことが  

できるというのは、社会から受ける楽しみではないものを味わえる要素が  

身に備わった、ということが言えるのではないか、という気がする。 昼間は  

当たり前に楽しめる、それで夜も楽しめる、となると今の人生は得している、  

と感じる。 結果がすべての言い方だが、それまでの努力とか見返さなければ  

ということで、損得の帳尻は合っているように思えるのだ。 

夜は暗くてもいいのだ。書く都合で明るくしているが、なにもせずに真っ暗な  

部屋でも、変だろうが、十分楽しいのだ。 今だけが本来だが、今回は長く  

コロナが終わるくらいまで何か月も、音楽のある夜も、音楽のない夜も続く  

と思う。  

夜の底が割れて、白み始めて来た。一日を迎える。  

地球が自転していること。地軸が傾き、この速度で回転するから、この速さで  

夜が明ける。それがおよその東の空に及ぼす影響は、どうしてこうも美しい  

のか。どうして月はあるのか。月の重力によって、潮の満干があるだけでなく、  

地球の回転も安定した。なければ、毎年例外なく、異常気象状態だっただろう。  

自然を知らずに、侮ってはいけない。夜にも知られざる恩恵がある。人は  

見えない、聞こえない、感じもしない沈黙の恩恵があるのを、忘れつつある  

ようだ。 空がピンク色に染まりだした ・・。  (ソフトクリームを食べて  

祝いたくなるように、美しい <笑>。)


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基本的な自然の在り方を態度・姿勢から [自然]

自分の世界なのだが、どこまで行けばいいのかわからないくらいに

広いので、なにもせずに2、3時間は平気で経ってしまう。それでも

考える、というよりはお喋りをしているようで、ふと止まってこのテーマ

の前に何を話していたか、どこからこのテーマに移ったのか、と記憶を

たどろうとすると、何も浮かんでこない。僕らのふつうのお喋りも似た

ようなもので、どこからこの話になったのかはどうでもいいので、その場

その場で話がつながって、その経過には注意を払っていないものだ。  

自然について書こうとして、自分でも気づいていないほどに、当たり前だ

と思っていたことが、その本質だと気づき始めている。   

それは実に様々な方面、角度、見方からいろいろ言えるので、自分の見方に

それほど注意を払ってはいなかった。それは基本的な自然の在り方について、

となるものだろう。以前に書いたことも加えて、くり返しからまた始めて

みたい、と思う。       


魚の話は一番、人に話したことだ。 

最近気づいたことで、近くの目久尻川では道路脇なので、車の振動は毎日

なので観察できないが、相模川とか沼の魚はずいぶん遠くから僕らに気づい

ているようだ。ひとつは歩く時の振動であり、小石に靴が擦れた音であり、

そういう普段では聞かない音だろう。この魚の「普段」を考えると、川なら、

川岸から外の眺めを見ているのだから、ほぼ一年中同じ景色だろう。人が

通る歩道でなければそれこそ、ちょっとした影でも、少しの動くものでも

すぐに気づくだろう。毎日毎日同じものを見ていて、その変化に気づか

ない方がおかしい。

魚が人影に遠くから敏感に悟って、すぐに姿を消すのは、敏感さもその

優れた感覚にあるだろうが、それだけではなく、気づきやすい毎日の同じ

景色にあるのかもしれない。     

数十年も前に病気で、その病み上がりで相模川へ行った時に、土手で車を

下りて池になった川の支流に下りる。その時、腹を出した魚の死骸を見た。

魚、死んでる、と思った瞬間にその魚が水面でくるりと反転、川の底へ

姿を消してしまった。はじめ、意味が分からなかった。なんだ、今の?  

そこでその時は、魚が昼寝をしていたのだろう、と笑った。    

今はそう思っていない。想像だが、魚は体に着いた寄生虫や細菌を日光に

当てて殺菌していたのだろう。大きい魚が小魚に体に着いた虫を食べて

もらう、共生?とかの作業を似たように、日光の紫外線の殺菌力を利用して

いるのだろう。    

そこでもう一つ、疑問があった。いつもは敏感な魚がどうして気づかずに

僕が近づくのを許したのか、という。そこで思い出すと、僕は病み上がりで

精神的には幽霊のようなものだった。まあ死んでいたのだ。そこでふら~っ

と池面に3mも近づいて、昼寝?魚を発見したのだが、死んでいるのか、と。

次にそれを確かめようとじっと目を凝らした瞬間だった、魚が逃げたのは。   

この時、人間独特の”観察しよう”という「気(意欲の)」を発したのだ。   

この「気」というものは、生物全体に知られ、感じられているもので、なんと

昆虫もこの気を捉えて反射(逃走)に利用している。   

それはこれも数十年前だが、僕は手でゴキブリを捕まえることができた。彼は

その動き回る姿が気持ち悪い、僕もだ。が、ある時、その顔を観察した時に

意外に可愛い顔をしているのに驚いた。彼の気味悪さはきっと動き方にある

のだ、と思った。その頃、心の動きは波で、そのバイブレイションが相手に

伝わると、考えられる小さな事件が個人的にあった。それなら「愛」の波は

どうなのだろう、とゴキブリで試してみたのが最初だった。

これには先人がいて、動物作家の畑正憲だった。彼は野生動物公園(アフリカ?)

で草食動物から50m離れた場所から、無言で相手に言葉を送る。危害は加え

ないよ、とか友達だよ、とかささやきながら近づく。それを2時間続けて、その

草食動物の1m近くまで達することができた、と言う。僕もそれに倣ってゴキブリ

に近づこうとしたのだ。これはゴキブリへの嫌悪感を抑えながらだったので、なか

なか難しかった。けれども、驚くことにゴキブリが逃げないのだ。あのすばしこい

彼が、あきらかに戸惑っている様子で、小刻みに動いているが、逃げない。  

そうして3cmまで近づいたところで、さっと捕まえた。驚いた。あり得ないこと

が起こったと思った。そこで反省したのはやはり、人間が虫をつかまえようとした

瞬間に出す気が、ゴキブリにとって逃げる反応になるタイミングだったということ。

そう思った。僕らはそれを相手に前もって、瞬間早く教えていたのだ。それで彼ら

はその瞬間がわかったから、逃げる動作が瞬間早くできた。僕ら人間は昆虫や動物

に、もしかすると植物にもその「意欲の気」を数万年前から教えていたのだ。

彼らはそれを学んで、それを自分たちへの攻撃の合図と読んだのかもしれない。 

僕らがそうであるように、自然を、また自然から学ばない子供も彼らが僕らを

よく知っているのを知らない。虫取りでも魚とりでも「意欲」むき出しで虫に、

魚に向かってゆく。うまくいかない。相手を知らないのだ、そうなる。   

僕は山登りや瞑想をするうちに、そこら辺りを学ばせてもらった。だから、

近所に亀山公園というちっちゃな細長の公園があるが、そこに湧き水のある

これも小さな池がある。昔は湧水が豊かで流れ出ていたので、池にはそこまで

辿れるように置き石が”置いて”ある。お茶や珈琲の水を汲みに来る人が多くいた。

今は奥の方から染み出してきて汲めないので、訪れる人もいなくなった。

が、水量はそれなりにある。その池の水面は静かでとても水流があるとは

思えない。ところが、池から小さな水路があり、そこはやや下り坂で、水が

波打って流れている。その違いがあまりにはっきりしているので、返す返す

両方を眺めてしまうのだが、静と動で、変わりない。この静かな池のどこを

あれだけの水が流れているのか、見てもわからない。   

それは余談だが、この池にも小魚がいる。一匹になってしまったが、フナの

20cmもいる。静かな時間にそこを歩く時があると、そこで立ち止まって

みる。あとはただ突っ立っている。だいたい、10分くらい。すると、魚の

姿が一匹もいない池に、大抵魚が動き始める。景色に動きがないので安心

するのだろう。あちらこちらから、生き物が動き始める。   

これが自然の観察で、決してこちらから「意欲」で参戦してはいけないのだ。 

ただ心静かに待つ。そうすると、自然のほうでいつものように、いつもの姿を

見せてくれる。これは自然を相手にする時の作法のようなものだ。僕らが

よくする記念写真を撮る、網を持って追い回す、というタブーを冒さずとも

ただ待っているほうが、より豊かな世界を彼らのほうから見せてくれる。

そうすれば、彼らが彼らなりにどう人間と付き合うかに対応した歴史に

出会える。・・こともある。  

僕は最初、グアムでそれから日本の相模川、千葉の外房でそういうものに

出会った。100匹からの自然の小魚に囲まれるというのは、そうある

ことではない。当時はそれが当たり前だと、思っていた。それもいつか

話すかもしれない。

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