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ジェシー・ジェームズの暗殺と 風土 [風土]

映画を観ていて、あまり爽快さがなく、暗い結末をそのまま感じるようだと、  

観ないで録画を消してしまう。これがいつものことだが、ブラッドピット主演の  

「ジェシー・ジェイムズの暗殺」は違った。ジェシー・ジェイムズはアメリカの  

南北戦争後の時代で、その頃の列車強盗や銀行強盗で名の知られた  

アウトローだと、有名なので知っていた。暗殺と来れば、結末は暗いし、  

それは変わらない。が、 観ていて惹かれた。ジェシー・ジェイムズに惹かれ

たのか、ブラッドピットになのかわからなかった。無法者たちの平凡な心理の  

動きに、対照的に独特なジェームズの捉えどころのない、寝る時も銃を  

手から離さない裏切りと恐怖への感情が演技に現れる。  演技?だろうか。  

その時はそれを考えなかった。ジェシー・ジェイムズを知らなかったので、  

感情の動きの極端な、不眠症にもなったお尋ね者としての彼の生きざまに

見えた。その頃の通信と言えば、電話はまだなく、電報と新聞だけで  

ニュースは地方なら遅れて伝わる。また、まだ正義とか悪漢というものが  

世の中のヒーローの土台や主流だったので、ジェシー兄弟もそれを  

利用して、慈善や人助けをしたという宣伝を打ったらしい。人々がそういう  

ことを求めているので、銀行員や鉄道員の数々を殺したにも関わらず、  

ジェシー兄弟は一種、”強さ”の人気があった。

しかし、現実は懸賞金が高くなり、元の仲間が逮捕され、兄弟だけになり、  

新しく仲間をこれも二人兄弟をつくるが、大きなことはできなくなっていた。  

ジェシーは子供と妻の元に偽名で帰る。つまり、それでもそこで暮らせるほど  

周囲の人は、ジェシーの人相も知らないということ。娯楽が少ないことで、悪党

も人気者になれる、おおらかな時代だった。   

ここで伏線になって面白いのは、仲間になった兄弟の弟(19歳)は子供の

ころから、ジェシー兄弟の「物語」(出版されていた!)の大ファンで、ジェシー

にあこがれていたことだ。ところが、ひとつ性格に欠陥があるかのように、  

喋り方がとろくて、どこへいってもまともに扱ってもらえない、いじめられっ子  

タイプだった。  ジェシーがそういうのが前にも仲間にいて、裏切ったので  

殺したことをその弟に告げて、恐怖を植え付ける。ジェシーは人の感情を  

読むのに怖いくらい長けている。兄の方は映画では空気をよみすぎる平凡な

お調子者に演出されている。人がいいのである。  

映画では、そのジェシーを撃ち殺す日まで、そのジェシーの家で兄弟も  

暮らしている。二人はそのうちにジェシーに殺されるのではないかと話す。  

その暗殺の数日前だろう、印象的なことが起きる。弟、ボブだった、に

新品の銃をジェシーがプレゼントするのだ。(恐怖に苦しめた)謝罪だと。  

そして、暗殺当日、4月9日にジェシーは不思議なことをする。二人が  

いる居間で、隣人の目があるからと、ガンベルトを外す。次におかしなこと  

に壁に掛けられた絵に「絵が汚れている」と言って、椅子の上に立ち、  

(人に背を向けないジェシーが)二人に背を向けて、絵を掃除し始めるのだ。  

二人は目配せで、ボブと銃を構え、そして、躊躇する兄ではなく、ボブが  

ジェシーを撃つ。 20歳になっていたろう。 

ボブは喜び勇んでジェシーを殺したと、町へ電報を打ちに行く。まだ英雄

願望があって、のけ者ではなく自分がヒーローになったと思い込んだのだ。  


ここで惹かれた理由を述べてしまうが、見終わって、すぐにジェシー・ジェイムズ

を調べた。顔写真があって、やさしさと悲哀のあるヒーローの顔ではなかった。  

冷たい、非情な男の顔だった。似ていると言えば、織田信長だろう。  

今、そう考えて信長を出したが、信長も裏切りで暗殺されている。これは  

潜在意識も多少あるかもしれないが、ほぼ顔の印象(信長は絵)で間違いない。  

映画での殺され方は映画の中では語っていないが、ジェシーが逃亡に  

疲れて殺されるように仕向けて(わざわざ背を向けて)、自殺したように

描かれている。  

この演出はブラッドピットによるものかもしれない。というのは、この映画には  

ただの商業映画にはない思い入れがある、と僕は感じるからだ。まず時間が  

160分と長い。商業映画は大河作品ではない場合は、120分前後で、観客の  

映画館での入れ替えを考えた、観客動員数、すなわち売上げを計算に入れる。  

それが通常だ。大河でもなく、大がかりなエンタメでもない、文芸風の暗い作品  

には長すぎる時間だ。TVでは前後に分けて、2週に分けて放映している。  

ピットはこの映画のプロヂュースもしている。だから、自分が作りたかった  

映画だろう。自分で金を出して、納得のいくものを作りたかった。それが160分  

という時間だったのだと思う。そして、主演(ジェシージェームズ役)をはって、  

見事にアカデミー賞主演男優賞を獲得したという。  彼の演技が審査員を  

魅了したからだろう。だが、そこが僕の惹かれたところと、まったく同じだが、  

たぶん受け取っているものは違うだろう。  

ブラッドピットは顔認証ができない障害者だと聞いている。前にも書いたが、  

トム・クルーズ、キーラ・ナイトレイ(学習障害)、ジョニー・デップ(障害者ではない

が、アルコール依存症)と、ハリウッドには多い一人だ。顔認証ができないので、  

顔の記憶ができない、つまり何度会ってもその人の顔を覚えられない。姿や  

声、衣装でしか認識できないらしい。それは顔のない世界にいるようなもの。  

当然、普通にふるまえるが、その日に会ったり、話した相手の顔はもう夜には  

いつもないのだ。人とは違う。彼がどうやってその認証をしていたか知らないし、  

どんな感覚でそれを克服したのかも知らないが、克服しなければ映画の世界

で活躍はできなかったろう。そう言えば、前に出た映画で裏社会の素手で  

殴り合うようなファイターを演じていたけれども、あれもネタバレを娘から聞いて  

驚いたことがある。二重人格者のファイターなのだ。それからもピットが意識  

して障害からの孤独を演じていたことがわかる。  アンジェリーナ・ジョリー  

と離婚したが、彼女のおかげでずいぶん自信をもって歩き始めた、との  

評論を読んだが、そうであるなら喜ばしい前進だろう。   

演技は意識したもので、そこには技術や計算が働いていて、見る者を引き

込まなければ、いい演技とは言えない。また、リアルすぎる演技も見る者に  

受け入れる余地をまったく与えないのは、失格だろう。演技なのにすごい、  

とか笑わせる、という塩梅が必要。それもその社会の環境次第だが。  

僕が惹かれたのは、ピットがほんものの恐怖の威圧、孤独というものを  

自身の顔なしの世界から演技にすることができたという、ほんものとの出会い

ということにあったろう。  

ここでそれを裏付ける暗殺のその後が、映画で続くのである。ボブの兄弟は  

全米で有名になり、小劇場などでその暗殺の場面を戯曲仕立てにして、二人  

で演じだすのである。しかし、その熱も冷め、観客からは「臆病者」、「裏切者」、  

「小心者」という罵声が飛ぶようになる。後ろから撃ったのだから、それは  

否定できない。兄は気を病んで、自殺。ボブも孤独な生活になったらしい。  

そして、ジェシーの前の仲間がボブに密告されて死んだのではないかと、  

その仲間の家族の親父?らしいのが、ついにボブを撃ち殺してしまう。  

ここまで描いているのは、ピットがその裏切者のボブにさえ、またアウトロー  

という孤独になり、惨めな最期を迎える宿命のようなものに、彼が心を  

寄せたからだろう。  


さて、以上は感想に見えるが、ほんとうの感想ではない。もうひとつ合わせる

べき僕なりには避けられない感想がある。それは当時のアメリカというものだ。  

映画も、ジェシーも、ピットも離れて、ジェシー・ジェイムズという人殺しを  

ヒーローにしたアメリカという風土についてである。

人を殺してはいけない、というのは絶対の常識のように子供の時に  

思っていたが、世間を知る頃には、正当防衛は殺人も罪にならないとか、  

事情によっては情状酌量がある、というのは初めて知った時には驚きの  

ものだった。今の日本では隣人が殺されでもしたら、それは非日常なこと  

であり、「近所でこんなことが起こるとは思わなかった」というショックの  

発言になるのだが、戦争後の南部で誰でも銃をぶる下げているような  

環境では危険はいつでもそこにある、と感じる。人が銃で撃たれるという

のは、より日常に近い感覚があっただろう。だからより人殺しの事実よりも  

戦いに勝つ(例えば西部開拓史における先住民との闘い)、ということから  

強さが尊ばれ、それは自然にヒーロー願望につながる。  


トランプは言葉に強く、そこを(選挙のためのプロパガンダとして)突くのを  

忘れない。「強いアメリカ」はそれを示している。J・F・ケネディも「開拓  

精神」をプロパガンダに使っていた。政治家は選挙民頼りなので、言うことは  

あまり変わらない。現実は公約通りにはいかない。不本意ながらも公約を  

実行できずに結果として、嘘をつくことになる。そして、それを踏まえて、  

いまでは嘘をついても、勝てばいい、という暗黙の了解になってしまって

いて、嘘を公然とつくようになっている。日本の現政権を見ていても明らか

だ。余談だが・・・。  

それで当時のアメリカでは、人殺しだろうがなんだろうが、娯楽もないし  

いつも銃の危険を抱えていた人たちには、貧しいものに例え強盗したもの

でも分け与える、そういうヒーローを自分たちも担ぎ上げたかった、それが

よい日常の憂さ晴らしであり、楽しい話題であったのではないか。   

それでだが、アメリカには日本のような杓子定規の道徳、という観念は  

ないのだ。日本人にも今の自分の道徳意識が、世界から見て融通のない  

ものという観念・意識がないのではないだろうか。 なんにでも功罪が  

あり、X X は正しい、とか、O O は嫌いだ、とかいう A = B という文は、

現実では成立しない。イメージは厳密さに欠けるから。


おまけに::

ブラッド・ピットに戻るが、ハリウッドの映画スターとなれば50億円の

プライベートジェットも買える金持ちで、現代では成功者としてのヒーロー  

だろう。たしかに社会的自由は金で買えるが、それにしても人を扱う苦労が

伴う。それ以上に、それほど自由にはならないのが、心の自由、ヒーローでも

それはいかんともしがたい。ハリウッドの虚飾の世界、映画は演じる世界で 

それは自分自身ではない。ピットはそれを合わせ鏡のように、自分に照らして

顔のない世界でよりよく感じさせられていただろう、世間の思惑とは違う、と。

それで彼は”ジェシー・ジェームズたち”アウトローに寄せて、自らを写して

みたかったのだろう。  



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