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ひとり言:精神遺産という投資・投機 [独言]

なにも変わらない。もしも、僕らの世界がなにも  

変わらないとしたら、恐らく、僕らが恐れるもの  

になるだろう。僕らは望むものがある。周囲も  

自分も体も年齢も変わり、変化して変わり続ける。

それが変わらなかった時を経験したことがない。

変化の場合の数が多いと、思うとおりに物事を  

進めるのは難しくなる。想定外をカバーしきれ  

なくなる。

それでいい変化が得られないことが多く、僕ら  

はいい時を止めて、その時が変わらないように  

願うが、それは幻だ。僕らは一生続く幸福感を  

願うが、いっ時しか味わったことがない。すぐに  

短時間、短日で消えてしまった経験しかないから、 

そう願うのだ。

それは以前も書いたが、ストレスが多く、疲れる  

と、大抵考えることは誰しも同じだ。もう働かず 

に、好きなものを食べて、好きな場所へ旅行して、 

気の合う伴侶がいて、生活費も遊興も何の心配

もない不労所得があること。  

そういう生活を求めることは、ひとつの投機でもある。  

さして実のない目的に標準を合わせているとしたら、  

僕らはそうと知ったら、さぞかし落胆するだろうが、 

それはどこの国かもしれない見知らぬ大金を得る 

ようなもの。  

札束が山のように送られてきたが、貨幣価値も  

わからない、両替もできないのなら、ただの偽札と  

同じだ。ゲームのお札にでも使ってくれと、安く  

売るしか価値がない。アンティークの価値もない  

だろう。  

しかし、贅沢な生活には、貧困に苦しむことが 

ないだろうから、一定の生活の価値はある。  

問題は好きなことがやれることだ。それも物との  

交換できる価値のものなら、ほぼ手に入れられる。  

どうして良いことばかりで問題なのか。それは 

チョコレートの大好きな子供がお金の主権を  

持ったようなもので、お金を何に使っても誰も  

文句は言えないから、チョコで法律が破られる  

こともないから、子供は病気になるまでチョコ  

を食べ続けるはずだ。経験したことがない  

のは、親がいてお金の主権を持っているから。 

それで助かっている。  

お金がもう必要ないと思っている者だけが  

使い切れない資金からの無謀な使い方から  

自由になれる。または一度自由にお金を  

使いまくって受けた苦い経験から、なにか 

学んだ者がその暴挙から免れる。それ以外 

で、持ったことのない大金を使い放題に  

なった時に、自分を制御できる人間は、まず  

いない。  

それは覚せい剤を3回打っても、自分は  

覚せい剤の中毒にはならない、と思う  

ようなもので、信用ならない。それほど  

自我の暴走は力を持つと、自分の自由  

にはならない。  

例えば、僕の場合は、精神的だったので、  

毎日が「自由」を謳歌しなければ、と学術や  

美術・博物関連の館を訪れ、海外に行き 

まくり、過労で入院してしまった。直前まで  

出雲や熊野古道に、箱根とか、高尾山とか  

行っていたが、その頃になると、精神状態は  

異常だった。それは強迫観念だった。自分は  

自由に行動するだけの環境・手段を手に入れ  

たのだから、「自由でなければならない、満喫 

しなければ!!」と思い込んでいた。それを 

自分では気づかないほどに思い込んでいた。 

その暴挙から過労で持病が起こり、高熱で  

入院となった。そして病気との闘いだけでなく、 

病院との闘いも始まった。それは省略。  

ともかく、自分で本棚の裏に一時的に隠した  

300万円の札束を忘れていたほどだった。 

それを発見して、初めはわからなかったので  

宝くじに当たったようだった、気分は。遺産を  

計算して、元から自分の金だとわかった。  

それからはお金が、もとより淡白だったが、  

気にならなくなった。遺産を使い切り、借金  

が少しできた処で、真剣になったら、大手  

建設のいい仕事が来て、月に10日の仕事 

で30万を稼げた。借金はすぐ消えたし、預金 

にも回せる。そして、コロナでその仕事が  

なくなる2ヵ月前に辞めた。まだコロナの初期  

だったが充分に感染危機の予想ができた。  

今はまた政府に借金をしているが、すぐに

返金計画に頭が働くので、未だにお金の心配

をしたことがない。  

難民問題とか言われる前から、インドでは  

カルカッタに2万人の難民がいて、曲がった  

釘や、ビール瓶の栓とか、まったく役に立た  

ない物も売っていた、貧困というものを見て、  

手足をわざと切られた乞食を接するほどに  

まじかにする経験をすると、日本のどこに  

貧困があるのか、目を疑う。  

貧しさについて世界標準は、日本にはない。  

日本は先進国のトップ10に入っているから、  

世界標準なら、貧しくなりようがない。しかし、  

周囲はそれなりの生活水準があるから、  

400万人くらいだろうか、先進国水準では 

貧しいのである。  

日本で革命じみた暴動が起こらないのは、  

全体では生活水準が高いからだ。生活  

保護を受ければ、下手に少ない年金を  

もらうよりも、いい生活ができる。目についた  

人でも、アパート代が7万も払っていて、金  

がない金がない、と言っている有様。その  

人自身に自分をコントロールすることが  

まるでできていないのだ。初めから、生活  

失格者なのだ。

40万人くらいは極貧だと思う人たちがいる  

のだろう。若者でもいるから、結婚も希望も  

将来もない。彼らは戦争が起こってほしいと  

さえ思っている。なにかする、ことができる  

からだ。僕らは目的やなんらかの使命感 

なしで無為に生きるという訓練はしてこな  

かったから、何もしないでいるのはかなり  

苦痛で、不得意なのだ。  

ここで政府を絡めて、政治批判にも行ける  

のだが、その字数もないので、まとめよう。  


国際社会から言えば、日本の貧困は小局  

で、大局からエネルギーや難民、水という  

ものを守ったり、獲得したりする一国の行方  

を左右する問題ではない。日本の政治の  

国内問題だ。

それは拉致問題でもそうだが、安倍政権当時、
  
最重要事項であるとか言っていたが、何を  

したのか、なにもしていない。僕らの国内  

問題と同じように扱われ、選挙以外では  

ほぼ関心がない。そう思わせないように  

宣伝文句は変わらない。だから、僕の選挙区  

にある甘利は過去の不祥事を説明不足のまま  

押し通したので、落選させられた。僕らはバカ  

ではない。ちゃんと彼に投票しなかったのだ。



日本について、まだなにかをしゃべれる処まで  

行っていない。重要なターニングポイントは聖徳  

太子と大化の改新、明治維新、日清日露戦争、  

大東亜戦争で敗れてしまったこと、その後の 

占領政策、その他には古事記・日本書紀・  

十七条の憲法・御成敗式目・・・・・・、等々。

本ばかりが増える。思いついただけだが、 

読めば読むだけ関連本が増え続けるだろう。  


これが今の僕の投資だろう、しかし、投機でも  

あると思っている。旧約聖書も、ブッダも、孔子も  

老子も、ソクラテスも、その他の考え事をした  

近代人・現代人たちも外せないからだ。  

それは僕には人類は集約して或るひとかたまりに 

見える膨大な人間に臨め、感じるからだ。

ホモ・サピエンスとして見る時間はないかもしれ  

ないが、ヒューマンとして僕は臨もうとしている。  

これは大局の話だ。ブログでは小局の話になり  

やすい。取り混ぜて話したりしているので、話が  

見えにくいことが多いのかもしれない。  

そういうことをしているから、僕は生活は賭けの  

ように感じている。今日には今日の賭けがある。  

書けるか、書けないかもそうだ。それが投資でも  

投機でも、内容が精神的な話のことである。
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それは後悔したものだったのか [独言]

静かな夕べを 思い描こう と  

なにも   ふと   

なにも  思い描けない   

言葉の イメージは  映画の  

場面を  浮かべる  

ここには  静かな、という  

音が  ない   

代りに  別な音を  聴こう  

多少は  聞こえる  車の 音  

街は  ほんとに  眠らない  

耳の中では  オーケストラの  

ロマンが  奏でられ   

気分の よさに  

気を  まぎらせて くれる  

天上から  銃弾で  

撃たれてしまったら  どうだろう?  

階下から  首長竜が  

僕を  喰いに来たら  どうだろう?  

それは  霧のような  儚い 空想  

すぐに  かすれて  

退廃の  疲れ切った  音が  

聴こえてくる   

そうして  誰かが   満足そうに  

黄昏(たそがれ)・・・ている 
 


その時だけ   

静けさ という  聞こえない  

空気が  流れる  

過去が  聞こえる、、、  

足音のように  リズムを とって  

慰めは  いらないのに  

聴き 入る ・・・  



留め金が  きちっと はまった  

トランクのように   空が 過(よぎ) る  

覚えて いるよ   

忘れないで  

君のこと   

忘れないよ  

涙の 川に  足を浸すと  

気持ちの  重い分 だけ  

川に  沈むよう  

さようなら    僕らよ  と  

別れを  告げる  ほどに  

腰まで  水が  押し寄せる  

そうなんだ   

僕は   沈むんだ   

このまま  沈んでしまうんだ  

それが  どうして   こんなに   

せつなくて   せつなくて  

泣きたいくらい  なのか  

さようなら   僕ら    

僕だった  ものたちよ  

最初の 人間になるというのは   

このことだったんだね  



語られることのない  この 世界  

悠久さの  行列   

語られることのない  

夕べ  



悲しみの ように  きらびやかな  金色たち  

待たせる つもりは  なかったよ  

僕は  来たよ    

この   世界 へ   

石畳の  果て へ  

語り継ぐ  ものたち よ  

その 笛のような  声  

その  消えてゆく   愛   

その  鳴り物入りの  ドレス  

その  しびれゆく  僕の  

体だった  もの   


歩いている宇宙飛行士_LI (2).jpg


宇宙線(陽秋:構成画)


それは 後悔したものだった と  

聞こえなくなった、 ・・  

一日が スクロール  している  

”ほとんど” という  坂の上の扉が   

閉じようと  している  



その時  

パーフェクトは  降りかかって  来るだろうか  

大いに  気さくに   笑いかけて  


また   

一日が スクロール  している  


それは 後悔したものだった と  

また

聞こえなくなった、 ・・ 
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透明に近い豊かな暗闇 (独り言) [独言]

ハロウィーンパーティ、したことない。 

興味もなかった、今も昔も。それより、自分の状況を 

気持ちと共に整理してみたい。いつもの独り言だが、 

僕は独断専行していないか、チェックする気でいる。 

なにかを書くわけではなく、こうしてつぶやいているだけで 

なにかを、気にしているなにかがはっきりしてくる。 

それを心にとどめながら、異なる情緒を書いてゆく。 

そうして心は二重の舞台を演じることで、落ち着いてゆく。 


猫は元気だ、まだ。野良猫の寿命は短いのだろうが、 

いつ生まれたかわからないから、予測はできない。 

彼女と同じような自分なのか、と尋ねることがある。 

しかし、野良のように人間の男の大人を警戒する 

ように、僕はなにかを警戒する必要はない。彼女は 

動物の心だから、警戒するからといって、孤独である 

というのではない。狼の遠吠えはやけに悲しく聞こえるが、 

猫の寂しい鳴き声というのは、人の話にも聞いたこと

はない。

僕はこの孤独がよくわからない。その寂寥感を感じたく 

ないがために抑えているのかとも、と思ってみるが、心は 

答えてくれたことがない。そんなに自分を甘さに浸して 

自分が人間性のある人間だなどと、演出する気負いの

ようなものはどうでもいいし、自分の弱さは知っている

つもりだ。人の間に入って仕事や労働を遂行しなければ 

いけない時に心を引き締めて、余裕を見せながら、油断は 

しないで反撃の準備は怠らない、というようなことはもう 

うんざりするほどやってきた。

夜の外に出ると、外気が暗く、涼しい。まあまあ空も晴れて 

いて、雲が少ないので星も適当に見える。山では満天の 

星を見たので、その百分の1の星でも、見えているほうだと

承知している。だが、星が観察できるくらいだ、というような 

ことは、やはり二の次で、この星に抱かれるかどうか、だ。 

一瞬、星に包まれる。それだけで記憶が蘇り、あとはその 

記憶の感興に包まれるのだ。だから、今心は閉じ気味だ。 

初めて星に包まれた晩は凄まじいもので、星空の中にいた。 

その空を見上げているのに、感じているのは、星々が 

僕を包み込んで、星たちから見られているようだった、と 

いうことだ。僕にはそれが決定的な瞬間で、何度かあった。

星を観察するように見ている時は、それは自分であり、 

また知というものの行為だった。それは星と一緒になった

感興が覚めてから、わかることだった。僕の感覚ではそれが

正覚だと感じた。 星たちと一緒だと、命が惜しいとか、孤独 

だとかはただの雑念で、幸福や自在感があって、それらを 

まとめた自由の感覚があった。すると、それが素晴らしい 

人生の”時”だと如実にわかるのだ。 そういう過去を思い 

出した。 島でや、山頂では星があり過ぎて、大きい、小さい 

の区別がつかないので、星座などは見分けられないくらい 

だった。

それで、地上のここでは星空には期待しない。わかりやすい 

南十字星*とかオリオン座とか探す。見れば、即見つかるのが 

北極星だ。近くにそれくらいの同じ大きさの星がいないので、

すぐに北極星に引き寄せられる。そして、どうして北極星は

すぐに見つかるのだ?と少し、不思議に思うのだ。

今晩は北極星を探す星のほうが見つからないと思ったら、北斗

七星のひっくり返った柄杓が見つかった。柄杓の最後の二つの

星の距離を4倍くらい伸ばすと、そこに北極星がいる。 小学校

で習ったような気もするが・・。 

満天の星はほんとうにゴージャスで、街のイルミネイションが 

ゴミのように思えるくらいだ。数えると、全天で二万くらいの星

がチカチカ輝いている。見ようとすると、あまりに遠いためか 

距離感が掴めないで、そこにあるようにも、ずっと遠くにある 

ようにも見える。それって、どこにあるのかわからないことなの 

だろう。それでますます星に魅入られるように見入る。 

十分に心が開くと、(実際にはあり得ないが)意識のない心と 

星とが友達であるような全体感に包まれる。

(もう僕は裏の心で自由を泳いでいる) 

心を開放し続けると、ある時点で穴が開くのかもしれない。 

が、そうなることはなく、その手前で僕らは我に返ってしまう。 

我に返ってしまう、という常套句もよくできた言葉でこれは

自分に帰ってしまうという意味だ。それまでは自分から離れて 

いたという事実を示している。感興というのは、そういう自分を 

断ち切った状態に横たわった世界であるようだ。 

僕はそういうことを、よく言われる「自然との一体感」という 

言葉を使わない。嫌いなのだ。我に返って「素晴らしい夜空だ」 

と言葉を頭で使った瞬間に、9億9999万9999の豊かな感興の

情報は消え失せ、1だけの言葉に集約されてしまう。豊かな

事実を無意識に捨ててしまっている。それほど現代では感興

にとどまることすらが難しいのだ。

はしゃぎたてない。騒がない。愛の性質とか傾向を知ると、 

喜びを抑えることをする。低刺激で、静かに喜ぶ。 

葬儀で泣きじゃくる子供は可愛いが、同じように大人が 

したら、冷たい眼で見られる。涙をこらえている人を見ると 

知らずもらい泣きしそうになる。もらい泣く。どうしてか、 

悲しみを抑えるほうが悲しみをあふれさせて、周囲の人に 

伝播するのである。もらい泣く、というのもよくできた言葉 

である。 愛も似ているところがあり、喜びを抑えると、自然

に笑みがこぼれる。げらげら一人で笑いまくっていたら、 

狂っていると思われてしまう。 

こうした感興の後にその余韻を尋ねると、自分がどこにも 

いなかったので、今まで「僕はどこにいるのか」と散々言って、 

書いてきたのだろう。どうもその感覚を現わそうとした感嘆詞

らしい。


僕はどこにいるのか。なぜ僕だけがしあわせなのだろう? 

この自然との共感はいつも一人の時が多く、他の人が 

しあわせじゃないと言っているのではないようだ。僕は 

たぶん、死と共に孤独にある時にしあわせを感じることが 

できる独特な一面があり、その意味では仏教的なのかも

しれない。 

宮沢賢治とか、南方熊楠とか、あと誰だったか、臨終の時 

に大輪のハスの花だかを見ながら、静かに息を引き取る 

という話を読んだことがあるが、それがふつうに子供っぽい

空想話に終わらずに、だんだん美しい話に思えてくるから、

長く生きていると、人は変わるものだと思う。



*南十字星は和歌山県の最南端や沖縄などで見ること 

 ができる。

                 10.29 ハロウィンの頃
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独り言のための独り言 [独言]

ブログがなにかを報告する義務があるのなら、報告する  

何物もないことを報告することで、義務を果たせるといった  

ことを考える人はいないだろう。 義務という堅苦しい務めを  

背負っているようなのが、ブログであるはずもない。  

皆、気楽にやっているのだから、それで十分だ。  

そういう社会の制約を取り払ってみると、ブログは書かれていない  

原稿用紙のように、白い空間画面だ。 文字を適当に打っていく  

だけで何事かが刻まれていくように感じるのも、小さな事業を  

為してゆくかのように、気持ちがいい。  

自分とは、何か。 とも考えない。  

世界は、あるのか。 とも考えない。  

昨年の10月の入院での、病院での騒ぎも、ほんとだ。  

遠い昔のことだ。 と、それは思う。  

こうして決して姿勢も楽ではなく、坐っていると、ここにいる  

のが何事かであるのを、感じる。 取り立てて言うことではないのを  

知りながら、いつもそれを感じることを言っておきたい。  

誰のためでもなく、  

誰に向かってでもなく、  

自分に向かってでさえない。  そう思う。  

そ ・・う  ・・思う。  

信じがたいが、こうして坐って来た長い年月は、こうして  

坐って来たことに、つながっている。 もとよりそれに意味があるわけ  

ではないのは承知だが、 これをなにもないと否定してしまったら  

その時には、胸がさわぐだろう、と予感してしまう。  

それだけのことが、こうして坐っていて、起こったからだ。 この  

ブログ記事の数は、それを自分に照らし合わせてみると、すぐに  

わかる。ここであったから、それを思い出すことができて、それを  

思い出している、・・のではないようだ。  

それは強制されているのではないが、意識してみると、そうされていた  

ような、・・ある感覚が ・・・・ある。  

これからは追及できない。  すぐにわかってしまうのが、(自分でも  

思うのだが)、期待外れだ。  

チェロを演奏するように、こちらがリードして自分の力をセーブして  

曲を開放してやる、といった芸当はできない。  

テニスのガットを張るように、好きな調整もできない。  

弦。  

ガット。  

少し、自分を休憩させてやると、 こんなことしていていいのだろうか、  

と楽しむのに少し、不安げだ。  

文化を、  ・・  

ああ、  文化を  発信せよ。  

― そんな言葉が  聞こえる。  

意味不明だが、  書く時に坐る、ということが  

ただ 機械の前に坐る、という 行為とは”差”を感じる。  

この差が  すべてなのだ。 いつも同じで、芸がないのだが、  

そこになにかがあって、  そのなにかが すべてだ、と  

自分に 教えるのだ。 言葉の説明に正確さは欠ける、承知している。  

でも、そこに当たり前でない、僕らが 言葉にしてこなかった  

それを  悠然と  思うのだ。  

他にどう思えばいいのか?  悠然と 思う 以外に。  

僕らは  悠然。  

僕は  悠然。  

それは茫洋のように  どこだか見当がつかない、 そんな  

ボーヨーではない。  きちんとしている。  

たぶん、音楽に似ている。  その音で、 確かな感動が  

あるにも関わらず、  音を止めれば、  なにもかも  

跡形もなく  消える。  それが わかっている。  

でも、あったのだ。  素晴らしい、  なにかが。  

むなしいのではない、  心に旋律が 残る。  

消えても、  自分には残る。  

そして、  それで  たぶん、   

僕は 坐るのだ。  それが  ・・ 忘れられなくて。  


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もどかしさの独り言 [独言]

人の心を 打つ  

よく 琴線に触れる、 とかいう  

それが 大事と思いながら、 そのか細さに  

弱い、  と思う    

琴線が触れ合うなら  それは 周波数が 合うように  

弱さが  触れ合うことだろう   

それが  そのまま弱さであるなら  ただ  弱さで  

終わっていただろう   そこからは  ため息だけの世界だ  

その美しい弱さを  伝える人がいる  

それが 唯一  直接に 伝えられるのが  歌声ではないか、  

と。  

同じ歌を  歌っても  天性のその声を持った人には  

敵わない   全然、 ちがうのだ  

声の伸び  繊細なイントネイションが  震えが   

見えない手のように  ハートを なでる  

その弱さを  支える  ものはないが  (個の内にだが)  

それを支えるのは  技術や  協力者 だろう  

それは 誰もが  ギャップとして  感じる  

それが  不安となり、  琴線を大きく  揺さぶる   

わかっている、  わかっているのよ   と   

弱くても  立ち上がって  歌っている   

その姿にも   拍手を 送るのだ   

がさつで  なんの 琴線も持ち合わせていない、  

そんな人も  いるようだ   

そういう人を  感動させることは  できない  

異常なことに  興奮するかもしれないが、  

美しさとは  無縁な人たち   、  いる   

それらの人でも  単一なグループではなく、  

特別な 才能を持っていたり、  そのために  

独特な生活を する人もいる  

病気と言える人でも  女性だが、  恋ができない  

動物を  愛する人だ   人間という種に  

まったく  興味がないし 感動することがない  

落ち着くのは  動物といる時だけなのだ  

頭脳は  優秀で  博士号を取って  

動物関係の 事業で  しっかり生活している (感心)  

この世で  強さは  男性系を  示してきたが  

それでも  ずいぶんと  女性系の  弱さが  

進出できて  強さは縮小されて  狭い範囲で

集中して  暴力ばかりが  目立つようになった  

そう見えるのは  僕の見方が  偏っているからか  

女性的な  つまり  文化的だということだが  

そういう方向に  世界は  進んでいる、という論文を  

書く  科学者も  いた  

僕は ボクシングを  観ても  あまり 感動しない  

一時的な  興奮はあるが  すぐに  忘れてしまう  

それよりも  大学のサークルか何かで  学生の

試合があった   そこでは テクニックの者が  優勢で  

相手を  圧倒していた。   ところが、パンチが  

一発当てられた!  その一発で なんと  彼は  劣勢に  

なってしまった   その印象が  何度も見たボクシングの  

印象よりも  強く 残っている   

彼は  一発のパンチに  戦意を喪失したのだ   

テクニック巧者の彼にとって  初めての急所への  

パンチだったのだろう   あれほどの 優勢が まったく  

なくなり、  顔には 明らかに  恐怖の影があった  

これが  ほんとの ボクシングだ、と思った  

僕ら素人が  試合をしたら、  こんなものなのだ  

戦意を喪失しない、そういう精神の持ち主でないと  

ボクシングは  うまい、下手ではないのだ  

弱さは  徹底して 弱い   技術では 勝てない  


強い世界と  弱い世界は  どっちがどうではないが  

それぞれの 美しさがある   

現代は  強さが 虐げられて  がさつさしか  見せられないのでは  

ないだろうか、と  ふと  思った   

現代では  ちょっと血が流れても  大騒ぎをする  

道徳的であるのは  よくないことではないが   おかしなくらいに  

できなかったことを  言い訳するように  

自分を責める 繊細さ的に  弱い行動を見る  


愛が 犠牲的だ  というのは 誤解だ  

愛は  相手に対する  究極の弱さで  相手の  

立ち位置に  立てることだ  

愛を抱いて  強く行動するのは  まったく  

自然に反している    が、   

それができることが  強いことでもある

具体例が必要な 事柄だが、  弱さに 倒れる愛は  

そのために  美しく  愛おしいと  人は  思う   

僕は  少し  不満だ  

それだけの 違いだ  弱さにも レベルや功罪があると、  

思うので  弱さに なるべくしてなった ことには  文句を  

言うつもりはないが   仕方ないと思えることでも  

ルールに強がるのではなく、  大多数を選択したから  

良いではなく  そういう社会的な(民主主義的な) 強さを越えたもの  

そういう 強さがあってもいい、  と思う。  

それを特定したり、 今は指摘できないが (未達・未熟のため) 

あれば  パンデミックでも  大事故に遭遇しても  

それにふつうに 対処できるだろうし  根本的な 改革・治癒についても  

やがて 考えが及んでゆけるだろう、  と想像するのだ。

  
* 僕らはいつでも 5万通りからの 判断を  その場で  

しなくてはならない、  そういう場面にいる。 これは 右腕を 

動かすだけでも、 脳のシナプスが 行っている 1秒間の回数だ。  

僕らの 限られた人間は  A I やI C チップスと つながって さらに  

スピードを要する 仕事をするようになるの かもしれない。


それも 一般は のんびりできればいい、 という話だが ・・・。
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