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快い世界の真理リズム [真理]

長いので、目次:息切れしたら、

           休憩を。


1.快くない真理リズム

2.わからないことの永遠性

3.快い真理リズム


1.快くない真理リズム


思い返せば、なにも書くことがない

と言って、その理由を反発的な自分

を鼓舞するのが目的だと言って来た。

何もないと言えば、そんなことはない

と反応する自分がいる。その自分を立ち

上がらして反発の勢いで書くのが狙いだ、

という意味合い。

それはある程度、当たっているが、

ここまで長い時間が経ってみると、

ほぼほんとうに書くことがないのは、

他方、無の内容からしてそのままの

事実だった。

この世に書くべきことがあるとは

思えなくなったのは、偶然や最近の

ことではない。この世という、地球

や動植物・人間社会という世界には

避けようもなく、逆らえないような

仕掛けがあり、そのシステムには

当然な目的がある。

それは見かけの自由というもので

あり、その内容は大きなくり返しの

中に小さなくり返しがあり、それ

ぞれのくり返し(パターン)は同じ

ように見えても、同じこと(内容)

がくり返さないというルールがあり、

その全体では常に変化していって

しまうということだ。

その様相はなにかの不足に対してそれ

を充実させた場合、そのためになにか

が不足を起こして、またそのための

充実が必要になるというような例に

見られるように、常に不規則なリバ

ウンドがあって完全な解決は用意

されていない。

それどころか、その時に必要なことは

やはり、現実にしなくてはならない

ことだし、それが終わることはない

ので、このシステムも経過も不完全な

解決の連鎖も歴史を通じて継続され

ている。

それは表面で矛盾という様相を示し

て現れるので、そういう形に組まれ

ているために矛盾を解決するつもり

でも、すでにそういう行為自体が矛盾

を内在した母体(物事のあり方)に

対して行われるので、僕らは矛盾を

増やし続ける結果になってしまうの

である。

その時々の解決はほぼ絶対に必要な

ことなので、僕らはそうして部分を

解決しながら、全体ではそれを矛盾

した巨体に変えていってしまう。

そうなると、そこそこの矛盾した重大

な問題を解決しても、部分なので

全体社会からすれば周囲の矛盾した

環境やルールに押しつぶされて、埋も

れてしまう結果になるのだ。

僕らの知的文明社会が陥り続けている

社会問題はすべてがこのシステムに

よって発生して、ますます混乱を

極めるように自然に誘導されて、その

コントロールが困難を究めていく。



自然に還れという言葉が再び蒸し返さ

れるのだろうが、自然を理解する

のは自分を理解するのと同義なことが

人間にはある。       1.23 




2.わからないことの永遠性

いつも喉に引っかかったように、言おう

として言えてないこと。それはこの言葉

通りではなく、少し込み入った事情が

ある。

わからないことを、わからないままに

することで、それを現状の人の認識

ではカテゴリーに収められないもの

として、例えば近いのでは、言葉に

できない複雑な感情とか、微妙な

感覚とか、人とは違う感覚の仕方、

それは共感覚というコンプレックス

とかあるけれども、それはまだ表現

できる範疇(カテゴリー)にある

だろう。そうではない、想像を超える

次元での感覚が必要だと推測される

もの、それが今もわからず、そして

これからもわかり得ないという不可識=

わからないものの在り方だ。

例えば、無の表現は、永遠の表現は、

それは表現され得ない。しかし、

その表現された言葉で、ある程度

想像できると人は考えやすい。

確かに、まったくきちんと想像はでき

ないが、ぼんやりとしたイメージは

持つようになるだろう。それで正解

なのは、まさにそれこそがわからない

もののイメージに合っているからだ。

そうするとその感覚は記憶からも心

からも隔絶したものであるから、

そもそも伝えることが不可能なもの

に分類されてしまう。

感じたことがないものを示されても、

そういうものには誰も興味を示す

ことができない。

それをお話のように語るなら、怪物

のように恐ろしいものに出会ったのは

はっきりしているが、意識を取り戻し

た時には、その内容は何も覚えていな

いし、説明は無理なという話だ。

それでもそのわからないものは、

そうしてわからないものに分類して、

いずれわかるだろうが、まだわから

ないものとは確実に異なるわからなさ

だとしなければならないだろう。

それは宇宙がまだわからないもの

だらけだが、人が生き続ける限りは

いずれ長い時間と新しい技術と方法

で解明できるものだから、宇宙の謎

も“まだわからないもの”=いずれ

わかるもの、であり続ける。

ほんとうにわからないものは、僕ら

の心を越えて、意識の彼方にあるよ

うに思える。その感じは人それぞれ

の感性に任されるだろうが、決して

たどり着くことのないものを想像

させる。

そういうものを想定して、僕らは

せいぜい「わからないものがあること

を知る、それが真に知ることだ」、また

は無知の知が真にわかることだという

言い方を発明して何も知らなくても

それで済ます(悟りすます)だろう。

宇宙というものを何も知らなくても、

「宇宙」という言葉でそれを示した

と思えるように。



永遠性のわからないもの、それがどう

なのか、意識の広大な広がりに木霊

した反響なのか、それに過ぎないのか

どうかもわからないが、それが無意識

に引っかかるくらいは、僕らの物性の

世界にわずかながら共通したものを

備えているのは確かなことだ。そうで

なくては、それについては空想に過ぎ

ないから、誰も共感し続けた歴史を

僕らは持たなかっただろう。

僕はこう書きながらも、自分が薄氷

の上で冒険しているのじゃないか、

という無謀さを危惧しているぐらい

なのだ。数十年、それ以上をかけて

も、それを確かめたと言っていいのか

わからないほどの痕跡を見つけただけ

なのだ。そして、もちろん、それさえ

もあるなしでは確信できたとしても、

内容ではどんなものだかと追及すれば

99、7%は誤解してしまうのだろう、

それはもっと違うものなのだろうと

考え、それは確信じみてさえ感じる

のだ。

だから、これは僕の心的な、心を越えて

心を失くして、さらに存在感覚の危う

さを通して得た事実に過ぎない。

人間の体が棲めるような世界ではない、

という感触も、体の反応であって、

ほんとうはどうなのか、というのは

判断・想像を止めて、判断を控える

べきであって、それがわからないもの

への正しい態度というものだと考える。



明確なのは(と思えるのは)発展し

たり進歩することではなく、僕らが

これまでの歴史を理解したらどう

なるのだろうかということだ。そこに

泡のように浮かんだ宗教や思想、科学

による文明、社会の文化、つまりは

自然と人間について理解したらどうな

るのだろうかということだ。

政治経済の及ぶ隅々まで緻密に理解する

手間はいらないだろう。それら本質への

理解がすべてつながって、溶けあう

ものもあれば、溶けあわず織りなすもの

もあるだろう。

そういう全体が想像できるほどに僕ら

が世界を把握したのなら、どうだろう、

ということ。

これは通常の言い方ではないのが察せ

られれば、明確なのは、その理解に

立った時、世界が目の前に広がるとい

うことだ。そうしたら、あとはどうな

るか、どうするかというのは、二義的

なことになる。それが明確だいうこと

を言っている。      1.25- 26a.m.




3.快い真理リズム

それでも世界は回る、とはよく言った

ものだ。

全体で自由は窒息してしまいかねない

が、僕らの日常は僕らが適応している

限り、自由そのものだとまで言える

ほどだ。これも大局と小局では矛盾し

ているように見える形態だということ

なのかもしれない。

それでも世界は回るように、この運動

は僕らを活かし続ける力がある。そこ

には自由とか平等とか平和という矛盾

に満ちた概念はない。そういうことを

考え続ける不毛な地平ではない、生命・

性質・性格・運命傾向の活動がある。

愛はよく知られているし、最もそこ

に相応しいと思われているだろうが、

中心であるにしても、全体の核や芯で

はないようにも思える。部分にとどまる

のは愛がすべてではないからである。

例えば、水・空気・光が生物に必要

不可欠な三大要素であるなら、そうい

う意味で、愛もその一つだろう、と

いうことで、その要素すら僕らには

明らかになっていない、と思える。


それが単純な単体であるようなもの

であったら、それともうひとつの

違いが1%少しであるなら、同じもの

と見なしてしまうだろう。機械は

人間とチンパンジーの遺伝子の違いは

1%少ししかない、と数字で教える。

僕らは人間はチンパンジーではないと

信じている。数字は間違えていない

だろうが、その違う遺伝子の200くらい

の影響はそう信じさせるほどに大きい

ということだ。

宇宙の彼方でも、彼方でなくてもブラッ

クホールなどの物性や距離を機械は数字

で送って来るが、それがどこまで信じ

られるかは、僕らが科学を妄信してい

ない範囲でのみ、信じるべきだろう。

それは迂闊には信じないほうがまだ

健全な知識を保てると、僕は思う。

僕らが太陽が地球を回っていると

信じていたのは、まだ15世紀だと

したら、その盲信から700年しか

経っていない。しかし、もっとそれ

以前にその知識はあっただろうと

推測される。人々の間にそれがもた

らされたのが17世紀?くらいでそれ

まで待たねばならなかった。

1万年以上もの無知があった。

僕らの地球という頭脳に塵積もった

ゴミのかけらを取り払ったような

ものだ。だから、今の知識がどれ

だけ豊富に見えようとも、それは

取り払った塵の一部にしかならな

いだろう。

全体を鼓動しているのはそういう

知識としての概念をはるかに超えて

いるものだ。その脈々したものを

汲み取れば、そこには真理のリズム

が聴こえるはずだ、という俗なこと

しか言えない。それは夢ではないか

らだ。わからないから、宇宙の交響曲

とか鼓動とか、勝手なことが言えるが、

それはある、現実なのだ。

僕は恐れる。それを目の当たりにし

たら、卒倒するだろうことを。

ニュートンはたぶん、永遠に正しい

のだろう。僕らは真理の大海を前に

して、砂浜で無邪気に遊ぶ子供な

のだ。

こういう体たらくな言葉でしか言え

ないのは、それがあまりにも未知の

巨魁で、比較のしようがないからだ。

想像を超えるというのは、想像外な

のだ。悟りという言葉がとんでもなく、

千首観音のように全知全能に近い

様相を表すように、絶対の境地を

生みだすように空想に堕してしまう

のだ。

それはそこにある、一つの事実なのだ。

決して判断や想像を施してはならない

ものとして、ある。一瞬、それに交え

ても、それを戒めとだけにして判断を

とどめ置くことを忘れないようにする

だけだ。

このリズムは、しかし、柔らかい風に

吹かれるように、快い。

          1.26夜-27a.m. 2.1

試し書き.jpg

何を書いていいのかわからない::陽秋:画


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晴れて暇な日に 真理を発見しよう [真理]

相模River は 神奈川 Prefecture にある  。  

よく晴れていたが、なにか もの憂い日だった、のを 覚えている。  

あるだろう、 そういう日が。   小田急線の 本厚木駅で降りて、 

散歩していたらしい。  どうしてそこへ行ったとか、 は覚えていない。  

思い出そうとすると、そういうことって 多い。  

I know  anything   ・・  その河原に立った時の ことを書いた記憶が  

あって、  陽射しが  空中の埃に  ダストに当たって  キラキラ  

光るように、  そんな空気を感じていた。  そういう文だったような ・・。  

河原から 町の様子も  よく見えていたのに、  そんな光の 霞が 

かかっていたような  軽い うっとうしさがあった。   

自転車が 倒れていた。   ママチャリで、  捨てたのではない、 まだ  

新しくて  誰かがそこに 置いていった。  どこまで行ったのか、 周囲に  

それらしい 人影はなかった。  

川の本流に 流れ込む支流があって   飛び越せそうな、細い流れだった。  

深さもなく、上から 底の石が重なる様子が  見えていた。  

少し上流で カーブしていたので  その先は どうなっているのか    

眺めはなかった。 地図でナントカ川、 と確認していたようだ。  あとから  

見たのだろう。 そんな重要でもない支流を わざわざ 調べて来たとは、  

思えないから。  

支流の縁は  柔らかい土で 少しの雨でも 崩れ落ちてしまいそうだった。  

歩くのにも 気を付けないと  泥に足を取られてしまいそうで  気をつけた。  

流れのすぐそばに 立った。広い本流が 見える場所で  どこへ行くあてもなく  

そこに佇むために 立った。  陽射しが まともに  それなりに熱く  降り  

注ぐような  午後だった。  目的もなかったらしく、 手持無沙汰 だった。  


視線を下に落とすと、  そこで水流が二つ 前後にからみあうように  

W で回転しながら 面白い波形を  作ると  次の瞬間には  消えて  

しまった。水は同じように流れ、底の石が動いた様子もないから  すぐに 

その面白い波形を  見せてくれるものと、 暇にまかせて  眺めていた。  

同じ水量、 同じ底の地形、 それは同じパターンを  期待させた。  

だから、 5分も眺めていれば あの波形が目の前に、 と思っていた。  

そうして、15分。  心が 騒いだ。なんとなく考えていたことは  ただの  

夢だった。  空想にも近く、 暇人のなぐさみ、 そういう類のもの、 だった。  

それは 僕のもの憂い気分を  飛ばしたようだ。  眼を見張らなくても  

事実は 事実だった。 その波形は  一度も  ただの一度も  現れ

なかったのだ。  どうしての答えは 求めずとも  それが現れなかったという  

厳然とした 結果があった。   なんとなく思っていたように  単純な流れ  

ではなかった、ということだ。  何が起きていたのか?  

それを すぐには求めなかった。 うっかりすると眠っていたろう、 そんな  

河原の陽気。  風は それほど動いていなかったようだ。 

”なにかが  起こった ”  


単純な条件が 二つ三つ 重なるだけなら、  ものごとは 同じ状況を  

くり返すだろう。  それだけでも かなりのパターンを  生むだろうにしても  

やがて、 水流に 同じ波形を示すだろう。  でも、 それは起こらなかった。  

それが答えだった。  

少女の 長い髪だったら  よかったのかもしれない、  風に なびいて  。

僕は 散歩の切り上げ時が  来た と、 帰りの目的を もって 

はっきりと 歩き始めた。  


あれから 幾年くらいが  経ったのか。  結果が いつもの結果なのか、  

同じ結果がくり返すのならば  答えは 科学的な意味で  正しい、と  

なる。  そうは言っても、 いつも奇妙な 面白い波形に  出会えるわけ  

ではなかった。   それでも 大まかに  結果はまとめられて  ほぼ  

正しい、 と言えた。  同じ波形は 現れないのだ。  似たような波形は  

現れることがあった。  それでも ほぼ一度だけで。  

水というのは 生き物のように  臨機応変なのだ。  それが 最近、 

数年前か わかるようになった。  頭の良い人は  すぐにわかったの

かもしれない。  僕は 答えが出るのを 待つ習慣があるから  急がない。  

昔の 汽車はよかった。  車両のエレキトリック・ドアが 閉められたら、 

もう乗れない  ということはなかった。  走って  ステップに跳び乗れば、

いいのだ。  

そういう問題ではない のだが ・・・。  

水流は 旅行で 機会があるたびに  眺めた。 きれいな水、 清流のほうが

汚れていないから きれいな結果が得られる? と     それだけだ。  

僕は  部屋で  その時のことを思い出して  ずっと上方の  上流を  

見上げた。 源流という、 湧き水からそれは 始まっていたのだ。   

水は 粒子の集まりだ。  最小の粒子まで  分散するのでなければ、  

いくら集まっても  ひとつになろうとする。  それでいつでも、  いくつにでも 

分かれる。 そして、そのひとつひとつが  流動体で  体積も 形も  

重力も 変化させている。  それに流れの 記憶ももっては 放れる。  

ペットボトルの水を  グルグル回してから逆さにすると  水は一気に

渦を巻きながら  排出するのは  僕らが よく知っていることだ。  

記憶は瞬時になされ  バラバラにもなる。  それは 歴史に例えられる。  

数々の歴史をまとい、 それをバラバラにしながら  それぞれの粒子や  

その集まり(かたまり)が  それらを内含して  その何千通りが  

何千通りに 出会って  また 集中と分散の  歴史をくり返す。 その  

それぞれが一度だけのくり返しだ。  何千通りは  何兆、  何京 という  

単位に  無限に増殖を 重ねて   僕らが  見る水流は  何万時間を

積み重ねたような  複雑怪奇さ、  ・・ 化け物なのだ。     

今、見ている水流が  コンピュータが 量子の速さになっても  同じ、  

その水流の方程式は  無数に はじき出す。  まったく終わることなく  

時間とは関係なく  終わることのない  一粒子ごとに無数の数式を  

はじき出す、はじき出して、止めない。  だから、それによく似た、  

ほとんど近似の波形でも  見たいのならば、  僕は 1年も見続ければ  

よかったのだろう。  できるわけがない。(笑)  

ゆく川の流れは絶えずして、 しかも もとの水にあらず、 というのは  

表層な見方で  同じ水だけではなく、 それは一瞬も同じ 形も  

内容も 備えていないのだ。  これが  無常というものの  ひとつの  

説明になるかもしれない。  

と、ここまで来れば   過去の復習が できる。  

僕らの周りを 見回してみよう。 人工物でないものが あるだろうか。  

パソコン、 眼鏡、 コピー用紙、 ファックス電話、 地図、 ボールペン、  

壁も 窓ガラスも  すべて人間が 人間のために 人間によって(リンカーン風)    

作られたものだ。    

微細な条件まで 考えたら  生活はやってられないが、  それでも 現実の  

背景には  それが厳然としてあるのは  事実にちがいない。  ひとりの  

思いだけで  それが固定した数式に 変わってしまうことは  ありそうにない。  

人工物という  人間の安全や 便利さから離れて  自然に入ると  

僕らは  守られない。  その代わりに  真理の海に  入ってしまう、  

ということだろう。  感性が 無理なく開かれるのは  やはり  そういう  

環境が いいのだろう、  ある程度の 緊張をともなって。

この時も あのアドバイスが 役立つ。 自然に入ったら、  自然から  

語りかけてくるまでは  待つのだ。  水流を眺めるように  ただ  

眺めていたり、  聞いている。  風や  空気の匂いに  なにかを  

感じる。  Touch me ・・  

旅行で 歩き回り、  映像を撮りまくるのも いいが、  1時間は  

なにもしない、  そういう(実は) 豊かな時間を 過ごすことを  僕は  

勧める。  目的を 忘れるのが 大切だと、 想いはじめたら、  それは  

旅行ではなく  旅のコツを  覚えたという、  生活の根源、 命に  

寄せる行為、  人生という言葉ではないもの、  そういうそれらが  

形を  取り始めた、ということだと。   言葉だと 高尚に聞こえるが、  

小さなことが 大事なのだ。 景色を 変えてみることも 同じ。  

水流が  僕の見ている流れに たどり着くまでに  幾時代ともいえる  

変遷があった。  それでも 水は  水を 伝える。  

その時、僕らは 水流は 僕らが特定できないほどの 無数の流水の  

方程式を携えている、と言うのだろうか?  それは所有と 言える  

だろうか?  きっと、ちがうだろう。  水が 何を伝えたのか?  

その答えは  作り出さなければならない そういう性質のものだ。  

それが 僕が  水流や 自然から学んだことだ。  僕らはそれを  

すでに知っている。  これから 100億人の子供が生まれようと  

僕 (あなた) と同じ人間は 生まれないだろう、と。  

どうして 知るはずもないのに  そう言えるのだろう。でも、 僕らは  

それを 確信している。 まったく同じこの僕が この先に生まれるはずも

ないことを。  それは 二度と同じ波形を 見せなかった水流と  

一緒なことではないか?  

― 僕らの 瞬間瞬間は  厳密に  まったく  

 新しいという  証明のようなものではないか。 ―  


僕らは 実に  いつでも  新世界の ただ中にいる、なのに それを

閉じようとしている。何がそうさせているのか?  それは 目の前の  

人工物が 生活の安全と便利さを  人間に 与えているから。  

僕らの感じ方も  知的な狭小さに 押し込まれ  数理や その場の  

言葉の判断で  処理してしまっているから。  

だから?   それは社会生活に 必須なものであるけれど  一方で  

人間生活を  狭くしてしまっている。  この古くて 新しい問題に  

還って来て しまったけれども、  解決策はある。   あなたが  

”あなたから” 作り出す   答えの中に。  あなたが  あなたも  

自然の一部であるのを  しっかりと 感じるには  どうしたらよいか?  

どうして 僕らは  この問題の  堂々巡りの中に  いるのか?  

それが  直近の最終問題になる。  そう考え得た人は?  

人類のために  考えてみて。 (頬笑)
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