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書く文章を壊しても、すべっても [文章]

いろいろと 書いてきた。  

書いてきたことは 何らかのことであるとは、 思っていた。  

でも 気にしないようにしたので、 なんらかどころか、  

翌日 読み返すと  三日も経つと、 まず覚えていない。  

赤いノートがある。コカ・コーラだっただろうか、そのペットボトルの

カバーを外して、ノートに張り付けたものだ。 それで赤いノートに 

なった。あとでドクターペッパーもやや黒い赤のを、つけ足した。  

いつも書くことがあるのは、 ふと 、考えたことを覚えているからだ。  

思い出すことを 習慣にすると、 これは誰でも簡単に できる ように  

なる。  

その小さな発見が つまらない出来事に見えても、  それはあなたの  

独自な偏見なのだが、  習慣で書いているうちは わからないだろう。  

ほとんどの人は、それを伝える言葉の、そういう使い方で書いている。  

それは、 やはりほとんどの人が  なにか価値のあると思える、  

そういうことを意識していて、書こうとしている。僕はそういう事実を

指摘するが、それがどうのこうのは、  思っていない。  

たまにだが、表現する言葉で書かれている部分があって、たぶん、

書いても気取ったように感じられたり、文章のバランスが崩れると  

勝手に感じるのか、僕は好きなのだが、  続けてはなかなか書いて  

くれない。伝える言葉が、一般の平板な使われ方をしていると、  

それは伝えることも、一般的になる、と知ってか知らずか、  個性を

失ったりする。何気に書いている言葉は、 実はあなたの生き方を

伝えるものでもあったりするのだ。  上手な文章というものは  

僕はつまらないものだと、 思う。 それは世間をなぞるのである限り、  

他人の考えをなぞるからだ。自分の癖や、つまらない日常のことを

勇気をもって書いてみると、おそらく、それはやがて、心の革命、と  

言ってはおおげさなら、改革をもたらすものであるのは、まちがい  

ない、と思う。

僕らが日々に感じたり、考えたりの小さなことは、そのまま書こうとすると  

実に悩ましい。どう書いていいのか、始めは非常な困難に感じられる

からだ。それでも、それだからこそ、こういう風に書くのは子供じみてるとか、  

おかしいと思う処に、眼をつぶってみることだ。それはむしろ、自分の 

言いたいことを壊してしまうかもしれないが、それでもやってみる価値は  

ある。  あなたが感性で、それを見るものならば、今まで思っても

みなかった言葉で書いてみるのも、いいのだ。

書くのは、書くことは自由だ、とは誰でも知っているが、実際はお題目で  

皆が教科書の言葉を写すように、同じ伝え方をしている。松本清張は  

社会小説で一流だったが、文章は平板でひどかった。新聞記者を  

長年してきたので、伝えようという文章は、表現を感じさせず、内容で  

読ませていた。小説はそれでいいのだろう。が、僕らの書くものは  

それではもったいない。これだけの地球に未曽有の人口がいるのだから、  

書くものは人それぞれになるのが自然なのだが、それはこれが正しい

文章作法のようなお手本とか、それぞれの個人の偏見で、邪魔されて

しまっている。  

小林*は評論の神様と言われたが、「それを表すのに、一つの文章しか

ないのは不思議だ」、というようなことを書いていた。彼はそこまで  

文章を考え抜いたのだろう。言葉の組み合わせで、一つの意味しか  

現わせないのだ、という究極まで行ってしまった人だ。そこまで行か  

なくていい。旅館で原稿に行き詰まると、その机代わりのテーブルの

まわりを四つん這いになって、うんうんうなって回っていたらしい。これは

編集者の話で、ほんとか嘘か知らないが、一枚の絵を30分は眺めて

いるという人だから、ほんとのような気がする。ドストエフスキーの小説

でも5回は読むらしい。そして、よく人に噛みつく。相手が泣くまで噛み

ついたそうだから、普通じゃない。その代わりに、人に絵を描くように言って、

描いてくるとそれを買っていたそうだ。面白い人だ。   

文章を読むと、すごくてとても文章で呻吟していたとは思えない。文なんて  

人の一部に過ぎない。だから、奇をてらう必要もないが、思ったままで  

変な言い方は気にしなくていいのだ。どんどん心情を吐露していい。  

僕がそういうのを、 読みたいからだ。  つまりは、そういうことらしい(笑)。


* 小林秀雄。

で、結局 僕が言いたいのは、詩は詩らしく書かなくていい。小説は小説らしく

書かなくていい。エッセイはエッセイらしく書かなくていい。もちろん、それを  

それらしく書けたらいいが、それこそ、その時こそ、詩を壊してほしい。小説を

壊してほしい。エッセイを壊してほしい。それは世間ではなく、あなたが思う、  

思っていたそういうお手本を壊してほしい、と。 そういうことだ。それは  

ほんとうは”あなたが、新しい”ということを発見することだからだ。あなたの  

裸の眼で見たものを僕は、  読みたい!  

                    20. 2. 14 - 15  記
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