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僕らがつくるものすべて [神]

僕は 説明しない。 ある意味では、 なにもかも。 

僕は 説明する。 それが説明を越えて、人の内面

に昇華することもある、と考えて。  それでも

言葉で「直接」説明する、主張する、論じる、断言する

ことが何事かである、と信じる人は多いようだ。 言葉や、

論理や、絶対とか、真理とか真実、 善と悪も、または

人生とかがそういう言葉で、まるで料理のように調理

されて、できて、いつでも食事ができるのだ、と思って

いるようだ。

僕はそんなふうに信じたことはない。けれども、ややこしい

が、そういう風に考える人がいるから、その立場から

しゃべると、こうなるという比喩の意味で、その文章を

語ることはある。

なので、僕が哲学やなにかを論じた文を持出すのは、

矛盾したことだ。それを信じていないのなら、そこからは

批判しか出て来ない、不毛な書き方だ。それもそうだ。

しかし、物事は入り組んでいて、それをひっくり返したような

層も存在するし、層にも同じように世界が広がる。ひっくり

返す前の物事に応じてだから、すべて広大に広がるわけ

ではないが、それなりに厄介だ。 

言えないことは、実は言えることからそれに転換してみせると、

直感力のある人は、こちらの言いたいことを終点まで突き詰め

たりする。もっとも、その狭い点に限られているようで、それで

その関連も当然理解しただろうと、喜ぶことはできない。

直感力は一直線で有効らしく、全体を見て理解したわけでは

ないからだ。

すべからく、それを「こうだ」という言葉で括れないから苦労

するのだ。と言っても、さほどのものではないので、大変な思い

とまでのものではない。

わかった人はそれを言葉にしても、ある表現体にして現わす

ことができる。誰かの著者の言葉をそのまま写しているうちは

まだ自分のものになっていない、と僕は見る習慣になっている。

自分の言葉というのは、うまい言い方、下手な言い方ではない。

そこにしっかり、例えば真実らしきものが、からみつくからすぐに

わかる。方法による描き方があるわけではない。書かれた形が

その真実を伝える、と言ったほうがいいのだろうか。それは 

戦争の実体験者が伝える言葉の重みのようなもので、重み

でも軽みでも、それに即してまとわりつくものだ。 

それがないと、ただああ、そうか、と思うだけで、それを否定

するでなし、肯定するでなしになる。ほんとがわからないから、

どういう意味合いか、わからないから、どんな言い方をされ

ても、そう言えるんだろうな、と感想するだけになる。

ひとつひとつ、その言葉の意味合いを聴くわけにいかない。 

お坊さんのように説教されても、ますますわからない。知り

たいのは、どうやってそれを得たのか、その過程とか、背景

であって、これはこうだ、こうだから、と結論から言われても

戸惑うばかりだ。別に機嫌を悪くしたんじゃないが、ひとつの

芸の作品で、思ったままを断言調で言ってもらった方が、

有難い。どんなとんでもないこと、または真面目なことを

言われても、作品だからどう感じようがこちらの自由だ。 

でも、ひとつ言えば。

こちらが何を書いたか、相手にとってどうだったかについては

まったくわからないということだ。その時、その書かれた文の

調子は重要だ。心が動いたのはその言葉群によるものだ

からだ。特に、心理関係、セラピーや心霊とか、神とかに

関わっていると実感したり、信じた人には孤独が深く、付き

まとう。そういう揺れの動きなら、自分の内面に向かう必要が

あるのでは、と僕は考える。  例えば、僕も神を見た、と思った

ことがある。意識が飛んで、その時に見た映像が両手を広げた

上半身裸の神の姿だった。とても興奮したが、僕は慎重だった。

後に、瞑想に入る前の迷想中にそれがわかった。以前、画家

ダリの「最後の晩餐」という絵を見て、感激したことがあった。

ダリはその絵の空に両手を広げた神を描いていた。顔はない。

僕が見たと思った神も、顔がなかった。なんのことはない、

ダリの絵の印象が強くて、忘れていたが、意識が飛んだ時に

挟まれるように蘇ったのだ。昔の印象に残った記憶が蘇った

のだった。錯覚だった。それからは、自分の心象映像は簡単

に信じてはいけないと思った。心理的な錯覚を避けるのは、

すぐに信じないことだ。そこでまたしても、19歳の経験での

「自分を信じるな」という教訓辞がまた生きたというわけだ。

それ以外に神を見たことも、話したことも、声を聴いたことも

ない。

ICチップの集積回路は人間が作ったものだ。人間は自分に

即してしか物を作らない、そうできている。この凄い部品は

軽く人間との会話をある程度こなしてくる。その情報を保持

して質問に対して、ある程度(その情報に関してだが)反応を

してくる。だから、死んだ人と会話しているつもりでも、ただ

そのひとの断片のエネルギーがICチップ化したものと話し

ていたとしても、なにも矛盾しない。

そういうことでは、僕は死人と話したこともない。しかし、

葬儀で亡くなった人に、僕の中に入られた経験はしている。

これも書きたくなかったので、書いてこなかったが、僕の

中に前もってある情報ではないものが、感じられて、その

僕を離れる移動も全く予想外で、僕自身が作ったものでは

なかった。略すが、後から知ったことで、その葬儀で亡くなった

人が僕から急に移動したわけがわかった。あまりに合致するし、

他の考え方を変えにくいほど、理路整然とした、亡くなった方の

人情だった。どうして、僕はその人が入ってきたと感じたのか?

どうしてその人が出ていくのがわかったのか?実に単純なこと

で、その人になってみると、なるほどと思うことばかりなのだ。

僕の記憶なんか、何の関係もない。そのことで、僕は母も

亡くなって葬儀の通夜に僕に入ったのだ、と想像はできたが、

それで納得することができた。

初七日というのは面白い行事だと思った。亡くなった者は瞬間に

消滅するのではなく、ある期間エネルギーとしてその部分が

「気」となって動き回るらしい。それが自然消滅するのを、およそ

七日と見積もったのだろう。ただの迷信ではなく、合理的に

考えられたものなのだ。

僕が迷信を信じることのないタイプの人間だと、自分では

思っている。だから、幽霊があの世で生きていて、この世

にも動き回るのは迷信だと思っているが、幽霊にされて

しまうエネルギー体のようなものが存在しない、とは思って

いない。経験をして、それをどういうことか検証したので、

間違いない、とそれに近く感じている。

世間は誤解のたまり場だ。が、それを単に否定するだけ

ではない、現象が起こっているのもまた事実だ。その

ひとつひとつを早急に信じてしまうのは、僕は愚かな

行為だと思う。それがどういう具合に存在するのか、

どうして自分に現れたのか、その自分はどういう記憶を

溜め込んでいるのかを、検証して見なくてはならない、

とものによっては僕も10年20年を判断しないで、

検証に足る似ている現象や、それを解くことのできる、

関連した出来事を待つ。しかし、20年も待つと、その

間に推測で検証したことを、仮説として書き残すこと

がある。

僕は神を信じないのではない。結果としては同じなのだが、

そういう幽体エネルギーやなにかの”気”を感じることは

あるが、神は感じたことがないから、いるとは思えない。

それだけだ。この世の自我世界とは別な世界がある。

そこに愛も、死も、胸糞が悪くなる「なにか」も、あったが、 

天使も、悪魔も、神もいたことがない。そこになくて、

この世でも60年だろうか、錯覚以外に感じたことが

一度もない。そういうものは世間の街で、頭の中の

夢で、それを示す”気”として感じることができる。だから

それは人が想いからつくったものだ。神がいる という

のは、だから、僕にしてみれば”あり得ない”。  

神の種類はなんだろう?天だろうか。日本人が好きな

対象で、ともかく上にあらせられる高貴な不明の存在だ。

聖書の神は西洋でポピュラーだ。特に旧約の聖書の神

は尋常な性格ではなく、人間に厳しい。そのくせ、神を

疑うという罪で捕らわれた者にあとで褒美を取らせたり

している。これは「神を疑ってはいけない」という象徴の

話として有名だが、結末は肩透かしだ。(旧約聖書:

ヨブ記)

またはものには皆、八百万の神が宿る、という自然神

や日本古来の神道だろうか。井戸の神様、おたまの

神様とか。

一般的には、全知全能、愛と慈悲にあふれ、この

地球から生物から、何もかも創ったという神、だろうか。 

それが偶像としての代表的な神なのだが、不思議に

この代表的な神ほど歴史で姿を現したことのないもの

もない。すべて地神のことで、古代からその地の神が

神話や伝説、民話になっている。つまり、一般的な神が

一番怪しくて、知性からの検証では人間の投影として

実在からはじき出される可能性が強い。

神社の気はある。それが人によるものだろうけれど、

そうでなくても、神話への憧れのようなものだろう、

と思う。死者のエネルギーが並大抵ではないように、

今生きている者のエネルギーも尋常ではないはずだ。



僕が50年近く探索しながら、わずかにしか経験でき

なかった不可識の領域は、自意識から考えて、そういう

言葉(不可識)を使っている。それは見えないし、音もなく、

肌合いもないし、味はもちろん、匂いもない。五感は役に

立たないが、そこになにかある、という存在を感じることは

できる。動物の持つ超感覚からの世界もその一つかも

しれない。

でも、その感覚はまだ認められていないから、非社会的な

ことになってしまう。事実と認めるに及ばない、というわけ

だ。そんなものを実社会に持ち込んだら、混乱するだけだし、

役に立たないのだから、なにも定着しない。

ただ、それは客観の近似な見方を提供することができる

だろう。それがどうだ、というのは、(いや)、というのが

将来の問題になるかどうか、そこが肝心なのだが、

わからないのだから、なにが肝心なのか。笑ってしまう

しかないようだ。

しかし、それが「なにか」であると、認められるので、

まさに「なにか」であり続けるだろう。問題はその「なにか」

ではなく、僕らが生物・鉱物・自意識に無関係の世界に

関係が持てる、ということのほうなのかもしれない。人間が

今のままでは永遠に解決できない、このままなら。むしろ、

それを発見する者によって、なにかが変えられていくという

ことかもしれない。可能性のことだろう。

僕らが自由に羽根を生やして空を飛び、折りたたんで

地を歩く、ということもできるかもしれないし、それは

無重力装置の発明と小型化の問題かもしれない。

それなら、羽は飾りだろう。 

僕はずいぶん前に考えてみたが、時間の逆転を

考えたことがあるだろうか?そうしたら、僕らが急に

後ろ向きに歩いたり、すべてがそうなって、歴史が

過去に逆戻りとかは、ないのがわかった。それを

映像にした映画が実際にあって、笑ってしまった。

ただフィルムを逆回ししているだけじゃないか、と。

このことはいろいろなことが派生する。それのヒント

を提供したいが、それだけで過去の天才たちの

さまざまなエピソードに話が及ばなければならない

だろう。ブッダも、孔子も、ソクラテスもまだ手を付けて

いないが、今は16世紀から18世紀に時代を区切って、

ルターによるプロテスタントの誕生からスウェデンボルグ、

それを論じるカント、そこからのカントの思想までを

年代を追うのではなく、ランダムに辿ろうと思う。

「ア・プリオリ」がどうしても気になって、これが糸口の

一つになると思われるので、しかたない。興味のある

人には付き合ってもらうしかない。他のテーマもその日

その日の気まぐれによって書かれるに違いない。 





**
「理性批判」のための前書きはすでに書き始めている。

夢で地獄を見たので、体調が悪いな、とわかって、

実際そうだったので、精神も底まで落ちてみた。その中で

自分を振り返ってみる。いつもやっていることだ。ただ、

真剣に落ちるので、そういう状態にいる人には刺激が

悪いかもしれない。僕は僕の状態を観察するのに

やっているからいいが、なにか幻想の雲に摑まれた

ような人には、過渡期はそれなりの刺激かもしれない。

または強力に宗教なり、偶像なりに心を掴まれた人は

他人を助けるのでなく、救いたいがために世話を焼き

たい人もいるのかもしれない。親切心でもあるが、

それが実際の団体にでも関わっていると、やはり厄介だ。

心理では自分の(不安が取り除かれたと思う信仰と

しての)保障を他人にも保障することで満足を得ようと

する、自己弁償行為にあたるが、その人の事情に

よるので、何とも言えない。親切心は親切心だから。

でも、僕は刀剣不法所持で逮捕された人と一時期

よく話していた。このおばさんも僕が東南アジアに

旅行した時に、(メールで)心配して弱い女っぽくなった

ので、つい叱ってしまった。肝っ玉母さんのような人

(社長)だっただけに、僕は驚いた。書いてはいけない

のだろうが、法律で禁止されている薬物を売っていた

こともある(昔の話だ、おばさんももう74歳か)。あの

昭和の英雄、プロレスの力道山の付き人と結婚した、

誘拐されたとか、等々。それで話は面白かった。

ま、余談だった ・・・・。  
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喜びと侮蔑:神との(”への”ではなく) [神]

今 ここにいらっしゃる 私が 幸せであるように  

祈る   というのが  神への意識も 含めて  

シューマンとかの 19世紀の 時代の 願いであったろうか   

神への願いは  そのまま ロマンであらせられた のであろう  

ここにある 蜜の甘さは  キリスト教の香りに 包まれた、   

神様という 憧れが  慈しまれて あったのだろう   

僕らの 愛(という概念、もしくはそのもの)が  神と  

重ねられて  語られ、  また 語りかけた  そういう  

世紀であったと   そして 腐りの始めの、その世紀であった、

と  僕には 思われる。    

それでなにかを  語ろうという気がないのが  不思議な  

ことなのだが   その人々の想いを大事にしたい、という  

気持ちと   粉々に粉砕してもいいと、 思う :僕と  

僕の中の 僕との:  葛藤にならない、あり得た 融和なのだとすれば  

その思考も 認識も  意味という感覚も 育てられない、  

そういう オアシスの豊富な  しかし、  見渡す限りの 砂漠に  

さ迷い  迷い込んだような  気がするに   ちがいない。   

トロイメライ  19世紀 、  シューマン

G線上のアリア   18世紀 、   バッハ  

魂の  さ迷いよ  

そこに 安心という 祈りがあった  信仰の 礎(いしづえ)よ  

御座(おわ)した 場所に  イマソカリ  

I need her

・・・・

I need him

・・・・

I need me

・・・・

I need YOU

I need everybody ! 


これほどに  あなたを  必要とする   その理由は?  

すべてを  あなたに  委ねてしまいたい  そのわけは?

それが スピーカーの増幅音のごとく  大音量に  

君の 心で  鳴り響き  鳴り止まない   

そんなに  

そんなことが  あったのだろうか !   


” もう どうにでも なりなさい !! ” 

「 モウ  

ドウニデモ   

なりなさい !!! 」 、と  
 

頭から  怒鳴られたら  そうなってしまうのだろうか  

屈辱に したがうのは  プライドが  許さない 

(そりゃ  できませんや) 

なら、 自分より以上の  

自分を はるかに 超えた

高貴なと規定された 存在へ、なら ・・・  

いいのだろうか   

おお  ウィリアムの 心よ

A Time for Us ロミオと ジュリエット  

悲劇は  高らかな 涙の代償、 ラ・カンパネッラ(鐘)   

気位高い 君の  要求に  応えるべく  

透きとおって行ける  感情を  抱けるやも  

どんな  苦難・困難 も   

ああ それこそが  ロマン   

夢に 堕ちた  現実というもの  

晦渋を好む  欺瞞になり替わった 懐疑というもの  

一人の会話が  どこまでも続く  闇の演出  

それに感動する  あまりに多くの 観衆  

あまりに 愚かな 真実の姿、 と  君は言う  

輝ける 我らが わずかな時間、と  僕は言う  

栄光は  ・・ あった   永遠は そこに  

・・・ ではないのか?   

もう 胸を かきむしるのは  やめよう  

僕らが  手と手を  合わせれば   

僕らが  愛し合えば、と  祈れば  

それが あまりに  ピタリと  僕らの心に  

当てはまる、 と  気づく  

これは! 気づいては いけないことなのだろうか  

前提として 僕らの心に  供えられている  

これは  何?  ”罠” じゃないよね  そんな  

邪推は  考え過ぎだよね?   

これは 僕らのために  周到に 用意されたもの、  

それが  愛 ではないよね?  


時間が ないとわかっても  

時間という 想定を  使う生活は  終わらない  

数字は  どこにもあるが  触ることも  味わうこともない  

聴いたり  見たりもない   それは  記号で現わされる  

それは1であることを 示す 言葉の  ひとつ  

実在していないが  生活から 外せない  

その時  心は?  あるよね  

思うという 想いという  感覚に  

愛してる  それは  僕を 裏切らない  

見えない  触れないが  生命の一部だと  

僕は  知っている  

生きることから  離すことが  できない   

死ぬ前に  それが来て  確かめられた  

生きることの すべてが  愛ではなかったが  

愛がなければ  生きてはいなかった  

それを知る  貴重な 一晩が    ・・あった

それは 人のつながりを  紡いでゆく  

追いかけることが  楽しく  

子供のように  笑えた !?  

それならば なぜ 僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・       

   
sぢvふぇrひおgjうぇdcなcgvb・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まだ  言えない 、 としか 。 (言えない)

死んでも 言わなければいけないのだろうか?  

それとも!!! 

死は  僕の手に 余る   

生は 僕の手に 余る、 と  

あまりに 当然のことを  言わなければ ・・・ ないのだろうか !

死に 慣れ親しみ過ぎた!、 と。  


それは もう 死ではないという、 そんな感覚を生んでいる 体。 

もう 生まれた時に備わっていた  死の恐れという  感覚ではないからだ  

むなしさが  残っているから  それが  時に  

深い  沈む  混濁の 大嵐を  吹かせたりもするが   

僕の死に  根はない  そのために  それで  

闇に  引き込まれることが  なかったのだろう  今までは

そんな  一日の ある瞬間は  やがて  過ぎる  

風が 通り過ぎるようなものと  長い年月で  学んだ (のよ  

あなたと  いっしょに ? ? )   

グーンと 落ちる  テンション  でも 元気  

私は  知っている  あなたが  私を  愛していると  

それを  どうのと  考えなくても いいことを  

パーフェクト ワールド  そう言わなくても  

あなた(僕)は  知っている (わ)  

なんという この 世界 !!!!!   

君 (彼女) を  呼ぶよ。  


君 (God) に  尋ねるよ  

(僕は) 愛は  僕らが  創ったと  思っていた、 この前まで   

そういう人たちを  見た(感じた)から ね  

でも  それらの想いが  集められたのは? と  

今  気づいてみると   君が  関わったのだろうか?  

とも 思えるんだよね  

愛は  どうしても  巧みに 隠されている  

どうして  僕らは  それを 求めて  

飢える人まで  いるんだろう?  

どれほど 否定されても  それを証言するものが  現れる  

生の一部であっては  逆らえない  <ヒットラーも  スターリンも>  

自我のエネルギー(英雄)では  対抗できない  

死を 恐れないだけでは  それは断ち切れ ない  

僕も  ただ  離れることが  できただけ   

それでも           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

君は  何者?

君は  何者?

君は  何者?

なぜ?  

なぜ?

なぜ?  

After - 育つことの意味は?  

アインシュタインの ように  

理論物理とは Situation が  異なるが

僕も これを ゲームとは  考えられない!  

壮大な トリックだが ・・・、

・・・・・・・・・・・・・・・・  

または、 ・・・
  

人間だから?!!!!  


・・・・・・・・・ (キリ がないな) ・・・・・・・・・・

 
憂愁が ・・・  

そうだ   

君に  会いたい     ・・・(これだ)

でも  気持ちが  そもそも  

僕らの 脳の根だと したら   

すべての  抵抗は無駄になるの ではないだろうか

それでも  

まだ   

緑の  葉  

知っている、  僕は 知っている と  言ってみたい  

ブラウンに  渋い  公園のベンチ  

しあわせを 知っている  満ち足りている、と  

振り向けば  そんな僕が  いる  

輝く  太陽の 光の束を  

僕は  もらっている   

この 狂った世界において  


そうやって  このまま  過ごして 終わりにしようと 

僕が  考えると  思ったのだろうか?  

それは ないだろう、

たしかに、  

それはないだろう。



*2020.2.9にこれを書いたときは、明瞭な動機があったのを知っていた。  

 今、それから2ヵ月と8日くらい経って、それにも或る疑問が出てきて、  

 (これまでの多くがそうであったように、ストレートに僕の立場から書かれている)  

 少し、泥水(他人との思惑)が流れ込んできて、この先を見なければ、と 精神的  

 にも自粛している。晴れるというのは、天気次第だ。空気が乾燥して、やがて  

 水滴も蒸発してしまう。明瞭さというのは、晴れ間が出ているだけのこと  

 なのだろう。 天気は変わる。  この考え方も古く、日本古来のものに基づいて  

 いる。
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