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弱さの発見メモ、  節句絶句雪庇 日記 [弱さ]

強さが 強さであったことはないし、  

弱さが  弱さだけで  弱かったのではない。   

これは単純なことであり、 誰もが感じているが  知りはしないことで、  

説明されたことも  その一部でしかないので、  その単純性という  

解説は  いつも  残されたままだった。  

僕は  夢と現実との  関係については  知っていた。  お互いに  

譲らない境界を 持ちながらも、   互いに世界を構築する  

重しであり、 歯車であり、  支えであり、  共通するもののために  

相対・対立・相克するものと  見誤られていた。  

まず、 夢に生きるとは 比喩のことであって  夢だけで生きるのは  

死ぬのと同じことだった。   夢の世界を中心にして、  現実に生きるのが  

夢に生きることであり、  現実を中心にして  夢を軽蔑しても  

同じ夢である 愛や自由を  求めずに、その生き甲斐を捨てて  

現実に生きることは  歴史上でも  不可能だった。   

具体的な 話は  この全体を伝えるのには、  長すぎるし、  それを  

していると  肝腎の点が  ボケてしまう。    

いつもの例えで、  僕らは空を飛ぶ夢を  見たが  現実には  

飛行機で 運ばれているだけで、  棺桶で運ばれて、と  言う人も  

いる。  自分が(鳥のように) 飛んでいるという、 夢見心地になった者は  

いないだろう。   

夢は現実を 助けるが、  満たさない。   現実は  夢の代替物を  

作るが  夢を満たさない。  夢に生きるものは  夢の中で  それを  

満たし、  現実に生きるものは  現実の中で  それを  満たそうとする。  

夢は  現実に拒否されて  むなしく  現実は  満たそうとして  

満たすたびに  それは萎んでしまい、  飽きてしまう。   

形を成すものは  それを満たすと  終わり、  形を成さないものは  

心の満足でだけ  しか満たされない。  深く満足するものは  なにも  

得られず、  支配できたものは  一時の満足だけで、いつ裏切られるか  

失うかを  恐れるか、 しなければならない。   自分の願望を  

夢で実現するか  現実で満たそうとするか で選択する者は  

どちらかの代償を  選ばざるを得ない。  心で得られたものは  

誰にも奪われないので  管理する必要は ないが、  

現実に得られたものは  管理し、  保持するために  戦略と戦術とを  

備えなければならない。  

そういうことで  双方にそれぞれ 完璧なものは  男にも  女にもいない。  

右手と  左手を  同時に 二つの別な用事に  使うほどの器用さが  

いるが、 心と  体と  運で  それをするのは  また不可能なこと。   



強くあらんとする 者は  さまざまなマイナスの条件でも  勝つことができる  

そういうことを  求める。  体だけではないので  興奮剤だけでは  

生活は  やっていけない。  弱くあらんとする者は  いない。  それだけで  

マイナスだから、  それを身に着けるとは  考えもしないし、  出会うのは  

どうすれば 負けないかと考えてしまうこと  ばかりだから。  

それで 強くなった者は  また エネルギーが強いものは  負けを  

認めることはしない。  それは いつも心で  弱さを否定してゆくことだ。  

そして、その習慣は  弱さを見ないことになり、  弱い者がいることさえ  

見なくなる。  そういう感覚を 失い  自分の力を信奉することに  

人生の基軸も  据えられる。  それは一種の 錯覚(夢)なのだが、  

現実の夢に  囚われてしまい  気づけなくなってしまっていることなのだが、  

ある種  成功をした人ほど  ここにはまってしまう。  

それは愚かさを、  激情を、  無知を、  お人よしを、 センスのなさを  

頭から 否定してしまい、  そういう人を ダメ人間と定義づけてしまう、  

生きてる必要のない人間と  考えることなのだ。  そして、 実際に  

そう公に発言はしないが、  しっかりと思っている。   

では、まずあなたの中の、強さと 弱さを  否定してから進みたい。  

まず、 純粋に 強いとか  弱いというものは  この世にも、  どこかにも  

存在さえしていない  ということだ。  果たして次の 説明で伝わるか、  

こころもとないが、  大きいと小さいを  比較するとわかりやすい。  

子供と相撲取りがいて、体は子供の体積は小さく、  相撲取りの体積は  

大きい。が、子供の夢は宇宙飛行士で、相撲取りの夢は一度優勝することで  

あってみれば、  その気宇を比較すると、子供の方が大きいとなる。  

同様に、強さと弱さも  それがどういう比較かで、 どちらが強いか 弱いかが  

決まるのであれば、  僕らはあらかじめ 比較ということを 意識しないで  

「強い」  「弱い」 を想定している。  そういう考えの習慣が  ある。  

数学だけに強い人を  音楽家にはできないだろう。  味覚音痴の人を  

いい料理人に することも  まずできない。  

無知という 愚かさをもってして  子供を  痛めつけてはいけない。  

センスのない  愚かさを  もってして  人を 軽侮してはいけない。  

激情する  短気さを もってして  人を バカにしたり、 操ったりしては

ならない。   

完璧主義という 浅薄さを  もってして  人を 無知呼ばわり  

してはならない。  

これらの愚かさを  小馬鹿にしているのなら  それを 自分に  

偽ってはならない。  

その愚かさを 恐れて  自分を  世間から  隠してはならない。(A)  

なんでも 正直に話すのが  正しいことか、 または  まっとうな  

真実の道だと  思うのなら、  それも考え違いになると  自分に  

表明しなければ ならない。(B)  

(A)と(B) との表面的な 論理矛盾を  解決しなければならない。  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

人は 弱さと 強さを  兼ね合わして備えているが、  それはパーセンテージ  

ではなく、  比較が困難だということによる。  

やさしさは  それは 強さでも弱さでもないが、  どういう時・場面では  

どう行動するかが  問われる。 その時、 やさしさは  「情けは人の

ためならず」に  なることもあれば、  優柔不断という弱さにも   

いじめられている子に  声をかけてあげる、という強さ・勇気にも  なる。  

愚かさが 弱さであるなら、  そういう人は  確実にいる。  

どうして  こんな簡単なことがわからないのか、と  思える人は  

やはり、 確実にいる。        

僕は  弱さを発見することで  自分の強さを  再発見する。  

そして、 弱さを  認めようとしなくなりつつある  自分の考えの  

習慣も  また、  発見する。  (修正しようとする)

僕らは 強く、  愚かで、  また弱く、  賢い。 それは  そのプラスを  

求めている時に  限られる。  その判断をするように  自分に  

いつも急かして いるのは  強く、 愚かで、 弱く、  賢い その

毎日の 自分では  ないだろうか。  

僕はまだ、弱さを発見した時にしか、  愚かさをほんとうに 愛せない。  

悔しいが、  

それが 強い自分だ。  


*強さの 弱い部分は  強がっていることだ。  

 弱さの  強い部分は  自分がバカだと 思われてもどうでもいい、  

 平気だ、ということだ。  

                          4.20  




< 節句絶句雪庇(せっぴ) 日記 >


節句は 5月5日の 今日。  

絶句は まさに 今日の世間の 状態。 

雪庇は 積もった雪が 崖からせり出したもの。 

乗ると、一緒に落ちる = 遭難、そうなんだ。  

精神状態の 一種にすると  快感か?(笑)  


僕は したくないことを してみようと思う。  それは 僕が嫌っているから

だが、嫌う理由は 通常ではない。 面倒なのだ。  わざわざ書かなくても、 

それが それぞれの自分が 考えることで役に立つ、 という思いだからだ。  

それに 理屈は そのまま信じられるか、それは賛同しか意味しないことが

多い。 賛同でなければ、 反対するというのだが、 それは多くが誤解の

上で ”反対する・違うんじゃない?” と 感じることで  それはそうなんだ、 

それぞれの答えは 答えではなく、反応が、ほぼ反応なので、 僕には  

それについて 言うことはなにもなくなる。  ああ、そうですか、で 終わり

になるものだ。 

どこからどこまでが 信じられるかは、いつもあなたのその問題に即した

経験の深浅次第なのだ。 あなたが自分の思考のシステムを 悟らない限り、 

そもそも解明しようという姿勢が (この件に関しては) 誤りなのだから、 

認識は後にして、 まず そのものを経験しなさい、その後に認識すればいい

という話だから、 その 入口から混乱しやすい。  

まともに 基礎から語ると思うと吐き気がするので*、 自分をなだめ、気まぐれ  

でも横からでも、 好きな風に話したい。 どの部分を、 どう捉えるかという

のは 結局はいつでも僕の役目ではないから。  それぞれの人生があると

いうことが、 人はそれぞれであるという 真理を語っていると、思う。

(* 僕は人間の思考や思想以外で、 自然な物事が基礎から組み立てられて  

いる というおとぎ話を 信じていない。)  

子供にも  その子供なりの人生があるのだとしたら、 例え”「自分」という形質”  

が形の途上でも それなりに感じることがあるだろう。  僕は中学生の時に、

ドスト・・の長編小説「罪と罰」をわからないまま なにかに惹かれて読み切った。  

それは心理描写からそういうものを好む自分の特徴のひとつを、その語り口に  

見つけたからであった。わからくても、ちゃんと 反応していたのだ。  
  

(休憩)  5.5  昼過ぎのPM  

夕刻のPMになって、 坐り 書こうとしたが、その他の話題ばかりが押し寄せ、 

自己の説明に 集中できない。 この暑さで 不調なのだろう。さっきまで 

パンツ一丁で歩き回っていた。 少し運動しても汗をかく、5月の夏だ。 夏山の  

雪庇が恋しい。 

(休憩)  夕刻のPM  


翌日になってしまった。 まれに1年に数回、こういう時がある。もう、「あった」

だが・・。  ムカつくように体調の悪さを感じる時があるが、それは体のことで  

通常、こころのことではない。それが肉体的におかしくなるのに、体は悪くない。  

気持ちでそれを感じるが、精神のバランスとかの問題でもなく理由がわからず、

ともかくふて寝でもするしかない。  

それが昨夕だった。 夜9時に寝ようとして、布団に入ったが、結局寝られず、  

11時には起きだしていた。そして、千葉の地震。  場所を地図で見たら、うちの

姉(うちのは三女なので次女)の家と僕の友人の家(市原市)が近く、 揺れた

だろう。僕は3Fで、揺れが大きいので、これくらい揺れただろう。  


(中略)


僕は求める目的のためには死の危険があっても、その困難・危険を選ぶほど、  

利口ではなく、確かにバカだが、日本脳炎に罹ったことはない。と言っても、  

コロナのように感染しても発症しない保菌者だったのかもしれない。  が、  

近親者にも脳炎は出ていないので、それはないだろう。  

(買い出しの時間だ。 休憩)  5.6 夕刻  


思い出すことはあるが、大きな影響については、うまく思い出せない。  

次に進もう。本来、自己の知られる範囲について、客観的な範囲というものを  

書こうとして始めたのが、この文章だった。

(夕食 休憩)   

まだ雷が続いている。 地震が来たので、「地震、雷、火事、おやじ」の 「地震  

火事 カミナリ」という自然現象は、昔から好きだった、いや大好きだったことを  

思い出した。台風の吹きすさぶ商店街で、小さな僕ははしゃぎまわっていた。  

近所のおばさんが母に、外に出して大丈夫なんですか、と御注進に来たが、  

母は「言ったってきかないんですよ」と、 絶対に言うことを聞かない子供だったと 

いつだったか、聞かされた。 コロッケを買うお使いを頼まれて、なにが気に食わ

なかったのか忘れたが、通りで「行かない!」とわめいていた。そして、持たされた  

当時の10円札をその場で破り捨てたのを、覚えている。 あの頃の僕は 思いっ 

きり僕で、気持ちいいくらいにわがままな僕だった。最高の自分だった。

自然現象を考えていたら、夕食前だが、 雷が本当にやって来た。 GOT !



中断 !
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